電脳塵芥

四方山雑記

ククリット・プラモード氏のものとされる「十二月八日」というコラムに関するメモ

 タイ国の首相を経験したククリット・プラモード(「プラモート」という記述もありますが、今回扱う言説では「プラモード」と書かれていることが多いので「プラモード」で統一します。)が「十二月八日」というコラムを書き、そこで「日本というお母さんは~」というくだりを書いたいうのが右派言説の中では有名な事として流布しています。この件に関しては以前弊ブログで、この言説は名越二荒之助の捏造ではないか、という趣旨の記事を書きました。

nou-yunyun.hatenablog.com

引き続き調査を続ける中で、少なくとも名越二荒之助の捏造ではないことが分かりました。上記記事はこの言説の拡散や背景を考える際に未だに有用とは考えますが、捏造ではないことだけは確かなので氏に対する捏造の疑念を呈した部分について、亡き氏の名誉を棄損したことについて謝罪いたします。

「日本というお母さんは~」の初出時期の更新

 話はわき道にそれますが、2022年12月21日に国会図書館デジタルコレクションがリニューアルされ、全文検索可能なデジタル化資料が大幅に増加しました。今回の件もそれの恩恵によって新たな事実が検索可能になったわけです。まず今まで「日本というお母さんは~」という情報の初出は1968年の名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』だと思われていました。氏の著作では出典は明確にならず、その後に出るこの「名言」を扱う書籍を辿るとこの書籍に行きつくからであり、通常の情報だと遡れても1968年が限界だったわけです。しかし国会図書館デジタルコレクションでこの名言の一部分を検索したところ、これより8年前、つまりは1960年にこの言葉を引用している書籍が存在しました。それが日本青年問題研究会による『青年学徒の祈り : 紀元節復活のために』(1960年2月発行)という書籍における難波江通泰による以下の記述です。

近代日本歴史と国際関係 -紀元節を考えるに当って-
ここに於いて我々は米軍の占領政策を考えなければならないのであるが、この問題を考えるに当っては更に遡って大東亜戦争の根本的原因を探求せねばならない。先ずタイ国の記者ククリット・プラモード氏の言に耳を傾けよう。氏は「十二月八日」と題して、
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生れた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話が出来るのは一体誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあった為である。十二月八日はわれわれにこの重大な恩恵をほどこしてくれたお母さんが、一身をとして重大決心をされた日である。われわれは此の日を忘れてはならない。」
と叫んだのであるが、この声こそ、四百年の長きに亘って欧米列強より搾取、虐待された悲惨、無残なる屈辱と圧迫の歴史の中より、遂に解放されたアジア諸国民の魂の奥底なる歓喜の迸りを代表しているものであると見てよいであろう。実に大東亜戦争こそは、欧米列強四百年の登用侵略に対する一大総決算であったのである。
p.75

句読点や漢字の変換違い以外での1968年の名越の文章との違いは「十二月八日はわれわれにこの重大な恩恵をほどこしてくれた」という部分くらいです。名越はこの部分を「十二月八日はわれわれにこの重大な思想を示してくれた」とあり、「恩恵」が「思想」へと変化していますが、それ以外の部分は同じ文章と言えます。名越のネタ元が難波江であるのか、それとも難波江が参照した文章であるのかまでは謎ですが、少なくとも名越の8年前にこの文章があったのは大きい。ただ1960年の難波江にしてもその出典はなく、さらに言うならば難波江の文章は出典先が新聞なのかさえ不明であり、結局のところそのソースはないというのが現状です。
 そう、結局ソースはない。なのでここでこの記事は終わってもいいのですが、今後につながるかどうかわからない思考整理のためのメモを置いておきます。まずこの文章を書いた難波江通泰氏についての情報ですが、この難波江は後に『アジアに生きる大東亜戦争』という書籍を出しており、この書籍内においてもプラモードの言葉が引用されています。そういう意味では名越と思想は非常に近しい人物ではあると言えます。ちなみにその書籍内で藤田豊氏が記事を持っているという発言をしており、この「記事」の出所が難波江という可能性は考えられなくもありません。なお難波江はこの書籍が出た60年2月時点時点では33歳の高校教諭であることはわかりますが、その経歴からタイ語に堪能であった可能性は低いと考えられます*1。とすると、このプラモード名言は難波江以前にもさかのぼれる可能性はあるのですが、国会図書館デジタルコレクションで遡れる限りはプラモード名言はこの1960年が今のところの下限。

■名越二荒之助とのつながりはあるのか
 この『青年学徒の祈り : 紀元節復活のために』が直接名越とつながるのかまでは正直不明ですし、そもそも難波江が捏造したのではないのであればそれをソースとした可能性はあります。ただそこは不明なのでとりあえず名越と『青年学徒の祈り』のつながりはある可能性があるのでその部分を指摘します。まず名越は高校教諭時代から国民文化研究会という会に属しており『国民同胞』という機関誌において幾度か記事を書き、その記事の中で名越は『大東亜戦争肯定論』と共に「日本学協会」という協会に触れる記事が存在しています。そして日本学協会は『日本』という機関誌を出しており、その機関誌の中で日本青年問題研究会『青年学徒の祈り : 紀元節復活のために』という宣伝や書評、それを引用した記事が幾度が載っています*2。つまり名越が読む範囲内でこの『青年学徒の祈り』があった可能性は指摘できます。ちなみに少し話はそれて、日本青年問題研究所なる研究所ですが、これは同名の組織もあるためにややこしいですが、とりあえずは1958年7月に福岡で生まれた団体です。紀元節復活を題に書く程度には保守性を備えた団体といえましょう。

プラモード言説に関する疑念点

 ここからは何個かある疑念点。これは捏造説、非捏造説いずれにも傾く性質のもの。

■1960年に「ククリット・プラモード」という人間を持ってくるか
 捏造の場合、もっとも大きな疑念点は1960年以前にタイ国の一記者である「ククリット・プラモード」という人物を採用するかという事です。はっきり言えば60年時点ならば日本での知名度はかなり低いわけです。ただ例えば1955年の中村明人の訪タイ時に伴う田中正明の記事や1958年の『ほとけの司令官』における記述から全くの無名ではない。また1961年の外務省情報文化局海外広報課による『外国新聞人の見た日本の姿 第1巻』では1959年11月に日本に来日しサイアム・ラット紙上に見聞記を記したとあります*3。捏造であった場合、有名ではないけれどチョイスとしては不可能ではないレベルの知名度とはいえ、しかしやはり知名度を考えた場合、真実性を感じる部分で、当時高校教諭である難波江が無からプラモードを持ってくるとは考えづらくはある。

■1960年近辺のプラモードについての記述
 上記の疑問点に通じるものですが、プラモードに触れた1960年近辺で彼に触れた記述はいくつかあります。とりあえず氏について記述した著作をいくつか触れます。

・サンタ・ラマ・ラウ 著他『アジアの目覚め』 1953
アジア見聞記。自由主義の政治家として記述しており、日本(アジア人)寄りであり白人嫌悪を滲ませる言動をしている。

「戦争中タイはどうして日本に協力したんです?」
 私達が彼を知ってから、後にもさきにもこれがただ一回であったが、ククリットはいらいらした様子を見せた。が、彼の話す声はいくらかうるさそうに聞えた。「それでは伺いますが、私達は貴女方にどんな忠誠を負うているんですか。」
(中略)
「ではこういったらどうでしょう。私達にとって全体主義に陥るより西欧と同盟を結んだ方が危険性が濃いと思われたから、とね。なんといったってわれわれはアジア人です。そして私達多くの者にとって太平洋戦争は白人と有色人種の戦いだったということをお忘れなく。」
p.175

臼井吉見『むくどり通信 : 東南アジア・中近東の旅』 1962
プラモードを『赤い竹』の作者として紹介しており、新聞で論説をふるっていること、日本への知識が深いことを書いているが「十二月八日」についての記述はない。

中村明人『ほとけの司令官』における「友帰り来る」系以外の彼の思想に触れながらの記述が見受けられるのはとりあえずこの2点と思われます。日本に対して親日的な態度などから「十二月八日」の主題であるアジア解放論に近しい思想を当時持っていた可能性はあり、捏造/非捏造にかかわらず発言と思想の間には相性の良さがあった事はうかがえます。

■「友帰り来る」の出典
 以前の記事では中村明人に対する記事といえる「友帰り来る」の掲載誌について田中正明がソースとしている「フサイア・ミット」誌が実はサイアム・ヤット誌ではないかとの疑いを持ったものの、アメリカ議会図書館にはそのような記事はサイアム・ヤットにはないという返事をもらいました。そしてその後調べた結果ですが、この「友帰り来る」についての記述があった日本書籍を見つけました。それが外務省情報文化局による雑誌『世界の動き(42号)』(1955年8月)です。その記事によれば中村明人は1955年6月8日から29日までタイに滞在しており、その際に「キャティ・サック」誌上で「友帰る」という論説を発表したと読めます。この「キャティ・サック」はタイ語ではおそらく””หนังสือพิมพ์เกียรติศักดิ์”という名前で、実際に当時にあった新聞である事が確認できます。またプラモードがこの誌上で論説を発表しているという情報もタイ国圏のネットでは確認可能です*4。残念ながら今は廃刊している様で当時の新聞にあたれる可能性も低そうなのですが、少なくとも外務省も触れており、タイ国での存在も確認できることから中村明人のプラモード記事に関しては状況的に存在することは確実と言えるでしょう。ただ、この「キャティ・サック」上で「十二月八日」が発表されたか否かを考えた場合、少なくとも外務省は触れていないし、「キャティ・サック」で調べても同様の言説は見られないことから可能性は低いと言えます。

■プラモード? プラモート? プラモジ?
 「プラモード」という記述でこの記事は統一していますが、それは名越や難波江が「プラモード」にしているからなわけです。ただプラモードについては外国人なわけで当然に表記ゆれが多数存在します。「プラモード」の他には「プラモート」、「プラモジ」、「プラモト」、「プラモー」、「ブラモイ」etc。名越、難波江の記述を考えると「プラモード」がソース(存在するならば)における表記の形だったとは考えられます。ただ現状で確認できるもっとも早い「プラモード」記述は1955年の日本週報における田中正明の友帰り来るについての記事であり、あとは1958年の中村明人『ほとけの司令官』。これらはソース足りえないので除外ですが、もしも捏造の場合はこれらのところから名前は持ってきた可能性はあるかもしれません。

■「身を殺して仁をなす」という言い回しについて
 「身を殺して仁をなす」というのは論語からの言葉とされますが、この言い回しが果たしてタイにおいて根付いているかという疑問です。そしてこの言い回しは当時から日本のアジア解放史観が好んで使用する言葉でもあり、正直なところかなり日本のアジア解放史観言説と一致しすぎなところがあります、「身を殺して仁をなす」云々。この部分がタイ語的な言い回しを日本で翻訳した際に「身を殺して仁をなす」とした可能性も大いにありますが、とはいえここでの言い回しが日本的なのは拭えません。

【「身を殺して仁をなす」と大東亜戦争を繋げた言説を含む書籍例】

戦勝者の民族解放はいえ得べくして実は至難の事に属する。志士、仁人は身を殺して仁を成すというが、日本の将士、幾百万の白骨の上に、よりアジアの民の奮起を促すゆえんのものがあったと考える。
内山昌宜『祖国日本の予言』1952 p.232

 

このキッカケ(引用者注:アジア各国の独立)をつくった大東亜戦争の、しかも直接彼らの民族闘争に接触を持ち、これを支援し、あるいはともに独立運動に挺身し、あるいは解放のため身を殺して仁をなした日本人の尊い記録をまとめてみたいと、久しく念願していた。
田中正明『アジア風雲録』1956 p.4

 

実に日本は身を殺して仁をなした。十三億の東洋民族を、長い闇の世界から光明世界に誘い出すことを得た事実を思う時、大東亜戦争を以て、人類開闢以来の聖戦と豪語することは、決して空言ではなかった。
野依秀市『正義の抵抗』 1958 p.152

 各々文脈は若干異なる部分もありますが、「身を殺して仁をなす」が幾度も使われていることが分かります。当然ながらここで上げたのはほんの一例であり、探せば類似の言説はまだあります。これらの言説とプラモードの言説はほぼほぼ同じもの。ただプラモード名言が何度も取り上げられるのはまずは彼が日本人ではない権威ある他者であることが大きいといえます。

■「大東亜戦争」と「難産」
 プラモードの言い回しの特徴的な所は「身を殺して仁をなす」というほかに「日本というお母さんは~」という独特の例えです。そんな日本を母とし、大東亜戦争を難産として扱うが如きプラモードの「十二月八日」ですが、日本でも類似の言説が存在します。それが高島米峰が1945年8月31日にラジオでした講演です。

例えて申しますならば、大東亜戦争は、大東亜共栄圏という、素晴らしい子供を産まんがための、努力でありました。そのために、足かけ四年という長い期間を、陣痛の苦しみに悩み続けて来たのでありましたが、不幸にして難産、非常な難産でありました。胎児を助けようとすれば、母の体が危いというので、已むを得ず一大手術を行って、この生るべかりし大東亜共栄圏という、玉のような男の子を、闇から闇へ葬って、辛うじて母親の生命をとりとめたのであります。
高島米峰『心の糧』1946 p.77

このラジオは進駐軍が来るので日本人にその心構えをしてもらおうというもので、そのための言葉がこの後に続くのですが、ただこの出だしそのものはアジア解放論やプラモードの言説との共通性はあります。また時期が不明なもののp.141においても同様の言い回しをしていることから高島米峰はこれ以外にもこの言い回しをしている可能性は考えられます。では、これが「身を殺して仁をなす」系言説と結びついたのかというと、正直この高島米峰演説の有名性が分からないので断言できることがないのが現状です。

 以上、つらつらとメモ的なものを書きましたが、結局のところ難波江以前にこの文章があったかどうかまでは不明であり、ソースもない。ソースはない。ソースがない。なので名越の捏造ではないことは確かだろうけれど、この言葉が捏造ではないとは言えない。ただ前回の記事で書いたようにサイアム・ヤットが出典である場合、アメリカ議会図書館での調査を信じる限りは存在しないとの事なので、結局このプラモードによる「名言」の実在性は疑わしいままかなと。
 それはともかくサンキュー、国会図書館デジタルコレクション!

*1:wikipediaよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E6%B1%9F%E9%80%9A%E6%B3%B0

*2:例えば、「日本」第十巻第三号、第十巻第四号、第十三巻十二号、第十五巻第四号など

*3:なお、同書に訳はありますが、「見聞記」の枠を超えるものはなく「十二月八日」に類する記事ではありません。中村明人との親交は記されており、この面から「友帰り来る」の真実性は高まります。

*4:โมเดลคึกฤทธิ์ กับการใช้สิทธิเสรีภาพสื่อ (7) https://siamrath.co.th/n/18332