電脳塵芥

四方山雑記

「シュン@ひろしまタイムライン」について出典元やその他の書籍との比較

「シュン@ひろしまタイムライン」についての朝鮮人記述と実際の「日記」との比較 - 電脳塵芥

 NHKが出典としている『激動の昭和史を生きて : 戦争の時代を乗り越え半世紀』を読んだので新しく記事を……、なのですがその前にタイムリーにも新井氏が朝日新聞の取材に答えていたので、その記事を少しだけ引用します。

"新井の日記をシュン日記として出すのは、私の日記の偽造では」と言った。すると担当者が、「新井さんの日記を原作として、子どもたちと一緒に創作をしている」と言った。私はそんなことを許した覚えは一切ないと激怒”
(中略)
 ――「朝鮮人の奴(やつ)らは『この戦争はすぐに終わるヨ』『日本は負けるヨ』と平気で言い放つ」という6月16日のツイートも問題となっています。
 朝鮮人の「奴ら」とかは一切話をしておりません。「軍国少年」シュンちゃんの日記だから、子どもたち(投稿を担当した高校生たち)がそういう表現で書いたのでしょうが、朝鮮人と論争になったとか、侮蔑的な思いで眺めたとか、そういう話も一切していません。いわんや、この言葉をネットに載せるなんていうことは、事前の承諾がないんですから。
「シュン」の日記主、NHKに不信感 認識に食い違い:朝日新聞デジタル

 というように新井氏は問題になった箇所に対しては事前の承諾が為されていないといい、その口ぶりからは今回の問題点を把握し、新井氏が監修していた場合は今回のような問題は発生していなかった可能性がある批判をしてます。また単純に「シュン日記」という「創作」に対して怒りを表明しており、この時点でNHKのシュン日記は原作者がいる企画としては順当な対応が為されていないと言って良いかと考えます。勿論、新井氏という片側からの発言である事には留意が必要ですが。
 さて、では本題。

シュンちゃんのツイート内容の出典について

 シュンちゃんのツイート内容について当時の日記に書かれたことだから問題ない、というような擁護がありますがこれは違います。シュンちゃんのツイートは出典はあるものの大半は元の文から装飾が為されており創作と言え、新井氏が批判するように「日記の偽造」ともいえることを行っています。まずシュンちゃんツイート(ひろしまタイムライン)の出典は以下の様に4つの位相に分かれています。

【シュンちゃんのツイート内容における4つの位相】
1)75年前の中学生時代に書かれた新井俊一郎氏の日記(原本)
2)日記を製本化して多少の補足を入れた 2004年に出版、2009年に復刻した『軍国少年シュンちゃんのヒロシマ日記 昭和二十年一九四五年 復刻版』(原本の複写)
3)新井氏が半生を振り返って2009年に出版された回想録『激動の昭和史を生きて : 戦争の時代を乗り越え半世紀』
4)日記や回想録、インタビューを用いながらNHK側の人間が内容を付け足したシュンちゃんのツイート

NHKサイトで見れる日記は1)であり、2)の『軍国少年~』も新井氏の日記ほぼそのままの内容であり、そこに新井氏が時折日記内容の注釈や日記にない空白部分である8月17日~27日を父親の手記で補足したりという内容のものです。3)の『激動~』に関しては新井氏の子ども時代から戦後の学生時代を含めてまでの半生を振り返った自伝(回想録)であり、戦争部分は日記をもとにしたであろう記述はあるものの語り口は日記とは異なります。一部日記とは異なる風景やその時に使用されてないであろう単語も書かれ、2009年(脱稿は2008年)時点の新井氏の知識や認識によって当時あったであろう実際の風景とはやや異なる記述が為されています。また回想録なので当然ですが日記の様に日付単位での語りは少なく、象徴的な出来事のみが記述されているものとなります。そして4)のツイートですが、これは新井俊一郎氏のインタビューなども加えながらのツイートというものですが、朝日新聞の記事を読む限りはそこまで頻繁になされているものではなく数回程度、また今回問題となった案件についてはその様なインタビューがされた形跡はなく、ツイートを考えた人間の知識や傾向によって付け加えられたものと言えます。
 以上の様に今回のひろしまタイムラインのほぼ毎日発信される内容の底本は日記(1か2)となり、そこに象徴的な出来事があった場合は回想録(3)を用いながらも、最後はNHK側のツイート内容を考える人間が日記、回想録を用いて「想像上」の出来事や心情、口調を調整した内容をツイート(4)という流れによって出来ているものと考えます。朝鮮人の「戦勝国」発言などは確実にNHK側によって付け加えられたものであり、そういった意味では必ずしも原著に問題があるわけではなく、ツイートをする人間やその監修側による問題が指摘できます。

ツイート内容と原著の比較(6月16日)

以上のツイートは『軍国少年~』においては、

となり、注釈において朝鮮人であったという事が記されている程度ですが、『激動の~(p.113~114)』においては、

とある様に回想録には朝鮮人であることを話す言葉で分かり、さらにはツイートにある様な朝鮮人のセリフが記されており、このセリフ自体は原著にある事が分かります。しかしながらツイートにある様に「朝鮮時の【奴ら】」という蔑視と取れる表現はありませんし、出典元の「何だか言い出しにくかったし、何よりも反論すべき根拠に乏しかったことも事実です」というどこか弱弱しさを感じる記述が「奥歯をかみしめた」の様に強い反感感情を抱いていると取れる表現に変化しているのは本人からすれば偽造と捉えられても仕方ないレベルの変更と言えます。なお回想録の方には大本営発表が本当ならば日本の今の状況はおかしいという疑念を覚える箇所があったりと回想録における俊一郎氏は戦争に対しての疑念を表明している箇所があります。故に回想録では「反論すべき根拠に乏しかったことも事実」と書いているのでしょう。勿論これは2008年段階での俊一郎氏の認知も入っているのでしょうが。前回の記事で書いたように日記やツイートにおいては「軍国少年」という面が強くアピールもされており、その強調の為にこういった表現を付け加えた可能性もありますが、新井氏の朝日新聞記事の言を信じるならば本人が監修していれば変わっていたであろう表現でしょう。それとここで出て来る朝鮮人は徴用工である可能性が高く、またそうでなくても何故朝鮮人が「多勢」にいたのかという補足をした方が平和を考える戦争企画ならば適切でしょう。

ツイート内容と原著の比較(8月20日

軍国少年~』におていは、

と記述されており、19日の記述が20日に書かれていたり、朝鮮人についての記述が一切ないなど日記とツイート内容には大きな乖離が見受けられます。これをもって前回の記事ではツイート側の創作(捏造)ではないかと疑念を書きましたが、この朝鮮人記述については『激動を~(p145~146)』に書かれています。

彼ら(引用者注:復員軍人)に増して傍若無人な群れが現れました。とつぜん戦勝国となった第三国人の一団が、圧倒的な威力と迫力で超満員の鈍行列車に割り込んできたのです。怒号とともに窓という窓をたたき割って数人が乗り込み、その場に座っていた先客を放り出したのち、仲間の全員が破った窓から雪崩込んできたのです。(中略)このような情景には、そのうち広島へと戻るに際しても同じ大阪駅で、なお一層の凄まじい迫力をもって遭遇することになるのです。

ツイートには「朝鮮人」とありますが原著では「第三国人」。これは「第三国人」という記述が不味いと判断して、若しくは単純に人種を特定した方が良いと考えてツイートは「朝鮮人」に変えたのでしょう。また朝鮮人のセリフは俊一郎氏の状況説明的な文を流用したものと思われますが、状況説明をセリフに流用するのは甚だ宜しくなく偽造レベルと言われても致し方ないでしょう。とはいえ。この一連の新井氏の記述自体は存在しており、またその内容は強烈な原体験と言えます。『軍国少年~』という日記にはないことにはやはり違和感を覚えざる負えないレベルの体験ですが。ただしこの内容は2008年の新井俊一郎氏の回想録という事もあって、後世の知識や認知が紛れ込んでいると言える内容です。例えば「第三国人」という言葉が国会などで使用され始めるのは翌年の1946年頃であり、一般的に使われ始めるのは戦後処理の話になってからだと考えられ、8月18日時点でその用語が使われるのは考えづらいです。さらにこの頃の朝鮮人や台湾人が「独立」を祝うならばともかくそれらを「戦勝国民」と俊一郎少年が1945年の終戦直後に判断するとは考えづらく、それと同じく当時の朝鮮人、台湾人が自身を戦勝国民と自負するには流石に早すぎる時期と考えられ、この部分は後世の知識が紛れ込んでいると言えます。あと2008年の段階で「第三国人」という言葉を使用するのは回想録とはいえその言葉が使用されてきた意味を考えた場合、新井氏の差別に対する意識への疑問点が無きにしも非ず。後述しますが、この時期に朝鮮人がそのコミュニティ内で独立を祝ったという話もありますし、日本人の朝鮮人に対する態度が変わったという在日朝鮮人の証言がある一方、日本人による暴力を恐れていた方も見受けられ、8月18日時点でここまで朝鮮人である事を笠に着ての横暴がふるえるかは少々疑問のある記述です。なお、 広島へと戻る際に大阪駅(おそらく11月14日)でなお一層の迫力で(第三国人による)同じような情景にあったとありますが、『激動の~』には一切その内容は書いてはおらず、その内容は不明です。8月時点で帰ってくる時に似たような事に遭遇したので11月分は省略したと考えられはしますが。
 それと前回の記事では日付とツイート内容がおかしいと書きましたが、『激動の~』においても朝鮮人の記述が出て来るのは19日なので、ツイートの日付差異の疑問は解消されません。NHK側が一日で鈍行超満員列車が東京につくことはおかしいと考えて日付調整をしたのかもしれません。ただツイートには19日と思われる日付に大阪で野宿とありますが、『激動を~』には大阪で野宿をした記述はないのでこれはNHK側による創作と捉えて良いかなと思います。インタビューもしていないようですし。

8月20日の記述 新井氏の父親の自伝との比較

 新井俊一郎氏の文章は手軽に確認可能な範囲ではもう一つだけあり、それは『 第五集 遺言「ノー・モア・ヒロシマ」』です。こちらにも少しだけ8月18日付近についての記述があり、それは以下の様なものです。

私の一家は、八月十八日の夜、手に入れていた羅災証明書で汽車に乗り、両親の故郷である埼玉県の秩父へ難民として逃げ帰りました。広島には親戚も知人もなく、敗戦直後の厳しい食糧難を生き抜くすべもなく、食べ物もわけてもらえず、頼りになる友人もいませんでしたから、これはもう生きては行けないと思ったのです。
無念の思いを届けたい 新井新一郎さんに聞く - 遺言「ノー・モア・ヒロシマ」-未来のために残したい記憶-

というように8月18日の事は書かれているものの、「ノーモアヒロシマ」という性格上の冊子でもあるためか、件の記述はなされておりません。
 新井俊一郎氏に関連する確認可能な著作はこれだけ*1ですが、もう一つだけ新井氏の記述を傍証できる資料があります。それが俊一郎氏の父である新井嘉之作氏による自伝『震災・原爆の業火を超えて―私の人生 (1982年)』です。父親の嘉之作氏も自伝を残しており同じく非売品で数少ない図書館ではありますが、蔵書がされている図書館があり内容を確認できます。脇道ですが嘉之作氏は戦後に広島大学の教授になるなどいくつかの書籍を残している方です。さて脇道は置いといて、嘉之作氏の自伝にも類似時期に以下の様な記述があります。

【8月の実家への帰途への記述】

大阪駅ホームの雑踏はまた一段と物凄かった。阿鼻叫喚の態である。その上、復員兵士を優先するので、ここでも随分待たされた。
(中略)
客車ではあったが、貸車と大差ないような壊れきった車両だった。窓ガラスは所々こわれて、修理もされていない。それへ人間が最大限に詰め込まれ、通路はもとより、網棚の上に寝たり、及び腰になっている者も居た。

とある様に、父親の自伝には8月の朝鮮人第三国人)の記述はありません。また窓ガラスも「誰かが割った」というよりもむしろ最初から割れていた様な記述であり、俊一郎氏の『激動を~』とはかなり異なる内容となっています。なお『激動を~』では父親の自伝を紹介している事から俊一郎氏自体はこの記述自体を知っているとは思われます。なのでこの差異が何故生まれたのかはよくわかりません。どちらの記述を信じるべきかですが、父親の自伝は自分の手記を参考にしており、またその手記を参考にした『軍国少年~』での記述では同じく朝鮮人の記述がないことから8月の朝鮮人の記述は俊一郎氏の方の記憶違いの可能性が高いと私は考えます。

【11月の広島への帰途への記述】
 前回の記事で書きましたが日記には11月に朝鮮人の記述があり、そこでは朝鮮人による暴力的描写が為されており、それはまた嘉之作氏の日記にも書かれています。

ホームの一角に朝鮮人が大勢いずれも夥しい荷物を持って並んでいた。列車が入ってくると、彼らが猛烈な勢いで殺到した。リーダーがあって統率していた。入口から入れないで窓下に向かった彼らは、凄い剣幕で窓ガラスを叩きこわした。そこからどんどん入りこんで悉く座席を占領してしまった。(中略)彼らの集団的暴力には恐れをなして乗客はもとより、駅員も姿をかくしてしまった。思いもかけぬ現象であった。やはり敗戦の現実だ。今まで蔑視されていた彼らが、あたかも戦勝国民のように意気軒昂として行動を始めたのである。

11月の記述は俊一郎氏の記述よりも詳細に書かれ、また内容は8月の俊一郎氏と被る記述がいくつか見受けれる事から、これが8月の記述が俊一郎氏の記憶違いではないかと思う理由の一つでもあります。ただ8月の出来事の真偽は置いといて、11月のこの記述は実際に体験したことなのでしょう。この朝鮮人の一団が闇市目的なのか、帰還の為の集団移動なのかは分かりませんが、「夥しい荷物を持って」という事を考えると帰還の為の集団移動と捉えられた方が良いかなと。嘉之作氏の記述も朝鮮人を「戦勝国民」云々という記述があるとはいえ、朝鮮人が蔑視されていたことを記述している事からタイムラインでは決定的に足らなかった部分が書かれているとも言えます。ただ「蔑視」だけでは注釈が足りはせず、本当に最低限のレベルの補足表現といえますが。
 なお脇道ではありますが自伝の表題を見ればわかる様に嘉之作氏は関東大震災も経験しており当時自警団にも参加しています。彼がいた場所では朝鮮人虐殺はなかった模様ではあるものの、書かれているエピソードには朝鮮人が日本人に恐れ上がって大人しく引き籠っていたという語りや、近所の人間が井戸を覗き込んだことから井戸に毒をという騒ぎになった、朝鮮人らしい死体がたくさん並び蓆がかけてあったのを見たという人の話が紹介されています。また朝鮮人の放火がデマの類である事も書いており、その当時に経験した人間にとって関東大震災における朝鮮人虐殺は流言飛語から生まれたものであるという認識が伺えます。
 閑話休題

戦後の列車状況について

 以上で新井氏の記述における比較などは終わりですが、当時の状況についての補足が必要と考えてそれを記していきます。まず8月の朝鮮人記述については真偽は分かりませんが、11月については少なくとも実際にあったと考えられ、列車に入る際に窓ガラスを割ったりと現代に生きる我々にはかなりの横暴に映る行為を記述されている朝鮮人はしています。ですが戦後の列車についての不法行為などをみるとこれはどうやらあり触れたものと考えられ、朝鮮人に限らず当時の日本人も列車に関する順法意識はあまりなかったように見受けられます。

以上の写真は『日本国有鉄道百年写真史』のものですが、2番の位置にある写真では窓ガラスが割られている事が分かり、それへの対策の為か3番では板張り窓の客車の写真があります。この写真の窓ガラスが割れた理由までは書かれていませんが当時は窓ガラスが良く割れていたようです。『激動 十五年間のドラマ戦中戦後の鉄道』には以下の様な「破れたガラスの通勤電車・客車」という項目があり、

定員の300%くらい乗るのだろう。こんなことだから窓ガラスが破れることもしばしば、やぶれたままの電車がやってくる。

窓ガラスが割れている事は日常的に有った模様です。さらに左下の写真では窓から出入りする乗客や説明文には尻を推して押し込む「尻押し屋」という専属駅員がいたと書かれており、当時は窓から乗る事が割と一般的であった事も伺えます。「割れた」と「割られた」は意味合いが異なりますが、「割られた」という案件もかなりあったことを伺わせる記事があります。

列車の乱暴取締り
輸送の混雑にともなひ鉄道規則を無視した行動をしたり、窓ガラスや腰掛をぶちこわしたりする不心得者に対し運輸省では内務省と協力、交通の明朗化を期するため日本人はもちろん外国人(進駐軍関係者は含まない)の区別なく今後は徹底的に取り締まることになった
読売新聞 朝刊 1946年3月27日

窓ガラスをぶち壊す人間を取り締まるという方針が含まれており、問題になるほどに割られていたことが分かります。なお同年の3月26日の朝日新聞記事にも類似の記事が書かれており、そちらではさらに「正当な日本人乗客が故なく乱暴な集団によって席を奪われたり、車外に退出されたりすることは」云々とあり、これは窓ガラスを新井俊一郎氏が書いた記述と一致する行動であり、その行動は記事で書かれるくらいに一般に周知されていた問題点である事が伺えます。なお、読売にしても朝日にしても「外国人」や「正当な日本人乗客」という記述には言外で察しろという空気を感じなくもありません。帝国議会でも「第三国人」として問題視されていた経緯もありはします。ただし、では日本人が当時行儀正しかったかというとそうでもなく。

・1946年1月13日 読売新聞朝刊「農村は怯える 脅迫的集団買い出し続出」]
要約:農村に買い出しにいった人間の脅迫的行為によって農村側が一人で耕作にでるのは危険だと集団的に武装した自警団を組織
・1947年2月13日 読売新聞朝刊「買出し鉄道員三百 武装警官隊と衝突
要約:鉄道職員による集団買い出し(この買い出しの為にイモの価格が値上がりしたほど)を取り締まる為に武装警官がやってきて百名を検挙。鉄道職員側は少数の警察官なら袋たたきにすると豪語していたとも。※記事からは集団買い出しそのものがダメな模様?
・1946年8月1日 朝日新聞朝刊「乗客の9割が違反
要約:(字が潰れている為に読みづらいものの)白米列車便乗記という内容からもヤミ物資の買い出しについての記事と思われる。表題通り、多くの乗客が違反をしていて物資を取り上げられたという記事?
・1945年9月29日 朝日新聞朝刊「乗客を犬箱に監禁 身体検査のうえ所持金を強奪
要約:東京駅員が駅員9名が乗客に不審尋問をして勝手に不審と認めたら暴力をふるい、反抗した場合などは軍用犬輸送などに使用した犬箱の中に押し込め監禁したというもの

いくつか買い出しや鉄道などについての当時の事件をピックアップしましたが、これらの挙げられた大多数は日本人であろうし、当時の日本人は今よりも暴力的です。それとこれは小説となりますが戦後すぐに出た宮本百合子の『播州平野』には朝鮮人の集団帰還と思われる描写が為されています。そこでは暴力的なイメージでは語られておらず、解放の喜びなのか活気というか熱意の様なものがあるという描写が為されています。小説とは言え、朝鮮人の集団が列車に乗る=暴力的というイメージは必ずしも一般的なものではなかった可能性もあります。
 朝鮮人の暴力性を殊更にピックアップして語ることは誤った認識を生むことになるであろうし、何よりもひろしまタイムラインにおけるツイートの様に大人しい日本人と暴れる朝鮮人という対比は現代における歴史修正主義者の流すデマ(朝鮮進駐軍など)を考えた場合、すべきことではなかったであろうし、仮にそれを必要と思ってするならば当時の状況を細かく説明する必要が絶対に必要です。ただ出典に書いてあったからツイートした、というのでは表現に対する責任、歴史や現代の社会に対する責任を軽んじていると考えられます。

当時の朝鮮人側からの視点

 最後に解放後の朝鮮人の視点からのエピソードをいくつか。

張福順『オモニの贈り物』
そのうえ、当時は「朝鮮人は皆殺しにされる」などというデマまで、まことしやかに噂されてもいました。本当に何が起こってもおかしくないというのが、敗戦直後の私たちを包む状況でした。

上記の書籍では敗戦直後に朝鮮人の多く暮らす場所では「独立万歳」、「解放万歳」などという事があったと記していますが、張福順自身は集落で一軒の朝鮮人家族であった為にその様な熱気とは別の空気を感じ取っています。日本人の態度は「オイ、コラ」という様な怒声がなくなり態度は軟化したとはいえ、復員軍人のまなざしから母親に頚動脈を切って死ぬ方法を教えられたといいます。終戦後に、です。「朝鮮人は皆殺しにされる」というデマもどこまで流布されていたかは分かりませんが、以下に書くように似たような事を聞いている朝鮮人はいくらかいます。

朝鮮人徴用工の手記 鄭 忠海 (著)、 井下 春子 (訳)
(引用者注:ソウルから帰ってきた日本人がソウルで酷い目にあったという話を受けて)日本国内もまた夜になると物騒で、安心して歩くことができなかった。日本の青少年たちが短刀(あいくち)を持って歩き回り、乱暴を働いたり、物を強奪したり、人を刺したりしていた。特に朝鮮人に傷害をあたえた。彼らは我々朝鮮人に両膝をついて謝っても、まだ足りないのに、害するというのは言語道断である。
 日本人は何を考えているのだろうか。朝鮮、特に北朝鮮から帰ってきた人たちの悪宣伝に憤慨して、仕返しを我々同胞にするのだった。
 第二寄宿舎に残っている人々は、帰国する日まではできるだけ外出をしないようにし、夜の外出を一切禁止した。日本国内の若者はあたかも狂犬の様であった。やっとの思いで失わずにきたこの命を、ここにきて損なうのは怖かった。軽挙妄動をせず、帰国船に乗るまではみんな自重自愛することだ。

以下からはすべての朴 寿南『もうひとつのヒロシマ 朝鮮人韓国人被爆者の証言』からの引用となります。

郭 貴勲の証言
(引用者注:郭氏は日本軍人)
 八月二十五日(中略)一同はトラックで広島に向かった。
 途中十人ちかく、広島方面行きの社会人を同乗させて、車は夕暮れの道を急いだ。車の上ではいろいろなことに話題がおよんだ。中でも広島に行くある田舎医師が言った。
「日本が戦争に負けたのは、もっぱら朝鮮時のためである。故にかれらに敗戦の責任を問わねばならない」と言った。「日本人が戦争を勝ちぬくために全力をつくしているとき、朝鮮人は何をしたか。もっぱら戦争遂行を妨害する行動をしただけである」
(中略)
奴らこそ日本を敗戦にみちびいた主人公であるから、かれらに復讐せねばならない」と言い放った。

 

朴 寿南による説明のページ
福岡県が保管している引揚援護局の資料には、帰国のため博多港に集結していた同胞たちの収容所(元陸軍の厩舎)に竹槍を持った日本人の集団が「朝鮮人をブチ殺せ!」と奇襲をかけてきた事実が記録されている(1965年10月、筆者所見)。

 

柳 寅奎の証言 小題:竹槍で襲ってきた日本人
(引用者注:埠頭の倉庫に収容され、その場所が人が増えて闇市場みたいになった状況にて)
 そのときですよ。埠頭に帰る人、収容して、どんどん送っておるとき、日本人が竹槍をもって、な、「朝鮮人、皆殺ししろ!」と、な、竹槍をもって、ハチマキしてな、韓国から追い出されてきた日本人らですよ、な。(中略)
 このとき、帰る人ら保護しておった建国同盟いうのがあったですよ。本国から派遣されて、この人らが、なかに入って、襲撃おさえたんですよな、この建国青年団が民団派になったですもんな、のちに。

などなど。以上の様に日本人による朝鮮人への加害欲求を露にしている証言や実際に行動に移された案件もあります。これらの視点がシュン@ひろしまタイムラインにかけていますし、もっと言ってしまえば日本の戦後企画ものに足らない視点と言えるかもしれません。なので記述をした側の登場人物が今回のひろしまタイムラインにいればまた一つ違ったかもしれません。逆にもしもそのような背景の登場人物がいた場合は、現代のレイシズムがもっと可視化された可能性も十分に考えられもしますが。
 なお『もうひとつのヒロシマ 朝鮮人韓国人被爆者の証言』には「朝連」とかいた腕章をまいて特権意識を持って無法をしていたと証言する在日朝鮮人も存在しており、列車を止めて専用列車だ云々という事例も語っております。ここら辺が朝鮮進駐軍デマの原型となったと言えるでしょう。このような人物がいたことも確かではしょうが返す返すもこのような出来事のみを振り返り(切り取り)、日本による暴力を振り返らない(見ないものとする)のは、さもしい。


 意図している、していないに関わらず差別というのは存在します。そして今回のツイートは在特会やネットなどで育まれた排外感情を刺激しているのはネットの反応から見ても伺えます。差別を生み、そしてあのツイートで身の危険、精神の摩耗を感じた人もいるでしょう。それを公共放送がやった。放送ではないけれど、しかし公共放送の看板でやってしまった傷は深いと考えます。何を過剰にととらえる人間もいるでしょうが、それは昨今のネットで跋扈する排外感情を軽視しすぎであるし、あの戦争の反省を結局何もしていないという事の証明です。やってしまった事の罪は重い。
 軍国少年はいなくなっても、草の根の排外主義者は育ってる。



■お布施用ページ

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*1:自伝を読む限り他にもあるのですが、基本は同窓会メンバーによるものだったりと公にはされない性質のものなので確認は困難です。