電脳塵芥

四方山雑記

「悪書はこうして出来る -無責任出版の世界-」

 悪書関連の記事はこれでひとまず終了しておきますが、最後に『鋭角』にあった「悪書はこうして出来る -無責任出版の世界-」の紹介でも。バイアスも感じられますが当時の出版状態が知れる貴重な証言かと。なお、一つだけ注意は出版界にとっての「悪書」であり、必ずしもこれらの悪書が追放対象であったわけではありません。
※誤字脱字ご容赦

悪書はこうして出来る -無責任出版の世界- 西田 稔
悪書とはとんな出版物を言うのか
 悪書から子どもを守る運動は、これまで各方面から起され、これは改良向上するための、または追放するための会合討議も、たびたび重ねられて来ているが、こうした運動が完全に目的を達成させるということはなかなか困難である。今日の現状を見ても、悪書追放の正論が高められていながら、いわゆる悪書といわれている出版物が、ぞくぞく生産されていることがそれを証明していおう。
 こうした運動は、うっかりすると理想に傾きすぎたり、対策討議が「子どものため」から、いつの間にか子供の存在を忘れてしまった「大人同士の論議」になってしまい、その蔭には、大人自身の利害的感情のかげすらただよっているように、感じられたりすることもある。
 したがって、悪書の実態(正体)をつかむ努力が不足してしまう。悪書と言われている出版物の内容はもちろんのこと、どこでどのようにして生産され、どんな販路で広められているか、これにたずさわっている人々の生活態度とか、社会観などを掴まないうちに、運動を開始するという盲点が生じるわけである。
(中略)
無責任出版物の現状と温床
 無責任出版物は、世にいう俗悪な絵本と低級な漫画本に分けられ、主として赤本屋と呼ばれている出版社から売り出されている。ところが、児童雑誌の内容や付録が問題視される席上でも、赤本屋の出版物が論議の焦点にされるようなことはないようである。これは、今日の児童雑誌が、種類、発行部数ともに多くて、赤本屋の出版物がこの蔭にかくれているせいもあるが、赤本屋の組織や出版物の失態が掴まれていないということに大きな原因がある。
 赤本屋と呼ばれている出版社は東京、名古屋、大阪に固まっているが、名古屋で出版されているものが最も低級粗悪であり書店、(小さな)以外の駄菓子屋とか玩具屋へまで販路を広げている。
(中略)
 このほか、識者たちや取締り関係から見落とされているものに、宮城広場とか、靖国神社とか、上野や浅草などで、みやげ品として立売りされている「クズ本」がある。これは、十五円絵本の出版社から親分格の業者が刷りヤレ(クズ)を買い集めて、表紙だけ絵本らしくつくった内容のつぎはぎな絵本である。(例えば、上半身が牛で下半身が馬になったりしている)ビニール袋入り十五冊百円の絵本は、表紙を三十円の絵本にして、あとはこのクズ絵本を入れてあるよく売れているものに問題化されないのは、安かろう悪かろうだとあきらめて、世に訴えられないからであろう。
 現在の漫画本は、百二十円のものが多く出版されていて、百四十種類ほどある。つぎが百円のもので百二十種類ほど、六十円のものは児童雑誌の付録に押されて少なくなったが百種類(一時は二百四十七、八種類あった)、十円豆漫画*1が九十五、六種類で、つぎが百五十円のものが六十種類あまりという順になっている。(豆漫画は一般の漫画本四分の一の大きさである)
 ほとんどの漫画本が、定価より安く売られているのは(定価六十円のものが二十円から三十円売)卸掛の安い赤本出版物の特徴である。絵本は売れない時期があっても(七月、八月)があっても、漫画本の売れない時期というものはない。これらの出版物は、紙質も印刷も粗悪なものが多くて、内容は、冒険探検、活劇探偵、時代劇、少女歌手や女優の出世物語、ラジオや映画で子供たちの人気を拍したものであったが、最近は宇宙を舞台にしたものや、柔道モノや、時代ものが多く出回っている。
 こうした無責任出版物がつぎつぎ出版されているのは、金儲け主義のもぐり出版物や、資金繰り目的に別社名で無責任なものを出版している出版社が後を絶たず、あくどい色彩や俗悪な内容でも定価が安いためによく売れているからである。また、この種の絵本や漫画本は買切制度で、出版界の常識になっている返品がないから、その点が出版社側にとって強味であり、無責任出版物が根絶えぬ原因ともなっている。最近になってこうした出版社から、児童向の辞典類や少年少女読物が出版されはじめているが、いかがわしい辞典類が定価の安いために売れていることを恐れる。なお、以上の出版物は一流店の出版配給会社では扱っていない。
(中略)
分類と業者たちと選ぶコツ
 現在出版されている絵本と漫画本を分類すると、A類-一流出版社からだされているもの、B類-赤本屋と呼ばれている出版社から出されているもの、C類-ある出版社から資金繰りが目的で別社名で出されているもの、D類-住所も社名もデタラメなもぐり出版社から出されているもの、と四種類に分けられる。
 俗悪なえほにゃ漫画本がつぎつぎちに出版される第一の理由は、編集や出版技術がたやすく、しかも生産費が安くてすむからである。絵本の場合に、絵を一流画家に依頼すると、文も一流の作家に書いてもらわなければならない。漫画本の場合も編集技術が必要なるので、いきおい生産費がかさんで出版されるものの定価がたかくなる。ところが、無責任出版物に属する絵本や漫画は、原画と用紙さえあれば、あとは製版屋と印刷やまかせにするので簡単にすむ
 このような出版業者は、儲け主義の非文化人なので、利潤のみ考えて紙質を落とし粗悪な印刷インキを使用する。一般に定価二十円から四十円の絵本は、原画と製版(写真製版)料だけで十五、六万円かけているが、定価十五円の絵本は、原画と製版(描版)料は三万円前後ですませてしまう。
 無責任出版物は、出版配給会社では取扱わないので、特殊な卸問屋や仲次から小売業者(書籍店)、露店業者、立売人などへ卸されている。この卸問屋の中には、昨日までパチンコ屋などやっていたものもいて、戦後に闇物資を扱っていたものも多い。また高利貸で儲けて副業にやってきた者もいる。
 児童文化などは字でも見たことがない、という業者が多いのである。この業者たちは、赤い表紙でないと売れない。という考えを一様に強く持っている。出版社側はそれを意識して色彩を毒々しくしてるわけである。卸問屋や仲次の多くが、儲け主義で教養も低く自分の好みに沿わない絵本や漫画本は取扱わないので、毒々しい色彩の絵本や、漫画本がハンランしてしまう。業者が商品に対する良心とか研究心を全く持ち合わせていないこと、アクドイ色彩でないと信じ込んでいることは問題である。
 こうした業者のほかに、セドリ屋といって店舗を持たない仲次がいる。やはり卸問屋や仲次と同じ程度か、それ以下の社会観念で無責任出版物を売りさばいている。
 したがって、俗悪絵本や漫画本を改良するためには、まずこうした配給網の改革と、卸問屋や仲次などに反省してもらうことが、先決問題である。つぎにC類とD類の出版物を発行している出版社にも反省してもらわなければならない。B類の出版物を発行している出版社も同じである。
 良いといわれている画家や作家は、赤本出版社など見向きもしない。画料や稿料が安いからである出版物が粗悪だからである。美しい花園には誰もが良く手入れをする。ているする甲斐もあるからであろうが、ゴミ捨て場を、進んで清掃しようという人は少ない。俗悪絵本や漫画本の改良されてない原因がここにもある。
 では、どうして悪書が出来るのか、売れるからである。これには経済事情も含まれているように考えられる。安い絵本や漫画本にに満足しなくとも、親と子がそれで我慢しなければならない厳しい現実が考えられる。
 そこで安い絵本や漫画本の中から、比較的無難のものを選ぶコツが必要となる。
①絵と文の作者名が表紙に印刷されてあるもの。
②裏表紙の奥附に電話番号の入れてあるもの。
③文に誤字がなく、背を綴じている針金がしっかりしているもの。
 但し、表紙絵と題名だけをかえたり、内容の前半分だけかえて新しく装ったり、旧本の一部を合本して新刊らしく見せているものもあるから、内容にも注意することが必要である。
『鋭角』1958.6.25
※元々は「教育じほう」に掲載されたものが鋭角に著者承諾の下に転載された記事です。

 今となってはこれらの「悪書」を見ることは叶わぬのだろうけど、むしろ読んでみたいなーっと。当然っちゃ当然ですが、時代的には現在以上に悪質な業者や即興書き手が多かったのは事実でしょうね。

*1:豆漫画が悪書扱いされたという話がありますが、どこまで普通の漫画と比べてなのかは不明。