電脳塵芥

四方山雑記

フィリピンの対日感情について

nou-yunyun.hatenablog.com

 っていう記事の派生です。上記記事は90年代のフィリピンの教科書から第二次世界大戦時期の日本はどう書かれていたのかというものですが、この記事は所謂「親日」的な現在のフィリピンは何処から端を発するかというものです。そもそも「親日」、「反日」という安易な二分法、反日である場合にはどちらがその責を負うのかみたいな不毛な議論もありますが、そこら辺は脇道なので置いておきます。

 前提としてこの記事は太平洋戦争におけるアジア「解放史観」へのカウンター的要素を含みますので、まずフィリピンの独立周辺の過程を記述しておきます。

◆戦前の状況 独立への動きなど

 1936年にアメリカでダイディングス・マグダリー法(フィリピン独立法)成立。10年後の完全独立を約束され、フィリピンにコモンウェルス政府(第一共和国)が樹立。マヌエル・ケソンが初代大統領となる。
 フィリピンではこの時点で欧米的教育を受けた政治経済エリートが形成、議会政治も学ばれ、ナショナリスタ党という政党も結成されています。この時点では一党体制ですが、少なくとも独立に向けた民主主義的な仕組みが構築されていきます。また、実際の政治に対しても、

すでに1920年代はじめには政府官吏の95%がフィリピン人となり,自治政府発足後は,米国は大使館規模の高等弁務官事務局をもつにすぎず,政府の民族化はほぼ完成していた。
(中野 聡『アジア太平洋戦争とフィリピン』 )

という様にほぼほぼフィリピン人で政治が出来る体制になっており、独立後の政治体制基盤が完成しています。反米で即時独立を求めるグループの反乱*1なもどありましたが、この体制が維持されたまま日本がフィリピンへと侵攻する事になります*2
 この時期の日本はその後の第二共和国大統領となるラウレルを始めとしてフィリピンとの交流を深めています*3。ケソン大統領は1937、38年に訪日し、

宇垣大臣「ケソン」比島大統領会談要旨
1938.7.8. 於 大臣官邸
大臣....唯一言茲ニ申述度キハ、比島カ完全ナル独立ヲ為ス暁ニ於テハ中立保障ノ問題モ漸ク世ノ中ノ問題トナルヘク、其ノ際日本ハ極メテ好意的考慮ヲ加ヘテ善処シ度キ所ナルニ付、此ノ点ハ十分御含ミ置ヲ戴キ度シ
 
大統領....今回ノ旅行ノ結果日比間何等恐ルルモノナキヲ知リ甚タ愉快且ツ満足ト考フル次第ナリ....大統領任期終了(*註:1941年、実際には同年11月選挙で再選された)後ハ一比島市民トシテ自己ノ個人的勢力ヲ以テ日比親善関係ノ基礎ヲ固ムルニ終世ヲ捧クル心組ナリ....
(外務省記録L.1.3.0.2-9)
(中野 聡『史料集』)

以上の様な親善的な態度を表しています。宇垣大臣はここで”比島カ完全ナル独立ヲ為ス暁”と言っているのはコモンウェルス政府が独立前提政府であることを当然承知の上での発言でしょうし、逆にケソン大統領の親善さは不侵略への牽制ともとれるでしょう。いずれにしてもこの戦前のフィリピンや日本の状況を鑑みても「解放史観」は成立しえません。


◆戦中について

 戦中については短く書きますが、コモンウェルス政府のケソン大統領は日本とアメリカのうち、アメリカを選択してアメリカに亡命。ケソンは「国民の苦難を和らげるため努力せよ」と現地に残った政治家などに指示しており、現地住民や日本の傀儡政権として樹立されたラウレルを大統領とする第二共和国政府も必ずしも日本軍に協力的ではありません。日本統治下に出来た「フィリピン独立準備委員会」の頭文字である「PCPI」を皮肉ってもじり”Please Cansel Philippine Independence”(どうぞフィリピン独立を撤回していただきたい)というエピソードは日本統治とフィリピン人の意思の乖離を表す象徴的な話かと。
 被害として語られるものといえばバタアン死の行進、レイテ島、マニラ戦、従軍慰安婦憲兵、飢えetcがあり、フィリピン側の死者は約111万人とされています。特に象徴的に語られているのはマニラ戦。4週間に及び市街戦で死者は約10万人、日本軍によるものが6割、アメリカ軍によるものが4割とされています。
 それとフィリピンは日本統治前には輸出入は、

突出して宗主国への貿易依存度が高い反面,域内経済からは孤立していた(1936-40年平均で,米国への輸出依存度78%,輸入依存度67%;日,中,東南アジア向けは,あわせてそれぞれ9%,18%にすぎなかった。U.S. Congress, 79th 2d sess., Appendix to Hearings on S.1610, USGPO, 1946, p.220.)。
中野 聡『アジア太平洋戦争とフィリピン』

以上の様に約7割をアメリカに依存している体制であったため、日本統制下による「強制された自立」ではその依存体制が当然ながら瓦解します。この依存は植民地経済の弊害ではあるものの日本がその依存分をカバーできてきませんし、占領末期での民間食糧を略奪、現地住民の飢えにもつながる様な事例でしょう。日本の侵略統治はお粗末です。
 この時期の日本に好印象を持つフィリピン人はいないでしょう。

◆戦後 フィリピンからの批判や賠償などについて

 戦後すぐには投降した日本軍捕虜に向かって石を投げるフィリピン人という話がある様に戦後直後は非常に対日感情は悪いものでした。この影響はその後も続き、節目節目でフィリピン人による強い日本批判が見受けられます。例えば、1951年9月サンフランシスコ平和条約会議 フィリピンのカルロス・ロムロ大使

フィリピンは日本によって徹底して破壊され耐えがたい苦痛を与えられました。私は一人の人間として、フィリピン国民の日本への態度がこうしたことに伴う感情によって左右されない、とはとても言えないのであります
(太田 和宏ほか『日本とフィリピンにおける戦争に関する社会的記憶の比較』 )

例えば、東京裁判ではフィリピン政府から派遣されたデルフィン・ハラニーリャ

判決内容は甘すぎ、抑制効果もない。侵された戦争犯罪に見合うものでもない
(同上)

という様に厳しい批判の声をあげており、この頃の日本非難の急先鋒がフィリピンです。マニラ戦などは証言が多く、裁判資料としても多く使用されています。裁判上では強引な面もあって誤審もあったなどの批判点ありますが、とはいえ日本人側もこれらの声を聴きフィリピンの対日悪感情を認識しているはずです。
 また象徴的な話としては日本人を父親に持つ日系2世でフィリピンに残った子供の中には日本名をフィリピン名にして「身元隠し」をして非難を免れようとする事例があります。当時「日本」というものがどういう印象を持たれていたかを示しています。

 1956年には4年に渡る賠償交渉が成立、フィリピンは物的・人的被害は併せて80億ドルと試算しましたが、賠償額は5億5000万ドル、経済協力借款2億5000万ドル、支払期間20年に落ち着きます。なおこの賠償には当時の野党である社会党から交渉経緯などの批判点もありますが、その負担額の多さも批判されています。しかしながら当時の自民党は、

小滝彬
フィリピン側の方でこの程度で折れたということに対しては、これは満足しなければならない。フィリピン側のこのステーツマンシップに対して敬意を表しなければならないというように考えるものでございます。(中略)当時八十億ドルというものを要求しておる。事実フィリピン側が受けました損害を考えますときに、こうしたフィリピン側の要求も、全然全く根拠のないものではないということも、当時の実情を知っております私は、これを常に頭に置いておるのでありまして、大体妥当なライン
第24回 参議院 外務委員会 20号 昭和31年06月03日

という賛成答弁をしている様に当時を知る人々にとってはそのフィリピンの被害は自明のこととして受け入れています。この賠償自体には日本側の商売が絡まり、その後に東南アジアへの市場、ひいては日本の経済成長に寄与したという「賠償=商売」、フィリピン側ではその賠償を契機とした新エリート層の形成などの側面がありますが、とはいえこの賠償をしたという事実はフィリピン側にも根付いています。
 ちなみにこの時分のフィリピンは日本傀儡の第二共和国からコモンウェルス政府の流れをくむ第三共和国政府*4となりますが、戦後の選挙では対日協力した人間も選挙に勝利しています。これらは戦前の地元エリート層が日本統治下でも日本と抗日ゲリラいずれにも通じる等をしているという下地があり、その権力を維持、戦後にも一部を除けば崩れる事がなかったためとされます。つまりは対日協力の是非は選挙の争点にならなった。その極北が第二共和国の大統領であるラウレルが日本との賠償交渉においても前面に出てきており、交渉に影響力を持っていたという事例でしょう。
 1960年には「日比友好通商航海条約」が両国政府によって署名されるもののフィリピン上院では根強い日本への警戒心から批准されず、10年を超える「棚上げ」、1972年3月には上院は批准拒否を決議されています。この条約はマルコス大統領*5による強権で1974年に批准が行われますが、60~70年代前半にもまだ日本への不信があった事が伺えます*6

親日感情の情勢要因について

 何てかんじに6、70年代くらいまでは対日感情が悪いことは読み取れますが、何で対日感情が所謂「親日」と呼ばれるほどになったかというと、複数の要因があるとされます。

 まずは太田 和宏ほかの『日本とフィリピンにおける戦争に関する社会的記憶の比較』からです。

1)一般市民と日本軍の峻別
 フィリピンに戦争を持ち込んだのは日本「軍」であり、日本人(一般市民)そのものは悪くはないというものです。普遍的といえるであろう、戦争=悪という価値観に基づいたものといえると思います。ただ、つまりは「軍」が悪いのであり、日本軍を擁護するような論調があれば、この許しは瓦解します。また似た様なもので日本人と日本「国」を分ける方もいます。

2)戦後賠償が完了している
 賠償がされ、けじめは着いたからというものです。ただし戦争経験世代には賠償が不十分であり、特に個人レベルでの賠償がされていないとする方々もおり、賠償が果たして完全なものであったかという議論はあり得ます。また賠償が日本の商売に結び付いていたことを鑑みれば、その点での批判もあり得るかと。

3)戦争経験を学校などで語る場の少なさ
 上記論文では戦争経験世代の5人に聞き取り調査をしていますが、何れも学校などの公的な場でその経験をしゃべった事はないといいます。これについてはサンプルが5人と少ない為に、その5人にそういう場がなかっただけの可能性もありますが、語りとしての記憶の「継承」は避けている可能性はあるでしょう。

4)博物館の展示、戦跡などでの被害への言及の少なさ
 フィリピンでの戦争に関する展示は当時のフィリピン人の勇気やその当時の生活などに着目する点が大きく、日本の侵攻や被害に関する情報が少ないとしています。歴史的経緯、テーマ性は薄く、歴史の継承性も薄そうに見受けられます。ネット上のマラカニアン博物館 ではマニラ戦に触れたりはしていますが、これが実際の博物館でもなされているかは不明です。
 また原爆ドームなどを始めとして戦績は記憶の継承に役立ちますが、フィリピンにおいては戦跡は観光地化などはされず、保存もそこまでされずに放置気味だとされています。シンボルになったであろう戦跡の放置は忘却には役に立つでしょう。

5)キリスト教徒としての「許し」
 フィリピンはキリスト教国ですが、それ故に「許し」をしたことを誇る大学生の話が出ています。後述する「祈念碑メモラーレ・マニラ1945」においてもキリスト教が関わっていますし、宗教的要因も無視できないと考えます。

6)経済関係などの「現在」の重視
 人の行き来の多い隣国ですし、賠償の話にも絡みますがODAなども多額、種々の支援があって、現在が良好な経済関係であるならというものです。また、そこにはフィリピンが戦後に共産主義ゲリラ、マルコスの独裁、クーデター、大地震などなどの困難があった為に日本の経済支援を受けるのが「得」であったという面も指摘されています。また現在においても多数の事件などが起こっている際に過去の問題をどこまで語るのか、という面もあるかと。

7)植民地メンタリティの存在
 フィリピンは16世紀からの4世紀の400年間植民地支配をされており、日本はそのうちの3年間に過ぎないという相対的な視点です。この考えを述べたのはフィリピンの大学生ですが、若い世代である程に教科書で学ぶ際には日本統治下は数ページの歴史でしかなく、そういった忘却が訪れている事が伺えます。勿論、若くても肉親に聞くなどしている人間は違うのでしょうが。

 以上で太田ほかからの引用は終わりです。賠償などは分かりやすいですが、注目すべきはフィリピンにおいては記憶の継承がそこまで重要視されていないという面が伺えます。博物館、戦跡、教科書の問題など。日本もそうですが直接的に経験する世代以外は何らかの手段で情報を学ばなければ、それについての感情を強く持ちえません。フィリピン政府が作為的に記憶の継承を疎かにしているのかは不明ですが、少なくともフィリピンにおける「忘却」が親日へと繋がっている可能性はあるかなと。
 さて、次は中野聡HPからの引用です。

8)遺骨収集による人との交流
 1960年代半ばまでは両国の人的交流は低調でしたが、1964年の海外渡航の自由化(外為規制の緩和措置)によって外国旅行者が増え、それはフィリピンにも当てはまります。またフィリピンでの日本の戦没者は50万とされており、戦没者遺族や旧軍人を中心とする生還者が遺骨収集や慰霊の旅が行われます。これによってかつての加害者側と被害者側の直接的な交流が増加します。この交流の際には日本側では謝罪の言葉を用い、フィリピン側はそれを許すという国民間での「謝罪と許し」の関係が構築されます*7
 慰霊の旅に出た日本人の多くはフィリピンで厚遇されたという経験談が多くあります。後には遺骨、遺品売買などで問題となった経済的な観光要素としての「慰霊の旅」をもてなすフィリピン側、排他ではなく厚意を示す事により互恵的な関係構築を目指したという点もありましょうが、とはいえこの60年代半ば程から市民レベルでの対日感情の変化は見受けられます。

9)キリノ大統領の恩赦や皇太子・皇太子妃夫妻の訪問
 象徴的に語られるのは1953年のキリノ大統領による服役中日本人戦犯の恩赦・減刑と日本送還、それと1962年の日本の皇太子夫妻の訪問です。
 キリノ大統領の話は有名で自身の家族も日本軍の被害にあったものの戦犯に恩赦を与えたというものです。これにはキリスト教的価値観や恩赦の見返りとしての経済支援なども考えられますし、またこの時点ではフィリピン国民の反対があった事には留意が必要です。
 皇太子夫妻訪問の際には10万人の市民によるお出迎えや「平民の妻 美智子」に対するミチコフィーバーといえる好意的感情、噂されたデモの未遂など、確かに終始歓迎ムードといえそうです。現地の新聞も概ね好意的であり、成功裏に終わった訪問と言えます。ただし新聞には好意的な態度だけには終わらず、戦時を振り返る論調も存在します。また「朝日新聞」1962年11月10日付の記事に「もし美智子妃がたのむなら、通商条約も批准してあげよう」と言ったフィリピンの国会議員が報じられていますが、この通商条約が10年以上後に締結されたことを鑑みる必要があります。一つの象徴的な事例であるには違いないですが、根本的な転換ではなくあくまでも「象徴的事例」であったことに留意が必要です。この訪問時に皇太子による謝罪の言葉の様なものもあったとは言い難いことにも。

10)数々の謝罪の言葉
 結構謝罪の言葉が述べられてます。

・フィリピンを訪問した中曽根首相

過去の戦争で貴国と貴国の国民に多大な迷惑をかけたことは極めて遺憾と思い、深く反省している……みなさまの友情と寛大さが温かければ温かいほど日本人はさらに深い反省と戒めを心がけなければならない
(『朝日新聞』1983年5月7日、朝刊)

・アキノ大統領が訪日した際の昭和天皇

「日本人が第二次世界大戦中にフィリピンに対してかけた迷惑について、おわびを言いつづけ、(アキノが)そのことは忘れて下さいと言ったが、天皇はそれにもかかわらず、日本人がフィリピンに強いた苦痛を日本が償うことを望んでいると述べた」
(Washington Post, November 11, 1986, p. A23.)

など、首相や天皇による謝罪発言は大きいでしょう。また日本ではほぼ話題にならなかったそうですが、50周年式典時には、

・ラモス大統領と同席した日本大使館代表(松田大使の代理)が「深い悔悟(deep remorse)」という言葉を使って謝罪。新聞記事にもなる。
・日本のカトリック教会を代表して白柳大司教が謝罪。

などなど。幾度かの立場ある人の謝罪が成されています。これらの謝罪の数々は重要ですし、蒸し返す様な言説も(おそらく)なかった*8ことも対日感情の好転に役立っているでしょう。


◆最後に

 フィリピンの対日感情の好転は複合的要因が考えられます。謝罪の言葉、経済的要素、植民地の歴史、宗教的観念、人的交流の増大、記憶の継承のおざなりさ、時代による忘却などなど。何が決定的要因かは私には分かりません。ただ最後に「忘却」についてを少し。

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 写真はマニラ戦のモニュメント「祈念碑メモラーレ・マニラ1945」です。以下がそこに刻まれた碑文です。

「罪なき戦争犠牲者の多くは名も分からず、人知れず共同墓地に葬られた。火に焼かれた肉体が廃虚の灰と化し、墓すらない犠牲者もいた。この碑をマニラ解放戦(四五年二月三日~三月三日)で殺された十万人を超える男と女、子供、幼児それぞれの、そしてすべての墓石としよう。われわれは彼らを忘れておらず、永遠に忘れはしない。彼らが、われらの愛するマニラの神聖な土となり安らがんことを願う」
日刊まにら新聞『祈念碑メモラーレ・マニラ1945 罪なき戦争犠牲者の墓石

この碑は50周年を記念してつくられたものです。マニラ戦がもたらした記憶は大きく、この件をもってして原子爆弾を正当化に近い論調で語る方もいますし、世界的に語られない事への思いを持っている方もいるといいます。
 この碑自体は日本を糾弾するものではなく犠牲者を追悼するものです。戦後の補償問題についての問題は未だすべて綺麗に解決したとは言えないものの、とはいえ今のフィリピン人の多くは戦争責任ついて殊更に日本を追及するという事もしないでしょう。ただそれはあくまでも日本が侵略者、加害者であるという前提があるからです。日本と同じくフィリピン社会でも時代の経過と共に忘却が進んでいますし、その傾向は今後もそのままでしょう。

 ただこの前提、時代の経過と「忘却」の上で成り立つ関係は薄氷です。特に日本の教育においては東南アジアに対する戦時下についての教育は東アジアと比較すれば相対的に薄いのは明白ですし、またメディアなどの特集でも薄くなりがちな点です。この薄氷の上の関係はその物事について言及しなければ早々に割れる事はありませんし、言及できる能力があれば一つの「謝罪と許し」という形式が成り立ち、信頼関係構築には役立つでしょう。
 が、です。「日本がフィリピン(東南アジア)を解放した」などという恥知らずの言説をしたらその薄氷はもろく崩れます。その後にはフィリピン側かの批判は避けられないでしょう。特にその様な価値観を持った一定の地位にいる人間、政権与党などの政治家が発言すれば問題化する可能性は高いでしょう。昨今のネット右派界隈やそれに呼応する一部政治家を見れば可能性は無きにしも非ずです。
 「忘却」は便利です。しかし、その忘却は場合によっては歴史修正主義による上書きにあう可能性もあります。なんで最低限の知識くらいは持っておきましょう。勿論、日本に耳ざわりと都合の良い妄想ではないものを。


【参考資料】
中野 聡『アジア太平洋戦争とフィリピン
中野聡『和解と忘却――戦争の記憶をめぐる日本・フィリピン関係の光と影――
太田 和宏ほか『日本とフィリピンにおける戦争に関する社会的記憶の比較
津田 守『日比関係の50年を振り返る~人流のさらなる進展に向けて
吉川 洋子『対比賠償交渉の立役者たち:日本外交の非正式チャンネル
早瀬 晋三『アキヒト皇太子・天皇のフィリピン訪問 -『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』補論-
飯島 真里子『フィリピン日系ディアスポラの戦後の「帰還」経験と故郷認識

フィリピンを知るための64章 (エリア・スタディーズ154)

フィリピンを知るための64章 (エリア・スタディーズ154)

*1:反乱組織のリーダー「ラモス(Benigno Ramos)」はその後に日本に亡命、戦争時に帰還しガナップ党を結成、積極的対日協力勢力となります。

*2: 政治体制が構築されていたために侵略後にも日本軍は新たに体制を刷新するのではなく、その体制を利用することを選びます。

*3:これは民間も同様で多くの日本人がフィリピンに出稼ぎに行き、フィリピン人雇用者の下働きとして働く日本人なども多くいました。なお、移民者数が多い為にフィリピン側が移民数制限をしたことによる摩擦も生じています

*4:今のフィリピンはマルコス政権を経ての第五共和国になります。

*5:マルコス大統領は議会の承認のないまま日本企業のフィリピンでの営業活動を認めたりしていますが、日本のODAの贈収賄汚職問題などの金銭的な問題、「マルコス疑惑」があります。なので別にマルコスが親善のために批准したという訳ではないでしょう。

*6:戦争の記憶以外にも経済侵略などの懸念もあったでしょう。ただ、ここら辺は資料が見当たらずに上院議員が具体的に何に反対したのかというのは良く分からないところがあります。大筋は日本への不信なのも変わりようもないでしょうが。

*7:全般的には友好でありつつがなく慰霊の旅が終わった事が多い模様ですが、ダバオを訪れた日本人の墓参団が宿泊していたホテルにナタを持った事例や慰霊碑が壊された事例があります。必ずしも好意一辺倒で終わったわけではありません。

*8:日本の歴史教科書が問題になった際、フィリピン側にもそれを問題する声があった様ですし、フィリピンの感情を害する言説が皆無だったわけではありません。