電脳塵芥

四方山雑記

『この世界の片隅に』のその後としての『この世界の片隅で』(岩波新書)

この世界の片隅で (岩波新書 青版 566)

この世界の片隅で (岩波新書 青版 566)

 こうの史代による『この世界の片隅に』原作のアニメ映画が異例のロングランヒットとなったのも今や昔になりつつも、しかし12月には原作からこぼれたシーンなどを追加した『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が上映される。『この世界の片隅に』はこうの史代による独特のタッチで戦中をほのぼのとコミカルに、そして優しく感じられる作品であり見る者にとって居心地よく描かれている。その居心地の良い世界は8月の周知の暴力によって効果的に機能して強い感傷を抱かされるし、原作においてはその居心地の良い世界は(過度な曲解をする人間もいるが)暴力によって成立していたことも示唆されている。でも、あの作品はその後の暖かい日常を思わせながらも1946年で物語は終わる。


この本の名前を『この世界の片隅で』と決めました。それは福島町の人々の、長年にわたる片隅での闘いの積み重ねや、被爆者たちの間でひそやかに培われている同じような闘いの芽生えが、この小篇をまとめさせてくれたという感動によるものです。
(まえがきより)

 『この世界の片隅で』は1965年に8人の書き手によって書かれた広島のその後の話だ。河岸に作られたバラックの集まり、部落、胎内被曝の子どもたち、両親を失い精神養子となった子どもたち、沖縄の被爆者など、扱われる話は多岐にわたる。そしていずれもそこには生きる人々の闘いが描かれている。河岸のバラックに生きる在日朝鮮人、部落に生きる人間は団結の可能性を語るし、胎内被曝の子を持つ親たちは訴える。運動をするものに投げかけられる「アカ」は当時の社会状況と運動そのものの困難さを思い知らされる。原爆症の人々の生活が芳しくない事などはどの篇でも容易に感じ取れる。そしてその芳しくない中で各々の闘い方で彼らは生き、育てる。
 『片隅に』の方はある家族に焦点を当てた愛でられる物語だ。『片隅で』はあの時広島にいた種々の人々のその後の物語であり、愛でるような内容ではなく、時に読む者に怒りを伴なわせるかもしれない。『片隅に』は闘わない、戦前という社会に順応して生きていく。『片隅で』は人々による様々な闘いが描かれている。その相手と方法は様々だが、1945年の爪痕と今や忘れ去られそうになっているであろうその後がありありと描かれている。
 1945年その近辺の物語や特集は数多くあれど復興という物語以外の戦後の地続きとしての50年代、60年代はあまり語られなくなってきているように思う。45年が日本の大きな区切りであることには違いないが、その後にも多くの人の戦争と闘いがあったはずだ。優しく多くの人が魅了されたであろう『この世界の片隅に』の世界の先にもそれはあったはずで。あの物語の先にあったかもしれない世界を『この世界の片隅で』を読んで感じて、知ってみるのも良いのではないかなと。

フィリピンの対日感情について

nou-yunyun.hatenablog.com

 っていう記事の派生です。上記記事は90年代のフィリピンの教科書から第二次世界大戦時期の日本はどう書かれていたのかというものですが、この記事は所謂「親日」的な現在のフィリピンは何処から端を発するかというものです。そもそも「親日」、「反日」という安易な二分法、反日である場合にはどちらがその責を負うのかみたいな不毛な議論もありますが、そこら辺は脇道なので置いておきます。

 前提としてこの記事は太平洋戦争におけるアジア「解放史観」へのカウンター的要素を含みますので、まずフィリピンの独立周辺の過程を記述しておきます。

◆戦前の状況 独立への動きなど

 1936年にアメリカでダイディングス・マグダリー法(フィリピン独立法)成立。10年後の完全独立を約束され、フィリピンにコモンウェルス政府(第一共和国)が樹立。マヌエル・ケソンが初代大統領となる。
 フィリピンではこの時点で欧米的教育を受けた政治経済エリートが形成、議会政治も学ばれ、ナショナリスタ党という政党も結成されています。この時点では一党体制ですが、少なくとも独立に向けた民主主義的な仕組みが構築されていきます。また、実際の政治に対しても、

すでに1920年代はじめには政府官吏の95%がフィリピン人となり,自治政府発足後は,米国は大使館規模の高等弁務官事務局をもつにすぎず,政府の民族化はほぼ完成していた。
(中野 聡『アジア太平洋戦争とフィリピン』 )

という様にほぼほぼフィリピン人で政治が出来る体制になっており、独立後の政治体制基盤が完成しています。反米で即時独立を求めるグループの反乱(※1)なもどありましたが、この体制が維持されたまま日本がフィリピンへと侵攻する事になります(※2)。
 この時期の日本はその後の第二共和国大統領となるラウレルを始めとしてフィリピンとの交流を深めています(※3)。ケソン大統領は1937、38年に訪日し、

宇垣大臣「ケソン」比島大統領会談要旨
1938.7.8. 於 大臣官邸
大臣....唯一言茲ニ申述度キハ、比島カ完全ナル独立ヲ為ス暁ニ於テハ中立保障ノ問題モ漸ク世ノ中ノ問題トナルヘク、其ノ際日本ハ極メテ好意的考慮ヲ加ヘテ善処シ度キ所ナルニ付、此ノ点ハ十分御含ミ置ヲ戴キ度シ
 
大統領....今回ノ旅行ノ結果日比間何等恐ルルモノナキヲ知リ甚タ愉快且ツ満足ト考フル次第ナリ....大統領任期終了(*註:1941年、実際には同年11月選挙で再選された)後ハ一比島市民トシテ自己ノ個人的勢力ヲ以テ日比親善関係ノ基礎ヲ固ムルニ終世ヲ捧クル心組ナリ....
(外務省記録L.1.3.0.2-9)
(中野 聡『史料集』)

以上の様な親善的な態度を表しています。宇垣大臣はここで”比島カ完全ナル独立ヲ為ス暁”と言っているのはコモンウェルス政府が独立前提政府であることを当然承知の上での発言でしょうし、逆にケソン大統領の親善さは不侵略への牽制ともとれるでしょう。いずれにしてもこの戦前のフィリピンや日本の状況を鑑みても「解放史観」は成立しえません。

※1 反乱組織のリーダー「ラモス(Benigno Ramos)」はその後に日本に亡命、戦争時に帰還しガナップ党を結成、積極的対日協力勢力となります。
※2 政治体制が構築されていたために侵略後にも日本軍は新たに体制を刷新するのではなく、その体制を利用することを選びます。
※3 これは民間も同様で多くの日本人がフィリピンに出稼ぎに行き、フィリピン人雇用者の下働きとして働く日本人なども多くいました。なお、移民者数が多い為にフィリピン側が移民数制限をしたことによる摩擦も生じています

◆戦中について

 戦中については短く書きますが、コモンウェルス政府のケソン大統領は日本とアメリカのうち、アメリカを選択してアメリカに亡命。ケソンは「国民の苦難を和らげるため努力せよ」と現地に残った政治家などに指示しており、現地住民や日本の傀儡政権として樹立されたラウレルを大統領とする第二共和国政府も必ずしも日本軍に協力的ではありません。日本統治下に出来た「フィリピン独立準備委員会」の頭文字である「PCPI」を皮肉ってもじり”Please Cansel Philippine Independence”(どうぞフィリピン独立を撤回していただきたい)というエピソードは日本統治とフィリピン人の意思の乖離を表す象徴的な話かと。
 被害として語られるものといえばバタアン死の行進、レイテ島、マニラ戦、従軍慰安婦憲兵、飢えetcがあり、フィリピン側の死者は約111万人とされています。特に象徴的に語られているのはマニラ戦。4週間に及び市街戦で死者は約10万人、日本軍によるものが6割、アメリカ軍によるものが4割とされています。
 それとフィリピンは日本統治前には輸出入は、

突出して宗主国への貿易依存度が高い反面,域内経済からは孤立していた(1936-40年平均で,米国への輸出依存度78%,輸入依存度67%;日,中,東南アジア向けは,あわせてそれぞれ9%,18%にすぎなかった。U.S. Congress, 79th 2d sess., Appendix to Hearings on S.1610, USGPO, 1946, p.220.)。
中野 聡『アジア太平洋戦争とフィリピン』

以上の様に約7割をアメリカに依存している体制であったため、日本統制下による「強制された自立」ではその依存体制が当然ながら瓦解します。この依存は植民地経済の弊害ではあるものの日本がその依存分をカバーできてきませんし、占領末期での民間食糧を略奪、現地住民の飢えにもつながる様な事例でしょう。日本の侵略統治はお粗末です。
 この時期の日本に好印象を持つフィリピン人はいないでしょう。

◆戦後 フィリピンからの批判や賠償などについて

 戦後すぐには投降した日本軍捕虜に向かって石を投げるフィリピン人という話がある様に戦後直後は非常に対日感情は悪いものでした。この影響はその後も続き、節目節目でフィリピン人による強い日本批判が見受けられます。例えば、1951年9月サンフランシスコ平和条約会議 フィリピンのカルロス・ロムロ大使

フィリピンは日本によって徹底して破壊され耐えがたい苦痛を与えられました。私は一人の人間として、フィリピン国民の日本への態度がこうしたことに伴う感情によって左右されない、とはとても言えないのであります
(太田 和宏ほか『日本とフィリピンにおける戦争に関する社会的記憶の比較』 )

例えば、東京裁判ではフィリピン政府から派遣されたデルフィン・ハラニーリャ

判決内容は甘すぎ、抑制効果もない。侵された戦争犯罪に見合うものでもない
(同上)

という様に厳しい批判の声をあげており、この頃の日本非難の急先鋒がフィリピンです。マニラ戦などは証言が多く、裁判資料としても多く使用されています。裁判上では強引な面もあって誤審もあったなどの批判点ありますが、とはいえ日本人側もこれらの声を聴きフィリピンの対日悪感情を認識しているはずです。
 また象徴的な話としては日本人を父親に持つ日系2世でフィリピンに残った子供の中には日本名をフィリピン名にして「身元隠し」をして非難を免れようとする事例があります。当時「日本」というものがどういう印象を持たれていたかを示しています。

 1956年には4年に渡る賠償交渉が成立、フィリピンは物的・人的被害は併せて80億ドルと試算しましたが、賠償額は5億5000万ドル、経済協力借款2億5000万ドル、支払期間20年に落ち着きます。なおこの賠償には当時の野党である社会党から交渉経緯などの批判点もありますが、その負担額の多さも批判されています。しかしながら当時の自民党は、

小滝彬
フィリピン側の方でこの程度で折れたということに対しては、これは満足しなければならない。フィリピン側のこのステーツマンシップに対して敬意を表しなければならないというように考えるものでございます。(中略)当時八十億ドルというものを要求しておる。事実フィリピン側が受けました損害を考えますときに、こうしたフィリピン側の要求も、全然全く根拠のないものではないということも、当時の実情を知っております私は、これを常に頭に置いておるのでありまして、大体妥当なライン
第24回 参議院 外務委員会 20号 昭和31年06月03日

という賛成答弁をしている様に当時を知る人々にとってはそのフィリピンの被害は自明のこととして受け入れています。この賠償自体には日本側の商売が絡まり、その後に東南アジアへの市場、ひいては日本の経済成長に寄与したという「賠償=商売」、フィリピン側ではその賠償を契機とした新エリート層の形成などの側面がありますが、とはいえこの賠償をしたという事実はフィリピン側にも根付いています。
 ちなみにこの時分のフィリピンは日本傀儡の第二共和国からコモンウェルス政府の流れをくむ第三共和国政府(※4)となりますが、戦後の選挙では対日協力した人間も選挙に勝利しています。これらは戦前の地元エリート層が日本統治下でも日本と抗日ゲリラいずれにも通じる等をしているという下地があり、その権力を維持、戦後にも一部を除けば崩れる事がなかったためとされます。つまりは対日協力の是非は選挙の争点にならなった。その極北が第二共和国の大統領であるラウレルが日本との賠償交渉においても前面に出てきており、交渉に影響力を持っていたという事例でしょう。
 1960年には「日比友好通商航海条約」が両国政府によって署名されるもののフィリピン上院では根強い日本への警戒心から批准されず、10年を超える「棚上げ」、1972年3月には上院は批准拒否を決議されています。この条約はマルコス大統領(※5)による強権で1974年に批准が行われますが、60~70年代前半にもまだ日本への不信があった事が伺えます(※6)。

※4 今のフィリピンはマルコス政権を経ての第五共和国になります。
※5 マルコス大統領は議会の承認のないまま日本企業のフィリピンでの営業活動を認めたりしていますが、日本のODAの贈収賄汚職問題などの金銭的な問題、「マルコス疑惑」があります。なので別にマルコスが親善のために批准したという訳ではないでしょう。
※6 戦争の記憶以外にも経済侵略などの懸念もあったでしょう。ただ、ここら辺は資料が見当たらずに上院議員が具体的に何に反対したのかというのは良く分からないところがあります。大筋は日本への不信なのも変わりようもないでしょうが。

親日感情の情勢要因について

 何てかんじに6、70年代くらいまでは対日感情が悪いことは読み取れますが、何で対日感情が所謂「親日」と呼ばれるほどになったかというと、複数の要因があるとされます。

 まずは太田 和宏ほかの『日本とフィリピンにおける戦争に関する社会的記憶の比較』からです。

1)一般市民と日本軍の峻別
 フィリピンに戦争を持ち込んだのは日本「軍」であり、日本人(一般市民)そのものは悪くはないというものです。普遍的といえるであろう、戦争=悪という価値観に基づいたものといえると思います。ただ、つまりは「軍」が悪いのであり、日本軍を擁護するような論調があれば、この許しは瓦解します。また似た様なもので日本人と日本「国」を分ける方もいます。

2)戦後賠償が完了している
 賠償がされ、けじめは着いたからというものです。ただし戦争経験世代には賠償が不十分であり、特に個人レベルでの賠償がされていないとする方々もおり、賠償が果たして完全なものであったかという議論はあり得ます。また賠償が日本の商売に結び付いていたことを鑑みれば、その点での批判もあり得るかと。

3)戦争経験を学校などで語る場の少なさ
 上記論文では戦争経験世代の5人に聞き取り調査をしていますが、何れも学校などの公的な場でその経験をしゃべった事はないといいます。これについてはサンプルが5人と少ない為に、その5人にそういう場がなかっただけの可能性もありますが、語りとしての記憶の「継承」は避けている可能性はあるでしょう。

4)博物館の展示、戦跡などでの被害への言及の少なさ
 フィリピンでの戦争に関する展示は当時のフィリピン人の勇気やその当時の生活などに着目する点が大きく、日本の侵攻や被害に関する情報が少ないとしています。歴史的経緯、テーマ性は薄く、歴史の継承性も薄そうに見受けられます。ネット上のマラカニアン博物館 ではマニラ戦に触れたりはしていますが、これが実際の博物館でもなされているかは不明です。
 また原爆ドームなどを始めとして戦績は記憶の継承に役立ちますが、フィリピンにおいては戦跡は観光地化などはされず、保存もそこまでされずに放置気味だとされています。シンボルになったであろう戦跡の放置は忘却には役に立つでしょう。

5)キリスト教徒としての「許し」
 フィリピンはキリスト教国ですが、それ故に「許し」をしたことを誇る大学生の話が出ています。後述する「祈念碑メモラーレ・マニラ1945」においてもキリスト教が関わっていますし、宗教的要因も無視できないと考えます。

6)経済関係などの「現在」の重視
 人の行き来の多い隣国ですし、賠償の話にも絡みますがODAなども多額、種々の支援があって、現在が良好な経済関係であるならというものです。また、そこにはフィリピンが戦後に共産主義ゲリラ、マルコスの独裁、クーデター、大地震などなどの困難があった為に日本の経済支援を受けるのが「得」であったという面も指摘されています。また現在においても多数の事件などが起こっている際に過去の問題をどこまで語るのか、という面もあるかと。

7)植民地メンタリティの存在
 フィリピンは16世紀からの4世紀の400年間植民地支配をされており、日本はそのうちの3年間に過ぎないという相対的な視点です。この考えを述べたのはフィリピンの大学生ですが、若い世代である程に教科書で学ぶ際には日本統治下は数ページの歴史でしかなく、そういった忘却が訪れている事が伺えます。勿論、若くても肉親に聞くなどしている人間は違うのでしょうが。

 以上で太田ほかからの引用は終わりです。賠償などは分かりやすいですが、注目すべきはフィリピンにおいては記憶の継承がそこまで重要視されていないという面が伺えます。博物館、戦跡、教科書の問題など。日本もそうですが直接的に経験する世代以外は何らかの手段で情報を学ばなければ、それについての感情を強く持ちえません。フィリピン政府が作為的に記憶の継承を疎かにしているのかは不明ですが、少なくともフィリピンにおける「忘却」が親日へと繋がっている可能性はあるかなと。
 さて、次は中野聡HPからの引用です。

8)遺骨収集による人との交流
 1960年代半ばまでは両国の人的交流は低調でしたが、1964年の海外渡航の自由化(外為規制の緩和措置)によって外国旅行者が増え、それはフィリピンにも当てはまります。またフィリピンでの日本の戦没者は50万とされており、戦没者遺族や旧軍人を中心とする生還者が遺骨収集や慰霊の旅が行われます。これによってかつての加害者側と被害者側の直接的な交流が増加します。この交流の際には日本側では謝罪の言葉を用い、フィリピン側はそれを許すという国民間での「謝罪と許し」の関係が構築されます(※7)。
 慰霊の旅に出た日本人の多くはフィリピンで厚遇されたという経験談が多くあります。後には遺骨、遺品売買などで問題となった経済的な観光要素としての「慰霊の旅」をもてなすフィリピン側、排他ではなく厚意を示す事により互恵的な関係構築を目指したという点もありましょうが、とはいえこの60年代半ば程から市民レベルでの対日感情の変化は見受けられます。

9)キリノ大統領の恩赦や皇太子・皇太子妃夫妻の訪問
 象徴的に語られるのは1953年のキリノ大統領による服役中日本人戦犯の恩赦・減刑と日本送還、それと1962年の日本の皇太子夫妻の訪問です。
 キリノ大統領の話は有名で自身の家族も日本軍の被害にあったものの戦犯に恩赦を与えたというものです。これにはキリスト教的価値観や恩赦の見返りとしての経済支援なども考えられますし、またこの時点ではフィリピン国民の反対があった事には留意が必要です。
 皇太子夫妻訪問の際には10万人の市民によるお出迎えや「平民の妻 美智子」に対するミチコフィーバーといえる好意的感情、噂されたデモの未遂など、確かに終始歓迎ムードといえそうです。現地の新聞も概ね好意的であり、成功裏に終わった訪問と言えます。ただし新聞には好意的な態度だけには終わらず、戦時を振り返る論調も存在します。また「朝日新聞」1962年11月10日付の記事に「もし美智子妃がたのむなら、通商条約も批准してあげよう」と言ったフィリピンの国会議員が報じられていますが、この通商条約が10年以上後に締結されたことを鑑みる必要があります。一つの象徴的な事例であるには違いないですが、根本的な転換ではなくあくまでも「象徴的事例」であったことに留意が必要です。この訪問時に皇太子による謝罪の言葉の様なものもあったとは言い難いことにも。

10)数々の謝罪の言葉
 結構謝罪の言葉が述べられてます。

・フィリピンを訪問した中曽根首相

過去の戦争で貴国と貴国の国民に多大な迷惑をかけたことは極めて遺憾と思い、深く反省している……みなさまの友情と寛大さが温かければ温かいほど日本人はさらに深い反省と戒めを心がけなければならない
(『朝日新聞』1983年5月7日、朝刊)

・アキノ大統領が訪日した際の昭和天皇

「日本人が第二次世界大戦中にフィリピンに対してかけた迷惑について、おわびを言いつづけ、(アキノが)そのことは忘れて下さいと言ったが、天皇はそれにもかかわらず、日本人がフィリピンに強いた苦痛を日本が償うことを望んでいると述べた」
(Washington Post, November 11, 1986, p. A23.)

など、首相や天皇による謝罪発言は大きいでしょう。また日本ではほぼ話題にならなかったそうですが、50周年式典時には、

・ラモス大統領と同席した日本大使館代表(松田大使の代理)が「深い悔悟(deep remorse)」という言葉を使って謝罪。新聞記事にもなる。
・日本のカトリック教会を代表して白柳大司教が謝罪。

などなど。幾度かの立場ある人の謝罪が成されています。これらの謝罪の数々は重要ですし、蒸し返す様な言説も(おそらく)なかった(※8)ことも対日感情の好転に役立っているでしょう。

※7 全般的には友好でありつつがなく慰霊の旅が終わった事が多い模様ですが、ダバオを訪れた日本人の墓参団が宿泊していたホテルにナタを持った事例や慰霊碑が壊された事例があります。必ずしも好意一辺倒で終わったわけではありません。
※8 日本の歴史教科書が問題になった際、フィリピン側にもそれを問題する声があった様ですし、フィリピンの感情を害する言説が皆無だったわけではありません。


◆最後に

 フィリピンの対日感情の好転は複合的要因が考えられます。謝罪の言葉、経済的要素、植民地の歴史、宗教的観念、人的交流の増大、記憶の継承のおざなりさ、時代による忘却などなど。何が決定的要因かは私には分かりません。ただ最後に「忘却」についてを少し。

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 写真はマニラ戦のモニュメント「祈念碑メモラーレ・マニラ1945」です。以下がそこに刻まれた碑文です。

「罪なき戦争犠牲者の多くは名も分からず、人知れず共同墓地に葬られた。火に焼かれた肉体が廃虚の灰と化し、墓すらない犠牲者もいた。この碑をマニラ解放戦(四五年二月三日~三月三日)で殺された十万人を超える男と女、子供、幼児それぞれの、そしてすべての墓石としよう。われわれは彼らを忘れておらず、永遠に忘れはしない。彼らが、われらの愛するマニラの神聖な土となり安らがんことを願う」
日刊まにら新聞『祈念碑メモラーレ・マニラ1945 罪なき戦争犠牲者の墓石

この碑は50周年を記念してつくられたものです。マニラ戦がもたらした記憶は大きく、この件をもってして原子爆弾を正当化に近い論調で語る方もいますし、世界的に語られない事への思いを持っている方もいるといいます。
 この碑自体は日本を糾弾するものではなく犠牲者を追悼するものです。戦後の補償問題についての問題は未だすべて綺麗に解決したとは言えないものの、とはいえ今のフィリピン人の多くは戦争責任ついて殊更に日本を追及するという事もしないでしょう。ただそれはあくまでも日本が侵略者、加害者であるという前提があるからです。日本と同じくフィリピン社会でも時代の経過と共に忘却が進んでいますし、その傾向は今後もそのままでしょう。

 ただこの前提、時代の経過と「忘却」の上で成り立つ関係は薄氷です。特に日本の教育においては東南アジアに対する戦時下についての教育は東アジアと比較すれば相対的に薄いのは明白ですし、またメディアなどの特集でも薄くなりがちな点です。この薄氷の上の関係はその物事について言及しなければ早々に割れる事はありませんし、言及できる能力があれば一つの「謝罪と許し」という形式が成り立ち、信頼関係構築には役立つでしょう。
 が、です。「日本がフィリピン(東南アジア)を解放した」などという恥知らずの言説をしたらその薄氷はもろく崩れます。その後にはフィリピン側かの批判は避けられないでしょう。特にその様な価値観を持った一定の地位にいる人間、政権与党などの政治家が発言すれば問題化する可能性は高いでしょう。昨今のネット右派界隈やそれに呼応する一部政治家を見れば可能性は無きにしも非ずです。
 「忘却」は便利です。しかし、その忘却は場合によっては歴史修正主義による上書きにあう可能性もあります。なんで最低限の知識くらいは持っておきましょう。勿論、日本に耳ざわりと都合の良い妄想ではないものを。


【参考資料】
中野 聡『アジア太平洋戦争とフィリピン
中野聡『和解と忘却――戦争の記憶をめぐる日本・フィリピン関係の光と影――
太田 和宏ほか『日本とフィリピンにおける戦争に関する社会的記憶の比較
津田 守『日比関係の50年を振り返る~人流のさらなる進展に向けて
吉川 洋子『対比賠償交渉の立役者たち:日本外交の非正式チャンネル
早瀬 晋三『アキヒト皇太子・天皇のフィリピン訪問 -『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』補論-
飯島 真里子『フィリピン日系ディアスポラの戦後の「帰還」経験と故郷認識

フィリピンを知るための64章 (エリア・スタディーズ154)

フィリピンを知るための64章 (エリア・スタディーズ154)

フィリピンの太平洋戦争における日本観について - 主にフィリピンの教科書から

フィリピンの歴史教科書から見た日本

フィリピンの歴史教科書から見た日本



 ってな本を図書館で借りてきたのでこの本を媒介しながらフィリピンでの太平洋戦争、特に日本へのまなざしについての話をば。ただ本題に行く前に一つだけ注意があって、この本の発売年は1997年となり、さらにフィリピンの教科書を参照するという書籍の為に中で紹介されている各教科書は1997年よりも古いです。2019年現在からすると20年以上前の記述であること。またフィリピンはこの間に義務教育が「6-4制」から「1-6-4-2制」へと変化して教育内容に変化が生じている可能性があります。しかしながら歴史教育アメリカならともかく日本への歴史観の記述がこの本から大幅に変わっている可能性は少ないでしょうから、この本の内容を信頼して記事を書いています。
 以上、注意終わり。

 あとそもそもの前提なのですが、太平洋戦争はある界隈においてはアジアを列強諸国からの植民地解放の為に戦ったというアジア解放史観の様なものが存在します。フィリピンは確かにアメリカの植民地ではありましたが、そもそも日本が来る前に紆余曲折あるものの独立は認めてます。日本が来なくても解放されてました。解放予定の植民地に行って戦闘おっぱじめて、インフレさせて、飢餓させて、マニラで虐殺起こしてなどなど。そしてアメリカに負けてフィリピンは日本から解放されて。これでフィリピン解放したってなると、解放したのアメリカじゃん、ってなるのが普通じゃないかなと。
 以上、前提終わり。

 で、本題。
 『フィリピンの歴史教科書から見た日本』では合計6冊の教科書が翻訳されています。小学校用が1冊、ハイスクール用が5冊です。ですので、一番最初に紹介する本以外は全てハイスクール用の教科書となります。なおフィリピンの教科書制度ですが、日本の教科書検定制度の様なものがあり、公立学校は検定を受けた教科書で学びますが、私立はこの限りではないとの事です。それでは、これからは各教科書の要点を記述していきます。


1)フィリピン - 過去と現在

日本への言及ページ数:2/275

日本人の後押しによる共和国またはカイライ政府
日本は、(中略)アメリカとの戦争を始めました。フィリピンはアメリカの植民地であったため、戦争に巻き込まれ、日本軍は1941年12月の終わりにリンガエンに上陸しました。マニラは1942年1月2日、日本の軍隊に占領されました。21日後、フィリピン総司令部はフィリピン行政委員会を設置するように命じました。
(中略)
国家を治める法律は委員会がつくったものではなく、日本最高司令部によって指示されたものでした。国を本当に支配しているのは日本最高司令部でした。そして、日本人のやっていることが正しいことをフィリピン人に信じさせるために、日本人はフィリピンに独立を与えることを約束しました。フィリピン独立準備委員会が設置され、各委員は当時存在したただ一つの政党であるカリバピ(KARIBAPI)に属していました。委員会は憲法を作成し終え、これはカリバピによって承認されました。
(中略)
政府の形態は共和制でしたが、国民には真の権限がありませんでした。(中略)憲法にうたわれた国民の権利は、権利ではなく義務だと言われました。
 日本がフィリピンを占領している間、コモンウェルス亡命政府は、アメリカ合衆国ワシントンで正式に承認されました。


 小学校用の為に全体的にあっさりしていますが、好意的な書き方はされていません。基本は侵略者と描かれており独立にも触れていますが、その独立も好意的な捉え方ではありません。最後に現在のフィリピン政府の前身となるコモンウェルス亡命政府をアメリカが承認したという文章で終わっており、とても示唆的な終わり方をしています。


2)フィリピン人とアジアの国々の歴史

日本への言及ページ数:2/258

第二次世界大戦勃発
アジアでは、日本が大帝国を築く準備をしていました。(中略。ドイツについての記述)侵略行為、つまりある国が他の国を正当な理由なく攻撃することは、止められませんでした。
(中略)
 真珠湾攻撃の後、日本人はフィリピンを接収しました。続く数カ月のあいだ、日本人は東南アジアのほとんどを接収するために侵攻を続けました。(中略)多数の太平洋上の島々も日本によって接収されました。そしてオーストラリアやインドは、その軍事力によって脅かされました。
(以下略)

 全体的にこの教科書ではフィリピンの事についてはあまり触れておらず、第二次世界大戦での日本の侵略行為を簡易的に記述しています。残虐行為などの記述もなく非常にそっけなく淡々とした文章が続きますが、しかし日本が侵略国家であることだけは印象付けられます。ただ章の最後の方には原爆によって多数の被害が出たことも記述しており、原爆の非人道性には触れられています。独立についての記述、解放史観的なものはありません。


3)アジア諸国の歴史

日本への言及ページ数:11/266

◆日本のその他の側面
 平和を勝ち取り、経済力では畏怖されているものの、第二次世界大戦時の日本人の残虐行為による醜悪な記憶と、多くの日本人によるごう慢なやり方と態度は、「新しい日本」のイメージの腐敗を一様に浮きあがらせています。
 1980年代に日本の文部省は、新しい教科書を国内の各学校に配給しましたが、そこには、第二次世界大戦中の日本の不正な侵略と残虐行為に関する真実は語られていません。フィリピンを含むアジア諸国の多くは、日本の検閲機関に異議を申し立てました。
(以下略。従軍慰安問題などの戦後問題の他、日本人のワーカーホリックなどを含めた社会問題が語られる)


日本とフィリピン
○国民的英雄であるホセ・リサール氏は、自国の自由獲得を求めてやまないことを日本に訴えかけました。
○1896年のフィリピン革命は、日本の援助のもとに行われました。
第二次世界大戦まで、フィリピン人は裕福で、日本人を庭師や農夫、あひる飼いとして雇って いました。
第二次世界大戦中、キリスト教徒であった日本人兵士神保中佐はマヌエル・ロハスの命を救いました。後にロハスは、1946年の独立後、初代大統領となったのでした。
※書籍ではもう少し項目がありますが、引用では省略しています。

 この教科書では「第7章 日本、アジアの工業大国」と章立てされており、日本の地理、民族由来、宗教、神話、歴史、近現代の政治状況、新天皇(昭和⇒平成時)など多岐にわたって日本についての記述が見受けられます。日本人からすると「”文明の父”聖徳太子」などの引っかかる記述はいくつかありますが、全体的にコンパクトにおさまっています。歴史については明治以降から記述が濃くなっていき、日清戦争から始まる各戦争が記述されるようになり第二次世界大戦も記述されますが、フィリピンが体験した残虐行為、独立の話などには特に触れず、基本的にはフィリピンからみた「日本の歴史」という様なものです。あえて日本に釘を刺す様な記述といえば、引用した1980年代の教科書問題がメインといえます。
 特徴としては章立ての「工業大国」とある様に、よく言われるような戦後の日本観にある日本の経済復活神話が語られています。引用した「日本とフィリピン」という短いコラム的なものと併せて、親和的というほどではないですが好印象を与える様な記述もいくつかみられるかなと。


4)フィリピン史

日本への言及ページ数:19/238

 この教科書では、

 第24章 フィリピンと第二次世界大戦
 第25章 日本による占領と第二フィリピン共和国
 第26章 解放と第三フィリピン共和国の誕生

以上の3つの章立てによって第二次世界大戦中のフィリピンについて記述しています。19ページと長いですが本ブログ記事の主旨にかなう為、全見出し、それと印象的な箇所を引用します。

第24章 フィリピンと第二次世界大戦
【見出し】 ◆ヨーロッパでの第二次世界大戦勃発◆戦争準備の遅延/◆日本による初空襲/◆日本軍、侵入開始す/◆バタアンへの撤退/◆第二次連邦大統領就任/◆日本軍のマニラ占領/◆バタアンでの戦闘開始◆ケソンとセイヤーの脱出/◆「アイ・シャル・リターン」/◆バタアン陥落/◆死の行進/◆フィリピンの陥落
【内容引用】
◆死の行進
(中略)日本軍は文明時代の戦争行為に関するあらゆるルールを踏みにじって、無力な捕虜を家畜の様に群集させ、そして貴重品を略奪しました。間もなく文明社会に衝撃を与えた悪名高い「死の行進」が訪れました。飢え、渇き、病み、疲労しきった捕虜たちはバタアン州のマリベレスからパンパンガ州のサン・フェルナンドまで無理やり行進させられました。彼らには食糧も水も与えられませんでした。(中略)残酷な日本の警備兵に、無慈悲にも銃剣で刺されたり殴打されたりしました。(以下略)
◆フィリピンの陥落
(中略)駐フィリピン米国軍に関する限り、戦争は終わりましたが、フィリピン人にとって戦争はまだ続いていました。(中略)日本侵略軍に対して仮借ないゲリラ戦術を展開しました。


第25章 日本による占領と第二フィリピン共和国
【見出し】
◆日本軍政部/◆フィリピン行政委員会/◆東条首相とフィリピンの独立/◆憲法の枠組み/◆日本首唱の共和国憲法/◆日本首唱の共和国誕生/◆共和国の対外関係/◆日本の宣伝工作/◆その他の宣伝機関/◆ゲリラ戦術/◆フィリピン人、民主主義を掲げて信義を貫く
【内容引用】
◆東条首相とフィリピンの独立
 フィリピン占領のごく初期から日本は次のように表明、フィリピン国民を納得させようとしました。すなわち、日本は「東亜の抑圧人種の解放者」たる使命を持ち、日本の主導のもと「大東亜共栄圏」を設立し、以て全東洋国家の幸福と繁栄の実現を目的とすると。(中略)フィリピンが「大東亜共栄圏」の建設に協力する限り、日本はフィリピンに対し「独立の名誉」を与えるだろうと声明しました。(中略)フィリピン国民は日本が真の独立を与えるとは信じられないとして、この約束に冷淡な立場を貫きました
憲法の枠組み
(中略)フィリピン側の人々は憲法草案の作成には熱が入りません。実のところ人々は「フィリピン独立準備委員会」の頭文字である「PCPI」を皮肉ってもじり”Please Cansel Philippine Independence”(どうぞフィリピン独立を撤回していただきたい)と読み替えてからかいました。(以下略)
◆フィリピン人、民主主義を掲げて信義を貫く
 三年以上にわたり、フィリピン国民は日本軍の鉄のかかとの下で苦しみました。愛する祖国は残酷な征服者により荒廃しました。敵が祖国の産物をもって生活しているために飢えに苦しみ、祖国で生産された繊維製品はすべて日本に出荷されるためのボロをまとい、嫌悪すべき憲兵隊(日本軍の警察)の脅威にさらされていました。
 日本による占領期間を通じ、フィリピン人の精神は、口に言い表せないほどの苦難にくじけず、救いを求めて神に祈り、来るべき夜明けー解放の夜明けーが来ることを願いました。


第26章 解放と第三フィリピン共和国の誕生
【見出し】
アメリカによる初の空からの攻撃/◆マッカーサーの帰還/◆日本による占領の最後の日々/◆アメリカ軍、マニラに入る/◆マニラの戦い/◆フィリピン解放/◆戦争の終結/◆コモンウェルスの回復/◆オスメーニャ大統領の政権(以下略)
【内容引用】
アメリカ軍、マニラに入る
(中略)戦車を先頭に第一機甲部隊が来たからマニラに入りました。市民は目に涙をため、心から喜びながら彼らの解放者を歓迎しました。彼らは戦車やジープが駆け抜けるたびに踊り歌い、そして「勝利だ、ジョー!」とVサインを送りながら泣きました。(以下略)
◆マニラの戦い
(中略)日本軍は狂信的な勇気をもって戦い、絶望的な状況にまるで狂ったような彼らは、パコ、エルミタ、マラテ、イントラムーロスに突入して、うんざりするほどの流血と破壊と残虐の限りをつくしました。彼らは無力な市民に対して、言語に絶する残虐行為を犯しました。住宅、政府の建物、美しい大学、書類、家具、美術品を焼きました。男、女、子どもを問わず何百人もの無力な市民を虐殺し、誰をも容赦しませんでした。
 1945年2月23日、アメリカ軍の勝利で血にまみれた戦いは終わりました。

 長々と引用しましたが、この教科書は日本を明確な侵略者として扱われており、逆にアメリカが解放者として扱われています。部分的には過度に物語的な記述や、アメリカの持ち上げがノイズな気がしなくもないですが。原子爆弾に対してはその破壊力を書き「おぞましい爆発」などの形容を使う等、原子爆弾の正当化はしていません。あと第26章の最後の方は共和国の誕生と「独立」が書かれていますが、その際にはアメリカが当然の様に登場している事や西側的価値観をかなり強調するなど、イデオロギー色がかなりうかがえます。  この「フィリピン史」の流れを見ると顕著なのですが、そもそもの話、現フィリピン政府は大日本帝国がつくった第二共和国の延長線上ではなく、大日本帝国からの解放後の延長線上としての第三フィリピン共和国です。日本がアジアを解放したなどという教育をするわけないんですよね。教育だけでなく、虐殺などを受けた人々の経験上からも。

5)フィリピンの歴史

日本への言及ページ数:16/286
 この教科書もページが多いので引用は絞ります。こちらでは「フィリピン史」ではなかった生徒への質問項目(実質的な章立て)が書かれていますので、それを引用します。

第18章 第二次世界大戦とフィリピン
この章では、皆さんは次の質問に対する答えを見つける事でしょう。
1 アメリカはどのようにして第二次世界大戦に引き込まれましたか。
2 フィリピンはどのようにして戦争に巻き込まれましたか。
3 戦争はフィリピンでどのように続けられたか述べなさい。
4 日本人はどのようにして3年間の占領時代にフィリピンを支配しましたか。
5 占領時代のフィリピン人の政治、経済、社会文化生活を説明しなさい。
6 敵国による暗黒の占領時代に、フィリピン人は民主主義とアメリカへの誓いを守りましたかそれはどのようにですか。
7 どのよにしてフィリピンは日本人から解放されましたか
8 どのようにしてコモンウェルス政府がフィリピンの地に復活したか述べなさい。

 「フィリピンの歴史」においても「フィリピン史」の様に日本は侵略者として描かれています。解放者ではありません。「フィリピン史」ほど物語的ではありせんが、"フィリピン人は、日本人を極度に激しく嫌うことになりました。"という記述があるように日本に対する強い記述が伺えます。また「フィリピン史」には無かったインフレの話にも触れており、その結果として貧困、飢え、栄養失調などによりフィリピン人が死亡した事にも触れています。また対ゲリラ活動では以下の様な記述があります。

ゲリラ活動に対抗するために、日本人は「ゾナ」制度を設けました。そこでは、ゲリア活動の容疑を受けた街や現場の男の住民はすべて、教会や建物に集められました。そして誰か1人が反日活動に加わったことをしゃべるか認めるまで、彼らは食物や少しの水も与えられずに、何日間もそこに閉じ込められました。ときどき彼らは拷問を受け、あるいは虐殺されることさえありました。


6)フィリピン史への招待

日本への言及ページ数:10/308
「フィリピン史」、「フィリピンの歴史」よりも当時のフィリピンについての経済、社会状況などが目立ちます。というよりも前二者は第二次世界大戦前のフィリピンの詳しい状況が少なくとも本書上で記述がないという事なのですが。
 この教科書の特徴は初代大統領であるケソンとコモンウェルス政府を中心に記述を勧め、社会、経済状況についての記述が行われています。アメリカの植民地であったことも記述しながら独立に向けて動き出している事も記述、さらに「タイディングス・マクダフィー法(フィリピン独立法)」に対して即独立派の反乱を記述するなど、当時の状況がよく描かれています。史実を列挙していくタイプなので、教科書としては読みやすいです。
 日本に対しての記述は「フィリピン史」、「フィリピンの歴史」よりも淡々と記述しており、残虐性の記述なども薄めです。では日本占領後の独立(第二共和国)の部分はどうだったかというと、

◆第二の共和国
フィリピン人の共感を得るために、日本の日本人当局は、フィリピンに独立を与えることを決定しました。日本人の真の意図は、わずか1年かそこらの短い期間でフィリピン人に独立を与えるという意味で、日本人はアメリカ人よりも良いということを、フィリピン人に示すことでした。
(中略)
 ラウレル(注:第二共和国大統領)や政府の高官の偉大な努力にもかかわらず、商品、特に食料の価格は日ごとに上昇し、ほとんどのフィリピン人が、日に三度食べることが不可能になりました。(中略)マニラや食料の不足していた地区で、何千人もの人々が飢えて死にました。

餓死の直接的な原因を日本だと指弾してはおらず、また他の教科書と比較すれば穏当な記述ですが、日本がフィリピンに独立をもたらしたという出だしの結果としての餓死で終わるという構成をしており、それが意図する所は考えるまでもないでしょう。また、その後の見出し「ゲリラ戦」の記述では”ほんのわずかな例外を除いて、フィリピン人は反日的でした。”という記述から始まっており、この教科書が特別日本に甘いという事ではありません。


◆終わりに

 以上の様に見てきた限り、基本的にはフィリピンの歴史教科書の第二次世界大戦周りの記述は「日本による厳しい困難 ⇒ 解放」という記述が一般的でしょう。20年以上経過し現在でもそれが変わるとは考えにくい、というか今後も相当な転換点がなければ起きえないでしょう。あと教科書ごとに記述や感情の濃淡が現れるくらいの違いしかないかなと。
 いずれにしたって「日本がフィリピンを解放した」という史観は一笑に付して良い言説ではないかと。それをフィリピン人に言ったりしたら怒られても仕方ないほどのダメなものかなと。


 最後に、該当書籍ではないですが早瀬晋三戦争認識のすれ違い : 日本人学生とフィリピン人学生』を読んでの印象的な部分を引用して終わりにします。これは早瀬晋三が講義のために著した書籍をフィリピン人学生に読んでもらい、その感想のアンケートを取った際のフィリピン人学生の批判的な感想です。 その教科書は東南アジア 6 ヶ国の戦争遺跡、博物館などをめぐり対日観がどの様なものかというのを書いた書籍との事です。ただし、日本の戦争加害に対する記述は日本学生に配慮して薄めです。それでも「先生は反日ですか」と言われたそうですが。それはおいといて、引用。

 正直言って、この種の議論をすると、ひじょうに不愉快になる。東南アジアのあちこちでおこった憂鬱なことを読むと、感情的になってしまう。日本占領については、悪い印象しかない。小さいころから、過去におこった話をたくさん聞いてきた。親しくしている親戚から、人間として扱われなかったことを聞いて、そのことを忘れないことが重要なのだと思った。悲しいことに、あなたの本は、あらゆる意味で、歴史と言えば、わたしの気持ちを暗くすることを再確認させてしまった。
(中略)
わたしの祖父母は、フィリピンにおける日本の占領の影響を直接受けた。わたしが1940年代におこったことを訊くと、いつも興奮し、話を止めることができなかった。
(中略)
わたしに父は、父の父の話をしてくれた。夜中に起きると、ベッドから飛び起き、「奴らが来る。隠れろ!」と叫び、妻と子どもの顔を見つめた、と。


加害を詭弁で欺くなんて、恥を知れって。

共通言語としての「やさしい日本語」



 って本を読んだのでそれに合わせた「やさしい日本語」の話でも。もともと本自体には興味はあったのですが、



というツイートに対して色々と意見があって、その中に「英語でやれ」、「多言語でやれ」の様な批判的文言が見られたのを受けて今読んだ次第です。

 やさしい日本語とは発信者である弘前大学社会言語学研究室によれば、

「やさしい日本語」とは、普通の日本語よりも簡単で、外国人もわかりやすい日本語のことです。これは、地震などの災害が起こったときに有効なことばです。
弘前大学人文学部社会言語学研究室』より
※上記ホームページは2020年1月17日閉鎖予定

というものです。阪神・淡路大震災の外国人被災者への言語対応の反省から生まれた「言葉」であり、それが今や災害時にはNHKアカウントや一部自治体が使用するほどに認知度のある、主に在日外国人の為の言葉です。ただ本を読んでその災害用という言語が一つの側面に過ぎず、もっと多面的なものであることが分かります。

 勿論、災害時には日本語を全く知らない外国人も存在し、特に昨今増加する観光客に対して「やさしい日本語」の効果は薄いものでしょう。彼らの為の英語、中国語、韓国語など多言語対応は可能な限りすべきです。全言語対応が可能ならばそれに越したことはありません。ですがそれは現実的には難しいでしょう。なぜなら、

日本には195カ国・地域からの外国人が在留しており、もし100の言語を母語としている人たちがいるとして、全員が分かる言語に平等に翻訳しようとしたら、たいへんな時間と労力が必要となります。
西村美保やさしい日本語とは?

とある様に日本には様々な国から外国人が在留しており、言語も同様です。英語、中国語、韓国語などの日本におけるメジャーな言語ならばともかく、話者が少ないマイナー言語は必然的に翻訳者も少なくなります。では、それらの日本におけるマイナー言語話者を無視して良いかといえば、そんなわけはないことはいわずもがなです。

 在日外国人の言語状況は、2008年調査の独立行政法人国立国語研究所「生活のための日本語:全国調査」結果報告<速報版>』 によれば、

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「生活のための日本語:全国調査」結果報告<速報版> p.3

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「生活のための日本語:全国調査」結果報告<速報版> p.4

以上の様になります。「1.6 日常生活に困らない言語」の説明文章にある様に回答者の多くが日本語教室などの学びや交流の意思がある人々である為に数値は上振れしている可能性はあります。とはいえ、在日外国人は「日本語」がポピュラーな言語である事には違いありません。また「日本語の理解力」ですが、

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「生活のための日本語:全国調査」結果報告<速報版> p.6

「読む」に限定した場合、以上の様に「ひらがなとカタカナが読める」、「やさしい漢字が読める」で4割強ほどとなっています。これは2008年調査であり、その後の技能実習制度などによる外国人移入を考えればこの割合は変化している可能性が高いですが、いずれにせよその場合に考えられる変化は日本語が過不足なく読める外国人の増加よりも、やさしい漢字が読めるなどの外国人の増加の方が妥当性があるでしょう。
 ちなみに日本への国地域別外国人数の推移は法務省の「平成30年末現在における在留外国人数について」>「【平成30年末】公表資料」にある「国籍・地域別在留外国人数の推移」から確認可能です。2008年時点では214万人だった在留外国人は2018年では273万人となり、大幅に増加しています。近年ベトナム人が急激に増加していますが、これは技能実習生と考えるのが妥当かなと。

 長々と書きましたがこれで「やさしい日本語」が必要な背景は何となく理解できるかと思います。日本にいる外国人は巧拙の差はあれど「日本語」への理解度が一番高く、また現実的には不可能な全言語対応よりも「やさしい日本語」という日本語の方が多くの人のためのセーフティーネットになりえます。

 さて、ここからは庵功雄『やさしい日本語――多文化共生社会へ 』(岩波新書)を読んでの感想(?)です。私の中で「やさしい日本語」って外国人の為の言語っていう認識があったんですよ。災害用だったり、「NEWS WEB EASY - NHK」の様な外国人が日本の情報を得る為の言葉という感じで。それは間違いではないのですが、今回の反応を受け手の記事などは「災害」という面から強調していた言説が多いと思います。ただ、庵功雄『やさしい日本語』を読むとそれ以外の機能が有る事が知れます。というよりも庵功雄の書籍は災害用の言語としての話はかなり少ないです。

1)初期日本語教育の公的保証

 当然ですが外国人が日本で生活する為には「日本語」が必要で、これは揺るぎようのない事実でしょう。その為に外国人に対する日本語教育をする必要がある訳ですが、その際に「やさしい日本語」が活用できるといいます。やさしい日本語はその名前が表す通り「易しい」ものであり、言語初心者に対しての教育に使用できるのは容易に想像できるかと思います。書籍内では従来の教育、例えば小学校低学年が覚える言語教育を日本語初心者の外国人に教えるよりも、もっと日常に使用される単語を中心に教える方が効率的である事を明らかにしています。留学生の様な日本語を学業の最中で学ぶ学生ならば話は別ですが、仕事の為に来た外国人は留学生の様に言語の為の学習時間にそこまで費やせません。そこで短時間で学べ、体系化している「やさしい日本語」が活かせるわけです。
 また外国人の中には一緒に来た子どもや日本で生活する中で生まれてくる子どもがいます。彼らが日本の学校で学ぶ際にネックとなるのが日本語能力です。基本的に日本人は日本語を母語とする家庭環境で育つために日本語能力を母語として会得していきますが、彼らの家庭環境は両親の何れかが日本人でなければその様な環境は難しいでしょう。この学校入学前の環境による日本語能力の差は後々に響いてくるのは想像に難くありません。そして外国人の子どもが日本で育った場合、日本で働く可能性が高い事を考えるならば(低かったら無視していいわけでもありません)彼らにも十分な日本語教育をすべきであり、日本人と同等の競争環境を可能な限り公平にする様な仕組みを用意すべきです。
 何よりも働きに来た外国人、その子どもも共に日本社会で生きる社会を構成する人々に変わりありません。彼らの日常をスムーズにする為、また高度な日本語教育の為にも「やさしい日本語」という橋渡しの言葉の必要が出て来るという事です。

2)地域社会の共通言語

 私は義務教育やその後の英語教育の甲斐もなく英語はしゃべれません。正直、ほんとダメです。中国語も韓国語も出来ません。それこそ文献などは自動翻訳に頼るしかありません。でも自動翻訳は文章にしかできず、会話時には活かせるものではありません。昨今では会話用の自動翻訳機もあるようですが一般化されているかといえばまだまだです。多分、世の中にはそういう人々が最も多いかと思いますが、そういった日本語しか話せない我々が外国人、特に定住外国人と話す時に話す言葉は日本語になる可能性が高いでしょう。ですが、その日本語は日本人への日本語と同等のものでは相手側に十分な理解を得られるかといえば恐らく難しいでしょう。そこで「やさしい日本語」となる訳です。
 日本語話母語者と非日本語母語話者との間との共通言語としてのやさしい日本語。これには我々日本語母語話者の意識変革が必要にはなるでしょう。通常の日本語とやさしい日本語はやはり少々勝手が違います。しかし言葉によるコミュニケーションは定住外国人の居場所を創る事にも貢献し、地域住民としての彼らを受け入れる事が可能になります。また現実として彼らは社会に暮らしています。故にその為のアナウンスが必要になります。なお行政対応として横浜市がやさしい日本語で情報を発信しており、これもまた共通言語的な対応といえるでしょう。

3)日本語母語者の論理能力形成のため

 日本語に限らないでしょうけれど母語話者が話す母語、読む母語には本当に必要な情報以外の修飾や脇道が結構あります。この記事もそうです。それをなるべく必要な情報のみを伝えるやさしい日本語へと変える事は母語話者にとってもメリットのある事だと庵功雄は語っています。そもそも我々日本語母語者は日本語がかなり自在に使えると言っても、別にそれは相手の説得や論理形成能力とはまた別の話です。覚えている語彙が多くても文章能力には必ずしも直結しません。そこで必要な情報を取捨選択するやさしい日本語へと変換するという作業は母語話者にとって、何が必要でありどのように表現するかの訓練にもなり、相手を説得する能力向上に役立つと書かれています。実際に誰しもが「日本語」から「やさしい日本語へ」の変換作業をするわけではないでしょうが、しかし母語話者にとってもメリットがあるという指摘は私も間違っていないと考えます。

4)ろう者、知的障碍者などの為のバリアフリーのため

 この部分の話がもっともこの書籍で気づかされた事です。ろう者の母語は「日本手話」という方が多数でしょうが、日本手話と日本語とはまた別の言語体系です。日本語の「話し言葉」と「書き言葉」はイコールで結ばれますが、日本式手話の「話し言葉」と日本語の「書き言葉」はイコールではありません。書籍中では大学を卒業したろう者の方が文字を書いたところ些細な文法上の間違いで本当に大卒かと叱責されたというエピソードの記事が紹介されています。ここから言える事はろう者にとって日本語の書き言葉は第二言語に相当するものであるという事です。この問題は外国にルーツを持つ子供の話と同じく、彼らの母語は(口語の)「日本語」ではないのであり、その為に日本語母語話者と教育のスタート時点が異なります。このスタート時点でのハンデを身の丈にあったものとして放置するのはよろしくないのは言うまでもありません。
 そして書籍の最後には知的障碍者の文が2ページ半に渡って載せられていますが、これを読むとき私たちが使っている日本語が特定の層への「バリア」となっている事が思い知らされます。私たちが普段使い読んでいる「日本語」というものがその言語特性故に不可視となっている層がいる。現在は障がい者差別解消法があり、合理的配慮をするようにという社会へとなっています。全ての言語をやさしい日本語にすべき、とまでは流石に無理でしょうし言いません。この記事も「優しい」とはあまり言えません。しかしながら普段使っている言語が特定の層にはバリアになっているという認識を持ち、公共の場などの必要に応じて「やさしい日本語」を使う等の「情報のバリアフリー化」という考えは必要な時代になってきているのだと考えます。


 この書籍の副題は「多文化共生社会へ」です。我々が今住む日本国は望む望まずにかかわらず、現実として様々な文化・言語的バックボーンを持つ方々が多く生活をしています。その中で「やさしい日本語」というのはその多文化共生社会の中で必要となってくる有用な道具となりえるでしょう。そして現実にやさしい日本語は災害時などで有効活用されています。
 だから我々は「やさしい日本語」を見て批判や笑うなどせず、また外国人が発する拙い言語の揚げ足などをとるのではなく、それらの日本語(言語)への寛容さを持つべきではないかなと。

 何にせよ『やさしい日本語――多文化共生社会へ 』は面白かったのでオススメです。言語学的アプローチとかは専門外なので割とちんぷんかんぷんなところありましたしたが、なぜ「やさしい日本語」が必要なのかを新書ならではの軽さでさらさらと読めますから。

日本だけが長い「世界史年表」の話

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 ってな画像がツイッターでは極たまに流れてきて、
「学校で教えるべきですね」とか、
「日本だけ日本のままですごい」とか、
そんな感じのコメントとそれに対する突っ込みが入るのが極まれ茶飯事ってな感じです。今回はこの画像についての軽い記事をばをば。


 ひとまずこの画像が出回ってるのが現在確認できるのは2007年くらいツイッターの指摘を見ると2006年にはもうありました。ただそれも転載です)からで、その時から同じ文脈で使われています。ただその確認できるサイトが出所元かというと、そちらにも出典元が明記されていないのでおそらく流用してという感じが濃厚でしょう。大本を今現在のネットで探るのは無理臭いかなと。
 ただ現実にある本の出典元としては『プロムナード世界史(浜島書店)』でしょう。こちらのブログで出回っているのよりも全く同じ構成でやや新しい年表が出典先と共に明記されています。なので元は高校向け資料集です。学校で使ってる資料です。

 あとこの年表に関して「皇紀2600年」云々という言葉を添えている人がいますけど、少なくともこの年表は「前一世紀」くらいからを日本としており、別に「皇紀」の年表化ではない。まあ、この画像を加工して皇紀年表にして、縄文時代神武天皇が即位したとしている大変にアレな年表もありはしますが……。

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 上の様なアレな年表はともかくとして、元画像の年表でいうと「前一世紀」は弥生時代になりますし、区切りとしては妥当性があるかというと余りあるとは思えません。ただ吉川弘文館の年表でも似た様に前1世紀くらいから日本としているので浜島書店のみの記述ではないようですが。とはいえ、弥生時代を現在の国号である「日本」国家があったと考えるのは甚だ誤解を招く表記かなと。同じ理由でその後の小国分立期とかについても同じ感想です。国家として遡れたとしても古墳時代が良いところではと。それもちょっと苦しいかもですが。あとよく言われる事ですが、武士政権の存在や戦前/戦後などを考えればそういった時代区分を「区切り」としてちゃんと記述した方が良しではなどとも。


 なお、これからは余談。いくつかの国にあった世界史年表です。

【中国のネット上にあったもの】

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【韓国のネット上にあったもの】※上から4番目が日本です

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アメリカのネット上にあったもの】

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 いずれにしても日本がずーっと件の世界史年表の様な一貫性のある「日本国」だと認識しているのは日本の一部の層だけではないかなと。


追記。
 何でかぷちバズったのでこの記事への指摘を見てて思ったことを少し。バズった後の追記なので見る方も少ないでしょうが。
 日本も他国と同じようにその支配領域を視覚的に表すべき(要約)ではという話をいくつか見ました。朝鮮併合時は朝鮮半島も日本の領域になっていますし、それを東北、琉球アイヌモシリ(北海道)にも適用するというのは、紙幅の関係もあるけれども日本発行の教科書という事を鑑みればあった方が良いかなと。特に琉球琉球王国という国があったのは自明のことですし、明治からの膨張主義が視覚的に分かりやすいですから。「日本」といっても今現在の地域が「日本」と古代日本が必ずしも地域的一貫性があるわけではないですかね。


あとおまけ。
【台湾のネット書店にあった世界史年表】
※日本の『ビジュアル版図解世界の歴史この一冊で分かる!』が初出とのこと f:id:nou_yunyun:20191028003042j:plain

世界史年表・地図(2019年版)

世界史年表・地図(2019年版)

「正しい万歳」についての話

togetter.com

 ってまとめを作ったのでこちらでも。手を挙げる時に手の向きは内側が「正しい万歳」ってのが流布されてることに対する突っ込みです。あと私が作ったまとめ以外にも下記のまとめがあります。

togetter.com



 私の方は過去のネットでの語られ方、別の方のまとめでは偽書万歳三唱令』にも着目してますがその他にも出典として小林よしのり天皇論』や『久米宏TVスクランブル2』が挙げられています。『天皇論』の発行年は2000年代以降と偽書が一般に広まった後の話なのでそこら辺の影響は考えられますが、久米宏の方は1984年発行となり偽書が流通する前となります。該当ページは樋口清之氏が指導をしており、この方は種々の雑学本も出していますので他にも類似の本があるのかもしれませんが、いずれにしても該当ページを読む限りは何かを出典にしているわけではありません。なおそのページに「日本古来の礼法」にのっとった正しいバンザイの仕方云々とありますが、今の万歳は明治期以降なので「日本古来」は言い過ぎかなと。


 とりあえずですが、この「正しい万歳」の出所は以下の様に分類できるかと思います。

1)偽書万歳三唱令』による
  ※万歳三唱令についてはwikipediaのご参照を。過不足なくまとまっているかと。
2)『久米宏TVスクランブル2』、小林よしのり天皇論』、唐沢俊一『トンデモ一行知識の世界』などの書籍から
  ※久米宏以外は偽書の影響が強く疑われます。
3)テレビの情報から
  ※TVスクランブル、また元気が出るテレビでも見たという情報あり。
4)戦前世代の話による
  ※ネットの中にそういった会話が見られます。mixiとかで確認可能。
5)学校で教わった
  ※これもネット情報ですが学校で教わった方がちらほらと見受けられます。
6)偽書万歳三唱令』を否定するものの、根拠不明なものの姿勢は正しいとするネット与太。
  ※典型例は「ねずさんのひとりごと」。民主党批判を伴う場合あり。


などなど。1に挙げた偽書根拠は論外ですし、この偽書の膾炙によって学校で教える、ネットで言いふらすという経路も考えられますが、とはいえ戦前世代や樋口清之根拠は出典があやふやなものの偽書根拠ではない「正しい万歳」というものがあるのも事実ではあります。あ、6のネット与太は除いてです。あれは基本的に政敵批判の為のものですから。戦前世代の話が作り話でなければ、「手のひら前向きは降参を表す」というとっても「マナー」らしい理由が添えられて教えられたとあります。政治家の中にはそういった「降参」の意味を避けるためにゲン担ぎとして所謂「正しい万歳」をする方もいらっしゃるようなので、そういった「ゲン担ぎ」から正式ではないものの根拠も記述もないマナーが生まれたと考えるのが自然なのかなと。それが本当に「正しい」のかは置いといて。
 あと2009年段階ですと自民党

あの「ウソの法律」が、最近の自民党首脳たちの万歳スタイルに影響したのでしょうか?
自民党本部に取材を申し込みましたが…
怪文書のことは知りません。手を内側に向けるのが普通じゃないですか?」
とそっけないお返事。
毎日放送 「『万歳』は『お手上げ』ではない!!」  2009/07/22 放送
アーカイブ

というように「手を内側に向けるのが普通」という認識らしいです。

 といっても、そもそもこの「正式な万歳」は2010年2月3日に提出された、

四 式典の結びに天皇陛下の御前にて、鳩山総理の御発声で万歳三唱をしたが、手のひらを天皇陛下側に向け、両腕も真っ直ぐに伸ばしておらず、いわゆる降参を意味するようなジェスチャーのように見られ、正式な万歳の作法とは違うように見受けられた。日本国の総理大臣として、万歳の仕方をしっかりと身につけておくべきと考えるが、その作法をご存知なかったのか、伺いたい。
2010年2月3日『天皇陛下御在位二十周年に関する質問主意書』(提出者:自民党 木村太郎

という質問主意書に対して、

万歳三唱の所作については、公式に定められたものがあるとは承知していない。
上記質問への答弁

という答弁をしているように公式に定められた「正しい万歳」は存在しません。また過去にさかのぼったとしても、

萬歳奉唱に当たっては、姿勢を正して脱帽し、両手を高く挙げて、力強く発声、唱和する。最厳粛なる場合は、全然手を挙げないこともある。
国民礼法振興会 編『皇民礼法精典
※一部漢字を現代のものに置き換えています

の様に戦前においてもそのような記述はありません。さらには、

なぜ「ばんざい」をする時に両手をあげるのか、動作の意味を知りたい(神戸市立中央図書館)
 
動作の意味や起源はわからなかった
 
回答プロセス:『日本国語大辞典小学館 2000、『日本大百科全書小学館 1984、『日本民俗大辞典』には「万歳(ばんざい)」の言葉の意味や起源はあるが、動作については言及されていない。『図説明治事物起源事典』、『明治事物起源』、『事物起源事典』には現在のような「ばんざい」をするようになった起源は記載されているが、動作については言及されていない。『明治もののはじまり事典』、『近代事物起源事典』には「万歳」についての項目がなかった。『しぐさの民俗学』、『しぐさの人間学』などしぐさについての資料、児童向けの雑学の資料も確認したが、万歳(ばんざい)についての記述はなかった。
なぜ「ばんざい」をする時に両手をあげるのか、動作の意味を知りたい(神戸市立中央図書館)

という様に複数の本において動作についての言及がないことから「正しい万歳」がいずれの本にも記述されていないことがうかがえます。また「2月11日が万歳三唱の日であるとテレビで紹介されていたが、これの根拠を知りたい。」(レファレンス共同データベース)に挙げられている書籍、


 『明治・大正・昭和世相史』 加藤 秀俊/[ほか]著 社会思想社
 『明治・大正・昭和政界秘史』 若槻 礼次郎/[著] 講談社
 『明治・大正・昭和の新語・流行語辞典』 米川 明彦/編著 三省堂


以上の三冊の該当箇所を確認しましたが、なしのつぶてです。どの本にしても「万歳」という掛け声の方がメインの話であって動作については一切言及されていません。少なくとも当時はその程度の扱いだったのでしょう。

 つまりはいずれにしたって手の向きを指定した「正しい万歳」などというものは偽書以外でも多少の記述もありましたがそれでも口承の域を出るものではなく、甚だ怪しい偽マナーという他ないでしょう。ただマナーとは集団内での暗黙の了解や規律の様なものであり、現在ネット上でもそれなりに継続的に言われている事、場合によっては学校等の教育現場や社会の中で言われる可能性があり、そうなるとどんどんとそういった偽マナーが既成事実化する可能性も大いにあるのでしょうけれど。


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「売血」についての話

 赤十字のポスターの件の話の中に、てなツイートがあったわけです。発端の方のポスターの件には「コラボするならもっと良い絵柄とセリフあったよね」くらいにしといて特に触れません。「売血」の話を少し。
 とりあえず前提として柴田英里氏は「売血」と「贈与(献血)」の二分法に分けて語って、まるで「売血」から「献血」への移行の中に倫理や贈与論という価値観の問題にして血液の質の問題をある種のプロパカンダ的文句として扱ってます。私は浅学なので「ティトマスの贈与論」とか知りませんでしたが、それを語りの中に入れるくらいの知識があれば売血が衛生、やる側の健康問題、貧困層などの種々の問題で今の形式になったと知ってそうなものなのに、そこを無視するのは甚だ不思議な知識形成具合というか、まあ逆張りの為に無視をしたのだろうなと。

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 献血の歴史については以上の赤十字のパンフレットにあるマンガが分かりやすくて参考になるかと。売血を繰り返したために輸血の効果や輸血後肝炎の問題、果てはライシャワー駐日大使が日本で輸血を得た際に肝炎に感染したという外交的問題にも発展しています。あとマンガの中で1か月で70回以上売血したというセリフがありますが、こちらは赤十字血液事業の歴史を見る限り実在したようです。現在200ml献血をした場合は男女ともに4週間、400ml献血をした場合は男性12週間後、女性16週間後という間隔が必須である事を考えれば、たとえ売血が200ml(70回した方が200か400かは不明)だったとしてもどれだけ危険性を伴うことは素人でも理解できるかと思います。こういう頻繁に献血をする方たちの血液は赤血球数が回復しないなどによって黄色く見えることから「黄色い血」と呼ばれます。この単語は売血の際によく語られる象徴的な言葉です。

 売血を主にしていた層ですが、

自分の血液を売る人々の多くは、定職に就けない人たちで、毎日仕事があるわけでもなく、雨の日などはたちまち収入の道を閉ざされてしまいました。そのため、仕事に就けなかった日には生活費を得ようと、血液を売りに行きました。これが習慣となると、今度はつらい仕事よりも、血液を売ってお金をもらったほうが楽になってしまったのです。
赤十字 血液事業の歴史

という様な語られ方をしています。売血追放キャンペーンの際にはドヤ街の調査をしたりするなど、労働者層、貧困者層がメインだったと察せられます。以下の当時の報道動画においてもその危険性と共にどういった層が主に売血をしていたのかはある程度は察せられるかと。

www.youtube.com

 売血の値段に関しては、

1958年の日本における輸血用血液の実に99.5%までが、売血によるものであった。売血者は200ccあたり、当時の金額で400〜500円の報酬を得ていたとされる。
今井竜也『献血におけるサンクションとインセンティブ : 血液政策・供血システム転換の可能性と必要性

という様に1950年代後半頃には4~500円、これは日本銀行の『昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?』の「消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)」を参照にした場合は現在の貨幣価値から約5.8倍、500円だとすると2922円ほどの値段です。約3000円で生活が賄えるかは少し疑問ではありますが、『コインの散歩道』というHPの「明治~平成 値段史」を参照すると米10㎏の値段が1955年には1080円となっている事から、売血2、3回すれば米10㎏買える値段と考えると生活の十分な足しになるレベルの値段ではあったようです。

 売血者の血液の危険性については、

売血者の血液はどのくらい危険だったのだろうか。資料によると、日本における輸血後肝炎の発症率は売血時代(1960〜1965)には50.9% 、実に輸血を受けた2人に1人が肝炎を発症していた。
今井竜也

という様にその感染率の高さが指摘されています。20%とする言説もありますが、いずれにしても高い感染率には変わりありません。それと感染率の高さ以外に売血者の方の健康問題も指摘されています。上記の報道動画でも触れていますが、ドヤ街の貧血者が続出して倒れるなどの感染と合わせて社会問題化しています。さらに言えば売血には暴力団も加わってという話やカツアゲとして売血を利用したという話もあるなど様々な問題がそこに横たわっており、学生が主体の売血追放キャンペーンというのが生まれるのも必定な土壌が当時にはあったわけです。ちなみに感染率に関しては

献血一本化政策の進展により、献血移行期の過程で31.1%、1969年に買血が廃止された時点で16.2%にまで肝炎の発症率が下がったこと を見ると、やはり売血者の血液は極めて感染症のリスクが高く、危険なものであったといえよう。
今井竜也

以上の様に売血の低下と共に感染率は低下しており、これは「売血から献血へ」が倫理の問題などではなく衛生の問題であった事の証左でしょう。

 ここら辺の議論を掘ろうと思えばもっとあるでしょうがとりあえずここまで。ただ例えば国会議事録で「売血」について検索すると結構なヒット数があり売血制度が「問題」として幾度も語られている事は確認可能です。そこからのアプローチで知るというのも可能です。
 いずれにしても元の方は賢しい感じで物事を語っていますが、それは前提を共有していないただの戯言です。大体貧困者のセーフティーネットとして売血を使用するなどというのは甚だ危険性を伴いますし、安全性を考慮すれば数週間の間隔が必要でセーフティーネットとしては機能しえません。それと行き着く先はセーフティーネットではなく貧困ビジネス的なものになるだけでしょうし。

売血―若き12人の医学生たちはなぜ闘ったのか

売血―若き12人の医学生たちはなぜ闘ったのか

上記絶版本の全文掲載(著者の許可あり)
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