電脳塵芥

四方山雑記

【デマ】アジア諸国の首脳が太平洋戦争における日本の功績を認めているといういくつかの「名言」は存在しない - ネルー編


https://twitter.com/IJza1MaI3JwSIfe/status/1486809760829952002

 というツイートが少しバズっていたので、ちょっとこれらの発言について。これらの「名言集」の様なものはこのツイート以外にも氾濫しており、中には本当の発言もある事は事実でしょう。とはいえそれらが全て事実かというと……、と結論みたいな事をもう書きましたがそれぞれの発言を見ていきます。この3つの発言を全て一つの記事にするとかなり膨大になってしまうのでまずはインド初代首相ネルーの発言から見ていきます。
 なお、それぞれの発言には細かなところが違う亜種がいくつか存在するので下記に引用する発言は該当ツイートの画像の文言とは異なります。そこだけは悪しからず。
 ではまずジャワハルラール・ネルー(インド初代首相)の発言から見ていきます。

スカルノ編

発言の出典はどこか

彼ら(日本)は、謝罪を必要とすることなど、我々にはしていない。それ故、インドはサンフランシスコ講和会議には参加しない。 講和条約にも調印しない。(1952年日印平和条約締結)

 結論から書くとこの発言は出典、初出が見当たりません。まず現在ネット上において確認可能なおらそらく一番古い該当発言は2007/10/30におけるニコニコ動画第二次大戦 名言集 (日本編)」です。ただしこの動画は要は発言の「まとめ動画」であることから出典元はどこかにある事は確実であり、またこの動画アップロード主が創作した可能性は限りなく低いです。そしてそれ以後にネット上で確認できる同様の発言は、2007/12/13の以下のブログ記事のコメント。

最後にサンフランスシスコ講和会議でのインドのネール首相の言葉で締めたいと思います。
「彼ら(日本)は謝罪を必要とすることなど我々にはしていない、それゆえにサンフランシスコ講和会議に参加しない、講和条約にも調印しない」

講和会議にはインドは参加していないために「サンフランシスコ講和会議での~」はあり得ません。ただこの発言主はこの発言のソースを以下のように語っています。

ネ-ル首相の言葉ですが、私が最初に知ったのは確か小林よりのり(ママ)さんの書籍だったと思います。
ネット上に具体的なソースはありませんでした。
※この後に上述のニコニコ動画を貼る

ソースとして小林よしのりをあげています。氏の著作は多くある為にすべてを確認出来てはいませんが、該当部分がありそうな戦争論1~3、パール真論などを読んでも該当発言は見当たりませんでした。見逃し、また他の著作にある可能性も否定できませんが、小林よしのりが初出の可能性は微妙です。
 またこのネルー発言はパール判事と絡めてされることも幾度かあり、例えば武田邦彦のブログ(2009/9/29 )ではその傾向が見受けられます。

ネール首相は,自己の信念を曲げないパール判事に困惑し,「パール判事の意見書はあくまで一判事の個人的見解であり、インド政府としては同意できない箇所が多々ある」と言ったと言われる(本心かどうか不明).その後,1950年代になって日本が独立することになりサンフランシスコ講和条約を結ぶ段になると,インドは参加しない.その時,ネール首相は次のように言っている。(該当発言)
http://takedanet.com/archives/1013800325.html

パール判事に関しては武田氏以外にも2ch自体のコピペ書き込みで触れているものも存在。パール判事本に関しては田中正明『パール博士の日本無罪論』(その後の文庫版などでは「パール判事」)が有名であり、出典元となっている可能性があるかもと読みましたがこちらにも該当発言はありませんでした。またFacebookの書き込みでは名越二荒之助編「世界から見た大東亜戦争」に記述されているともとれる書き込みがありましたがこちらにも該当発言は存在しません。

インドの国会演説で発言か?

 現在のwikipedia(2020/2/5時点)の「インド>日本との関係」には該当発言は記述されていませんが「2008年4月21日 (月) 19:27時点における版」から該当発言が追加されています。これは「2011年9月13日 (火) 17:20時点における版」に[要出典]が追加され、やはりこの発言の出典は分らぬままだった模様で、その後に削除に至っています。なお「2009年4月1日 (水) 05:41時点における版」では以下の様な文言が追加されています。

1951年のサンフランシスコ講和条約には欠席し、これについて国会演説においてインド初代首相ネールは(以下略)

ネルーのものとされる発言は例えば今回の画像の様に「日本は、われわれに~」というバージョンもありますが、出典を探っていくと「彼ら(日本)は~」が元であることが伺えます。「彼ら(日本)」という発言を考えれば少なくとも日本の誰かに対しての発言ではなく、wikipediaにあるような国会演説における発言という線は考えられるでしょう。では、その国会とは何時でありその内容はなんであったのかは中村麗衣『日印平和条約とインド外交』で紹介されています。

ネルーは1951年8月27日のインド議会で、対日講和に対するインド政府の態度を正式に発表した。およそ10分間の短いスピーチであった。そこでネルーは、対日戦は6年前に終結した、これに引き続いて日本の軍事的占領が行われ、今日まで続いている、インドは他の諸国と同じくこの不満足な状態を平和条約によって終結させることに関心を持っている、しかしこの問題の解決法に対する見解が各国によって異なるため対日平和問題はほとんど進展を見ず、米英両国政府はこのため対日平和条約に関し主導的立場をとることになった、インド政府は米英案に対する提案を行ったが何一つ取り入れられなかったためインドは平和条約に調印すべきでなく、またサンフランシスコ平和会議にも参加すべきでないとの結論に達したと述べた。さらにこの考慮の結果、インドは日本が独立の状態に達し次第インドと日本との間の戦争状態終結を宣言し、のちに簡単な対日単独講和を締結すべきことを決定したと宣言した。

つまりここではインド側の提案が米英に受け入れられなかったために講和会議への出席を拒否するというものであり、「謝罪をする必要とすることなど、我々にはしていない」という様な趣旨の発言ではないことが理解できます。なおこの時のインド側の提案、懸念を恵原義之は以下の様にまとめています。

インドは連合国側に対して、講和条約案で「日本の主権が侵害されている」との理由で出席拒否を通告しました。特に沖縄、小笠原諸島アメリカによる信託統治に反対を表明します。また日本に対しても東側諸国の講和会議参加の障害となっているとして千島列島と南樺太ソ連への帰属を認めるようにも主張しています。もう一点注目すべきは、占領下にある日本とアメリカとの間の安全保障条約締結の合法性についてもインドは疑念を表明
日印国交60周年を考える

また日経新聞の「踏み絵の講和会議を避けたインド」などからも当時のインドの考えが伺えられ、講和条約への参加拒否は米ソ冷戦も念頭に置く必要があるでしょう。

インドの資料ではどうか

 さて、以上は日本語圏での話ですが、ここからはインド側の資料からの話。ネルーの発言などはインドにおいてもまとめられており、それは「Selected works of Jawaharlal Nehru」で確認が可能です。そして1951年8月27日の国会演説も「Vol. 16 | July 1951 - October 1951 | Part.2」のp.617-620でまとめられています。

※自動翻訳

1951年8月12日、インド政府はアメリカ政府からのコメントに対する返答を受け取った。原案には若干の変更が加えられていたが、インド政府が提示した主要な提案は何一つ受け入れら れなかった。そこで政府は慎重に検討した結果、インドは平和条約に調印せず、サンフランシスコ会議に も参加すべきではないとの結論に至った。さらに、日本が独立した後、直ちにインド政府が日印戦争状態終結宣言を行い、その後、日本との単純な二国間条約を交渉することにしたのである。

今回の発言に関わる部分で言えばここが重要となる箇所でしょう。中村が論じている様に米英案への提案が取り入れられなかっためにインドは講和会議への参加を見送ったとみて良く、つまりは「彼ら(日本)は、謝罪を必要とすることなど、我々にはしていない」からインドが講和会議をボイコットしたのではなく、単純に米英案が受け入れられないからボイコットをしたと考えるべきです。
 またこの資料内の他の参照箇所、例えば1951年8月28日に行われたプレスカンファレンスでのやり取り(p.253~259)での質疑応答では該当発言に類する言葉は見当たりません。さらに1951年6月24日の「To Thakin Nut(p.604~606)では賠償金について以下のように語っています。

※自動翻訳

日本の平和条約に関する限り、ビルマの補償または賠償の請求が非常に強いという点については、私もまったく同意見です。イギリスとアメリカから受け取った草稿に対する私たちの予備的な反応では、当然、私たち自身の観点から賠償の問題を考えていました。私たちはインドを代表してそのような賠償を要求すべきではないという結論に達しました。それは日本がインドに与えた損害が比較的小さかったからです。また,過去のヨーロッパにおける賠償の歴史を見ても,約束をしても実現することは難しいという事実がありました。第一次世界大戦後、ドイツには莫大な賠償金が課された。しかし、実際にはほとんど支払われておらず、最終的にはヒトラーがこれを破棄した。苛立ちの種にしかならなかった。 このように,賠償金を強調しても経済的には何の意味もなく,インドでは特に影響を受けなかったと思います。実際,私たちはインド北東部の人々に4万から5万ルピーの戦争賠償金を自費で支払っています。これらの損害は、一部は日本軍によって、一部は英米軍によってもたらされたものです。
そのため、イギリスとアメリカに対する平和条約に関する回答では、賠償金について強調せず、私たちに関する限り、賠償金を要求することはないと述べました。しかし、ビルマの場合は事情が異なり、ビルマは非常に大きな被害を受けたことを私は理解しています。したがって、ビルマには賠償を要求するあらゆる権利と正当性があります。

つまりはインドが賠償金を請求しないのはその被害の小ささからであり、これは件の発言の「われわれに謝罪しなけれならないことは何もしていない」という部分と矛盾しています。またこれに続く6月27日の手紙では” So far as we are concerned, we shall be happy indeed if you can get reparations from Japan. ”(p.606)とも書いている事からネルーはそれが現実的に可能や危惧がなければ日本へ賠償金を請求していた可能性はあるでしょう。長くなるので引用はここら辺で終わりにしておきますが、サンフランシスコ講和会議に対するネルーの国会での演説の前後にある各種書簡からも該当発言がない事を裏付ける発言がありますので、インド側の資料から見ても件の発言はあり得ない可能性が高いです。

日印平和条約締結

 このネルーのものとされる発言の末尾に”(1952年日印平和条約締結)”という文言が付く場合があります。この日印平和条約においてインドは日本に対して賠償を請求しない事となり、その際に当時の岡崎勝夫外相は「この条約には日本に対する友好と好意の精神が貫かれており、一切の賠償要求を放棄して、インドにある日本資産を返還するという条項は、特にその好例である」(中村論文を参照)と述べたとあり、これらの情報が流れていきネルーの真偽不明発言へと繋がっていった可能性はあるかもしれません。ただ佐藤宏が『日印戦後処理の一側面 -在印日本資産と在日インド資産の返還交渉-』で指摘するように資産、補償の話は条約締結後7年ほど経過してから解決を迎えるわけであり、額面通りに賠償請求が一切なしだったわけではないことに留意は必要です。
 以上みてきたようにネルーのものとされる発言は限りなく嘘、デマの類と言えるでしょう。ネット上の初出、というかネット上でしか現在確認できない言葉であり、その発生元は今は削除された個人HP、ブログ、掲示板の何れかであろうことが予想できます。いずれにしてももはや探る事が著しく難しい案件です。「ない」ことを証明することは難しいですが、むしろ出典が全然見当たらない現状においては「ある」ことを証明していただきたい。

おまけ

日露戦争に対する勝利への発言
 ネルーの発言として日露戦争における日本の勝利を喜んだ例を持ち出してくることがあります。例えば「記念艦「三笠」HP」のキッズページ諸外国への影響では以下のように引用。

「日本は勝ち、大国の列に加わる望みを遂げた。アジアの一国である日本の勝利は、アジア全ての国々に大きな影響をあたえた。私は少年時代(当時ネルーは17歳)どんなにそれに感激したかをおまえに良く話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そして大人が同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国は敗れた。だとすれば、アジアは、昔、たびたびそういうことがあったように、今でもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。」

これはネルーの「父が子に語る世界歴史4」からの引用*1ですが、当然この後には続きがあります。それは以下の様なもの。

1932年12月30日
日本のロシアに対する勝利がどれほどアジアの植民をよろこばせ、こおどりさせたかを、われわれはみた。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった。日本の勃興は、朝鮮の没落を意味した。
(中略)
もちろん、日本はくりかえして中国の領土保全と、朝鮮の独立の尊重を宣言した。帝国主義国というものは、相手のもちものをはぎとりながら、平気で善意の保証をしたり、人殺しをしながら生命の尊厳を公言したりするやり方の常習者なのだ。
(中略)
日本は帝国としての政策を遂行するにあたって、まったく恥を知らなかった。ヴェールでつつんでごまかすこともせずに、おおっぴらに漁りまわった。
(中略)
日本はいくらかの近代的改革をもちんだが、容赦なく朝鮮人民の精神をじゅうりんした。長いあいだ独立のための抗争はつづけられ、それは、いくたびも爆発をみた。なかでも重要なのは、1919年の蜂起であった。朝鮮人民ー特に青年男女ーは、優勢な敵に抗して勇敢にたたかった。自由獲得のためにたたかう、ある朝鮮人団体が正式に独立を宣言し、日本人に反抗したばあいなどは、かれらはただちに警察に密告され、その行動を逐一通報されてしまった! かれらはこうして、かれらの理想に殉じたのだ。日本人による朝鮮人の抑圧は、歴史のなかでもまことにいたましい、暗黒の一章だ。
「父が子に語る世界歴史4」 p181-182

日露戦争への勝利に対する感情よりもその後の日本の行為に対しての文章量が圧倒的に多いです。これは1932年に書かれたことからも当時のネルーやインドの置かれた状況に対してどこに感情を移入しているかを考えれば当然と言えるでしょう。ともかく、ネルー日露戦争勝利に関する件を名言扱いみたいなことをするのは都合のよい切り取りです。

■1957年5月24日でのネルー発言について
 現在、インドネルーwikipediaには以下の様な発言が記述されています。

1957年5月24日、インドを訪問した岸信介首相を歓迎する国民大会が開催され、3万人の群衆の中、ジャワハルラール・ネルーは、日露戦争における日本の勝利がいかにインドの独立運動に深い影響を与えたかを語ったうえで、「インドは敢えてサンフランシスコ条約に参加しなかった。そして日本に対する賠償の権利を放棄した。これは、インドが金銭的要求よりも友情に重きを置くからにほかならない」と演説した。

これは出典を見ると江崎道朗『マスコミが報じないトランプ台頭の秘密』(2016)で、該当箇所はグーグルブックスで確認可能です。で、この発言も「Selected works of Jawaharlal Nehru」のvol.38(p.737-739)で確認可能です。実際に江崎道郎が引用した箇所に近い発言はしているので若干のニュアンスの違いはあるもののこの発言はほぼほぼ事実です。

※以下は自動翻訳による

ご存知のように、何年か前にサンフランシスコで、いくつかの国が日本と平和条約を結びました。インドは、この条約が日本の主権を抑制する傾向にあるとして、調印を拒否しました。その後、インドは日本との間で平等な条件で別の条約を結びました。そして、先の大戦後、日本がインドに支払わなければならなかった賠償金の問題がありました。インドはお金よりも友好を重んじたので、賠償金の支払いを免除しました。

日本の首相が共にいる場で表立った批判もするわけないという考えも出来ますが。なお、例えば演説中には"Japan misused this power to some extent and invaded neighbouring countries and, as you know, Japanese forces reached up to the borders of India in Assam. "という様な日本による侵略性を示す発言自体もしています。ただ、この当時のインド(というかネルー)が経済的に成功を収めてきた日本に対して所謂「親日」的態度を示している事が分かります。とはいえ、嘘ではないのでもしも名言として引用するならばこっちかなとも。
 実はここらへんが元ネタだったりする可能性も無きにしも非ずかも。



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*1:なぜか私が印刷した該当本の記述と若干細部が異なりますが……