電脳塵芥

四方山雑記

関東大震災周辺時期の新聞記事 読売新聞1923.9.15「朝鮮人の噂は何処から出たか」

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読売新聞1923.9.15「朝鮮人の噂は何処から出たか」の記事から。

※一部旧字体を直し、読みやすくするために一部に句読点を挿入しています。
※判別が難しい文字には後ろに(?)を、判別が無理な文字には「□」で表記しています。もし間違っていたらご指摘お願いします。

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朝鮮人の噂は何処から出たか
今も消えぬので弱る 大元は横浜らしい
警視庁主任刑事部長(?)は□□□□捜査の□に当った小泉□□□□も「朝鮮人にして日本人を殺した者は一人も無い」と□言しているが、それにしても鮮人に関する極端に奇怪なる流言は何処からきたのか。ずいぶん苦心して調べているらしいが未だにはっきりとした出所がわからない。木下部長は「何んでも流言の元は横浜なのであるがそれ以上にはっきりしない。従ってどんな種類の人間が流言の口を切ったのかもわからないが、流言に□いて横浜東京□□中六□□□□□無暗(?)に□鐘(?)を打ったりしたのが流言(?)を産むの結果となったものである。未だにこの流言は無くならず色々な風説に形を変えては出て来るので□は困っているのだ。本□ではいま先ず第一の力を暴利取締りに注いでいるが、火事場の泥棒及び戸締のうすいのを幸いに忍び込む奴、あるいは婦女誘拐(これは取締厳重なのでまだないようだが)乃至は脅喝(この騒ぎを幸いに実業家乃至富豪などを脅喝して金品を強請するもの)などの警戒と共に流言は殊に厳重に□□□□□□□□していろ」と云ふ。

 記事がかすれている為にちょっと読めない箇所が多いのはご勘弁を。9月15日時点で警察の中には「日本人を殺した朝鮮人は一人もいない」という人間がいる状況です。この時点でもはや朝鮮人が蜂起してという記事や流言は真っ向から否定されていることがうかがえます。この時点では報道規制がされているわけでありますが、その流言が何を起こしたのかが示唆されています。



コミック昭和史 (第1巻) 関東大震災~満州事変

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関東大震災周辺時期の新聞記事 読売新聞1923.10.16「麻布の自警団六名検挙さる 」

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読売新聞1923.10.16「麻布の自警団六名検挙さる 」の記事から。

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麻布の自警団六名検挙さる
日本刀や竹槍で通行人を半殺しにした為め
九月二日午後三時半、渋谷一二一八土木請負業□阪□太郎(二七)が麻布広尾町通行中、付近警戒中の自警団に□(フリガナは「すん」)呵され答えなかっとて自警団数名に抜刀で切り付けられ、尚竹槍で背部を刺され半殺しにされたが、其後麻布□□坂署で秘密裏に捜査中であったが、麻生広尾六二米商中村数雄を団長とせる麻生広尾坂下自警団□と目星を付け、取調の末十五日麻布広尾町鎌芳行(一九)外五名を検挙し、証拠品日本刀三、竹槍二本を押収した。尚他に加害者ある見込で引続き取調中だが事件は意外に拡大する模様である。



九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

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関東大震災周辺時期の新聞記事 読売新聞1923.10.7「鮮人と見誤って母を殺した自警団員」

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読売新聞1923.10.7「鮮人と見誤って母を殺した自警団員」の記事から。

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鮮人と見誤って母を殺した自警団員
千住署管内の暴行自警団員の検挙百名にのぼろう
六日、東京地方裁判所検事局の鈴木検事主任として千住署へ出張、同署管内の自警団暴挙事件に関する取り調べであるが、警視庁でも小泉捜査課長中村強力犯係長等同署へ出張し、湖北□青木某が自警団員として警備中、九月二日の深夜団員数名と共に同人の母青木とめ(59)を罪人と見誤り殺害した外、千住町花畑村や西新井等に於ける傷害殺人の犯人数十名を検挙した。なお活動の手をゆるめず検挙終了までには尚数日を要するらしく、其数が百人近くに達するだろうといわれている。

   深夜という状況で自警団が実の母親を殺したという記事です。自ら殺害したのかともにいた自警団員が率先したのかは不明ですが、当時の深夜という時間帯に如何に不確かなもとに殺人が行われていたのかがうかがえます。また「検挙百名にのぼろう」というのは当然ながら朝鮮人ではなく自警団員です。この検挙された自警団員の罪が軽かったなどの問題はありますが、とはいえ少なくとも相当数の自警団員が暴力を働いています。



写真集 関東大震災

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関東大震災周辺時期の新聞記事 読売新聞1923.10.4「四谷の自警団に銃で射殺さる」

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読売新聞1923.10.4「四谷の自警団に銃で射殺さる」の記事から。

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四谷の自警団に銃で射殺さる
―長髪の為め鮮人だとて―
犯人昨朝検挙さる
二日午後五時半、四谷伝馬町ニノ一四伊藤運送店員明大生伊藤長吉(20)が制服制帽で同町二丁目先を通ると、長髪の為に自警団に朝鮮人と間違われ露地内に追い詰められて何者かに二連銃で腰と胸をうたれ即死した。四谷署で犯人厳探の末、伝馬町ニノ九西洋料理店南洋軒事伊藤源□(□□)の所為と判り引致されたが、東京地方裁判所からは市来検事が長□書記を従えて出張、目下取調中である。

 今のところ見た記事の関東大震災記事の中では一番ひどい理由による殺害記事です。なぜ「長髪=朝鮮人」なのかは不明ですが、当時にそういった固定観念があったのかもしれません。特定の単語を言ってみろ的な尋問で殺された人間がいるのは有名な話ではありますが、こういったもっと些末な理由で殺された人間はそれなりの数いたのかもしれません。



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関東大震災関連記事リンク

記事が多くなったのでリンク用ページ

毎日新聞東京日日新聞
東京日日新聞1923.9.8朝刊「鮮人の爆弾 実は林檎 呆れた流言飛語」

朝日新聞
朝日新聞1923.9.1「地震と駿河湾の大海嘯」
朝日新聞1923.9.4特報「武器を持つ勿れ」
朝日新聞 1923.9.19「税関の倉庫破り 艀船夫六十名共謀して」
朝日新聞 1923.9.21朝刊 「警視庁の矛盾した報告」
朝日新聞 1923.9.12朝刊 「小言」

読売新聞
読売新聞1923.9.15「朝鮮人の噂は何処から出たか」
読売新聞1923.10.4「四谷の自警団に銃で射殺さる」
読売新聞1923.10.7「鮮人と見誤って母を殺した自警団員」
読売新聞1923.10.16「麻布の自警団六名検挙さる 」
読売新聞1924.9.7「地震当時伝わった怖しい流言飛語の正体」

関東大震災周辺時期の新聞記事 朝日新聞1923.9.4特報「武器を持つ勿れ」

関東大震災関連記事リンク - 電脳塵芥



朝日新聞1923.9.4朝刊「武器を持つ勿れ」の記事から。

※一部旧字体を直し、読みやすくするために一部に読点を挿入しています。 ※判別が難しい文字には後ろに(?)を、判別が無理な文字には「□」で表記しています。もし間違っていたらご指摘お願いします。

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武器を持つ勿れ
 朝鮮人は全部が悪いのではない。鮮人を不要(?)にイヂメてはならぬ。市民で武器を携えてならぬと戒厳令司令官から命令を出した。

 朝日新聞および読売新聞は本社が被災した影響で震災直後から数日は活字による新聞の発行はしていません。そういった中で出された新聞です。

戒厳令 (岩波新書 黄版 37)

戒厳令 (岩波新書 黄版 37)

帰還事業において北朝鮮を「地上の楽園」と表現した新聞について

関連書籍を読んだので、その2も作っときました。

北朝鮮への帰国事業について その2 - 電脳塵芥


 そんな新聞ないです。少なくとも三大紙では。


 ってなツイートがあったので「地上の楽園」という記述についての話。このツイートでは言及されてませんが、他の方のツイートでは結構な割合で「地上の楽園は朝日新聞が広めた」的なものが見受けられます。で、たまに毎日新聞。読売新聞と産経新聞に関してはほぼほぼこの言説にはついてこない感じです。
 で、実際はどうだったか。

 結論は冒頭に書きましたが、帰還事業が始まった1959年から90年代辺りまでは朝日、毎日、読売のいずれの新聞においても「地上の楽園」という単語は使用していません*1。90年代にはこの帰還事業の実態を告発した本が発売された際に「地上の楽園」という単語が使用されていましたが、つまりは知られざる帰還事業(北朝鮮の生活)の実態を語る際に「地上の楽園」という言葉が使用されるに至るわけであり、北朝鮮の喧伝通りに「地上の楽園」を使用している当時の新聞はありません。
 なお産経新聞はデータベースは1992年からであり検索不可能&縮刷版もないですし検証作業が非常に手間過ぎるために除外します国会図書館マイクロフィルム版を……、という手もありますが流石にそこまでは無理ですのでここでは割愛します。

 以上の検証は単純に「地上の楽園」という単語に着目しただけの浅い検証ですが、実際の新聞はどうだったかというと、大々的に所謂「地上の楽園」ぶりが喧伝されていたかも疑問符が付くところです。あくまでも大々的にレベルであって、北朝鮮の内実を良きものとして書いた記事ならいくつか存在します

◆当時の北朝鮮と韓国に対する印象

 そういった記事の前にまず前提としての情報をば。
 いずれの三大紙も1959年初頭(帰還事業開始は年末)から北朝鮮への帰還事業についての動きを報じてますが、これに対して韓国側は強い反対を幾度としています。この時期には日韓基本条約などが結ばれていない交渉状態であり、韓国は日本による帰還事業の承認に対して断行などの牽制をするなど数回にわたり反対に意思を表明しています。また1959年12月の新潟日赤センター爆破未遂事件 の存在や民団による帰還事業の実力行使的な妨害、日本の漁業従事者の抑留などもあってその当時の韓国への印象は北朝鮮よりも悪かった可能性が高い事にも留意が必要です。当時の経済状況的にも「北朝鮮>韓国」であり、さらに北朝鮮の内実が分からない状態であった為に現在よりも北朝鮮への好意的感情が存在したのは事実だと考えられます。

◆当時の在日朝鮮人を追った記事

 当時の新聞では当事者である在日朝鮮人の人々を追った記事がいくらか見受けられます。その中でも朝日新聞に会ったシリーズ「祖国を選ぶ人たち」の記事を2つほど紹介しておきます。

帰る組 残る組
金今石さんは土工。日当五百円。これで一家六人を支えている。貧困、差別待遇のみじめな生活。一生これで終るかもしれない、と思ったらますます帰りたくなった。心になんの抵抗もためらいもないとキッパリいった。この地区は大半が「南」出身で「北」は未知の土地だが、だれもが不安や恐怖はないと口をそろえたようにいう。「北」からは資料、文献、便りがじかに届いているからだそうだ。(中略)民族教育で筋金を入れられているから割りきっているらしい。「ヨメにきたらかには夫といっしょにどこへでもいく」と金相元さんの妻貞子さん(26)。に恩人の細君は5人いるが、故国を去る悲壮感はない。
(中略。帰らず組の中には「北」という未知の土地に行って今更どうする的な記述)
だが、どっちつかずの人も多い。大阪市東成区大成通りの金時子さん(54)の心境はこうだ。「昔は日本も朝鮮も同じ国。長いことすんだ大阪はやっぱり自分のコヤン(故郷)。でも二つの朝鮮が一つになったら帰るな言うても帰るが……。19になる長男は北へ帰ろうという。お前がアンバイいくよう思うなら帰りな、いうてます。親と子はいつまでもいっしょに暮らせるものでなし……このまま死んでも日本の政府は放っておかない。焼場まで送ってくれるやろ」去就に迷っているような金さん。針を運ぶ手が小刻みに震えている。金さんは泣いていた。
朝日新聞 1959.9.24 祖国を選ぶ人たち 帰る組 残る組


帰る国の夢
(中略)「楽しい生活が目の前にあるんです。すばらしいんだ」
故郷での新生活がいかにもっ待ち遠しい、といった表情。着々と進んでいるという北朝鮮の受け入れ準備の模様を、朴さんのメモ帳から拾ったら―
就職 経営者にとって最大の関心事だ。どの工場も人手が足らず、完全就労は間違いなし。手に職のないものは短期技能伝習学校や職工学校に入れて技術をミッチリ教え込まれる。給料は女で月四十円。(紡績工場の場合。日本円に直すと約一万円)男で六十円(セメント工場。一万八千円)の見当。米一キロが五銭、牛肉一キロが三十戦の物価だから、とても暮らし易い。
住宅 八畳、十畳一間にフロ、炊事場、物置、水洗便所つきの標準家屋が受入れ工場ごとに建てられる。(中略)もちろん暖房つき、家賃は電灯、水道料込みでわずか二円ナリ。それに授業料いらずの七年制義務教育など、いたせりつくせりだ
 一方、帰還に反対する在日韓国居留民団側はこれを真正面から「ウソだ」という。民団直系の在日大韓青年団中央総本部員、崔成源(さい・せい・げん)さんは「夢でも見てるんでしょう」とつっぱなす。
 崔さんは二十一日から東京芝公園での「北送反対ハンスト」に参加した一人。げっそりこけたホオ。
(中略)
朝日新聞 1959.9.28 祖国を選ぶ人たち 帰る国の夢

 いずれも当時の在日朝鮮人の方々のポピュラーな受け止めと、北朝鮮の宣伝がどのようなものだったのかが窺い知れる記事かと思います。北朝鮮側としては2つ目の記事の様にかなりの好待遇を宣伝しており、また一つ目の記事からはそれら宣伝を個別に送付していたことが分かります。これらは民団側の青年が言うように「ウソ」であったわけですが、それは結果をしている未来の私たちの視点でしかなく、当時差別待遇にあった人々から見れば救いに映ったことは想像に難くありません。
 ただ新聞記事としてみた場合、帰らない側や民団側の声も載せており必ずしも北朝鮮が「地上の楽園」であるかの様な喧伝、とまでは言えないレベルかなと。また当時の新聞の論調としては「地上の楽園」だからという観点よりも、在日朝鮮人が故国に帰るという「人道的観点」からの賛意がいくらか見受けられます。これは歴史的負い目を考慮すれば当然の反応とは言えるでしょう。未来視点では人道的観点からも結果的に過ちではありますが。

新聞における帰還後の描写

 帰還事業初期の北朝鮮描写は例えばwikipediaではこんな感じになってます。

北朝鮮へ帰った日本人妻たち「夢のような正月」ほんとうに来てよかった
読売新聞 1960.1.9


北朝鮮帰還三ヵ月の表情
帰還希望者がふえたのはなんといっても「完全就職、生活保障」と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活にアイソをつかしながらも、二度と戻れぬ日本を去って“未知の故国”へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎ぶりや、完備した受け入れ態勢、目覚ましい復興ぶり、などが報道され、さらに「明るい毎日の生活」を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏みきったようだ。(中略)苦情といえば日用品が日本に比べて少ないということぐらい。これらの不満もはっきりと書かれていたという。これらの手紙は総連を通じ、各地で回覧されているが、総連の各種のPRをはるかに越える強さで在日朝鮮人の気持ちを北へ向けるキキメがあったようだ。
朝日新聞 1960.2.26

さて、ネットで確認できる記事以外ではというと。
 まずは朝日新聞

帰還者にわく平壌
人ガキで動けぬバス "精一ぱい働く、と希望の顔"
(中略)特別にぜいたくな風の人もない。コジキみたいな人もない。身なりを清潔にする運動がこんない進んでいるのは、経済建設が進んでゆとりができたからだろう。(中略)ある青年はこういった。「私たちは建設を進めて、衣食住は心配がなくなった。しかし日本に生きる同胞は故郷を捨てて散らばったままでいる。彼らを迎えて安定した生活の中でいっしょに建設を進めるのは私たちの願いだ。今日の歓迎は大変なものになるでしょう」。言葉通り盛大な歓迎だった。(中略)長崎市から帰還した魚竜作さんは奥さんと六人の子どもに囲まれて「さてみれば夢かと思った。わたしは船乗りをしていたが、帰還運動をやったのでなんどもクビになり、食べものもロクになかった。二カ月、米のメシがなく、よそのゴミ箱をさがして生きていたこともある。リンゴなんて子供に食べさせたくてもやれなかった。それが帰ってみれば、食のたびにリンゴが四つくらいつき、肉も食べられ、こんなに大歓迎してくれる。わたしはこれから漁夫をして働く。帰れるようにしてくださった日本人にお礼をいいたいのです」と。
朝日新聞 1959.12.21


次に読売新聞。

平壌、見違える復興
生活もゆたかに 帰還者に首相自ら心をくばる
数年ぶりの島元貴社はもちろん、三年前に訪れた秋元貴社も新しく生れ変った平壌の町に平安門、大同江をのぞいては全く見当がつかなかった。(中略)古い朝鮮という感じはなく、西欧のどこかの都心にきた感覚に陥った。
バラックは取り壊し
(中略)朝鮮の荒々しいいぶきを感じられた。それはアジアで最も若い元首を戦闘とする朝鮮の生々しさかもしれないが、対日感情も非常に好転している。もはや朝鮮を除外してはアジアを語ることはできないといった感じさえ受けた。
(中略)住宅事情はよくなっており、町行く人の服装や表情も北京よりも豊かそうだった。
日本で伝説の人といわれていた金首相は実にざっくばらんな人だった。帰還者にたばこやお茶をみずからすすめながら一時間にわたって(中略)話しかける。学生の質問に「いつでも会えるんだからこいよ」と言ったときなど、帰還者の中にどよめきが起こったほど。なるほどこれならば朝鮮人が心から支持するはずだと思った。
記者に感謝の握手
(中略)金首相も「帰還が実現したのは日本国民や言論界の広範な支持があったからだ。深く感謝する。とくに日本の警官までが帰還朝鮮人を保護してくれたことは意義(?)深い」(中略。記者と握手したなど書かれる) 帰還学生、奨学金二倍
(中略)帰還学生には普通の学生の二倍の少額資金が与えられる。第一陣の帰還者たちが宿舎に訪ねると「日本に残って、帰還をちゅうちょしているだれだれさんに、安心してくれるよう伝えてくれ」と先を争って伝言を頼みにきた。
米はタダ、副食月18円
平壌の町にはイルミネーションも最近つき、デパートや商店にならぶ食料品、衣装、漆器、化粧品などの消費物資も三年前より品数が大分ふえている。たばこは十種類、酒は数種類といったぐあい。食堂の事務員をしている朴在一さんをつかまえてきいてみた。親子四人家族で月給五十円。家賃は光熱費、水道暖房費を含めて二円四十銭(夏は一円二十銭)米は一キロ八千の手数料だけで米代はタダ。副食費は一か月約十八円、衣類は作業服とクツを支給っされるので一か月に十円前後の貯金ができるそうだ。
読売新聞 1959.12.25

お次も読売新聞から。

北朝鮮みたまま
村に続々文化住宅 落第や恋を忘れた学生
北朝鮮―つまり朝鮮民主主義人民共和国。(中略)金日成首相とも会見したが、その金首相は三年ぶりに会った秋元記者をつかまえて「よう君か、元気だったかね」と肩をたたく人だった。以下はかけ足でながめた”見たままの北朝鮮”の印象記だが、わたしたちがみたかぎりでは北朝鮮という国は、そんな金首相のようにきさくな国のようである―。
〇…まず首相との記者団会見。それは”会見”というしかめつめらしい表現がピッタリこない会見だった。現れた金首相は河野一郎氏にそっくりだった。体つき、歩き方がびっくりするほどよく似ている。しゃべり出すとこんどは浅沼稲次郎児のしゃがれた太い声。「一人でしゃべっていては疲れる。なんとか話せよ」「毎日会議の連続だから、今夜はやめて一緒にオペラをみようや」こんな言葉が無造作にとび出てくる。帰国者を集め話したときも成功した実業家が郷里の学生を集めてお国話をしているような調子。(中略)
〇…「その国の将来は青年を見ればわかる」というわけで、首都平壌では大学を訪れてみた。(中略)学生の九割までが国費負担(一割は裕福な家庭出身で自弁)だそうだが、そのせいかみな猛烈な勉強からしい。(中略)
〇…北朝鮮の農村。(中略)車窓から見たかぎりでは農村の改善はきわだっている。(中略)この町にむかしながらのワラぶき屋根は一軒も見当たらない。ストレートぶきレンガ造りの”文化住宅”(農民はこう呼んでいる)は協同組合単位に整然と並んでいる。(中略)
〇…二十日夜、朝鮮の舞姫崔承喜が、帰国者歓迎のオペラに登場した。オペラの会場は平壌の国立体育館。東京の神宮外苑にある東京体育館とほぼ同じ大きさだが、その半分は舞台。(以下略)
読売新聞 1959.12.26 夕刊

 という様に読売にしても朝日新聞にしても北朝鮮の現地取材においては北朝鮮の状況はかなりのべた褒め状態といえます。ちなみに毎日新聞はサラッと見ただけなので見落としがあるかもですが、類似の現地取材のべた褒め記事は見受けられませんでした。ただその毎日新聞も帰還事業そのものには批判的であったわけではありません。これらは当時の故国への帰国という人道的な観点、在日朝鮮人を帰還させたい政府などの思惑、そもそも北朝鮮という国の内実が不明であったという点などなど、多数の当時の限界も存在します。我々は未来の視点からそれが過ちであったとは分かりますが、当時にそれを予見できたかというと残念ながら中々に難しいと思われます。

 当時のこれらの新聞の描写を「地上の楽園」とまで言えるかは微妙ではあると思いますが、ただ北朝鮮に好意的な記事があったのは事実です。しかしそれは朝日新聞のみではなく読売新聞などの左右問わずの論調です。件のツイートではそこまで触れはいませんが、帰還事業であった「地上の楽園」という宣伝と朝日新聞【のみ】を繋げるのは無理がある話であり、それは自身のイデオロギーの発露としか言えないかなと。



■お布施用ページ

note.com



*1:念の為。北朝鮮以外の対象に対して「地上の楽園」という単語が使用されている事例はあります。本では80年代から内部事情の本が出たりするので、もしかしたら80年代でもそういった記事はあるかもしません。

関東大震災周辺時期の新聞記事 東京日日新聞1923.9.8朝刊「鮮人の爆弾 実は林檎 呆れた流言飛語」

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東京日日新聞1923.9.8朝刊「鮮人の爆弾 実は林檎 呆れた流言飛語」の記事から。

※一部旧字体を直し、読みやすくするために一部に読点を挿入しています。
※判別が難しい文字には後ろに(?)を、判別が無理な文字には「□」で表記しています。もし間違っていたらご指摘お願いします。

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鮮人の爆弾 実は林檎
 呆れた流言飛語 湯浅警視総監語る
湯浅警視総監は卓上に二個のにぎり飯と福神漬けを置き、水道の水をすすって鮮人暴行の浮説を懐嘆(?)して左の如く語る、『この未曾有の惨状に対し罹災民の狼狽するとは然ることながら鮮人暴行の風声鶴唳に殆ど常軌を逸した行動に出づる者のあったとは遺憾千万である。即ちその一例をいえば鮮人が爆裂弾をたづさへているというので捕(?)えて見ればリンゴであったともあり、また「木喜徳郎氏の付近の出来事であるが、一民家に火を放って酢をこぼしため主婦が之を綿にしめし、かなだらいの中に入れて置いた所、青年団の人は放火用の石油だと誤認(?)し主婦が如何に弁解するも承知せず、遂に主婦は鮮人に味方するんだろうとばかりになぐり飛ばされた事実もある。その他かぞえ来たれば噴飯すべきものおおく、誠に大国民の練度(?)から見て諸外国に対しはづかしい次第である。しかもかかる浮説にまどはされて朝鮮人に暴行を加えたとはわが治鮮上憂うべきとたるは申すまでもない。しかして一面警察当局からいうも罹災民等がこういうとで騒ぎ立てるため、これが鎮撫につとめねばならぬが、これは忽ち匪恵事策(?)に対して携(?)ふべき□(字がつぶれて判別不能)力の減殺となる次第であるから、この際市民及び隣接府民は十分に注意してもらいたいと思う』云々

 警視総監の証言であり、その立場とこの時期が流言を抑え込む段階であることから信頼性は高いものと判断していいでしょう。「一民家に火を放って酢をこぼした」という状況は良くわかりませんが、とはいえ「爆弾=リンゴ」やこの「酢=石油」と判断された出来事から当時は「疑わしきは暴力」であり、このでたらめな暴力の下で多数の人が被害にあった事は自明のことかなと。



関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言

関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言