電脳塵芥

四方山雑記

インドネシアの教科書における太平洋戦争期の対日描写について

nou-yunyun.hatenablog.com

   って記事を書いたので、そのインドネシア版です。今回使用するのは『インドネシア高校歴史教科書 インドネシアの歴史』(明石書房)から。翻訳されたインドネシア教科書自体は2000年に書かれたものであり、20年近く前のものになり些か教科書としては古いですが、そこら辺は留意してください。

 本題に入る前に少しだけインドネシアの教育制度について。
 「文教大学 教育研究所」によれば「学校教育は幼児教育(4~6歳)、基礎教育(7~15歳 ※義務教育期間)、中等教育(16歳~18歳)があり、その後、高等教育へと続」くとのこと。また学校はスコラ(一般学校)系統とマドラサ(宗教学校)の二系統に分かれており学校管轄省庁も異なるといいます。詳しくはリンク先を参照お願いします。

 さて、では本題。
 この教科書は全8章立てとなっており太平洋戦争期~独立については「第6章 日本占領とインドネシア独立準備」という章立てで始まります。そこで6章にある各項目をかいつまんで書いていく形式とします。


A.日本がインドネシアを支配した背景

【章序文】(1ページ)
 第6章は日本が太平洋戦争に至るまでの道のりの理解の為か日本の説明に対してそれなりに説明を割いており、序文では江戸時代の鎖国についての説明から始まっています。序文なので江戸時代そのものの特に詳しい描写はありませんが、要は鎖国して近代化には遅れていたという文脈が存在します。

日本がインドネシアを支配した背景】(4ページ)
 ペリー来航からの条約の話から始まり、反外国人運動の激化、薩摩藩士による外国人殺害などに触れ、権力が将軍から天皇に遷移していった事を説明、明治維新による日本の近代化が記述されています。日本の近代化のみで4ページにわたる説明で外国の教科書というのを踏まえればかなり詳細な記述と受け取れます。記述内容そのものには明治天皇以外の人物名がほぼほぼなく天皇がすべての実権を握った国家であることを印象付ける様な記述で少し違和感はありますが、とはいえ重大な誤解などは見受けられません。この項目では近代化と共に「天皇制」を強調しており、

1871年に文部省が設置された。6歳から14歳までの児童を対象として義務教育制度度が発布され、日本は非識字者をなくした世界最初の国となった。学校教育を通して祖国と天皇を愛する心が植え付けられた。日本の天皇制が今日に至るまで変わることなく栄えている理由はここにある
P.240

という様に現在の日本における天皇制の存在がどういったものかの説明も兼ねています。なお天皇制に対する批判的描写は特にみられません。明治天皇の家族写真も記載されており天皇制国家というのを印象付けられます。

【日本の近代化及び帝国主義政策の結果】(2.5ページ)
 近代化を果たした日本が植民地獲得競争に参戦したことを記述、日清戦争日露戦争の記述、対華21カ条要求、満州国の誕生まで触れられています。なお日露戦争において日本がロシアに勝利したことを踏まえ、

一方アジアも、アジア民族が西洋諸民族に力で対抗できた事実によって、ナショナリズムに目覚めるという大きな影響を受けた。
p.242

という様にある程度好意的な書き方がなされています。とはいえその後すぐに

日本はアジアに広い植民地を持ちたいと考えるようになった。1927年田中男爵が日本の首相になったとき、彼はその願望を達成するために、東アジアを支配し、アジア大陸へ日本の勢力を拡張させる計画を提案した。田中首相はアジアを支配するためには中国、満州そしてモンゴルを支配せねばならないと考えた。日本がこれらの地域を支配できれば、南アジアの地域は自動的に日本に追随するであろう。
p.242

以上の様に日本の帝国主義政策について触れられ、さらにはその将来に南アジアへの侵略をにおわせる書き方がされています。

【アジア太平洋における日本近代化の影響】(2ページ)
 日本の近代化がアジア地域に及ぼした政治、軍事、経済の面の影響が記述されています。日露戦争の日本勝利の影響としてインドネシアベトナム、インド、フィリピンでの民族運動の影響が書かれ、

なかでもインド、フィリピンでは、日本の近代化の後民族運動がいっそう活発になった。太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである。
 日本は八紘一宇(Hakko Ichiu)の御旗の下、世界支配に向けていっそう精を出した。彼らは神道に従って他の民族を指導する神聖な任務を帯びていると考えており、自らをアジア民族の兄貴分とみなし、弟たち、すなわち他のアジア諸民族を指導する義務があると主張した。また、日本の支配地においては日本化が広く行われたが、これはアジアにおいて西洋帝国主義の地位にとって代わろうとするためであった。
p243

という様に「太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである。」とかなりの賛辞と受け取れる記述が見受けられます。ただしそのすぐ後に日本への肯定的価値観に対する強烈なカウンターを置いてあり、日本も所詮は帝国主義者である事を明確に記述しています。また軍事面での影響では「日本が原因となって太平洋戦争が勃発」し、ABCD包囲網などがあったものの「東南アジアにおける日本の膨張を止めることはできなかった」と記述しています。
 また経済面での影響では「日本はダンピング政策で工業製品の市場を奪おうとした」として東南アジアの市場が狙われ、現地の購買力は低くはあったがメイドインジャパン製品が市場を獲得したこと。大東亜共栄圏となった東南アジア地域は日本への供給地区として扱われた事などが記述されています。

B.インドネシアにおける日本占領時代

インドネシア地域への日本の侵入】(2ページちょい)
 

日本はアジアのファシズム軍事国家として協力であったので、インドネシアの民族運動家たちは不安を抱いていた。
p.244

 という記述からこの項目は始まります。日本の「ファシズム国家」というのはフィリピンなどの他国の教科書でも見たのでこの時期の日本が冠する文句としては割とポピュラーなものです。なおインドネシア人の政治運等は「北から迫りつつあるファシズムには、はっきりと反対し拒否する姿勢」を示し、インドネシア政治連合もその姿勢であったといいます。つまりは日本を脅威として捉えていたことがうかがえます。
 ちなみにこの姿勢はジャワだけは多少異なり、

一方ジャワでは、ジャワはあるとき黄色人種によって支配されるがとの支配期間は「とうもろこしの寿命」にすぎない、そして黄色人種の植民地支配が終わるとインドネシアの独立が実現する、というジョヨボヨの予言が現れた。ジャワの人々が信じていたこの予言を日本はうまく利用した。そのため日本がインドネシアに進駐したことは、ごく当然なことであると人々はみなした。
p.255

ジョボヨボは12世紀前半の王国の王ですが、その予言に従いジャワに限って言えば対抗姿勢というものはそこまでなかったようです。
 上記のような記述の後にオランダのアクションとその敗北を記述、そして日本が短期間で東南アジア地域を支配したことが記述、日本軍の攻撃を年代順に並べて各地域が占領されたことを記述しています。これらの記述の際には人的被害などの記述はなく占領された地域を羅列していく非常に簡素なものとなり、それらの記述(シンガポールなどの他国陥落の記述もあり)を続け、最終的に「インドネシア全域が日本の植民地支配の一部となった」と記述しています。

インドネシアにおける日本植民地支配時代】(1ページ)
 日本軍政監が軍事権限とオランダ支配時代の総督が握っていた権限を握ることになった旨が記述されています。統治システムを遂行する上で陸軍と海軍がインドネシアを三分割し、陸軍と海軍が占領地の人心を掴もうと競っていたと記述。この項目では批判的なことは特に描かれていません。なお、写真があり、

f:id:nou_yunyun:20191213170841j:plain

日本の存在は多くの点で350年間植民地支配下にあったインドネシア人民に新しい希望と楽観主義をもたらした。写真に「兄貴」とみなされた日本の占領を歓迎する学校の子どもたちが見える。
p.247

とのキャプションがつくようにここだけ見ると日本にかなり好意的な記述がなされています。写真のこの雑誌自体がプロパカンダ雑誌なのか、もしくは自発的な雑誌なのかの記述もなくこの雑誌の性質の判断は難しいですが、少なくとも「オランダ支配からの解放」を祝している事は多分に受け取れます。

【日本占領に対するインドネシア国民の反応】(3ぺージ)
 インドネシア国民の反応をいくつかの項目に分けて説明しています。

・3A運動

標語がアジアの光日本、アジアの護り日本、アジアの指導者日本というものであったので3A運動とよばれた。この運動はシャムスディンがリーダーシップをとったが人民の共感や関心を引くことがなく、1943年に解散しプートラに取って代わられた。
p.248

f:id:nou_yunyun:20191213172014j:plain

 3A運動の宣伝ポスターは以上のようなもの。この項目は引用部分だけで終わっており、具体的にどのような運動であったかは教科書からは読み取れません。


・プートラ(民衆総力結集運動)
 スカルノをはじめとした「4人組」の指導下で結成された日本への戦争協力を目的にした運動です。目的自体は日本への戦争協力ではありましたが、

しかし、日本製であるこのプートラ運動は日本に対しブーメラン効果をもたらすこととなった。プートラのメンバーたちが高い民族意識を持つ原因となったからである。
p.248

とある様にのちに反帝国主義につながり、日本のインドネシア駐留反対へとつながっている様な記述が見受けられます。
 なお、この項目では日本占領時代の肯定的側面としてインドネシア語公用語化、政府高官のインドネシア人に担当されたことなどがあげられています。


・ペタ(郷土防衛義勇軍
 若者をメンバーとしたこれまた日本製の組織です。このペタによってインドネシアの若者が日本軍から教育と軍事訓練を受け、その後の民族と国の独立闘争の大黒柱となったと記述されています。このペタ自体は日本が連合国軍との戦争に必要な兵力を満たすものであったと書かれていますが、インドネシア人はペタによって武力による戦いと独立という関連、民族的性格を持つようになったとあります。なお、このペタ指導者がのちにインドネシア軍の重要人物になったことまで記述されています。
 また1944年のジャワ奉公会(これは日本製)、さまざまな事件や出来事でインドネシア人指導者の日本への信頼失墜しペタなどの組織が独立運動の母体になっていった事、またスカルノらは秘密裏に反ファシズム、都市知識階級、海軍などなどのグループと連絡を取っており、独立への機運が醸成されていた雰囲気が記述されています。なお、これらの動きに対して日本は、

これらの諸グループの間にも、非常に限られたものであったが、協力関係が生まれていた。この協力関係は、取り巻く状況が日本の秘密警察(憲兵隊)とその手先によって恐怖に満ちていたために密かに行われ、その抵抗活動においての、残酷かつ凶暴な行動に出る敵に気づかれないようにカモフラージュを多用した
p.250

 という様に日本がこれらの独立派グループに対してはかなり強圧的な態度を取っていたことが明記されています。

【日本占領時代に起きた反乱】(2ページ)

娯楽の一つで盛んになったのは芝居で、最初は日本の宣伝道具であったが、やがてそれだけではなく、パリンドラ〔大インドネシア党〕のメンバーであるチャック・ドゥラシムが日本の傍若無人の振る舞いを非難したように、人々の精神と肉体の苦しみを声に足ていう勇気を持つようになった。スラバヤではルドゥルックという大衆劇が、演目「ハト小屋さえも日本のためにますます酷くなった」を演じて大変人気があった。このルドゥルックは深い政治的・社会的批判を内包しており、。明らかに日本政府に反抗していた。そのため、演技者たちは逮捕され死に至るまで拷問を受けた
p.250~251

 という様に日本によるインドネシアでの弾圧の状況が垣間見えます。文学作品でも祖国愛をテーマにする作品が書かれ、民衆は生活の苦しさから抵抗運動を起こしたことが記述されています。記述されている抵抗運動は全部で4つ、「残酷に鎮圧」という記述や、スカマナの反乱では「日本は常識外の報復を行い民衆の大量殺害を行った」という記述がなされています。またブリタールでのペタの反乱では「ブリタールにいた日本人が全滅した」と記し、これを「英雄的な反乱」と扱っています。このブリタールの反乱は日本が降伏さえすれば安全は保障するとの奸計によって反乱メンバーは降伏、そして幾人かは死刑、拷問の目にあった記述されています。
 また端的にインドネシアの日本占領時代の歴史観が現れている部分を引用します。

一般的に日本のインドネシア占領は受け入れられなかった。日本は西カリマンタン地区でも知識人たちに対して大量の殺人を犯している。その地区では少なくとも2万人が日本軍の獰猛さの犠牲になっている。避難してジャワ島に逃げることができたのはほんのわずかな人たちであった。
p.252

インドネシア国民にとっての日本占領の影響】(1.5ページ)
 各項目に分かれて説明しているので、かいつまんで記述します。

政治:
 日本の占領によって政治的組織は活動不能。社会、経済、宗教的性格の各組織活動を廃止、日本製の組織に替えた。抵抗を続けた組織もあるが、その時代の政治活動は日本政府によってコントロールされていた。

経済:
 日本がインドネシアに進駐した背景には経済問題。工業製品の原材料を算出する土地を探し、工業製品を売る市場を探していた。

教育:
 オランダ領東インドの占領時代と比較して教育面での急速な進展。日本占領政府が建てた学校での教育の機会を与えた。インドネシア語を仲介語として利用、インドネシア化された名称が使われた。これら教育の目的は日本に対する好感情育成と太平洋戦争で敵と対決するためのインドネシア人の協力を得るため。

文化:
 ファシストの国として常に日本文化を植え付けようとした。その一つは太陽が昇る方向を敬う習慣、つまりは太陽神の子孫である天皇を敬うための日本の伝統。

社会:
 日本占領時代、社会生活は不安に満ちていた。労務者(強制労働)になった人たちは特に苦しんだ。多くの人が空腹と病気のために犠牲者となった。

行政:
 統治システムは軍の精度に基づいて整えられた。

軍事:
 ペタの組織を通じて軍事教育を与えられていた。この参加者がちの独立を求める闘争活動の核となった。


 この後に「C.インドネシア独立の歩み」へと続きますが、独立の話に遷移しますので残りは割愛しておきます。なおここの項目では1944年に小磯首相が独立の約束をしたこと、1945年の独立準備調査会について触れていますが、これらは日本が追い詰められていったという前提を記述しており、なぜ日本が独立の約束をしたのかの背景が伺えるような形となっています。

 全体的に淡々と記述してあったり日露戦争時代の好評価、日本支配による肯定的側面、日本製組織がのちの独立闘争組織の核になったことなどに触れています。また強制労働や飢餓などの記述についてはほぼほぼ説明はなされておらず、日本による残虐行為の記述もあっさりしたものが多めです。ただし、それでも全体的に見ればやはり日本占領時代を良きものとしての記述は一切なされておらず、インドネシアにおいても当時の日本は「アジアの解放者」ではなく「侵略者」でしかないでしょう。