電脳塵芥

四方山雑記

和多志、弥栄、氣、神運字……、スピリチュアル言霊(漢字)運動について

【追記に伴い一部表現を変更しました(3月16日 23時)】


・「私」という漢字はかつては「和多志」であったのにGHQによって「私」になった
・「乾杯」という言葉はかつては「弥栄」で、GHQは「弥栄」の言霊をおそれて「完敗」を想起させる「乾杯」になった
・「気」は本来は「氣」であり、エネルギーが広がる「米」だったのに「〆る」にGHQによって替えられた
・「漢字」は「神運字」だった

などなど、これらは一部で流布しているスピリチュアルな言霊信仰ともいえる漢字や単語に対する認識の一例で、GHQという外敵によって本来あったであろう日本や日本人が歪められたという疑似的な「かつての日本」の復古運動の流れともいえるでしょう。で、この運動というか、ネット上で使用する人が近年見る頻度が高くなったと思われ、それ自体はSNSなどによる可視性、拡散性と似非知識によるバズ狙い、また反ワクチンなどの別の陰謀論やスピリチュアルなどとも接続してその拡散に寄与していると考えられます。ただこれらの(デマ)運動自体は漢字や単語についての話なので簡単に否定はできるもので、例えば最近ツイッターでバズった以下の弥栄ツイート。


https://twitter.com/Daisuke_F369/status/1629413655740833794

この「弥栄ツイート」はバズフィード「「乾杯は戦後につくられた言葉」SNSで拡散の情報は誤り。「戦前までは“弥栄“と言っていた」との説も… 実際は?」だったり、日本ファクトチェックセンター「「"乾杯"は戦後に作られた言葉。意味は完全に負けること」は誤り。戦前から使用例あり。」などでデマであると指摘されています。また「和多志」に関しては変な運動があるという文脈でのまとめであるtogetter「「私」は「和多志」だったのにGHQの強制で「私」になったから元に戻そう、という活動がある→調べてみて震え上がる人々」などで、その内容がデマ、偽史であることは紹介されています。なのでこの記事ではこれらがデマであることは大前提としてデマであることの説明自体は省きますが、もう一つの前提として旧字体新字体になったことによる発想(例えば「氣」から「気」)があるので、当用漢字(後の常用漢字)やその際に煩雑な旧字体新字体にとなった事だけは認識しておいてください。なおこの当用漢字によって漢字のいくつかが略字(新字体)となり、それが行われたのは戦後ですし、時期的にGHQの関わりがないとは言えませんが、この略字化については戦前からある流れで煩雑な漢字を覚えるコストを下げるための施策でもあるのでただただGHQを悪魔化するのはおかしい。
 ではこれらをデマという前提であるならばこの記事は何を探っていくかと言えば、これらがどのように、そして「誰」が広めたかについての話、淵源は何か、という事です。この点に限って言えば上記に紹介した記事はそこにはほぼ迫っておらず、正直片手落ち感が拭えません。この記事ではそこに迫っていきます。

 ということで本題……、に行く前になのですが上記に紹介した「弥栄」ツイートをしたダイスケ氏の流れはこれらの運動を考える際にとても分かりやすい流れが形成されているので、もう少しだけ引っ張ります。ダイスケ氏の「弥栄」使用は上記のツイートが初めてだったのですが*1、次のようにバズり後は一気に使用頻度が高くなります。


https://twitter.com/search?q=from%3ADaisuke_F369%20%E5%BC%A5%E6%A0%84&src=typed_query&f=top

これらはデマではないかというツイート後の事であり、またデマ指摘に対してとも思える以下の様なツイートをしています。


https://twitter.com/Daisuke_F369/status/1632123003894112256

つまりこのアカウントはデマである事を厭わずに使用し、この単語使用を流布していると言って差し支えないでしょう。この行動は「弥栄」が一部の人間にウケたことをデマである事よりも優先し、自身の影響力拡大の為に使用していると考えられます。そもそもこのアカウントは塩5㎏を約1万円で販売していたりするネット上の健康食品販売業者と思われ、「弥栄」を信じる相手に商売をした方が断然良いと判断したのでしょう。「弥栄」一つで商売に結び付くかどうかまではわかりませんが、言葉というフックで人を呼び、囲っていくという手法は今から見ていく流れと似ていると言えます。

「和多志」を発案した中里博泰

 まず「和多志」ですが、もともとの「和多志」という漢字表現は伊予国風土記に記されている「和多志大神」で使用された表現です。この和多志大神大山祇神社の祭神であり、別名として大山積大神などがある神です*2。この「和多志」という漢字表現自体はおそらくここがネタ元であるとは考えられますが、しかし当然ながら「和多志大神=私」と解釈するのはあまりにも苦しいと言わざるを得ません。
 では「和多志大神」としての「和多志」ではなく「和多志=私」と初めに使ったのはいつかというと、遡れた限りではインターネットアーカイブで2004年8月に保存されたcrystal heart projectによる以下の文面です。

「わたし」はね「和多志」と書くのですが判りますか?
「みんな」のことは「わたしたち」「私絶ち」をしなくては「和多志」にはなれません。
インターネットアーカイブのリンクはこちら
注)アクセスするとMIDIがダウンロードされます

正直なところ、このcrystal heart projectについてはよくわかりません。HPはかなり簡素であるものの、2003年5月10日にナカノサトによる『ねえクリスタルハート ボクはダレ「ワタシとはナニ」』という書籍を出版していたりと個人のHP以上の活動の様に見受けられます*3。書籍の中身に関しては上記の「和多志」についての文章を見ても察せられるようにスピリチュアル系統のものです。またこの書籍は30ページほどの小さい絵本であり、和多志は使用されているものの正直「和多志」が何なのかはよくわかりません。

ただこのcrystal heart projectについてはのちの影響はほぼほぼないように見受けられ、出版年は2003年5月であるにもかかわらず2008年以前では「和多志=私」という認識は管見の限り後述する例外を除きほぼ見受けられません。これは個人HPや掲示板などの消失とも関連しているでしょうが、ただ2006年からあるツイッターで「私」としての「和多志」が確認できるのは2010年からであり、ブログなどでも2009年ごろから確認できることから、このcrystal heart projectは「和多志」の流れを考える際にはほぼ無視はして良い存在といえそうです。


【追記】
 こちらのプロジェクトについて情報をもらったので追記します。書籍にはたしか記述していなかったと思われますが、これは「ワールド・ピース・ヒロシマ」内のプロジェクトの模様です。

自ら (和多志) が分かれたものが 自分 (私達) であり、
和多志 (平和への意志) を完成させるためには、
私達の “私絶ち” が必要である、と説かれる 中里 博泰 先生。

「和多志」に対する説明は以上の様なものですが、「絶対平和論:“起源意識”の邦くにづくり Making of Uni-Earth」ではさらに詳しく説明がなされています。

「起源意識」は本来、「名」と「物」以前であるため「名前」にすら出来ませんが、それでは話になりませんので、「起源意識」という名前を命名しました。しかし元来「起源意識」の名前として最も相応しいのは、「わたし」です。「私(わたくし)」ではなくて、「和多志」が相応しく、多くの志が和したものです。(集合的融合有意識)然るに「和多志(わたし)」が無ければ何も存在しない事に成ります。宇宙を創造する志(意図)である多くのエネルギー体(自分)が、和(融合)したという意味です

以上の説明は、後述する片岡徹也と同様の解釈となり、とすると当初はこのcrystal heart projectについて無視してよいとは書きましたが、片岡はこちらから情報を入手して発表した可能性が高いです。上記の文章を見ればわかる様に御多分に漏れずスピリチュアル系であり、この概念を作ったと思われる中里博泰は後に「◆ 「日本新生・宇宙維新」◆ -救世主は現れるのか-」という講演を開くなどをしています。そしてこのワールド・ピース・ヒロシマのHPに後述する蔵本天外との写真が存在しており、つまり今に続く和多志の発案者は中里博泰と言えます。ただこの時点ではGHQについての記述や「かつて私は和多志」であったという類の記述もないことからこの部分は片岡の創作でしょう。
 なお余談的にですが、2006年大みそかに書かれたという以下の文章を読むと、代表の前島修の「和多志」についての文章を読むとあまりにも極まったスピリチュアル過ぎてこれでは広まらないなと感じさせます。

私達は“起源意識=和多志”なのです。起源意識として大いなる宇宙と常に一体です。“宇宙とは意識そのもの”といっても過言ではありません。約137億年前の大爆発ビッグバンによって自ら(=和多志)が分かれた存在としての自分は、和多志の分身としての私(わたくし)=自分=宇宙なのです。私とあなたの差が無くなる“差取り=悟り”による <融合=和わ多た志しの完成> が人類の目指す平和であり、世界平和とは地球全体が悟る=融合することです。起源意識は宇宙を創造する前の“宇宙の源泉”ですから、「起源意識Ωオメガ」が「自己αアルファ=宇宙=意識」を、それこそシャボン玉のように次々と生み出し、それぞれが再び「起源意識Ωオメガ」に戻るサイクルが「意識の無限活動∞」(無量寿)として表現されるのです。生死、輪廻転生の仕組みです。 宇宙のハーモニー 平和の鐘の音ねに込めた祈り


「和多志」が流布されるきっかけ蔵本天外

 上記に追記で記したように「和多志」の発案者は中里博泰ですが、しかし中里らによるこの単語の流布は発生していないと考えられます。では、誰がこの「和多志=私」を広めたか。それが蔵本天外(本名:蔵本徹也)です。

2006年11月02日
「私から 和多志へ」
人間は永い間自我の基本でもある我己=私という考え方にしばられて来ました。その結果、孤独、病気、争い、自殺等、生命に必要ではない現象を繰り返し作り出して来たのです。次の時代を担う子供達には、このような事のない素晴らしい我己を拝した貢献する意識体である和多志の確立をし、共に仲良く幸福な地球を作りましょう。
 
さぁ、意味を認識して、発話しましょう。  
「私から 和多志へ」
フィジカルサイコロジー総合共育サイト

上記ブログは2006年11月に投稿されたものであり、crystal heart project後に確認できる次に古いものだと考えられます。ここでも「和多志」の意味、語源の様なものが語られていないのでその思考、論理はよくわかりませんが、このブログ主である「和多志=蔵本天外*4」が投稿から少し時期を置いた2008年ごろに「和多志」を広めていきます。ただこの2006年時点だと基本の一人称は「わたし」です。この蔵本天外はメンタルトレーナー、物理性心理学研究者、米国公益法人バイオメディカルアカデミー学長etcなどの数々の経歴を持った人物であり各地で講演などをしてきた人物です。2005年には恒文社より『意識が変われば世界が変わる』という彼の講演をまとめた自己啓発系と言える書籍を出版していますが、ただこの時点の書籍上では「私」は「私」と表現されており、「和多志」は使用されていません*5。それが変わるのが上記のブログ投稿の2006年であり、そして明確にその使用と流布の意志を感じさせるのが2008年10月にシンビインターナショナルから出版された書籍『自分に正直に生きる : 銀河系と生命』です。この書籍では何の説明もなしに「和多志」が使用されており*6、そして続く2009年9月に同じくシンビインターナショナルから出版された『新書・人類革命』、『真書・自己革命』、『進書・生命革命』の3冊でも同様に何の説明もなしに「和多志」が使用されています。そして2009年では書籍以外の場所、つまりネット上で「私」の意味での「和多志」の使用が一気に増えます。一例をあげれば、


【2009年から「和多志」を使用したブログとその開設時期】
2009年2月開設
LECOM STYLE Sand Glass サロン砂時計

2009年3月開設
Up-space
ようこそ!コンヴィンサークリニックへ
かすみの大丈夫!
追伸~ 藏本天外からのメッセージ
あさり日和

2009年4月開設
ナースともちゃんが行く!

2009年5月開設
調和と恵みがあらんことを。

2009年10月開設
プリュウと共に...

2009年12月開設
創意新報
※大抵のブログは1年程度で更新が途絶える


以上の様になります。これらの特徴としてはJUGEMブログの利用、蔵本天外を先生などと敬う、そして天外の書籍をリンクに貼っていることです。これらの共通点や3月などの集中を鑑みると仕掛けている面はあるでしょう。ブログを書いている人物を見ているとシンビインターナショナル(2005年に蔵本天外が立ち上げ)の関係者と思われる人物もいることから、実際に講演を受けた一般人よりも内部の人間による「布教」と考えてもそうは外れではないでしょう。また天外自身がブログをリニューアルしたのか、「藏本天外からのメッセージ」を2010年12月8日から開始しています。こちらのブログでは以前の「フィジカルサイコロジー総合共育サイト」では「わたし」だった一人称が「和多志」となっていることが確認できます。以上の様に「和多志」という表記の増加、そして定着が見られるのですが、書籍を読んだ肌感覚として新書・真書・進書の革命シリーズはかなり宗教性を帯びている様に見えます。ブログを確認してもそれは伺え、例えば2009年12月に開設された創意新報では以下の様にとても宗教的に見えます。

今年は「命導の年」と銘打たれ、1年間、藏本天外先生より
ライフリーディング、催眠を通して、
潜在意識的な考え方を学び、実践し、多くの気付きがありましたね。
(略)
2010年は、「真我合一」の年。
そして、この共育が世界に広がっていく幕開けの年。
ワクワクしますね~!
そんな事を考えると、現状の大変さや、ストレスなんて、
気にならないですね!
 
和多志達、創意塾生は、天外先生と共に生きる誇りを胸に、
生命や潜在意識の役に立つ考えを持って、人類革命の実現に向かって、来年も更なる飛躍の年にして参りましょう!
創意塾 2009.12.31*7

これらを見ると「和多志」というのはスピリチュアル的な要素と共に宗教的な閉鎖的コミュニティ内で自分たちの共通性や信仰の強化、意識向上するための符号の様な機能も持っていたのかもしれません。
 そして2010年2月1日にツイッターでも「和多志」用法が確認でき、それ以降から少数アカウントが使用を繰り返していることせいでもありますが、使用の増加が確認できます*8。2009年からの活動が2010年にはツイッターにも広がっているという事であり、徐々に膾炙して言っていることが伺えます。ただこれらの「和多志」使用アカウントの多くはやはり天外信者と思われ*9、この時点では信者内の内輪の言葉に過ぎなかった可能性は高いです。ちなみにこの2010年2月28日にスピリチュアル系フランス人ジョナサンというアカウントから以下の様にGHQによって「私」は「和多志」になったというデマが初めて確認できます。


https://twitter.com/02222STUDIO/status/9758023497

このGHQデマをスピリチュアル系フランス人ジョナサンこと釘丸欣也*10が流布していますが、釘丸はツイッターを確認できる限り「天外先生」という様な表現をしているように蔵本天外の影響を受けた人物と言えます。では蔵本天外がGHQと和多志を繋げた人物かというと他の天外信者による発信がないことから釘本の創作の可能性の方が高いです*11。ただし。上記ブログの創意塾が中心となって出来た九志美会という団体はHPアメリカ遠征という前提はあるものの「大和の志を世界へ」という文言があるように、彼らの中に大和ナショナリズムがあることはうかがえます。
 さて、このように蔵本天外により「和多志」の使用法が増えたことは確認できましたが、2011年8月に東邦出版から刊行された天外の著書『奇跡はポケットの中に入っている : 自分を好きになると奇跡が起こる』、2012年12月に実業之日本社で刊行された『2万人をカウンセリングした成功のメンタリズム : ゴール達成力があなたを変える』では「和多志」表記は使用していません。出版社を自社といえるシンビインターナショナルから変えたためか、一般向けだからかまではわかりませんが蔵本天外自体が「和多志」表記をやめています。ただ蔵本天外は2012年2月に一般社団法人 日本メンタリスト協会現在サイト閉鎖)を立ち上げて会長になったり*12、自分を主役にした映画『メンタリスト響翔*13』、『メンタリスト響翔 II 〜心からの生還〜』を作成したりと「メンタリスト蔵本天外」としてより一般的と思われる若干の路線変更が見受けられます。メンタリスト協会会長としての一人称も「私」。では、なぜこの路線変更が起きたのかそれ自体は正直不明ですが、蔵本天外のレギュラーとしてのメディア出演は2010年から2012年までFM愛知FM岩手、FM佐久平オキラジ(沖縄)と2010年代初頭に多く見られます*14。全く「和多志」が消えたかというと、例外として日本メンタリスト協会の基本概念の提供探究研究機関として設立された知的生命可能性科学研究所では「和多志」が使用されていて統一はされていないものの、とはいえ「和多志」は影を潜めたとは言えます。この流れの推測としては、宗教的に深く濃く囲い込むよりもより広く自身をプロデュースしていく方向性を取るために、違和感を持たれそうな「和多志」表記などは控えたのかもしれません。ただこの路線はそこまで当たっている様には見えず、youtubeでは蔵本天外チャンネルなどの彼が出る動画はあまり振るわず、2015年にはTENGUYとして「Respect 〜すべての祝福されたSoulたち〜」という歌まで出していたりとしていますが、傍から見ても10年代初頭の勢いは感じられません。

■蔵本天外のその後やその影響
 以上見てきたように「和多志」は蔵本天外によって宗教性を帯びた形で流布されたものと見なして良いでしょう。ただし天外本人はその後に「わたし」表記などに戻しており、最後までこれに付き合う気はなかった模様です。なお、蔵本天外に関しては5chの「蔵本天外 先生」で2009年時点で詐欺という書き込みや、

BIT 2日間のトレーニング〔専用テキスト・CD2枚付) 262,500円
BIC 2日間のトレーニング(月1回、専用テキスト・DVD1枚付〕11:00~19:00 420,000円
ESP 7ヶ月のトレーニング(月1回、専用アプローチテキスト付)735,000円
https://academy6.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1208076147/42

というその高額性が伺える書き込みが存在します*15。また2016年のブログ「【過去記事転載】マル秘天外の裏教えちゃいます。」では告発と受け取れる内容も存在。影響は少ないでしょうが2010年のブログ「真実の扉」では蔵本天外の相談内容をウォッチするという事をごく短期間ですがしており、なぜそんなことをしているかというと天外の記述内容が他者が書いたものの無断引用(なお「私」を「和多志」に変換している)だったからです。このブログはリンクが間違っているものの、例えば2010.09.29の記事で紹介されている蔵本天外の投稿内容は原裕輝というカウンセラーの内容のコピペです*16。新聞データベースでは特に詐欺で記事になったという様なのは見受けられませんでしたが、これらのせいか徐々に影響力は落ちていき、おそらく関係者によって書かれたと思われる参考文献一切なしのシンビインターナショナルのwikipediaでは会社は清算され*17、天外も2021年10月に他界という情報があります。ただしその側近などは今も別分野で活動しており、「脳科学、可能性を学んだ結果」というブログ記事では側近がメンタルトレーニングの会社を立ち上げたとあります。これはおそらく株式会社和多志の事でしょう。こちらの記事では天外を師匠として紹介されたことが伺えますし、今もその残滓は生き残っている様です。
 天外の話はこれでほぼ終わりですが、最後に天外は「弥栄」についても使用しています。

弥栄(いやさか)とは、「益々栄えよ」という意味です。「お疲れ様」などの単なる挨拶ではなく本当に相手の事を思いやれる素敵な言葉です。(主に一層、栄えるの意。他には感謝、ねぎらいなど多種多様な意味を持つ。日本のボーイスカウトでは「弥栄」をイエールとして使っており、「弥栄三唱(いやさかさんしょう)」という儀礼がある。)
https://web.archive.org/web/20110214161637/http://tenguy.com/intro.html

また、信者のあいさつとして、

弥榮です。
何かめちゃくちゃ、間違った事が書かれているなぁ。
この学問を数年学習しているけど、かなり役に立つ内容だけどな。
その辺の自己啓発と全然違うけど。
5chスレッド 蔵本天外 先生

という表現も確認でき、蔵本天外周辺のあいさつとして「弥栄です」という単語が存在します。ただし、この際の弥栄は上記の天外などの使用法を見れば今流布している「乾杯」などではなく「おつかれさま」的なあいさつとしての機能となり、これが今の「乾杯ではなく弥栄」にはつながらず、ネタ元は後述する様に他にあります。ただし一つ言えるのはスピリチュアル界隈の「弥栄」の親和性は高いという事でしょう。

「和多志」の意味付け片岡徹也

 この「和多志」の流れに乗って、それをさらに発展させて「奪われた漢字」という認識を付与したとも思われる人物が片岡徹也です。片岡徹也は彼が所長を務める「ヘルスルネサンス研究所」のブログがあるのですが現存するブログは2019年以前の記事はすべて削除されており、ご多分に漏れず大抵の記事が確認困難な状況になっています。ただツイッターの方は現在も稼働しており(今現在はNPO法人こうのさと代表)、初期の2010年頃を見ていくと別のブログ「不動産投資でもはじめるか☆ ~岡山で不動産投資を考えるの巻~」を運営しており、スピリチュアルとは無縁そうな内容といえます。それが2011年3月から「イクメン看護師の国際交流とドリームライフプランニング」というブログを新たに始めましたが、こちらもスピリチュアルなどの動きはほぼ見受けられません。この流れを変えたのがヘルスルネサンス研究所というのを立ち上げ、健康を扱うようになってからのブログで、そして2013年9月5日に次のようなツイートをしています。


https://twitter.com/tetetetetsuya/status/375460831867047936 toiu

そのタイトルは「『言霊(言葉に宿る魂)とそのエネルギー、『気』と『氣』の違いとGHQによって変えられた『わたし』』」。そしておそらくこの2013年9月に「言霊」と「氣」、そして「和多志」が結びつき、そして言葉の意味が与えられて流布した瞬間だと考えられます。この記事は現在、インターネットアーカイブにも残っていない記事ですがひとつだけこの記事について書かれたブログ、そして「和多志」の部分を転載したるいネットが存在します。まず和多志については

GHQの占領後から使われ始めた文字があります。それが、『私』(わたし) です。広辞苑を調べてみると分かりますが、この『私』という字は閉じ込めるというイメージがあります。この字によっても、わたし達日本人は、意図的に分離させられ個人主義を強く進められてきました。わたし、の本来の文字は『和多志』、です。多くの志を和す。全体の中の一部であり、この世界の中の1人の和多志です。個があって全体があるのではなく、全体があっての個がある。ちょっとした意識の違いだけなのですが、これが意識の根元にあるのとないのとでは、表現される世界は180度違うものになるでしょう。『和多志』これが、本来のわたしだったのです。 わたし、という音を聞くとき、文字を見た時は、ぜひ『和多志』と変換してインプットしましょう。それだけで、一人ひとりの人生が変わり、結果として表れているこの世界も変わっていきます。
るいネット「「私」は個人主義を浸透させるために戦後GHQによって与えられた⇒本来は「和多志」」 15/10/24

以上の様なもので、読めばわかる様に個人主義について疑念を抱きつつ、「和多志」にかつて中里がした意味付けを発掘しての「意味付け(言霊化)」、そしてGHQによって「奪われた漢字」という認識が含まれた記事であることが伺えます。なお片岡については中里や蔵本との関係性は不明で、彼らの教えを受けたのか、それともスピリチュアル界隈で使われ続けた「和多志」を調べて利用しようかと判断したのかまでは謎です。ただ彼のツイートで「和多志」が使われ始めたのが2013年7月22日から。


https://twitter.com/search?q=from%3Atetetetetsuya%20%E5%92%8C%E5%A4%9A%E5%BF%97%E3%80%80until%3A2013-9-30&src=typed_query&f=live

これ以前は「わたし」、「私」、「僕」などの使用であり、常日頃から「和多志」を使っていたわけではなく、また2016年を「和多志」を最後に使用していません。実際にはその時期の投稿は記事の再投稿のbot的内容なので彼が意図的に使った期間はそこまで長くも多くもないように見受けられます。2013年ごろの蔵本天外の活動を考えれば、そこから「和多志」が伝播したことをは考えづらく、おそらくネットの中の「和多志」使いに影響を受けて記事を書いた可能性の方が高いでしょう。そしてこのブログのタイトルを見ればわかる様に片岡は「氣」についてもツイートしており、ツイッター上で確認する限り、「氣」が「気」になったのはGHQのせいだというデマ説は片岡によるものです


https://twitter.com/tetetetetsuya/status/353154745403326465

ちなみに片岡がこの種の話をし出したのがこの「氣」の漢字についてのツイートからなので、片岡の思想の経緯や接近していたであろうネタ元は不明です。推測としては健康系からのスピリチュアルへの接近だとは思われますが断言まではできません。そしてこの「氣」については片岡は以下の様な論理付けをしています。

気 ⇒ 部首のきがまえの中が〆という字。〆(しめ)てしまっています。漢字はもともと象形文字であり、その形からイメージを生みます。しめてしまえば、エネルギーが縮こまり、広く発することができなくなってしまいます。
氣 ⇒ きがまえの中は『米』なのです。『米』は八方に広がる字。エネルギーを存分に発揮し、広がるイメージになります。
氣にいったところだけ、速攻で取り入れる☆

ただこの部分に関してはネタ元と言える本が存在しています。それが1990年に刊行された武術家の藤平光一による『氣の威力』です。

なぜ「気」を「氣」と書くのか
(略)「米」の形をよく見ていただければ、中心から八方に広がっている状態を表しているのがすぐおわかりだろう。つまり、天体のように八方に無限に広がって出て行くもの、これが「氣」という意味であり、氣とは出すものなのである。
 ところが、常用漢字では、なかに「メ」を使って「気」と書く。「メ」とは締めるという意味だ。これでは、氣を内側に閉じ込めてしまう意味になってしまう。古くから中国では、「氣」が一方に出れば、他方が少なくなる、と考えた。だから、できるだけ氣を自分の方に引っぱって、出口を締めておいたほうがいいということになる。したがって、「メ」という字を使った。「氣」という字を「気」と書くのは、そうした中国の考え方に影響を受けたためである。
p.25-26

ここで語られている論理は片岡が使用している論理とかなりの類似性を持っています。ただ一つ違うのは藤平が漢字の違いを中国の影響としていたところを片岡はGHQの影響としているところです。藤平の論理が果たしてどこまで広まっているかまでは不明であり、またもっとさかのぼれる可能性はありますが、とはいえやはり「和多志」とは異なり「氣」についての片岡の論理は借り物と考えてよいでしょう。
 以上見てきたように片岡が展開した論理構成が今に受け継がれていると考えて良いでしょうが、この言説の流布については片岡ではなく、また別の人物の寄与が考えられます。

奪われた漢字としての流布 「神運字」の登場と廣瀬仁

 片岡の論理をベースにしながらもスピリチュアル(言霊)としての漢字の意味付けを強めたのが意識を変えるメンター 廣瀬仁(本名:本図仁)です。現在、彼のブログ記事の多くは削除されていますが、その活動は2010年10月の「愛と調和 -意識の覚醒について-」というブログで確認できます。このブログは2012年12月まで続けられ、その傾向としてはスピリチュアルの流れを含む自己啓発系のブログといえるでしょう。ただこの時点では「和多志」も出てこず、藤本天外の名前も出てこない為に関係性はわかりません。Facebookでは2010年に人生の師とあったとありますが、これが誰かは不明です*18。そして藤本天外や片岡徹也には薄く、廣瀬仁の特徴としていえるのが陰謀論との近さです。例えば2011年8月27日の以下の記述。

特に陰謀論やマスコミの情報操作に関しては、太平洋戦後のGHQの占領政策 や、ロスチャイルドによる明治維新の金融支配体制 から話さないといけないので、まったく知らない人に話したら意味不明な言語にしか聞こえないでしょう。わたしもブログで断片的に言葉の爆弾を投げていますが、はっきり言ってブログだけでまとめられる内容ではないので、リンク先を貼るなど工夫するしかないのが現状です。
vol.169 なぜかヒートアップ?一体、なにをしてるんだ…。

であったり、2012年7月5日の記述。

また言霊も、ロシア語とドイツ語は周波数が高く、日本語も無限の可能性を秘めたエネルギーであるのに対して、英語は一番周波数が低く、覚醒出来ない言語であるとの情報まである。他にも覚醒させないために遺伝子組み換えやワクチン、獣肉や白砂糖、農薬や添加物、化学物質など様々なものが世の中には氾濫している。日本人は元々は五次元レベルの民族なので、GHQの占領政策により徹底的に民族レベルを劣化させられ、覚醒出来ないようにされた。
vol.241 覚醒させない陰謀と、覚醒する手段

典型的な陰謀論者の書き方であり、これらにはGHQに対しての敵意や日本のナショナリズム、言霊信仰などが伺えます。そして漢字については「vol.165 東洋の神秘を学び、世の成り立ちを知る」で

漢字が東洋の神秘と言われるのも、成り立ちを知ると納得出来ます。

とあり、漢字に特別な意味を見出し始めていることが理解できます。ただし、このブログ「愛と調和」では素地は見えるものの未だに今のスピリチュアル漢字にまでは行き着いていません。それが変わるのが2013年から本格的に動き出し、現在削除されているブログ「未來の地球の調和のために ~宇宙、地球、環境、動物、健康の神理~」や*19、もうひとつの彼のブログ「宇宙の真実と調和の未来へ」やフェイスブックです*20
 廣瀬については片岡より追いやすかったので前段階の説明が長くなりましが、調べていた所感としては片岡よりも陰謀論への傾倒具合が強いように見受けられることと、また文章が長く、更新もそれなりに多そうであるという事です。そして2014年3月、片岡の「和多志」の投稿に影響を受けて(おそらくフェイスブックに)「漢字」に関する記事を投稿します。彼のフェイスブックはほぼ消えていますが、その記事はいくつかのブログに転載されており、それは以下の様なものです。

日本語は50音訓すべてに意味があり、世界で一番周波数の高い言語である。一番低い周波数の言語は英語であり、だから闇の権力者が英語を世界共通言語にして人類の意識レベルを下げるように持っていっている。特に日本民族はやっかいな存在であり、どうしても日本人に目覚めてほしくないアメリカは、「保健所」「教育委員会」「大学病院」を買収し、日本人の強靭な肉体と精神力は食事、出産体系、麻の文化にあると知り、すべてを破壊しにかかる。
(略)
また、マスコミのタブーはかなりあるが、その中に日本人の心を象徴する「言霊」「音霊」「数霊」「色霊」「形霊」がある。そして、言霊の破壊をGHQはマスコミを使って成功させていく。特に戦後の漢字の変化も日本人の弱体化を狙ったものだという事実は怖いものがある。最初に「氣」について言及するが、氣の上の气という部分は天地を表している。气の中にある米は、八方に開いている姿をかたどったものであり、天地の八方に生命エネルギーを放出していく状態を表わしている。米から生命エネルギーをいただくから「氣」という意味もあるが、本来の意味はこうした意味がある。これに氣づいたアメリカは、GHQの占領政策の際に「氣→気」に変えて日本人の精神性を劣化させた。气にメというのは、天地のエネルギーを閉じ込める意味があり、人間に備わった潜在能力の封印という意味もある。漢字は東洋の神秘といわれ、的確にすべてを表している。
(略)
『体』の本来の漢字は『體』であり、漢字の簡略化による日本人の肉体の弱体化を狙った曰く付きの漢字
(略)
アメリカの作戦通りに個人主義の利己的な日本人が増えたが、私という漢字も一役買っているだろう。本来は『わたし→和多志』であり、多くの想いを調和する意味がわたしにはあるが、私というのは平たく言えば個人主義に走らせる漢字であり、個人的に好きではない。知らない人からすれば、わたし→和多志も不自然ではあるので、せめて私という漢字を使うのをやめて、わたしと平仮名にするだけでも意味が変わってくるだろう。日本人は和合の精神が本来の姿なので、ここも意識してみてほしい。
あと、最後に言及したいのがバカである。「馬鹿」とあるが、馬と鹿は頭が悪いのだろうか?霊長類を卑下する漢字に意図的に変えられているが、バカは「莫迦」が本来の漢字である。そんな漢字を使っていれば、知らず知らずに動物たちを卑下する思考にも繋がる。人間のほうが動物よりよっぽどバカだと思う。
色々なところで、意味も理解せずに漢字を使っているのだろうが、漢字には言霊というエネルギーが宿り、知らず知らずの内にそうした意味に引っ張られて生活をすることになる
2014年03月17日 漢字の力*21

以上のように片岡以上の熱量で漢字を語り、そして最終的に言霊と繋がるような締めがされており、よりスピリチュアルとナショナリズムGHQの悪魔化が強まっていることが伺えます。ちなみに廣瀬の和多志の論理はその中身から片岡の論理を借りているでしょうが、そもそもこの二人は当時から知り合いだった可能性があります。二人の接点は片岡のツイッターから2014年8月時点で二人のコラボセミナーが開催されることが予告されており、その後にもう一回していることがわかります。時期的には廣瀬が記事を書いた後に知り合ったのか、それとも以前から知り合いだったのかまではわかりませんが、すくなくとも思想的に近しいものがあったことは確かでしょう。
 そして廣瀬はこの後もいくつか和多志についての記事を書いており、2014年6月ごろ*22には「私ではなく和多志」という記事をアメブロに書いています。その記事の転載は以下の様なものですが、

そして、もう1つ、GHQの占領後から使われ始めた文字があります。それが、『私』(わたし) です。(略)わたし、の本来の文字は『和多志』です。多くの志を和す。全体の中の一部であり、この世界の中の1人の和多志です。個があって全体があるのではなく、全体があっての個がある。(略)『和多志』これが、本来のわたしだったのです。わたし、という音を聞くとき、文字を見た時は、ぜひ『和多志』と変換してインプットしましょう。
2015年9月 「私」から「和多志(わたし)」へ

さて、読んでいて違和感を覚えるかもしれませんが、この廣瀬による記事は片岡の記事のコピペ記事となっています。2014年3月に借り物とはいえ自分の言葉で書いていただけに違和感はありますが(実際、何時ごろに書かれた記事か不明の為に片岡の記事がそう遠くない時期の記事の可能性はあり)、それはともかくとして片岡を含め、これらの記事によって「和多志」が流布されていったと思われます。
 そして廣瀬は「和多志」などの流布以外にもう一つの概念を作りだします。それが「神運字(漢字)」です。おそらく2014年11月22日*23に廣瀬は『漢字の本当の文字は「神運字」である』 という記事を投稿します。現在、この記事はアーカイブにもなく確認はできませんが、2015年3月に投稿された「神秘の神運字(かんじ)、その意味と力」でその内容は類推できます。

漢字は元々、神運字(かんじ)と呼ばれるものでした。言靈と音靈などは比較的有名であり、意識している人は多くいます。しかし、普段使う文字を意識している人は非常に少ないというのが事實です。しかし、これは體や精神にも影響を与えるものであり、文字のエネルギーは自分自身の人生を左右するものです。量子力學で見れば、この世界は『原子』『中性子』『電子』の『振動』で出來ているとされます。すべてのものは振動しており、これに例外はありません。物質も靈もバイブレーションがあり、それを數や色で表すことが可能でもあります。

漢字は本来「神運字」という、○○はもともとメソッドを使用したものです。このブログ記事を長くは紹介しませんが、一見してわかる様によりスピリチュアルの度合いが高まっていることがわかります。この「神運字」についてはまだツイッターなどでそこまでの流布は見受けらえませんが、例えば言靈傳導師要蓮によるブログ記事「日本民族のアイデンティティと神運字(かんじ)について」や靈止channelによる「神祕の舊神運字」、TOKYO HAZE「日本の失われた神運字(かんじ)」では廣瀬の論の影響を見受けられます。そこまで流布していないとはいえ、「和多志」の事を考えれば「神運字」も広まる可能性がないとは言い切れません。
 なお廣瀬のブログは大抵は消えているものの2015年末から2016年のブログ終了時期まではこちらで確認でき、廣瀬の陰謀論やスピリチュアルなどへの傾倒具合が伺えます。2016年2月7日の「無意識を操られないために、文字を意識する」では、

神運字(かんじ)は東洋の神秘と言われます。“水と振動による物質化現象”を的確に表しているものであり、靈力が込められていると言っても過言ではありません。わたしが洗腦から抜けられた理由は色々トータル的に實踐しているからです。そして神運字(かんじ)もその一つです。人が洗腦される一番怖い部分は『無意識』の部分です。超低周波、國際標準音、食、水、言靈、電磁波、放射能、様々なものが無意識を支配します。普段の日常生活での無意識は90%以上です。その部分を支配層に巧みにコントロールされるように仕向けられていたらどう思いますか? だから意識して神運字(かんじ)を旧字體に戻し、本來の靈性を發揮できるようにしているのです。特に繪文字は絶対に使いません。

2016年10月の「周波數という世界の深遠と文字」では、

その中でもカタカムナ文字、神運字(かんじ)は森羅万象、宇宙、神と繋がる神聖なる文字です。古代文字を少しだけ出しましたが、これらは先ほど言ったように、すべてが惑星を始めとした星々の周波數を形として表現したものです。それらの集合体が神運字(かんじ)であり、日本民族の精神性などにも密接に影響しています。それらを故意に劣化されたせいで、我々は知らぬ知らぬの内に洗腦を色濃く受けているのです。

などなど、常人には理解不能な域に達しているといえるでしょう。さて、そんな廣瀬仁ですが、彼は音叉ヒーリングという事をやっており、ジミー宮下と組んで全国ツアーなどもしていたことが確認できます。これらの活動も彼の言説を広めることに役立っていたと考えますが、彼の活動は廣瀬仁のツイッターなどを確認する限り2016年11月で途絶えます。最後に公開した『ご報告について』は読めない為に何故活動が終了したのかはわかりませんが、おそらくその周辺時期にフェイスブック盗みや強姦の告発、そして音叉ヒーリングでは他人の名を語って活動をしていたことによる注意喚起が行われたことによるものだと考えられます。今現在どのような行為が行われたのかまでは不明ですが、時期的に考えればこれらが廣瀬仁の活動にとどめを刺したと考えられます。


【3月23日追記】
 「廣瀬仁」としての活動は上記あたりでおそらくトドメを刺されたと考えて良いでしょうが、今現在はJHINとして活動をしてる模様です。既に更新はされていませんが、「意識の變容 ~靈的進化への道~」というブログを2021年に短期間ですが運営していることが確認できます。内容は以前のブログよりも薄いですがスピリチュアル系といって間違いではないでしょう。現在はパートナーではる魂のヒーラーEHKOと共に自己表現プロジェクトなどを行っている模様です。ただ当人は表にあまり出ないようで、活動そのものは目に見えにくくなっているとはいえるかもしれません。


 以上見てきたように「和多志」、「氣」などの今現在のスピリチュアルを伴う漢字運動は中里博泰によって原型が作られ、蔵本天外により分かりやすく簡素化して流布され、片岡徹也によって当初の意味づけの再発見と広めるための論理が形成され、廣瀬仁によってさらなるスピリチュアルな肉付けがされ、そして今に至ると考えて良いでしょう。今ではこの「和多志」当初の一人称としての域を超えており、2021年には「東京 多次元意識交流 和多志繪」というのが開かれ、


※文字はホツマ文字とのこと

上記の様な和多志繪というものがつく会も開かれています*24。また今の時代柄というか流布の影響しては都市伝説ユーチューバーの存在も無視できません。


https://www.youtube.com/watch?v=JEb7ckEVKvQ&ab_channel=%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%83%85%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA

26万回再生となり、下手したらこの動画一つで過去のブログ記事などに匹敵する影響力があったかもしれません。そして最早ここまで進むとスピリチュアルでの地位を確立したと言ってよく、もうなくなることはほぼあり得ないでしょう。こんなものまで企業のHPにあったりしますし……。


https://taiyoko-no1.com/wp/wp-content/uploads/2018/12/e440c17373feb453c5fd6b7f0f67ad42.pdf

弥栄=乾杯の流布

 さて、長々と書いてきました以上の流れとは別にあるのが「弥栄」です。まず弥栄がGHQと結びついた時期はおそらくかなり最近であり、ツイッターで確認できる限りだと2021年6月28日が初のツイートとなります。


https://twitter.com/yukinoHzerolce/status/1409307170529714176

この★YUKINO★なるアカウントはツイートで「アンドロメダ系宇宙人さん」と言っていることから他者の存在が前提にありますが、だがしかしこのアンドロメダ系宇宙人さんはかなり謎で誰かは不明です。そもそもこのアカウントは宇宙人に関するツイートが多くて、別の意味で厄介……*25


【3月17日追記】
2019年5月に「彌榮 (いやさか) という強力な言霊」というブログ記事で戦勝国連合によって「変えさせられたとか」という記述があるとの情報を頂きました。詳しい情報源は不明なものの下記の「戦争に負けてから」の発展形と言えるかもしれません。


ちなみに冒頭のダイスケ以前に少しだけバズったのが以下のツイート。


https://twitter.com/JOEMONTANA_OGSH/status/1555368646121496577

とはいえ、ダイスケ以前のツイートも少なく*26、弥栄とGHQとの結びつきが出来たのは2020年以降と考えてもそう間違いではないでしょう。では「弥栄」と「乾杯」での繋がりはというと、2021年4月に小名木善行(ねずさん)が「「やさか」と「いやさか」」という記事で以下のように記述しています。

乾杯するときなどに、よく使われる言葉が「カンパイ」。言葉はたいせつなものです。 戦後はもっぱら「カンパイ」ばかりが用いられますが、「乾杯(カンパイ)」は「完敗(カンパイ)」と同じ発声です。ですから昔の武家や帝国軍人の間では、代わりに「弥栄(やさか、いやさか)」と発声しました。

ここにGHQがくっつけばほぼ今のデマと同じものです。さらにさかのぼって2018年には「戦争で負けてから乾杯(完敗)になった」という以下のツイートも。


https://twitter.com/pinoyunyun/status/1030402618424680449

この弥生時代から使っていた言葉というのは2010年の確かなる時間の実現というブログの「弥栄(いやさか)と乾杯の違い」がネタ元と考えられます。ではこのブログのネタ元はというと……、の前に。そもそもこの弥栄、保守的な価値観と相性が良い。


https://twitter.com/search?q=%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%BC%A5%E6%A0%84%E3%80%80min_retweets%3A100&src=typed_query&f=top

ここで言われる「天皇弥栄(すめらぎいやさか)」は天皇がますます栄えますように的な意味あい、わかりやすくいってしまえば天皇万歳、という事と言えます。ただこれだと「乾杯」といよりも「万歳」の類似語になってしまうのですが、1998年刊行の『古神道入門』を書いた小林美元が「弥栄」を「乾杯」の意味で使用する運動に携わっていたことが確認できます。

第1章 宇宙生命の根源を尋ねるから一部抜粋。(引用者注:p.34)
(略) 神道ではパーティや宴会などで乾杯するとき,「弥栄」と発声します。すべてに栄えあれという意味ですが,それは太陽のようにすべての生命を平等に慈しむ心を現わしています。すなわち神の性を自覚した人間の言葉です。「清く明らか」というのが古神道の道ですが,イヤサカという明るい言葉の波動にもそれが反映されているわけです。
古神道入門 神ながらの伝統 1

この神道関係者は乾杯ではなく弥栄を使用するというのはp.172でも使用されており、

宴会やパーティなどで「乾杯」という言葉をよく使いますが、そんなときも神道では「イヤサカ」といって酒盃を揚げます。「皆さんの健康と幸せと繁栄を」という意味合いがこの一言に集約されています。

ただこの書籍内では「乾杯=完敗」という認識は吐露されていませんし、GHQなどの他者の存在は見えません。ただそれはおそらく書籍内で弁えただけと思われ、その証拠として2007年2月の佐藤一彦一日一語での「「弥栄を唱える会」(いやさか)を全国展開し、復活しましょう!」という記事では次のようなエピソードが紹介されています。

わが尊敬する神道の小林美元師匠は、「古神道」の教えの中でいつも言われた。「弥栄」(イヤサカ)と日本人は、誇りを持ち高らかに叫ぼう!中国人の真似をして「完敗」などと言わずに
(略)
私が、「それでは皆さんカンパイをお願いします」というと・・わが尊敬する小林美元先生は「佐藤君まだ警察の癖が直りませんね・・イヤサカでしょう」と度々たしなめられた。「弥栄」(イヤサカ)とは「全ての人々に栄えあれ!」と言う意味。日本の国では、昔から、祝の席では、「イヤサカ」と言ってきた。イヤサカ」と唱和すると、神々が喜んだという。いつ頃から「中国人」の真似をして「乾杯」(カンパイ)などと言う様になったのだろうか?中華思想に媚びたのだろうか?このままだと、国力も戦力も、中国に「完敗」してしまうのに。神道での会合や宴会では、祝杯の始まりや中締めでは「イヤサカ」と発声します。それは太陽のように全ての生命を平等に「慈しむ心」を現しています。
(略)
そのためにも、すべての日本人が「弥栄」(イヤサカ)の精神に帰ることを神々も望んでいます。日本から「弥栄」(イヤサカ)の言霊を消してはいけない。日本人だったら、中国の「カンパイ」や韓国の「マンセイ」などと言わずに「イヤサカ」と正々堂々と大声で叫ぼうよ。日本人が、日本人本来の美徳を重んじ「日本の誇り」を大切にして、日本の宴会やコンパから「イヤサカ」運動を展開し・・・日本人の「合言葉」は「イヤサカ」と高らかに唱えようではありませんか。

ここではGHQではなく中国を念頭に置いてあることが今の流布している話とは異なりますが、他者とその比較としてのナショナリズム高揚としても意味付けされた弥栄が見て取れます。そしてこのブログ記事の最後には「イヤサカを唱える会」や「弥栄を唱える全国協議会」の紹介をしています。これらの会が実際に活動していたのかは不明ですし、神道関係者が乾杯ではなく弥栄と本当にしているかは不明です。ただこの弥栄運動の成果なのか2013年のツイートには「KYOTOGRAPHIE 国際写真フェスティバル特別レセプション」において日本酒条例のある京都で「乾杯の際の発声は"乾杯!"ではなく"弥栄(いやさか)!」に法定したいというツイートが存在します*27
 これらから見えてくるのは一部の神道では90年代末ごろには乾杯の代わりに弥栄を使用していたであろう事、00年代ごろには乾杯の代わりに弥栄を唱える運動が行われていた可能性が指摘できます。そしてこれらの流れの中で「弥栄」という言葉にナショナリズムを見出していることです。そこに加えて、単純なダジャレとはいえ「乾杯」は「完敗」と書けること自体は可能というか普通に存在していて、例えば笑い話として残っている2004年の民主党決起集会の時に菅直人が放った「乾杯と言うと完敗だから、完勝と言おう! カンパーイ!」のようなものもあります。縁起を担ぐという意味では「完敗」は避けたいという感情はあるでしょうから、代わりとしての「弥栄」をしようという感情の動きもあると考えられます。「弥栄」に関しては、神道関係者の弥栄運動などが地道に展開されていた可能性やもともとのダジャレ(語呂)との近さによって「弥栄」の使用が膾炙し始め、そしてそれがナショナリズムの敵としての「GHQ」とくっついて冒頭のダイスケによるGHQが隠してきた言葉、そこには言霊的な意味合いを含めた珍説に繋がったと考えられます。GHQを付加したのが「誰」であるかまでは現状分かりませんが、流れは以上のようなもので、そしてこの「弥栄」についても「和多志」ほどにトンチキでもない為に、今後もはびこる可能性はそのナショナリズム性から考えても十分あり得ると考えられます。

 長々書いたけれど、日本語勉強してよ。ただ陰謀論やスピリチュアルという感情は常識が敵なので無理かも。一番悪いのは、これで儲ける人たち。

*1:https://twitter.com/search?q=from%3ADaisuke_F369%20%E5%BC%A5%E6%A0%84%E3%80%80until%3A2023-02-25_19%3A00%3A10_JST&src=typed_query&f=live

*2:((大山祇神社公式HP

*3:書籍の奥付を見る限り、賛同者を集めた形跡があり、そういう意味で「プロジェクト」だったと考えられますが、その実態は不明です。

*4:講演内容[BIT中継in福岡]などから本人と判断

*5:隅から隅まで読んだわけではないので見落とした可能性はあります。

*6:「わたし」など、表記ゆれがそれなりに存在するが基本的には「和多志」で表現される。革命シリーズはほぼ「和多志」で表現されていたように見受けられた。

*7:ちなみにこのブログ記事を書いた加賀夏子氏はのちに一般社団法人Bio Trustを立ち上げている。ツイッターでは2010年に和多志の使用が見られるが、今は「私」に落ち着いている。

*8:例として2010年12月31日までのツイッター内での「和多志」検索結果

*9:例えば和多志の使用が多く見える「 Sumiko Matayoshi」や 諏訪田茂は「天外」で検索すると天外信者であることが伺える。

*10:ツイッター内のリンクのインスタグラムによると釘丸欣也が本名で自称フランス人でしょう。

*11:2015年に状況は変わるが、それ以前の2014年12月31日までに「GHQ 和多志」で検索する限り自称フランス人のツイートしか存在しない。

*12:メンタリストDaiGoとの商標問題で少しだけニュースになったこともある模様。

*13:プロモはこちら

*14:番組はシンビインターナショナルのHPから確認

*15:詐欺的な話では2008年のこちらのスレッドでは蔵本天外の過去のHPやブログのリンクが貼ってあるものの、大抵はインターネットアーカイブでもほぼ内容が確認できない。スレッドとしてはほかに「物理性心理学 蔵本天外」や「物理性心理学 蔵本天外2」などが確認できる。

*16:原裕輝の相談内容の日時は2014年となっているが、真実の扉の記事は2010年9月なので何らかの更新などで日時変更が行われていると考えられる。

*17:これに伴ってか藏本天外事務所、TGWI Japan株式会社、日本フィジカルサイコロジー高等学院、日本メンタリスト協会、九志美会なども閉鎖。

*18:ブログでも師匠の存在を匂わせてはいるが、それが誰かは不明。

*19:このブログのURLは「http://ameblo.jp/mirai-harmony」だが、現在は魂のヒーラーEHKO(エーコ)のブログとなっている。この人物はインスタグラムで音叉ヒーリングとの関連を見いだせ、またスピリチュアルの流れもあることから廣瀬と何らかのつながりはあったと考えられる。【以下、3月23日追記】魂のヒーラー EHKOはこちらのブログ記事の写真や夫婦というキャプションを見ると廣瀬仁と結婚したパートナーだと思われる。

*20:なぜここまで発表の場を複数持っているのかは不明。当時の重点の置き方はわからず、ひとついえることはフェイスブックでは長文を書き、後にブログでの転載もあるので、主軸はフェイスブックだったと思われる。

*21:時期的には3月14日に「ウコッピーいっぺこっぺ奮闘記」に転載されており早いが、こちらは廣瀬仁がソースとはされていない。

*22:日時の判断はhttps://twitter.com/10setsuLalala/status/477906118920785920から。

*23:ツイッターによる反応での確認

*24:製作者のLuminousのインスタグラム

*25:アカウントを「宇宙人」で検索した結果

*26:2022年以前のツイート検索

*27:レセプションについてはhttps://twitter.com/DeguchiEiC/status/329627169720512513を参照。ちなみに京都市の門川市長は乾杯ではなく弥栄で音頭を取っている情報が存在する。

唐沢俊一氏がツイートしてた手塚治虫が共産党の応援演説後、同日に自民党の応援をしたという話の出典がわからない


https://twitter.com/karasawananboku/status/1618227205737439233

 という唐沢俊一氏によるツイートがあったとさなんですが、なんか胡散臭いというか、カウンターとしての創作臭が若干するというところが本音。ちなみに、この共産党候補の応援演説については以下のようにツイートしています。


https://twitter.com/karasawananboku/status/1618234231704162309

松本善明氏については手塚治虫の学生時代の先輩にあたる人物でもあり、個人的な関係性が強い人物と言えます。それと後述しますが手塚氏が松本氏を中心として共産党候補に対する選挙応援を複数回したことは事実です。反面、唐沢氏のツイートの問題な所はまずソースがないこと、これが何時のことか記述されていないこと、松本氏の名前を書いているのに応援された自民党候補の名前が全くされていないことなどがあげられるでしょう。特にソースについては氏のツイートに、

「いや、これから自民党の応援に行かないといけないので……」

という手塚治虫のものと言える発言があるからには余計にそのソースを示した方が良いでしょう。あと選挙中に共産党が食事を勧めるって、これが真実ならそれだけで法的にいかがなものかってなり、攻撃対象にもできそうですね。

有名な話なのにソースもないし、広まってもない

 ところで唐沢俊一氏はこの話を「有名な話」としていますが、有名なのに探してもソースがないというのが現状。ツイッターで「手塚治虫 自民党 応援 OR 演説」や「手塚治虫 共産党 自民党」などで検索してもソースがある人、いないんですよね。ちなみに唐沢氏は2022年にも類似のツイートをしていますが、そっちはバズらずに終わりました。またこの手塚治虫自民党に関して、

共産党応援の後に自民党の応援に行った(唐沢ツイート)
・午前に自民党、午後に共産党の応援をした
https://twitter.com/yuno_sarashina/status/1446678893071515651
・同じ日に自民党共産党の党大会(演説会)に出た
https://twitter.com/ki_nikki1990/status/947773137839517696
自民党共産党の両方に応援文を書いた
https://twitter.com/yukehaya/status/419845303735300096

またこれ以外にも赤旗まつりと同時期に自民党の応援をしたというツイートも存在しており、いくつものバリエーションが存在します。この派生具合、そしていずれもソースは存在せずに伝言ゲーム的に続いていることを考えると、この動き自体を見てもかなり怪しいと断ぜざるを得ません。それとこの種の言説がツイッター上で出てきたのは現存しているので確認できるのは2013年ごろから*1、バズったといえるのは今回2023年の唐沢ツイートだけだと言えましょう。
 またツイッターを離れると、2012-10-02の「手塚治虫は共産党シンパだった?」というスレッド「手塚治虫 総合26(フウムーン)」の5chまとめ記事が存在し、以下のような書き込みが存在します。

  これからは人間みんな平等な環境にならなければダメだと思います
  今本当に人権というものがないがしろにされている
  20世紀を迎えて博愛主義を叫んでるのにこれでは本当に恥ずかしくなりますよ
                   ――手塚治虫
共産党の党大会にて)
 
  今の世界自由競争が第一になくてはならないと思います。
  欧州やアメリカを見なさい。
  彼らは率先してさらに競争力をつける環境を模索し施行し経済力を強めて言ってる
  これに日本が取り残されてしまうのは断じてあってはなりません。
  私は日本もさらに競争力をつけるべきだといいたいのです。
  こんなことを言うと落伍者が出るダメだと言い張る人がいます。
  でもそんなの競争を行ってるから当然出てくるんですよ。
  人権、人権言ってるのは甘えでしかないんです。
                   ――手塚治虫
(同じ日の自民党党大会にて)

ちなみにこのスレッド内では党大会が同日に開催されていないという指摘があり、また自民党の月刊自由民主を調べて以下のような書き込みをしている人物も存在しています*2

649 :愛蔵版名無しさん:2012/10/01(月) 14:38:36.64 ID:???
うーむ、74年からの「月刊自由民主」の、党大会の報告がある号だけをあたったけど 手塚の発言はない。(来賓として招かれた文化人の発言はある。曽野綾子とかバレリーナ声楽家など)

また発言内容自体に訝しみを感じていますし、個人的感覚としても自民党のスピーチ内容は新自由主義能力主義、人権の否定を含むもので残っている手塚治虫の言説からは強い違和感を感じるものであり、真実性が疑わしい。後述する様に機関誌を調べましたが少なくとも見かけませんでした。大体、この書き込みも果たして何年の話なのかを一切書いていない時点で信じるに値しません。ちなみにこの「党大会」書き込みのおそらくの初出は2005年の「アニメ・漫画業界人「名言」スレ 2」と思われますが、その時からすでに出典はありません。なお上記は「党大会(演説会)」の話であり唐沢氏のツイート内容である「同じ日に応援」とはやや異なるものとはいえ、狙いそのものは手塚治虫自民党も応援する、聴衆のウケ狙いで主張を変える「ノンポリ」的な人物、共産党支持者ではないというように手塚治虫像を修正したいという傾向が伺えます。
 そしてネットで「手塚治虫自民党を応援」関連で現状確認できた最も古い情報は2003年12月にインターネットアーカイブに記録されているkadzuwo氏によるアマゾンのリストの次の一文です。

動物農場角川文庫版に対して)
kadzuwoのコメント: その一方で、この有名な反共文学がヒントになっているであろうことも自明ですね。共産党シンパとして有名ですが、その一方、選挙では自民党議員の応援もしていました

「その一方」という書き方なために同日の応援かまでかは不明ですが、今の手塚治虫自民党も応援と文脈は似ています。なお、この「kadzuwo」というアカウントですが、ただの匿名というわけではなくおそらく作家の志水一夫氏のことでしょう。志水氏はと学会系の人物でもあるので唐沢氏ともつながりはあるでしょうし、もしかするとと学会周りでこの手塚治虫自民党応援言説が広まったという可能性はありますが、ただ2004年までのと学会誌には該当情報はありませんでしたし、志水氏や唐沢氏の書籍でこの言説は現状確認できていません*3。ついでに言うと唐沢氏のHPの雑学掲示板をインターネットアーカイブで確認可能な部分も全部確認しましたがそこにもこの言説は存在しません。
 さて、この志水氏のリストによって「手塚治虫自民党を応援」は2003年末にはネット上で形成されていたこと自体は確認可能です。では、ということで5chの過去ログにおいて、「手塚治虫」をスレッド名に含むスレッドを2005年までしらみつぶしに検索しましたが自民党応援言説は存在していません。ただ、2003年に以下のような「自民党の機関誌に寄稿」という言説は存在します。

680 :手塚治虫(本物) ◆News/n6/H2 :03/04/13 14:31 id:KXVB5M7l
左傾化が進んでいた時代だからこそ「流行」を取り入れて左っぽい漫画を描いただけ。
手塚氏の考え→右翼左翼心情主張=流行
大体本当に左翼なら聖教新聞とか自民党機関誌に寄稿したりするかと
【手塚治虫】2003年4/7鉄腕アトムついに誕生★2

ここで書き込みをしている手塚治虫(本物)氏は同年の別スレッドでも自民党機関誌に寄稿と書き込みをしており、また別の人物も2003年に同様の書き込みが見られます。こうみると2003年ころに手塚治虫自民党機関誌にも寄稿していたという話の流布は見られます。なお後述しますが、手塚治虫自民党の機関誌である「月刊自由民主」に寄稿した事自体は事実ではありますが「自民党を応援」という様な内容ではありません。以上の様に5ch内の過去を漁っても機関誌への寄稿が事実とは言え、「手塚治虫自民党を応援」は少々胡乱といえます。ただ2000年代のHPなどはかなりの割合で現在存在しておらずそれらの検証はほぼ不可能であること、また5chにしてもスレッド名に「手塚治虫」と書かれていないスレッドでの書き込みが存在する可能性などを考えると、結局のところ「手塚治虫自民党の応援」というのはデマと断ずることはできません。なお応援という文脈とは別として産経新聞創価学会の潮、赤旗などに連載していることを考えれば、少なくとも手塚治虫は自分のマンガ掲載媒体に関してはそこまで政治的意識によるえり好みはしなかったとは言えます。

赤旗における手塚治虫の掲載について

 次に手塚治虫が実際に選挙応援した日はいつかであるかと赤旗から探っていきます。調べる時期ですが作業の手間を若干軽減するため、また唐沢俊一氏は松本善明氏の選挙応援という人物指定をしているため、松本氏が出馬した下記の衆院選時期近辺に限ります。つまりは松本氏が初出馬した1963年から手塚の亡くなった1989年前の選挙である1986年までです。そして結果は以下の通り。


赤旗における手塚治虫の選挙応援の有無(衆院選のみ)】
1963年11月 無し
1967年1月 有り(演説有り)
1969年12月 有り(演説有り)
1972年12月 有り
1976年12月 有り(演説有り)
1979年10月 無し
1980年6月 有り(演説有り)
1983年12月 無し
1986年7月 有り(演説有り)


そして各記事の内容は次の様になります。
手塚治虫の写真などが載っていない記事は写真を割愛しています。

■1967年
1967年1月15日

四区から必ず松本善明
日本共産党東京西部地区委員会主催の日本共産党政談講演会は、十四日午後六時から渋谷区公会堂で宮本顕治中央委員会書記長を迎えてひらかれました。
(略)
漫画家の手塚治虫氏も、松本善明候補の激励にかけつけ、「松本さんを支持するのは先輩だからではない。わたしは戦争がいやでいやでしょうがない。そのために真剣にやってくれるのは共産党だけであり、日本の将来、子供の将来を真剣に考えているのは共産党だからです」と強い支持のことばをのべたあと、壇上に設けられた大きな画板に、松本善明候補必勝の域を込めた鉄腕アトムの漫画を墨くろぐろと書きあげ、激励しました。

1967年1月16日

1967年1月29日(日曜版)

https://twitter.com/JAPAN_manga_bot/status/1226819668767199237

1967年の赤旗上で確認できたのは以上のものです。今ネット上で流布している手塚治虫の有名な写真がこの1967年1月14日の講演会のものです。この講演会は午後6時から開かれたものであり、他の登壇者なども当然いるものであり、この講演会の後に自民党の応援に行った可能性は限りなく低いと言えるでしょう。

■1969年
1969年12月2日

松本氏を再び国会へ
国会解散を一日あとにひかえた一日夜(引用者注:午後時6半開催)、松本善明(略)後援会主催の「松本善明をはげます大文化祭」が杉並区の杉並公会堂でひらかれました。
(略)
また手塚治虫氏も特別出演して大きな松本氏の似顔絵をかき松本氏をはげましました。

1969年12月14日

■1972年
1972年12月8日

■1976年
1976年11月21日(日曜版)

1976年11月21日

1976年12月5日

鉄腕アトムも味方” "善明さんを国会に"手塚治虫さんら訴え
共産党ガンバレー」と正義の味方、鉄腕アトムが飛び出しました。投票日を数時間後にひかえた四日夜。
(略)
「正義の味方は松本善明さん」と、応援にかけつけた漫画家の手塚治虫さんは、松本候補と大阪北野中学時代の同期生。
ロッキード灰色高官とかブラック高官が当選したら、こどもたちは”やっぱりお金を持っている人が強いよ”と思い、お金をもうけることを考える。お金をもうけるためには何でもやるという論法になってしまう。正義の味方は鉄腕アトムのように十万馬力で飛んでくるのではない。働く人たちのために、ふだんから地道にやっている人だ。その人はここにいる。松本さんだ」。

■1980年
1980年6月20日

手塚氏大きなマンガで訴え
(略)19日午後、漫画家の手塚治虫さんが新宿区の戸山ハイツにかけつけ、最終盤の激闘を続ける日本共産党上田耕一郎候補を応援しました。(略)「戦争の怖さを知らない若いお父さんやお母さんがずいぶんいると思いますが、安保条約のもとでアメリカがどこかと戦争をすると日本も巻き込まれる危険性があるます。こういうような状態が起こってくる可能性がるのです。」(略)「安保賛成の政党やそういう政党と仲よくしようとしている政党がいるんです。安保反対でがんばっているのは日本共産党だけ。その先頭に立っている上田さんをふたたび国家に送り出してください」

 この1980年は衆参同日選挙であり、上田は参議院選挙。松本も立候補していますがこの80年では紙面上を確認するだけでは手塚は松本を応援していなかったようです。86年においても上田を軸に応援しており、応援している対象に変化が見られます。

■1986年
1986年7月6日

長いですが、手塚治虫政治的主張が分かりやすいので全文引用します。

手塚治虫さんが共産党候補応援 戦争から子ども守る党
選挙戦最終日の五日、東京・国電ん渋谷駅ハチ公前で開かれた日本共産党街頭演説会に、漫画家の手塚治虫さんが応援に駆け付け右翼の激しい妨害のなか共産党上田耕一郎参院東京選挙区候補、松本善明衆院東京四区候補の支持を熱っぽく訴えました。訴えは次の通りです。
 みなさん、手塚治虫です(拍手)。きょうは上田耕一郎先生の応援にかけつけました。上田先生はみなさんご存じないと思いますけど、実は漫画家なんです。だからといってぼくが漫画家だから上田先生の応援にきたわけじゃありません。ぼくはいままで四十年間、漫画を書いてきました。しかし、みるにつけいまの子どもたちの心は本当にすさんでいます。親子の断絶だけではなくて、肉親殺しとか、あるいはいじめとか、あるいは自殺の問題まで含めて本当に子どもは最低の状態になっていると思うんです。
 しかし、これはたんに教育の問題ではありません。世の中がそうなっている。そしてそれはいいかえれば政治がそうなってるからなんであります(拍手)。
 みなさん、上は政治屋からあるいはオモチャ屋から映画からなにからなにまで、今の世の中は、だんだん、だんだんキナくさくなっております。
 ぼくは四十年前に戦争を体験しました。みなさんのなかに戦争を体験された方はあまりおられないと思いますけど、本当に戦争は怖い。怖いし、もうどうしようもない状態になります。そういう状態にみなさんのお子さん方がなるかもわからない。本当になるかもわからない。私はそれが心配なんです。しかし、いまの政府にそれをお願いしてもとんでもない反対の方向に、反対の方向にいこうとしてるんです。漫画家の力では、それだけではとても政府の力をひっくり返すことはできませんけれど、ただ一つ、そこにひっくり返せる政党があります。それは日本共産党なんです(拍手)。
 なぜかというと他の野党は残念ながらみんな今の政府になんかの形で加担しようとしてるからです。日本共産党だけが本当の気持ちで戦争に反対しておる。そしてそのために努力をされておるわけです。
 どうかみなさん、みなさんのお子さんが、お子さんのない方はみなさんのご兄弟とか、あるいはみなさん自身がもしかして戦争に巻き込まれるかもわからないという不安があるならば、それを反対する大きな勢力である日本共産党にあす(六日)はぜひ投票をしていただきたい。ぼくもやります。そして上田耕一郎先生を松本善明先生にもぜひ応援をお願いしたいと思います。そのために私はかけつけました。どうもありがとうございました(拍手)。がんばってください。(拍手)

 手塚治虫衆院選関連の赤旗記事は以上の様になります。ただ赤旗縮刷版を手作業で探している為に細かい所の見逃しや抜けがある可能性に留意してください*4。こう見ていくと赤旗で確認できる範囲で1979年、1983年は選挙応援はしていないように見受けられます。それと赤旗では選挙期間中に共産党応援の著名人一覧(1969年などの記事)がありますが、手塚は一時からこの一覧にはでなくなります。これらのことから基本的には松本善明上田耕一郎との個人的な関係性が応援の動機として強い様には見えます。また上記の赤旗松本善明の選挙応援をしている時間帯は大抵夜や最終盤と言える時間帯や時期であり、この前後に自民党の応援に行くとは少し考えづらいです。また86年はその演説内容からしてもこの後に自民党の応援演説に行くのはさすがに怪しい、というか人間としての信用性に関わるような話で、仮にこの後に自民党の応援に言っていたら二枚舌と週刊誌などで書かれてもおかしくない。ですが国会図書館のデジタルコレクションなどで調べた限り週刊誌などでそのような内容の記事は見受けられません。以上のことから唐沢俊一氏の松本善明の応援の後に自民党候補の応援をしたというのは、赤旗上から見ても少々怪しい内容と判断せざるを得ません。
 ちなみに話は選挙とは離れますが、手塚治虫は選挙以外にも赤旗まつりに複数回参加しており、1977年10月に開かれた赤旗まつりに関するまんが教室の記事においては、「毎年参加している」という旨の発言も書かれており、斯様に手塚治虫赤旗共産党)との関係性は強かったことが伺えます。また手塚治虫赤旗からは原稿料を受け取らずに書いていたというエピソードがネットでは有名ですが、それの出典は手塚死去後の赤旗記事となります。記事そのものはこちらのHPで引用されています。

自民党機関誌における手塚治虫の掲載について

 次に自民党機関誌上での手塚治虫の扱いについてです。まず自民党の機関誌は今は週刊/月刊の「自由民主」が存在しますが、過去には1956年から始まる「政策月報」、のちにこれは1974年に「月刊自由民主」と変えた月刊誌、その他には1955年から発行の週刊誌「自由民主(1967年からは「自由新報」)」が存在しました。まず月刊の機関誌から見ていきますが1回だけ手塚治虫の寄稿が確認できます。それが「月刊自由民主」の1984年10月号です。

全文は長いので最後の主張部分だけを引用すると、

私は子どもたちをめぐるマスコミや娯楽の規制には大反対だが、むしろ、子どもの自体から生きもののの生命を尊重し、生きるということの大切さを充分知らしめる教育をほどこすことは絶対に必要だと思う。そのことを認識して育った子どもは、くだんの好戦的なアニメを見てもその内容の善悪を、はっきり判断するだろう。そういう教育を、カリキュラムに加えることはできないものか。青少年の犯罪や自殺、肉親や他人への思いやりの欠如、ひいては自然破壊の問題も、やがて解決されていくのではないか。
 臨教審では、偏差値教育の見直しが挙げられるようであるが、制度もいいが今の子どもたちには生命の尊厳を徹底的に教えることをいの一番にねがいたい。

というもので、道徳教育などとは相性の良い内容とはなっているとは言えますが、86年の共産党候補への応援演説を考えればその主張には類似性が見え、自民党機関誌だから主張を変えているような形跡は見受けられません。ちなみにこの月刊民主には多くの人間が文を寄せていることを考えれば、当時の文化人である手塚治虫に対して寄稿文の依頼をしたこと自体は不思議ではありません。また手塚側も断るほどの強い政治的意識まではなかったと言えます。ただ政策月報の創刊時期である55年から手塚治虫が亡くなる89年までの34年間の間に月刊の自民党機関誌でこの1回しか寄稿文を寄せていないことを考えると、手塚治虫が持っていた政治性から自民党側が控えていた可能性は高いと言えるでしょうし、寄稿文以外の演説会の様な参加形跡もないことから、自民党手塚治虫との関係性は薄いものと判断しても間違いは少ないでしょう。
 次に週刊の機関誌である自由新報(1955年ー1967年は「自由民主」だが調査期の大半が自由新報のために以下から自由新報で統一。)についてです。自由新報は国会図書館においても初期から60年代末までの所蔵にはいくつもの抜けが存在しており、安定してその紙面が確認できるのは70年代からとなります。さらに毎週火曜発行ですが、途中から最終日曜日にも発行する日曜版が存在するものの、こちらは89年までの間にも抜けが多く存在しています。通常版では党外の人のインタビュー記事の様なものが載るコーナーが名前を変えながらも常に存在していますが、ここには完全外部で1回しか登場しない人物もいれば自民党と融和的な人間が年に数回出るというのもザラというもので、そこまで開かれた場ではありません。その反面、日曜版は確認できる限りほぼ外部、それも俳優などのタレントや有名人を呼ぶコーナーがありますが、ここの部分の確認の大部分が欠如しています。これがかなり痛い。またマイクロフィルムでの確認となり、正直なところ手作業による確認抜けがないとは言い切れません。斯様に限界のある調査となりましたが、国会図書館に現存する自由新報の55年からを手塚死去の89年までの自由新報のマイクロフィルムを全部確認しましたが、手塚治虫の寄稿記事は一つも探し当てられませんでした国会図書館所蔵資料に存在しない期間があることや、見落としがあった可能性も考慮すれば断言まではできませんが、少なくとも赤旗での、それも選挙選のみに絞った記事だけで上記の様な複数の応援記事があった事を鑑みれば日刊と週刊という差はあれど、手塚自身の政治性の反映があったと考えていいでしょう。ちなみに脇道ですが、自由新報では漫画家は何人も確認でき、例えば翼賛漫画家ともいえる近藤日出造などは何回も出ます。今でも通じる漫画家としてはやなせたかしが3回、水島新司が1回出ていますが、彼らの記事を読む限りは自民党応援という内容よりも政治性の薄い新聞にある普通のインタビュー記事の枠をあまり出ていないように感じます。この著名人コーナーは出る人によって政治性の有無が激しく、出たから自民応援とまでは言い切れないところがあります。やなせたかしは76年選挙時の赤旗にマンガを載せてますしね。あと、機関誌で言えばりぶるも存在しますが、こちらは毛色がかなり違い、また創刊から5年程度まではみましたが出そうな傾向がなかったので説明は割愛します。

60年代の手塚治虫の番組降板事件?や要注意文化人リスト

 ここからは少し毛色は違いますが、1966年の手塚治虫らをはじめとした番組降板事件(?)などを記述していきます。手塚治虫は1966年に文化放送の『キャスター』というラジオ番組でパーソナリティを務めていたのですが、どうにも「毒舌」で話題でその内容は自民党的には嫌だった模様です。それが記述されているのが当時の以下のような記述です。

五月二十七日付自民党広報委情報資料五十二号「最近のマスコミ傾向について」*5の中からー
「しばしば話題になったTBSは、最近傾向がだいぶ変わってきている。これは、経営者側の非情な努力があったのだろうと思うが、『報道シリーズ』『ラジオスケッチ』等、いわゆる偏向的な番組はだいぶ影を消してしまった。-中略-それに引き換え最近『文化放送』の朝の七時から八時の『キャスター』という時間が傾向的な番組ではないかと取沙汰されている。」
小和田次郎『デスク日記3』p.92

 

(7月31日)文化放送「キャスター」の担当者六人のうち毒舌家の岡本太郎手塚治虫、石丸寛の三人が二週間ほど前に番組からおろされた話を聞く。「契約満了」の更改期という説明だが、同じ満了の大島渚寺山修司秦豊の三人は残っている。全員一緒では目立ちすぎるためか。自民党広報委は着々得点。
『デスク日記3』 p.130

 

七月十一日
文化放送のキャスターの担当者のうち、毒舌で鳴る岡本太郎手塚治虫、石丸寛の三人がおろされた。(略)自民党広報委員会が出した「最近のマスコミの動向について」という文書の中で、キャスターは変更番組だと批判されている。そういえば放送打ち切りの「判決」も同じ文書の中でとりあげられている。以前、TBSの「報道シリーズ」も広報委員会の出した「注目すべき放送事例」でたたかれたあと中止になっている。どうやら”自民党広報委員会”がとりあげた番組は中止になるーというラジオ、テレビの新しいジンクスが生まれたようだ。背筋がうすら寒い。
木戸宗田『プロデューサー日記』 中央公論1966年9月号

なお1967年1月の『新評』の四家文雄「幅をきかすコラミストたち」(ママ)よると「キャスター」自体は11月11日をもって終了したとあり、番組開始から45週で終わったとしています。この記事を読む限りは聴取率自体がよい数字ではないような記述があるものの、この記事でも降板事件については触れられており、当時のマスコミ関係者の中では有名な話だったといえましょう。ちなみにこの番組で手塚治虫がどのような毒舌を話していたかは不明ですが、岡本太郎大島渚については1966年7月の『経済往来』で以下の様に紹介されています。

”革新的”は共通
 各曜日ともそれぞれの司会者が持ち味をだしているが、”革新的”は共通の模様。
 例えば5月21日、担当の岡本太郎氏は、社会党の成田知己書記長に電話インタビューを試み、成田氏は国会の会期延長について社旗等の方針を説明、自民党の強引なやり方に批判を加えた。そのあとの岡本氏のことば―
社会党もあと数年すれば政権を担当する党なのだから、そういう党としての強さと豊かさ、さらに楽しさといったものを、今から国民の前に示してほしい。今後の国会では、多くの国民が疑問に思っている諸法案が審議されるが、これについて社会党は国民を代表して抵抗してほしい……」
(略)また、大島渚氏(5.19)
「六年前の安保改定は日本の体質を変えたといわれるが、安保闘争の年をピークとして、それ以後はわが国の民主主義が失われてきた期間ということができる。安保のときは民主主義を守るために断固として闘うという姿勢が打ち出されたが、昨日の日韓条約のときはマスコミや論壇もつよい批判を加えられなかった」と述べたあと、ナショナリズムについて、「最近の週刊誌に米中戦争の架空物語が出ているが、そういうことも起りかねない最近の情勢である。そういう中で、いたずらに国民感情をあおるのは、日本の帝国主義やナショナズムの暴走を招きかねない。そういうこのないよう、十分戒心しなければならない」

経済往来では文化放送を他番組と合わせて「最左翼」と評するほどで、この記事自体は批判的な論調として紹介しています。ここからもわかる様に少なくともこの『キャスター』という番組は当時の「革新」側の言論の場でもあり手塚治虫共産党応援演説を合わせて考えると、岡本太郎大島渚の論調とそうは遠くはなかったであろう事は想像できます。そして番組自体は66年であることを考えると、この近辺の時期に自民党議員が手塚治虫を応援に呼ぶという可能性はかなり低いと考えられます。
 そしてこの事件からは少し遡りますが、1964年に自民党は「要注意文化人リスト」というのを配布しています。これは週刊文春の1964年12月14日号にそのリストの記事があり、それは以下の様なものです。

さてこの「要注意文化人リスト」なるものは自民党広報委からマスコミ関係者に配ったものであり、その中身は、

公安調査庁の作成になるところの”アカハタ機構の各社・文化人・芸能人等名禄”

というものであり、昭和35年から38年末までのアカハタ寄稿者、選挙での立候補者の推薦人*6となった239人の名前と掲載年月日入りで納められたA5判20ページのリストです。自民党広報委の塚原委員長(戦前における同盟通信の記者)はマスコミ側が資料について話したら参考に欲しいと言われ上げた、マスコミ側ははじめから袋に入れてテーブルの上に置いてあったと意見が対立していますが、真相は不明。とはいえ記事内にある様に「公正な報道」をしてほしいという意図はバリバリと感じます。記事内では林家正蔵城山三郎、南部儀一郎、石垣綾子星新一岡部冬彦青地晨などなど。そして手塚治虫のインタビューも載っています。そして、以下がその手塚治虫のインタビュー。

ぼくはいまアカハタの日曜版に連載していますが、仕事を頼まれるときはいつも相手の目的を聞くことにしています。アカハタの場合もそれをたしかめましたが、とにかく子供を喜ばすためなら、ただそれだけのために描く、という風にしています。はっきりいって、右も左も、とにかくイデオロギーに徹しているやつはバカだと思ってますからこれからも、そんなのは相手にしないで、描きたいものを描くだけのことですよ」

かなりノンポリ寄り、イデオロギー闘争には加わらないという姿勢が見える発言であり、この発言は唐沢俊一氏などのツイートにあるノンポリ像としての手塚に近いものではあるものの、この1964年以降の共産・革新勢に対する選挙応援への傾きを考えると言動とのちの行動が一致しているとは言えません。これが30代中盤の時の政治思想だったのか、それとも雑誌記事のウケを狙ったのか、思想隠しのようなものを狙ったのか、本音なのかはわかりません。ただなんにせよ後の行動からみればこちらの発言の方がややイレギュラーと考えます*7

 最後についでに書いておきますが、1967年の都知事選において革新陣営は美濃部亮吉を推薦するわけですが、その際に当然のごとく手塚治虫は美濃部を応援しています*8京都府知事選では革新系である蜷川虎三の応援もしていますし、1977年の参院選時には革新自由連合のメンバーとしても名前を連ねます。事程左様に手塚治虫は一貫して「革新陣営」の支持者、それも明確に声をあげての支持者であることが伺えます。なので文春記事の発言は余計に困りものではありますが……、それはひとまず置いといて。その手塚が自民党の選挙応援に出たというのは、それだけである種のスキャンダラス、二枚舌と言えるわけで、それこそ「有名な話」として語り継がれるような行動でしょう。しかし現状ではその様な話が出典のある状態では見受けられません。これはこちらの調査不足という事も考えられますが、とはいえほんと見つからない。あっても自民党機関誌に一度寄稿文を寄せた程度ですが、これも中身を読むと騒ぎ立てるような内容ではない。産経新聞や潮などで掲載していたことから、掲載媒体を政治姿勢では選ばないとはいえるでしょうが、現状言えるのはその程度。どちらかというとここら辺から話を膨らませた、手塚治虫の政治姿勢に対する「歴史修正」の一環とさえ思えます。でも、どう考えても手塚治虫ノンポリではない。
 困りものなのはこの話はデマとは断定できないことです。自民党の機関紙は所詮は月刊や週刊ですし、個別の議員応援同行記事も現状見つからず。また松本善明以外の共産党員の応援の時だったという逃げ道も存在します。「なかったことの証明」は今回の様な曖昧性を幾重にもまとう話に、それもソースがない場合、いくら調べてもデマと断定は無理。それほどにある意味で「うまい」と言えるかもしれない。共産党応援の同日に自民党を応援したは、ちょっと嘘くさい。ソースほしい。

*1:例えばhttps://twitter.com/JIG_SOU/status/405592875368345600

*2:おそらくツイートの方で同じ日に演説会に出たのを暇だったから調べた人と同じ人物?

*3:志水氏はもともと手塚言説を扱うような類の書籍は少なく、唐沢氏の書籍は多くてすべてを確認はできていません。抜けがある可能性はそれなりにあります。

*4:実際、1980年、1986年の記事を見落としていたので応援無しとした期間に本当になかったのか、少しだけ自信がない……。

*5:東京大学に第51号「日共の四中総を中心とする最近の動き」、第53号「原潜横須賀寄港をめぐる阻止闘争の総括」があるが当該号は所蔵されておらず。国会図書館にも無いなので確認が不可能な資料。自民党本部に行けばあるかもしれないがそこまではやりません。

*6:手塚は文中にある様にマンガ連載の他に推薦人となってリストに入れられている。1963年には松本善明が出馬しているため、その選挙にかかわった可能性は考えられます。ただ当時の松本善明に関する赤旗記事上では文化人の応援はみられるが、手塚の記述はおそらくなし。

*7:3月7日追記。もはや憶測なので補足としての追記ですが、手塚治虫の演説などを見ていくと最もわかりやすいのは「反戦思想」という部分です。この場合、安保法制などを鑑みれば自民党支持の可能性はかなり低いです。ただ手塚が「反戦思想」をどこまで党派のイデオロギーとして捉えていたかは不明であり、1964年当時は革新陣営よりではあるものの「右」や「左」の問題、イデオロギーの問題として「反戦」をとらえていたかが焦点になります。文春が発売された1964年12月(インタビューは11月でしょう)にはベトナム戦争が始まって間もない時期であり、後の泥沼化や凄惨な状況がこの時期にどれだけ入っていたかは不明です。ただこの後のベトナム戦争の展開を考えれば、肌感覚として日本と戦争がより身近な距離感に置かれていったと推測できます。この際の自民党の対応や革新陣営の反応などをみて「反戦思想」とイデオロギーとの結びつき、ひいては支持政党や選挙応援に繋がっていった可能性はあるかもしれません。これはあくまでも憶測を出ずに松本善明との関係と応援への経緯、ベトナム戦争に対する手塚の感情の深堀をする必要はありますが……。

*8:当時の自由新報では「赤い都政」が始まるがごとく書いており、かなり苛烈な書き方が散見されます。

亜留間次郎氏がツイートしていた「ウラジオストック領事のワタナベエリ」という女性の話はデマ


https://twitter.com/aruma_zirou/status/1617711616627470338

 というツイートから始まるツリーがあったんですが。

これに関しては既に以下のツイートなど、いくつかの指摘がされています。

簡単にここでの指摘を要約するならば、


ウラジオストックに「渡辺理恵(リエ)」という男性領事は存在した
・渡辺理恵の夫人は1883年生まれで、大正12年(1923年)ならば40歳
 ※大正12年に20代前半とのツイートとの齟齬
 ※ちなみに指摘はされていないがこの婦人の名前は「リヨ
・「ワタナベ」姓の領事は大正12年には他にはいない
・男性の渡辺理恵は1875年生まれで大正12年時点で50近い
・「着任早々」と言っているが渡辺理恵は明治29年からウラジオストックにいるベテラン勢
 その頃にキャリアを気にする人間には見えない
・その経歴から「ワタナベエリ」という人物を言われた場合、外務省が悩むのがおかしい


いくつか要約も含みますが、以上の様な指摘であり、もっと簡単に言えば「ワタナベエリ」という人物の実在性が確認できないというものでしょう。ただ亜留間次郎氏自身は渡辺理恵の夫人である「渡辺リヨ」が「ワタナベエリ」だという事を以下の様に認めています


https://twitter.com/aruma_zirou/status/1617734997640900608

この場合、実際のリヨは40歳ほど、「リエ」は20代前半となって年齢に齟齬が出ますが、ロシア人にとって日本人の女性は若く見えたという、かなり好意的な解釈は可能です。それはともかくとして、このツイートがあることによって「ワタナベエリ」の実在性をもってして氏の一連のツイートをデマと断定することはできないとはいえます。

ソ連による蟹工船拿捕は当時珍しくない

 亜留間次郎氏については以前、小林多喜二蟹工船に乗ったことなないのに『蟹工船』を書き、その史観が後世に影響しているという様なツイート(意訳)をしています。なお、現在見てみたら削除されていますが、その時の氏のタネ本は『蟹工船興亡史』だとツイートしていたと記憶しています。ならば今回の件もそうなのかと考えて『蟹工船興亡史』を読みましたが、どうにもその様な事は記述されていません。むしろ、大正から昭和期に蟹工船ソ連によく拿捕されていることが書かれており、ソ連に拿捕された船の数は大正期に17件、昭和期(1927~1930)年までに15件とされています*1。この拿捕の多さですが、当時はソ連による12海里問題*2の存在や日本船の技術欲しさなどからソ連による蟹工船拿捕が起こり、そして当然ながらその事件は新聞など記事となるそれなりに起こる外交問題でした。そして調べてみるとこの拿捕の多さについては亜留間次郎氏自体が認識しており、


https://twitter.com/aruma_zirou/status/1584737306631491584

以上の様なツイートをしています。それもご丁寧に「大正12年」という時期の拿捕数を。氏のツイートを素直に読むならば、もともとのツイートは大正12年に「ワタナベエリ」は夫の身代わりをしていると受け取れはします。では、この4件のすべてで代行したのか。それとも特定の一件のみなのか。その答えが続くツイートにありました。


https://twitter.com/aruma_zirou/status/1584740130291449856

冒頭のツイート群では名前は出てきませんでしたが拿捕された蟹工船は「美保丸」であることがわかります。となると、事件が起こった時期は大正12年4月10日。当時の領事は渡辺理恵、そして奥さんである「ワタナベリヨ」が領事代理をしたということになります。

「美保丸」拿捕について

 1944年に刊行された『蟹缶詰発達史』という書籍には「美保丸」事件は以下の様な記述がされています。

4月10日アタミに上陸せるに、巡視中のソ連官憲の取調を受け、尚製造作業中の本船を臨検せられた結果、密漁の嫌疑を以て阿部金之助、中川重剛の両名はサマルガに護送の上拘禁された。而して同船はサマルガに廻航を命ぜられたけれども、さらにウラジオストックに廻航し取調を受くる等のことあるときは事業に支障をきたすので脱出して小樽港に引き返し、漁船の補充を成した上、4月16日再び漁場に出漁した。当時創立準備中の工船蟹漁業水産組合発起人魯社長堤清六等は前期拘禁者解放の交渉を農林大臣に陳述したので、外務省はソ連当局に交渉し、その結果同年5月3日両名は無事帰還するを得た。
p.766

まず当初の亜留間次郎氏はウラジオストックに拿捕された蟹工船が抑留されたとありますが、『蟹缶詰発達史』を読む限り美保丸はウラジオストックに抑留される前に脱出して小樽港に引き返しています。また『蟹罐詰発達史 附録 蟹罐詰年表及び索引』ではもっと簡素に

同船はサマルガ廻航を命ぜられたが小樽に逃る
p.26

と記述。つまりは、「ウラジオストックに(蟹工船が)抑留」という亜留間次郎氏の記述は記録に反します。なのでその後の「解放」という文言や「ワタナベリエ」の行動はおかしい。というか、美保丸については亜留間次郎氏自身が上述のツイートスクショを見ればわかる様に「ウラジオストックへの回航を命じられて逃げた」旨を書いており、「ワタナベエリ」ツイートにおける拿捕からのウラジオストック抑留とは齟齬をきたしています。ただし、ここは書き方の逃げ方として「ワタナベエリ」ツイートを以下の様な解釈をすればその齟齬は一応は解消できます。

日本の蟹工船が拿捕されてウラジオストックに(船員が)抑留されてしまった。当然、領事は(船員を)解放してもらう交渉に当たらなければならない

以上の様にツイートはしていないけれど蟹工船は逃げて、抑留されたのは船員だけだよという論理の逃げは可能。ただし、この解釈であっても後述する資料から疑念のある解釈であることを示します。あと船員解放の為に外務省が交渉しているので、「ワタナベエリ」がいるならば外務省にばれますよね。
 美保丸を深堀する前に他の漁船拿捕の件についても触れていきます。まず近い時期に抑留された喜久丸についてはウラジオストックに抑留されているために氏の言っていることは喜久丸である可能性はあります。では、喜久丸についての記述はというと以下の様なもの。

ウラジオストックに曳航の上、密漁海賊船として起訴された。これが裁判は第一審においては船体没収、船長以下四名が処刑されることになったが、上告の結果無罪の判決を受け、同月23日ウラジオストックを出帆して帰還した。
p.765-766

裁判の中身まではわかりませんが、ここにも領事の話も出てきません。そして抑留という意味では約1か月後に拿捕された俊和丸(第一敏丸という船も拿捕)もウラジオストックに抑留されていますが、こちらは裁判に負けて罰金、製品没収後に船体、船員が解放されています。喜久丸、美保丸にはなかった「罰金(賠償金)」の存在(p766-767)があり、氏の発言はもしかすると俊和丸である可能性もありますが、農商務、外務海軍各省に保護を願い出て交渉をしていることから領事の夫人が交渉の前面、ましてや軍艦を爆破するぞという脅しをするのは考えづらいです。夫人のその行動自体が外交問題に発展しておかしくない過激な行動であり、交渉においてはマイナス要素の方が強いと考えられます。そもそもこの状態で夫人側が日本側にダマで出来るとは到底考えられません。どうせなので吉野丸についても記述しますが、こちらはウラジオストックに抑留はされてはいませんし、賠償金などはなく逃亡に成功しているので該当の船には当たりません。また吉野山丸の詳細な顛末は1924年1月の『水産界』において野村利兵衛が記述していますが、迫撃を受けながらも逃走に成功したと書かれています。

当時の函館毎日新聞の記事について

 当時について参照するならばということで『函館毎日新聞』の大正12年4〜6月のマイクロフィルムで漁って当時の記事を探しましたが、当然ながら氏が言っている様な記事はありません。ただ函館毎日には吉野山丸以外の各漁船の拿捕事件についてはそれぞれ記述されており、特に氏の言っている美保丸についてはかなり詳しくその状況が記事になっています。それが函館毎日新聞1923年5月2日夕刊の次の記事です。

今二日午前一時沿海州のネリマ漁場に漁夫280名を送り込んできた汽船萬成源丸(1500トン)が入港した同船を訪れると、いまだ耳新しい美保丸の拿捕された船員二名と高田商会製剤部員三名が乗り組んでいる。この五名は実に数奇極まる運命に弄ばれて来たものである。彼等の話によると美保丸が4月8日に漂う中に水の欠乏を見たのでその付近の沿岸に船を寄せて船水を三羽船にて、補充中に突如露国官憲30名程が美保丸船室に踊り込んで銃ピストルを向け□部の上陸を命じたので、乗組中の阿部水産技師外石戸谷漁場の帳場員一名はその理由を問いたるに彼等は美保丸を密漁船と認める旨で如何に抗弁しても聞かぬため、阿部技師は船長に語らい金庫在中の三千円の金を携帯上陸する如く見せかけ自分は露国官憲に引かれたが、それを見た30名の露人等は一安心の体□船を引上て去ったので□間に船は錨を揚げ逃走した。これを見た露国官憲は憤激し阿部技師外帳場を牢獄に投じたが、これを在留邦人が聞きようやく嘆願の結果、引き出され村長の家に預けられることとなったのであるが、阿部技師はこの時数十円の金で酒類を買い村長などに呈し、毎日酔う機会を見ていたが、4月15日村長はじめ数十人の官憲はこの酒に饗応され酔い倒れたので阿部技師は帳場員と二人で逃走するが、ついに発見され発砲された。しかし酒で体が自由にならぬのでウマウマ逃走し、数十里離れた高田商会の製材部に逃げ込んだが、何時露国官憲の襲うやも知れず高田商会は磯舟一隻を与え、頑丈な人夫三名を附し樺太海馬島に向かわせたが、この時不幸にして暴風に遭い再びネリマ付近に漂着したので露国人に発見されるをおそれ邦人漁場の番屋に匿れ居る中、遂に又露国官憲に発見され五名は白米一斗を携帯し、山深く逃れ水ばかり飲んでいた□遥かこの萬成源丸の通航を認め、ようやく救助されたのもので山に入りて十日目であったので、まさに死に瀕した有様であったが全く奇跡的の運命であったと語る。
※字がつぶれてわからない部分は□に、一部読みやすく句読点の追加や漢字を直しています。

この記事を信じるならば美保丸は拿捕された際に、

・阿部技師が機転を利かせて露国官憲を引き付けた際に船は逃走
・阿部技師が投獄後、在留邦人の嘆願の結果、村長の家に預けられることになった
・阿部技師らは村長に酒を毎日飲ませて脱出の機会を探り、そして実行
・酔わせ作戦で逃亡成功、その後に高田商会から船を与えられ脱出
悪天候に遭い再度ロシア側に漂着、露国官憲から逃れるために山に潜伏
・山に入って十日目に日本の船に救助されて奇跡的に生還

という過程で日本に戻ってきています。正直なところ、この記事の語り口にはやや盛ったものも感じますし、『蟹缶詰発達史』における外務省とソ連当局との交渉の結果帰還という記述とも齟齬をきたしています。「在留邦人の嘆願の結果」という部分がもしかしたら外務省の交渉の可能性はありますが……。発達史は1944年刊行という事を考えれば、当時の記事であるこの函館毎日新聞の方が事実性には近い部分はあるとも考えられます。ただ、どちらを信じるにせよ、やはり「ワタナベエリ」、というよりも「領事」の存在すらもここでは語られていません。なお、函館毎日新聞の同日には「自衛出漁の準備」と言う記事があり、ここでは日本政府が渡辺領事を通して露国に抗議をしたとあり、5月2日時点で渡辺理恵が業務を行っていることがわかります。さらに言えば函館毎日新聞を読む限りこの時期の日露は漁業問題などを中心に交渉ごとが多いように見受けられ、だから自衛出漁などどいう記事が出てくるわけです。全記事の全文を読んだわけではないので断言はできませんが、渡辺領事が書かれた記事は他にもあってもおかしくはありません。それともしも夫人が代行してるとしてもすぐにバレそうな気がします。領事館に渡辺領事以外の人間がいなかったとも少し考えにくいですし。これらの事を勘案すれば亜留間次郎氏の「ワタナベエリ」武勇伝はどこから出てきたのか謎ですね。

 『蟹缶詰発達史』において「渡邉領事」、「渡邉総領事」という単語は出てきますが、もちろん件の話についての記述は一切ありません。当時の雑誌である『水産』、『水産界』また朝日や読売においても事件の記述はなく、そもそも氏がツイートした美保丸についての記述はほぼありません。函館毎日新聞の当時の記事には美保丸の拿捕事件の顛末が語られていますが、こちらでの記述も「ワタナベエリ」など登場しません。あえて氏の側に立つならば日ソ国交樹立の時にバレたのであるから日本側資料では全く記録されていない話であり、故に領事が病気であったり、爆破脅迫の件が当時語られていないという可能性はあります。氏は美保丸の件について「移動中にロシア人を海に落として逃げた」、「ソ連の女性閣僚が招待したい*3」、「ウラジオストックの博物館」などとありますが、それについての記述もなくタネ本はほかにありそうです。もしくは氏の創作、と断言まではできませんがただ少なくとも現状言えることは、彼が示す大正12年に拿捕された船の状況を『蟹缶詰発達史』などで読む限りは亜留間次郎氏の書いていることは限りなくデマくさいとしか言いようがありません。例えば氏はウラジオストックの博物館に吹き飛ばされなかった軍艦がある*4など、端々にソ連側の情報を書いてあるのでソ連(ロシア)の書籍がソースの可能性だってありますが、では、そのソースを出してほしい*5。でないと、胡乱だ。
 っていうか、そう。ソースをだせ。出典を書け。何故それを省略するのか。避けるのか。聞かれているのに答えないとか、「そういうこと」と思われても仕方ないぞ。


2月10日追記


https://twitter.com/aruma_zirou/status/1622384287285927938

RT数やいいね数、そして該当ツイートを削除した事、「気持ちのいい話を書くとデマでも伸びる」っていう文面からすると、まあこの話はデマですね。

*1:蟹工船興亡史 』p.141

*2:当時は海外線から3海里を領海としていたが、ソ連は12海里とした問題

*3:ところでソ連初の女性政治局員は1957年のエカテリーナ・フルツェワなので、1956年時点の女性閣僚とは誰なのだろうか。

*4:内容的には太平洋艦隊軍事歴史博物館か。記念艦クラスヌイ・ヴィンペルが展示されており、1923年にウラジオストックにはある模様。https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9A%D1%80%D0%B0%D1%81%D0%BD%D1%8B%D0%B9_%D0%B2%D1%8B%D0%BC%D0%BF%D0%B5%D0%BB

*5:ちなみにロシア語でワタナベエリ(”Ватанабэ Эри”?)で検索しても出てくるのは女優の渡辺えりです。それらしいキーワードをつけても氏の言う「ワタナベエリ」の話は出てこなかったです。

テラスプレスの更新2022年10月31日に止まってた

 記録としてのメモ。テラスプレスというニュースサイトがありまして、2019年6月に一度だけ以下の様な話題でちょっとした盛り上がりがありました。


https://twitter.com/onoda_kimi/status/1138283106073366529


https://twitter.com/syunsuke_takei/status/1140918397900746752

自民党内でどうにもテラスプレスの記事を基にした冊子が配られ、そしてその内容もさることながらそこに描かれた風刺画などが問題視されたものです。当時のハフポストや日刊ゲンダイでは以下のような記事も。

www.huffingtonpost.jp

www.nikkan-gendai.com

この件が話題になった後も通常運転で平日は一つの記事をあげるくらいに頻繁に更新していました。ただその頻繁と言えるほどの努力の甲斐もなく例えばテラスプレスが運営するツイッター10RT以上されたツイートは一つだけ知名度は一切なく、相性の良さそうなネット右派も話題にしない謎のニュースサイトでした*1。で、まあ、そんなテラスプレスが2022年の10月31日を機にニュースサイトツイッター共に更新がピタッと止まっていました。2018年7月13日から記事の更新が始まり、2022年10月31日まで約900本の記事を書き上げており、そして広告などがないことからPVによる収入はおそらくなかった事、そして自民党内での冊子配布を考えれば、資金源やこのサイトが作られた意図というのは推して知るべしなのでしょうが、その更新が止まったという事は契約が切れたのかもしれませんね。すべては憶測になってしまいますが。
 ちなみにテラスプレスの運営者は話題になった当時には伏せられていましたが、のちにHPに運営者が記されており、それによれば「マスターマインド」という企業(?)が運営し、さらにツイッターを信じるならば千代田区に居を置いています。千代田区に所在地があり、WEB制作を一つの業務としているマスターマインドという企業は存在します。ただ、この実在企業のマスターマインドが実際にテラスプレスに関わっていたかまでは会社HPなどからはわかりませんので、ここが作成していたかまでは確証をもっては言えません。自民党関連での政治資金収支報告書などでマスターマインドへの支出でも確認できれば確定なのでしょうが、さすがに範囲が広すぎるので割愛。政治資金収支報告書の確認が検索対応してくれると簡単でいいんですけどね。

*1:内容はニュースサイトの体をとるためか一つの記事当たりの文章がそれなりに長いことなどから、もともと拡散しにくい構造だったと言える。

ククリット・プラモード氏のものとされる「十二月八日」というコラムに関するメモ

 タイ国の首相を経験したククリット・プラモード(「プラモート」という記述もありますが、今回扱う言説では「プラモード」と書かれていることが多いので「プラモード」で統一します。)が「十二月八日」というコラムを書き、そこで「日本というお母さんは~」というくだりを書いたいうのが右派言説の中では有名な事として流布しています。この件に関しては以前弊ブログで、この言説は名越二荒之助の捏造ではないか、という趣旨の記事を書きました。

nou-yunyun.hatenablog.com

引き続き調査を続ける中で、少なくとも名越二荒之助の捏造ではないことが分かりました。上記記事はこの言説の拡散や背景を考える際に未だに有用とは考えますが、捏造ではないことだけは確かなので氏に対する捏造の疑念を呈した部分について、亡き氏の名誉を棄損したことについて謝罪いたします。

「日本というお母さんは~」の初出時期の更新

 話はわき道にそれますが、2022年12月21日に国会図書館デジタルコレクションがリニューアルされ、全文検索可能なデジタル化資料が大幅に増加しました。今回の件もそれの恩恵によって新たな事実が検索可能になったわけです。まず今まで「日本というお母さんは~」という情報の初出は1968年の名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』だと思われていました。氏の著作では出典は明確にならず、その後に出るこの「名言」を扱う書籍を辿るとこの書籍に行きつくからであり、通常の情報だと遡れても1968年が限界だったわけです。しかし国会図書館デジタルコレクションでこの名言の一部分を検索したところ、これより8年前、つまりは1960年にこの言葉を引用している書籍が存在しました。それが日本青年問題研究会による『青年学徒の祈り : 紀元節復活のために』(1960年2月発行)という書籍における難波江通泰による以下の記述です。

近代日本歴史と国際関係 -紀元節を考えるに当って-
ここに於いて我々は米軍の占領政策を考えなければならないのであるが、この問題を考えるに当っては更に遡って大東亜戦争の根本的原因を探求せねばならない。先ずタイ国の記者ククリット・プラモード氏の言に耳を傾けよう。氏は「十二月八日」と題して、
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生れた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話が出来るのは一体誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあった為である。十二月八日はわれわれにこの重大な恩恵をほどこしてくれたお母さんが、一身をとして重大決心をされた日である。われわれは此の日を忘れてはならない。」
と叫んだのであるが、この声こそ、四百年の長きに亘って欧米列強より搾取、虐待された悲惨、無残なる屈辱と圧迫の歴史の中より、遂に解放されたアジア諸国民の魂の奥底なる歓喜の迸りを代表しているものであると見てよいであろう。実に大東亜戦争こそは、欧米列強四百年の登用侵略に対する一大総決算であったのである。
p.75

句読点や漢字の変換違い以外での1968年の名越の文章との違いは「十二月八日はわれわれにこの重大な恩恵をほどこしてくれた」という部分くらいです。名越はこの部分を「十二月八日はわれわれにこの重大な思想を示してくれた」とあり、「恩恵」が「思想」へと変化していますが、それ以外の部分は同じ文章と言えます。名越のネタ元が難波江であるのか、それとも難波江が参照した文章であるのかまでは謎ですが、少なくとも名越の8年前にこの文章があったのは大きい。ただ1960年の難波江にしてもその出典はなく、さらに言うならば難波江の文章は出典先が新聞なのかさえ不明であり、結局のところそのソースはないというのが現状です。
 そう、結局ソースはない。なのでここでこの記事は終わってもいいのですが、今後につながるかどうかわからない思考整理のためのメモを置いておきます。まずこの文章を書いた難波江通泰氏についての情報ですが、この難波江は後に『アジアに生きる大東亜戦争』という書籍を出しており、この書籍内においてもプラモードの言葉が引用されています。そういう意味では名越と思想は非常に近しい人物ではあると言えます。ちなみにその書籍内で藤田豊氏が記事を持っているという発言をしており、この「記事」の出所が難波江という可能性は考えられなくもありません。なお難波江はこの書籍が出た60年2月時点時点では33歳の高校教諭であることはわかりますが、その経歴からタイ語に堪能であった可能性は低いと考えられます*1。とすると、このプラモード名言は難波江以前にもさかのぼれる可能性はあるのですが、国会図書館デジタルコレクションで遡れる限りはプラモード名言はこの1960年が今のところの下限。

■名越二荒之助とのつながりはあるのか
 この『青年学徒の祈り : 紀元節復活のために』が直接名越とつながるのかまでは正直不明ですし、そもそも難波江が捏造したのではないのであればそれをソースとした可能性はあります。ただそこは不明なのでとりあえず名越と『青年学徒の祈り』のつながりはある可能性があるのでその部分を指摘します。まず名越は高校教諭時代から国民文化研究会という会に属しており『国民同胞』という機関誌において幾度か記事を書き、その記事の中で名越は『大東亜戦争肯定論』と共に「日本学協会」という協会に触れる記事が存在しています。そして日本学協会は『日本』という機関誌を出しており、その機関誌の中で日本青年問題研究会『青年学徒の祈り : 紀元節復活のために』という宣伝や書評、それを引用した記事が幾度が載っています*2。つまり名越が読む範囲内でこの『青年学徒の祈り』があった可能性は指摘できます。ちなみに少し話はそれて、日本青年問題研究所なる研究所ですが、これは同名の組織もあるためにややこしいですが、とりあえずは1958年7月に福岡で生まれた団体です。紀元節復活を題に書く程度には保守性を備えた団体といえましょう。

プラモード言説に関する疑念点

 ここからは何個かある疑念点。これは捏造説、非捏造説いずれにも傾く性質のもの。

■1960年に「ククリット・プラモード」という人間を持ってくるか
 捏造の場合、もっとも大きな疑念点は1960年以前にタイ国の一記者である「ククリット・プラモード」という人物を採用するかという事です。はっきり言えば60年時点ならば日本での知名度はかなり低いわけです。ただ例えば1955年の中村明人の訪タイ時に伴う田中正明の記事や1958年の『ほとけの司令官』における記述から全くの無名ではない。また1961年の外務省情報文化局海外広報課による『外国新聞人の見た日本の姿 第1巻』では1959年11月に日本に来日しサイアム・ラット紙上に見聞記を記したとあります*3。捏造であった場合、有名ではないけれどチョイスとしては不可能ではないレベルの知名度とはいえ、しかしやはり知名度を考えた場合、真実性を感じる部分で、当時高校教諭である難波江が無からプラモードを持ってくるとは考えづらくはある。

■1960年近辺のプラモードについての記述
 上記の疑問点に通じるものですが、プラモードに触れた1960年近辺で彼に触れた記述はいくつかあります。とりあえず氏について記述した著作をいくつか触れます。

・サンタ・ラマ・ラウ 著他『アジアの目覚め』 1953
アジア見聞記。自由主義の政治家として記述しており、日本(アジア人)寄りであり白人嫌悪を滲ませる言動をしている。

「戦争中タイはどうして日本に協力したんです?」
 私達が彼を知ってから、後にもさきにもこれがただ一回であったが、ククリットはいらいらした様子を見せた。が、彼の話す声はいくらかうるさそうに聞えた。「それでは伺いますが、私達は貴女方にどんな忠誠を負うているんですか。」
(中略)
「ではこういったらどうでしょう。私達にとって全体主義に陥るより西欧と同盟を結んだ方が危険性が濃いと思われたから、とね。なんといったってわれわれはアジア人です。そして私達多くの者にとって太平洋戦争は白人と有色人種の戦いだったということをお忘れなく。」
p.175

臼井吉見『むくどり通信 : 東南アジア・中近東の旅』 1962
プラモードを『赤い竹』の作者として紹介しており、新聞で論説をふるっていること、日本への知識が深いことを書いているが「十二月八日」についての記述はない。

中村明人『ほとけの司令官』における「友帰り来る」系以外の彼の思想に触れながらの記述が見受けられるのはとりあえずこの2点と思われます。日本に対して親日的な態度などから「十二月八日」の主題であるアジア解放論に近しい思想を当時持っていた可能性はあり、捏造/非捏造にかかわらず発言と思想の間には相性の良さがあった事はうかがえます。

■「友帰り来る」の出典
 以前の記事では中村明人に対する記事といえる「友帰り来る」の掲載誌について田中正明がソースとしている「フサイア・ミット」誌が実はサイアム・ヤット誌ではないかとの疑いを持ったものの、アメリカ議会図書館にはそのような記事はサイアム・ヤットにはないという返事をもらいました。そしてその後調べた結果ですが、この「友帰り来る」についての記述があった日本書籍を見つけました。それが外務省情報文化局による雑誌『世界の動き(42号)』(1955年8月)です。その記事によれば中村明人は1955年6月8日から29日までタイに滞在しており、その際に「キャティ・サック」誌上で「友帰る」という論説を発表したと読めます。この「キャティ・サック」はタイ語ではおそらく””หนังสือพิมพ์เกียรติศักดิ์”という名前で、実際に当時にあった新聞である事が確認できます。またプラモードがこの誌上で論説を発表しているという情報もタイ国圏のネットでは確認可能です*4。残念ながら今は廃刊している様で当時の新聞にあたれる可能性も低そうなのですが、少なくとも外務省も触れており、タイ国での存在も確認できることから中村明人のプラモード記事に関しては状況的に存在することは確実と言えるでしょう。ただ、この「キャティ・サック」上で「十二月八日」が発表されたか否かを考えた場合、少なくとも外務省は触れていないし、「キャティ・サック」で調べても同様の言説は見られないことから可能性は低いと言えます。

■プラモード? プラモート? プラモジ?
 「プラモード」という記述でこの記事は統一していますが、それは名越や難波江が「プラモード」にしているからなわけです。ただプラモードについては外国人なわけで当然に表記ゆれが多数存在します。「プラモード」の他には「プラモート」、「プラモジ」、「プラモト」、「プラモー」、「ブラモイ」etc。名越、難波江の記述を考えると「プラモード」がソース(存在するならば)における表記の形だったとは考えられます。ただ現状で確認できるもっとも早い「プラモード」記述は1955年の日本週報における田中正明の友帰り来るについての記事であり、あとは1958年の中村明人『ほとけの司令官』。これらはソース足りえないので除外ですが、もしも捏造の場合はこれらのところから名前は持ってきた可能性はあるかもしれません。

■「身を殺して仁をなす」という言い回しについて
 「身を殺して仁をなす」というのは論語からの言葉とされますが、この言い回しが果たしてタイにおいて根付いているかという疑問です。そしてこの言い回しは当時から日本のアジア解放史観が好んで使用する言葉でもあり、正直なところかなり日本のアジア解放史観言説と一致しすぎなところがあります、「身を殺して仁をなす」云々。この部分がタイ語的な言い回しを日本で翻訳した際に「身を殺して仁をなす」とした可能性も大いにありますが、とはいえここでの言い回しが日本的なのは拭えません。

【「身を殺して仁をなす」と大東亜戦争を繋げた言説を含む書籍例】

戦勝者の民族解放はいえ得べくして実は至難の事に属する。志士、仁人は身を殺して仁を成すというが、日本の将士、幾百万の白骨の上に、よりアジアの民の奮起を促すゆえんのものがあったと考える。
内山昌宜『祖国日本の予言』1952 p.232

 

このキッカケ(引用者注:アジア各国の独立)をつくった大東亜戦争の、しかも直接彼らの民族闘争に接触を持ち、これを支援し、あるいはともに独立運動に挺身し、あるいは解放のため身を殺して仁をなした日本人の尊い記録をまとめてみたいと、久しく念願していた。
田中正明『アジア風雲録』1956 p.4

 

実に日本は身を殺して仁をなした。十三億の東洋民族を、長い闇の世界から光明世界に誘い出すことを得た事実を思う時、大東亜戦争を以て、人類開闢以来の聖戦と豪語することは、決して空言ではなかった。
野依秀市『正義の抵抗』 1958 p.152

 各々文脈は若干異なる部分もありますが、「身を殺して仁をなす」が幾度も使われていることが分かります。当然ながらここで上げたのはほんの一例であり、探せば類似の言説はまだあります。これらの言説とプラモードの言説はほぼほぼ同じもの。ただプラモード名言が何度も取り上げられるのはまずは彼が日本人ではない権威ある他者であることが大きいといえます。

■「大東亜戦争」と「難産」
 プラモードの言い回しの特徴的な所は「身を殺して仁をなす」というほかに「日本というお母さんは~」という独特の例えです。そんな日本を母とし、大東亜戦争を難産として扱うが如きプラモードの「十二月八日」ですが、日本でも類似の言説が存在します。それが高島米峰が1945年8月31日にラジオでした講演です。

例えて申しますならば、大東亜戦争は、大東亜共栄圏という、素晴らしい子供を産まんがための、努力でありました。そのために、足かけ四年という長い期間を、陣痛の苦しみに悩み続けて来たのでありましたが、不幸にして難産、非常な難産でありました。胎児を助けようとすれば、母の体が危いというので、已むを得ず一大手術を行って、この生るべかりし大東亜共栄圏という、玉のような男の子を、闇から闇へ葬って、辛うじて母親の生命をとりとめたのであります。
高島米峰『心の糧』1946 p.77

このラジオは進駐軍が来るので日本人にその心構えをしてもらおうというもので、そのための言葉がこの後に続くのですが、ただこの出だしそのものはアジア解放論やプラモードの言説との共通性はあります。また時期が不明なもののp.141においても同様の言い回しをしていることから高島米峰はこれ以外にもこの言い回しをしている可能性は考えられます。では、これが「身を殺して仁をなす」系言説と結びついたのかというと、正直この高島米峰演説の有名性が分からないので断言できることがないのが現状です。

 以上、つらつらとメモ的なものを書きましたが、結局のところ難波江以前にこの文章があったかどうかまでは不明であり、ソースもない。ソースはない。ソースがない。なので名越の捏造ではないことは確かだろうけれど、この言葉が捏造ではないとは言えない。ただ前回の記事で書いたようにサイアム・ヤットが出典である場合、アメリカ議会図書館での調査を信じる限りは存在しないとの事なので、結局このプラモードによる「名言」の実在性は疑わしいままかなと。
 それはともかくサンキュー、国会図書館デジタルコレクション!

*1:wikipediaよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E6%B1%9F%E9%80%9A%E6%B3%B0

*2:例えば、「日本」第十巻第三号、第十巻第四号、第十三巻十二号、第十五巻第四号など

*3:なお、同書に訳はありますが、「見聞記」の枠を超えるものはなく「十二月八日」に類する記事ではありません。中村明人との親交は記されており、この面から「友帰り来る」の真実性は高まります。

*4:โมเดลคึกฤทธิ์ กับการใช้สิทธิเสรีภาพสื่อ (7) https://siamrath.co.th/n/18332

スイス政府『民間防衛』と冠された「乗っ取り戦争六段階」には書籍にない捏造情報が含まれている

 という画像があります。これ以外にはこんなのも。

そしてこれらの画像の元ネタとなったコピペがあるのですが、これは大まかに分けて三通りあり、そのうち二つは次のようなものです。

◆コピペver.1
「スイス政府民間防衛」より新しい戦争。その名も「乗っ取り戦争」
第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」
第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」
第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」
第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」
第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」
最終段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量植民。」

 

◆コピペver.2
武力をつかわない戦争の形 その名も「乗っ取り戦争」
第一段階:工作員を政府の中枢に送り込む
第二段階:宣伝工作。メディアを掌握し大衆の意識を操作
第三段階:教育現場に浸透し「国家意識」を破壊させる
第四段階:抵抗意志を徐々に破壊し、平和や人類愛をプロパガンダとして利用する
第五段階:テレビ局などの宣伝メディアを利用して、自分で考える力を奪っていく
最終段階:ターゲットとする国民が、無抵抗で腑抜けになったとき大量移民

コピペver.2は2013年ごろに流布し始めたコピペであり、ver.1及びもう一つのバージョンはver.2よりも古いものとなります。その二つの生まれた時期についてはこのコピペが生まれた背景について語る際に詳述します。何故2013年ごろに微妙に文言が違うコピペver.2が出来たかというと、これはおそらくコピペver.1を基にして画像を作成した際に収まりやすい様にであったり違和感を少なくするために文言が変更され、そしてその画像を見た人間がそこにある文言を使用してコピペver.2が作成されたと考えれます。生まれた時期などまでは詳しくは追っていませんが、記事トップの画像は2013年ごろには形跡が確認できるために、状況的には画像→コピペver.2でしょう。
 さて、以上の様に文言を含めてこの「乗っ取り戦争六段階」とでもいうべきミームは様々なバージョン違いがあり、上記画像の細部違いも含めれば結構な枚数が作成されていることがわかります。いらすとやを使用した画像などは一番下に「このチラシは今の周辺諸国やメディアに対して危機感を抱いている個人が作りました」とあり、これが本当なら「チラシ」として物理的に配布されている可能性はあります。かなり手が込んでおり、果たして「個人」が作ったのか若干の疑念もありますが……。それはともかく事程左様にこの”スイス政府発行『民間防衛』より”はネット右派が好んで使用する画像であり、情報になっています。  で、この件については過去に弊ブログで次のような記事を書いており、スイスではもはやこの民間防衛は「過去の遺物」であると指摘しています。

nou-yunyun.hatenablog.com

ただ、この際に画像に書かれている各情報に対しては何らの検討も行っていなかったのですが、「忘却からの帰還~Atomic Age」というページに「「スイス民間防衛」にない「乗っ取り戦争六段階」の登場と普及」というのをつい先ごろ目にしました。これを信じるならば「乗っ取り戦争の六段階」という情報はスイス民間防衛にはないという結構な衝撃情報です。つまり、捏造である、と。そして実際に調べてみると確かに実際にこの「乗っ取り戦争の六段階」の画像には捏造項目が含まれており、一部情報はスイス民間防衛には存在しません。具体的に言うと、

【スイス政府「民間防衛」にはない捏造箇所】
・「乗っ取り戦争」という単語は存在しない。ただし「概念」は存在
 ※日本版「乗っ取り」とは若干「概念」が異なる
・「乗っ取り戦争」の「六段階」の様なまとめは存在しない
・「最終段階」の「~大量殖民」は存在しない

以上の3点です。ちなみにこのことに気づかせてくれた「忘却からの帰還~Atomic Age」ですが、正直詰めが甘いのであまり参考になりません。ネットの初出も普通に間違ってますし。

スイス政府『民間防衛』という書籍内容について

 本題に入る前にですが、そもそも『民間防衛』という書籍がどういう背景を持った書籍であるかなどは以前の記事で触れているので割愛しますが、この書籍は冷戦下の1969年に配布されたという事を認識してください。時代状況的には戦争が近く、反共思想への反発も強かった時代と言えるわけです。そしてこの書籍は以下の様に構成されています。

目次
平和
われわれは危険な状態にあるのだろうか/深く考えてみると/祖国/国の自由と国民それぞれの自由/国家がうまく機能するために/良心の自由/理想と現実/受諾できない解決方法/自由に決定すること/将来のことはわからない/全面戦争には全面防衛を/国土の防衛と女性/予備品の保存/民間防災の組織/避難所/民間防災体制における連絡/警報部隊/核兵器生物兵器化学兵器/堰堤の破壊/緊急持ち出し品/被災者の救援/消化活動/救助活動/救護班と応急手当/心理的な国土防衛
 
戦争の危険
燃料の統制、配給/民間防災合同演習/心理的な国土防衛/食料の割当、配給/地域防衛隊と軍事経済/軍隊の部分的動員/全面動員/連邦内閣に与えられた大権/徴発/沈黙すべきことを知る/民間自警団の配備/妨害工作とスパイ/死刑/配給/頑張ること/原爆による隣国の脅迫/放射能に対する防護/被監禁者と亡命者/危険が差し迫っている/警戒を倍加せよ/防衛
 
戦争
奇襲/国防軍と民間防災組織の活動開始/戦時国際法/最後まで頑張る/用心/戦いか、死か
 
戦争のもう一つの様相
敵は同調者を求めている/外国の宣伝の力/経済的戦争/革命闘争の道具/革命闘争の目標/破壊活動/政治生活の混乱/テロ・クーデター・外国の介入
 
レジスタンス(抵抗活動)
抵抗の権利/占領/抵抗活動の組織化/消極的抵抗/人々の権利/無益な怒り/宣伝と精神的抵抗/解放のための秘密の戦い/解放のための公然たる闘い/解放
 
知識のしおり
避難所の装備/医療衛生用品/救急用カバン/2週間分の必要物資/2ヶ月分の必要物資/だれが協力するか? どこで?

大きく分ければこの書籍は「平和」、「戦争の危険」、「戦争」、「戦争のもう一つの様相」、「レジスタンス(抵抗活動)」、「知識のしおり」の6つの章に分かれています。「平和」、「知識のしおり」については戦時災害化の心得の様な趣が強く、例えばこの部分から着想を得て出来たのが『東京防災』だと思われます。「戦時下」の為に実際に役に立つかはともかくとして、災害時マニュアルとは言えます。ただこの部分は当然、件の画像には使用されていません。次に「戦争の危険」、「戦争」、ですが、これらの章の特徴的な部分は架空戦記の体で情報が発信されていることと言えます。「戦争の危険」はヘスペリア国のタンカーが潜水艦がタラスク国の潜水艦によって撃沈されたことから端を発する「戦争の危険」であり、最終的に緩衝地帯であるスイス国境に両陣営(注:ヘスペリア、タラスク以外も参戦)が殺到して危機に陥るというものです。次に「戦争」は敵国(名称不明)からロケット弾が町に落ちたことから戦争がはじまるというものです。この章は短いので割愛します。
 そして最も日本のネット上でウケた、というか画像の元ネタになっているのが「戦争のもう一つの様相」という章です。この章は敵国が唱える「新秩序」の宣伝をし、国家制度を内部から崩し、新しい政治体制の樹立を目標とする社会進歩党のX教授という「設定」から話が進みます。この「設定」からわかるように、この章は「内部から外部に共鳴した存在(日本で言えば「在日」、「外国人」、「民主党社民党共産党」など)が既存の国家制度を破壊して国家を乗っ取る」という内容であり、この章のBADENDルートは連邦大統領は辞任、その後に社会進歩党の党首が連邦内閣の首相となり「新生スイスの盟主」を名乗って国家の全権を掌握、秩序回復の為に外国部隊の介入を求めてスイスはその歴史に幕を下ろした、というものです。ちなみにBADENDルートとはどういうことかというと、この章は見た目的にも特殊で、左のページにはBADもしくは「敵による策略、煽動」を配置、右のページにはそれへの対処時のGOODルートや「良き行い」が提示されているところです。

見てわかるようにネット右派へのウケは特に良い内容と言えます。そして、六段階ネタはほぼこの章からなのですがそれは引用元ネタとして後述します。
 この章の次に「レジスタンス」という項目があるわけですが、この項目はスイスが占領状態になった状態で始まる心得の様なものです。この章も「戦争」と同じく短いのですが、この章で使用されている内容も六段階ネタに使用されている形跡が見受けられます。これについてもネタの引用元の部分で後述します。

◆実際の書籍中の「乗っ取り戦争」の流れ
 大体の元ネタである「戦争のもう一つの様相」についてさらに詳しく見ていきますが、この章は以下の様な流れで所謂「乗っ取り戦争」が記述されています。


「戦争のもう一つの様相」におけるいわゆる「乗っ取り」の流れ
1)敵と通じた政党の結成
2)同調者の登場
3)敗北主義(平和や人権、軍拡反対を訴える)などによる宣伝
  ※ここには自国の反応や外国からの発信や交流を含む
4)敵国は技術的優位性を誇ったり、経済的停滞を起こさせようとしてくる
5)経済的措置によって労働者の解雇が発生
6)解雇から端を発するストライキにより混乱
7)敵国は経済的停滞に対して甘言を弄する
----ここまでが第一次作戦。以下から第二次攻勢----
8)敵と通じた政党は要人などに疑惑の目を向けさせ、軍隊や既存体制から民心を離す
9)新聞社などにも人を入り込ませ、メディアを利用したキャンペーン攻撃をする
10)隣国でクーデター発生、侵略者に同調する政権登場
   外国勢力が「秩序維持」の為に軍隊を派遣、スイス国境に迫る
   国境付近ではスイスの部隊と偶発的な戦闘発生、国境突破の危険性
   政府は外国勢力に屈して国家安全保障体制を解体させる
   敵と通じた政党はこの隣国と手を結ぼうと提案
11)経済や治安の悪化。相互疑惑の発生。敵側につく国民の登場
12)敵国と通じた政党が選挙で過半数を獲得
13)外国との交渉。経済破壊と流血のない解決策を求めてくる
14)敵国と通じた政党から連邦首相が登場、外国軍隊の介入、スイスはその歴に幕を下ろす


大まかに言えば以下の様な流れになっています。『民間防衛』書籍上で想定されている「乗っ取り戦争」ですが、10)における隣国クーデターの存在などレアケースの前提や、スイス国境を部隊が突破しそうになったりなどの直接的な「武力」がちらつきます。これらが今流布しているネット右派いうところの「乗っ取り戦争」とは様相が異なることは指摘しなくても誰でも理解できるでしょう。これはつまり、本来書籍にあった流れ全部を示すと日本の種々の状況からだと不具合をきたす為に、日本の政治状況とネット言論空間に応じた形で「日本版乗っ取り戦争」として書籍ではない形で捏造されるに至ったと考えられます。ちなみに上記の流れはこれでもいくらか端折っている状態であり、「六段階」はかなりコンパクトなまとめと言えるでしょう。

 『民間防衛』やコピペ元ネタの「戦争のもう一つの様相」の内容は以上の様な構成なのですが、”最終段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量植民。」”についてはこの時点で否定できます。なぜならばスイスの『民間防衛』は「植民」という概念は一切登場せずに、実際に書籍中に「植民」という概念は存在しません。あくまでもこの書籍は「戦時下の民間防衛」の内容ともいうべきものであり、最終段階としてあるのは前述した様に実際の権力の掌握であったり、別の章でも敵国の武力を伴う侵攻です。つまりこの部分は当時の日本の政治状況に起因して日本で生み出されたわけです。それについてはなぜ生まれたのかを含めて後述します。

「乗っ取り戦争六段階」の引用元

◆もともとは「六段階」ではなく「八段階」
 さて、ここまで「六段階」と書いてきましたが、実は元々このコピペネタは六段階ではなく八段階であり、初期のコピペは以下の様なものです。

「スイス政府民間防衛」より新しい戦争。その名も「乗っ取り戦争」
 第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」
 第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」
 第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」
 第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」
 第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」
 第六段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時を突き、軍事侵攻。」
 第七段階「占領。そして再教育や洗脳を行う」
 最終段階「民族浄化。無意識のうちに」

第五段階までは今と同様ですが第六段階以降が異なります。第六段階目が「~大量植民」に変化したのは当時の日本の政治状況によるものだと思われますが、その際に「大量植民」というワードと相性が悪い元来の第六段階以降の「軍事侵攻/占領/民族浄化」という部分が削除されたと考えられます。元々「大量植民」は書籍にない捏造ネタなので排除し、この八段階の元ネタがどこであるかを指摘していきます。

◆「乗っ取り戦争」という名称はコピペ作成者によるもの
 本題に入る前にそもそも「乗っ取り戦争」という単語についてです。初めに書いた様にこの単語自体は書籍中には使用されていません。この名称はコピペ作成者がキャッチーな言葉として付けたのでしょう。ただ「乗っ取り」という単語は使用せずとも、「戦争のもう一つの様相」という章が次の文章で開始されていることを鑑みれば「乗っ取り」というその名称自体には大きな誤りはないと言えます。

 戦争のもう一つの様相は、それが目に見えないもんであり、偽装されているものであるだけに、いっそう危険である。また、それは国外からくるようには見えない。カムフラージュされて、さまざまの姿で、こっそりと国の中に忍び込んでくるのである。そして、われわれのあらゆる制度、あらやる生活様式をひっくり返そうとする。
 このやり方は、最初はだれにも不安を起こさせないように、注意深く前進してくる。その勝利は血なまぐさくはない。そして、多くの場合、暴力を用いないで目的を達する。これに対しても、またしっかりと身を守ることが必要である。
 われわれは絶えず警戒を怠ってはならない。この方法による戦争に勝つ道は、武器や軍隊の力によってではなく、われわれの道徳的な力、抵抗の意志によるほかない。
p.227

むしろこの章冒頭の文章の範囲だけでこの章が終わっているならば、日本で今流布している「乗っ取り戦争」と『民間防衛』がほぼ同一のものであったとは言えます。実際には『民間防衛』はこの範囲を飛び越えた未来を提示しているので、日本版まとめと齟齬をきたすわけですが。
 ちなみに若干話はそれますが「戦争のもう一つの様相」には六段階の様な箇条書きが一切ないかと言えば、以下の様な記述があることにはあります。

敵は、同調者を探す
敵は、われわれの防衛力を弱めようとする
敵は、われわれを眠らせようとする
敵は、われわれをおどそうとする
敵は、わが経済力を弱めようとする
p.248

もしくは、

分裂したスイスは降伏する
敵は、われわれの抵抗意思を挫く
敵は、国民と政府との間に隔たりを生むような種をまく
敵は、攻撃準備ができている
敵は、武力行使の道を選ぶ
敵は、われわれの息の根をとめる
万事休す
p.249*1

部分的に通じる箇所はありますが、ただしこれが今の六段階の元ネタかというと字面のごとく違います。

◆乗っ取り戦争六段階(八段階)の引用元
 本題。乗っ取り戦争六段階(八段階)の元ネタを記していきます。なお、今の画像で流布している「~大量殖民」はすでに指摘した様に書籍中にないので割愛します。


【「乗っ取り戦争」六段階(八段階)の元ネタ(引用元)と考えられる箇所】
▼第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」

国を内部から崩壊させるための活動は、スパイと新秩序のイデオロギーを信奉する者の秘密地下組織をつくることから始まる。この地下組織は、最も活動的で、かつ、危険なメンバーを、国の政治上層部に潜り込ませようとするのである。
敵は同調者を求めている p.228

 ちなみに上記箇所の翻訳については「忘却からの帰還」に以下の様な指摘があり、誤訳の可能性があります。

この翻訳はいささか疑わしい。該当するフランス語版の記述は、少し違っている。
Une telle action de sape commencera par l'établissement d' un réseau clandestin où se retrouveront les espions et les tenants de !' « idéologie ». ''Ce réseau s'efforcera de glisser parmi les cadres politiques du pays ses éléments les plus actifs et les plus dangereux.'' On n'oubliera pas que les« novateurs ». les « progressistes » se recrutent souvent dans des milieux d'intellectuels à l'affût de nouveautés et peu rompus à la solution des problèmes concrets de la vie sociale.
 
そのような弱体化工作は、スパイと「新秩序」の支持者の地下ネットワークの構築から始まる。このネットワークは、国の政治的枠組みの中で最も活発で危険な分子を引き寄せようと努める。「革新者」と「進歩主義者」は、多くの場合、新しいアイデアを探し求めており、社会生活の具体的な問題を解決した経験のない知識階級から採用されることを我々は忘れてはならない。
[ Défense civile, 1969 ]
 
コンテキスト的にも「政治上層部に潜り込ませる」話をしていない。もともと翻訳した官僚有志の誰かが、政権中枢に工作員を確保するシナリオを念頭においていて、勘違いした訳を書いてしまったかどうかは、今となっては知りようもない。(なお、この部分はドイツ語版から大きく改訂されていて、該当する記載はドイツ語版にはない。)

以上の様な指摘と共に、翻訳という側面ではなく書籍的な流れとして考えた場合、第一段階で「政治上層部を掌握」しているという時点でそもそもこの記述には大きな違和感が存在します。第一段階の時点で最早「乗っ取り」がほぼほぼ完成してるじゃん、と。この記述があるp.228は「戦争のもう一つの様相」という章の冒頭であり、そこから最終的に「新秩序」に共鳴している政党の人間が首相につくわけです。「首相=政治上層部」ではないとはいえ、第一段階(冒頭)時点で「政治上層部の掌握(潜入)」は流れ的にも誤りと考えられます。ただ、それはともかくとして少なくともこの部分に関しては明確な引用元と言える箇所があると言えます。また書籍における「社会進歩党」や知識人などが美辞麗句による「新秩序」に引き寄せられるなど、政治的な人間を「洗脳」、そしてそれが第二段階に繋がるかの様な描写はいくつか存在はします。

▼第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」

(「新秩序」の美辞麗句によって)ジャーナリスト、作家、教授たちを引き入れることは、秘密組織にとって重要なことである。彼らの言動は、せっかちに黄金時代を夢みる青年たちに対して、特に効果的であり、影響力が強いから。
 また、これらのインテリたちは、本当に非合法な激しい活動はすべて避けるから、ますます同調者を引き付けるに違いない。彼らの活動は、”表現の自由”の名のもとに行われるのだ。
敵は同調者を求めている p.228

 この部分はメディアの掌握などは語っていませんが、「大衆の煽動」、「無意識の誘導」には通じるものがあると言えるでしょう。このページの題は「敵は同調者を求めている」というものでありニュアンス的にも近いです。またページは飛びますが、以下の様な部分も。

われわれは、われわれと同調する相当数の新聞記者を利用する。その記者の中には、われわれがつくった文書を信ずる者も出てくるだろう。われわれの組織の中の相当数の者は、最も重要な新聞社から二流新聞の編集局にまで入り込んでいる。
政府の権威を失墜させようとする策謀 p.258

書籍上では社会進歩党の第二次攻勢に当る箇所ですが、この部分は「メディアの掌握」といえる箇所でしょう。また「外国の宣伝の力(p.232)」(後述)、そして「革命闘争の組織図(p.246)」では組織図を示し、その下に「当局、行政組織、輸送、新聞出版、ラジオ、テレビ企業などの内部につくられる組織細胞」という記述があったりと、「宣伝」や「メディア」という枠では他のページでも記述が存在していることから、丸めていますが第二段階の記述も原著に存在はしていると言えます。

▼第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」

学校は、諸民族との間の友情の重んずべきことを教える
外国の宣伝の力 p.232

 「戦争のもう一つの様相」における「教育」という部分は上記箇所のみです。しかし、これだけでは「教育の掌握。国家意識の破壊」とまで言うには流石に飛躍です。しかし、この部分に該当しそうな箇所は一応存在します。それが「レジスタンス(抵抗活動)」の章です。

(スイスが占領化にある状態で)裏切者にまかせられた宣伝省は、あらゆる手段を用いて、われわれに対し、われわれが間違っていたことを吞み込ませようと試みる。彼らは、レジスタンスが犯罪行為であり、これは我が国が強くなるのを遅らせるだけのものだということを証明しようとする。
占領国の国語の学習がすべての学校で強制される。
歴史の教科書の改作の作業も進められる。
”新体制”のとる最初の処置は、青少年を確保することであり、彼らに新しい教義を吹き込むことである。
(中略)
学校では、あらゆる宗教教育が禁止され、精神的な価値を示唆することは一切御法度になる。
占領軍の洗脳工作 p.288

占領後の洗脳工作によって学校内で「国家意識の破壊」とでもいうべきことが行われる記述ととれます。しかしながら「戦争のもう一つの様相」という「武力を用いない手段での乗っ取り」ではなく、この部分は「直接的な武力を用いた占領下(乗っ取り後)」の話であるために、六段階の「第三段階」に置くのはおかしなことになっています。これはコピペ作成者による恣意性を強く感じます。というか、順序が変なので引用としては正しくなく、捏造レベルといえます。

▼第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」

敗北主義ーそれは猫なで声で最も崇高な感情に訴える。ー諸民族の間の協力、世界平和への献身、愛のある秩序の確立、相互扶助ー戦争、破壊、殺戮の恐怖……。
そしてその結論は、時代遅れの軍事防衛は放棄しよう、ということになる。
新聞は、崇高な人道的感情によって勇気づけられた記事を書き立てる。
学校は、諸民族との間の友情の重んずべきことを教える。
教会は、諸民族との間の慈愛を説く。
この宣伝は、最も尊ぶべき心の動きをも利用して、最も陰険な意図のために役立たせる。
外国の宣伝の力 p.232

 また「敵は我々の抵抗意思を挫こうとする(p.234)」においても類似の記述があり、「核武装反対」、「軍事費削減のためのイニテシアティブを」などなどの抵抗意思を挫こうとする文言の例が記述されています。第四段階はこの部分をまとめており、ページの流れ的にも違和感はほぼないことから適切なまとめ方であり、引用といえます。

▼第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」
 第二段階と第三段階と何が違うんですか、この第五段階。第二、第三の引用元が元と言えますが、別個として独立させた意味がよく分かりません。この第五段階。 ただ「自分で考える力を奪う」という部分をメディアなどによる攻撃と捉えると「政府の権威を失墜させようとする策謀(p.256、p.258、p.260)」で怪文書の流布やスパイ、メディアなどによって攪乱工作、要人のスキャンダル、そしてメディアキャンペーンを起こしていくという記述があるために、この部分が元ネタと考えられはします。

▼第六段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時を突き、軍事侵攻。」
 以下からは今画像で流布しているものとは異なりますが一応扱います。ただこの部分の引用元は存在しません。捏造です。「戦争のもう一つの様相」という部分は外国の軍隊が国境付近に来たことにより数度の衝突はありましたが、「軍事侵攻」はなく最終的に社会進歩党という架空政党の党首が全権を握り、外国軍隊の介入を要請するといったものです。また、「レジスタンス(抵抗活動)」の章は占領下から始まる章であり、「腑抜け」云々は全く関係ありません。「戦争」の章にしても特段の前提は記述されずにロケット弾が町に飛ん出来たことにより戦争が始まるというもの。というか、そそもそもこの第六段階以降は軍事侵攻が伴うので最早「乗っ取り戦争」ではありません。

▼第七段階「占領。そして再教育や洗脳を行う」
 第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」で記述した「占領軍の洗脳工作(p.288)」が元ネタでしょう。第三章と若干かぶっていますが、第三章は自国民側の工作員からの洗脳工作であり、こちらは占領軍からの洗脳工作と考えれば、第五段階の様な重複とは言えず、独立させた意味は分かります。

▼最終段階「民族浄化。無意識のうちに」
 捏造です。『民間防衛』には「民族浄化」という単語は存在しません。無意識のうちにされる民族浄化、第七段階の洗脳教育などによって「民族意識を消失させる」という理路だとは思いますが、どう考えても実現不可能でしょう。


 以上がコピペとなっている部分の元ネタと思われる個所です。第一~五、七段階目の元ネタと言える箇所は存在していると言えます。そして各段階とそのページ数を対応させた場合は次の様になります。

【戦争乗っ取り六段階の引用元と思われるページ数】
第一段階(p.228)
第二段階(p.228、p.232、p.246、p.258)
第三段階(p.232(?)、p.288)
第四段階(p.232)
第五段階(p.256~260)
第六段階 捏造
第七段階(p.288)
第八段階 捏造

このページ数自体は調査者である私の考えによる対応表の為にコピペを生み出した人間とは異なる引用元である可能性は十分にあるでしょう。とはいえ第三段階などは急にページ、というよりも章さえ違う箇所を参照している感が拭えず、また参照ページ数を見ればわかる様に所々の要素が飛んでいます。まとめるには不向きなページも存在することは確かですが、例えば「スポーツは宣伝の道具(p.240)」、「われわれは威嚇される(p.242)※敵国の科学技術プロパカンダによる威嚇」、「経済的戦争(p.244)」などは「乗っ取り戦争」の中に入れようと思えば入れられる箇所であるにもかかわらず無視されている状態です。これらのことを考えると、コピペ作成者はかなり意図的に日本でウケる形にしてこのコピペを作成していると考えられます。まとめにしても文章などの情報から箇条書き化する際にかなり上手くまとめているとはいえるかもしれません。ただしそのまとめには捏造であったり、別の章からの引用が見受けられ、箇条書きとはいえ到底適切な引用とは言えません。
 そして何よりも。各要素にネタ元となる引用元があるとはいえ、「乗っ取り戦争六段階(八段階)」はそもそも書籍内に存在する段階ではなく、これそのものが捏造です。書籍に実際に書いてある様なコピペ(画像)は相当に悪質です。

コピペ「乗っ取り戦争六段階(八段階)」が生まれたであろう経緯

◆日本における『民間防衛』の隆盛やコピペの登場
 『民間防衛』は1970年に発売された際にはそこまでの人気はなく、のちに絶版となりますが、1994年の阪神淡路大震災後の1995年に再版されたことにより今の人気の基盤を築いたと言えるでしょう。そして確認可能な2004年ごろからこの『民間防衛』という単語がネット上でも活発に使用されるようになっている形跡が見られます。

そして2ch(5ch。以下、当時を鑑みて「2ch」とだけ記述)においても2004年ごろから「民間防衛」を含むタイトルのスレッド数に活発化が見受けられます。

【00年代の2chにおけるタイトルに「民間防衛」が入ったスレッド数】
2009年 3件
2008年 5件
2007年 2件
2006年 3件
2005年 24件
2004年 7件
2003年 1件
2002年 4件
2001年 1件
2000年 1件
https://kakolog.jp/?q=%22%E6%B0%91%E9%96%93%E9%98%B2%E8%A1%9B%22&d=2000

2005年が24件となり一桁違いますが、これは2005年当時に『嫌韓流』とセットで購入すべしというスレッドが各板に出来たことが大きな要因です。これについては「おかしな人」がステマ的な行動をしていたという事でもあるでしょうが、この行動からは当時すでに「嫌韓」と「民間防衛」がセットとして扱われても不思議はない言論が背景にあったともいえます。今ではこの「嫌韓」の部分に「反中」も入るでしょうが、それはともかくしてこの時点で現在と同様の言説で使用されています。

 そしてこの『民間防衛』が2chにおいて上記の様に言説と結びついて活発に使用される様になった理由としては2004年ごろからの法案が強く関係していると考えます。その法案とは外国人参政権地方参政権」についての法律です。例えば「外国人参政権」という単語を含むスレッドは「2003年 21件」から「2004年 211件」と桁違いに激増します*2。また同様の意味で使用されている「地方参政権」は「2003年 9件」から「2004年 70件」となり、こちらも激増*3。頻繁に反対派によるスレッドが建ち、その中で「民間防衛」という単語を含むコピペ的投稿がいくつか見受けられるようになります。


当時における「民間防衛」を含むコピペ投稿

↓韓国の工作員のやり方
 ∧_∧ 
 <=( ´∀`) 僕は生粋の日本人だけど、
 (    )  地方参政権はOK、差別はよくない。
 | | |     それにこの話題、板違いじゃないか?
 〈_フ__フ
 
韓国の情報戦に大してどんなことがあっても戦おう。
これは「民間防衛」(スイス政府編)いわく、
「戦争のもう一つの様相」である。コピペ、メール、はがき、デモ、なんでもいい
私たちはできる限りのことをしよう。
http://www.geocities.com/hinomarukimigayo2004/
引用者注:「永住外国人地方選挙権(参政権)付与に反対するメール運動」へのリンク
出典:[見えない]永住外国人参政権反対[戦争]

 

工作員がよくいう言葉
○「成立するわけないからメールやデモなどの運動は必要は無い」
→その根拠はどこにあるんですか?
昔消費税のときに同じことを言っている人がいましたが、消費税は成立しました。
○「参政権反対運動しても、かえって反感かうだけ」
→反感かう人間より、圧倒的に「知らなかった。コピペではじめて知ったよ。
これは許してはならない」という人間のほうが圧倒的なはずです。
中国の石油盗掘はやはり有志のしつこいくらいの大量コピペと大量スレ立て
大量メール攻撃で政府が動きました。
嫌韓厨房おつかれさま(笑
あきらかに好き嫌いのレベルではありません。「参政権のことを話すのは幼稚だ」
と油断させて議論の中心から話をそらす作戦です。(狡猾な政治家がよく使う手)
 
どんなことがあっても戦おう。これは「民間防衛」(スイス政府編)いわく、
「戦争のもう一つの様相」である。コピペ、メール、はがき、デモ、なんでもいい
私たちはできる限りのことをしよう。
http://www.geocities.com/hinomarukimigayo2004/
引用者注:「永住外国人地方選挙権(参政権)付与に反対するメール運動」へのリンク
出典:民主党支持者は外国人参政権に賛成なの?

 

http://www.tcnweb.ne.jp/~perfect/index.html
 
これは韓国の情報戦であり、外国人参政権を絶対に許してはならない。
民間防衛の「戦争のもう一つの様相」である。
出典:【自民】自民新憲法、外国人参政権認めず【最高】
引用者注:民間防衛に関する個人HP。この書き込みは2005年だが、同HPを使用した別コピペは2004年に存在。*4


以上は抜粋であり、これ以外にも「民間防衛」を含むコピペ書き込みは多数見受けられます。この様に『民間防衛』という書籍を一つの道具として使用した書き込みや個人HPが2004年時点で生まれていた事が確認できます。ただしこの時点では「乗っ取り戦争六段階」というコピペは存在しません。しかしながらこれらの底流には外国人参政権導入により「日本乗っ取り」という概念があることは指摘できるでしょう。それを確認できるのが以下のコピペです。

あのさ、おれも君たちの大嫌いな在日だが。在日3世。
別に嫌われようが何されようがこっちはどうでもいいよw
日本という国における「楽して稼げる職業」は全て在日・帰化人が
握ってるし(笑)
金あるから在日でも日本人女とやりまくり。さらにはレイプしても
全然バレないw あと数年で日本の参政権も取得できるし(爆)
俺達はもうお前達みたいに毎日毎日職業とか将来とか金の心配なんか
しなくていいんだよw 今俺達が考えてるのはもっと大きいこと。
いかにしてこの日本という国をボコボコにいじめ抜いてやるか、って
こと。 つまり、日本の中に、俺たち朝鮮人、韓国人の血を増やして
在日を増やす。んで日本人を少数派にしてその日本人をいじめたおす。
んでこの国を乗っ取る。 今はもうその最終段階に入ってるわけ
平和ボケした危機感ゼロのお間抜け日本人は気づいてないがw
例えば韓国ブーム。あれは在日が作ったって知ってる?あれだけ大規模
なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は最強なんだよ。
自分達を地獄に導いてるとも知らずに毎日毎日テレビで韓国を
ヨイショしてくれる日本人w
韓国ブームのお陰で在日や韓国人へのマイナスイメージがプラス
イメージになった。そして日本人が韓国人や在日と結婚する数も圧倒的
に多くなった。つまりもうあと30年で日本は完全に在日主体の社会に
なるよ。 たった100万人に満たない在日に使われる1億人の日本人 w お前ら糞日本人に一生地獄の生活を見せてやるよw
どう?ムカムカする?(爆)
出典:嫌韓流は民間防衛とセットで読むべし

上記のコピペの初出までは追っていませんが、2005年時点で既に存在していることを確認できます。コピペそのものには「民間防衛」という単語を使用してはいませんが、「この国を乗っ取る。 今はもうその最終段階に入ってるわけ」という部分にはのちの乗っ取り戦争六段階への影響すら感じる言い回しがされています。またスレッド名だと「【日本乗っ取り】日韓在日ネット「韓国に続き日本でも地方参政権を」というスレッドが存在し、このほかにも「乗っ取り」を含むスレッド名はいくらか散見されます*5。これらの言い回しが直接採用されたのかまでは不明ではありますが、これらの先に「乗っ取り戦争」という名称がある事は確かだと考えます。
 またコピペ以外の影響に関しては『民間防衛』について取り扱う個人HPの存在も大きいです。上記の3つ目のコピペもそういったHPですが、こちらの個人HPよりも影響力が大きかったと考えられるのがnokan2000氏による「スイス政府「民間防衛」に学ぶ」という個人HPです。このHPは『民間防衛』を引用しつつ危機を訴える系統のHPであり、氏はのちにmixiでコミュニティを作るなど精力的な活動も見受けられます*6。多数あるために紹介は一つだけに割愛はしますが、当然ながらこのHPを利用したコピペも多数存在しています。

スイス政府「民間防衛」に学ぶ
-日本が敵国から武力以外による攻撃を受け、破滅へと導かれないように-
http://www.geocities.com/nokan2000nokan/switz/
 
加治 隆介「倉地…俺は今つくづく思うよ」
倉地 潤「何を?」
加治 隆介「日本という国は本当に平和ボケした国だと思う」
加治 隆介「前から言われていたことだが他国のスパイがこれほど暗躍していても誰も気にしない」
倉地 潤「スパイ防止法がないからな」
加治 隆介「そうだ そういう法律がないことを むしろ誇らしげに思う国だからな」
加治 隆介「その誤った平和意識のツケが 今 確実にやってきているんだ」
出典:憲法9条改正・軍隊保持に賛成か反対か
引用者注:上記の「加治 隆介」など弘兼憲史によるマンガ『加治隆介の議』の登場人物

ただこのnokan2000氏によるHPにも「乗っ取り戦争六段階」などは記述されていません。書籍中にないのだから当然ではありますが。
 以上の様に2004年から「外国人参政権」という政治的イシューを得ることによって『民間防衛』の使用が活発化、今のネット右派の言説の中での地位を築いていきます。なお、この「外国人参政権」は2005年以降は落ち着いていきますが、その2005年以降には人権擁護法案に関する情報も活発化。この法案を語るスレッドの中にも「民間防衛」という単語が時折出る様になり、その影響力が見受けられます。わかりやすい例を示すならば2007年3月のスレッド「■□■人権擁護法案反対N極東総司令部 4■□■」において、「ネット時代の民間防衛戦略・序論1」という名前で書き込みをはじめ、「序論11」まで「戦略」を語っている書き込みが見受けられます。またこのスレッド内もそうですがこの他の人権擁護法案反対スレッドにも「民間防衛」という単語を使用している書き込みは多く見受けられます。
 しかしこの時点でもまだ「乗っ取り戦争六段階(八段階)」は生まれていません。探っていた中で確認する限り、このコピペが確実に生まれていた時期としては2007年10月、確実ではないものの推定できる時期は7月ごろです。

「乗っ取り戦争第六段階」の誕生

◆「乗っ取り戦争第八段階」
 この記事を作成する為に探っていく中で確認できた「乗っ取り戦争の第八段階」のコピペ書き込みで一番古いのは2007年10月20日です。

822 :名無しさん@一本勝ち:2007/10/20(土) 12:45:16 id:YT1mtq2c0
「スイス政府民間防衛」より新しい戦争。その名も「乗っ取り戦争」
 第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」
 第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」
 第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」
 第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」
 第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」
 第六段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時を突き、軍事侵攻。」
 第七段階「占領。そして再教育や洗脳を行う」
 最終段階「民族浄化。無意識のうちに」
 
日本はどの段階?
出典:【Kー2】全日本新空手道連盟

そしてこの書き込みの10秒後に「★☆★エンプロのエース、りなちゃん★☆★」で同様の書き込みが行われています。またこの1時間後くらいには「【政治】福田首相、安倍色一掃へ…公務員改革にブレーキ、外国人参政権・人権擁護法案・皇室典範改正などを視野か★3」では一部を削除された八段階コピペがされていることが確認できます。最初の書き込みスレッドが非政治系である事、またその10秒後に別箇所での書き込みを見る限り、おそらくこの他のスレッドにも書き込まれていることが類推できますが、過去ログ検索も万能ではなく、全文検索だと引っかからない板も多いのでその広がりや本当の初出は不明です。ただし状況証拠的にはこれ以前に八段階コピペがあった事を思わせる書き込みがあります。それが2007年7月10日の以下の書き込みです。

431 :名無しさん@八周年:2007/07/10(火) 22:17:27 id:SKa4XW700
スイス民間防衛に書かれている最終段階に近くなってきているな。
もうどうかしてるわこの国。
出典:【参院選】 民主党から、在日コリアンの期待背負った金氏が立候補…外国人参政権・障害者差別禁止訴え、下関より★7

これは2007年の参院選時についての書き込みであり、金政玉氏が立候補した事によりできたスレッドです。内容からも「民間防衛」、「最終段階」とあることから背景にコピペの存在を匂わせます。それも文脈からは八段階よりも六段階の方を感じさせますが、ここではそれを確定するほどの情報はありません。そして残念ながら当時の他の金政玉氏やこの日以降の参院選関連で書き込みが50以上のスレッドを10月まですべて確認したところコピペそのものは見つかりませんでした。このことからこの書き込みが果たして乗っ取り戦争コピペを見ての書き込みであるかどうかの判断は難しいのですが、ただ2ch以外で使用されていた可能性はあり、また選挙や当時の他のスレッドの盛り上がりを考えればこの時点でコピペが誕生していても不思議ではありません。とはいえ、この7月に既に誕生説はあくまでも可能性の域は出ず、確実な誕生時点として断言できるのは実際にコピペを確認できる10月でしょう。また7月以前にコピペが生まれていないという状況証拠としては、7月以前の参院選関連スレッドの他、2005年から2007年ごろの「日本 乗っ取り」、「地方参政権」、「外国人参政権」、「在日参政権」などを含むスレッド名の内容を数百確認しましたが、7月10日より早い段階での乗っ取り戦争コピペは見受けられません。このことからも2007年が乗っ取り戦争コピペが生まれた年であると考えます*7。なおもしも2007年7月に生まれた場合であっても10月まで該当コピペが確認できないことから、当時このコピペは流行っていなかったといえます。コピペが確認できる2007年10月の書き込み以後においてもその増加はあまり確認できず、のちの六段階バージョンに比べれば当初の八段階バージョンはそこまでの拡散は確認できません。何故かまでは不明ですが、やはり第六段階以降が「軍事侵攻」という直接的な武力行使になっていることや、最終的に民族浄化という極端なレベルまで行っていることから共感や使い勝手が悪かったのかもしれません。

◆「乗っ取り戦争第六段階」への派生
 そして現在流布している六段階への変化が確認できるのは2008年11月18日の以下の書き込みです。

354 :可愛い奥様:2008/11/18(火) 02:43:56 id:aE6Hf8240
「スイス政府民間防衛」より新しい戦争。その名も「乗っ取り戦争」
 
 第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」
 第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」
 第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」
 第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」
 第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」
 最終段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量植民。」
 
これのまんま過ぎて笑えない・・・
出典:【外国人激増】国籍法改悪案の反対【日本破綻】★9

このスレッドは既婚女性板の国勢法改正に対するスレッドです。2008年は「外国人参政権」というイシューよりもこの「国籍法改正」というイシューが活発にやりとされており、その最中での書き込みとなります。なお既婚女性板は板名だけだと判断しづらいですが、「国籍法改悪案の反対」というスレッドが建つくらいには右派的なスレッドも多い板です。この354の書き込みだけを見るならば”これのまんま過ぎて笑えない・・・”という事からコピペ発祥は別の個所である可能性があります。ただ一つだけこのスレッドの流れで気になる点があります。それが354の書き込みにはなかった最終段階の「←今ここ」部分です。この「←今ここ」はコピペによって有無が分かれる部分ですが、画像などを見ればわかる様に今の日本の段階はもう最終段階だと思わせる重要な部分であると言えます。その「←今ここ」がこの354の書き込みから20分後に同スレッド内で行われているのです。それが390の書き込みです*8。この390の書き込みは各段階で改行が行われるという変化と共に、最終段階の最後に”~大量植民。」 ←今ここ”とまるで354を補足するかのような書き込みです。そしてさらにその2分後、396があたかも354の書き込みに「←今ここ」という部分がついていたかのような捏造コピペが登場します。

396 :可愛い奥様:2008/11/18(火) 03:06:40 ID:0DtsU4zt0
354 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2008/11/18(火) 02:43:56 id:aE6Hf8240
「スイス政府民間防衛」より新しい戦争。その名も「乗っ取り戦争」
 
 第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」
 第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」
 第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」
 第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」
 第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」
 最終段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量植民。」 ←今ここ
https://changi.5ch.net/test/read.cgi/ms/1226933275/

もともと354が引用したかもしれないコピペに「←今ここ」がついていた可能性はありますが、それならば354が「←今ここ」を削除する動機づけがあまりなく、354から390の流れでこの「←今ここ」が付加され、件のコピペがこの流れで完成した可能性が考えられます。そしてこのコピペはこの後の同スレッド内はいうに及ばず、同日中に「「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事151」、「京都」、「入間基地スッドレ5」でコピペが確認できます。特に「京都」、「入間基地」のスレッドの書き込みは354の名前などを含めた書き込みをそのままコピペしたもので(「←今ここ」が片方はあり、片方はないというチグハグさが見受けられる)、また検索に出てこないだけで他の板でも書き込みをしたであろうことは類推もできます。そしてこのコピペが観測できる11月18日の3日後である11月21日にはヤフー知恵袋で同様のコピペが確認できたり、現存するブログだと2009年の書き込みが確認できます。2008年の11月から徐々にこのコピペが膾炙していった状況が類推できます。この流れ、特に11月18日のやり取りを見る限り、この捏造コピペが流布される際には強い意図を感じる動きがあり、その後の拡散までを狙って作成と流布がされたと勘繰っても罰は当たらないでしょう。
 この八段階から六段階への変化として大きいのは、八段階バージョンが「軍事侵攻」という直接的武力を示唆する情報であり必ずしも政治イシューコピペとしての使い勝手が良くなかったであろう部分が、六段階バージョンで最終段階が「大量植民」へと変化したことによって「外国人参政権」や「国籍法改正」、「在日外国人(移民)」に反対するという政治イシューにおいてとても使い勝手が良くなったことが言えるでしょう。故に今の様に画像までが作成されるにいたるほどにこのコピペはネットにおける「草の根保守活動(煽動)」の)使用頻度が高いアイテムになっている。

 「乗っ取り戦争六段階」が実際の書籍内の情報とは乖離した捏造情報を含むのであり、そしてその捏造がどの様に生まれたのかを見てきましたが、そんな指摘をしてもこれを好んで使用する人にとっては馬耳東風ではありましょう。ただ皮肉なことに『民間防衛』の書籍情報だけでならともかく(それでも大概ではあるけれど)、捏造情報を含む画像などを拡散している状況って、まさに自分たちが訴えている「乗っ取り」という情報工作に自分たちがまんまとやられていると言えることです。内からの情報工作もあり得るわけで、そっちからはいとも簡単に「自分で考える力を奪われる」のだなと。

*1:同ページにスイスが団結した場合のGOODバージョン言い回しが存在

*2:https://kakolog.jp/?q=%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%8F%82%E6%94%BF%E6%A8%A9&d=2003

*3:https://kakolog.jp/?q=%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%8F%82%E6%94%BF%E6%A8%A9&d=2004&p=1

*4:例えば「外国人参政権に賛成する議員一覧作成スレッド

*5:https://kakolog.jp/?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%20%E4%B9%97%E3%81%A3%E5%8F%96%E3%82%8A&d=2004

*6:https://mixi.jp/view_community.pl?id=144525

*7:2005年~2006年ごろにしたらば掲示板の方でみたという情報をいただきましたが、したらばは追えない為にこの情報は留保とします。したらばでコピペが流行るくらいなら2chにも流入している可能性も高いですし。

*8:https://changi.5ch.net/test/read.cgi/ms/1226933275/390

自衛隊の携行食に赤飯が出なくなったのは内部の声も当然あった模様

 以前こんなのを書いて、その派生というか番外編です。

nou-yunyun.hatenablog.com

上記記事にも書いてありますけど、災害派遣時における自衛隊の携行食料品に赤飯をやめるという事があり(「炊き出しに赤飯」ではなく、「自衛隊の携行職に赤飯」)、それに対して赤飯は効率が良いみたいなネットの反応もあって。で、開示請求したら辞めた理由っぽいのが書かれた資料がもらえたのでメモ的に置いておく。

東日本大震災災害派遣教訓詳報 地震対処計画に資する教訓 24.3.27】

東日本大震災災害派遣教訓詳報 防衛力整備等に資する教訓 24.3.27】

以上の様な資料が開示。赤飯に対する配慮や自粛の記述、また支援として削除要請をしている隊もあります。赤飯は一般に慶事に使用するイメージがあるとも書かれており、自衛隊が日本内の組織であるわけで、やはり「赤飯の効率」などではイメージは覆らなかったのかなと。にしても赤飯には関係ないという事なんだろうけど、黒い部分が多い……。逆に気になる。

W杯(ワールドカップ)における日本人サポーターのゴミ拾い活動が始まった時期についての資料

 カタールサッカーワールドカップに関する報道で日本人サポーターによる試合終了後のゴミ拾い活動が報道されてて、なんだかもはや風物詩ってな感じになった感がありましたけど、そもそもこの活動がいつ始まったのかについてのメモ、というか資料的記録を残しとく。

ゴミ袋を持ち込むようになったのは1997年

 今回(2022年W杯)での該当話題が増えてきた際に往時を語っている方のまとめがまずあり、昔語りとしては以下を参考にするとよい。

togetter.com

このまとめの発端となっているツイートは以下の様なもの。



https://twitter.com/luntaro/status/1595984455617085440

あくまでも証言の一つだか、これが事実ならば1997年からこの行動は始まっていることになる。で、実際にこの時の事を書いてある資料としては二つあり、まず一つは日本サッカー狂会編による『日本サッカー狂会』(2007)。この資料を基にしてまとめた情報がwikipediaのウルトラス・ニッポン(サッカー日本代表のサポーター集団)の「青いポリ袋」に書いてあり、そこには下記のように書かれている。

青いポリ袋
スタンドを青く覆うことを目的に横断幕などとともにポリ袋が使用される場合がある(青いポリ袋を膨らませて手で振るというもの)。植田によれば、もともと紙吹雪を撒くことが多かったが、大量の紙吹雪が風に流されて近隣の野球の試合や高速道路に影響が出たため苦情を受けていた。1997年9月7日に行われたホームで行われた1998 FIFAワールドカップアジア最終予選ウズベキスタン代表戦で青い紙テープを使用した後、同年9月19日に敵地で行われたUAE代表の際にはじめて青いポリ袋が導入されたテレビ朝日系列(ANN)のニュースステーションUAE代表戦の模様が紹介され、番組内で応援のためポリ袋を持参するように呼び掛けたところ反響を呼び、同年9月28日にホームで行われた韓国代表戦以降、応援スタイルのひとつとして定着した。
wikipedia ウルトラス・ニッポン 2022年11月30日閲覧

ちなみに上記の行動が評判を呼び、ユネスコに表彰されたとあるがそれは報道もされたものであり、当時からサポーターによるゴミ拾いが評価されていたことがわかる。

第11回ユネスコ・日本フェアプレー賞の授賞式が15日、都内で行われた。
 最も栄誉ある特別賞に選ばれたのは、サッカーのワールドカップ・フランス大会の日本のサポーター。本来は選手が対象となる 賞だが、フェアな声援を送ったことや、試合後に客席のゴミ拾いを行ったことなどが評価され、異例の受賞となった。
(読売新聞1999年4月16日朝刊 20ページ)

 以上のように見ていくとサポーター集団「ウルトラス・ニッポン」がこの行動をはじめ、1997年9月19日がこの日本人サポーターによるゴミ拾い活動の始まりかとも考えられるが、実際にはこれよりも早く「青いごみ袋」をサポーターに持ってくるように呼び掛けて行動を起こしている集団がある*1。それがKOICHさんが始めたHP「サッカー日本代表を応援するホームページ」であり、その発祥は該当HPにある掲示板JNETとされる。ウルトラス・ニッポンのwikipediaでも注釈ではこのJNETが始まりとしている説も上げているが、実際に「サッカー日本代表を応援するホームページ」から集まった有志による青いポリ袋持参応援の方が早い。その日時は1997年6月28日のオマーンだ。残念ながらJNETの方はアーカイブにすら残っておらず、「発案」の決定的記録は残ってはいないが、該当HPでは「6・28国立大作戦」、そして「6・28国立大作戦・実行部隊報告書」からどのような行動だったかが確認可能だ。

6・28国立大作戦
『国立に青い波が乗る』
W杯一次予選突破を決定 この記念すべき日の国立を『青』一色で染めてあげようではありませんか。をつけたのは『ウェーブ』! 国立ウェーブを本当の『青い波』にするぞ!
準備:御用意して頂くのはひとつ。透明化が進んでいますが、大手スーパーやコンビニ、金物屋さんなどで入手可能です。 )入手できたら一緒に国立観戦する友達や家族にも配って協力してもらいましょう。
チャンスはその時です! 『ウェーブ』が当たったら、立ち上がって、万歳! (上のアニメ参照)
追加情報:『JUSCOで売られている、脱臭ポリ袋45リットル用(80cmX65cm)10枚入りのごみ袋の閉じられている方を両手でもってウェ~ブをすると、開き口から空気が入って、ぱ~っとふくらみます。何人かで並んでこれをやれば、日本の勝利の青い波!!です~。』(以上、読者情報です。)
注意
●ご自分の席のまわりの知らない人に『青いゴミ袋』を配る際は絶対に大作戦の強制をしないで下さい。丁重にご協力いただき、拒否された場合は笑顔で引き下げましょう強制は絶対にダメです。 ●
 
試合後は責任をもって『青いごみ袋』をお持ち帰り下さい。『ゴミ袋』が『国立のゴミ』になってはシャレにもなりません。

 以上の様に青いゴミ袋を持参してウェーブを起こそうという作戦だ。その様子は「6・28国立大作戦・実行部隊報告書」を読むと参加者からの報告メールで確認でき、参加人数も300名ほどと書いてあり成功したと判断しても良い。

なお、この参加者の中にウストラス・ニッポンの人間がいた可能性はあるが、報告の中には「ウルトラスニッポンの大応援団に飲み込まれながらも、探してみれば確かにいる青いビニール袋! 」、「ウルトラスの連中の横っちょの方で一応着ました!」という記述があることからも全体としてはウルトラス・ニッポンとは別行動として行っていたことがわかる。また「サッカー日本代表を応援するホームページ」による大作戦はその後も「9・28韓国戦 炎の国立大作戦スペシャル」をはじめとして数回この種の大作戦を開催している。ただ9月28日の韓国戦となるとすでにウルトラス・ニッポン側もこの応援手法を採用していることから、流れとしては、

【サッカー応援でのゴミ袋使用の流れ(1997年)】
6月28日
サッカー日本代表を応援するホームページ」 がオマーン戦で青いごみ袋持参で応援を始める
9月19日
ウルトラス・ニッポンがUAE戦で青いごみ袋を使用した応援を始める
9月28日
「サッカー日本代を~」、「ウルトラス・ニッポン」が韓国戦青いごみ袋応援
以降、定着化

というもの。ウルトラス側の9月19日UAE戦で始めたという話は、時期を考えればオマーン戦での作戦参加者の応援や当時サッカー情報ページとして有名だった「サッカー日本代表を応援するホームページ」でのアイディアを借用したものと思われるが、もともと「青いゴミ袋」自体が日本代表のカラーの「青」に合わせられること、紙吹雪などによるゴミが出ない事、ウェーブなどの行動がしやすい事、見た目がわかりやすい、調達のしやすさなどから「青いゴミ袋」がその後の応援に生き残って定着したと思われる。そして、ついでにゴミ袋だからゴミが拾える。この「W杯における日本サポーターのゴミ拾い活動」の発祥時、ゴミ袋持参はゴミ拾いが主ではなくあくまでも従だったと思われる。

行動が多くの人間に「認知」されたのは2014年

 ゴミ拾い行動自体は上記の様に1997年が始まりだが、日本社会で今の様な形で認知されたのは2014年のブラジル大会だと思われる*2。それはこのゴミ拾いについての報道について調べられた「試合会場ゴミ拾い小史」からもはっきりしており、1998年関連の記事が少しあった後、2014年までは報道記事が飛ぶ事からもそれが伺える。そして、2014年での報道とは以下の様なもの。

 サッカー・ワールドカップ(W杯)ブラジル大会で、日本—コートジボワール戦の観戦を終えた日本人サポーターが、客席のゴミを片づける画像が世界に広まり、各国の主要メディアから称賛されている
 ブラジルの有力紙「フォーリャ・デ・サンパウロ」(電子版)は15日、北東部レシフェで14日行われた試合の終了後に始まったゴミ拾いについて、「日本は初戦を落としたが、礼儀の面では多くのポイントを獲得した」と報道した。
 英紙インデペンデント(電子版)は16日、「日本の観衆がワールドカップの会場でゴミを集めたことは他国のサッカーファンにショックを与えた」と伝えた。
 韓国の聯合ニュースは16日、日本人サポーターについて「敗北の衝撃に包まれながらも、破壊的な行動をせず、ゴミを拾い始めた」と指摘。画像は、中国のインターネット・ニュースでも伝えられ、国営新華社通信の中国版ツイッター「微博」には、「日本のいい伝統は学ぶ価値がある」などの書き込みがあった。
 サポーターによる観客席のゴミ拾いは、日本がW杯に初出場した1998年フランス大会から行われている取り組みだという。試合中膨らませて応援する青い袋を、試合後はゴミ袋として活用した。
(読売新聞2014年6月18日朝刊 34ページ) ※試合会場ゴミ拾い小史からの孫引き

ゴミ拾い行動をする日本人サポーターが褒められるという、2022年現在の報道と同種のものである頃が理解できる。この「称賛」的な報道はネットメディアでも確認でき、例えばハフポストでは「「日本は最高!」ゴミ拾いするサポーターを世界が称賛【ワールドカップ】」という記事を書いて居たり、グーグルで検索した限りでは以下の様にトップは「日本スゴイ」系にもやや属すると言っても過言ではない形の報道がいくつかのメディアがなされている。

ちなみに2010年の南アフリカ大会について同様の検索をすると次のようになり、ゴミ拾い活動は影も形もない。ツイッター内でも同様で、ワールドカップとゴミ拾いを関連させたのは終了後の渋谷でゴミ拾いをするといった程度のもの*3

以上の様に2014年から日本人のゴミ拾い活動は日本社会で認知される様になり、報道以外にも在リオ総領事館が州政府から表彰状を受けるなど、日本社会以外でも認知される様になったと言えるかもしれない。


https://twitter.com/MofaJapan_ITPR/status/488491632413536256

 ところで報道の内容として2014年も顕著だが、その後の報道、例えば読売新聞の2018年5月30日ではいくつかのイベント後のゴミ拾いについて扱った記事である「晴れの会場でゴミ拾い ニッポンの美徳」などから、(一部の)日本人サポーターのこのゴミ拾い活動は「日本スゴイ」的な言説や「日本像」、「道徳」的なものへの吸収が伺え、1997年の開始時期に始めた当人たちにはあまりなかったであろう言説が10年以上の時間を経ることによって付加されていると言えるかもしれない。
 なくなる気配はなく、もはやサポーターの文化の一つになっている感じはするので、ワールドカップの本戦に出場できるうちは風物詩的な報道になって当分生き残りそう。

*1:なお『サッカー狂会』のはウルトラス視点の座談会形式であること、またp.238には"ゴミ袋は一番最初、アウェイのUAE戦に持っていったのかな? それで次の韓国戦で大ブレイク"と記述。ここでは自分達が始めたと必ずしも言えない形であり、wikipediaの書き方の問題とも言える。

*2:2002年の日韓は地元開催だからともかくとして、2006、2010年の大会の時にゴミ拾い報道がなかった理由は不明。

*3:2010年12月31日までのツイッターにおける「W杯 OR ワールドカップ ゴミ拾い」の検索結果