電脳塵芥

四方山雑記

阪神淡路大震災時の自衛隊派遣などに関するメモ

 1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災に対して、自衛隊の出動が遅れたのは当時の総理であり村山富市社会党)が可能な限り遅らせたからだという話があり、それに関するメモ的な時系列。そもそもこの「自衛隊が遅れた」は発生当初から存在した論調なものの自衛隊の正式な災害派遣には県側の要請が必要だったりしたわけで、それを村山富市が総理として県側の要請を待たずに自衛隊を派遣するというのは法に則していない超法規的措置になるし(非常時だったので超法規的措置をするべきだったという批判ならあり得る)、「遅らせた」が事実ならば県側の要請を可能な限り遅らせたということになる(どうやって?)。実際のところ村山富市が遅らせたという事実そのものはないのだけれど、ただ国民側が「自衛隊の到着が遅れた」という認識があったことだけは確かです。なので、当時の時系列を簡易的に記述していきます。

阪神淡路大震災における自衛隊派遣までの時系列
05 : 46 地震発生
05 : 49 NHK大阪管中で神戸震度6が伝えられる*1
05 : 51 NHK全中で地震情報を伝える
06 : 00 村山富市が公邸のテレビで地震を知る
06 : 06 気象庁が各所に「最大震度は京都、彦根の震度 5」と通報*2
    この情報に伴いNHKは「神戸震度6」情報を一度取り消し
06 : 15 気象庁から情報が入りNHKが「神戸震度6」と報じる
    日テレは6時21分、TBSは6時20分、フジは6時23分、テレビ朝日は6時27分
06 : 30 村山富市政務担当秘書官に情報収集を指示
    陸自中部方面総監部(在伊丹市)が災害派遣出動準備(第 3種非常勤務態勢)を発令
06 : 42 伊丹市陸自第36普通科連隊が要請を待たず独自判断で偵察隊派遣
06 : 44 NHKにおいて「火災が7か所で発生している」と具体的な神戸の被害情報がはじめて報道
    各局の被害情報初報は日テレ6時46分、TBSは6時26分、フジは6時44分、テレビ朝日は6時48分
    ※甚大な被害であると報道され始めたのは7時台以降と思われる
06 : 50 芦尾兵庫県副知事が登庁
07 : 00 村山富市が公邸で秘書官から地震についての報告を聞く
    芦尾副知事によって兵庫県災害対策基本法第23条に基づく「県災害対策本部」を設置
    芦尾副知事が貝原知事(被災でこの時点では登庁できず)に被害状況が把握できてない旨を連絡
07 : 06 神戸における日の出時刻
07 : 14 八尾基地から隊長の独自判断で陸自・偵察ヘリが離陸
    ※出動要請がなかったため訓練名目
07 : 35 陸自第36普通科連隊が連隊長の独自判断で42人の隊員を「近傍災害派遣」として阪急伊丹駅へ出動
08 : 10 陸自第三特科連隊から災害対策本部事務局(消防交通安全課)へかけた電話が初めてつながる
    電話を受けた課長補佐は災害対策本部の設置、被害状況不明などを伝える*3
    ※この後、自衛隊から県側への電話がつながらなくなる
08 : 14 NHKがヘリコプターにより被災地をはじめて映す
    各局の空撮は日テレ8時57分、TBSは8時5分、フジは8時48分、テレビ朝日は8時20分
08 : 20 貝原俊民兵庫県知事が登庁*4
    陸自第36普通科連隊が独自判断で西宮市に206人派遣
08 : 26 村山富市首相官邸
08 : 30 兵庫県が第 1回災害対策本部会議を開催し、自衛隊への災害派遣要請を不可欠と判断する
09 : 20 月例経済報告関係閣僚会議、地震のことは議題とならず
09 : 40 笹山神戸市長が貝原県知事に自衛隊派遣を検討するよう電話で要請
10 : 04 定例閣議開催、災害対策基本法にもとづきに兵庫県南部地震非常災害対策本部の設置決定
    全閣僚から成る地震対策関係閣僚会議の設置を決定
10 : 15 閣議中に警察庁から「死者74人」の報告が届く*5
    村山富市が具体的な死者数を聞いたのはこの時点だと思われる
    第三特科連隊から兵庫県側へ電話がつながる(これが2回目)
    自衛隊がから電話を受けた防災係長と下記の様なやり取りが行われる

防災係長「状況は正確にはつかめないが、大災害がおこっている」
自衛隊「この連絡をもって、派遣要請があったことと認識してよいか」
防災係長「要請する」旨を回答

    防災係長が災害対策本部室において知事に報告し、陸上自衛隊災害派遣が事後了承される
    自衛隊側の担当者が災害派遣要請の時刻報告を「十時にする」となり、公式には「10時に災害派遣要請」

 以上が陸上自衛隊災害派遣までの大まかな流れです*6。まず特徴としては災害の規模に対して政府やメディア側の察知がかなり遅れていることが特徴といえます。阪神淡路大震災はのちに観測史上初の最大震度7となりますが、当時の報道では震度6という発表であり、その災害規模が今我々に認識されている「阪神淡路大震災」の災害規模と直結している人間は現地にいた人間以外にはほぼいなかったと考えられます。「震度7」による地震災害を知らない世界だったと言えるかもしれません。また日の出時刻が7時6分となり、明るくなるのが遅かったことも災害規模を知るまでのタイムラグになったでしょう。そして現地では行政側の人間もまた被災者故に県庁などに行く時間が遅れ、逆に中央の政府側では状況把握が全くなされておらず、8時過ぎからのメディアの空撮などから災害規模がある程度はわかりそうなものの10時の閣議時に死者が伝えられていないからか動きが鈍く見えます。ただ当時、災害対策本部は閣議決定を経なければならないというフローになっている点には留意が必要です*7。それと政府側の意識の鈍さは当時あった政局的な要因もあるでしょう。ただし時系列を見ればわかりますし、最初に言いましたが自衛隊への災害派遣は県側が要請するものであり、それを村山富市が止めたなどという事実なんてのものはありません兵庫県側の対応を見ると地震による通信状況の著しい悪化で兵庫県自衛隊間の連絡がほぼ取れなかったことが原因と考えられます。兵庫県による『阪神・淡路大震災 : 兵庫県の1年の記録』によれば8時30分の災害対策本部会議で自衛隊への災害派遣要請自体は決定事項です。ここから実際の災害派遣要請には10時15分ごろとタイムラグがあるのですが、その理由としては兵庫県資料を読む限りは通信回線の輻綾、通信設備の故障等が一番の要因と考えられ、単純につながらなかった。
 さて、災害派遣までの経緯は以上となりますが、ただ実際には「自衛隊が到着」しなければならないわけで、それまでの時系列も記述します。

自衛隊の到着までの時系列
13 : 10 陸自第3特科連隊が神戸市で救助開始(215人)
15 : 00 警察庁が死者500人突破と発表
15 : 45 政府による非常災害対策本部が発足
    陸自隊第36普通科連隊が西宮市、芦屋市で救助開始(266人)
16 : 20 村山富市首相による阪神・淡路大震災対策についての緊急記者会見
   「関東大震災以来の最大の都市型災害」との認識を示す
16 : 35 陸自第3特科連隊淡路島で救助開始(85人)
18 : 00 中部方面総監部は直轄部隊、通信,ヘリ要員を含めて3300人を動員
    当日被災地に実際に到着したのは2000人
19 : 50 兵庫県海上自衛隊呉地方総監)へ災害派遣要請
20 : 00 陸自第7普通科連隊が神戸に到着
17日中に、
陸上自衛隊3300人が人命救助等、ヘリコプター57機が緊急輸送等のため出動
海上自衛隊では護衛艦輸送艦等15隻925人が出動
 
18日
21 : 00 兵庫県航空自衛隊(中部航空方面隊司令官)への災害派遣の要請

当日に到着した2000人と比較すると、明確な時間と場所が示されている人数と結構な乖離があるためにどれだけの自衛隊員が「いつ・どこに」に到着したのかは不明ですが、それでも一番早くてもそれまでの偵察や訓練ではない「正式な」災害派遣人員の到着は神戸市に13時ということになりますが。発災から6時間以上の経過であり、遅いという判断も成り立ちますし、また淡路島には16時と10時間以上経過しているわけでやはり到着が遅いと判断されても仕方ない時間と言えるかもしれません。それと海自と空自に対しての災害派遣要請は遅いと言えるでしょう。またそれとは別に16時からの村山富市の緊急記者会見が行われて「関東大震災以来」という災害の大きさを語る言葉は出ていますが、発災から10時間以上経過していること、また空撮による災害規模、死者が3桁を超すことは昼過ぎには政府側も理解しているはずであり、危機管理への疑念のまなざし、政治的にも市民感覚的にも「遅い」という批判は免れ得ないと考えられます。ただこの「政治」的な遅さが「自衛隊の到着の遅さ」とは直結しているわけではなく、自衛隊の到着は単純な隊員収集や準備までの時間、そして震災後の交通インフラなどの影響が大きいと判断するべきでしょう。

自衛隊、応援部隊到着は半日後
陸上幕僚監部によると、被災地に近隣県の駐屯地から部隊が出動したのは地震発生当日の午後二時ごろ。兵庫県貝原俊民知事の派遣要請から四時間たっていた。防衛庁の幹部は「隊員の多くは駐屯地の外に住んでおり、集合に時間がかかる。派遣隊員の三百分の食糧調達や被災地への派遣は相当の規模だった」と述べる。
 応援部隊のほとんどが陸路から現地をめざしたため交通渋滞に巻き込まれ、部隊が神戸市や淡路島に入ったのは発生から半日後の午後六時ごろだった。地震被災地の人命救助で発生四十八時間をすぎると致命率は下落するといわれている。部隊内にも「もっと準備時間を短縮できなかったか」との声がある。
朝日新聞 1995.1.20 朝刊

 

神戸での救助活動は午後一時過ぎからだった。社会党の首相は自衛隊嫌いで出動要請をためらったのでは、といった批判が噴出した。事務の官房副長官だった石原信雄(現地方自治研究機構会長)が反論する。
「出動をためらったなんて絶対にありません。自衛隊が見えないと首相官邸に随分、電話がかかってきたから、私も気になって防衛庁の村田直昭防衛局長に電話で言ったら、『やっています。道路が大渋滞で、主力部隊が入っていないだけで』と言っていた。それが実態です」
プレジデントオンライン『阪神大震災。なぜ自衛隊出動が遅れたか

 当時、政府の初動の遅さ、自衛隊の出動までの遅さは問題視自体はされており、自衛隊については県からの災害派遣要請までのタイムラグと渋滞などの影響が一番大きいと言えます。とはいえ当時の首相は村山富市なわけですし、誰もが自衛隊派遣は県側の要請が前提であることをわかっていない故に村山への批判があったことが窺えます。実際に記者会見などは後知恵とはいえ鈍さが見えるのは事実でしょう。なお村山と自衛隊を絡める発言は例えば当時の自民党幹事長である森喜朗が「社会党自衛隊に懐疑的だった。そのため自衛隊にも遠慮が生まれ、そのため自治体の首長も出動要請に慎重になっている*8」であるとか、当時新進党小沢一郎が「日本では緊急時の対応が全くできていない。その制度的な不備に加えて、社会党の考え方が今でも自衛隊の災害出動にさえ反対であり、そういう体質をもった政権だから自衛隊の活動に後れを取ってしまう*9」など、今でも通じる論調が政治家から出てきています。実際のところ、ここで言われる「社会党の体質」的なものが自衛隊の活動に影響して遅れたというのは、時系列やその法的手続きを考えると薄い気がするわけですが、この時の言説が残念ながら現在にも生き残っているわけです。現在はこの時の反省を生かして災害対策基本法の改正などもなされているわけですし、さすがにお門違いと言える部類なので止めといた方が良いよ。

【時系列の参考文献】
山川雄巳『阪神・淡路大震災における村山首相の危機管理リーダーシップ』
兵庫県知事公室消防防災課『阪神・淡路大震災 : 兵庫県の1年の記録
中森広道『阪神・淡路大震災における初動情報
神戸新聞(2)事後了承 あやふやな「要請」時刻
日野宗門『地域防災実戦ノウハウ(65)
内閣府 阪神・淡路大震災 総括・検証 調査シート「010 自衛隊への応援要請と配分調整



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*1:NHKがこの時点で震度6情報を入手したのはNHK神戸の記者が神戸海洋気象台に電話取材のため。気象庁からの公式アナウンスではないので一度取り消される。

*2:神戸などの回線故障で震度6情報が伝わらなかった。

*3:兵庫県資料「阪神・淡路大震災 : 兵庫県の1年の記録」ではこの際に「支援を依頼することになる旨を送っているが自衛隊はこの発言を「災害派遣の要請」とは受け取っていない。これは対応したのが課長補佐であるからという可能性もあるが要請が行われた10時のやり取りの際も知事による要請ではないため兵庫県の記述には若干疑念の余地がある。この部分を記した神戸新聞もこの時点で要請した旨は書いていない。また山川雄巳による時系列においては電話は 陸自・中部方面総監部によるもので災害派遣出動要請を促す内容だったものの災害状況不明との返答のみだったとあり、その10分後に第三特科連隊から電話があったとされる。こちらでも出動要請はしなかったという記述は存在する。

*4:資料によって時間が異なるが兵庫県資料に依拠する

*5:当時の朝日新聞にはこの10時の閣議で100名以上の死者がいるともある

*6:上述以外にも自衛隊の動きはあるし、警察や消防の動きが存在。興味がある方は参考資料を。

*7:現在ではこのフローは撤廃され、大きな地震後などには本部がすぐ出来るようなっている。阪神淡路の経験を生かした改善

*8:朝日新聞1995.1.21 朝刊「自衛隊の出動遅れ 国論分裂にも要因」

*9:朝日新聞1995.1.25 夕刊「自衛隊出動遅れで小沢氏 「社会党の体質が原因」」

保険証の不正使用件数の話だったり、外国人が日本の医療保険制度にタダ乗りする為に偽装滞在とかの話


https://twitter.com/fm21wannuumui/status/1678667820413124608

 ってな感じに保険証の「不正」使用の際に600万件というデータが示される事があり*1、で、ソースとしては厚労省データベースによる「保険証認証のためのデータ交換基準に関する研究(総括研究報告書)」ってのがそれです。

保険情報の誤りや不正使用は、全国で年間600万件にも上っており、その処理のための経費は1000億円を越えると推定されている。

この情報に対しては全国保険医団体連合会が「マイナカードで「不正請求が減らせる」「なりすまし防止」は本当か」などでその情報が次のように不正確であることを指摘しています。

多くは事務的な記載誤り
書き込みで引用された研究は、厚生労働科学研究成果データベースの「保険証認証のためのデータ交換基準に関する研究」(2003年度)であり、20年以上前の委託研究論文である。ツイッターの引用元にしても研究報告書の「概要版」の記述である。正確には、本体報告書の本文では、「推定されている」の文章に続いて、「多くは単純な保険証の番号の間違いであるが、中には資格停止後の保険証の利用も少なくない」と追記している。なりすましなどの不正使用に基づく請求と言うよりも、医療機関側での転記ミスなど事務的に誤った請求というべきところである。また、保険証番号の記載間違いなどが「1,000億円を超える」と推定する根拠も示されていない

まず金額に関しては「ソースがない」んですよね、これ。なので1000億円云々は謎であり、これを根拠にするのは弱いです。ただ「600万件」については全国保険医団体連合会の指摘に近い数字が存在はしているとはいえます*2

氏名の誤りや資格喪失後受診など資格過誤を原因として医療機関に差し戻したもの(再審査請求分)は年約536万件と報告している(2014年度)

また2016年に発表されたという数字では約536.1万件が存在*3、また2023年7月26日に行われた参議院地方創生及びデジタル社会の形成等に関する特別委員会」では上述の研究結果をもとにした質問に対して厚労省側が以下の様な返答をしています。

その年間六百万件という調査の話がございましたけれど、大きく二つ、この問題についてはあると思います。
 一つは、よく言われる、保険証が顔写真が付いていないので成り済ましということが行われているのではないかということでございますが、こちらは、具体的な件数という意味においてはなかなか把握が難しくて、摘発されている事例とかそういうのはございますけれども、実際、本当のところ何件あるかというのは分からないんですが。
 もう一つの課題は、古い保険証を使って受診してしまうという方が実際いらっしゃいまして、それが今まで、過去、医療機関の返戻という形で年間六百万件ぐらい医療機関に差し戻されるというようなことが行われてきたということでございます。
 それで、ちょっともう少し具体的に申し上げますと、現在の保険証は券面に顔写真がございませんので、やはりどうしても他人の保険証をその方と共謀したりして使う事例がございまして、今までも摘発されたような事例がございましたが、マイナンバーカードを保険証化すると、それは防げるということが期待できるところでございます。
 もう一つの課題が、先ほど申し上げましたけれども、患者が新しく、転職などをしたので、新しい保険証を本来使っていただきたいところですけれども、手元にないことによって過去の保険証を使ったりして実際受診を受けてしまうと。でも、ところが、そうなりますと、医療機関が請求しても、その方はもう既に保険資格がないので、医療機関に差し戻されるということが従来ございました。
 しかし、今回、このオンライン資格確認システムという仕組みができることによりまして、過去の保険者のデータで請求しても、支払機関の方で振り替えまして、レセプト振替といいまして、本来の新しい保険者のところに請求することが自動的にできるような仕組みを導入してございます。これに伴いまして、この従来発生していた年間数百万件と言われるような返戻、これが大きく劇的に減ってきているというのが現状でございます。

この厚労省認識によれば、まずなりすましなどの不正使用に関しては摘発事例は存在していて統計そのものがない事、そして古い保険証などなんらかのミスによって返戻があり、それが年間約600万件という認識なのがわかります。なりすましに関しては統計がないためにどれくらいあるかは不明なものの、とはいえ年間数万件レベルでもそれが常態化しているならば調査や摘発事例報道がもっと発生している可能性は高く、やはり「保険証の不適切使用」の大抵は本人の対応などを含む事務的なミスによるものと考えた方が妥当でしょう。このミス件数を少しでも減らす為にマイナンバー保険証を導入云々ならまだともかくとして、この「600万件」を直接的に「不正使用」とイコールでつなげて語るのはミスリードと言えます。

外国人が日本の医療を狙って入国してくる云々

 関連して外国人が日本の医療サービス、および保険目当てで日本に入国してくるという話が自民党などの保守派からあがりますが、こちらはいくつかの調査が存在します。まず2017年に「在留外国人の国民健康保険の給付状況等に関する調査」というものが行われており、厚労省は以下のような結論を導き出しています*4

在留外国人不適正事案の実態把握を行ったところ、その蓋然性があると考えられる事例は、ほぼ確認されなかった

これだと調査内容やそれによる結果の数字がないのでわかりづらいですが、移住連のHPにその内容が載っていたのでそれを引用します。 


http://migrants.jp/wp-content/uploads/2018/08/97ad8b24c1ca61ab0302d269c8cb5710.pdf

この調査は2015年11月~2016年10月の1年間に「高額な医療サービス」を使用した外国人が不正に使用していたかどうかという調査であり、対象となった1597名中、不正な在留資格による給付である可能性が残るのが2名、確認が取れなかったのが5名となります。そしてこの調査は後に形を少し変え、厚労省法務省と連携して「在留外国人の国民健康保険適用の不適正事案に関する通知制度」という仕組みを作り調査をしています。この調査は、

身分や活動目的を偽って、あたかも在留資格のいずれかに該当するかのごとく偽装して不正に日本に在留し(以下「偽装滞在」という。)、国民健康保険に加 入して高額な医療サービスを受ける在留外国人(以下「在留外国人不適正事案」という。)に関する通知制度を試行的に創設する

という目的であり、自民党などからの要望によって出来た制度と考えられます*5。この制度は外国人被保険者が資格取得から1年以内にに国民健康保険限度額適用認定証の交付申請が行われた場合に市町村が各種情報を聞き取りし、在留資格の本来活動をしていないと判断した場合に地方入国管理局に偽装滞在の可能性を通知するという制度です。こちらに関しては現在も調査は続けられている様で、それによれば2018年1月から2021年5月までの間に自治体が入管に通知した件数が30件、在留資格の取り消し件数が0件となっています。


出典:保険局国民健康保険課説明資料

これらは個々の事案がわからないですが、とはいえ入管が在留資格を偽装滞在であると判断して取り消した件数が0件であることを鑑みれば、外国人が日本の保険や医療サービスに乗っかるために入国という言説は実態にそぐわない流言といえるのではないかなと。



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*1:ところで引用されている「諸越ゆり」はネタ系なりすましアカウントです。過去に扱ったので興味があれば。https://nou-yunyun.hatenablog.com/entry/2023/07/16/230000

*2:2003年度にこの件数と近かった同課は調べていないので不明

*3:m3.com「オン資運用で「レセプト返戻が4割減」厚労相答弁

*4:在留外国人の国民健康保険適用の不適正事案に関する通知制度の試行的運用について

*5:傍証的には2018年8月15日「外国人の国保利用、調査強化へ 不正事例は未確認でも…

もう韓国はし尿などの海洋投棄をしてないよ


https://twitter.com/TM47383445/status/1694288725025632373

 とうのがバズってて、ただ画像の出典に関しては「ネット上の情報検証まとめ」が指摘していました。写真はグリーンピースによるものでインターネットアーカイブ2003年5月27日に保存されているものでもう20年以上前からある画像。投棄している場所とモノはオーストラリア沖での硫酸鉄カリウム水和物だとしています。とりあえず韓国とは無関係

ただこれだけだと少し情報不足な感もあるのでもう少し突っ込んでいきましょう。まずこの画像が日本で流布し始めたのが2012年ごろ。冒頭にあげたアカウント「T.M」の画像が引用したであろう「正しい歴史認識」というブログがちょうどその時期のもので2012年7月20日の記事がそれです。おそらくこの時期に使用されたものが後に流布され、2023年現在も使用されているのだと思われます。ではこの画像が日本だけで使用されているかというとそうでもなく、そもそもこの画像と韓国のし尿の海洋投棄を繋げるきっかけはおそらく韓国記事からです。たとえば2012年5月の記事や、

さらに遡って2011年8月の記事などなどにも使用されています。

実はこの海洋投棄の画像は何故か韓国、そしてトルコの記事(トルコは2007年ごろから使用。かなり使用されているが、とりあえず例としては2007年5月のこちら)、さらには米政府関連のFedCenterにおいて海洋投棄イメージにも使用されているという、海洋投棄と言えば、みたいな画像扱いをされています。では韓国はなぜニュース記事でこの画像を使用したのか。それはロンドン条約締結国の一員として韓国における陸上廃棄物の海洋排出を廃止するという方向性での話であり、ここにはし尿の海洋投棄も含まれます。韓国では2006年から廃棄物の海洋投棄前面岸を推進し、2011年にそれを立法化して2012年からは下水スラッジの海洋排出全面禁止(2011年記事はそれに対する業者側の反発)、2012年7月の記事において韓国では糞尿の海洋投棄は2013年に禁止されるとあります。それらの施策の効果として蔚山と釜山の海洋投棄の推移を見ると次のようになっており、2012年以降は浚渫以外の海洋投棄はグラフ上に見えなくなっています。人糞(인분。グラフの赤い部分。)も2011年以降には消えていることもわかります。


http://www.eco-health.org/bbs/board.php?bo_table=sub02_02&wr_id=387

韓国政府の公式HPにも2015年に海洋投棄が歴史の中に消えるというページがあることからも2015年ごろを最後に常習的な海洋投棄はなくなったものと考えて良いでしょう。こう見ると日本で話題になり始めた2012年時点で少なくともし尿の海洋投棄はほぼ行われていない時期だったわけであり、日本の嫌韓層はかなりズレた反応をしていたとも言えます。恥知らずはどっちか。
 ちなみに日本のし尿の海洋投棄ですが、改正された廃棄物処理法が2002年2月に施行され、施行日から5年以内に全面禁止という流れで*1、2007年まで日本もし尿の海洋投棄は禁止されていませんでした。


出典:環境省HPより

東京での海洋投棄は1999年3月に終了しているらしく*2、表の上でもここら辺の時期から海洋投棄をする自治体は徐々に減少しつつあるのが理解できますが、ただ環境省データによればし尿を含む一般廃棄物は法律によって禁止がなされる2009年まで続いていることがわかります。日本でも10年ちょっと前までし尿の海洋投棄はしていて法律によって禁止されたからなくなったということがわかりますね。



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8月6日の広島における「ダイ・イン」とよど号メンバーは無関係だ


https://twitter.com/naito_yosuke/status/1688088755037696000


https://twitter.com/naito_yosuke/status/1688322654607200256

 この話における出典は高沢皓司『宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作』における「ウィーン工作」という章*1。ここで田宮孝麿にインタビューした高沢が下記の様に触れています。

ウィーン工作
 ヨーロッパを舞台にした当時の「よど号」の活動の一つにウィーンを中心とした「反核」運動への工作がある。(略)「反核」運動へのかかわりは大衆的な政治宣伝、煽動活動といえるものだった。(略)ずいぶん後年になって、田宮孝麿はこの「反核」宣伝煽動工作を「よど号」グループが担ったいくつかの工作活動の中で、もっとも成果を上げ成功した活動だったと自賛していた。
p.314

まずこの章の始まりは上記の様に始まるが、この際に田宮はこの「工作」については多くは語らずに高沢に対しては「文化人などが関わっているから手を出しにくい」、「この歴史を書いてくれ」、「機関誌が出ている」、「(機関誌に関わり、反核ウィーン事務局を担っていたメンバーの)K君に聞けば良い」などを述べるにとどまり、その工作の実態については語らずに"自分で調べて書くなら誰も文句を言わんだろ。(p.316)"と述べるに留まります。つまり田宮の証言は「工作が上手くいった」以上の内容はほぼないと言えはします。そしてこの「ネタの材料」だけをもらった状態でこの件についてのインタビューは終わり、その何年後かに田宮が亡くなったことをきっかけに高沢はこの件を調べるという流れとなります。

「核」の問題の前には東も西も同罪のはずだったが、どちらかといえば西側の核だけが問題にされ東側の核はなぜか運動の中で不問に付される傾向があった。(略)運動が「東側の核」を問題にしなかったのは端緒がソ連、東欧から発信されていたからである。しかし、この「反核」運動の影の演出者はソ連だけではなかった。北朝鮮ソ連の政治戦略のなかでこの一翼を担っていた。そして朝鮮労働党がこの政治宣伝工作にあたって任務の一端を与えたのが「よど号」たっだのである。
p.318-319

 

(活動の中心をウィーンにして)「反核」運動工作は宣伝煽動戦の名前にふさわしくまず雑誌を発行する計画から始められた。事務局の準備委員会が組織され討論が続けられた。最初は簡単な新聞形式のミニコミだった。誌名は『おーJAPAN』と名付けられた。1978年のことである。号を追うごとに内容も広がりをもち充実した。
 ウィーンから最初に創刊されたこの『おーJAPAN』は後に久野収宇井純を顧問に迎え、ヨーロッパだけでなく日本国内でも反核運動の中心的な情報誌となっていく。発行体制ものちにには東京に移った。この準備段階で活躍していたのが先のK君であり、運動家として指導していたのが田宮だった。そして事務局と連絡をとりつつこうとした運動を実際に組織していったのは、じつは岡本武だったのである。
 「反核」運動はヨーロッパから飛び火するように日本でも一瞬のうちに燃えひろがった。ヒロシマナガサキをはじめとして各地で各種の市民団体や労働組合の運動も巻き込んでいった。当時、東京の明治公園で行われた抗議行動と集会では数万人規模の動員力をみせている。”ダイ・イン”と称する地面に寝転んで「死に真似」をするパフォーマンスが繰り返された。核戦争の犠牲を表現して、ということらしかったが、どちらにしろ「反核」という言葉は突如「反戦」という言葉に代わってこの時期、一世を風靡する。そして停滞していた70年代後期から80年前後の運動に突然変異的な高揚(多くは市民運動だったが)をもたらした。
 「よど号」の田宮高麿がこの「反核」運動の背後で活躍していたことに、わたしは軽い驚きを覚えた。そしてその「反核」運動の宣伝煽動という「よど号」の9任務が北朝鮮朝鮮労働党の指導のもとに行われていたということに歴史の断面を見せられた思いがした。
p.230

主な記述は以上の様なものの、この部分の問題はこの記述は誰に取材し、何の資料を用いて書いているのかの裏付けがいまいち不明な事です。資料、証言の面で弱く、また『おーJAPAN』が「反核反戦」運動に対して与えた影響も省略しすぎで、その反面、この機関誌の影響力を過大に評価している節があります。特に「ダイ・イン」についての部分は何故広島でその様な運動が行われたのかの個別的調査、記述がないにもかかわらずにこの「工作」の流れの中にあるかのように記述しており問題と言えます。なおこの部分を読んでダイ・インを田宮が考案した運動と誤解している方もいますが、これは明確に違います*2。本文を読んでもそのようには書かれていませんし、後述しますが広島のダイ・インの発案者は市民運動にかかわりはしていますが普通の会社員です。それと高沢も上記引用の後に一応の論拠と言えるものとして雑誌の創刊から4年目に結成された新しい政治組織「新しい民主の波」の宣言に対して"宣言文を覆っている"チュチェ思想"の影が理解できるはずである(p.321)"と書き、この宣言文を書いたのが田宮「らしい」という類推をしていますが、やはりこれも類推の域を出ません。文中では「K君」に連絡をとり機関誌を数部手に入れたにもかかわらず、肝心のK君に対する聞き取りをしている描写が一切なく、この部分でも高沢の調査の妙な甘さが見て取れます。
 冒頭ツイートをしている内藤陽介氏はパフォーマンスが流行った背景を高沢本による田宮の自画自賛を根拠にしていますが田宮自身はその工作の実態を語ってはいないこと、また高沢による調査も論拠は弱く、また工作の過大評価をしていると言わざるを得ません。内藤は「詳しくまとめられている」と書いていますが、正直これだけに依拠するのは危うい。詳しくない。

ミニコミ『おーJAPAN』について

 『おーJAPAN』という機関誌についてですが*3、『ミニコミ戦後史』によれば河内善彦がウィーンで創刊し、後に日本でも発行する様になったミニコミ誌です。そしてこの「河内善彦」が田宮のいうところの「K君」でしょう。河内は関西学院大学を1年で退学後に19歳でウィーン大学に入り、学生運動に参加した人物であり、その際に現地で和文タイプライターを使用して「仲間」と『おーJAPAN』を創刊したとあります。ただこの「仲間」に田宮らが加わっていたかは不明です。これが現地で一定の成功をしたためか久野収は日本にいる時点で雑誌の存在を知り、その後にパリで彼らと会い、朝日ジャーナル1982年12月24-31日合併号で「小さな国際雑誌『おーJAPAN』」という記事を書いています*4。なお少し脇道ですがこの久野の文によれば当時の欧州における大規模な反核原水禁)運動のくちびを切ったのはイギリスの「ラッセル平和財団」だとしています。この財団はバートランド・ラッセルが1964年に設立したものですが*5、1980年4月に「ヨーロッパに非核武装地帯をつくり出そう」と題するアピールがそのきっかけとなり草の根レベルの広がりとなっていきます。さらに言えば70年代末ごろから日本でも報道されるレベルのダイ・インが国外で行わています。例えば1978年5月29日の読売では「涙と拍手、核廃絶へ大合唱」という記事において国連軍縮特別総会に核廃絶を訴える「生存のための大動員集会」の1万5千人の参加者全員がニューヨークの国連本部前で倒れたという記事があり、運動の潮流が見えます。『おーJAPAN』はおそらくこれらの運動に注目していたようで、当然自らも反核的な思想を持っていたと思われます。そして日本にとどまらずにアメリカにも情報ネットワークを広げて反核運動、その他の平和運動に関する情報を日本に送っていたとあり、「成功」したミニコミと言えるかもしれません。ちなみにミニコミ戦後史によればその紙面の性質を次のように述べています。

この”小さな国際新聞”の功績は、反核反戦運動を中心に、大国か小国か、右か左かという二元論ではとらえられない世界的動きを、各国に住む日本人の目を通して伝え続けてきたことである。

これを信じるならば「左」に寄り過ぎているとは言えないようです。「工作」なので当然ですが、この解説にはよど号メンバーが関わっているとも書いていない*6。なので実際にこの『おーJAPAN』に田宮らがどれだけ関わったかは謎です。よど号メンバー以外でこの点について知っている可能性のある河内善彦は『おーJAPAN』後にどの様な活動をしているかわからず、氏の発言も当時以外のものはほぼほぼありません*7。ただ高沢の書籍を読む限りは河内に連絡を取り、何らかの事情を話して当時のミニコミを数部手に入れたはずですので田宮-河内に何らかの繋がり自体はあるものと考えられます*8。ただ当時の河内が田宮高麿を「よど号メンバーの田宮」と認識していて協力していたのか、田宮がおそらく語っていた別人(偽名)と認識してミニコミを作っていたのかまでは不明です。
 また別の視点として『おーJAPAN』には1987年に北朝鮮渡航し、よど号メンバーの赤木志郎の妹と結婚してグループに合流した赤木(米村)邦弥もミニコミ製作に関わっていたとされています。

欧州では当時、旧ソ連の中核距離核ミサイル配備に対抗し、北大西洋条約機構NATO)が米国のミサイル導入を決めたのを受け、反核運動が起きていた。赤木容疑者とよど号犯の接点も反核運動だった。
 53年(引用者注:1978年)3月、ウィーンを拠点に反核ミニコミ誌「『おーJAPAN』」が創刊された。実質的発行者はよど号の故田宮高麿、故岡本武両容疑者。「『おーJAPAN』」を隠れみのに、運動に参加した日本人留学生らの獲得を狙った」(捜査幹部)
産経新聞 2007.6.4 「よど号犯と合流の男あす逮捕 欧州工作組織 全容解明狙う」

赤木邦弥がウィーンに滞在していた時期は1982~1985年とされ、その時期によど号メンバーにオルグされたと考えるのが妥当でしょう。産経紙上では捜査幹部が田宮、岡本を「実質的発行者」と書いていますし、これは『宿命』と重なる情報です。ただ捜査幹部が『宿命』をネタ元にしての発言かもしれないのには留意が必要です。また読売新聞(2007.6.11夕)「欧州拉致のキーマンか」においては”(田宮が指導していたが)03年12月にグループが発表した見解によると、83年ごろには、メンバーの魚本(旧姓・安部)公博容疑者(59)が責任者になっていた”とも記述されており、『宿命』にはない情報もあります。ただこれらを立証する何らかの証拠は現状ではありません。
 以上の事から『おーJAPAN』自体には田宮や岡本などのよど号メンバーが何らかの関係を持っていた可能性は高いと考えられます。ただし、それがどの規模でありどの程度の影響力を持っていたのか、その他のメンバーがどれだけそれを知っていたのかは不明であり、そしてよど号メンバーによる「工作機関紙」と言えるレベルであったのかまではわかりません。例えば『宿命』を読んだ元『おーJAPAN』の関係者は以下の様な事を述べています。

■ウィーン工作の実態
 高沢皓司氏の『宿命』の中で、ウィーン工作(反核運動=雑誌『おーJAPAN』が、よど号グループ(&北朝鮮)の最も成功した活動と書かれていたのには、驚きました。私自身が当時81年からウィーンで83年から日本(東京)で、実質的に編集長兼雑務係として、取材、記事、文章のリライト、イラスト、レイアウト、写真と一人で必死になっていたからです。しかもまさに教条主義金日成の思想の(あとから気づいたことですが)露骨な表現がモロに出るのをふせぐためにオシャレでセンスのあるエンターテイメントの感じられる紙面にするため何も知らず努力していました。若しウィーン工作が「成功」だったというなら、それは「よど号」の教条主義とは全く正反対の立場の人々のおかげでしかありません。(匿名 42歳)
創 1999-04

またこの他の当事者の証言として1981年頃に半年程ウィーンに暮らし、河内喜彦とは一時的に寄宿しながら編集にも携わった経験がある岡部一明がいます。岡部は現在もブログを書いており、問い合わせが可能だったのでこの件について、

・田宮などのよど号メンバーと思われる人物が雑誌の編集などに関与していた記憶があるか
・『おーJAPAN』は「日本国内で反核運動の中心的な情報誌」であったのか

大まかに上記二点を尋ねました。岡部によればこの情報自体が初耳だったようで「目の玉が飛び出るくらいびっくり」との反応を貰いました。久野、宇井が顧問になったことは記憶していたようですが、よど号メンバーの様な人物が裏にいるとは感じなかったとの事です。この1981年ごろは田宮高麿がおよそ38歳、岡本武は36歳になります。当時の『おーJAPAN』は河内喜彦のインタビューである朝日ジャーナル(1983年1月21日号)「シラケてなんかいられない.とにかく自己主張を続けていく」を読む限りは若いメンバーで構成されており、30代中盤から後半の男性が頻繁に出入りしていたら何らかの記憶に残っていてもおかしくはありません。しかしながらその記憶がないという事は少なくとも表立って編集によど号メンバーが立ち寄るという事はなかった可能性が高いです*9。さらに付け加えれば2007年の赤木の報道の際に警察は『おーJAPAN』を調べる事になったはずで、しかし続報がないという事は警察が発表するほどの目立った情報そのものはないという事でしょう。また岡部によれば「日本の反核運動の盛り上げの中心的情報誌」はほめ過ぎであり、それ以外の分野の記事の方が多かったとのことです。これも『技術と人間』(1980年4月号)の「ミニコミ時評」と符合しており、当時の紙面は反核以外も多くあったようです。そして河内喜彦を知っている岡部氏曰く、「そんな組織につながっているなど信じられません。」とのことです。
 以上、当時の関係者からすると直接編集に携わっている立場でよど号メンバーを感じた事はないと言えます。それともしも『おーJAPAN』の紙面がよど号メンバーの教条主義チュチェ思想などを前面に押し出しているのならば当時、もしくは後に指摘は受けていたはずで、しかしそれについては高沢が「新しい民主の波」の宣言に見出したのみといえます。それらを考えれば『おーJAPAN』そのものはよど号メンバーのうまい「隠れ蓑」であったことは可能性はありますが、その反面、それとは知らない若者たちの反核も扱うミニコミであったことがまず第一の事実と言えるでしょう。故に少なくはあれど当時の朝日ジャーナルやそのほかの雑誌で多少なりとも扱われ*10宇井純久野収などの文化人が『おーJAPAN』に関わりを持ったのでしょう。それはそれで恐ろしい事でもありますが。しかしこれらの事から田宮らの視点では「成功した活動」とは言えそうです。
 ただし。この『おーJAPAN』による言論が日本の運動にどれだけ影響を与えたかまでは正直不明です。そもそも日本での展開が正式にはいつから行われたかがやや不明で、1982年12月時点の朝日ジャーナルで久野は"最近、印刷所を日本にうつし、東京事務局を再開し、国内でも本格的普及と運動を始めることになった。*11"とあり、日本で本格的な活動をしているのは早くても82年末ごろからと思われます。「新しい民主の波」結成にも関連したであろう創刊四周年記念号にしても1982年4月であり、世界の反核潮流に乗っているといえますが高沢が記述するところの「日本国内でも反核運動の中心的な情報誌」というには遅いです。後述しますがダイ・インが日本で始まったのは81年からであり、さらに82年の一連の大衆行動は3月から始まっており、『おーJAPAN』が「中心的な情報誌」には時系列的に困難です。またこのミニコミの存在が日本の反核運動などの「中心的な情報誌」というにはあまりにもその存在が語られていないのが実情で、例えば国会図書館で「『おーJAPAN』」と検索しても数えられる程度にしかヒットせず*12、中身も反核的、市民運動的なミニコミの紹介と、そういう運動をしているちょっと注目に値する若者がいるという程度のものがほぼほぼ。そしてその様な「中心的な情報誌」だったと言い張るには、日本国内でこの機関誌がほぼ保存されていない。ミニコミとしては成功した部類ではあるけれど言論や運動にそこまでの影響を与えたかというとかなり限定的でしょう。高沢の「反核運動の中心的情報誌」という評価はやはり過大というべきでしょう。

おーJAPANの実物

 そしてでは『おーJAPAN』はダイ・インが始まった1981年8月付近に何かを記述したのか、ですが、当時はウィーンを中心としたミニコミであり、国会図書館にも所蔵がない超激レア雑誌です。広島平和記念資料館平和データベースでは12冊ほど所蔵されていますが、それも日本で発行する様になった1982年4月号(No.48 創刊四周年記念号)が最も古く、ダイ・インの参考にする分には使えない。では日本に当時のものがないかというとそうでもなく、滋賀県立大学図書館所蔵のコレクション資料にNo.18(1979.9)からが現存しています。そして滋賀に行く決心をしていたところ、岡部氏からのメールにて住民図書館にミニコミが提供されており、閉館後には共生社会研究センターに移動したと聞き、こちらに出向きました。初期の号にいくらかの欠損はありつつも82年末あたりまでの紙面をいくつか紹介していきます*13

 上記が創刊号の1面です。創刊号は6ページの冊子であり、四大使命の明示やその意気込みなどが記述されています。創刊の辞などを読む限りは当時の左派、学生運動的な影響が見受けられます。ちなみに巻末には『おーJAPAN』という不思議な名称の由来が書いてあり、それによればその由来は次の通り。

欧の墺から「おー」と呼びかける声がJAPANの国民大衆の耳に達し、数千万倍の反響のウズをまき起こす。その震源地として絶えることなく「おー」「おー」「おー」と叫び続ける。

なおこの号の編集長と思われる人物はITO NAOMIと記述されており河内ではありません。ただし2号では(河内)という記名がなされた記事があることから河内喜彦が創刊期から関わっていたこと自体はほぼ確実でしょう*14。また第2号目にして宇井純が寄稿を寄せており、どのような伝手でまでかは不明ですが、創刊期から左派系の文化人とのつながりがあった事はうかがえます。また初期から「反射鏡」という読者からの便り的なコーナーにおいて日本在住者と思われる文面があることから、日本で事務局が出来る前から日本国内で多少は読まれていることも伺えます。そしてその紙面の内容ですが、第2号と思われる目次を見ると日本国外の時事問題などを主題としている事が窺えます。

なおこの第2号の「提言」では「欧米の民主主義」への疑念を口にしており、日本の現実にあった日本国民大衆のための民主主義を実現していかねばならない*15、といった内容が書かれています。ある意味で昨今の保守言説みたいなところを含みつつも、とはいえ自民党政権への反発や当時の欧米の民主主義への反発などが存在。ただ当時の左派側からの反米感情などを鑑みればその感情が突出しているとまで言えるかは甚だ微妙な部分はあります。
 そして「反核」的な立場ですが、No.39(1981年6月号)において「非核・反戦平和運動」、No.41-2(1981年8,9月合併号)「西欧の非核運動」、No.44(1981年11月号)「三十万人非核反戦デモ*16」、No.49(1982年5月号)「非核反戦の高まりがもたらすもの」などなど、ヨーロッパからのレポートとして各種反核デモに関する記事を定期的に書いているとは言えます。ただあくまでも『おーJAPAN』は欧米の事を中心に書いているミニコミであり、例えばNo.43(1981年10月号)の「反射鏡」では以下の様な指摘が読者から届いています。

日本の大衆の運動紹介記事を多く!
 ヨーロッパの生活、社会事情には詳しく、読んでいて興味ありますし、ラテンアメリカを主にアフリカの記事まであるので感心しています。編集者が世界的な視野をもって発行されているからでしょう。ただ、一つ気にかかることがあります。それは、日本の記事が少ないのでは、ということです。私がいう日本の記事とは、自由民権の運動、論評のたぐいでなく、日本の大衆による種々の社会運動ことです。どこかの新聞に、「日本・ヨーロッパ・第三世界を結ぶ民衆の連帯紙」と、おージャパンが宣伝されていました。けれど、かんじんの日本の運動がおごそかにされていると思うのです。

実際にこの時期の紙面を読む限り確かに日本の社会運動についての記述は少なく、欧米や第三世界の話の記述が多いです。当時に国外の状況を知る上で『おーJAPAN』は確かに貴重な情報誌である反面、日本についての情報は遅く、例えばNo.47(1982年2月号)では「非核のうねり」では後述する1982年の3.21ヒロシマ行動についての紹介はあるものの、これは朝日新聞の情報を見て知った程度のものです。やはり当時はウィーンが主体の組織であろうだけあって日本の情報は新聞情報などによります。これらから高沢が書くところの「ヨーロッパだけでなく日本国内でも反核運動の中心的な情報誌」というのは過大評価と捉えられます*17。論評的な部分はありつつも、ヨーロッパの事例は基本は「レポート」の範疇に収まり、日本についての情報は当然ながら国内誌の方が充実していたでしょう。逆に高沢の論に乗れるとするところがあるならばそれは東側の核についての消極性であり、確かに『おーJAPAN』の反核的な論調の多くの場合はその対象がアメリカ(西側)に向いていることが多く、ソ連などへの反核姿勢はその量で大きく劣っていることです。欠損があるとはいえ、82年末まで調べた限りでは、No.56(1982年12月号)のヨーロッパ・レポートで「東欧の反核平和運動」がある程度です。この記事を書いたのは河内喜彦ですが、「信頼を失っている共産党の権威回復のためにも、「反核平和」運動は(引用者注:東欧諸国では)意義のある手段である。」とも書いており、その性質をうまく言い表してもいます*18。それとおまけとしてですが、高沢がその文面に「"チュチェ思想"の影が理解できるはずである」と言わしめた「新しい民主の波」の結党宣言は次のようなものです。


出典:No.48(1982年4月号 創刊記念4周年記念号)

この文章に"チュチェ思想"を感じるほどに思想に詳しくないので論評は避けますが、当時の学生運動的な延長線上にある文章には読めるかなと。またこれらとは別に『おーJAPAN』自体の自己認識的な紹介文(定期購読申し込みチラシ)はこちら。

以上、82年末あたりまでの『おーJAPAN』を見てきましたが、少なくとも紙面上から「北朝鮮よど号メンバーによる工作機関紙」といった雰囲気を感じ取るのは無理と思われます。あと、ついでに言えば「北朝鮮」に関する記事はおそらくありません*19。『おーJAPAN』はこの後に日本にも正式に事務局を置き、紙面や紙質、冊子の綴じ方などのクオリティがアップするのですが、この時点では日本で反核運動は既に盛り上がっている状態であり、「中心的な存在」というには遅いでしょう。これらを鑑みるに高沢の記述が微妙な曖昧さを含むのは、実際に彼が読んだ紙面上から明確によど号と『おーJAPAN』を繋げることはできず、また「K」という人物からの掘り下げからも期待した内容が得られなかった可能性は指摘できます。その曖昧さの上で田宮の自画自賛言説を採用した記述なのかなと。そして当時の『おーJAPAN』には「ダイ・イン」に関する記述は全く見受けられず、少なくとも「ダイ・イン」とよど号メンバーを繋げる言説自体は不当です。では、ダイ・インは誰が始めたか。

8月6日に広島で「ダイ・イン」を始めた人物による証言

 長々と高沢皓司『宿命』による情報から派生する話を書いてきましたが、ここからは別のアプローチ、というか本来なら正攻法の攻め方としてダイ・インを誰が始めたかを探っていきます。これ自体は非常に容易に調べられる話で当時の新聞には発案者が誰か明確に記述されています。

広島市原爆ドームを中心にした路上などに倒れて「あの日」の惨状を再現し、核兵器への無言の怒りと抗議の意思を表そう、というダイ・イン(DIE・IN)運動が、広島の若者たちの手で計画されている。この運動は米国で53年に「生存のための動員」集会で行われたが、国内で若者らの呼びかけに被爆者や被爆二世、障害者たちから賛同の意見が相次いでいる。組織的に行われるのは初めて。
 広島の若者たちのグループ「平和を語る青年のつどい」のメンバー、広島市安芸町会社員飛塚優さん(37)らが7月初め「ヒロシマ ダイ・インを呼びかける会」を発足させた
「8.6の朝 ダイ・イン」朝日新聞 1981年7月20日

そしてこの発案をした飛塚優氏は2019年に当時の経緯を自ら書いています。それが「流鏑馬(やぶさめ)爺さんが「ヒロシマ・ダイ・イン」を語る!」です。かなり長くなりますが重要なので一部省略しながら以下に引用していきます。

<私が「ダイ・イン」を提唱した経緯>
今から38年前の1981年(昭和56年)当時、私は広島に転勤してきた「製薬会社のサラリーマン」だった。私は市内の東区安芸町に住居を構え、広島営業所の営業係長をして数年たっていた。
(略)
ある日、仕事で訪問した開業医院の診察室で「全身がケロイドのご婦人」を偶然に垣間見た。平静を装って通り過ぎたが激しいショックを受けた。放射能を受け、業火で焼かれ、現在まで「その苦しみを必死に背負ってこられた方」が目の前にいる。私は、今、広島ではなく、「ヒ・ロ・シ・マ にいるんだ!」と実感した。
(略)
図書室の資料からは解らない「被爆者と被爆二世や遺族の苦しみや悲しみの部分」に直接触れ合うようになった。そこで私は、自分の考えを地元の <中国新聞の「広場」欄に投書した> (略)

S・55,8,3 「全市民参加し核告発へ行動」 会社員 飛塚 優 36歳
もし地球上の「人類の痛覚神経」をすべて一本につなげるなら、平和はすぐに来るであろう。なぜなら、人々は肉体と心の痛みを、最後の1人の苦痛が消え去るまで、お互いに共有しあわねばならぬからである。ところで私達市民の被爆者への痛覚は、資料館を訪れる修学旅行生より鋭いと自信を持って断言できるだろうか。強制徴用の朝鮮人被爆した老女に、重複した差別の痛みを、いくつまで感じうるだろうか。かつて私たちの父や祖父が中国の南京で中国人に、関東大震災下で朝鮮人に何をしたか。私たちが今、同和地区の人や身体障害者たちにどんな痛みを与えているか。加害者でもあるのだという痛みを市民も被爆者も一緒に共有しうるであろうか。世界中の人は、たいてい戦争を強制された。わが子を戦死させたい親はどこにもいない。市民運動こそは国境を越えて連帯できる。八月六日、全国で黙とうが行われるなら、広島では原爆ドームを中心に市民が累々と地面に倒れ伏して三十五年前の原点から核を問い直し告発するぐらいの気迫と痛覚の一致がなくて、どうして世界にヒロシマの声が届くのだろうか。

この投書をしたのは、核告発「ダイ・イン」が実施される年の一年前である。最後の部分で、幾分過激に市民の意識を煽っているのには理由があるのです。
 
<当時の世相と平和運動の様相>
(略)
1980年前後の8月6日の広島は「原水禁」と「原水協」を巻き込んでの 「政治的対立」が激しく、各国の賓客が平和公園で待っているのに、なかなか 「統一平和宣言」が出せないような状況もあった。その他にも、各政党が県外から送り込む活動家や、ノボリ旗を持ち、ゼッケンを身に着けた大勢の労働組合員が、市内を我が物顔に闊歩して気勢を上げ、被爆者や市民たちは片隅に追いやられているような雰囲気だった。
(略)
「原爆反対」を表現する「言語の抽象性」は、意見の食い違いや思想の違いを生む。そしてそれは「政治的」な運動から「政党的」な権力闘争に発展し、政党間の対立と主導権争いの場に行きつく。対立が激しくなると平和集会も先鋭的で閉鎖的になる。「核兵器廃絶」の立場も、欧米の「自由主義国家の核」は反対だが、対抗するソ連や中国の「共産主義国の核」は賛成。とか、「いや、その反対だろ!」とかの思想的・政治的応酬がふつうに行われていた。放射能の熱戦を浴びた当の被爆者にとってみれば、「どこの国の核兵器であろうが反対!」が当たり前ではないのかな、と、私は不思議に思っていた。
私が家庭訪問している被爆者の中には、「このような世相」を嘆く人が多かった。曰く、
「普段は近寄っても来ないマスコミや活動家が、8月6日の前後には大勢押し寄せてくる。お盆の時期だけチャヤホヤされるって私達は幽霊じゃないんだよ!被爆もしてない偉そうな連中の話ばかりが世間に通って、被爆者本人のわしらの意見や考えはなかなか伝わらん。おまけに喧嘩ばっかりしとって、世界各国の人に顔向けできゃせん。恥ずかしい!」
「それじゃ、皆さんで、何かしてみたら、いいんじゃないの」
「わしら体が弱くてあまり動けんし政治家みたいに、うまいことしゃべれんけ」
「なら、なんも言わんと動かんで、地面に倒れ込んで、寝っ転がってみれば?」
「あっ、それ面白いけど。も一回、死ぬ思いするんかいな。や~れやれ(笑い)」
とまあ、要約すればこんな会話から「ダイ・イン」導入の芽生えが…
「雲の上」のような、抽象論や学術論や対立的な政治論よりも原爆のキノコ「雲の下」で起きた事実に「心を及ぼす」行為が出発点では?
(略)
<又もや、中国新聞「広場」欄に投書しました>

S56,7,3「全広島市民が核告発しよう」 会社員 飛塚 優 37歳
空洞化した非核三原則、右傾化へ操作されていく世論。膨張を続ける核兵器。今、被爆ヒロシマの市民として何をなすべきかが真剣に問われている。もうすぐ八月六日がやってくる。私は呼びかけたい。「八月六日午前八時十五分のDie-in」を。三十六年前の原点に返って一個のしかばねと化すことを。あらゆる階層の市民が被爆者を囲んで原爆ドームを中心に累々と地面に倒れ伏すことを。爆心地の市民として自らの肉体で激しい怒りを世界に訴えることを。「人類史上最大の過ち」としてではなく、単に「戦力バランス」としてのみ核を論ずる体制を告発することを。戦争につながる基本的人権の侵害と総ての差別体制を告発することを。平和運動は文化人や学者、労組や政党だけのものではないはずである。Die-inは思想の違いや組織の分裂の次元を超えた市民運動である。Die-inには整然とした理論や流ちょうな弁証はいらない。ただ黙って一個のしかばねと化して横たわること。あの日、同じ地面で息絶えた人と対面すること。すべてはこの原点から出発していく。だれにでもできる数分間の無言の行為。市街が怒りの死体で埋まっていく時、一人一人のヒロシマのこの抗議が世界中に伝わっていくことだろう。八月六日、世界がヒロシマを注目する日、私達広島市民が「核告発のDie-in」をやらなくて、いったいどこの国のだれが代わりにやってくれるのであろうか。

(略)
当時、私たちはまだ「Die-In」の存在を知らず、この行動を「倒れ込み」と名付けていた。Die-Inという存在を知ったのは、取材を受けたときの新聞記者に教えてもらったからだ。“1960年代に核軍備に反対して米国の市民グループが始めたこと。1978年にニューヨークの「生存のための大動員集会」でも行われたこと”などを知り、広範な市民にアピールするには「ダイ・イン」の方が、内容が分かりやすいと決断。急遽、配布中の手書きのビラを途中から「倒れ込み」の文字を「ダイ・イン」に入れ替えた。そしてダイ・インの写真を探して張りつけた原稿をコピー機にかけた。現在のようにインターネットも無く、資金も無いから、手書きと切り貼りのビラである。

※引用者注:飛塚のHP上だとこの後に別のビラである「3.21ヒロシマ行動」に関するビラも貼っていますが、それは翌年の1982年のビラ
(略)
 
公安警察官が会社に来た!>
仕事を終えて営業所に戻ると、「今日、警察が来たわよ」と事務の女性が私に言う。所長には「公安の警察官らしいが、君は何をやっているのか」と言われた。いろいろ と私のことを聞かれたらしい。私は自分の「ライフワークの市民活動」であり、決して仕事にも会社にも迷惑を掛けないように配慮していることを告げた。そして所長から名刺を借りて連絡先を調べ、彼らを喫茶店に呼び出した。
(略)
彼らの態度は冷静沈着で威圧感があった。治安維持のため暴力主義的な破壊活動を行う団体や組織をマークし調査する「仕事の一環」だとの主張だった。しかし、彼らにとっては「仕事の一環」で済むが、 私にとっては「仕事が一巻の終わり!」になる話である。 結局、「既存の組織」はどんな行動に出るか予測がつくが「貴方の組織」は「今までにない新しい形態」なので、まるで行動予測がつかない。総理大臣(鈴木善幸氏)も出席する平和祈念式典の最中に事件でも起されたら我々、公安部の責任となるということだった。私の「運動の正当性」と、彼らの「職務遂行」の主張の争いは平行線をたどり延々続いた。そこで私は悔し紛れにこう言った「君たちの家族や親戚に被爆者はいないのか」と若い方の警官が低い声で「います…」と言った「俺のやってることは間違ってるか?」この問いに二人の返事はなかった。こうして我々の話し合いは決裂した。
(略)
 
<原爆反対の告発「ダイ・イン」の日が来た!>
(略)
8時15分に「平和の鐘」が打ち鳴らされると、人々は自発的に次々と地面に倒れ伏していった!

この写真が38年前の、日本で最初の「ダイ・イン」の貴重な生の写真です! ある新聞記者さんから 「貴方は倒れていたから写真がないでしょ。これは記事に使用しなかった写真の中の一枚ですが、記念に差し上げましょう」と、提供されたものなのです。大切に保存していましたが、年月が過ぎて左側が黄変してしまいました。
 
<ところで、参加人数は何人ですか?>
ドーム前の通りは倒れ伏した市民でふさがれ、周辺には5分間の重苦しい沈黙が流れた。短くて長い5分間だった。しばらくして起き上がってみると私たちは通行人とマスコミに囲まれていた。私は大勢の新聞記者に異口同音に問いかけられた。「ところで参加人数は何人ですか?」と。
(略)
答えに詰まって途方に暮れていると後方から私の肩を叩いて「150、150…」と、ささやく人がいる。振り返ってみると、そこには作業服を着た労務者風の若い男が立っていた。見覚えのある顔だが誰だか分からない。彼はさり気無い声で、もう一度「150」と私に告げると、立ち去り際に振り返りもせずに軽く後ろ手を振った。その瞬間、私は思い出した。「あっ、奴め! あん時の公安警察官じゃないか!」。そうなんです。彼はダイ・インの参加者に混じって密かに潜入していたのです。従って人数の把握も正確なはずだった。急場を救われた私は「説明のつかない感情」が突然に込み上げてきて声が上ずった。「150だそう… いえ、150、150人です!」。翌日の新聞は、どこの会社の記事もきれいに「参加人数は150人」で揃っていた。
 
<全国に広がる「ダイ・イン」行動>
ダイ・インは、翌年‘82年の3月21日「ヒロシマ行動」で500人の参加者を得た。この時配布した私たちの「呼びかけのビラ」は、参加者によって全国に散らばった。「戦争反対・核兵器廃絶」の集会に参集した市民は、識者の演説を聞くだけでなく、「倒れ伏す」ことで「自らの意志を示す」ことのできる「主人公」になれることを知った。5月23日の東京行動では40万人、5月24日の大阪行動(引用者注:実際の大阪行動は10月24日)では50万人の民衆動員があり、東京では代々木公園を、

大阪では大阪城公園をダイ・インの参加者たちが埋め尽くした。

新聞記事には「草の根の連帯」とか「草の根の結集」とかいう、大きな見出しが急に頻繁に載りだした。「草の根とは、民衆のひとりひとり、一般大衆のことで、政党・結社などの指導者層に対抗して使う言葉や運動のこと」(引用:大辞泉)です。「草の根レベル」とは「市民一人一人の視線で、立場で…」と言う意味です。これは私の「新聞投稿」と「ヒロシマDie-In を呼びかける会」の趣旨そのままです。「思想信条の違いを超えて集まった市民の自由参加によるものとすること」従って、当時のダイ・インは「草の根市民運動」の「草分け」だ!(笑い)と、言っても良いかとも思います。が、これは私、調子に乗って言い過ぎました!(謝)

引用にしてもかなり長いレベルですが……、それはともかく氏のおかげで当時の経緯がかなりまとまっています。ダイ・インは海外の運動を輸入したのではなく被爆者との対話の中で生まれたものである事、当時の原水協原水禁などの運動における党派性争いへの嫌気などが見て取れるものであり、また飛塚の文面からは「共産主義国の核」にも反対であることが読み取れます。そもそも高沢が言うところの”東側の核はなぜか運動の中で不問に付される傾向”は当時の原水禁運動が統一できなかった要因の一つでもあるわけで認識が雑です。そしてこの時点では『おーJAPAN』は日本で発行してないし、一会社員が知るレベルでもないでしょう。飛塚には公安警察による監視も行われていたであろうわけで、それが氏の背後関係の潔白さをある程度証明していると言えます。なお飛塚自身以外にも飛塚の息子と思われるアカウントが2018年にnoteで「ヒロシマ ダイ・イン始まりの日」をアップしています。内容そのものは飛塚に聞き取っているものであり氏の話を読んだ上だと新規性は少ないですが、飛塚優、そして息子と思われる方が2018年に何故このような振り返りを書いているかと言えば、両氏の記事トップにダイ・インに対する「ネットの世間の目」があることが窺えます。忘れ去られない為にこの様に証言を残してくれているのはかなりありがたい。ちなみに飛塚はこの後に北海道へ転勤しますが、その後にも市民運動に参加しています。そして彼の背景に「よど号メンバー」があると判断するのはかなり苦しいでしょう。


出典:中国新聞 1981.8.6夕

 以上が8月6日におけるダイ・イン運動が生まれたきっかけと経緯であり、これが40年を超えて今現在(2023年)も続いている運動の初めての日だったわけです。そして同年8月9日に長崎においてもダイ・インが行われます。


出典:毎日新聞 1981.8.10

記事によれば事前に計画されていたものではなく「8.9 全国高校生長崎の集い」で集まった高校生が前日にこの行動を決めたとあり、かなり急に決定されており、発案した高校生らが広島におけるダイ・インの新聞記事などを読んでこの行動をした可能性が一番高いでしょう。

1982年における「ダイ・イン」

 さて、8月6日におけるダイ・インについては飛塚優氏らの証言や当時の新聞からどのような経緯と状況であったのか理解できるかと思います。そしてこの行動に関してはよど号メンバーが関わっているとした内藤陽介氏の発言は誤りであると判断可能です。しかしそれとは別に高沢皓司『宿命』に立ち返ると飛塚優の証言だけでよど号メンバーの行動を否定することはやや難しいです。なぜならば高沢はその書籍内で”東京の明治公園で行われた抗議行動と集会では数万人規模の動員力をみせている。”ダイ・イン”と称する地面に寝転んで「死に真似」をするパフォーマンスが繰り返された”とある様に高沢本人は8月6日のダイ・イン=よど号メンバーという話には直接的には繋げていないからです。高沢によるこの東京の明治公園などの抗議行動とは何か。これは飛塚も最後に触れていた、1982年に行われた一連の反核運動である「3.21ヒロシマ行動」、「5.23東京行動」、「10.24大阪行動」の事でしょう。これらの行動は1983年の警察白書によれば次の様な記述になっています。

4 「反核」を中心に取り組まれた大衆行動
(1)「反核軍縮闘争」
 昭和56年欧州で高揚した「反核軍縮闘争」が我が国にも影響を及ぼし、57年には、「反核軍縮」を主要テーマとした「3.21ヒロシマ行動」(9万3,000人)、「5.23東京行動」(18万6,000人)、「10.24大阪行動」(13万7,000人)といった大規模行動が取り組まれた。
 こうしたなかで、58年選挙での勝利を目指す社共両党は、「反核」世論の盛り上がりを背景に、反自民の勢力を結集することをねらって、署名運動、「非核都市宣言要請行動」、「全国網の目縦断行動」等を実施し、また、映画、学習会等を開催するなど、多様な反核軍縮行動を「草の根」運動として展開した。

これらの運動には総評が中心になって動き、そこに社会党共産党などが参加したもので*20、そこには草の根的な運動の末の参加者も相当数いたでしょう。この時代の空気感を知る上では京大で配られていた以下のアジビラなどが参考になるでしょう。


出典:1980年代に主として京都大学において収集したアジビラのライブラリー

アジビラにある新聞の見出しを見れば核配備や核戦争の危機感が窺えますし、1979年のスリーマイル島原発事故も背景にあるでしょう*21。当時のレーガン政権の核戦略自民党政権への反発、6月に行われる第2回国連軍縮特別総会の存在etc。これらの背景からこのような大衆運動へと発展していったと考えられます。またこれらの「真面目な問題」に対しての大衆行動の他にも人が集まる要素としてはさだまさしによる歌披露があったりと良くも悪くも「お祭り」な部分も存在します。ただ、これらの流れに対して「よど号メンバー」、そしてウィーンのミニコミで、しかもおそらく1982年末ごろからようやく日本で発行する様になった『おーJAPAN』が影響力を及ぼしていたと考えるのは、現状の証拠だけではたくましすぎる想像力が必要になるでしょう。高沢は日本国内の運動を無視しすぎです。
 そして一連の大衆行動の中の一発目である「3.21ヒロシマ行動」では前年の8月と同じく飛塚のグループが主催という形でダイ・インを行っています*22


出典:流鏑馬(やぶさめ)爺さんが「ヒロシマ・ダイ・イン」を語る!

当初は全体で「ダイ・イン」をという提案もしたそうですが、さすがに無理となり一部でするにとどまり、この時の参加人数は朝日ジャーナルによれば300人、読売で600人、朝日で500人とバラつきがあります。ただし、この「3.21ヒロシマ行動」は国会図書館デジタルコレクションなどで検索する限りは反応は薄く、大きな話題として残っているのは「5.23東京行動」におけるダイ・インです。「5.23東京行動」の代々木地区におけるスケジュールを見ると次のようにオープニング開始時点でダイ・インが予定されており、写真を見る限り今までとは桁違いの人数が参加しているように見えます。

10~12時 反核コンサート
13~14時 オープニング、ダイイン、テーマソング、開会宣言、基調報告、アトラクション
朝日ジャーナル 1982・5・21に基づく


出典:読売新聞 1982.5.24

「写真を見る限り」と注釈をつけたのは読売、朝日、毎日ではダイ・インの参加人数がわからないですが、舞台となった代々木公園は主催者発表で延べ約20万人が参加、事前に反核コンサートが行われており、そして開催のサイレンと共にダイ・インが行われたことから少なくとも4桁の人間が行っており、万を超える人物がダイ・インを行った可能性もあります。なお写真にドクロの衣装を被った人間がいますが、その他にもパンダの着ぐるみを着た人物などもおり、半ば「お祭り」的な催しでもあった事が窺えますし、どれだけの人間が真剣な行動であったかまでは謎ですが、それはともかく数と絵的なインパクトは相当なものだったでしょう。故に朝日ジャーナルの様に基本好意的に取り上げる雑誌から、逆に保守系雑誌の中では否定的反応が見えます。そしてこの東京行動におけるダイ・インの発案者ですが、残念ながら不明なもののしかし流れとしては前年からの飛塚が始めた広島におけるダイ・イン、そして3.21ヒロシマ行動があることは明確と考えられます。ヒロシマ行動から総評は関わっているわけですし、これが「10.24大阪行動」にもつながっていくのでしょう。そこに「工作機関紙」としての「『おーJAPAN』」、つまりはよど号メンバーによる世論形成があったと判断するのは難しい。

 以上の様に『おーJAPAN』などを見ると当時のミニコミとしては成功の部類、言論の「工作機関」としては不明なものの日本世論などの大勢に影響を与えた可能性そのものは低い、ただしそれとは別によど号メンバーが何らかの形で関わり(どれくらいの関与かまでは不明)「隠れ蓑」としては機能していた、と判断するのが妥当なところでしょう。少なくとも全くの無関係という可能性は低そうではある。ただいずれにせよ冒頭の内藤は高沢本の過大評価が窺え、そもそも高沢は田宮の自画自賛を真に受けた形で、それを証明するには論拠は弱くあと数歩間違えれば陰謀論に陥りかねない距離感の内容で、当時の時代状況に対する調査が足らないと言わざるを得ません。『宿命』の全体の内容の正確性まではわかりませんが、この部分は誇大の様に見受けられる。



■お布施用ページ

note.com

*1:以下、このブログでは単行本を基にして引用しますが、文庫版ではページ数が違います。内藤は文庫版をリンクを貼っていますが、内容自体は同一。

*2:https://twitter.com/yumeiroluck/status/485462501471956992

*3:編集に関わった事のある岡部一明によれば発行は1978年3月から1986年まで

*4:この記事によればその後に『おーJAPAN』側の勧めで久野らは顧問につく。

*5:設立時の宣言は1964年3月号の『現代の眼』に収録。

*6:その他に紙面の内容をうかがい知れるものとして『技術と人間』(1980-04)の「ミニコミ時評」が存在。当時の紙面としては反核などの政治運動の他に現地在住者に向けての生活情報的なものがあったのがわかります。それと「反自民」。

*7:朝日ジャーナル(1983.1.21)に「シラケてなんかいられない.とにかく自己主張を続けていく」というインタビューが載っていますが思想的な話はあまりしていませんし、よど号親北朝鮮的な発言もありません。また『広告批評』(1984-03)には河内自身が「普通の人たちの普通の選択」という記事を書いていますが、左派であるものの、それ以上の思想を垣間見ることは難しい。

*8:高沢が全く事情を説明せずに当時の『おーJAPAN』の紙面が欲しいと連絡した可能性は無きにしも非ずですし、K君が別の「K」の可能性は少なからずあります(実際に「加藤」などの別のKは存在。)が、ここでは例外として考えないものとする。

*9:岡部による『おーJAPAN』の編集の際の様子は短いながらもこちらで確認可能

*10:ミニコミ戦後史』という本がある様に、このころは話題性のあるミニコミが雑誌などで扱われることはあった模様。

*11:朝日ジャーナル 1982.12.24-31

*12:国会図書館での検索結果デジタルコレクションでの検索結果。デジタルコレクションで全期間で21件程度。

*13:確認できたのはNo.1~5、7、20~25、39、41~56

*14:No.20時点では河内が編集長的記述がなされている。

*15:提言全文はこちら

*16:81年10月に行われた西ドイツでの首都ボンでのデモレポート

*17:写真を撮ってなかったので正確な巻号や年は不明ですが、確か1982年か83年あたりの8月6日?に日本の反核運動に合わせて欧州で同様の反核運動を紹介し、レポートしています。この運動に関わってはいるでしょうが、それは「大々的な運動」というよりも現地の日本人による反核運動の域を出るものではなく、「運動」全体においては枝葉末節と判断します。

*18:記事全文はこちら。表紙その1その2

*19:網羅的に確認できる資料は少ないが、とりあえず1981年10月号から1983年1月号までのバックナンバー紹介はこちら

*20:共産党は大阪には不参加

*21:実際にアジビラでそれについて触れているものも存在。http://hp.jpn.org/agibill/146.pdf

*22:朝日ジャーナル1982.4.2「「本当の事実」への一歩が始まった」

路上で「高」の屋号を使用した軽トラで売られている桃は盗品ではないと思うよ


https://twitter.com/piyococcochan2/status/1683624892951040000


https://twitter.com/kodawari/status/1680174158892912640


https://twitter.com/kancore_0kenzo/status/1679090415495151618

 こんな感じに「もも7個300円で売る路上販売の軽トラ」ってのがここ数年でバズるネタになってます。背景としては農家の桃の盗品ではないか、という話があって農家の方も同様の反応。


https://twitter.com/farm_ichikawa/status/1678735970630504448

「路上販売の桃」、「常識的にあり得ない安さ」、「盗まれたという報道」などで確かに怪しい雰囲気があり、また聞いたら逃げるみたいな情報があるとさらに怪しさを感じるものではある。ただまず「7個300円」の桃とは以下の様なものでTBSの取材を見るとその大きさは小さめのもの。品質が低い。

見ると、サイズが大きいモモは4個で1000円。7個で300円のモモはサイズも小さく熟していない青や黄色のモモ。山梨県産でJAから仕入れたものだといいます。
盗まれた収穫前の“青いモモ” 「路上販売団」「ベトナム食材店」「フリマサイト」など徹底追跡 “大根みたいな青いモモ”の不可解な流通経路「X社」とは
※TBSの取材は結論が不明なので紹介は以上

この「高」の屋号を使用している売り方は「7個300円」で目を引き、そしてより大きな桃に誘導するという売り方です。それが「良い売り方」かどうかはともかく、これ自体は違法ではない。なお、この軽トラの目撃情報自体は2010年ごろには既にあって*1、そして2013年になると「7個300円」の目撃情報がネットで相次ぎます*2。この当時は盗品疑いというよりは売る側の話し方に対する言及が多いです。おそらく今も変わらない売り方をしているでしょうからジェーン・スーのブログから少し長いですが引用します。

荷台を良く見ると、桃は4つの籠に分けて入れられていました。
「桃は4種類あって、小、中、大、特大。あそこに書いてある(手書きPOPのこと) 7個300円はこちらの桃」
そう言って一番右の、スーパーではちょっと流通しづらい小ぶりのくすんだ桃を指します。
あーなるほど。7個300円の小桃は言葉で客寄せするための商品か。なーんだ。
しかし桃おじさんは私のとまどいを気にも留めず、
]小、中、大、特大の桃が入ったそれぞれの籠から
桃の値段が書かれた名刺サイズのカードをトランプのように出して続けます。
「中の桃は8個で1,000円。
 大の桃は4個で1,000円。
 特大の桃は3個で1,100円。」
なに… 桃おじの説明を聞かないと客は視覚的にすぐ値段が分からないこのシステム。
なに… そのトランプマン並の手さばき!
私が茫然としていると、トランプ桃おじはこう続けました。
「…でもお客さんにはサービスで、今日だけ中の桃は10個で1,000円。
大の桃は6個で1,000円、特大の桃は5個で1,000円にしてあげる!」
桃おじさんとウェブマーケティング
※この話は2013年に書かれているが2012年の話

盗品疑いは2018年ごろから

 少なくとも初期の言及ではあまり「盗品」扱いされることが少なく、この「軽トラで売ってる桃は盗品」という雑ともとれる認識が生まれた(バズった)のがおそらく2018年ごろです。


https://twitter.com/edward0082/status/1021211476252536832

そして2020年には5万RT近くいき、この認識がSNS上で定着したと思われます。


https://twitter.com/tuka_kaku/status/1288691905593634818

2022年ではそこまでの拡散はみられないものの著名人枠と言えるほんこん*3ひろゆき*4などによる言及も。そして今年(2023年)はかなりこのネタが擦られており、一部ではネット右派系アカウントの流入も見られます*5。またリンクは貼りませんが、突撃youtuberの中にはこのネタを扱っているものも存在しています。背景には実際に果物の盗品報道があるからではありますが、事程左様にこのネタは今年になってから過熱気味と言えます。

売っているのは「高山青果」

 ただ今年になってからはこの過熱ぶりからか事情を知ると思われるアカウントからの証言も出てくるようになり、この「高」の屋号を持つ軽トラの存在がようやく明らかになります。


https://twitter.com/Shinnosukee07/status/1683260135790227456



※該当アカウントの「荻原農園」はこのツイートを削除済み
※画像はhttps://twitter.com/dressunico/status/1683566080957218817から


https://twitter.com/hagiharanouen3/status/1683308020959432705


https://twitter.com/neoplan_1988/status/1681878632267141122


https://twitter.com/OOomochi24/status/1679101499220332545

などなど。この桃の販売は「高山青果」という企業によるものであり、元からはねだしの桃を買って客引きに使用しているということになります。また荻原農園がツイートしている様に「高」という屋号で特定が容易であり、また誰もが写真を撮れる路上で、話しかけられたり、最近では突撃や通報されたりしている状況の中で盗品の桃を販売しているというのはちょっと考えにくい行為。そしてここで言及されている「高山青果」ですが求人HPが存在しており、それによれば「事業内容 創業50年以上/果物の販売」とあります。ただこれ以上の情報は不明であり、どのような事業形態なのかは正直わかりません。付け加えれば求人情報に示された住所はマンションを示すものの部屋番号は不明で、またポストを含めて、すべてのドアに記述がないことから正直実態がつかめないところはある。

警察やJAに尋ねてみた

 上記の様に「高山青果」という名前はわかったもののその実態はよくわからず手詰まりだったのですが、もう一つの方法としてJAや警察に尋ねてみました。尋ねた内容は「高山青果」の名前を出しつつ、SNS上での情報の過熱ぶり、そして取引実態などはあるか、です。まず警察から。

 山梨県警察HPにお問い合わせいただいたことについて回答いたします。
 不審な桃の路上販売に関して、当県警察の捜査状況をお知りになりたいとのお申出ですが、申し訳ございませんが、個別の案件に関する具体的な捜査状況を第三者に教えることはできません。ご理解いただきますようお願いいたします。
 また、路上販売が安値というだけで盗品を販売していると憶測し、写真をSNSに投稿する行為は、正規の業者であった場合、名誉毀損等の犯罪が成立することも考えられますので、安易に行うべきでないと考えます
 不審な路上販売に関する情報は、SNSではなく110番通報や山梨県笛吹警察署、日下部警察署がHP上に開設している情報提供BOXに提供していただけるよう、SNS上で発信していただけるとありがたいです。
 今後とも、警察の活動にご理解、ご協力をよろしくお願いいたします。
 山梨県警察本部総務室総務課 広聴・広報担当

当然ながら捜査状況そのものは個人に教えてくれるものではないので良いのですが、ただやはりSNSに投稿する情報で「盗品との憶測」は名誉棄損が成立する可能性があるので相当の確信がない限りはやらない方が良い。そして次はJAふえふきの返答です。

JAふえふき販売部販売課です。
メールをいただきありがとうございます。
内容を拝見しました。
高山青果という販売業者につきまして、
以前は取引がありましたが、現在は取引しておりません
ので
購入先等に関しましてはJAとして把握しておりません。
情報をいただきありがとうございました。

JAふえふきの返答から高山青果が実態ある卸先であったことが理解できます。ただ現在は取引していないとのことであり、これだけだと盗品の可能性はまだ拭えません。そして次が最後となりますが、JAフルーツ山梨からのメール返答。

お問い合わせの件につきまして、当JAとしまして高山青果につきましては承知しております。
また、春日居につきましても生産部会も承知の上出荷を行っております

御忠告いただきありがとうございました。
また何かありましたらご連絡いただければと思います。
よろしくお願い致します。
JAフルーツ山梨
販売部 直販課

JAフルーツ山梨は高山青果について承知しており、春日居(荻原農園がある場所)についても生産部会が承知の上で出荷しています。以上の事から、高山青果がJAから正規のルートで桃を入荷し、路上販売していることは確実と言えるでしょう*6。なので桃を販売してる「高」の屋号を使用した軽トラの写真を晒して盗品と騒ぐのは名誉棄損などの可能性もあるし、単純にデマと言えるので止めた方が良いです。今年の情報の過熱ぶりはかなりのものでyoutuberなどの突撃など実害レベルといえるものが出て来てます。youtuberとかはアクセス数稼ぎ(金銭目的)でしょうけど、確証や裏付けのない「怪しそう」で「犯罪」を結び付け、そこからの憶測を含む過度な注意喚起と一部による行動、これってまさに「正義の暴走」ってやつではと。ちなみに「日本農業新聞「農家の特報班」(のうとく)」がこの件について取材をしているようなので、この記事以上に精度の高い記事が今後出てくるかも。


【ちょこっと追記】
今回の話の筋とは関係ないのですが道交法関連の反応があったので参考となりそうなページのリンクでも。文面通りに解釈するなら違法ですが、現実的な運用としては悪質であったり、幾度の注意をされて従わなかったら逮捕されると言ったところかなと。

駅前や路上で果物販売…警察や自治体の許可が必要では? 弁護士に聞く
https://otonanswer.jp/post/129830/

Q.移動式販売業を行いたいのですが、道路使用の許可は出るのでしょうか?
https://dourokyoka.com/qanda/#9


【さらに追記】

www.agrinews.co.jp

日本農業新聞の記事がアップロードされました。

特報班が地元JAにも確認すると、「20~30年前からあり、JAの出荷農家もよく利用している業者」との証言を得た。
 このJAは、桃の糖度や外観を基に四つの等級に選果。傷が付いた桃や、まだ硬いうちに収穫した桃は規格外で、ジュースなどの加工原料になることが多い。業者は、こうした桃の一部を引き取っているという。
 特報班は8月、この産地を訪れ、業者の集荷施設を突き止めた。桃畑や住宅に囲まれ、“屋号の入った黄色いコンテナ”が山積みになっているのを、敷地外からも確認できる。

取材には非協力的なようでやはり企業としての実態はよくわからないのが実情ですが、ただ少なくとも盗品の桃であるという可能性は限りなく低いでしょうねと。



■お布施用ページ

note.com

*1:駅前の軽トラ桃売り(この時は5個300円)

*2:例えば「購入済。産地直送7個300円、トラック販売の桃@麻布十番」、「桃7個300円~が…」、Twitterでも目撃情報多し

*3:https://twitter.com/hong2010kong/status/1556239022930141184

*4:https://twitter.com/hirox246/status/1543909745198866432

*5:2023年までの「桃 盗品 OR 軽トラ OR 7個300円」でRTが100以上のツイート群

*6:販売される全ての桃が正規品である証明は出来ないが、それを言ったらどの店も傍からの立証は不可能なので考えないものとする

132人の日本人傭兵がウクライナで爆弾を受けて全滅したってのはソースがない中国発のデマじゃないかな


https://twitter.com/chibachina5/status/1689611015699456000

 コミュニティノートが付いていますけど、そもそも元記事に「注:記事内のイラストは内容とは関係ありません、また画像はネット上から引用したものです、権利侵害等がありましたらご連絡の上、削除して下さい。」(※自動翻訳)とあるので、写真が2008年でもおかしくはないですね。指摘としては精査が甘いかなと。それはともかく「ウクライナに3000人の日本傭兵が~」というデマ情報をはじめとして、これもおそらく中国発と思われる自衛隊傭兵デマの一種だと思われる。
 まず元記事は個人?が書いた「132人被团灭!日本雇佣军在乌克兰战场上的情况确实令人惋惜」というもので大まかな内容は以下の様なもの。

ロシアの最前線メディアによると、8月7日、ウクライナのリマン地方にある廃墟と化したホテル・キャンプが、ロシア空軍と宇宙軍の猛攻撃を受け、正確なサーモバリック爆弾がキャンプに命中し、即座に破壊されたという。 この収容所内には日本の旭日旗が掲げられていた。
報道によれば、132人の退役自衛隊員からなる傭兵部隊はウクライナに到着したばかりで、休息と現地での特定の戦闘任務を待っていた。 しかし、彼らはポーランドを通過している最中に、ロシア空軍と宇宙軍による壊滅的な攻撃を受けた。
この情報はロシアの最前線メディアの報道によるもので、具体的なメディア名は記されていないが、報道の内容と状況から、その信憑性を暫定的に確認することができる。 しかし、他に独自に確認された情報源がない以上、この情報はまだ慎重に受け止める必要がある。
この事件に内在しているのは、日本の傭兵のウクライナへの移動がロシアに察知され、壊滅的な攻撃を受けたという事実であろう。 ロシアとしては、この日本からの傭兵部隊を脅威とみなし、容赦なく粛清したのかもしれない。
※自動翻訳

この報道(?)、ロシアの名称がわからない前線メディアがソースという、もはやソースとはいえないものがソースとされており、実は記事自体には「この情報はまだ慎重に受け止める必要がある」という逃げの様な記述もあります。ところでこの「132人に日本人傭兵がサーモバリック爆弾で死んだ」という話ですが、これ2月には「176名の日本人傭兵がサーモバリック爆弾で死んだ」という情報も流れているので流れとしては同類。なおこの記事だと8月7日が事件が起きた日ですが、8月10日にツイートには8月5日と記述している人がいたりと日付が安定してない*1。さらに8月13日の記事では12日の事件で死亡は144名、そして根拠を日本のメディア報道としている記事まであってかなりの混乱状況になっている*2。しかしながら上記含めてどの記事にもロシア、ウクライナ側いずれのソースもないというお粗末なもので、そしてロシア語で検索する限りその様な記事は存在しません。記事にある「红利曼」(リマン)という地区を入れて検索しても存在しない。要は基本的に中国圏のみで流れている情報と言えます。例外として英語圏で唯一記事にしているのがIMEDIAというサイトに「Really fierce! 132 Japanese mercenaries were hit by missiles as soon as they entered Ukraine, and instantly disappeared」という記事がありますが、中身そのものは最初に挙げた記事とほぼ同じすし、8月12日と遅いことから中国圏の影響を受けた可能性ありですし、これ以外のサイトではやはり見当たらない。調べた限りで一番早い初出は8月8日の16時に投稿された個人による記事ですが、こちらはロシアのメディアがソースとさえ言っていません。8日は掲示板に扇情的な投稿が見られますし*3、中国で流行り出したのは8日であることがわかり、そしてどうにもその後に中国圏ではそれなりにウケている模様。

以上のものはあちらでの動画サムネイルの「一部」ですが、このほかにもゴロゴロあるのが実情。ショッキング且つ一部層の愛国心を満足させる良いコンテンツと言えるのでしょう。
 ちなみに冒頭の記事にはもう一人の日本人傭兵「ハル」が映っています。

この方は元ヤクザという異色の経歴を持つ傭兵で、日本の報道でも彼を扱った記事が少なからずあったりします。ただ中国圏などで顕著ですが、アフガニスタンとこのハル氏の画像はある意味でネットミーム化というか使いやすい「素材」扱いされている様で、つまりこの記事での写真使用はそういう文脈でしょう。
 ウクライナにおける日本人傭兵の実際の数は不明ですが、例えば2022年9月時点ではロシア国防相は9人としており*4、日本人義勇兵に参加している人物が6月に語った数は「知る限り」で10名*5。これらの事から考えると100人以上の日本人が集団的な傭兵部隊として動いていることはあり得ないレベルでしょう。またデマを真に受けるならロシアが爆弾が落とされたそうですが、ロシアからしたらこんなに日本を非難するおいしい情報はないわけで、何故それを放置してるんですかね……、と。まあ、デマですよね。



■お布施用ページ

note.com

ファミマの看板下にある「消えた女性のピクトグラム」は紫外線で消えただけだと思うよ


https://archive.is/AQuYS

 この記事は検証自体がネットストーカー的な話で怖さがあったりますが……。まずこのファミマ自体は該当アカウントの「実家の近所」だとのこと*1。では、ということで「実家」でキーワード検索すると浦安市であると判断できます。で、さらに実家の近所の店についてのツイートがあり*2、それが浦安の堀江6丁目。で、ここまで来たらあとはグーグルストリートビューでしらみつぶしにしていけばいいわけで、そしてその該当店舗が「ファミリーマート 浦安海楽店」となるわけです。


https://goo.gl/maps/TAmUC5aidKdLVrJV8

さて、上記のストリートビューは2022年9月の時点のものです*3。うちゃか氏はおそらくの文意としてLGBT理解増進法などの時によく見られた「消える女子トイレ」的な話があると思われますが、去年時点で消えてるならこの話には関係ない。というかこの看板、よく見ればわかりますけど「赤い女性」のピクトグラムが日光(紫外線)によって色あせた可能性が高いですよね。裏側だと残ってますし。


https://goo.gl/maps/jzGTbq1xtdZp5xjb8
※上記は2023年2月時点の画像

とすれば、好意的に考えればうちゃか氏は「うっかり」消えた片面だけを見て裏面を見ずに「ピクトグラムが消えたイコール男性用トイレだけになった」というツイートをしたということになりますが、それはちょっと考えにくいですね。少し歩けばわかりそうなものですし。だから意図的なんでしょうね。それと文面を見る限り「驚き」的な反応ですがコンビニなので容易に店内の確認ができるにも拘らず店内のトイレを確認していない。ここら辺の杜撰さを見ると「狙った」感が強い。ちなみに口コミを見ると1年前まではトイレがそもそも使用できなかったらしく、運営が変わった後は使用可能になったとかあります。女性用トイレがない、という口コミはとりあえずない*4
 あと、本題とは関係ないけれど身バレ、近所バレしたくない人はないように気を付けてね


【追記】
 現地に行けないことはない場所なので行ってきた。

うちゃか氏の写真は場所が特定されないように周りの標識などをおそらく意図的に外していると思われますが、看板とその柱の色や形、電線の配置から上述した店舗で間違いないでしょう。そして裏に回れば女性のピクトグラムは存在しますし、店舗に入れば当然ながら男女共用の形で「ご自由にお使い下さい」とあります。やっぱり女性トイレが使えないのはデマと考えるのが良い。で、だ。


https://twitter.com/sayakaiurani/status/1685491440775020544

この追記記事を書いてる途中にうちゃか氏が該当ツイートを削除しました。まあ、デマだったんでしょうね。さすがに特定されるとは思わなかったのかもしれませんね。一つだけ申し訳ないのは、こっちがとった手法はネットストーカー的で現場に訪れればうちゃか氏からすれば「怖い」でしょう。こっちだってやられたら怖いし気持ち悪い。その点については申し訳ない。でも、うちゃかは上記の様に「女性トイレが使えない」というツイートに同意して、さらには「理由は防犯上の理由」だと書いている。誰に聞いた? うちゃかのツイートは7月30日、こっちが現場を訪れたのは31日。その1日の間にファミマのトイレ運用がうちゃかのツイートが発端で変わったとでも。それなら世の中を少し動かしたかもしれませんが、それは常識的に考えてあり得ない。というか歩けば女性の赤いピクトグラムが消えていない看板が存在し、そして店内にも男女のピクトグラムが存在していたはずなんですよ、7月30日に。店員に聞いたであろう、7月30日に。だから一番可能性の高いのはファミマの色あせて見えずらくなった女性の赤いピクトグラムの看板を見たうちゃかがこれは使えると思ってデマカセを言った。そしてデマカセだから看板だけを映すに留まり、もしも事実であったならば一番インパクトがあるであろう店内の女性ピクトグラムが排除されたなり、注意書きなどの写真を示せなかった。


https://archive.is/Vvxl0

正直、現場訪れた身としては結構オコですオコ。「え!そうなんですか?」ってあの写真の位置から歩けば裏面に色あせてないピクトグラムが見えますし、店員に話を聞いた話と矛盾してません? 店内のトイレは眼中になかったんですかね。不思議ですね。
 真面目な話、特定がバレなかったらこの方、該当ツイート削除したのか疑問すらあります。そしてこのデマツイートの意図ってLGBT関連のバックラッシュとして存在する「女性トイレが排除される」というモラルパニックの一つを利用していますよね。公園などで女性トイレがなくなるという話題はNHKの報道で法律の問題などがあり*5、施設によっては過渡期であることは事実と言えます。施設の面積などから議論すべき部分はある場所も存在するでしょう。ただ今回のファミマは違う。現実にない問題だ。今あるモラルパニックに刺激を与えるためだけに用意したデマとしか思えない、というか勘違いでは到底起こるとは考えずらく「狙わない」と難しい部類の内容。「女性トイレがなくなる」、それは「誰」のせいか、「何故」か、というのを狙った煽動の類。もしも今回コロっと騙された人は自身の脆弱性について考えた方が良いと思いますよ。


【追記その2】


https://twitter.com/sayakaiurani/status/1685918025592225794

 そっかー、裏を見てなかったんだね。おっちょこちょい~だね。って、なりはしないよ。


【8月1日追記】


https://twitter.com/sayakaiurani/status/1685932145968316416


https://twitter.com/sayakaiurani/status/1685932806655074305

 本人からの弁明が出てたので最後に付けておきます。看板の片側だけを見て裏側を見ずに、店外の店員に話を聞いて「いろいろ」という反応を聞き出して、店内を確認せずにその場を後にして情報を発信した、というのが事実ならばかなり迂闊、軽率であると言えるでしょう。ここでその「迂闊さ」が事実であったかどうかまでもは踏み込むことも踏み込む気も最早ないですが、その迂闊が事実だった場合であっても今回のこれは「デマ」であること、またこの迂闊で軽率な行動の背景や動機には理解増進法などへのバックラッシュが影響していることは明白です。当初の反応から見てもそれは否定できないでしょう。そしてそのデマがモラルパニックを刺激したのは変わらずであり、そこは十二分に反省してほしいですね。



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「なりすまし」ってネットにおいては効果的な世論誘導方法だなと


https://twitter.com/kamekamesoda/status/1684257842407288832

他人が調べた情報にただ乗りの内容です。まずこの画像の全部は次の様なもの。

もともとは「憲法9条改悪阻止 総がかり行動委員会(9jyoukaiakusosh)」というアカウントからの2015年6月の発信。画像下部からも作成者はこのアカウントによるものだと理解できる。

ただ既に当時以下の様な指摘はあってアカウントもとっくに削除済み。


https://twitter.com/demabuster/status/607917161235910656


https://twitter.com/demabuster/status/607918718576816128

なお該当アカウントは2ツイートのみで削除したとあるけど、その内容はtogetterを見る限りは以下の二つ。


https://togetter.com/li/832330

アカウント削除やその後現実に運動していなことを鑑みればこの「行動委員会」は実体のない架空団体。背景としては当時話題であった安保法案があり、その反対派になりすましてウケやすい「主張の馬鹿らしさ」を表に出した偽ポスターを作成して「左派」を馬鹿にして運動を毀損させるという手法といえる。2ツイートのみで終わったのは初動だけ稼げばよいと思ったのかもしれない。ただネットにいる浅薄な人の中にはこのなりすましにまんまと騙される人が多くて2023年現在も生き延びてる。


https://twitter.com/onoderamasaru/status/1005571694453329921


https://twitter.com/netsensor1/status/1089806629090910209

なおこのポスター、いつの間にか一部だけがトリミングされて「安保法制」部分や「憲法9条改悪阻止 総がかり行動委員会」の部分などが削除され若干情報が追いにくくなっている。それが「何時」からなのかまでは深追いしないけど、この状態で何故か今年になって何度か流行ってるという。


https://twitter.com/Bonjour4145/status/1672436062382338048


https://twitter.com/mattariver1/status/1680185423530983427


https://twitter.com/sakamachi21KN/status/1680296529645666305

で、冒頭のツイートに繋がると。この調子だと来年以降のどっかでまたバズって「左派」や「共産党」に対して憎悪や冷笑を育んでいくのかもしれない。なりすましで育まれる憎悪。コロっと騙されてるんだよな。



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