電脳塵芥

四方山雑記

唐沢俊一氏がツイートしてた手塚治虫が共産党の応援演説後、同日に自民党の応援をしたという話の出典がわからない


https://twitter.com/karasawananboku/status/1618227205737439233

 という唐沢俊一氏によるツイートがあったとさなんですが、なんか胡散臭いというか、カウンターとしての創作臭が若干するというところが本音。ちなみに、この共産党候補の応援演説については以下のようにツイートしています。


https://twitter.com/karasawananboku/status/1618234231704162309

松本善明氏については手塚治虫の学生時代の先輩にあたる人物でもあり、個人的な関係性が強い人物と言えます。それと後述しますが手塚氏が松本氏を中心として共産党候補に対する選挙応援を複数回したことは事実です。反面、唐沢氏のツイートの問題な所はまずソースがないこと、これが何時のことか記述されていないこと、松本氏の名前を書いているのに応援された自民党候補の名前が全くされていないことなどがあげられるでしょう。特にソースについては氏のツイートに、

「いや、これから自民党の応援に行かないといけないので……」

という手塚治虫のものと言える発言があるからには余計にそのソースを示した方が良いでしょう。あと選挙中に共産党が食事を勧めるって、これが真実ならそれだけで法的にいかがなものかってなり、攻撃対象にもできそうですね。

有名な話なのにソースもないし、広まってもない

 ところで唐沢俊一氏はこの話を「有名な話」としていますが、有名なのに探してもソースがないというのが現状。ツイッターで「手塚治虫 自民党 応援 OR 演説」や「手塚治虫 共産党 自民党」などで検索してもソースがある人、いないんですよね。ちなみに唐沢氏は2022年にも類似のツイートをしていますが、そっちはバズらずに終わりました。またこの手塚治虫自民党に関して、

共産党応援の後に自民党の応援に行った(唐沢ツイート)
・午前に自民党、午後に共産党の応援をした
https://twitter.com/yuno_sarashina/status/1446678893071515651
・同じ日に自民党共産党の党大会(演説会)に出た
https://twitter.com/ki_nikki1990/status/947773137839517696
自民党共産党の両方に応援文を書いた
https://twitter.com/yukehaya/status/419845303735300096

またこれ以外にも赤旗まつりと同時期に自民党の応援をしたというツイートも存在しており、いくつものバリエーションが存在します。この派生具合、そしていずれもソースは存在せずに伝言ゲーム的に続いていることを考えると、この動き自体を見てもかなり怪しいと断ぜざるを得ません。それとこの種の言説がツイッター上で出てきたのは現存しているので確認できるのは2013年ごろから*1、バズったといえるのは今回2023年の唐沢ツイートだけだと言えましょう。
 またツイッターを離れると、2012-10-02の「手塚治虫は共産党シンパだった?」というスレッド「手塚治虫 総合26(フウムーン)」の5chまとめ記事が存在し、以下のような書き込みが存在します。

  これからは人間みんな平等な環境にならなければダメだと思います
  今本当に人権というものがないがしろにされている
  20世紀を迎えて博愛主義を叫んでるのにこれでは本当に恥ずかしくなりますよ
                   ――手塚治虫
共産党の党大会にて)
 
  今の世界自由競争が第一になくてはならないと思います。
  欧州やアメリカを見なさい。
  彼らは率先してさらに競争力をつける環境を模索し施行し経済力を強めて言ってる
  これに日本が取り残されてしまうのは断じてあってはなりません。
  私は日本もさらに競争力をつけるべきだといいたいのです。
  こんなことを言うと落伍者が出るダメだと言い張る人がいます。
  でもそんなの競争を行ってるから当然出てくるんですよ。
  人権、人権言ってるのは甘えでしかないんです。
                   ――手塚治虫
(同じ日の自民党党大会にて)

ちなみにこのスレッド内では党大会が同日に開催されていないという指摘があり、また自民党の月刊自由民主を調べて以下のような書き込みをしている人物も存在しています*2

649 :愛蔵版名無しさん:2012/10/01(月) 14:38:36.64 ID:???
うーむ、74年からの「月刊自由民主」の、党大会の報告がある号だけをあたったけど 手塚の発言はない。(来賓として招かれた文化人の発言はある。曽野綾子とかバレリーナ声楽家など)

また発言内容自体に訝しみを感じていますし、個人的感覚としても自民党のスピーチ内容は新自由主義能力主義、人権の否定を含むもので残っている手塚治虫の言説からは強い違和感を感じるものであり、真実性が疑わしい。後述する様に機関誌を調べましたが少なくとも見かけませんでした。大体、この書き込みも果たして何年の話なのかを一切書いていない時点で信じるに値しません。ちなみにこの「党大会」書き込みのおそらくの初出は2005年の「アニメ・漫画業界人「名言」スレ 2」と思われますが、その時からすでに出典はありません。なお上記は「党大会(演説会)」の話であり唐沢氏のツイート内容である「同じ日に応援」とはやや異なるものとはいえ、狙いそのものは手塚治虫自民党も応援する、聴衆のウケ狙いで主張を変える「ノンポリ」的な人物、共産党支持者ではないというように手塚治虫像を修正したいという傾向が伺えます。
 そしてネットで「手塚治虫自民党を応援」関連で現状確認できた最も古い情報は2003年12月にインターネットアーカイブに記録されているkadzuwo氏によるアマゾンのリストの次の一文です。

動物農場角川文庫版に対して)
kadzuwoのコメント: その一方で、この有名な反共文学がヒントになっているであろうことも自明ですね。共産党シンパとして有名ですが、その一方、選挙では自民党議員の応援もしていました

「その一方」という書き方なために同日の応援かまでかは不明ですが、今の手塚治虫自民党も応援と文脈は似ています。なお、この「kadzuwo」というアカウントですが、ただの匿名というわけではなくおそらく作家の志水一夫氏のことでしょう。志水氏はと学会系の人物でもあるので唐沢氏ともつながりはあるでしょうし、もしかするとと学会周りでこの手塚治虫自民党応援言説が広まったという可能性はありますが、ただ2004年までのと学会誌には該当情報はありませんでしたし、志水氏や唐沢氏の書籍でこの言説は現状確認できていません*3。ついでに言うと唐沢氏のHPの雑学掲示板をインターネットアーカイブで確認可能な部分も全部確認しましたがそこにもこの言説は存在しません。
 さて、この志水氏のリストによって「手塚治虫自民党を応援」は2003年末にはネット上で形成されていたこと自体は確認可能です。では、ということで5chの過去ログにおいて、「手塚治虫」をスレッド名に含むスレッドを2005年までしらみつぶしに検索しましたが自民党応援言説は存在していません。ただ、2003年に以下のような「自民党の機関誌に寄稿」という言説は存在します。

680 :手塚治虫(本物) ◆News/n6/H2 :03/04/13 14:31 id:KXVB5M7l
左傾化が進んでいた時代だからこそ「流行」を取り入れて左っぽい漫画を描いただけ。
手塚氏の考え→右翼左翼心情主張=流行
大体本当に左翼なら聖教新聞とか自民党機関誌に寄稿したりするかと
【手塚治虫】2003年4/7鉄腕アトムついに誕生★2

ここで書き込みをしている手塚治虫(本物)氏は同年の別スレッドでも自民党機関誌に寄稿と書き込みをしており、また別の人物も2003年に同様の書き込みが見られます。こうみると2003年ころに手塚治虫自民党機関誌にも寄稿していたという話の流布は見られます。なお後述しますが、手塚治虫自民党の機関誌である「月刊自由民主」に寄稿した事自体は事実ではありますが「自民党を応援」という様な内容ではありません。以上の様に5ch内の過去を漁っても機関誌への寄稿が事実とは言え、「手塚治虫自民党を応援」は少々胡乱といえます。ただ2000年代のHPなどはかなりの割合で現在存在しておらずそれらの検証はほぼ不可能であること、また5chにしてもスレッド名に「手塚治虫」と書かれていないスレッドでの書き込みが存在する可能性などを考えると、結局のところ「手塚治虫自民党の応援」というのはデマと断ずることはできません。なお応援という文脈とは別として産経新聞創価学会の潮、赤旗などに連載していることを考えれば、少なくとも手塚治虫は自分のマンガ掲載媒体に関してはそこまで政治的意識によるえり好みはしなかったとは言えます。

赤旗における手塚治虫の掲載について

 次に手塚治虫が実際に選挙応援した日はいつかであるかと赤旗から探っていきます。調べる時期ですが作業の手間を若干軽減するため、また唐沢俊一氏は松本善明氏の選挙応援という人物指定をしているため、松本氏が出馬した下記の衆院選時期近辺に限ります。つまりは松本氏が初出馬した1963年から手塚の亡くなった1989年前の選挙である1986年までです。そして結果は以下の通り。


赤旗における手塚治虫の選挙応援の有無(衆院選のみ)】
1963年11月 無し
1967年1月 有り(演説有り)
1969年12月 有り(演説有り)
1972年12月 有り
1976年12月 有り(演説有り)
1979年10月 無し
1980年6月 有り(演説有り)
1983年12月 無し
1986年7月 有り(演説有り)


そして各記事の内容は次の様になります。
手塚治虫の写真などが載っていない記事は写真を割愛しています。

■1967年
1967年1月15日

四区から必ず松本善明
日本共産党東京西部地区委員会主催の日本共産党政談講演会は、十四日午後六時から渋谷区公会堂で宮本顕治中央委員会書記長を迎えてひらかれました。
(略)
漫画家の手塚治虫氏も、松本善明候補の激励にかけつけ、「松本さんを支持するのは先輩だからではない。わたしは戦争がいやでいやでしょうがない。そのために真剣にやってくれるのは共産党だけであり、日本の将来、子供の将来を真剣に考えているのは共産党だからです」と強い支持のことばをのべたあと、壇上に設けられた大きな画板に、松本善明候補必勝の域を込めた鉄腕アトムの漫画を墨くろぐろと書きあげ、激励しました。

1967年1月16日

1967年1月29日(日曜版)

https://twitter.com/JAPAN_manga_bot/status/1226819668767199237

1967年の赤旗上で確認できたのは以上のものです。今ネット上で流布している手塚治虫の有名な写真がこの1967年1月14日の講演会のものです。この講演会は午後6時から開かれたものであり、他の登壇者なども当然いるものであり、この講演会の後に自民党の応援に行った可能性は限りなく低いと言えるでしょう。

■1969年
1969年12月2日

松本氏を再び国会へ
国会解散を一日あとにひかえた一日夜(引用者注:午後時6半開催)、松本善明(略)後援会主催の「松本善明をはげます大文化祭」が杉並区の杉並公会堂でひらかれました。
(略)
また手塚治虫氏も特別出演して大きな松本氏の似顔絵をかき松本氏をはげましました。

1969年12月14日

■1972年
1972年12月8日

■1976年
1976年11月21日(日曜版)

1976年11月21日

1976年12月5日

鉄腕アトムも味方” "善明さんを国会に"手塚治虫さんら訴え
共産党ガンバレー」と正義の味方、鉄腕アトムが飛び出しました。投票日を数時間後にひかえた四日夜。
(略)
「正義の味方は松本善明さん」と、応援にかけつけた漫画家の手塚治虫さんは、松本候補と大阪北野中学時代の同期生。
ロッキード灰色高官とかブラック高官が当選したら、こどもたちは”やっぱりお金を持っている人が強いよ”と思い、お金をもうけることを考える。お金をもうけるためには何でもやるという論法になってしまう。正義の味方は鉄腕アトムのように十万馬力で飛んでくるのではない。働く人たちのために、ふだんから地道にやっている人だ。その人はここにいる。松本さんだ」。

■1980年
1980年6月20日

手塚氏大きなマンガで訴え
(略)19日午後、漫画家の手塚治虫さんが新宿区の戸山ハイツにかけつけ、最終盤の激闘を続ける日本共産党上田耕一郎候補を応援しました。(略)「戦争の怖さを知らない若いお父さんやお母さんがずいぶんいると思いますが、安保条約のもとでアメリカがどこかと戦争をすると日本も巻き込まれる危険性があるます。こういうような状態が起こってくる可能性がるのです。」(略)「安保賛成の政党やそういう政党と仲よくしようとしている政党がいるんです。安保反対でがんばっているのは日本共産党だけ。その先頭に立っている上田さんをふたたび国家に送り出してください」

 この1980年は衆参同日選挙であり、上田は参議院選挙。松本も立候補していますがこの80年では紙面上を確認するだけでは手塚は松本を応援していなかったようです。86年においても上田を軸に応援しており、応援している対象に変化が見られます。

■1986年
1986年7月6日

長いですが、手塚治虫政治的主張が分かりやすいので全文引用します。

手塚治虫さんが共産党候補応援 戦争から子ども守る党
選挙戦最終日の五日、東京・国電ん渋谷駅ハチ公前で開かれた日本共産党街頭演説会に、漫画家の手塚治虫さんが応援に駆け付け右翼の激しい妨害のなか共産党上田耕一郎参院東京選挙区候補、松本善明衆院東京四区候補の支持を熱っぽく訴えました。訴えは次の通りです。
 みなさん、手塚治虫です(拍手)。きょうは上田耕一郎先生の応援にかけつけました。上田先生はみなさんご存じないと思いますけど、実は漫画家なんです。だからといってぼくが漫画家だから上田先生の応援にきたわけじゃありません。ぼくはいままで四十年間、漫画を書いてきました。しかし、みるにつけいまの子どもたちの心は本当にすさんでいます。親子の断絶だけではなくて、肉親殺しとか、あるいはいじめとか、あるいは自殺の問題まで含めて本当に子どもは最低の状態になっていると思うんです。
 しかし、これはたんに教育の問題ではありません。世の中がそうなっている。そしてそれはいいかえれば政治がそうなってるからなんであります(拍手)。
 みなさん、上は政治屋からあるいはオモチャ屋から映画からなにからなにまで、今の世の中は、だんだん、だんだんキナくさくなっております。
 ぼくは四十年前に戦争を体験しました。みなさんのなかに戦争を体験された方はあまりおられないと思いますけど、本当に戦争は怖い。怖いし、もうどうしようもない状態になります。そういう状態にみなさんのお子さん方がなるかもわからない。本当になるかもわからない。私はそれが心配なんです。しかし、いまの政府にそれをお願いしてもとんでもない反対の方向に、反対の方向にいこうとしてるんです。漫画家の力では、それだけではとても政府の力をひっくり返すことはできませんけれど、ただ一つ、そこにひっくり返せる政党があります。それは日本共産党なんです(拍手)。
 なぜかというと他の野党は残念ながらみんな今の政府になんかの形で加担しようとしてるからです。日本共産党だけが本当の気持ちで戦争に反対しておる。そしてそのために努力をされておるわけです。
 どうかみなさん、みなさんのお子さんが、お子さんのない方はみなさんのご兄弟とか、あるいはみなさん自身がもしかして戦争に巻き込まれるかもわからないという不安があるならば、それを反対する大きな勢力である日本共産党にあす(六日)はぜひ投票をしていただきたい。ぼくもやります。そして上田耕一郎先生を松本善明先生にもぜひ応援をお願いしたいと思います。そのために私はかけつけました。どうもありがとうございました(拍手)。がんばってください。(拍手)

 手塚治虫衆院選関連の赤旗記事は以上の様になります。ただ赤旗縮刷版を手作業で探している為に細かい所の見逃しや抜けがある可能性に留意してください*4。こう見ていくと赤旗で確認できる範囲で1979年、1983年は選挙応援はしていないように見受けられます。それと赤旗では選挙期間中に共産党応援の著名人一覧(1969年などの記事)がありますが、手塚は一時からこの一覧にはでなくなります。これらのことから基本的には松本善明上田耕一郎との個人的な関係性が応援の動機として強い様には見えます。また上記の赤旗松本善明の選挙応援をしている時間帯は大抵夜や最終盤と言える時間帯や時期であり、この前後に自民党の応援に行くとは少し考えづらいです。また86年はその演説内容からしてもこの後に自民党の応援演説に行くのはさすがに怪しい、というか人間としての信用性に関わるような話で、仮にこの後に自民党の応援に言っていたら二枚舌と週刊誌などで書かれてもおかしくない。ですが国会図書館のデジタルコレクションなどで調べた限り週刊誌などでそのような内容の記事は見受けられません。以上のことから唐沢俊一氏の松本善明の応援の後に自民党候補の応援をしたというのは、赤旗上から見ても少々怪しい内容と判断せざるを得ません。
 ちなみに話は選挙とは離れますが、手塚治虫は選挙以外にも赤旗まつりに複数回参加しており、1977年10月に開かれた赤旗まつりに関するまんが教室の記事においては、「毎年参加している」という旨の発言も書かれており、斯様に手塚治虫赤旗共産党)との関係性は強かったことが伺えます。また手塚治虫赤旗からは原稿料を受け取らずに書いていたというエピソードがネットでは有名ですが、それの出典は手塚死去後の赤旗記事となります。記事そのものはこちらのHPで引用されています。

自民党機関誌における手塚治虫の掲載について

 次に自民党機関誌上での手塚治虫の扱いについてです。まず自民党の機関誌は今は週刊/月刊の「自由民主」が存在しますが、過去には1956年から始まる「政策月報」、のちにこれは1974年に「月刊自由民主」と変えた月刊誌、その他には1955年から発行の週刊誌「自由民主(1967年からは「自由新報」)」が存在しました。まず月刊の機関誌から見ていきますが1回だけ手塚治虫の寄稿が確認できます。それが「月刊自由民主」の1984年10月号です。

全文は長いので最後の主張部分だけを引用すると、

私は子どもたちをめぐるマスコミや娯楽の規制には大反対だが、むしろ、子どもの自体から生きもののの生命を尊重し、生きるということの大切さを充分知らしめる教育をほどこすことは絶対に必要だと思う。そのことを認識して育った子どもは、くだんの好戦的なアニメを見てもその内容の善悪を、はっきり判断するだろう。そういう教育を、カリキュラムに加えることはできないものか。青少年の犯罪や自殺、肉親や他人への思いやりの欠如、ひいては自然破壊の問題も、やがて解決されていくのではないか。
 臨教審では、偏差値教育の見直しが挙げられるようであるが、制度もいいが今の子どもたちには生命の尊厳を徹底的に教えることをいの一番にねがいたい。

というもので、道徳教育などとは相性の良い内容とはなっているとは言えますが、86年の共産党候補への応援演説を考えればその主張には類似性が見え、自民党機関誌だから主張を変えているような形跡は見受けられません。ちなみにこの月刊民主には多くの人間が文を寄せていることを考えれば、当時の文化人である手塚治虫に対して寄稿文の依頼をしたこと自体は不思議ではありません。また手塚側も断るほどの強い政治的意識まではなかったと言えます。ただ政策月報の創刊時期である55年から手塚治虫が亡くなる89年までの34年間の間に月刊の自民党機関誌でこの1回しか寄稿文を寄せていないことを考えると、手塚治虫が持っていた政治性から自民党側が控えていた可能性は高いと言えるでしょうし、寄稿文以外の演説会の様な参加形跡もないことから、自民党手塚治虫との関係性は薄いものと判断しても間違いは少ないでしょう。
 次に週刊の機関誌である自由新報(1955年ー1967年は「自由民主」だが調査期の大半が自由新報のために以下から自由新報で統一。)についてです。自由新報は国会図書館においても初期から60年代末までの所蔵にはいくつもの抜けが存在しており、安定してその紙面が確認できるのは70年代からとなります。さらに毎週火曜発行ですが、途中から最終日曜日にも発行する日曜版が存在するものの、こちらは89年までの間にも抜けが多く存在しています。通常版では党外の人のインタビュー記事の様なものが載るコーナーが名前を変えながらも常に存在していますが、ここには完全外部で1回しか登場しない人物もいれば自民党と融和的な人間が年に数回出るというのもザラというもので、そこまで開かれた場ではありません。その反面、日曜版は確認できる限りほぼ外部、それも俳優などのタレントや有名人を呼ぶコーナーがありますが、ここの部分の確認の大部分が欠如しています。これがかなり痛い。またマイクロフィルムでの確認となり、正直なところ手作業による確認抜けがないとは言い切れません。斯様に限界のある調査となりましたが、国会図書館に現存する自由新報の55年からを手塚死去の89年までの自由新報のマイクロフィルムを全部確認しましたが、手塚治虫の寄稿記事は一つも探し当てられませんでした国会図書館所蔵資料に存在しない期間があることや、見落としがあった可能性も考慮すれば断言まではできませんが、少なくとも赤旗での、それも選挙選のみに絞った記事だけで上記の様な複数の応援記事があった事を鑑みれば日刊と週刊という差はあれど、手塚自身の政治性の反映があったと考えていいでしょう。ちなみに脇道ですが、自由新報では漫画家は何人も確認でき、例えば翼賛漫画家ともいえる近藤日出造などは何回も出ます。今でも通じる漫画家としてはやなせたかしが3回、水島新司が1回出ていますが、彼らの記事を読む限りは自民党応援という内容よりも政治性の薄い新聞にある普通のインタビュー記事の枠をあまり出ていないように感じます。この著名人コーナーは出る人によって政治性の有無が激しく、出たから自民応援とまでは言い切れないところがあります。やなせたかしは76年選挙時の赤旗にマンガを載せてますしね。あと、機関誌で言えばりぶるも存在しますが、こちらは毛色がかなり違い、また創刊から5年程度まではみましたが出そうな傾向がなかったので説明は割愛します。

60年代の手塚治虫の番組降板事件?や要注意文化人リスト

 ここからは少し毛色は違いますが、1966年の手塚治虫らをはじめとした番組降板事件(?)などを記述していきます。手塚治虫は1966年に文化放送の『キャスター』というラジオ番組でパーソナリティを務めていたのですが、どうにも「毒舌」で話題でその内容は自民党的には嫌だった模様です。それが記述されているのが当時の以下のような記述です。

五月二十七日付自民党広報委情報資料五十二号「最近のマスコミ傾向について」*5の中からー
「しばしば話題になったTBSは、最近傾向がだいぶ変わってきている。これは、経営者側の非情な努力があったのだろうと思うが、『報道シリーズ』『ラジオスケッチ』等、いわゆる偏向的な番組はだいぶ影を消してしまった。-中略-それに引き換え最近『文化放送』の朝の七時から八時の『キャスター』という時間が傾向的な番組ではないかと取沙汰されている。」
小和田次郎『デスク日記3』p.92

 

(7月31日)文化放送「キャスター」の担当者六人のうち毒舌家の岡本太郎手塚治虫、石丸寛の三人が二週間ほど前に番組からおろされた話を聞く。「契約満了」の更改期という説明だが、同じ満了の大島渚寺山修司秦豊の三人は残っている。全員一緒では目立ちすぎるためか。自民党広報委は着々得点。
『デスク日記3』 p.130

 

七月十一日
文化放送のキャスターの担当者のうち、毒舌で鳴る岡本太郎手塚治虫、石丸寛の三人がおろされた。(略)自民党広報委員会が出した「最近のマスコミの動向について」という文書の中で、キャスターは変更番組だと批判されている。そういえば放送打ち切りの「判決」も同じ文書の中でとりあげられている。以前、TBSの「報道シリーズ」も広報委員会の出した「注目すべき放送事例」でたたかれたあと中止になっている。どうやら”自民党広報委員会”がとりあげた番組は中止になるーというラジオ、テレビの新しいジンクスが生まれたようだ。背筋がうすら寒い。
木戸宗田『プロデューサー日記』 中央公論1966年9月号

なお1967年1月の『新評』の四家文雄「幅をきかすコラミストたち」(ママ)よると「キャスター」自体は11月11日をもって終了したとあり、番組開始から45週で終わったとしています。この記事を読む限りは聴取率自体がよい数字ではないような記述があるものの、この記事でも降板事件については触れられており、当時のマスコミ関係者の中では有名な話だったといえましょう。ちなみにこの番組で手塚治虫がどのような毒舌を話していたかは不明ですが、岡本太郎大島渚については1966年7月の『経済往来』で以下の様に紹介されています。

”革新的”は共通
 各曜日ともそれぞれの司会者が持ち味をだしているが、”革新的”は共通の模様。
 例えば5月21日、担当の岡本太郎氏は、社会党の成田知己書記長に電話インタビューを試み、成田氏は国会の会期延長について社旗等の方針を説明、自民党の強引なやり方に批判を加えた。そのあとの岡本氏のことば―
社会党もあと数年すれば政権を担当する党なのだから、そういう党としての強さと豊かさ、さらに楽しさといったものを、今から国民の前に示してほしい。今後の国会では、多くの国民が疑問に思っている諸法案が審議されるが、これについて社会党は国民を代表して抵抗してほしい……」
(略)また、大島渚氏(5.19)
「六年前の安保改定は日本の体質を変えたといわれるが、安保闘争の年をピークとして、それ以後はわが国の民主主義が失われてきた期間ということができる。安保のときは民主主義を守るために断固として闘うという姿勢が打ち出されたが、昨日の日韓条約のときはマスコミや論壇もつよい批判を加えられなかった」と述べたあと、ナショナリズムについて、「最近の週刊誌に米中戦争の架空物語が出ているが、そういうことも起りかねない最近の情勢である。そういう中で、いたずらに国民感情をあおるのは、日本の帝国主義やナショナズムの暴走を招きかねない。そういうこのないよう、十分戒心しなければならない」

経済往来では文化放送を他番組と合わせて「最左翼」と評するほどで、この記事自体は批判的な論調として紹介しています。ここからもわかる様に少なくともこの『キャスター』という番組は当時の「革新」側の言論の場でもあり手塚治虫共産党応援演説を合わせて考えると、岡本太郎大島渚の論調とそうは遠くはなかったであろう事は想像できます。そして番組自体は66年であることを考えると、この近辺の時期に自民党議員が手塚治虫を応援に呼ぶという可能性はかなり低いと考えられます。
 そしてこの事件からは少し遡りますが、1964年に自民党は「要注意文化人リスト」というのを配布しています。これは週刊文春の1964年12月14日号にそのリストの記事があり、それは以下の様なものです。

さてこの「要注意文化人リスト」なるものは自民党広報委からマスコミ関係者に配ったものであり、その中身は、

公安調査庁の作成になるところの”アカハタ機構の各社・文化人・芸能人等名禄”

というものであり、昭和35年から38年末までのアカハタ寄稿者、選挙での立候補者の推薦人*6となった239人の名前と掲載年月日入りで納められたA5判20ページのリストです。自民党広報委の塚原委員長(戦前における同盟通信の記者)はマスコミ側が資料について話したら参考に欲しいと言われ上げた、マスコミ側ははじめから袋に入れてテーブルの上に置いてあったと意見が対立していますが、真相は不明。とはいえ記事内にある様に「公正な報道」をしてほしいという意図はバリバリと感じます。記事内では林家正蔵城山三郎、南部儀一郎、石垣綾子星新一岡部冬彦青地晨などなど。そして手塚治虫のインタビューも載っています。そして、以下がその手塚治虫のインタビュー。

ぼくはいまアカハタの日曜版に連載していますが、仕事を頼まれるときはいつも相手の目的を聞くことにしています。アカハタの場合もそれをたしかめましたが、とにかく子供を喜ばすためなら、ただそれだけのために描く、という風にしています。はっきりいって、右も左も、とにかくイデオロギーに徹しているやつはバカだと思ってますからこれからも、そんなのは相手にしないで、描きたいものを描くだけのことですよ」

かなりノンポリ寄り、イデオロギー闘争には加わらないという姿勢が見える発言であり、この発言は唐沢俊一氏などのツイートにあるノンポリ像としての手塚に近いものではあるものの、この1964年以降の共産・革新勢に対する選挙応援への傾きを考えると言動とのちの行動が一致しているとは言えません。これが30代中盤の時の政治思想だったのか、それとも雑誌記事のウケを狙ったのか、思想隠しのようなものを狙ったのか、本音なのかはわかりません。ただなんにせよ後の行動からみればこちらの発言の方がややイレギュラーと考えます*7

 最後についでに書いておきますが、1967年の都知事選において革新陣営は美濃部亮吉を推薦するわけですが、その際に当然のごとく手塚治虫は美濃部を応援しています*8京都府知事選では革新系である蜷川虎三の応援もしていますし、1977年の参院選時には革新自由連合のメンバーとしても名前を連ねます。事程左様に手塚治虫は一貫して「革新陣営」の支持者、それも明確に声をあげての支持者であることが伺えます。なので文春記事の発言は余計に困りものではありますが……、それはひとまず置いといて。その手塚が自民党の選挙応援に出たというのは、それだけである種のスキャンダラス、二枚舌と言えるわけで、それこそ「有名な話」として語り継がれるような行動でしょう。しかし現状ではその様な話が出典のある状態では見受けられません。これはこちらの調査不足という事も考えられますが、とはいえほんと見つからない。あっても自民党機関誌に一度寄稿文を寄せた程度ですが、これも中身を読むと騒ぎ立てるような内容ではない。産経新聞や潮などで掲載していたことから、掲載媒体を政治姿勢では選ばないとはいえるでしょうが、現状言えるのはその程度。どちらかというとここら辺から話を膨らませた、手塚治虫の政治姿勢に対する「歴史修正」の一環とさえ思えます。でも、どう考えても手塚治虫ノンポリではない。
 困りものなのはこの話はデマとは断定できないことです。自民党の機関紙は所詮は月刊や週刊ですし、個別の議員応援同行記事も現状見つからず。また松本善明以外の共産党員の応援の時だったという逃げ道も存在します。「なかったことの証明」は今回の様な曖昧性を幾重にもまとう話に、それもソースがない場合、いくら調べてもデマと断定は無理。それほどにある意味で「うまい」と言えるかもしれない。共産党応援の同日に自民党を応援したは、ちょっと嘘くさい。ソースほしい。



■お布施用ページ

note.com

*1:例えばhttps://twitter.com/JIG_SOU/status/405592875368345600

*2:おそらくツイートの方で同じ日に演説会に出たのを暇だったから調べた人と同じ人物?

*3:志水氏はもともと手塚言説を扱うような類の書籍は少なく、唐沢氏の書籍は多くてすべてを確認はできていません。抜けがある可能性はそれなりにあります。

*4:実際、1980年、1986年の記事を見落としていたので応援無しとした期間に本当になかったのか、少しだけ自信がない……。

*5:東京大学に第51号「日共の四中総を中心とする最近の動き」、第53号「原潜横須賀寄港をめぐる阻止闘争の総括」があるが当該号は所蔵されておらず。国会図書館にも無いなので確認が不可能な資料。自民党本部に行けばあるかもしれないがそこまではやりません。

*6:手塚は文中にある様にマンガ連載の他に推薦人となってリストに入れられている。1963年には松本善明が出馬しているため、その選挙にかかわった可能性は考えられます。ただ当時の松本善明に関する赤旗記事上では文化人の応援はみられるが、手塚の記述はおそらくなし。

*7:3月7日追記。もはや憶測なので補足としての追記ですが、手塚治虫の演説などを見ていくと最もわかりやすいのは「反戦思想」という部分です。この場合、安保法制などを鑑みれば自民党支持の可能性はかなり低いです。ただ手塚が「反戦思想」をどこまで党派のイデオロギーとして捉えていたかは不明であり、1964年当時は革新陣営よりではあるものの「右」や「左」の問題、イデオロギーの問題として「反戦」をとらえていたかが焦点になります。文春が発売された1964年12月(インタビューは11月でしょう)にはベトナム戦争が始まって間もない時期であり、後の泥沼化や凄惨な状況がこの時期にどれだけ入っていたかは不明です。ただこの後のベトナム戦争の展開を考えれば、肌感覚として日本と戦争がより身近な距離感に置かれていったと推測できます。この際の自民党の対応や革新陣営の反応などをみて「反戦思想」とイデオロギーとの結びつき、ひいては支持政党や選挙応援に繋がっていった可能性はあるかもしれません。これはあくまでも憶測を出ずに松本善明との関係と応援への経緯、ベトナム戦争に対する手塚の感情の深堀をする必要はありますが……。

*8:当時の自由新報では「赤い都政」が始まるがごとく書いており、かなり苛烈な書き方が散見されます。