電脳塵芥

四方山雑記

一昔前(1985年辺り)の「ジャパンライフ」について

 桜を見る会きっかけでジャパンライフの名前が結構出てきてるので、今現在問題になっているジャパンライフは2014年の行政指導を皮切りにして様々な問題が出てきて、最終的に破産だったり、被害弁護団が生まれるに至るわけですが、そこら辺はジャパンライフ - Wikipediaを参照してください。この記事ではジャパンライフが問題になり、国会でも質疑がされることのあった一昔前の1985年近辺の記事からの発掘をばをば。

「まるでアリ地獄だ」。マルチまがいの商法で羽毛ふとんや時期マットを販売してきた「ジャパンライフ」社(略)に対する批判が高まり、(12月)十日、国会で初の参考人意見陳述が行われた。同社は先月下旬、創始者山口隆祥氏(43)の会長辞任、販売方式の改革を打ち出したが、大量の在庫を抱えて悲鳴を上げている販売員たちをどうするのか、新しい販売方式はうまくいくのか―など先行きには不透明な部分が多い。
読売新聞1985.12.11 事件簿85

 国会ですが当時から「ジャパンライフ被害者の会」の代表が国会(衆議院 商工委員会流通問題小委員会 昭和60年12月10日)に出たりと、当時かなり問題化していることがうかがえます。新聞記事も同様です。当時からして種々問題だったわけです。ちなみにジャパンライフ会長の山口隆祥ですが、アップした新聞記事にある様にマルチで国会追及された経験もある方です。

 さらにジャパンライフは1991年頃には韓国でも同様の問題を起こしており、

和田静夫「韓国の新聞の報道をもとにしてでありますが、ジャパンライフの韓国の合弁会社である山隆産業の磁気寝具販売が韓国経済企画院公正去来委員会にマルチ商法と認定されて是正命令を受けた。この販売方法は日本側から持ち込まれた疑いが強いと報じられていますが、こういう韓国当局の動きというのを御存じでしょうか。(中略)それから、山隆産業は韓国側五一%、日本側四九%出資の合弁会社ですっそうすると、韓国での報道によりますと、韓国側の株主は名義を貸しただけで、実は韓国側の出資金も山口隆祥会長が持ち込んだのではないかという疑いが持たれている。この場合に、虚偽合弁会社設立として韓国の外為法違反などに当たる可能性があるように思われますが、これは事実関係を把握をされていますか。日本の国内法との関係では、これはどういうふうになりましょうか。」
衆議院 予算委員会 平成03年08月21日

国会では以上の様な質疑がなされています。毎日新聞あたりでは複数の記事が確認できます。


 あと献金については最近のでも問題になりましたが、当時から政治家に献金しており、

という様に元警視総監に献金したり、

  

当時の中曽根首相にも献金していたりします。ちなみにこの記事の最後は少し面白くって、

(中曽根首相の政治団体への)献金からほどなく同社が出資した公益法人「ライフサイエンス振興財団」が、科技庁から設立認可を受けている。このほかにも(昭和)五十九年九月には、同社の山口隆祥会長(当時)が、ニューヨークで国連会議に出席中の安倍外相を表敬訪問している
毎日新聞1986.2.10

 安倍晋三首相は1982年から安倍晋太郎の秘書官を務めていたらしいので、想像力を豊かにすればその頃に会っていたのかもな、と。

韓国への「飲料、アルコール」などの最近の輸出額推移について

www3.nhk.or.jp

日本から韓国向けの先月のビールの輸出額がゼロになったことが財務省の統計で分かりました。韓国への食品や飲料の輸出の減少に歯止めがかからない状況が続いていて、日本製品不買運動が影響しているものとみられます。

 ってなニュースを受けて、暇ネタついでに韓国向けへの「ビール」と同じ分類の「第22類 飲料、アルコール及び食酢」の輸出状況でも。情報はe-statの普通貿易統計から。

 で、さっそく抜き出したデータをグラフ化したのを。なお分量が多いので2つに分割、そのために縦軸の値がグラフ間で異なるので、そこは勘弁してね。

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 「第22類 飲料、アルコール及び食酢」に限って言えばビールが圧倒的にシュアがあり、その他には「清酒」がそれなり、という感じでしたが、その清酒の輸出額も減少傾向で10月の輸出額は250万円です。清酒も結構風前の灯です。「ウィスキー」が少しだけ上がっていますし、ビールと清酒以外は元から少ないというはのはありますが、総じて減少傾向なのは違いなさそうです。

 ちなみに韓国で日本ビールが売れない理由(不買要素)ですが、微々たる影響かもだけどこういうのもあったり。

日本の右派論客竹田恒泰が「日本のビールの輸入を切断する3日以内に韓国食堂は商売にならないと大騒ぎである」という発言をしたことが、国内のインターネットに流布されたことも不買運動に影響を与えたものと思われる。
日本不買運動 ナムウィキ

その他にも不買運動前から輸入ビールの市場での日本シュアが落ちていたり(これは他国企業参入による競争の激化というものです)してます。

 あとビールに限らずですが、全国のスーパーマーケット2万カ所と卸売物流センターを代表する「韓国スーパーマーケット協同組合連合会」も不買運動に参加しています。

これらは、 "単に日本製品を買わない運動を超え販売中止を開始する」とし「すでにいくつかの中小商人と自営業者はマイルドセブンなどのタバコとアサヒ、キリンなどビール、コーヒー類を全量返品し、販売中止に出た」と主張した。
続いて「韓国マート協会会員企業200カ所が自主的に返品や発注中止をしたし、コンビニエンスストアやスーパーマーケット業界で販売中止キャンペーンが拡大している」と付け加えた。
中小商人続いスーパーマーケット団体参加... 「日製品の販売を停止する」

以上のニュースは7月と少し古いので今の状況は不明ですが、多分変わらないでしょう。なんで、消費者個人の不買運動という状況でもなく店でそもそもビールが売ってなさそうな状況です。仮に買いたい人間がいたとしても買えないのが今の韓国市場じゃないかなと。それを日本側は打破しようと、納品価格を下げるというニュースが流れていたりしますが、現状だと厳しいでしょうね。

 貿易統計を見ると不買運動どこ吹く風、みたいな品目も多数あるのも事実ですが、いずれにしたって韓国での一部日本商品の市場が日本のフッ化水素らの輸出規制によって壊滅したというのもまた事実でしょうねー。

「悪書はこうして出来る -無責任出版の世界-」

 悪書関連の記事はこれでひとまず終了しておきますが、最後に『鋭角』にあった「悪書はこうして出来る -無責任出版の世界-」の紹介でも。バイアスも感じられますが当時の出版状態が知れる貴重な証言かと。なお、一つだけ注意は出版界にとっての「悪書」であり、必ずしもこれらの悪書が追放対象であったわけではありません。
※誤字脱字ご容赦

悪書はこうして出来る -無責任出版の世界- 西田 稔
悪書とはとんな出版物を言うのか
 悪書から子どもを守る運動は、これまで各方面から起され、これは改良向上するための、または追放するための会合討議も、たびたび重ねられて来ているが、こうした運動が完全に目的を達成させるということはなかなか困難である。今日の現状を見ても、悪書追放の正論が高められていながら、いわゆる悪書といわれている出版物が、ぞくぞく生産されていることがそれを証明していおう。
 こうした運動は、うっかりすると理想に傾きすぎたり、対策討議が「子どものため」から、いつの間にか子供の存在を忘れてしまった「大人同士の論議」になってしまい、その蔭には、大人自身の利害的感情のかげすらただよっているように、感じられたりすることもある。
 したがって、悪書の実態(正体)をつかむ努力が不足してしまう。悪書と言われている出版物の内容はもちろんのこと、どこでどのようにして生産され、どんな販路で広められているか、これにたずさわっている人々の生活態度とか、社会観などを掴まないうちに、運動を開始するという盲点が生じるわけである。
(中略)
無責任出版物の現状と温床
 無責任出版物は、世にいう俗悪な絵本と低級な漫画本に分けられ、主として赤本屋と呼ばれている出版社から売り出されている。ところが、児童雑誌の内容や付録が問題視される席上でも、赤本屋の出版物が論議の焦点にされるようなことはないようである。これは、今日の児童雑誌が、種類、発行部数ともに多くて、赤本屋の出版物がこの蔭にかくれているせいもあるが、赤本屋の組織や出版物の失態が掴まれていないということに大きな原因がある。
 赤本屋と呼ばれている出版社は東京、名古屋、大阪に固まっているが、名古屋で出版されているものが最も低級粗悪であり書店、(小さな)以外の駄菓子屋とか玩具屋へまで販路を広げている。
(中略)
 このほか、識者たちや取締り関係から見落とされているものに、宮城広場とか、靖国神社とか、上野や浅草などで、みやげ品として立売りされている「クズ本」がある。これは、十五円絵本の出版社から親分格の業者が刷りヤレ(クズ)を買い集めて、表紙だけ絵本らしくつくった内容のつぎはぎな絵本である。(例えば、上半身が牛で下半身が馬になったりしている)ビニール袋入り十五冊百円の絵本は、表紙を三十円の絵本にして、あとはこのクズ絵本を入れてあるよく売れているものに問題化されないのは、安かろう悪かろうだとあきらめて、世に訴えられないからであろう。
 現在の漫画本は、百二十円のものが多く出版されていて、百四十種類ほどある。つぎが百円のもので百二十種類ほど、六十円のものは児童雑誌の付録に押されて少なくなったが百種類(一時は二百四十七、八種類あった)、十円豆漫画*1が九十五、六種類で、つぎが百五十円のものが六十種類あまりという順になっている。(豆漫画は一般の漫画本四分の一の大きさである)
 ほとんどの漫画本が、定価より安く売られているのは(定価六十円のものが二十円から三十円売)卸掛の安い赤本出版物の特徴である。絵本は売れない時期があっても(七月、八月)があっても、漫画本の売れない時期というものはない。これらの出版物は、紙質も印刷も粗悪なものが多くて、内容は、冒険探検、活劇探偵、時代劇、少女歌手や女優の出世物語、ラジオや映画で子供たちの人気を拍したものであったが、最近は宇宙を舞台にしたものや、柔道モノや、時代ものが多く出回っている。
 こうした無責任出版物がつぎつぎ出版されているのは、金儲け主義のもぐり出版物や、資金繰り目的に別社名で無責任なものを出版している出版社が後を絶たず、あくどい色彩や俗悪な内容でも定価が安いためによく売れているからである。また、この種の絵本や漫画本は買切制度で、出版界の常識になっている返品がないから、その点が出版社側にとって強味であり、無責任出版物が根絶えぬ原因ともなっている。最近になってこうした出版社から、児童向の辞典類や少年少女読物が出版されはじめているが、いかがわしい辞典類が定価の安いために売れていることを恐れる。なお、以上の出版物は一流店の出版配給会社では扱っていない。
(中略)
分類と業者たちと選ぶコツ
 現在出版されている絵本と漫画本を分類すると、A類-一流出版社からだされているもの、B類-赤本屋と呼ばれている出版社から出されているもの、C類-ある出版社から資金繰りが目的で別社名で出されているもの、D類-住所も社名もデタラメなもぐり出版社から出されているもの、と四種類に分けられる。
 俗悪なえほにゃ漫画本がつぎつぎちに出版される第一の理由は、編集や出版技術がたやすく、しかも生産費が安くてすむからである。絵本の場合に、絵を一流画家に依頼すると、文も一流の作家に書いてもらわなければならない。漫画本の場合も編集技術が必要なるので、いきおい生産費がかさんで出版されるものの定価がたかくなる。ところが、無責任出版物に属する絵本や漫画は、原画と用紙さえあれば、あとは製版屋と印刷やまかせにするので簡単にすむ
 このような出版業者は、儲け主義の非文化人なので、利潤のみ考えて紙質を落とし粗悪な印刷インキを使用する。一般に定価二十円から四十円の絵本は、原画と製版(写真製版)料だけで十五、六万円かけているが、定価十五円の絵本は、原画と製版(描版)料は三万円前後ですませてしまう。
 無責任出版物は、出版配給会社では取扱わないので、特殊な卸問屋や仲次から小売業者(書籍店)、露店業者、立売人などへ卸されている。この卸問屋の中には、昨日までパチンコ屋などやっていたものもいて、戦後に闇物資を扱っていたものも多い。また高利貸で儲けて副業にやってきた者もいる。
 児童文化などは字でも見たことがない、という業者が多いのである。この業者たちは、赤い表紙でないと売れない。という考えを一様に強く持っている。出版社側はそれを意識して色彩を毒々しくしてるわけである。卸問屋や仲次の多くが、儲け主義で教養も低く自分の好みに沿わない絵本や漫画本は取扱わないので、毒々しい色彩の絵本や、漫画本がハンランしてしまう。業者が商品に対する良心とか研究心を全く持ち合わせていないこと、アクドイ色彩でないと信じ込んでいることは問題である。
 こうした業者のほかに、セドリ屋といって店舗を持たない仲次がいる。やはり卸問屋や仲次と同じ程度か、それ以下の社会観念で無責任出版物を売りさばいている。
 したがって、俗悪絵本や漫画本を改良するためには、まずこうした配給網の改革と、卸問屋や仲次などに反省してもらうことが、先決問題である。つぎにC類とD類の出版物を発行している出版社にも反省してもらわなければならない。B類の出版物を発行している出版社も同じである。
 良いといわれている画家や作家は、赤本出版社など見向きもしない。画料や稿料が安いからである出版物が粗悪だからである。美しい花園には誰もが良く手入れをする。ているする甲斐もあるからであろうが、ゴミ捨て場を、進んで清掃しようという人は少ない。俗悪絵本や漫画本の改良されてない原因がここにもある。
 では、どうして悪書が出来るのか、売れるからである。これには経済事情も含まれているように考えられる。安い絵本や漫画本にに満足しなくとも、親と子がそれで我慢しなければならない厳しい現実が考えられる。
 そこで安い絵本や漫画本の中から、比較的無難のものを選ぶコツが必要となる。
①絵と文の作者名が表紙に印刷されてあるもの。
②裏表紙の奥附に電話番号の入れてあるもの。
③文に誤字がなく、背を綴じている針金がしっかりしているもの。
 但し、表紙絵と題名だけをかえたり、内容の前半分だけかえて新しく装ったり、旧本の一部を合本して新刊らしく見せているものもあるから、内容にも注意することが必要である。
『鋭角』1958.6.25
※元々は「教育じほう」に掲載されたものが鋭角に著者承諾の下に転載された記事です。

 今となってはこれらの「悪書」を見ることは叶わぬのだろうけど、むしろ読んでみたいなーっと。当然っちゃ当然ですが、時代的には現在以上に悪質な業者や即興書き手が多かったのは事実でしょうね。

*1:豆漫画が悪書扱いされたという話がありますが、どこまで普通の漫画と比べてなのかは不明。

悪書追放運動期のマンガ業界におけるパクリの話

 1955年周辺期の悪書追放運動期のマンガ業界についてのパクリ関連の話を少しだけ。マンガ業界の誕生期というか、当時の著作権感覚がうかがえる話を2つほどピックアップします。
 ともに日本児童雑誌編集者会機関誌『鋭角』からの引用となります。

◆マンガの丸パクリ案件

侵害された漫画の著作権  現在の児童雑誌から漫画を除いては成立たぬ-といってもいいくらい、児童漫画の黄金時代である。この現象を将来したものは、戦後あらわれた少数の優れた児童漫画化の、卓抜な作品に負うといつよいだろう(ママ)。
 だがその反面、比較的才能に恵まれぬ技術未熟の新人級までが現状のように馬車馬的に描かされていては、いきおいアイデアに詰まるという破目におちいりつつあることも見のがせない。
 あらゆる講談本や名作読物のたぐいは、すでに何回か繰返して漫画の材料に焼き直され、いまやストリイ漫画の素材は、地を払ったかに見える。
 そこで苦しまぎれに、他人のウケている作品の模造品をデッチあげたり、チャンバラ映画や探偵活劇映画、さては武道映画等から、ストリーを頂戴したり、剣豪小説からアイデアを拝借したりするようなことが、しばしば見受けられるようになった。
 これは原作者または版権所有者の許可を得ない限り、その転用のいかんによって、著作権侵害となるから、戒心すべきことである。
 児童漫画に関する著作権の尊重と確立とが要望される折も折最近、次のような事件が発生して、関係方面の注意を喚起している。
 少年雑誌に長期連載されて好評を博している時代漫画を、構図は勿論のことフキダシのセリフまで、全く同一の漫画が題名と人物の名を変えただけで漫画本専門といってもいい某単行本出版社から、堂々と発行されたことである。
 そこで、作品を剽窃された原作者と雑誌社側は、盗作本の執筆者と出版社に対して、厳重に抗議した。この出版社では「不注意から剽窃作品であるのを知らずに出したものである」として、在庫品前部と、印刷原版の一切ならびに原稿を破棄して、陳謝の意を表した。また当の剽窃者某は、謝罪状を出したうえ、十二月上旬謝罪広告を出すことを約して、この事件は一応落着した。
(中略)
 一般に「悪い漫画」が非難されるとき、いつも矢表に立たされるのは雑誌であるが、いわゆる「悪い漫画本」は、他人の作品を盗んで恬として恥じぬような、目的のためには手段をえらばぬ悪徳似而非漫画家と、内容はどうでも原稿料を安く上げようとする非良心的出版社によって作られるといってもよい。貸本屋ゾッキ本として街に流布するものの中には、これが多いのである。
(以下略) 『鋭角』1958.11.25

 当時にも、というか当時の方が現代よりももっと露骨なパクリがあった模様で、同様に手塚治虫の「ロストワールド」がパクられたという類似案件が存在します。児童雑誌の編集者機関紙『鋭角』の記事だけあって幾度か繰返される業界の自己批判性もあって、悪書の例として挙げられるマンガ本も大抵はこれです。

◆デッチ本

デッチあげる漫画本
 一がいに漫画家といってもピンからキリまでで、その中で雑誌に名の出るような連中は一人前といってよかろう。その一人前の漫画家の下働き(助手)から、漫画本専門にいわゆる略画物語の作者までいれると、およそ五百人を超える驚くべき数だという。
 著名な漫画家は、とても一人ではやりきれぬくらい仕事があるので、黒く塗りつぶしたり、簡単な色付けは助手にやらせる。ひと頃編集者が助手の役をしたこともあるが、編集者会から槍が出て、今ではそんなことはなくなった。
 ゾッキ本といわれる漫画本は、雑誌にかいているような画家は描かない。一冊かいても、いいところ三万円ぐらいだから引き合わない。漫画本の出版社でも、高い原稿料は払えないし、子供向のものはそれほどネームヴァリューが必要でないので、器用にかける人だったら、誰でもいいというわけである。ここに盲点があるのだ。
 絵の学校も出ていないし、師について修業をしたこともない者がいっぱしの漫画家(いや、略画かき)として通ることにある。だから、学生や失業者のアルバイトもある。このことは、太宰治の「人間失格」の中にも出てくる。
 器用なくらいでは、雑誌には通用しないが、漫画本には結構通用する。漫画本の出版社の多くは、忙しい漫画家相手では仕事にならないので、器用なものに、何冊かの売れそうな見本を示してなるべく刺激を強くデッチあげさせる。これを称して「デッチ本」という
 亡くなった福井英一が、柔道漫画をはじゆて描いて、たいへん子供に受けた。主人公のカツと見開いた目が特徴だったが、この手法はたちまち模倣され、今では一つの流行になっている。
 単なる模倣程度なら、子供には実害はないが、デッチ本などが悪どく刺激的にするから、世の非難を受けることにもなるのだ。
『鋭角』1958.11.25

 要はスキルのない人間に売れ線をパクらせたマンガのことであって、上記のパクリとほぼほぼ同じかなと。ちなみにこの時代には出版社が書かれていないマンガ本や出版社を訪ねると誰もいなかったという様な出版社不明のマンガもそれなりにあったらしく、商売を行う側の倫理は当然ながら現代以上に低かった模様です。

 『鋭角』は編者者による機関紙なだけに顕著ですが、こういったマンガ本は業界の質を下げる悪書として問題視されています。それ自体は当然の判断ではありますが。なので悪書追放期に悪書とされたマンガの中には倫理の低い出版社(実際、「会社」なのかも不明)が少なからずあったという認識や、現代には情報すら残っていないマンガの山があったのかもなと。そこらのマンガになると読む術すらもうないかもですね。


余談
 マルパクリやデッチ本ではないですが、当時少し批判されたマンガなら下記で読めるそうです。杉浦茂マンガ館収録の「アンパン放射能」がチクリといわれました。当時のマンガを読めるという意味でもなかなか貴重かも。

杉浦茂マンガ館 (第3巻)

杉浦茂マンガ館 (第3巻)

杉浦茂の摩訶不思議世界 へんなの…

杉浦茂の摩訶不思議世界 へんなの…

毎日新聞社『読書世論調査第9回(1995年度調査)』から悪書追放運動の影響など

 悪書追放運動についての補足的な記事です。毎日新聞社の読書世論調査というものが存在しており、1955年には悪書追放運動の影響なども調べられています。ってことで、それらについての情報でも。
※いずれも書店調査です。

1)1955年によく売れた幼少年ものの書籍

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 マンガは「少年ケニヤ」、「サザエさん」、「おもしろ漫画文庫」、「イガグリくん」など。正直この時代のマンガには疎いので他にもあるかもですが、幼少年ものの書籍売れ行きはこんな感じです。
 1年間で売れた方の雑誌では「キング」は確かマンガも載っていたと記憶していますが、他の雑誌は入っていない模様。

2)1955年に最もよく売れた幼少年向け雑誌

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 幼少年向け雑誌ではマンガ系雑誌がしめます。ちなみに鉄腕アトムが連載されていた「少年」は11位。小学高学年向けになると4位になります。推測となりますが、ここら辺の雑誌は悪書追放運動でいくらか焼かれた雑誌かと考えられます

3)悪書追放運動が行われたか(読者世論調査

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 読者世論調査上では悪書追放運動が行われたと答えた割合は、最高の六大都市でさえ「17.8%」ととなり、かなり低い割合です。当然ながら都市の方が悪書追放運動が多くなっています。読者の認識レベルでは悪書追放運動はそこまで活発ではなかった模様です。

4)悪書追放運動の影響があったか(書店調査)

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 書店調査では「影響があった」が44%、「影響がない」でも「運動はあったが影響がない」と答える書店があるなど、運動そのものは広範に及んでいたことが想像できます。ただし、書店の所在地は市街地に多いことから、農村漁村方面ではどうなったかは定かではありません。
 文章にもある様に「夫婦雑誌」、「性もの」が廃刊、幼少年ものも十数点の廃刊があります*1。写真では見切れているので、その後の文章を引用しておきます。

幼少年向雑誌の「冒険王」「漫画王」などの実数の落ちているのはこのためとみられ、おとな向雑誌では「平凡」があげられている。「平凡」については雑誌の項で取り扱ったが書店の回答からすれば若い年代-中学生ぐらい-が敬遠したとするものが相当ある。これに伴う意見として、悪書追放運動の影響としてある種の本はかわないが、立読みするものの数は増したと答えているものがあることは面白い現象であった。
 一部の地方では悪書追放運動とともに警察の没収が行われたと報告されているものもがあり、学校の読書指導は当然としても、警察力の干渉までして悪書追放をすることはその本や雑誌の内容にもよるが程度を越したものは言論抑圧にもなりかねないので今後は関係者の良識による是正をまつほかないものと思う。



 以上で引用を終わりにしますが、この「読書世論調査」での悪書追放運動に関する項目を含め、焚書には触れていません。「焚書事件」って今は特徴的な語り口ですが、当時の認識は絶対に記述する社会問題としてまでの認識はされていなかった模様です。

有害図書と青少年問題

有害図書と青少年問題

*1:少し余談ですが悪書追放運動期に良書の児童向け雑誌が発売されましたが、こちらも続かず廃刊となりました。想定以上売れなかったというものもありますが、印刷機を大手に頼っていたためにその問題などもあった模様。

悪書追放運動(1955年)で『鉄腕アトム』は燃やされたのか?

悪書追放運動で選挙期間中に悪書が「燃やされた」という話について - 電脳塵芥

悪書追放をもう少し掘ったのはこちらの記事に


1955年、手塚治虫の『鉄腕アトム』は、複数の小学校の校庭で見せしめ的に焚書されたことがある。
1955年『鉄腕アトム』は小学校の校庭で見せしめ的に焚書された/橋本健午『有害図書と青少年問題』 読書猿Classic: between / beyond readers

 ってのがあったのです。で、その傍らで

「校庭で漫画を焼いた」というのは(都市伝説なみのレベルでしか)うまく見つかりません。どこかで誰かが漫画本を含む俗悪本・雑誌を燃やしたのは多分本当。
調査中です→1955年に『鉄腕アトム』は燃やされたの? - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

というブログがある。どっちだよ、というわけです。この「アトム」、もうちょっと大きい主語で「手塚治虫」が焼かれたという語り方がされることもまま見受けられます。


吉本浩二, 宮崎 克『ブラック・ジャック創作秘話~手塚治虫の仕事場から~』より



このマンガなどはその典型例であり、昔の蛮行を今に語りつぐ役割をツイッター上などで果たしてる感じです。で、じゃあ本当に1955年に『鉄腕アトム』は焼かれたのか?

 結論から言うと、鉄腕アトム』の単行本は1956年なので物理的に鉄腕アトムを焼いたというのには無理があります。鉄腕アトムの掲載雑誌『少年』を焼いたならば成立しますが、その際に鉄腕アトムのみを燃やしたというのはややミスリードです。
 で、じゃあ少年が焼かれたか、というと現在確認するすべはありません焚書リストは存在しませんし、記事でも焼かれた本は分かりません。ただ当時売れっ子の手塚治虫が批判にあった事も事実ですし、マンガがバッシングを受けたのもまた事実です。故に状況から考えれば手塚治虫の書いたマンガ「も」焼かれたことは否定はできません。しかしながら手塚治虫が「真っ先に焼かれた」は事実誤認と考えます。真っ先に焼かれたのは「ワイセツ本」です

今日の新聞を見ると、猥本が三十七種も一斉に手入れされたようである*1。(中略)こうして街に氾濫する猥本のために青少年が毒されてゆき、青少年の性的犯罪のかげに猥本があるというものでは黙っていられず、赤坂母の会の母親たちは昨年六月の猥本を各人の家、近隣の家から持ち寄って、何百冊かを焼いた。このやり方は随分ヒステリックで大人気ない、という批評も受けたが、これは、恥を知らぬ悪質出版社、良識にかけた購読者、そして月に百万冊を野放し状態におく当局などに対する母親たちの精一杯のレヂスタンスであるとして拍手を送るむきもあった。
 赤坂の母親たちが猥本を焚書の刑に処したことは、その後広く母親たちの間に、悪書への関心を呼び起こした。多くの母親たちは、これをきっかけに正常な神経では制止できぬような猥本の実態を知るようになった。母親たちは驚きあきれ、怒りに燃え、当然、排撃の声を挙げた。
『国民』 清水慶子「猥本や悪書の追放に効果をあげた母親たち」1955

 当時の雑誌に書いてある様にまずはエログロの内、特にエロが標的にされています。この話をした後に清水慶子はマンガ本へとその矛先を向けていますので、マンガ本が批判されたことは不変ですが、順序としてはワイセツ本からのマンガ本です。ちなみに清水慶子の話の中では手塚治虫の名前は出てきません。というか、手塚治虫以外、手塚治虫のマンガが焼かれたという記事や記述はないので、明確な裏付けはほぼ不可能です。一応付け加えておきますが、手塚治虫の証言が信用ならないというわけではなく、「裏付け」ができないというだけです*2

 なお手塚治虫含めマンガへの批判ですが、運動の時期とは少しずれるものの、1956年7月当時の「漫画」に対する近藤日出造の意見で当時の大人漫画からの批判者である近藤日出造の批判が読めます。気が向いたらどうぞ。

手塚治虫の自著について

1)『ぼくはマンガ家』(毎日新聞社・1969)
 該当箇所は「悪書追放運動に関する手塚治虫の1969年における回想」で確認可能です。

“悪書追放”は、主に青年向きの三流雑誌が対象だったが、やがて矛先が子供漫画に向けられてきた。

とあるように、手塚治虫自身がまずは三流雑誌*3が対象だったと述懐しています。

岡山のPTAでは、エロ雑誌などと共に漫画本が、火で焼かれた。魔女裁判のような判決であった。全国的に漫画批判運動が活発化し、不買同盟や自粛要求が呼びかわされ、とうとう、児漫長屋(注:手塚治虫が参加していた漫画創作集団)は総員が集会を開いて、対策を話し合った

それとこの項目では鉄腕アトムが燃やされたとも言ってないし、手塚自身は自分の本が焼かれたとは認識してない。あと、岡山のPTAが焼いたは当時のニュースなのか、伝聞なのか不明ですが、少なくとも現在に残る三大新聞の記事にはそういった記事は見当たりません。地方紙ならばある可能性も……、ですがそこまで行くと当方には確認無理です。
 ちなみにこの『ぼくはマンガ家』の手塚治虫の書き方には時系列の混乱が見受けられます。

①「ライオンブックス」の名前が出るが、発売は1956年から1957年
②「赤胴鈴之助」のラジオにふれているが、放送時期は1957年
③児漫長屋で悪書追放運動について話す、1955年が妥当
④「昭和三十年当時は、まったく厳しかった」と書いている

①、②のことから手塚治虫の述懐は1957年から始まっています。ですが、③、④は1955年(昭和30年)のことであり、時系列が乱れています。1956、7年は悪書追放運動がやや落ち着いている時期ですし、そもそも焚書が新聞記事になったのは1954年、悪書追放大会が1955年です。手塚治虫が悪書追放運動に対抗するために作られた漫画編集者の機関紙『鋭角』で悪書ついてマンガ家の座談会を行ったのも1956年。1957年ごろを話すのには違和感があります。また岡山が焚書の例として最初に来るのはおかしく、当時の「焚書事件」とは赤坂母の会が起こした焚書をさすものであり、岡山を指した例はこの手塚証言以外にはありません。1969年に書かれた自伝ですので記憶違いや時系列の混乱がこの本には見受けられます。書かれている内容の正確性は落ちざる負えません。

2)「手塚治虫 漫画の奥義」 1992
 ネット上の拾いものですが……、

こちらは自分が焼かれたといってますが、アトムとまでは明言していません。なお、

子どもに家からマンガの本を持ってこさせて、そして、こんな本は悪い本だから処分します。ということでね。子どもの見ている前で焼いたわけではなんですよ。PTAと学校の職員とでやったんです。

という記述がありますが、この件は例のごとく他の媒体で同様の記述は見受けられません。1955年の運動中だと確認できる限りは母の会が各家を巡ってという感じで、供出的な事をしていた記事はありませんでした。1960年代はそこまで調べていないので、そちらならばあるかもしれませんし、記事になっていないだけの可能性もありますが……。対談形式ですし突っ込んだ話はされていません。あくまでも往時を振り返るという体の為に詳細な情報が薄いのが痛手です。

NHK手塚治虫特集での動画について

www.youtube.com

 youtubeに上がっている手塚治虫についてのドキュメンタリーで悪書追放期のニュース映像が流れていますが、NHKに確認したところ、この映像は1963年の悪書追放期のニュース映像であり、1955年の映像ではありません*4

 なんで、とりあえずこのニュース映像は少なくとも1955年の手塚治虫のマンガを焼いたとは言えませんし、朝日新聞1963.11.28の「悪書三千冊焼く計画」を読むと焼かれた本も当時の県に有害図書指定されたエロ雑誌である可能性が高いです。

◆で、アトムは焼かれたの?

 結局のところ、「不明」としか言いようがありません。1955年当時、「少年」で鉄腕アトムが連載していたのは事実。それが母の会の悪書追放運動によって焼かれた可能性は高いでしょう。ただしそれは手塚治虫を狙ってやった、という可能性はエロ雑誌を優先だった事を鑑みれば低いと考えた方が妥当性が高いです。手塚治虫への批判もありましたが、竹内オサムによればマンガブーム便乗による粗悪なマンガが多かったのもまた事実であり、マンガ業界全体で考えるとそちらがまず批判の対象でした。

 手塚治虫はマンガ界の第一人者であり、現代においてもその地位はゆるぎないものです。故に悪書追放運動という過ちといえる過去の行動と手塚の現代での名声が相まってその内実が実態以上に語られ、都市伝説や伝言ゲーム的に誇大的に「1955年に鉄腕アトムが焼かれた」と言われている可能性があります。少なくとも当時の記述では鉄腕アトムはただの人気マンガであり、焼かれるべき対象や紙面上で名指しで強い批判が出るほどのマンガではありません



◆おまけ 当時の鉄腕アトムの人気

 1955年当時の児童読者調査研究会『児童読物の研究』2巻には当時の子どもにアンケートを取っており、鉄腕アトムの人気がうかがえます。

1、2枚目は中学生に聞いた好きなマンガです。鉄腕アトムが男から35票で断トツです。

3、4枚目は5、6年生の好きなマンガ。こちらでも鉄腕アトムが人気です。それ以上の人気「ぼくちゃん」がありますが。なお、小学低学年、中学年では鉄腕アトムは入っていません。当時の鉄腕アトムは10歳以上の男子に人気だったマンガだった模様です。



■お布施用ページ

note.com



*1:毎日新聞1955.3.28の記事だと思われる。なお記事中に押収された雑誌が明記されており、これらが悪書の一翼だと確認可能

*2:ここらへん多数の証言があるといいんですが……。実はブラックジャック創作秘話は読んでないんですが、そういう明確に書かれてたりします?

*3:三流がエロを指すのか、それとも出来の悪いマンガ雑誌を指すのかは不明

*4:余談ですがこの番組、ニュース画面冒頭の「日本ニュース、日本映画社」は1951年までしか存在しない画が使われていますが、しかしニュース画像は1963年のものという中々不思議な編集がされています。ニュース内容は山梨から端を発したといっていたり、その内容は1963年の悪書追放運動だと判断できます。焼かれた場所はよくわかりませんが、新聞記事にもなった埼玉の可能性が高いと考えます

悪書追放運動で選挙期間中に悪書が「燃やされた」という話について

悪書追放運動(1955年)で『鉄腕アトム』は燃やされたのか? - 電脳塵芥

手塚治虫関連はこちらの記事に


 というツイートがあって、これと同文の情報はツイッター上でいくらか見つかります。鍵かっこでくくられている事から何らかの出典はあるはずで……、で、ネット上で最も近い文は『同人用語の基礎知識』の基礎知識。

過激な反コミックパフォーマンスも登場
 前後して、1955年2月27日投票 第27回衆議院選挙、1956年7月8日投票 第4回参議院選挙 の選挙戦では、一部の女性らが小学校の校庭にマンガ本を積み上げ、手塚治虫らの漫画本に火をつけて燃やすパフォーマンスを展開、焚書だとして大きな社会問題になります。
悪書追放運動/同人用語の基礎知識

最後の締めくくり以外は同じであり、では『同時用語の基礎知識』の出典はというと未記載の為に謎。記述が詳細な為にこれを書いた管理人が無から情報を作ったとは思えない内容なのでなんかしらの出典はあると思うのですが……。wikipediaとかに書いてあれば悩む必要なかったのに。
 そもそも選挙期間中にマンガ本を焼くという行動自体が謎です。運動側からの議員への悪書追放圧力として考えられはしますが果たして効果的かというと疑問符。ただ当時の悪書追放に関して、

「悪書追放を喜ぶのは誰だ」
「次に当選する政治家さ」
「もっと喜ぶのは教育評論家だ。講演会で稼げるからさ」

という様な揶揄が存在したらしく(日本児童雑誌編集者会機関誌『鋭角』より)、編集者からしたら政治家は悪書追放賛成として映っていたというまなざしは確認できますので、選挙期間中にあっても不思議はないともいえはします。

 で。

 結論から先に書きますが当時の記事に選挙期間中にマンガ本を積んで焼いた、手塚治虫のマンガ本を焼いたどころか、そもそも「校庭で悪書マンガ本を焼いた」という記事は見当たらず、本当にあった出来事なのか不明です。「本を焼いた」という記事は存在、しかしそれは場所や対象雑誌は不特定、手塚治虫による「校庭でマンガが焼かれた」という証言はありますが、ただこれは時期が未特定であり選挙期間中かは謎です。なので、ほんと出典を知ってる方がいたら教えてくださいって感じです。

確認文献

【新聞】
読売新聞:1954~1956年記事(ヨミダス検索、地方版含む)
朝日新聞:1954~1956年記事(聞蔵Ⅱ検索、地方版含まず)
     1955年2月の全記事(縮刷版 ※全国版)
毎日新聞:1954~1956年記事(毎索検索、地方版含むはず)
日本読書新聞:1949~1951年(第9~11巻)
読書タイムズ:1954~1956年

 三大誌とされる各新聞のデータベースで「悪書追放」、「不良雑誌」、「焚書」、「不良&燃」、「俗悪」などなどの思いつくキーワードで調べましたが、選挙期間中どころか「校庭で焼いた」という記事すら見つかりません。また1955年2月の朝日新聞縮刷版を確認する事が出来たので選挙期間中の全記事を見ましたが、その様な記事は一切ありません。そもそも紙面では選挙期間中の争点として扱われてすらいません。なお産経新聞はその時期のデータベースがありませんので確認不能です。それと1955年当時の悪書関連を最も多く記事にしているのは読売となります。
 日本読書新聞は児童雑誌の表現について厳しい論調を敷いており、学校図書についての情報、小学生から感想文募集などをしていた新聞であります。今回の件ではど真ん中と思える新聞ですが、こちらに関しても悪書批判は存在しますが選挙期間中に焼かれたという記事は見当たりません。
 また読書タイムズにおいても同様に選挙期間中の話はありません。母の会が参加する座談会などもありますが、その座談会以外では焼いた話には触れていません。

【書籍】
手塚治虫『ぼくはマンガ家』 1969
手塚治虫『漫画の奥義-本編』 1992 ※ネット上の該当箇所からの確認
長岡義幸『マンガはなぜ規制されるのか 「有害」をめぐる半世紀の攻防』2010
竹内オサム『戦後マンガ50年史』1995
中河伸俊、永井良和『子どもというレトリック: 無垢の誘惑』 ※竹内オサム 「“悪書追放運動”の頃」
コミック表現の自由を守る会『誌外戦: コミック規制をめぐるバトルロイヤル』1993 ※竹内オサム担当記事
橋本健午有害図書と青少年問題』2002
うしお そうじ『手塚治虫とボク』2007
昼間たかし『コミックばかり読まないで』2015
児童読者調査研究会『児童読物の研究』1巻、2巻 1955
波多野完『児童文化』 1956
久米井束『読書のよろこび』1955
毎日新聞社『読書世論調査第9回(1955年度調査)』

 いずれの書籍でも選挙の「せ」の字もありません。手塚治虫『ぼくはマンガ家』は自身の経験に基づき存分に語っておりますが、悪書追放運動の章では時系列が前後するか、若しくは時系列の混線が起こっており少し困る内容です。『漫画の奥義-本編』の方では学校で焼かれたと取れる記述があります。学校で焼いたという記述は手塚治虫が主たる情報源であり、これが現在流布されている「校庭で焼かれた」の原型の一つかと考えられます。 その他の書籍には焚書の事実は書かれているものもありますが、「校庭で~」などの記述は皆無です。
 『児童読物の研究』、『児童文化』、『読書の喜び』、『読書世論調査』などは1955、1956年当時の出版物であり当時の雰囲気を感じられますが、悪書そのものの経緯を扱ったものではほぼほぼなくそもそも焼いたという記述はいずれもありません。ちなみに『児童読者の研究』を見ると『鉄腕アトム』の人気は断トツです。

【雑誌類】
出版ニュース』  1955年6月中旬号、6月下旬号、7月上旬号、12月中旬号
『鋭角』 1955.9.1~1956.11.24 『学校図書館』12月号 「特集 悪書追放運動をめぐって」 1963
『国民』「猥本や悪書の追放に効果をあげた母親たち」 1955
『學鐙』「惡書は良書を驅逐するか」 1955
図書館雑誌』悪書追放運動の日誌 1964

 『出版ニュース』は書評や出版関連の情報を扱う機関紙の様なものですが、何分古い資料とのために利用できる図書館では欠号も多かったですが、上半期や1年を振り返るという特集で悪書追放に触れられています。ただし、何れにおいても焚書までは扱っていません。
 『鋭角』は悪書追放運動を受けて編集者たちが集まって作られた1955年9月創刊の機関紙であり、故に悪書批判に対して強い反論を幾度となく行っておりますし、手塚治虫も参加する座談会なども開かれています。焚書に関する件もいくらか記述がありますが、選挙期間中に焼かれたという記事はありません。また悪書追放運動のピーク後に創刊となっている為に焚書がされていた時期とタイムラグが存在しているのが欠点です。あとこれは余談ですが『鋭角』はマンガ史的にも貴重な資料で、当時のマンガ界がどの様なものだったのかしれて読み物としても面白いです。値段は張りますがご興味があれば図書館などでどぞ。
 その他、悪書関連の記述がある雑誌を見ましたが、選挙関連のものはありません。ちなみに『国民』の「猥本や悪書の追放に効果をあげた母親たち」によるとやはり当時の価値観としてはワイセツ本がその対象で、後々マンガに対象が移っていったことが知れませす。

【大矢壮一文庫雑誌検索】
見当たらず

 期間指定で1955年近辺に絞って「悪書」、「不良雑誌」などなどのそれっぽいワードを使用して調べましたがその様な記事はヒットしませんでした。期間指定を外すと別の時代のがヒットするので検索の仕方が悪いわけでないと思うのですが、その時期に悪書追放記事が一つもないとは思えないで少し訝しむところもあるのですが、とりあえずないです。

【論文類】
竹内 美帆『美的陶冶としてのマンガ 美術教育、表現論、テクスト分析

【その他】
青少年条例と自主規制 - 日本書籍出版協会


1955年近辺の悪書追放運動について

 この時期の悪書追放運動のピークは竹内オサムによれば1955年4~5月とされています。4月に読売、朝日などがキャンペーン報道的な物を仕掛け、そして5月には「母の会」などによる「悪書追放大会」が開かれ運動が活発化します。また1956年になると『鋭角』などでの議論はあるものの社会的には一応の落ち着きは見せており、読売新聞は記事などで運動を盛り返そうとしているくらいです(読売新聞1956.1.16「悪書追放運動をもりかえす」/1956.1.18社説「悪書から子供を守ろう」)。
 故に「1955年2月27日投票」、 「1956年7月8日投票」というのは悪書追放運動のピークとは何れもずれています。ただ新聞記事上で確認できる雑誌が焼かれたのは1954年からですし、1956年以降もまだくすぶっている時期なので焼かれる可能性はありますが、ただしかしながら「(選挙戦で)焚書だとして大きな社会問題」は確認書籍でいずれも未記載な様に「大きな社会問題」になっているとは到底見受けられません。別に選挙戦きっかけで盛り上がった社会問題でもなければ、選挙きっかけで何か変わったとも当時の記事などからは一つも感じられません。

 なお「悪書追放運動」は当時『鋭角』において新聞が問題を先鋭化したという批判がされています。上記の読売新聞は顕著ですし、朝日新聞もある記事に対して事実誤認だと指摘したりしています。悪書追放自体、当初はエログロ雑誌が追放対象であったにもかかわらず児童雑誌へと批判対象が拡大しています。これは赤本などの時から批判対象ではあったものの、新聞上で青少年犯罪増加と児童雑誌内容に結び付けた記事などがあり、その影響は十分に考えられはします。ただ、この頃のマンガ業界自体にも粗製乱造、デッチ本*1、出版社明記がない怪しい出版物などの問題があったのは事実だったりしますが。
 またこの頃には教科書問題、新生活運動、純潔教育再軍備、青少年条例ヒロポン追放運動などなど、政府の教育や生活への介入を強めています。エログロ雑誌はワイセツ物として取り締まれますが児童雑誌は法的には無理。そこで警察との連携組織として「母の会」が動いている側面もあり、悪書追放運動は必ずしも市民の自発的なものとは言えず、行政の動きに呼応している面があります。

 何れにしても悪書追放運動には「一部の女性が」とは決して言えない背景があった事には留意が必要です。悪書批判側の論壇で声をあげていたのは主に男性でしたし、焚書については批判的な「子供を守る会」も男性が多く見受けられますし、賛助の声をあげる行政側の人間も男性です。少なくともこの運動に関して、運動主体を性別によって切り分けるのは甚だナンセンスです。そもそも男性が運動に反対しいてた女性だけの運動ならばここまでの社会問題になってないかと。


焚書、マンガ処分に関する記事について

 以下では主に焚書、マンガ処分に関する記述をあげていきます。

1)朝日新聞1954.7.17 夕刊

不良雑誌を焼く 赤坂少年母の会
子どもたちの目に触れさせる!と不良出版物を各家庭から集めて焼き捨てた母親たちのグループが、今話題になっている。東京都港区の赤坂少年母の会で、見制に園舎に悪い影響を与えるエロ、グロ雑誌を追放しようと会員三千人が結束、見ない、買わない、読まないの”三ない運動”を起し、まず私たちの身の回りからと立上がったのがさる(1954年)五月の青少年保護育成運動の期間中だった。三十五冊焼いたのが手始めだったが、以来会員たちの積極的な”供出”が続いて現在までにおよそ五百冊にのぼる雑誌、単行本が煙とともに処分された。

 おそらく新聞上で初めて悪書*2が焼かれたという記事になります。記事を見ればわかる様に1954年時点では「母の会」の標的はエログロ雑誌がメインであり、マンガではありません。ただ、例えマンガでなくともこの記事によって少なくとも1954年5月~1955年2月までに500冊焼かれている事は確認できます。これが1955年の追放運動まで続いている事は想像に難くないでしょう。
 なお「見ない、買わない、読まない」の「三ない運動」ですが、当時の住宅環境下では子ども部屋などあろうはずがなく、親と寝室を子どもと同じにする状況下で大人がエロ雑誌などを持ち込むと子どもが読んでしまうという事から、大人に対してのスローガンという側面が強いともされています。


2)読売新聞1955.5.8 夕刊

悪書五万冊ズタズタ  悪書追放
  “悪書追放”にたち上がった東京母の会連合会のお母さんたちは「きょうの私たちの日を意義ある仕事で…」と朝から都内一斉にリヤカーや荷車をひいて各家庭にしまいこんであるエロ本、あくどいマンガや少年少女雑誌類を集めて歩いた
 五十支部余り約三十五万人もの会員をもつだけに“供出”された本の数もおびただしく神田母の会、三河島母の会、小松川母の会などうす暗い午前六時ごろからタスキ、エプロン姿でとび回り正午ごろまでには各支部長宅側に約五万冊の“悪書の山”が築かれた。そのままクズ屋や古本屋に売ったのではまた売りさばかれるとお母さんたちは本が運ばれるそばから切断機で刻みコマ切れにしてからクズ屋に渡すという慎重さ。宮川母の会連合会会長も「これは母の日に子供たちに贈るお母さんたちの最大のプレゼント」とほほえんでいた。

 悪書追放運動で最大の処分数が記録された記事です。悪書追放運動ピーク期であり、読売新聞1955.5.1 朝刊「今日から”悪い本”追放運動 討論会やら戸別回収」、読売新聞1955.5.6 「”根気よくやろう” 悪書追放お母さん大会を開く」という様に読売新聞上*3で活発にその動きが見て取れます。なお、読売5月6日の記事は「悪書追放大会」の事であり、この大会には当時の都知事及び警視総監が参加しています。
 あとこれは余談ですがwikipediaでは長岡義幸「マンガななぜ規制されるのか」を参照して「約6万冊の雑誌やマンガを焚書するまでになった」と記述されていますが、当時の記事では「5万冊がコマ切れ」であって、少なくとも「焚書(焼き捨てられた)」ではありません。長岡、及びそれを引用したwikipediaの誤りです*4。「焼く」も「コマ切れ」も実質ではそんな変わりはしませんが。


 以上の二つで1955年近辺の三大新聞記事における悪書焚書/処分の記事はおしまいです。他にはコラムの中で「焚書」は如何なものかとチクリというものが1つだけ確認できますが、その程度の数しか焚書系の記事はありません。

 次からは新聞記事にはなっていない部分での焚書に触れた記述です。

3)うしおそうじ手塚治虫とボク

白昼堂々の焚書 子供漫画化への攻撃は五月になってもまたづついた。(中略、悪書追放大会、6万冊裁断の記述)、あるいはまた大阪では、母親たちが子供から取り上げた漫画雑誌や別冊漫画を、初夏の中野島公園広場に山と積み上げて火を放った。白昼堂々の「焚書」である。

 以上の様に大阪で大々的な焚書があったと記述しています。ただし、読売、毎日の全国及び地方版、朝日の全国版にはその様な記事はありません。うしおそうじ氏の記憶違いではない限り、記事になるほどの出来事ではなかった模様です。

4)『鋭角』1955.11.25

この(PTA全国)大会が終わってから、朝日新聞の「ひととき」に投書した黒沢たけさんに会って、子どもの読みものについて話した(中略)この地区(熱海)でも、例の悪書追放がやかましかった頃、母の会が悪書を集めて焼いたそうである。

 という様に「この地区でも集めて焼いた」という文面があり、焚書の様な行いが各地域で自主的に焼いていたような記述が見受けられます。新聞記事にはならないほどだが、運動盛んな時期(春から夏頃まで)に各地域の小規模な出来事として焚書が行われていたことをうかがわせます。

 以上の2つで新聞記事以外での焚書関連記述は終了です。『鋭角』の記事からもっとあった事はうかがわせますが、とはいえ新聞記事になるほどの象徴的出来事はあまりなかったように見受けられます。


焚書事件

 1955年のこの焚書騒ぎはのちに「焚書事件」として語っている場合があります。以下からは「焚書事件」について記述されている部分を抜粋します。

学校図書館「悪書追放運動の諸問題 -神崎清先生にきく-」1963

鈴木 その俗悪マンガの追放運動で、例の焚書事件というものがありましたが……
神崎 本を焼いたというのは、記録されているものとしては、赤坂と荒川区の婦人会ですが、一種の母親ヒステリーのようなもんでしょう。新聞記者に聞いたんですが、マンガと名のつくものはよいものでも-例えば竹取物語といった名作マンガまで焼いてしまったという、一種の興奮状態にあったわけです。(中略)最初は、悪書を持ち寄って焼いたりなどしましたが、だんだん思いなおして、そういう本を屑屋に売ってお金にかえ、学校図書館か何かに寄付しているということを、新聞で読みました。


『鋭角』1958.3.25

大宅壮一氏のデタラメ
(中略)全国の母親たちが漫画本を集めて焼いたことがあるとか(中略)焚書事件-というのは確かにあったが、その真相はこうである。昭和二十八、九年ごろ内閣にある青少年問題審議会で、青少年に害のある「エロ本、エロ映画麻薬」を駆逐する方針をたて、警視庁でも取締りに乗り出した。それに協力したある婦人団体が、エロ本やエロ雑誌などを集めて、東京で焼いたことがある。中にはパンパンの情事や、犯罪を扱った漫画本もあったかもしれないがそれは大人向けのものである。漫画本を全国から集めたなどど、デタラメもほどほどにしてもらいたい

 学校図書館の方で神崎(日本子どもを守る会副会長)はマンガが主に焼かれたといっていますが、鋭角では焼かれたかもしれないが、それは主ではないと語っています。双方ともに当事者の談ではありますが、鋭角の記事を書いた指方龍一は編集者として悪書追放に手厳しい反論を書いた側の人間であり、マンガ業界側の当事者です。1958年の時点で書いている事から信ぴょう性としてはこちらの方が高いと考えます。

 いずれにしても「焚書事件」の語られ方は赤坂母の会の行動を念頭においた事件であり、全国的なものではありません。またいずれにしても選挙には一切関係ありません。
 さて、以上のことから焚書については

焚書はあったが数は少なかった
②各地で行わていたが新聞記事にするほどの事ではなかった

の何れかだとは考えますが、母の会の行動は継続的に行われていたと考えるのが自然であり、②でしょう。各地で小規模且つ、散発的に行われたと考えるのが妥当かと。故に「何が」、「どこで」焼かれたのかを探るのは困難です。ちなみに「母の会」が継続的に運動を続けている証左として、朝日新聞1963.11.7「母の会”悪書追放”の12年 回収、八万冊超える」で確認できます。なお、この「南千住母の会」は1951年から有害図書を回収、当初は焼き捨てていた(後にクズ屋へ)とあります。新聞記事にならない活動をしている団体があったという事でもあり、継続的な活動も続けていたという事です。あと1963年も焚書の時期であり、時事通信の写真であったり、埼玉県でも古本屋が県知事参加の下に悪書を焼いています(朝日新聞朝刊1963.12.1*5)。

で、結局選挙中に焼かれたの?

 始めの方に書いたように不明です。ただ少なくとも当時の雑誌や1990年代以降に書かれた書籍においても未記載の出来事なことは確かです。
 以上の事から考えられる可能性は、1955年、1956年選挙期間中に

焚書はなかった、元情報がデマ
焚書はあったが、報じられるほどの規模、ニュースバリューはなかった

の何れかだと考えられます。個人的には②ではなかいなと。報道で大々的に焚書やマンガ処分が報じられたのは2回だけですが、『鋭角』でも焚書が語られています。また1963年と後の報道ですが母の会は継続的に行動していたことは確認でき、報道にならないレベルの地道な活動をしていた可能性は高いです。散発的に、かつ継続的にマンガに限らない悪書を燃やしていのではないかと。
 ただいずれにしても元ツイートの方の言う様な「選挙期間中の焚書が大きな社会問題となった」はデマです。「悪書追放運動」が大きな社会問題なのであり、悲しいかな焚書それ自体は大きな社会問題にはなっていません。


 「本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる」って前に、曖昧な情報に踊らされるものも人を焼くよなー、とか思いながら、おわり。



■お布施用ページ

note.com



*1:漫画家ではなく器用なものに何冊かの売れそうな見本を示してなるべく刺激を強くデッチあげさせた本

*2:当初は名称が定まらず「不良雑誌/出版」、「俗悪」などの呼び名の場合があります。読売新聞が「悪書追放」というキーワードを使ったことから以後「悪書」が定着します。

*3:朝日新聞毎日新聞は5月期の運動を記事化していません

*4:「6万冊」については、その年の別の記事に6万冊と書いてある事もあったりして、冊数については「諸説」レベルかと

*5:1963年のことについてはそこまで触れませんが、山梨県が発端、そして埼玉県のこの焚書によってさらに話題を呼びます。

フィリピンの対日感情について

nou-yunyun.hatenablog.com

 っていう記事の派生です。上記記事は90年代のフィリピンの教科書から第二次世界大戦時期の日本はどう書かれていたのかというものですが、この記事は所謂「親日」的な現在のフィリピンは何処から端を発するかというものです。そもそも「親日」、「反日」という安易な二分法、反日である場合にはどちらがその責を負うのかみたいな不毛な議論もありますが、そこら辺は脇道なので置いておきます。

 前提としてこの記事は太平洋戦争におけるアジア「解放史観」へのカウンター的要素を含みますので、まずフィリピンの独立周辺の過程を記述しておきます。

◆戦前の状況 独立への動きなど

 1936年にアメリカでダイディングス・マグダリー法(フィリピン独立法)成立。10年後の完全独立を約束され、フィリピンにコモンウェルス政府(第一共和国)が樹立。マヌエル・ケソンが初代大統領となる。
 フィリピンではこの時点で欧米的教育を受けた政治経済エリートが形成、議会政治も学ばれ、ナショナリスタ党という政党も結成されています。この時点では一党体制ですが、少なくとも独立に向けた民主主義的な仕組みが構築されていきます。また、実際の政治に対しても、

すでに1920年代はじめには政府官吏の95%がフィリピン人となり,自治政府発足後は,米国は大使館規模の高等弁務官事務局をもつにすぎず,政府の民族化はほぼ完成していた。
(中野 聡『アジア太平洋戦争とフィリピン』 )

という様にほぼほぼフィリピン人で政治が出来る体制になっており、独立後の政治体制基盤が完成しています。反米で即時独立を求めるグループの反乱*1なもどありましたが、この体制が維持されたまま日本がフィリピンへと侵攻する事になります*2
 この時期の日本はその後の第二共和国大統領となるラウレルを始めとしてフィリピンとの交流を深めています*3。ケソン大統領は1937、38年に訪日し、

宇垣大臣「ケソン」比島大統領会談要旨
1938.7.8. 於 大臣官邸
大臣....唯一言茲ニ申述度キハ、比島カ完全ナル独立ヲ為ス暁ニ於テハ中立保障ノ問題モ漸ク世ノ中ノ問題トナルヘク、其ノ際日本ハ極メテ好意的考慮ヲ加ヘテ善処シ度キ所ナルニ付、此ノ点ハ十分御含ミ置ヲ戴キ度シ
 
大統領....今回ノ旅行ノ結果日比間何等恐ルルモノナキヲ知リ甚タ愉快且ツ満足ト考フル次第ナリ....大統領任期終了(*註:1941年、実際には同年11月選挙で再選された)後ハ一比島市民トシテ自己ノ個人的勢力ヲ以テ日比親善関係ノ基礎ヲ固ムルニ終世ヲ捧クル心組ナリ....
(外務省記録L.1.3.0.2-9)
(中野 聡『史料集』)

以上の様な親善的な態度を表しています。宇垣大臣はここで”比島カ完全ナル独立ヲ為ス暁”と言っているのはコモンウェルス政府が独立前提政府であることを当然承知の上での発言でしょうし、逆にケソン大統領の親善さは不侵略への牽制ともとれるでしょう。いずれにしてもこの戦前のフィリピンや日本の状況を鑑みても「解放史観」は成立しえません。


◆戦中について

 戦中については短く書きますが、コモンウェルス政府のケソン大統領は日本とアメリカのうち、アメリカを選択してアメリカに亡命。ケソンは「国民の苦難を和らげるため努力せよ」と現地に残った政治家などに指示しており、現地住民や日本の傀儡政権として樹立されたラウレルを大統領とする第二共和国政府も必ずしも日本軍に協力的ではありません。日本統治下に出来た「フィリピン独立準備委員会」の頭文字である「PCPI」を皮肉ってもじり”Please Cansel Philippine Independence”(どうぞフィリピン独立を撤回していただきたい)というエピソードは日本統治とフィリピン人の意思の乖離を表す象徴的な話かと。
 被害として語られるものといえばバタアン死の行進、レイテ島、マニラ戦、従軍慰安婦憲兵、飢えetcがあり、フィリピン側の死者は約111万人とされています。特に象徴的に語られているのはマニラ戦。4週間に及び市街戦で死者は約10万人、日本軍によるものが6割、アメリカ軍によるものが4割とされています。
 それとフィリピンは日本統治前には輸出入は、

突出して宗主国への貿易依存度が高い反面,域内経済からは孤立していた(1936-40年平均で,米国への輸出依存度78%,輸入依存度67%;日,中,東南アジア向けは,あわせてそれぞれ9%,18%にすぎなかった。U.S. Congress, 79th 2d sess., Appendix to Hearings on S.1610, USGPO, 1946, p.220.)。
中野 聡『アジア太平洋戦争とフィリピン』

以上の様に約7割をアメリカに依存している体制であったため、日本統制下による「強制された自立」ではその依存体制が当然ながら瓦解します。この依存は植民地経済の弊害ではあるものの日本がその依存分をカバーできてきませんし、占領末期での民間食糧を略奪、現地住民の飢えにもつながる様な事例でしょう。日本の侵略統治はお粗末です。
 この時期の日本に好印象を持つフィリピン人はいないでしょう。

◆戦後 フィリピンからの批判や賠償などについて

 戦後すぐには投降した日本軍捕虜に向かって石を投げるフィリピン人という話がある様に戦後直後は非常に対日感情は悪いものでした。この影響はその後も続き、節目節目でフィリピン人による強い日本批判が見受けられます。例えば、1951年9月サンフランシスコ平和条約会議 フィリピンのカルロス・ロムロ大使

フィリピンは日本によって徹底して破壊され耐えがたい苦痛を与えられました。私は一人の人間として、フィリピン国民の日本への態度がこうしたことに伴う感情によって左右されない、とはとても言えないのであります
(太田 和宏ほか『日本とフィリピンにおける戦争に関する社会的記憶の比較』 )

例えば、東京裁判ではフィリピン政府から派遣されたデルフィン・ハラニーリャ

判決内容は甘すぎ、抑制効果もない。侵された戦争犯罪に見合うものでもない
(同上)

という様に厳しい批判の声をあげており、この頃の日本非難の急先鋒がフィリピンです。マニラ戦などは証言が多く、裁判資料としても多く使用されています。裁判上では強引な面もあって誤審もあったなどの批判点ありますが、とはいえ日本人側もこれらの声を聴きフィリピンの対日悪感情を認識しているはずです。
 また象徴的な話としては日本人を父親に持つ日系2世でフィリピンに残った子供の中には日本名をフィリピン名にして「身元隠し」をして非難を免れようとする事例があります。当時「日本」というものがどういう印象を持たれていたかを示しています。

 1956年には4年に渡る賠償交渉が成立、フィリピンは物的・人的被害は併せて80億ドルと試算しましたが、賠償額は5億5000万ドル、経済協力借款2億5000万ドル、支払期間20年に落ち着きます。なおこの賠償には当時の野党である社会党から交渉経緯などの批判点もありますが、その負担額の多さも批判されています。しかしながら当時の自民党は、

小滝彬
フィリピン側の方でこの程度で折れたということに対しては、これは満足しなければならない。フィリピン側のこのステーツマンシップに対して敬意を表しなければならないというように考えるものでございます。(中略)当時八十億ドルというものを要求しておる。事実フィリピン側が受けました損害を考えますときに、こうしたフィリピン側の要求も、全然全く根拠のないものではないということも、当時の実情を知っております私は、これを常に頭に置いておるのでありまして、大体妥当なライン
第24回 参議院 外務委員会 20号 昭和31年06月03日

という賛成答弁をしている様に当時を知る人々にとってはそのフィリピンの被害は自明のこととして受け入れています。この賠償自体には日本側の商売が絡まり、その後に東南アジアへの市場、ひいては日本の経済成長に寄与したという「賠償=商売」、フィリピン側ではその賠償を契機とした新エリート層の形成などの側面がありますが、とはいえこの賠償をしたという事実はフィリピン側にも根付いています。
 ちなみにこの時分のフィリピンは日本傀儡の第二共和国からコモンウェルス政府の流れをくむ第三共和国政府*4となりますが、戦後の選挙では対日協力した人間も選挙に勝利しています。これらは戦前の地元エリート層が日本統治下でも日本と抗日ゲリラいずれにも通じる等をしているという下地があり、その権力を維持、戦後にも一部を除けば崩れる事がなかったためとされます。つまりは対日協力の是非は選挙の争点にならなった。その極北が第二共和国の大統領であるラウレルが日本との賠償交渉においても前面に出てきており、交渉に影響力を持っていたという事例でしょう。
 1960年には「日比友好通商航海条約」が両国政府によって署名されるもののフィリピン上院では根強い日本への警戒心から批准されず、10年を超える「棚上げ」、1972年3月には上院は批准拒否を決議されています。この条約はマルコス大統領*5による強権で1974年に批准が行われますが、60~70年代前半にもまだ日本への不信があった事が伺えます*6

親日感情の情勢要因について

 何てかんじに6、70年代くらいまでは対日感情が悪いことは読み取れますが、何で対日感情が所謂「親日」と呼ばれるほどになったかというと、複数の要因があるとされます。

 まずは太田 和宏ほかの『日本とフィリピンにおける戦争に関する社会的記憶の比較』からです。

1)一般市民と日本軍の峻別
 フィリピンに戦争を持ち込んだのは日本「軍」であり、日本人(一般市民)そのものは悪くはないというものです。普遍的といえるであろう、戦争=悪という価値観に基づいたものといえると思います。ただ、つまりは「軍」が悪いのであり、日本軍を擁護するような論調があれば、この許しは瓦解します。また似た様なもので日本人と日本「国」を分ける方もいます。

2)戦後賠償が完了している
 賠償がされ、けじめは着いたからというものです。ただし戦争経験世代には賠償が不十分であり、特に個人レベルでの賠償がされていないとする方々もおり、賠償が果たして完全なものであったかという議論はあり得ます。また賠償が日本の商売に結び付いていたことを鑑みれば、その点での批判もあり得るかと。

3)戦争経験を学校などで語る場の少なさ
 上記論文では戦争経験世代の5人に聞き取り調査をしていますが、何れも学校などの公的な場でその経験をしゃべった事はないといいます。これについてはサンプルが5人と少ない為に、その5人にそういう場がなかっただけの可能性もありますが、語りとしての記憶の「継承」は避けている可能性はあるでしょう。

4)博物館の展示、戦跡などでの被害への言及の少なさ
 フィリピンでの戦争に関する展示は当時のフィリピン人の勇気やその当時の生活などに着目する点が大きく、日本の侵攻や被害に関する情報が少ないとしています。歴史的経緯、テーマ性は薄く、歴史の継承性も薄そうに見受けられます。ネット上のマラカニアン博物館 ではマニラ戦に触れたりはしていますが、これが実際の博物館でもなされているかは不明です。
 また原爆ドームなどを始めとして戦績は記憶の継承に役立ちますが、フィリピンにおいては戦跡は観光地化などはされず、保存もそこまでされずに放置気味だとされています。シンボルになったであろう戦跡の放置は忘却には役に立つでしょう。

5)キリスト教徒としての「許し」
 フィリピンはキリスト教国ですが、それ故に「許し」をしたことを誇る大学生の話が出ています。後述する「祈念碑メモラーレ・マニラ1945」においてもキリスト教が関わっていますし、宗教的要因も無視できないと考えます。

6)経済関係などの「現在」の重視
 人の行き来の多い隣国ですし、賠償の話にも絡みますがODAなども多額、種々の支援があって、現在が良好な経済関係であるならというものです。また、そこにはフィリピンが戦後に共産主義ゲリラ、マルコスの独裁、クーデター、大地震などなどの困難があった為に日本の経済支援を受けるのが「得」であったという面も指摘されています。また現在においても多数の事件などが起こっている際に過去の問題をどこまで語るのか、という面もあるかと。

7)植民地メンタリティの存在
 フィリピンは16世紀からの4世紀の400年間植民地支配をされており、日本はそのうちの3年間に過ぎないという相対的な視点です。この考えを述べたのはフィリピンの大学生ですが、若い世代である程に教科書で学ぶ際には日本統治下は数ページの歴史でしかなく、そういった忘却が訪れている事が伺えます。勿論、若くても肉親に聞くなどしている人間は違うのでしょうが。

 以上で太田ほかからの引用は終わりです。賠償などは分かりやすいですが、注目すべきはフィリピンにおいては記憶の継承がそこまで重要視されていないという面が伺えます。博物館、戦跡、教科書の問題など。日本もそうですが直接的に経験する世代以外は何らかの手段で情報を学ばなければ、それについての感情を強く持ちえません。フィリピン政府が作為的に記憶の継承を疎かにしているのかは不明ですが、少なくともフィリピンにおける「忘却」が親日へと繋がっている可能性はあるかなと。
 さて、次は中野聡HPからの引用です。

8)遺骨収集による人との交流
 1960年代半ばまでは両国の人的交流は低調でしたが、1964年の海外渡航の自由化(外為規制の緩和措置)によって外国旅行者が増え、それはフィリピンにも当てはまります。またフィリピンでの日本の戦没者は50万とされており、戦没者遺族や旧軍人を中心とする生還者が遺骨収集や慰霊の旅が行われます。これによってかつての加害者側と被害者側の直接的な交流が増加します。この交流の際には日本側では謝罪の言葉を用い、フィリピン側はそれを許すという国民間での「謝罪と許し」の関係が構築されます*7
 慰霊の旅に出た日本人の多くはフィリピンで厚遇されたという経験談が多くあります。後には遺骨、遺品売買などで問題となった経済的な観光要素としての「慰霊の旅」をもてなすフィリピン側、排他ではなく厚意を示す事により互恵的な関係構築を目指したという点もありましょうが、とはいえこの60年代半ば程から市民レベルでの対日感情の変化は見受けられます。

9)キリノ大統領の恩赦や皇太子・皇太子妃夫妻の訪問
 象徴的に語られるのは1953年のキリノ大統領による服役中日本人戦犯の恩赦・減刑と日本送還、それと1962年の日本の皇太子夫妻の訪問です。
 キリノ大統領の話は有名で自身の家族も日本軍の被害にあったものの戦犯に恩赦を与えたというものです。これにはキリスト教的価値観や恩赦の見返りとしての経済支援なども考えられますし、またこの時点ではフィリピン国民の反対があった事には留意が必要です。
 皇太子夫妻訪問の際には10万人の市民によるお出迎えや「平民の妻 美智子」に対するミチコフィーバーといえる好意的感情、噂されたデモの未遂など、確かに終始歓迎ムードといえそうです。現地の新聞も概ね好意的であり、成功裏に終わった訪問と言えます。ただし新聞には好意的な態度だけには終わらず、戦時を振り返る論調も存在します。また「朝日新聞」1962年11月10日付の記事に「もし美智子妃がたのむなら、通商条約も批准してあげよう」と言ったフィリピンの国会議員が報じられていますが、この通商条約が10年以上後に締結されたことを鑑みる必要があります。一つの象徴的な事例であるには違いないですが、根本的な転換ではなくあくまでも「象徴的事例」であったことに留意が必要です。この訪問時に皇太子による謝罪の言葉の様なものもあったとは言い難いことにも。

10)数々の謝罪の言葉
 結構謝罪の言葉が述べられてます。

・フィリピンを訪問した中曽根首相

過去の戦争で貴国と貴国の国民に多大な迷惑をかけたことは極めて遺憾と思い、深く反省している……みなさまの友情と寛大さが温かければ温かいほど日本人はさらに深い反省と戒めを心がけなければならない
(『朝日新聞』1983年5月7日、朝刊)

・アキノ大統領が訪日した際の昭和天皇

「日本人が第二次世界大戦中にフィリピンに対してかけた迷惑について、おわびを言いつづけ、(アキノが)そのことは忘れて下さいと言ったが、天皇はそれにもかかわらず、日本人がフィリピンに強いた苦痛を日本が償うことを望んでいると述べた」
(Washington Post, November 11, 1986, p. A23.)

など、首相や天皇による謝罪発言は大きいでしょう。また日本ではほぼ話題にならなかったそうですが、50周年式典時には、

・ラモス大統領と同席した日本大使館代表(松田大使の代理)が「深い悔悟(deep remorse)」という言葉を使って謝罪。新聞記事にもなる。
・日本のカトリック教会を代表して白柳大司教が謝罪。

などなど。幾度かの立場ある人の謝罪が成されています。これらの謝罪の数々は重要ですし、蒸し返す様な言説も(おそらく)なかった*8ことも対日感情の好転に役立っているでしょう。


◆最後に

 フィリピンの対日感情の好転は複合的要因が考えられます。謝罪の言葉、経済的要素、植民地の歴史、宗教的観念、人的交流の増大、記憶の継承のおざなりさ、時代による忘却などなど。何が決定的要因かは私には分かりません。ただ最後に「忘却」についてを少し。

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 写真はマニラ戦のモニュメント「祈念碑メモラーレ・マニラ1945」です。以下がそこに刻まれた碑文です。

「罪なき戦争犠牲者の多くは名も分からず、人知れず共同墓地に葬られた。火に焼かれた肉体が廃虚の灰と化し、墓すらない犠牲者もいた。この碑をマニラ解放戦(四五年二月三日~三月三日)で殺された十万人を超える男と女、子供、幼児それぞれの、そしてすべての墓石としよう。われわれは彼らを忘れておらず、永遠に忘れはしない。彼らが、われらの愛するマニラの神聖な土となり安らがんことを願う」
日刊まにら新聞『祈念碑メモラーレ・マニラ1945 罪なき戦争犠牲者の墓石

この碑は50周年を記念してつくられたものです。マニラ戦がもたらした記憶は大きく、この件をもってして原子爆弾を正当化に近い論調で語る方もいますし、世界的に語られない事への思いを持っている方もいるといいます。
 この碑自体は日本を糾弾するものではなく犠牲者を追悼するものです。戦後の補償問題についての問題は未だすべて綺麗に解決したとは言えないものの、とはいえ今のフィリピン人の多くは戦争責任ついて殊更に日本を追及するという事もしないでしょう。ただそれはあくまでも日本が侵略者、加害者であるという前提があるからです。日本と同じくフィリピン社会でも時代の経過と共に忘却が進んでいますし、その傾向は今後もそのままでしょう。

 ただこの前提、時代の経過と「忘却」の上で成り立つ関係は薄氷です。特に日本の教育においては東南アジアに対する戦時下についての教育は東アジアと比較すれば相対的に薄いのは明白ですし、またメディアなどの特集でも薄くなりがちな点です。この薄氷の上の関係はその物事について言及しなければ早々に割れる事はありませんし、言及できる能力があれば一つの「謝罪と許し」という形式が成り立ち、信頼関係構築には役立つでしょう。
 が、です。「日本がフィリピン(東南アジア)を解放した」などという恥知らずの言説をしたらその薄氷はもろく崩れます。その後にはフィリピン側かの批判は避けられないでしょう。特にその様な価値観を持った一定の地位にいる人間、政権与党などの政治家が発言すれば問題化する可能性は高いでしょう。昨今のネット右派界隈やそれに呼応する一部政治家を見れば可能性は無きにしも非ずです。
 「忘却」は便利です。しかし、その忘却は場合によっては歴史修正主義による上書きにあう可能性もあります。なんで最低限の知識くらいは持っておきましょう。勿論、日本に耳ざわりと都合の良い妄想ではないものを。


【参考資料】
中野 聡『アジア太平洋戦争とフィリピン
中野聡『和解と忘却――戦争の記憶をめぐる日本・フィリピン関係の光と影――
太田 和宏ほか『日本とフィリピンにおける戦争に関する社会的記憶の比較
津田 守『日比関係の50年を振り返る~人流のさらなる進展に向けて
吉川 洋子『対比賠償交渉の立役者たち:日本外交の非正式チャンネル
早瀬 晋三『アキヒト皇太子・天皇のフィリピン訪問 -『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』補論-
飯島 真里子『フィリピン日系ディアスポラの戦後の「帰還」経験と故郷認識

フィリピンを知るための64章 (エリア・スタディーズ154)

フィリピンを知るための64章 (エリア・スタディーズ154)

*1:反乱組織のリーダー「ラモス(Benigno Ramos)」はその後に日本に亡命、戦争時に帰還しガナップ党を結成、積極的対日協力勢力となります。

*2: 政治体制が構築されていたために侵略後にも日本軍は新たに体制を刷新するのではなく、その体制を利用することを選びます。

*3:これは民間も同様で多くの日本人がフィリピンに出稼ぎに行き、フィリピン人雇用者の下働きとして働く日本人なども多くいました。なお、移民者数が多い為にフィリピン側が移民数制限をしたことによる摩擦も生じています

*4:今のフィリピンはマルコス政権を経ての第五共和国になります。

*5:マルコス大統領は議会の承認のないまま日本企業のフィリピンでの営業活動を認めたりしていますが、日本のODAの贈収賄汚職問題などの金銭的な問題、「マルコス疑惑」があります。なので別にマルコスが親善のために批准したという訳ではないでしょう。

*6:戦争の記憶以外にも経済侵略などの懸念もあったでしょう。ただ、ここら辺は資料が見当たらずに上院議員が具体的に何に反対したのかというのは良く分からないところがあります。大筋は日本への不信なのも変わりようもないでしょうが。

*7:全般的には友好でありつつがなく慰霊の旅が終わった事が多い模様ですが、ダバオを訪れた日本人の墓参団が宿泊していたホテルにナタを持った事例や慰霊碑が壊された事例があります。必ずしも好意一辺倒で終わったわけではありません。

*8:日本の歴史教科書が問題になった際、フィリピン側にもそれを問題する声があった様ですし、フィリピンの感情を害する言説が皆無だったわけではありません。