電脳塵芥

四方山雑記

タイ国元首相プラモード氏の記者時代の発言「日本というお母さんは~」は名越二荒之助の捏造ではないか

 名言?調査ククリット・プラモード編です*1。ネットで流布している発言には細かなところが違う亜種がいくつか存在するので下記に引用する発言は画像の文言とは異なります。そこだけは悪しからず。

ネルー編
スカルノ編

 なお、この案件ですが既に早川タダノリ氏が論座において、 『百田尚樹『日本国紀』に登場した謎の記事を追う』というシリーズにおいてこの発言の出典や経緯を語っています。序盤ではこの記事に依拠しながら進めていきます。この記事の独自性は最後の方にあるのでめんどくさい方はそちらをどうぞ。

発言の使用頻度の高さ

十二月八日
日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話しが出来るのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心をされた日である。さらに8月15日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である。 われわれはこの二つの日をわすれてはならない。

 まずこの発言はネルースカルノの発言とは異なり初発がそれなりにネームバリューのある人間の書籍であることから色々な論者やメディアが使用しているのが特筆すべき点です。例えば日本会議の『世界はどのように大東亜戦争を評価しているか』、草奔全国地方議員の会『日本を評価する世界の著名人>タイ王国』、産経新聞正論:タイ国王の「友好の絆」忘れるな ジャーナリスト・井上和彦』、靖国神社英霊の言乃葉 8巻』、田母神俊雄『自らの身は顧みず』、百田尚樹『日本国紀』、自由社『新版 新しい歴史教科書』、小林よしのり戦争論2』などなど。そうそうたる面々がこの発言を引用しています。


小林よしのり戦争論2』より。後々の影響を考えれば戦争論での発言の採用は大きかったと思われます。

ちなみにネット上では2chにおいて2004年くらいからこの発言の書き込みが見られ*2、その他の個人HP/ブログ系でも2007年くらいから同様の発言が見られるようになってきます。ただ個人系はジオシティーズ掲示板などのサービス終了で遡れないだけで2007年以前から存在したものと考えられます。
 なお発言中で太字にしている「8月15日~」の箇所は日本のもともとの出典にはない箇所であり、引用された際に付け加えられた箇所です。要はここはおそらく高い確度で捏造なので検証からは無視します。

出典はどこか

 事程左様に出典があるだけにその使われ方はかなりのものです。そしてこの発言の元ネタを早川氏の調査に従って時系列で表すと以下の様になります。

【発言の初出や出典、経緯】


1955年:6月8日(9日?)に元タイ国駐屯軍司令官中村明人がタイに訪問*3
    プラモードが現地誌(フサイアミット紙)に『友帰り来る』掲載
    上記ソースは『日本週報』9月15日号
    田中正明「日泰親善秘話――浦島太郎になった陸軍中将」より
1958年:中村明人『ほとけの司令官――駐タイ回想録』刊行
1968年:名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』刊行
    「日本というお母さんは~」の語句が現れるも出典不明
1981年:名越二荒之助『戦後教科書の避けてきたもの』出典不明
1988年:ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争
    プラモード氏をサイヤム・ラット誌の主幹と書くが出典自体は不明
    田豊が記事を持っていると明言
1989年:土生良樹『日本人よありがとう――マレーシアはこうして独立した』刊行
    「八月十五日は~」の記述が追加される
    出典元をサイヤム・ラットと明記*4
1995年:歴史・検討委員会編『大東亜戦争の総括』
    「十二月八日の新聞の社説」と明記
1966年:藤岡信勝自由主義史観研究会『教科書が教えない歴史』
    「十二月八日」と題した記事と明記
2000年:名越二荒之助『世界に開かれた昭和の戦争記念館』第4巻
    出典元をサイヤム・ラットと明記
2018年:百田尚樹『日本国紀』刊行
    出典を「現地の新聞サイアム・ラット紙、昭和三〇年十二月八日」と明記


 まず1955年の中村明人の訪タイを起点として話は動き始めています。そして1958年の『ほとけの司令官』においてプラモードによる「友帰り来る」という記事が全文引用されておりますが、後述する様にこの発言自体のソースを追うのも困難です。ただし「友帰り来る」は本題ではないので置いておいて……、『ほとけの司令官』には「日本というお母さんは~」という文言は一切登場しません。その後、1968年に名越二荒之助が件の文言を登場させていますがここでは逆に中村明人の名前は一切出ません。それでは何故中村の訪タイが起点になるかというと2000年の『世界に開かれた昭和の戦争記念館』において名越二荒之助は中村明人の訪タイに伴う記事をこの「日本のお母さん~」と関連付けているからです。詳しくは後述。
 そして経緯を見ればわかる様に出典は何故か当初は明らかにされずに後々判明するという具合であり、更に当初は『十二月八日』という記事だったはずが書籍によっては誤読によって記事名ではなく出典の日付が十二月八日と判断されるにいたります。ちなみに早川氏が「サイアム・ラット」紙1955年12月8日付の原典を入手して検証していますが、この1955年12月8日の記事に件の「日本というお母さんは~」の記述はありません

ククリット・プラモード『友帰り来る』

 中村明人『ほとけの司令官――駐タイ回想録』にはククリット・プラモードが記した「友帰り来る」という記事が全文引用されています。この文そのものが重要でもある為に長文の引用をします。

 第二次世界大戦中、タイ国を占領していた帝国「義」部隊の戦時中の司令官であった中村明人氏が、親善訪問の目的をもって、六月中に再びタイ国の土を踏まれた。
 戦時中、日タイ両国には密接な友好、協力の協定が取交されていたのであるから、「占領」という語(ことば)をここに用いるのは強いかもしれないが、両国民中のいずれにもせよ、真実を回避することなく公平に語ることを欲するものなら、だれしも「義」部隊の本体は占領軍であったということを認めざるを得ないのである。ということは、中村明人氏はタイ国民に顔をそむけられたり、あるいはまた復讐的攻撃に身をさらされたりはしなかった。それどころか、氏は彼の招待者たちおよびタイ国民から、諸手を挙げての歓迎を受けたのであった。
 中村将軍、今日なお、タイ国において中村将軍として知られている氏は、国家警察の公式賓客として訪タイされたのではあるが、その訪問は一般には、国民たちが尊敬と愛情をもって、総計すべき人として来た旧友を、彼らの間に再び迎え、彼の訪問を衷心より歓び迎えた、タイ国民全部の賓客であるかの如き感を受けた。
 占領軍の司令官が、彼の軍隊が戦時中占領していた、そして戦い終えて去って行ったところの国民から、赤誠あふるる友情と真心こもる愛情とをもって、かくのごとき盛大な歓迎を受けるものは実に稀なこと、否、人類史上まったく前例を見ない事であるまいか。タイ国において中村将軍に与えられたこの歓迎は、多面にわたり意義深いものがあるが、そのいずれもが日タイ両国間の前途に光明をもたらすものである。
 第二次世界大戦中、並びに大戦後、日本帝国陸軍は数多くの残ぎゃく、かつ非人道的罪に問われた。かかる帝国陸軍の事に関しては、すでにそれ自体一巻の書を形成するに至っている
 もしも語り伝えられているこれらの言語同断(ママ)な物語の数々が真実であったとするならば、ただ一人の反対者の怨恨の声もなく、高度の賛辞をもって歓迎された氏のタイ国訪問は、実に例外中の例外を、これらの物語に附したるものというべきである。
 タイ国民は、彼等の祖国に日本軍を迎え入れ、或いは戦時中、彼等の祖国が占領状態におかれていたのを黙視していたのではなかった。
 ほとんど全部のタイ国民達は、占領によって実にひどく感情を害されていた。はげしい反感の念がわき起こり、彼等の主婦に外国の軍隊が進駐するのを見て、多くの愛国心に燃えた人々の目は熱涙にうるんだのであった。
 地下工作は当然これに付随した。タイ国民は挙って彼らの祖国が再び自由を取り戻し得るであろう処の日を鶴首、かつ祈願したのであった。

 これ等の悪感情にもかかわらず、タイ国民は中村将軍統率下の軍隊の見事な紀律は模範とすべきものがあったこと、その行動は上品で、かつ人道的であったこと、また「義」部隊の司令官は戦時中ずっと続いた安寧秩序に対する責任者であったことを明らかに認め、かつ銘記しているのである。
(中略。中村明人の功績、将来の両国間の友好などについて語る)
 我らの友、中村氏のために、そしてわれわれの友好国、氏の祖国のために、われわれは衷心よりの「万歳」をとなえる。
1958年『ほとけの司令官――駐タイ回想録』p.203-206
※全文はこちら

ククリット・プラモード「友帰り来る」の赤字を記したところは大日本帝国による侵略性を示していると言える部分であり、逆に黒字部分はその侵略性を伴った日本によるタイ国の「占領」を中村明人という個人がタイ国民に幅広く受け入れられるように尽力したという文脈といえるものです。この記事で称賛されているのは中村明人という個人であり、日本という国家ではありません。そしてプラモード氏のこの論調は中村明人個人ならともかく「日本」によるアジア解放史観と相性が良い感情とはあまり言えません。つまりいま日本で流布している「十二月八日」の「日本というお母さんは~」という文言はこの「友帰り来る」と同一人物が書いた記事とは少々考えにくい。さらに付け加えて言えば「友帰り来る」の文章量からして「十二月八日」が実在するならば現在紹介されている発言はごく一部と思われます。恣意的な引用の可能性もあり、その全文には何が書いてあったのは重要でしょう。
 なおこの「友帰り来る」が掲載された雑誌の日本週報(340号)において、田中正明の記事中には”ある有力紙(フサイアミット紙)のごときは、主筆ククリット・プラモード氏の名をもって、「友帰る来る」と題し~”とあります。「フサイアミット紙」と書かれていますが、これは主筆という表現やククリット・プラモードのタイ版wikipediaにフサイアミットと思われる記述はない事から「サイアム・ラット紙」ではないかとも思いましたが、しかし後述する様にまったく別の雑誌である可能性もあります。記事の論調としては中村個人を主役に置いた訪タイにいたる伝記、斜に構えれば持ち上げともとれる内容ではありますが、記事内における『友帰り来る』の引用は後述する名越本よりも日本の侵略性に触れており、その部分においてはフェアであると感じます。それと引用の内容を見ると『ほとけの司令官』の記述内容と細かい語句の言い回しがたまに異なることから原本からの翻訳による両者のブレが伺え、つまりは「友帰り来る」は現実に存在することが類推できます*5。ちなみに国会図書館のレファレンス事例紹介でChaiwat Khamchoo, E. Bruce Reynoldsによる “Thai-Japanese relations in historical perspective”において「友帰り来る」が紹介されているとありますが、こちらは中村明人の『ほとけの司令官』が出典元で、わりとこの現地雑誌フサイアミットについてもよくわからないところがあったりします。
 さて、中村明人の訪タイ記事や『ほとけの司令官』の発売元が日本週報社であることから「十二月八日」の出典が日本週報である可能性はあります。そこで日本週報について国会図書館に現存する340号以降の日本週報を全て当たりましたが「日本というお母さんは~」という文言が書いてある記事は見当たりませんでした。かろうじてタイについて触れた記事と言えば日本週報438号やこの号の記事流用である475号(増刊号)に載っていた中村明人による『「潜行三千里」の大秘密』において敗戦後間もなくのことについて語ってはいるものの件の発言はありません。また『ほとけの司令官』のブックガイドが475号に載っていますがこの紹介についても同様です。田中正明関連でも日本週報社の諸連載及び1958年に『光また還る―アジア独立秘話』を出していますが、連載や書籍内でこの発言については特に扱っておらず発言はありません。雑誌が現存しない号もあるので断定はできませんが、しかし日本週報でタイを取り上げ、件の発言が出た可能性は著しく低いと考えます。
 日本週報社を少し離れて中村明人に絞って考えれば雑誌『丸』の1966年2月号の「あの人はどうしているか」というコーナーにおいて戦後3回ほどタイに訪れていると記述されています。1回目は1955年、2回目、3回目がいつかは不明ですがこの際に記事を持ち帰った可能性はありますが、しかしそれならばそういった情報がどこかに出てもおかしくない。このルートはあり得ても少し考えにくいです。田中正明の方から考えると、その他の雑誌などでの発表はあった可能性は否定できませんが、正直それらをしらみつぶしには不可能に近く、やはり「日本というお母さんは~」の初出は消去法で名越本の可能性が高いと考えざるを得ません。

名越二荒之助の記述の変化とその出典はどこか

 おそらく「日本というお母さんは~」の初出と思われるのが名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』(1968)ですが、この時点では出典そのものはかなりあっさりとした記述となっています。

タイ国記者の「十二月八日」
 大東亜戦争に対して積極的意義を見出す発言は、ウエルズやトインビーのような大歴史学者ばかりではありません。ククリット・プラモードというタイ国の記者は、現地の新聞に、「十二月八日」と題して、もっと端的に、判りやすい評論を発表しております。
(中略。「日本というお母さんは~」の引用)
 この文章を読んだ日本人は、あまりにもよくでき過ぎているので、誰かの創作ではないかと思われましょう。そう思われるのも無理はありません。現代の日本人は、十二月八日を「日本自滅の第一ページを奏でた悪夢の日」とか、「暗い谷間に突入した苦汁の思い出」とか言うてあいが多いのが実情ですから。
 しかし現代の日本人がいかに大東亜戦争を否定しようと、歴史の真相を見る眼は否定することができないのであります。これから歴史が過ぎれば、大東亜戦争の評価はいよいよ定着してくるでありましょう。
 東南アジア諸民族の日本への恨みは、戦後相当に根強いと思われていました。しかしこれは賠償金を取りたいアジアの指導者の演出も手伝っていのであって、市民の声がすべてそうではなかったのです。日本が賠償金を払ってしまえば、やがてそれらの感情的要素は恩讐の彼方に消えてゆきましょう。
(以下略)
1968年 名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』 p61-62

まず『大東亜戦争を見直そう』で明らかにされているのはプラモードという著者、「現地の新聞」という出典、そして「十二月八日」という表題の3つです。そして引用後に「誰かの創作ではないかと思われましょう」という一文を追加してこの文章が創作ではないことに念を押しています。
 次に『戦後教科書の避けてきたもの』(1981)は出典もなく特に新しい記述はないのでスルーして、『世界に開かれた昭和の戦争記念館』第4巻(2000)を見ていきます。この書籍の特徴は初めて中村明人がこの件に関して関わっていると思しき記述が現れるということです。

敗戦で問われた駐屯の真価
「ほとけの司令官」中村明人
 昭和三十年六月九日、タイのドムアン飛行場に降り立った日本人一行は、出迎えた同国顕官をはじめとする群衆から大歓迎をうけた。
 一行とは、その十年前にタイ駐屯軍司令官であった中村明人・元陸軍中将と夫人、元参謀や秘書の旧幕僚五名である。
 タイ国警視庁貴賓として招待された中村元将軍の一行は三週間の滞在中、連日の歓迎攻勢をうけるが、かつての駐屯軍司令官はなぜに、これほどの歓待をもって迎えられたのか。当時、同国の最有力な言論人であったククリット・プラモード(後に首相)は、「友帰り来る」と題して次のように現地の週刊誌で述べている。
 「占領軍の司令官が、彼の軍隊が戦時中占領していた、そして戦い終えて去って行ったところの国民から、赤誠あふるる友情と真心こもる愛情とをもって、かくのごとき盛大な歓迎を受けるのは実に稀なこと、否、人類史上全く前例を見ないことではあるまいか」
2000年『世界に開かれた昭和の戦争記念館』第4巻 p.119

まずこの文章で問題なのは「友帰り来る」からの引用において、日本、というよりも中村明人への好意的部分のみを意図的に取捨選択した引用であると言うことです。そして数ページ後に件の発言の話題へと移り、その時には以下の様な記述をしています。

「身を殺し仁をなした母」とタイ人が感動的な日本評価
 タイ駐屯軍司令官であった中村明人・元中将を、昭和三十年にタイが国賓待遇で招待した時に、「人類史上全く前例を見ないこと」と感動を筆にした同国のオピニオン紙「サイヤム・ラット」主幹であるククリット・プラモードは、当時もう一つ日本人にとって心に銘記すべき一文を同紙に発表している
 「十二月八日」と題された署名記事の十二月八日とは、いうまでもなく大東亜戦争開戦の日である。
(以下略。「日本というお母さんは~」の引用、ククリッドの略歴、兄のセーニーの簡単な説明などを行う)
『世界に開かれた昭和の戦争記念館』第4巻 p.126

つまりはこの名越氏の文章を信じるならば「日本というお母さんは~」の該当部分の発表経緯は以下の様な順序になります。

1)中村明人による訪タイ
2)ククリッド・プラモードが「友帰り来る」という記事を発表
3)同氏が当時(書き方からして同時期)に「十二月八日」の記事を発表

「十二月八日」が「友帰り来る」とほぼ同時期に発表されたならばそれは1955年、12月8日がその題名ならばその近辺の日付に発表された可能性が高いでしょう。しかしその発表時期は不明。名越二荒之助は雑誌名は明かし、その表題「十二月八日」を記述していてもその記事が書かれた日付を書いていません。結局、出典が「いつ」か不明なのです
 そもそも名越二荒之助が広めたといえる「十二月八日」の出典問題として他にも挙げられることが「サイヤム・ラット」が出典だという情報が出るまでの期間の長さです。氏の初出は1968年にもかかわらず雑誌の出典明記は2000年となり、その間32年間もかかったという事です。それまでは「現地の新聞」、「サイヤム・ラット誌の主幹のプラモードが発表」など出典をぼかし続けています。ただしこれは雑誌名が明かされただけマシととらえましょう。
 名越氏本人は最初の引用で「誰かの創作ではないかと思われましょう」と記述していますが、その厳密な出典は不明という不思議な状況になっています。

その他の書籍における引用

 ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』内に収められている座談会形式の記述にて藤田豊はその記事を所持していると明言しています。

藤田 ククリット・プラモートというタイの「サイヤム・ラット」紙の主幹(一九一一年生まれ、一九七三年、首相となる)が「十二月八日」と題して書いたという記事をいまここに持っていますので、読んでみます。もの言わなかったピブンさんの心を代弁しているように思うのです。
(「日本というお母さんんは~」のくだり)
名越 ククリット・プラモードは、やがて弟のセニーも首相になりましたが、タイきっての名家で、昭和五十九年にタイに行った時ぜひ会いたいとお願いしたことがあるんです。あの時は病気で断わられました。しかし、今は健康をとり戻しているそうです。
p.238-239

果たしてここで藤田が持っていた記事なるものがタイ語による原文の記事かどうかは不明です。いや、タイ語の原文記事以外には存在しないとは思いますが。そしてここでも座談会形式の為とはいえその出典はまたまた不明。該当記事の入手に関しては藤田がタイに訪れてその記事を入手した可能性そのものも否定できませんが、しかし対談者として名越がいることから名越から藤田へとその記事が手渡されたと考えるのが適当でしょう。いずれにしてもこの「記事を持っている」発言は重要ではあるものの実在性の証明という意味では弱いと言わざるを得ません。なお、文中に”ピブンさんの心を代弁”とありますが、このピブンとはタイの首相を38年間務め、その後のクーデターで1957年に日本へと亡命した人物です。亡命後にピブンは明治神宮に参拝したと副島廣之『神苑随想』に書かれているとのことですが、つまりは1957年以降。もしもプラモードが”ピブンさんの心を代弁”というならば件の記事は1957年以降となるのが文脈上では正しく、「十二月八日」という記事は1957年以降という可能性も考えられ、『世界に開かれた昭和の戦争記念館』第4巻における”当時もう一つ~”という語句と時系列がぶれています。流石に最低2年以上の違いを「当時」とするのには違和感があります。ただし『アジアに生きる大東亜戦争』自体が1988年に刊行されたことを考えればこの程度の時系列の混乱はあり得ることではあるのでここでは無視します。
 ちなみにこの書籍においてこの節の題は”「身を殺して仁をなした」お母さんの国、日本”なのですが、その前の節の題は”ホトケの中村明人軍司令官”となっています。これは座談会のメンバーに田中正明がいることの影響もあるでしょうが、このタイにおける「日本というお母さんは~」という説話の一つのラインとして「ホトケの中村明人-ククリット・プラモードの紹介-「日本というお母さんは~」」があることがうかがえます。だからなんだ、という話もありますが一つだけ疑問に思えるのはそもそもの話、「日本というお母さんは~」という文言が日本で流布するまでの時間差です。名越氏の書籍からこの文章の発表までの経緯を記し、また冒頭でも流れは記述しましたが、再度紹介するならば以下の様になります。

【「日本というお母さんは~」が日本で流布されるまでの時間】
1955年6月  中村明人による訪タイ
1955年6月? ククリット・プラモードが現地誌に「友帰り来る」を掲載
1955年9月  日本週報に田中正明「日泰親善秘話――浦島太郎になった陸軍中将」掲載
1958年    中村明人『ほとけの司令官――駐タイ回想録』刊行
1968年    名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』で発言が登場

1955年9月時点で田中正明が件の記事に気づいていたならばその時の記事に書かれてはいそうなものの、そうは書かれていません。ただこれは9月という時期を考えれば該当の記事が出ていなかったと考えられるので不自然さはそこまでありません。次に1958年、中村明人が『ほとけの司令官』出版ですが、この時点でこの説話があるならばここで紹介されていてもおかしくはありません。名越の言を信じるならば「友帰り来る」の近い時期に発表しているはず。それを中村が気付かなかった可能性も捨てきれませんが、ただ少なくとも1958年時点の中村明人やその周辺はこの記事には気づいていなかった。そしてそれから10年経って初めて名越二荒之助が「十二月八日」という記事を発見したことになります。これは彼が発見したのか、それとも知人が発見したのか、日本でなのかタイでなのか、そもそもいつ入手したのかは不明です。ただ単純に考えれば該当記事を「発見」するということはタイ国に赴き下手すれば10年以上前のタイ語の新聞紙「サイヤム・ラット」を入手したという事です。当時のタイ国の資料の保存やそれへのアクセスの仕方はわかりませんが、正直素人考えとしては入手難易度が相当に高いと思わざるを得ない。果たして名越二荒之助はどの様にしてこの資料を入手したのか。そもそも名越氏はタイ語読めたのかという初歩的な疑念も。彼の表面上見える経歴はタイとは関係なく、この入手経路が気になります。しかしそれは藪の中。
 次に、レファレンス共同データベースにおいて2018年にこの発言の出典について調べていますがそこには以下の様な質問文が記されています。

大東亜戦争その後 : 世界の遺産』(展転社、2000)のp.126において、タイのククリット・プラモード氏が、オピニオン紙「サイヤム・ラット」に発表した記事が引用されている。(中略)p.199に参考文献一覧があり、おそらくソムバット・プーカーンの『ククリット』(タイ国内出版)という書籍だと推測されるが、正確には不明。

このソムバット・プーカーンの『ククリット』が出典となればよいのですが、問題点としてはこの著書は1998年刊行となり、日本でこの文言が流布されたはるか後の書籍となりこれが出典にはなりえません。この書籍自体に件の文言が記述されている可能性はあり得ますが、日本国内でこれを確認する術はありません。ただしグーグルブックスにおいて書籍内の検索が可能となっており、検証そのものは可能です。そこでもっとも該当発言に引っかかりそうな「ญี่ปุ่น(日本)」と検索してみましたが検索ヒット数は0。また「อาเกโตะ นากามูระ(中村明人)」、「วันที่ 8 ธันวาคม(十二月八日)」は0。「สยามรัฐ(サイヤム・ラット)」で検索すると13件中3件(実質2件)の文章が確認可能ですがOCRと自動翻訳を使用してみると件の発言とは無関係の模様です。そもそも「日本」や「十二月八日」で検索して出てこない以上、この書籍が出典とはなりえないと言っていいでしょう。
 事程左様に結局のところ、出典が分からん状態です。

実際にそのコラムの存在を確認できるのか

■日本で可能な調査
 さて以上みてきたように早川氏の1955年12月8日記事の原典確認でこの件をデマと判断することは可能ではありますが、しかし「12月8日付」の記事にないだけで「十二月八日」という記事名のものはあるという反論は可能です。で、ククリット・プラモードの「サイヤム・ラット」の記事を集めた著作は京都大学東南アジア地域研究研究所図書館に所蔵されていますので、これを片っ端から調べるという手はある。ちょうど時節柄、学外利用者は立ち入り禁止の時期だったので地元の図書館からの相互貸借を利用して京都大学東南アジア地域研究研究所図書館から「สยามรัฐหน้า ๕」を全巻借りてみましたが、第1巻の1発目の日付が仏暦2511年(西暦1968年)から始まっておりどうやらコラムの書籍化は1968年以降のもののみとなり今回の検証には使用できない代物でした。これは京都大学の所蔵の書籍がそれ以前のものを所蔵していないというよりも、タイのインターネット通販などの商品説明*6を読んでも70年代の一時期のコラムが書かれているなどとある様に、書籍化そのものは60年代後半からであり、50年代当時のコラムを書籍化したものはない可能性が高いです。

■タイ国方面からの調査
 次にやった手としてはタイの『サイヤム・ラット』の編集部に問い合わせしてみました。サイヤム・ラットは資本は変わりつつも今現在も存続しており当然ウェブサイトもあります。そしてFBの方にはメールアドレスがあったのでそこから機械翻訳を駆使しながら尋ねてみました。ただし結果としては一度返信は戻ってきて、「それは第二次世界大戦の事ですか、デジタル化してない、上級記者に尋ねてみる、返信は約束できません」という様な内容が来ました。それに対してはもう少し詳細な文脈を添えてこちら側から再度伝えたもののそれ以降の返事は来まずに終了。これに関してはタイ人からしたら日本人から変なメール来たなで終わったのかもしれません。ある意味で当事者と言える団体からの返事がきたらその時点でカタが付いたものの、ただそもそもこんな問いに対して返す義理もないですからしょうがない。
 次にタイ国立図書館に日本にコピーを送ってもらえないかと尋ねたところこちらは返事なし。音信普通だとそもそもちゃんと届いたかさえ不明なところもありますが……。

アメリカ議会図書館による調査
 事程左様にタイ国経由でこの話題を日本から調べるのはいささか難しいようで、なので次に使った手段はアメリカ議会図書館です。こちらにもサイラムヤットは保存されており、そして日本からWEB上で複写が可能の様で以下の様な条件付けで複写申請を行いました。

【議会図書館への複写申請内容】
期間  :1955年6月から12月末まで
複写箇所:5面にあるプラモード氏のコラム

まず「十二月八日」というコラムは存在したとしても果たして何時掲載されたのかが不明です。そこで中村明人が訪タイしたという1955年6月から12月までに掲載されていたと仮定します。これは中村明人訪タイ時に掲載された「友帰り来る」と併せて名越氏が「当時もう一つ日本人にとって心に銘記すべき一文を同紙に発表」ということから上限を1955年6月に、そして「十二月八日」という題名から下限を12月末までに設定した申請です。この申請をしたところ、それなりに長期間且つ日付などが不明瞭な複写申請だった為に議会図書館側から詳細な日付などが欲しいと言われました。そこで返信として「友帰り来る」と「十二月八日」についての記述、時期的に6月、7月に該当コラムがある可能性がある事、そして「十二月八日」については捏造の可能性がある事を伝えて「コラムが該当期間に存在しないことを確認したい」という旨を送って返信してみました。そこからの返事が次の様なものです。

“There is a column in each issue. It is not signed by any author but since Kukrit Pramoj owned and founded the newspaper, it's highly likely that he is authoring the column. For June-July, did not find any column title "friends come home." I did find three columns about Japan though. I've attached them. All three are about Japan and Russia.For December, did not see any column entitled "December 8." I did scan the column which appears in the December 8th issue in case it is useful.The column is appears in every issue and the newspaper is a daily”
 
(自動翻訳)
"各号にコラムがあります。著者の署名はないが、Kukrit Pramojがこの新聞を所有し、創刊したので、彼がコラムを執筆している可能性が高い。6月号から7月号にかけては、「友帰り来る」というタイトルのコラムは見当たらなかった。しかし、日本に関するコラムを3つ見つけた。添付しておく。3つとも日本とロシアに関するものである。12月は、「12月8日」というタイトルのコラムは見当たりませんでした。12月8日号に掲載されたコラムをスキャンしてみたので、参考になればと思います。このコラムは毎号掲載されており、新聞は日刊紙である。

複写申請をしたのになぜかアメリカ議会図書館のリファレンススペシャリストの方が調査結果を教えてくれました。ただ正直かなりありがたく、その調査によれば、

【議会図書館による調査結果】
・サイラムヤットに6月、7月に「友帰り来る」というコラムは存在しない
・該当時期に日本に関するコラム(社説?)は3つ
・上記コラムは日本とロシアに関するもの
・12月に「十二月八日」というタイトルはコラムは存在しない

以上となります。まず副次的にですが「友帰り来る」というコラムが掲載された「フサイアミット」は「サイラムヤット」ではないことがわかります。ここで一つ起こる疑念はククリット・プラモードという人物はサイラムヤットの創刊者であることからフサイアミットという別紙に同時期にコラムを書くのか、というものです。正味な所、違和感はありますが、ではその違和感を発展させて「友帰り来る」までもが捏造、この場合は田中正明による捏造なのかというと田中氏は田中氏で問題のある著者とはいえ、のちの中村明人の著作への転載時と田中正明の記述を比較すると細かいところでの記述の違いがある事や「日本というお母さんは~」に比べれば日本軍批判の箇所がある事から原本がある可能性は伺えます。ただしフサイアミットの存在まで辿るとなると正直日本という場所からはお手上げなところもありますので、ここでは深追いはしません。
 そして6月、7月に掲載された日本に関するコラムですが、いずれも当時の日本とロシア(ソ連)についての外交関連の話であって「十二月八日」とは何ら関係もありません。ちなみにですがこのコラムはサイラムヤットの社説(?)でありプラモードが書いたかどうかは不明です。議会図書館側としてはサイラムヤットの主筆がプラモードであるためにプラモードによるコラムと判断したようです。
 以上がアメリカ議会図書館による調査でありがたい面もかなりありますが正直痛し痒しの部分がそれなりにあります。まずこちらの指定期間に入っていた8~11月についての確認は文面からおそらく行っていない故に調査期間が6、7、12月のみとなっていること*7。またククリット・プラモード氏の「記名」のコラムというよりも無記名のサイラムヤットの社説をプラモードのコラムとして扱っている点です。これについては名越二荒之助が該当コラムを存在するとして、果たして同じような判断をしたかというとそんなことはあり得ずに「ククリット・プラモード」という名前が記名されたコラムを根拠にする可能性が高いと言わざるを得ません。ただしこの調査の過程でおそらくは1955年の6、7、12月の紙面については確認しているものと思われ、該当期間中に「十二月八日」というコラムは存在しないという事は確かと言えましょう

今回の調査で言える事

 以上みてきたように今回の調査においてはククリット・プラモードによる「日本というお母さんは~」が含まれる「十二月八日」というコラムは発見できませんでした。ただしもしも完全にデマと断定するとしたら1955年6月頃から名越二荒之助によるこの文言の初出である1968年頃までの長期間のサイラムヤットの全紙面を見て「該当コラムがない事」を確認しなければ完全なるデマ認定は難しいでしょう。ただ正直そこまでの事をできるかというと日本国内では不可能です。今回の調査ですら日本国内という枠組みでは不可能な域にやや達してい居る状態ですし……。
 さて後に続く人がいるかどうかまでは分かりませんが、次につなげられる点を最後に記しておきます。まずサイラムヤットにおけるククリット・プラモードのコラムについて。国会図書館のレファレンス事例集では60年代末からの氏のコラムについてまとめた書籍「サイラムヤット5」はサイラムヤットの5ページ目にコラムが掲載されていたから「サイラムヤット5」という名称ではなないかとしています。しかし60年代末はともかくとして1955年当時の氏のコラムが掲載されているページは3ページ目と7ページ目です。これはアメリカ議会図書館からの回答をもらった後に改めてタイ国立図書館に問い合わせたところ司書からその様な返事をいただきました。実はアメリカ議会図書館からもらったコピーはすべて3ページ目であるために、この7ページ目にあるという情報はかなり困りもので謎なのですが……、とにもかくにも55年近辺を調べるならば3ページ目と7ページ目です。
 次にククリッド・プラモードのコラムの掲載間隔ですが、毎日掲載されていたかどうかというとそうではない模様です。今回、アメリカ議会図書館からサイラムヤットの4つの紙面コピーを入手しましたが(いずれも3ページ目)、その中で氏のコラムが掲載されていたのは木曜日分の2回だけでした。これについては4枚しか手元に資料がない事、またタイ側からの情報である7ページ目のコラムがどの様なものかが謎な為に断定はできませんが、当時は毎日コラムを掲載していない可能性もあります。
 そして最後に視覚的情報を。以下の画像がサイラムヤットの1955年12月8日付の3ページ目、左側が社説(?)で右側中央からの記述がククリッド・プラモード氏によるコラムです。

タイ国立図書館によるとこれは「北部と北東部の天気」についての話で、早川氏の調査によると「ケップレックパソムノーイ(こつこつと貯める)」という題です。もしもこの当時の調査をするならば上記の箇所と7ページ目を調べるのが良いでしょう。あと付け加えると現在日本で流布されている「十二月八日」が仮に実在したとしても、上記の実際に存在する1955年12月8日のプラモードのコラムを見る限り、文章量にそれなりの違いがある事から恣意的な文章の切り取りが行われている可能性があります。名越二荒之助は「友帰り来る」においても類似の手法をしていますし。まぁ、これは「実在」するとして、ですが。

 長々と書いてきましたが調査は以上で終了です。サイラムヤットを保存している図書館はまだありますのでそっち方面へ尋ねるであるとか、名越二荒之助や藤田豊の親族が記事を持っている可能性はあるのでそちらの方向からのアクセスも考えてましたがこれはかなり難しい。保守論壇の方々、ほんと彼らに問い合わせてその記事を発掘してほしいというお気持ち。あとはタイ語に堪能な方が調べてくれないかなー、とかちょっと思いますが正直なとこ人に頼るにはそれなりの労力が必要にもなり、そんな知人も流石にいないのでこの手も難しい。それはともかくとして正直日本国内で個人でできる調査の限界を超え始めてきたのでこれにて終了です。ただこれだけ調べてもその使用頻度に比べてその情報は酷く胡乱であり信用がおけません。「友帰り来る」とのトーンの違い、実在するコラムとの文章量の違い、何よりも結局明かされなかった出典。ただし現段階でデマと断定までは出来ない。しかし。
 「日本というお母さんは~」は名越二荒之助の捏造ではないか。

※上記アマゾンリンクにあるプラモード氏の著作に日本に関する記述はほぼありません。

*1:wikipedeiaなどでは「プラモート、プラーモート」などの記述がありますが今回扱う書籍などでは「プラモード」と表記されていることからプラモードで統一。

*2:その1(2004/11/10)その2(2004/12/6)

*3:田中正明の記事では6月8日に立川の飛行場を出たと記述。名越は6月9日に到着と記載。何時に出発したかまでは不明であり、到着が8日なのか9日なのかが不明。

*4:出典として名越本を挙げており土生の独自調査ではない

*5:ただし『ほとけの司令官』と田中正明『浦島太郎になった陸軍中将』では駐日タイ国大使からの書簡では記述内容に次のような差異があります。以下、引用。
『ほとけの司令官』p12
(大使館よりの書簡)"このたび当大使館において、昭和三十年五月十六日附警視総監より警視庁においては貴下並びに左の人々を、本年六月初旬、警視庁貴賓としてタイ国にご招待いたしたい旨の書翰に接しました。
(中略・招待人物名を記述)
依って警視庁は、右招待の旨、貴下および右の人々に伝えられよう私に依頼がありました。
 なお、航空券は警視庁より東京のPAA代表を通じ、貴下に直接託するとのことです。よって御通知いたしますと同時に、貴下御一行がこれを受諾し、バンコックに向い、いつ出発せられるか、事前にご連絡させたくお願いいたします。
大使 ルアンピニット・アクソン"
日本週報340号『浦島太郎になった陸軍中将』p.34
(大使館からタイ国警察相関バオ大将からの正式招待状)"戦時中タイ国の治安を維持し、タイを戦火から救ったのみか、貴下のひきいる人道的にして、かつ厳正なる軍隊によって、よくタイ国民生(ママ)を保全してくださったことは、タイ国民の修正忘れ得ぬところである。ことに本職としては、終戦時のあの混乱時において、日本軍が進駐のイギリス軍に敵産として引き渡した武器弾薬が、その後タイ国の監理に移ったのちも、これを完全守備し、しかも常に適切なる助言をお与えくださったことは、今なお感激を新たにするところである。ついでは親しくその御礼を申しあげたく、閣下御夫妻ならびに当時の主任参謀、経理部長など関係者をタイ国の賓客としてお迎え申し上げたい"
以上の差異が発生した原因は不明です。「大使館」の書簡、大使館経由での「バオ大将からの招待状」の二つがあり、それを各々が紹介したとも取れますが中村が後者を無視する意味は薄い。田中正明には松井石根の加筆修正問題がある為に正直信頼性が劣るのですが……。真相は不明。

*6:図書館で借りた書籍とタイのインターネット通販で売られている書籍には全く異なる表紙のものが存在しており、プラモードのコラム「サイラムヤット5」は複数回の書籍化がなされていることが伺えます。

*7:追加で調査したのは6、7、12月だけかと尋ねたところ詳しくは議会図書館のアジア系の図書を扱った司書の部署に聞いてくれとだけ返されました……。調査について聞いただけなのに。