電脳塵芥

四方山雑記

インド首相ネルーが「日本が300万人という尊い命を犠牲にして戦ってくれたお陰で、我々は独立できた」との発言はあり得ない

インドのネール首相から「日本が300万人という尊い命を犠牲にして戦ってくれたお陰で、我々は独立できた」

 という書き込みをツイッターで見ました。……怪しい。こういった「名言」はデマも多く、そしてそのデマをまとめて書籍にしたり、ネットの有象無象に書き込まれたりするのですが、上記発言を検索すると全然出てこない。現状、グーグル、ツイッター、5ch過去ログを見た限り、下記の3つのツイートのみです。なお「ネルー」、「ネール」とこの記事では表記が揺れていますが、一般的には「ネルー」の方が多いようなので基本的には「ネルー」、デマ発言の引用の際には「ネール」と記述しています。


https://twitter.com/2cnVN0qBlipIR7U/status/1058248483814039552


https://twitter.com/PNFBLRp1Ulm4pGh/status/1294479409257181185

上記2つはリプライに対する一つのツイート内で完結していますが、下記のイサク氏による連投ではさらに詳細が語られています。ただその前にこの発言の胡乱さへの指摘ですが、この発言のいくつかの特徴的なワードを抽出して検索しても類似の発言は出てこず、どうにも2018年にツイートされた「イザヤペンダサン」氏による書き込みが現状確認できた最古の書き込みです。初めの方にも書きましたがこの手の「大東亜戦争肯定名言」的な書き込みは書籍、そして特にネットでは結構はびこっています。にもかかわらず、この「名言」は2018年時点で表に出てきた内容であり、またネットにおいても膾炙しているとは言えません。「イザヤペンダサン」というどうみてもイザヤ・ベンダサンが元ネタの名前のアカウントが発言している時点で大変に胡乱さが増すのですが、ただイザヤペンダサン氏のツイート自体は広まった形跡はなく、その後のイシマエル氏によるツイートも少しだけ広まった程度です。下記のイサク氏に限らずネタ自体の内容には共通性があるためにどこかに元ネタがある可能性も多少はあるのですが、しかし不明。もしもイザヤペンダサン氏が創作したならば、イサク氏はさらにそこから細部のディティールを創作したわけで……。なおこの発言自体のネタ元は推測ができますので後述します。
 で、下記から始まるイサク氏によるツイートは結構バズっています。以下、長いのでツリーのはじめのツイート以外は文章をまとめて引用にします。

私がまだ20代の頃に、友人に誘われて元外交官の講演会に行った事があります。名前は失念しましたが、講演内容は当時サヨクだった私には目眩がするほど衝撃的なものでした。有名な話しなのでご存知の方も多いと思います。終戦後まもなく、インドでアジアのリーダー達が集まって平和会議の様なものが開催された。日本も招待されたが戦後処理に追われていた日本は、結局外交官一人を送る事になった。しかし官僚たちは誰もが出席を嫌がった。そこで入省したばかりのS氏が出席する事になった。「何を言われても口答えせずに黙って耐えろ」とか「ひたすら謝れ」とか、先輩達から脅されたのでビクビクしながらインドに向かったそうです。
所がインドに到着してみると万雷の拍手で迎えられ、インドのネール首相から「日本が300万人という尊い命を犠牲にして戦ってくれたお陰で、我々は独立できた」と言われたそうです。これだけでも、共産党サヨクが主張している大東亜戦争が日本による侵略戦争であると言うのが真っ赤な嘘である事が分かります。あのマッカーサーですら公の場で「大東亜戦争は日本の祖国防衛のための戦争だった」と証言しているほどです。防衛のための戦争は国際法で認められているのです。一日も早く憲法9条を改正し、防衛力を強化をすべきです。
インドではなくインドネシアのバンドンで開催の間違い村山富市が総理の時にマレーシアを訪問し、日本が大変ご迷惑をお掛けしました、と謝罪した所、当時首相だったマハティール氏から「日本が謝る理由など1つもありません」と窘められている。この様に日本を侵略国家などと批判しているのは、中国と朝鮮半島そして日本共産党など野党とメディアだけです。(公明党など親中派政治家も含まれる?)
https://twitter.com/bER2YpZXY3TapXc/status/1592795700743798784
https://twitter.com/bER2YpZXY3TapXc/status/1592795703671418886
https://twitter.com/bER2YpZXY3TapXc/status/1592795706859089921
https://twitter.com/bER2YpZXY3TapXc/status/1592795710868848640
https://twitter.com/bER2YpZXY3TapXc/status/1592851886675480576
https://twitter.com/bER2YpZXY3TapXc/status/1592851893822582785

かなり詳細に語られていますが、とりあえずイサク氏によればこの発言は「インドネシアのバンドンで開催の間違い」という事から1955年に開催されたアジア・アフリカ会議であることがわかります。まず1955年が「戦後まもなく」と言えるかは微妙ですが、2022年に生きる人間からすれば一応「まもなく」と言えなくもないかもしれないのでそこは無視します。で、イサク氏は「外交官一人を送る事になった」と最初の方で語っていますが、そもそもアジア・アフリカ会議には国立公文書館のアジア歴史資料センターでまとめられた資料が複数確認できますし、当時の国会で参加に関する議論がそれなりの頻度で複数回されているように日本はこの会議に代表団を率いて参加しています。まとめられた外交資料も複数にわたり、この会議に注力していることは確認できます。そして日本は代表団の首席代表として高碕達之助経済審議庁長官、谷正之外務省顧問や加瀬俊一外務省参与が参加*1、国会でのやり取りからは衆参両議院から議員が派遣されている事が確認できます*2。この時点でイサク氏の言っている「外交官一人を送る事になった」は明確な虚偽であり、この部分についてはデマであることがわかります。

会議におけるネルーの発言はどうか

 上記の参加人数の虚偽部分については講演をしたという元外交官の嘘であるとか、もしくはイサク氏の記憶違いの可能性はあるので、ネルーの発言自体が本当である可能性自体はまだあります。では、アジア・アフリカ会議でのネルーの公的な発言で確認できるかどうかを見ていきます。ネルーの発言についてはインドでかなり広範な時期についてその発言をまとめた資料が存在しており、「公的」に発言しているならばその発言は高い可能性で記録されています。ちなみにですが、ネルーは日本の代表団について「おそらく一番多かっただろう」という事を記述しており、その数は34人としています*3。インド側の資料からもイサク氏の外交官一人発言は否定できます。
 件の発言で特徴的なところの一つは「300万人」という数字ですが、この類の発言を検索しても件の発言は出てきません。「独立」に関しては色々な趣旨の発言で使用されていますが、日本が戦ってきてくれたおかげ的なニュアンスでの発言は無いように見受けられます。「japan」で検索しても件の発言は確認できずにこの時点で「公的」な発言はしていないと考えられます。この意味で2020年にこのデマをツイートしたイシマエル氏による「公式に述べている」はかなり高い可能性で除外できます。ただしイサク氏は「インドに到着してみると万雷の拍手で迎えられ、インドのネール首相に」件の発言を言われたとあります。つまり公的な場の発言とは限らずに立ち話的な発言の場でされたためにこの発言記録が残っていない可能性はまだあります。

件の発言には後世の知識の混入が見られる

 さて、この「日本が300万人という尊い命を~」というネルーの発言ですが、実は発言の「下限」はある程度特定できます。その年は1963年です。何故かというと、「日本が300万人」とありますが、第二次世界大戦の戦死者」が300万人(正しくは310万人)という数字になったのは1963年(昭和38年)5月14日の閣議決定戦没者追悼式の実施に関する件)からだからです。まずこれを示したわかりやすい例としては2001年8月に保坂展人氏が出した質問主意書「「大東亜戦争」と靖国神社に関する質問主意書」に関する以下の返答を見ていきます。

一の(23)について
 お尋ねの我が国における「第二次世界大戦の戦死者」の数については、「第二次世界大戦の戦死者」の具体的な範囲が必ずしも明らかではないが、政府としては、昭和三十八年五月十四日の閣議決定戦没者追悼式の実施に関する件)において、同年八月十五日に実施する全国戦没者追悼式における戦没者の範囲について、「支那事変以降の戦争による死没者(軍人・軍属及び準軍属のほか、外地において非命にたおれた者、内地における戦災死没者等をも含む者とする。)とする」と決定したところである。そして、政府としては、右の戦没者の数について、約三百十万人であるとしてきたところである
 また、我が国以外の国における「第二次世界大戦の戦死者」の数については、これを政府又は政府関係機関において公表している国及びその公表数は、調査した限りでは、別紙四のとおりであると承知している。
衆議院議員保坂展人君提出「大東亜戦争」と靖国神社に関する質問に対する答弁書

 全国戦没者追悼式は1963年から今現在も続いている日本武道館で行われ散る追悼式ですが*4、この追悼式という性質上、この時期に戦没者数が何人であるかをある程度確定させる必要が出てきたようです。「全国戦没者追悼式の実施に関する件」の閣議決定内容については国会図書館で確認できますが、こちらの閣議決定そのものには310万人という数字は出てきません。ただし、国会で以下のやり取りがある様にこの1963年に日本国政府としての戦没者数が310万人であると一応の確定をしたと言ってよいやり取りがあります。

中村英男
そうすると戦没者の範囲は、軍人戦死者、軍属、準軍属、民間戦災者、原爆でなくなった方はもちろん含めまして、こういう範囲になるわけですね。そうすると、そういう民間戦災者の実態といいますか、実数、あるいは生活の状況というものを政府は一体調べておいでになるかどうか、お伺いしたい。
 
山本(淺)政府委員
ただいまどれだけの数があるかということでございますが、まず軍人軍属、それから援護法の対象となっております準軍属を含めますと、約二百三十万弱であります。それから次に外地におきまして非命に倒れた者が約三十万おられます。これは、御案内の引揚者給付金法によります遺族給付金をもらっておられる方々から推定いたしました数字でございます。それから最後に、原爆及び戦災でなくなられました人々の総数約五十万と考えておりますが、これらのすべての方々に対しまして、国民あげて敬弔の誠をささげるような機運のもとに、この行事を行なわさしていただきたいという趣旨でございます。
第43回国会 衆議院 社会労働委員会 第47号 昭和38年7月5日

軍属230万、外地30万、原爆及び戦災50万の合計310万人という数字がここから導き出せます。そしてこの1963年以前、例えば1952年の国会での戦死者についてのやり取りでは以下の様なものがあります。

政府委員(田辺繁雄君)
今回の援護法の対象になりまする戰死者遺族の数を計算する基礎となりました戰死者の数は太平洋戰争におきまして百八十五万今ございます。太平洋戰争以前のものを集計いたしますと二百十四万八千人になるのでございます。
第13回国会 参議院 予算委員会 第24号 昭和27年3月22日

この数字の変遷はこれは新聞報道からも確認でき、例えば朝日新聞によれば以下の様な変遷が見受けられます。

1952年5月2日 朝日新聞夕刊
全国戦没者追悼式 陛下、哀悼のお言葉
二百四十万の霊に

 

1963年8月14日 朝日新聞朝刊
あす終戦18年
310万柱に国民の祈り

1952年に開かれた追悼式では240万、それが毎年開かれるようになった1963年からは310万という数字へと変化しています。なぜこの様な変化が発生したかで言えば、1963年の閣議決定によって戦没者の数の範囲が「支那事変以降の戦争による死没者(軍人・軍属及び準軍属のほか、外地において非命にたおれた者、内地における戦災死没者等をも含む者とする。)とする」に変化し、軍属以外の数字も含むようになったためです。事程左様に戦没者数の数は戦後すぐに確定したわけではなく、1963年の閣議決定後に確定してものであって、これは朝日新聞で記事を検索してもこの「310万人」という数字は1963年以降しか出てきません*5。つまりは1963年以前には日本の戦没者数が300万人という言説は存在しえないのです。つまりは件のネルーの「日本が300万人という尊い命を~」という名言はアジア・アフリカ会議が開催された1955年時点では存在するはずもなく、後世の知識を得た人間による捏造であることが明らかです。

おそらくの元ネタ

 この発言の元ネタとなった事象ですが、ヒントはいくつかあって「外交官の講演」、「アジア・アフリカ会議について語った」というものです。そして多少なりとも有名な講演であった事も予想できます。そして該当条件に合致するものが1994年にあったとされる加瀬俊一による京都外国語大学での講演でしょう。この講演自体はネットで多くはないものの流布しており、それは以下の様なものです。

-1994年7月、京都外国語大学における講演より-
1955年4月、インドネシアのバンドンという所でバンドンA・A会議が開かれました。A・Aというのはアジア・アフリカです。この中心はインドと中国とエジプトです。インドのネール、中国の周恩来、エジプトのナセルが中心になって、独立したばかりの新興諸国29ヵ国代表が集まりました。その時、日本にも招待状が来たんです。国内ではアメリカに気兼ねして参加に慎重な人が多かったんです。私は『出た方がいい』と言ったんです。敗戦後間もない日本にとっては、国際社会に復帰する絶好のチャンスだった。それで出席することにはなったけれども、外務大臣は都合が悪くて私が行くことになったんです。特命全権大使として『出た方がいい』と言ったのは私だけなんだけれども、内心不安だった。というのは、アジア・アフリカというけれども、アジアは大東亜戦争の戦場でした。日本はいいこともしているけれども、ご承知のように悪いこともしなかったわけじゃない。それでね『行ったら白い目で見られるんじゃないか』と思ってあまり気がすすまなかった。しかしその会議に行くとね、あちらこちらからアフリカの代表、アジアの代表が出て来てね、『よく来たね!』『日本のおかげだよ!』と大歓迎でした。それは『日本が大東亜共同宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした。その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然としてイギリスの植民地・オランダの植民地・フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある。』ということだった。この時は『大東亜共同宣言』を出してよかった、と思いました。我々が今日こうやって独立しました、といって『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的だった。こんな会議が開けるのも日本のおかげですと、『やぁー、こっちへ来てください』『いやぁ、今度は私のところへ来てください』と言ってね、大変なモテ方だった。やっぱり来てよかったなぁとそう思いました。
( 中略 )
その翌年、日本は晴れて国連に加盟して、私は初代国連大使になりました。アジア・アフリカグループが終始熱心に日本の加盟を支持した事実を強調したい。A・A諸国から大きな信頼と期待を寄せられて、戦後我が国は今日の繁栄を築いてきたのです。
https://www.facebook.com/ww2asia/photos/a.470602659624148/562416100442803/

 本題に行く前に。加瀬俊一の発言内容には深くは突っ込まないですが、例えば"『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的"は外交資料などから考えても明らかにおかしいですし、かなり本人のイデオロギー的な主観が見え隠れしています。また、チヤホヤされているのも外交儀礼であるとか、冷戦構造化にあった世界で第三世界に属したであろうアジア・アフリカに日本を取り込もう、また経済的支援の考えなど複数の思惑も考えるべきであって、純粋に「あの戦争は正しかった」的な受け取りはちょっと単純化しすぎかと考えます。
 脇道から戻りますが加瀬俊一(かせとしかず)はイサク氏がいう所の入省したばかりのS氏ではないですし、そもそも会議に行ったのは外交官一人でもありません。類似発言ととれる場所はネルー発言でもないし、細部に限らず異なる箇所が複数見受けられます。なのでこれは元ネタかもしれない、程度の話ではありますがおそらくこれが変形して今回の発言が捏造されたと考えられます。なお、この「京都外国語大学における講演」ですが出典が何処か不明なのが痛いところです。例えば産経新聞の論説副委員長である榊原智氏は「 「アジアの解放」と日本――「戦後70年談話」有識者懇が振り返らなかった視点」において上記部分を一部引用して以下のような記述をしています。

これは1994年7月、京都外国語大学で加瀬氏が講演した話だ。『シリーズ 日本人の誇り1 日本人はとても素敵だった』(揚素秋著、桜の花出版、2003年刊)の巻末に、同出版会長、山口春嶽氏が記した文章「シリーズ刊行にあたって」の中で記録されている。

出典は『日本人はとても素敵だった』とありますが、この書籍にはそんなものは存在しません。なんならこの「シリーズ刊行にあたって」はwebでも読めて、シリーズ作すべての巻末に書かれている内容であるのですが、当然ながら加瀬の講演についての文字など一言も存在しない。榊原智氏の書きぶりから見る限り、なんらかの書籍などからの引用なのは確実であるものの、しかしながら出典書籍に誤りがあるために追えなくなっているという状況です。では、この加瀬の講演はどの本に記述されているのか。今流布しているものとは若干文章が異なりますが、展転社『昭和の戦争記念館第5巻』での記述が山際澄夫氏のブログや、田母神敏夫『自らの身は顧みず』で引用されており、それは以下の様なものです。

加瀬俊一外務相参与(のちに初代国連大使となる)は、外務大臣代理で出席したのだが、その時の模様を次のように語っている。「この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と思っていた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。出てみるとアフリカからもアジアの各国からも『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と大変なもて方であった。やっぱり出席してよかった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ。
 ところがこのように評価されている大東亜戦争の勇戦や、大東亜会議の意義だが、日本のマスコミや学会では取り上げられない。この辺にも日本の歴史認識や外交の未熟さがあるように思われてならない」(平成六年七月二十二日、京都外国語大学における講演より)>

どうにも近くの図書館にないので原著は確認できていませんが、複数の著者が出典としていることから信頼性はあり、そして加瀬が講演で話したニュアンスというのは以上の様なもので、最初のより長いバージョンと大きな違いはないことがわかります。ちなみに産経新聞の榊原智氏については”『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的”という文章が引用されており、この文面は『昭和の戦争記念館第5巻』には記述されていないことから別書籍からの引用でしょう。
 ただ返す返すもイザヤペンダサンから始まったと思われるこの「名言」的なデマは発言もそうですし、状況的差異、イニシャル違いなどあまりにも細部が異なり、イサク氏が果たしてどこまで創作したのかは謎です。ただ、これだけは言える。デマ。


11月21日追記
 加瀬俊一氏の1994年の京都外国語大学での講演についてですが、初めにあげた長い文章の方は出典が不明としましたが、出典がわかりましたので追記します。この京都外国語大学の講演をまとめた書籍は『祖国と青年』1994年9月号における「大東亜戦争〈歴史の証言〉――大東亜会議とバンドン会議です。またこれが再録されたのが『祖国と青年』の2015年6月号です。産経新聞の榊原智氏の引用元もこの本の可能性は高いと思われます。

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