電脳塵芥

四方山雑記

北朝鮮への帰国事業について その2

 以前こんな記事を書いたのですが、

nou-yunyun.hatenablog.com

帰国事業に関する菊池 嘉晃による『北朝鮮帰国事業 - 「壮大な拉致」か「追放」か 』(中公新書)を読んだので、帰国事業に関する補足記事です。

◆帰国事業「日本による厄介払い説」について
 帰国事業は在日朝鮮人を厄介払いしたい日本が発端だという説もありますがこちらは誤りで、発端となったのは在日朝鮮人からの市民的運動だったと言えます。元々在日朝鮮人の中では帰国意思そのものが高く、朝鮮半島帰国への声は元からありました。ただし当時の韓国は済州島四・三事件や国家の反共体制、生活の困難さから韓国への帰国を躊躇う状況が存在し、逆にそこまで内情が知られていない北朝鮮や当時は今以上に勢いのあった社会主義に対する羨望から北朝鮮への帰国を求める人間は多くいました。そこに北朝鮮政府や日本左派*1が関わっていきます。ただ確かに日本側にも以下の様な厄介払い願望を国会のやり取りで確認はできます。

岡田委員:最後にもう一点だけお伺いをいたしますと、牧野さんはこの前のこの委員会で北鮮*2に帰りたい人も帰しますと断定されたはずです。(略)大臣が帰しますと御答弁になっておられるならば、どのような方法でいつお帰しになるか、この点をはっきりもう一度お尋ねしておきたいと思います。
野国務大臣:どうもあなたはえらく私を詰問するようにおっしゃるけれども、これはもっと懇談しましょう。これは帰すのがほんとうだ。あんな連中を日本に置くことは皆さんほんとうに困りますね。そして食わせなければならぬでしょう。そしてこんな事件*3が起きるから、一日も早く帰したい。
第24回国会 衆議院 外務委員会 第6号 昭和31年2月15日

「厄介払い」*4とは、当時は今以上に在日朝鮮人の貧困、差別が問題でしたし、生活保護率の高さなどが問題になっていました。ですから日本政府が在日朝鮮人を帰国させたがっていたというのは事実でありますし本音でしょう。ただし当時の日本は韓国との国交交渉などをやっており、そして韓国は自国ではなく北朝鮮への在日朝鮮人帰国は許しがたいというスタンス*5であり、事あるごとにそれを阻止するという行動をしています。付け加えて言えば、この頃には李ラインを超えた日本人漁民が実質的な人質として捉えられていた件もありますし、日本は率先しての「追放」は不可能な状況といえます。また帰国希望者に関しては一部の例外を除いて全員に帰国意思を尋ねており当事者の自由意思を尊重していました*6ので、日本による厄介払い説は差別や社会保障的な存在、また時折ある本音からそう見える部分はあるものの、これは誤りといって良いでしょう。北朝鮮への帰国を望む人々がいたのは確かですし、彼らの「出国・帰国の自由」を妨げる方が問題ではありましたでしょうし。ただし、その帰国先に自由がなかったのが著しく問題だったわけで。

◆「地上の楽園」をはじめとした帰国誘因について
 まず前の記事でも書きましたが、帰国事業当時に北朝鮮を「地上の楽園」といってはやし立てた大手新聞紙はありません。ですが、少なくとも批判的論調は見受けられずどちらかといえば好感情をもって伝えていたというのは事実でしょう。その証左として、帰国事業の決断に対して日本の主要新聞はすべて次の様に支持を表明しています。

産経新聞が社説「北鮮へ希望者の送還 わが漁船を守る備えが肝要(59年1月31日)を出したのに続き、読売新聞が「送還先選択の自由を認めよ」(2月1日)、朝日新聞が「北鮮帰国につき 国際世論に訴う」(2月2日)、日本経済新聞が「北鮮帰国方針を貫け」(2月3日)などの社説を掲載した。内容や論旨に差があるものの、共通するのは、人道問題として故国への帰還を認めるべきだとしたうえで、日本政府の見解を基本的に支持し、韓国政府を批判している。
菊池 嘉晃『北朝鮮帰国事業 - 「壮大な拉致」か「追放」か 』

この好感情には北朝鮮の内情が判っていなかったというのもあるでしょうが、それと共に新聞に限らず日本国内において(厄介払い的感情もあったでしょうが)「祖国へ帰国できなかった在日朝鮮人が希望通り帰国する」というのは人道的理念、植民地支配への贖罪に適うという世論があったと考えられます。全国の地方議会でも帰国促進決議が相次ぎ、日本国内で帰国実現を支持する世論が高待っていたのは事実だと考えられます。また当時の朝鮮総連が帰国事業を決断しない日本政府を「人権無視」と批難したこともあったようですが、北朝鮮の実情を知らない当時にこの批判は十分に機能しえたでしょう。
 さて「地上の楽園」という言葉ですが、これは総連1958年9月19日の以下の声明から使われる様になったようです。

「悲惨な境遇に苦しむ在日朝鮮人地上の楽園へと変わりつつある祖国に一日でも早く帰り、祖国の暖かい懐の中で幸福な生活を営もうという希望に立ち上がっている」
菊池 嘉晃

そして機関紙や声明で「地上の楽園」が使用されるようになります。この声明の数日前には北朝鮮の外相が帰国者の生活安定や教育補償を発しており、「地上の楽園」は帰国希望者やその周辺にはある程度の説得力のある言葉(プロパカンダ)になっていったと思われます。この他にも帰国促進の為に総連などはスライド写真によるアピールや総連系活動家による訪問勧誘などを行っています。また、菊池によれば三者的な日本人による北朝鮮を描いた二つの書籍も影響を与えたといいます。その本とは寺尾五郎による『三八度線の北』と日本の大手紙記者(朝日、共同、産経、毎日、読売)による『北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告』です。寺尾は日本共産党員として長く活動しており、在日朝鮮人帰国協力会の幹事でもありました。なので元からバイアスがかかっていた日本人と評されても仕方なく、その本は北朝鮮の実情を日本よりもまだ下であると言いながらもその後の成長をうかがわせる内容だといいます。礼賛一辺倒ではなく発展を匂わせる手法は帰国を迷う人間には後押しになったと考えられます。『北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告』についても今後の発展を匂わせ、批判的意識が薄かったようであり、新聞などよりもこういった書籍の方が影響力は大きかったかもしれません。
 なお、日本は北朝鮮の実情がわかっていなかったのか。それについては以下の様な注意がなされており、必ずしも信頼できる国とは思っていなかった節もうかがえます。

公安調査庁は、同町の調査によれば帰国者数が二万~三万人程度なのに(総連は)「誇大に発表し宣伝に利用している」とし、帰国運動の狙いとして「①当面の日韓会談のぶちこわし、②共産国力宣伝と国交正常化、③人手不足の補充」などがあると新聞の取材に説明していた。故郷の韓国を捨て「路頭に迷う恐れのある北鮮へ送り出すことは非人道的である」とも指摘していた
菊池 嘉晃

公安調査庁によれば帰国の先にある未来を予測していますが、これは公安調査庁の情報収集能力が高かったのか、そのイデオロギーによる予測なのかはよく分かりません。ただし、こういった帰国へのマイナス情報を法務省や治安・公安当局は報道機関などを通じて流していたと菊池は述べています。なお、韓国は当然ながらこういった情報出していますが、総連や日本共産党などはこういった否定的な情報を「反共宣伝」、「韓国のでっち上げ」として抑え込もうとしています。結果的にはこちらの注意が正解だったわけですが、当時を考えれば中々にこの注意を信ずるというのは難しかったかもです。私自身が当時いたら賛成派にいた様な気もします……。

 ここらで終わりにしますが、菊池 嘉晃『北朝鮮帰国事業 - 「壮大な拉致」か「追放」か 』は帰国事業の歴史の流れを知る意味では大変勉強になる本でした。あとがきで著者自身がマスメディアの動きはあまり書けなかったとあり、確かにその面では物足りなさがあるのは事実です。あとアメリカ、中国、ソ連などの外国の影響による記述も少ない。ですが、帰国事業の全体的な流れを追うには十分な本じゃないかなと。良い本でした。

*1:当初は日本左派が関わっていましたが最終的には超党派になりますし、当時の政権は自民党なわけなので日本左派のみが率先したとは言えないかと。

*2:原文ママ。現在では不適当な表現ですが、当時のまま引用しています。

*3:在日朝鮮人が多く収容されていた大村収容所における事件。当時は朝鮮半島の南部出身者でも北朝鮮への帰国を希望する人たちがそれなりおり、ハンガーストライキにまで発展しています。その北朝鮮帰国希望者に対して暴行事件が起こって死亡した事件がここでいる「事件」です。なお、大村収容所の帰国希望者は韓国との日韓交渉においても懸念となる外交要因でした。

*4:この時期、日本は南米移民を進めており移民供給国でした。つまり「厄介払い」には日本人も含まれていると考えてもいいかもしれません。

*5:帰国事業開始時には李承晩は「北送船撃沈計画」を支持するなど、度を越した対応すら見せています。

*6:この意思確認についての方法は北朝鮮側と揉めることもあったようです。最終的には赤十字国際委員会立ち合いの下で行わたといいますし、多くの場合は「自由意思」の下での意思確認はなされていたと考えられます。