電脳塵芥

四方山雑記

亜留間次郎氏がツイートしていた「ウラジオストック領事のワタナベエリ」という女性の話はデマ


https://twitter.com/aruma_zirou/status/1617711616627470338

 というツイートから始まるツリーがあったんですが。

これに関しては既に以下のツイートなど、いくつかの指摘がされています。

簡単にここでの指摘を要約するならば、


ウラジオストックに「渡辺理恵(リエ)」という男性領事は存在した
・渡辺理恵の夫人は1883年生まれで、大正12年(1923年)ならば40歳
 ※大正12年に20代前半とのツイートとの齟齬
 ※ちなみに指摘はされていないがこの婦人の名前は「リヨ
・「ワタナベ」姓の領事は大正12年には他にはいない
・男性の渡辺理恵は1875年生まれで大正12年時点で50近い
・「着任早々」と言っているが渡辺理恵は明治29年からウラジオストックにいるベテラン勢
 その頃にキャリアを気にする人間には見えない
・その経歴から「ワタナベエリ」という人物を言われた場合、外務省が悩むのがおかしい


いくつか要約も含みますが、以上の様な指摘であり、もっと簡単に言えば「ワタナベエリ」という人物の実在性が確認できないというものでしょう。ただ亜留間次郎氏自身は渡辺理恵の夫人である「渡辺リヨ」が「ワタナベエリ」だという事を以下の様に認めています


https://twitter.com/aruma_zirou/status/1617734997640900608

この場合、実際のリヨは40歳ほど、「リエ」は20代前半となって年齢に齟齬が出ますが、ロシア人にとって日本人の女性は若く見えたという、かなり好意的な解釈は可能です。それはともかくとして、このツイートがあることによって「ワタナベエリ」の実在性をもってして氏の一連のツイートをデマと断定することはできないとはいえます。

ソ連による蟹工船拿捕は当時珍しくない

 亜留間次郎氏については以前、小林多喜二蟹工船に乗ったことなないのに『蟹工船』を書き、その史観が後世に影響しているという様なツイート(意訳)をしています。なお、現在見てみたら削除されていますが、その時の氏のタネ本は『蟹工船興亡史』だとツイートしていたと記憶しています。ならば今回の件もそうなのかと考えて『蟹工船興亡史』を読みましたが、どうにもその様な事は記述されていません。むしろ、大正から昭和期に蟹工船ソ連によく拿捕されていることが書かれており、ソ連に拿捕された船の数は大正期に17件、昭和期(1927~1930)年までに15件とされています*1。この拿捕の多さですが、当時はソ連による12海里問題*2の存在や日本船の技術欲しさなどからソ連による蟹工船拿捕が起こり、そして当然ながらその事件は新聞など記事となるそれなりに起こる外交問題でした。そして調べてみるとこの拿捕の多さについては亜留間次郎氏自体が認識しており、


https://twitter.com/aruma_zirou/status/1584737306631491584

以上の様なツイートをしています。それもご丁寧に「大正12年」という時期の拿捕数を。氏のツイートを素直に読むならば、もともとのツイートは大正12年に「ワタナベエリ」は夫の身代わりをしていると受け取れはします。では、この4件のすべてで代行したのか。それとも特定の一件のみなのか。その答えが続くツイートにありました。


https://twitter.com/aruma_zirou/status/1584740130291449856

冒頭のツイート群では名前は出てきませんでしたが拿捕された蟹工船は「美保丸」であることがわかります。となると、事件が起こった時期は大正12年4月10日。当時の領事は渡辺理恵、そして奥さんである「ワタナベリヨ」が領事代理をしたということになります。

「美保丸」拿捕について

 1944年に刊行された『蟹缶詰発達史』という書籍には「美保丸」事件は以下の様な記述がされています。

4月10日アタミに上陸せるに、巡視中のソ連官憲の取調を受け、尚製造作業中の本船を臨検せられた結果、密漁の嫌疑を以て阿部金之助、中川重剛の両名はサマルガに護送の上拘禁された。而して同船はサマルガに廻航を命ぜられたけれども、さらにウラジオストックに廻航し取調を受くる等のことあるときは事業に支障をきたすので脱出して小樽港に引き返し、漁船の補充を成した上、4月16日再び漁場に出漁した。当時創立準備中の工船蟹漁業水産組合発起人魯社長堤清六等は前期拘禁者解放の交渉を農林大臣に陳述したので、外務省はソ連当局に交渉し、その結果同年5月3日両名は無事帰還するを得た。
p.766

まず当初の亜留間次郎氏はウラジオストックに拿捕された蟹工船が抑留されたとありますが、『蟹缶詰発達史』を読む限り美保丸はウラジオストックに抑留される前に脱出して小樽港に引き返しています。また『蟹罐詰発達史 附録 蟹罐詰年表及び索引』ではもっと簡素に

同船はサマルガ廻航を命ぜられたが小樽に逃る
p.26

と記述。つまりは、「ウラジオストックに(蟹工船が)抑留」という亜留間次郎氏の記述は記録に反します。なのでその後の「解放」という文言や「ワタナベリエ」の行動はおかしい。というか、美保丸については亜留間次郎氏自身が上述のツイートスクショを見ればわかる様に「ウラジオストックへの回航を命じられて逃げた」旨を書いており、「ワタナベエリ」ツイートにおける拿捕からのウラジオストック抑留とは齟齬をきたしています。ただし、ここは書き方の逃げ方として「ワタナベエリ」ツイートを以下の様な解釈をすればその齟齬は一応は解消できます。

日本の蟹工船が拿捕されてウラジオストックに(船員が)抑留されてしまった。当然、領事は(船員を)解放してもらう交渉に当たらなければならない

以上の様にツイートはしていないけれど蟹工船は逃げて、抑留されたのは船員だけだよという論理の逃げは可能。ただし、この解釈であっても後述する資料から疑念のある解釈であることを示します。あと船員解放の為に外務省が交渉しているので、「ワタナベエリ」がいるならば外務省にばれますよね。
 美保丸を深堀する前に他の漁船拿捕の件についても触れていきます。まず近い時期に抑留された喜久丸についてはウラジオストックに抑留されているために氏の言っていることは喜久丸である可能性はあります。では、喜久丸についての記述はというと以下の様なもの。

ウラジオストックに曳航の上、密漁海賊船として起訴された。これが裁判は第一審においては船体没収、船長以下四名が処刑されることになったが、上告の結果無罪の判決を受け、同月23日ウラジオストックを出帆して帰還した。
p.765-766

裁判の中身まではわかりませんが、ここにも領事の話も出てきません。そして抑留という意味では約1か月後に拿捕された俊和丸(第一敏丸という船も拿捕)もウラジオストックに抑留されていますが、こちらは裁判に負けて罰金、製品没収後に船体、船員が解放されています。喜久丸、美保丸にはなかった「罰金(賠償金)」の存在(p766-767)があり、氏の発言はもしかすると俊和丸である可能性もありますが、農商務、外務海軍各省に保護を願い出て交渉をしていることから領事の夫人が交渉の前面、ましてや軍艦を爆破するぞという脅しをするのは考えづらいです。夫人のその行動自体が外交問題に発展しておかしくない過激な行動であり、交渉においてはマイナス要素の方が強いと考えられます。そもそもこの状態で夫人側が日本側にダマで出来るとは到底考えられません。どうせなので吉野山丸についても記述しますが、こちらはウラジオストックに抑留はされてはいませんし、賠償金などはなく逃亡に成功しているので該当の船には当たりません。また吉野山丸の詳細な顛末は1924年1月の『水産界』において野村利兵衛が記述していますが、迫撃を受けながらも逃走に成功したと書かれています。

当時の函館毎日新聞の記事について

 当時について参照するならばということで『函館毎日新聞』の大正12年4〜6月のマイクロフィルムで漁って当時の記事を探しましたが、当然ながら氏が言っている様な記事はありません。ただ函館毎日には吉野山丸以外の各漁船の拿捕事件についてはそれぞれ記述されており、特に氏の言っている美保丸についてはかなり詳しくその状況が記事になっています。それが函館毎日新聞1923年5月2日夕刊の次の記事です。

今二日午前一時沿海州のネリマ漁場に漁夫280名を送り込んできた汽船萬成源丸(1500トン)が入港した同船を訪れると、いまだ耳新しい美保丸の拿捕された船員二名と高田商会製剤部員三名が乗り組んでいる。この五名は実に数奇極まる運命に弄ばれて来たものである。彼等の話によると美保丸が4月8日に漂う中に水の欠乏を見たのでその付近の沿岸に船を寄せて船水を三羽船にて、補充中に突如露国官憲30名程が美保丸船室に踊り込んで銃ピストルを向け□部の上陸を命じたので、乗組中の阿部水産技師外石戸谷漁場の帳場員一名はその理由を問いたるに彼等は美保丸を密漁船と認める旨で如何に抗弁しても聞かぬため、阿部技師は船長に語らい金庫在中の三千円の金を携帯上陸する如く見せかけ自分は露国官憲に引かれたが、それを見た30名の露人等は一安心の体□船を引上て去ったので□間に船は錨を揚げ逃走した。これを見た露国官憲は憤激し阿部技師外帳場を牢獄に投じたが、これを在留邦人が聞きようやく嘆願の結果、引き出され村長の家に預けられることとなったのであるが、阿部技師はこの時数十円の金で酒類を買い村長などに呈し、毎日酔う機会を見ていたが、4月15日村長はじめ数十人の官憲はこの酒に饗応され酔い倒れたので阿部技師は帳場員と二人で逃走するが、ついに発見され発砲された。しかし酒で体が自由にならぬのでウマウマ逃走し、数十里離れた高田商会の製材部に逃げ込んだが、何時露国官憲の襲うやも知れず高田商会は磯舟一隻を与え、頑丈な人夫三名を附し樺太海馬島に向かわせたが、この時不幸にして暴風に遭い再びネリマ付近に漂着したので露国人に発見されるをおそれ邦人漁場の番屋に匿れ居る中、遂に又露国官憲に発見され五名は白米一斗を携帯し、山深く逃れ水ばかり飲んでいた□遥かこの萬成源丸の通航を認め、ようやく救助されたのもので山に入りて十日目であったので、まさに死に瀕した有様であったが全く奇跡的の運命であったと語る。
※字がつぶれてわからない部分は□に、一部読みやすく句読点の追加や漢字を直しています。

この記事を信じるならば美保丸は拿捕された際に、

・阿部技師が機転を利かせて露国官憲を引き付けた際に船は逃走
・阿部技師が投獄後、在留邦人の嘆願の結果、村長の家に預けられることになった
・阿部技師らは村長に酒を毎日飲ませて脱出の機会を探り、そして実行
・酔わせ作戦で逃亡成功、その後に高田商会から船を与えられ脱出
悪天候に遭い再度ロシア側に漂着、露国官憲から逃れるために山に潜伏
・山に入って十日目に日本の船に救助されて奇跡的に生還

という過程で日本に戻ってきています。正直なところ、この記事の語り口にはやや盛ったものも感じますし、『蟹缶詰発達史』における外務省とソ連当局との交渉の結果帰還という記述とも齟齬をきたしています。「在留邦人の嘆願の結果」という部分がもしかしたら外務省の交渉の可能性はありますが……。発達史は1944年刊行という事を考えれば、当時の記事であるこの函館毎日新聞の方が事実性には近い部分はあるとも考えられます。ただ、どちらを信じるにせよ、やはり「ワタナベエリ」、というよりも「領事」の存在すらもここでは語られていません。なお、函館毎日新聞の同日には「自衛出漁の準備」と言う記事があり、ここでは日本政府が渡辺領事を通して露国に抗議をしたとあり、5月2日時点で渡辺理恵が業務を行っていることがわかります。さらに言えば函館毎日新聞を読む限りこの時期の日露は漁業問題などを中心に交渉ごとが多いように見受けられ、だから自衛出漁などどいう記事が出てくるわけです。全記事の全文を読んだわけではないので断言はできませんが、渡辺領事が書かれた記事は他にもあってもおかしくはありません。それともしも夫人が代行してるとしてもすぐにバレそうな気がします。領事館に渡辺領事以外の人間がいなかったとも少し考えにくいですし。これらの事を勘案すれば亜留間次郎氏の「ワタナベエリ」武勇伝はどこから出てきたのか謎ですね。

 『蟹缶詰発達史』において「渡邉領事」、「渡邉総領事」という単語は出てきますが、もちろん件の話についての記述は一切ありません。当時の雑誌である『水産』、『水産界』また朝日や読売においても事件の記述はなく、そもそも氏がツイートした美保丸についての記述はほぼありません。函館毎日新聞の当時の記事には美保丸の拿捕事件の顛末が語られていますが、こちらでの記述も「ワタナベエリ」など登場しません。あえて氏の側に立つならば日ソ国交樹立の時にバレたのであるから日本側資料では全く記録されていない話であり、故に領事が病気であったり、爆破脅迫の件が当時語られていないという可能性はあります。氏は美保丸の件について「移動中にロシア人を海に落として逃げた」、「ソ連の女性閣僚が招待したい*3」、「ウラジオストックの博物館」などとありますが、それについての記述もなくタネ本はほかにありそうです。もしくは氏の創作、と断言まではできませんがただ少なくとも現状言えることは、彼が示す大正12年に拿捕された船の状況を『蟹缶詰発達史』などで読む限りは亜留間次郎氏の書いていることは限りなくデマくさいとしか言いようがありません。例えば氏はウラジオストックの博物館に吹き飛ばされなかった軍艦がある*4など、端々にソ連側の情報を書いてあるのでソ連(ロシア)の書籍がソースの可能性だってありますが、では、そのソースを出してほしい*5。でないと、胡乱だ。
 っていうか、そう。ソースをだせ。出典を書け。何故それを省略するのか。避けるのか。聞かれているのに答えないとか、「そういうこと」と思われても仕方ないぞ。


2月10日追記


https://twitter.com/aruma_zirou/status/1622384287285927938

RT数やいいね数、そして該当ツイートを削除した事、「気持ちのいい話を書くとデマでも伸びる」っていう文面からすると、まあこの話はデマですね。



■お布施用ページ

note.com

*1:蟹工船興亡史 』p.141

*2:当時は海外線から3海里を領海としていたが、ソ連は12海里とした問題

*3:ところでソ連初の女性政治局員は1957年のエカテリーナ・フルツェワなので、1956年時点の女性閣僚とは誰なのだろうか。

*4:内容的には太平洋艦隊軍事歴史博物館か。記念艦クラスヌイ・ヴィンペルが展示されており、1923年にウラジオストックにはある模様。https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9A%D1%80%D0%B0%D1%81%D0%BD%D1%8B%D0%B9_%D0%B2%D1%8B%D0%BC%D0%BF%D0%B5%D0%BB

*5:ちなみにロシア語でワタナベエリ(”Ватанабэ Эри”?)で検索しても出てくるのは女優の渡辺えりです。それらしいキーワードをつけても氏の言う「ワタナベエリ」の話は出てこなかったです。