電脳塵芥

四方山雑記

教育勅語と「アデナウアー首相」や『The Book of Virtues』にまつわるネットロア


https://x.com/toshio_tamogami/status/1800651046433304852

 田母神敏夫氏は同様の話題については10年以上前から言っており、例えば2010年の講演でも教育勅語の焼き直し云々という類似の話題をしていたことが観測できるし、同年に出た戸塚ヨットスクールの校長である戸塚宏との共著『それでも、体罰は必要だ!』においても「アメリカで日本の『教育勅語』が読まれている」という章立てがある様に該当言説を採用している。とはいえ、結論から書くがこの「教育勅語の焼き直しであるThe Book of Virtues」というのはデマであるし、アデナウアー首相の執務室に教育勅語が掲げられていたという情報もほぼ間違いなくデマだ。この記事ではこれら二つの情報についての検証をしていき、それが何故デマなのかを立証していくが、その前に「サッチャー英首相も絶賛」という話にも触れていく。元々この「日本の道徳(修身)教育」についてゆとり教育と併せて批判されていた時期があり、その参照としてアメリカのレーガンであったり、イギリスのサッチャーであったりの「教育改革」が日本の保守論壇で幾度も取り上げられていた時期がある。例えば2005年の中西輝政監修『サッチャー改革に学ぶ教育正常化への道 : 英国教育調査報告』であったりがその典型だ。また後に検証する「The Book of Virtues」に対してサッチャーが好意的なレビューを書き、それが同書籍の売り文句になったという事実があり、これらが合わさって上記の「教育勅語サッチャーも絶賛した」という言説へと変容していったと思われる。

アデナウアー首相の執務室に教育勅語はあったのか

 これは長谷川亮一による『教育勅語の戦後』の余話「アデナウアー・西ドイツ首相は教育勅語を信奉したか?」で検証がなされている。それによれば1958年に谷口雅春『我ら日本人として』(1958年2月10日発行)において「憲法調査建議合同会」という改憲派団体が頒布していたビラに類似エピソードが書かれていたとある。

第十三章 道徳教育の理想に就いて
(略)憲法調査建議合同会、文学博士長井眞琴他多数市の名義で次のような文章を書いたビラが届けられた。
「西独のアデナウアー首相の部屋に日本の教育勅語が其の儘掲げられ、その傍らに独逸語で訳文が並べられてあり、同首相を訪ねた日本の議員団が其訳を聞いたら、ア首相は『自分が敗戦後しきりに首相になれと勧められて、いろいろ思い悩むことがあって五度までそれを断ったが、日本の教育勅語を国民道徳の中心とすることに気付いて六度目に漸く引受けました。だから全国の各学校其他各職場、持場の末梢に至るまでこれを同様掲げさせて生活の目標とさせている』と答えられたというのです。この教育勅語の本家本元の日本の有様はどうですか、あまつさえこれに反感をもつものさえあるとはなんという矛盾したことでしょう。心ある外人さえ口惜しがっています。」
p.142
※一部旧字体などを適宜読みやすいようにしています。

ここでの「憲法調査建議合同会」なる会の主張としては教育勅語無しにアデナウアー首相なしレベルの過度の装飾がなされているし、「各学校、各職場に教育勅語が掲げている」という俄かには信じがたい荒唐無稽な内容が書かれている。谷口自身はこのエピソードに対しては長井眞琴は嘘を言うような人ではないから本当だろうと思う、と書きつつ、その後にそれが本当にせよ、嘘にせよ、教育勅語にに盛られている内容は立派なものであるという若干逃げのある文章を補足的に入れている。なお長谷川によれば邦訳されたアデナウアーの回顧録教育勅語に関連する記述はないし、首相を幾度も固辞したという記述もないという*1。そもそもアデナウアーは1946年1月CDUイギリス占領地区委員会が設立された際に最年長で委員会の議長に就任しているし、1949年8月に第一回連邦議会選挙ではCDU/CSUの勝利後にアデナウアーは自分を首相に推薦したし、首相選挙では自分が投じた一票の僅差で首相になっている。何度も固辞したというエピソードの様な人物には到底見受けられない。このエピソードはどう考えても捏造だろう。
 上記の文章を書いた「憲法調査建議合同会」であるが、まず名義を貸した仏教学者の長井眞琴は国会図書館デジタルコレクションなどで調べる限りはこの言説を当時書いているようなそぶりはない。名義は貸しているが執筆者は他にいると考えられる。現状で上記ビラの起草者と考えられるのは憲法調査建議合同会の理事長である堀田如天(本名:善太郎)だ。堀田は1959年の『憲法の筋金は何か : 聖徳太子の秘法精神』という書籍でも類似のエピソードを書いている。

西独のアデナワー首相が、逸早く日本の教育勅語が強い日本人を作ったことに目をつけ、夙くも独逸再建の信条にと取り入れ、国民教育の示標として、国内の学校工場に掲げさせておる。之に目をつけたアメリカ人 は、さてはと気がついて、今頃いろいろとそれぞれの学者を選び日本に派遣して、教育勅語の本体を掴もうとしておる。
p.55

後半のアメリカについても眉唾だが、基本的な主張としては「外国にも褒められる教育勅語、それに引き換え日本は」というものがあるのだろう。ただ誰が書いたにしても少なくとも上記二つの文章には出典は存在しない。そして堀田だが教育勅語関連の文章としては1957年8月1日の日付が書かれている『憲法調査の建議署名運動趣旨』の「間違われている教育勅語の見解と我が国文教の真髄」も挙げられるが、こちらにはアデナウアーのエピソードは存在しない。文章内容にそぐわないと判断して排除された可能性は否定できないが教育勅語の復活を願う該当文書の性格を考えた場合にこの話がないのは若干違和感があり、57年の夏時点では堀田はこのエピソードを知らなかった可能性は高い。これら資料を見ていくとアデナウアーを訪ねた「日本の議員団」がおそらくの発端であるという事、堀田による57年夏ごろの文章と谷口本の発行年を考えた場合、1957年末頃にはこの言説が生まれたであろうことが類推できる。
 そして言説の淵源を辿ると少なくとも1957年には荒舩清十郎が話していた、同じく1957年に佐々木秀世が話していたという言説が紹介されており、おそらく1957年ごろにこの「アナウデアー首相の部屋に教育勅語が掲げられていた」という言説が生まれたのだろう。なおそれ以外の「説」として安岡正篤によって広められたという説を岩淵達治が記述しているが*2、こちらの説については論拠がなんら示されていないという欠点がある。確かに岩淵による安岡説は実際に読んでみても論拠は存在せず、また安岡の説によって皇学館の教育勅語の雑誌にフィードバックされたような文章が紹介されているが、おそらく該当書籍である1968年刊行の皇學館大学教育勅語を仰ぐ』ではアデナウアーの公室に教育勅語が掲げられたエピソードだけが紹介されており、安岡正篤という名前は出てきていない。岩淵もなんかしらの根拠はあって安岡説を紹介したのだろうが、客観的には出典は存在せず、また国会図書館デジタルコレクション上で1957年ごろに同様の言説は確認できずに探りようがないのでここではこれ以上安岡説の検証は割愛する。
 では荒舩説、佐々木説について当時どの様な紹介がなされていたのだろうか。まずは荒舩説だが、『神社新報』1957年10月12日付には次の様に記述されている。

国造りの前提 森本忠
ちなみに教育勅語であるが、中央タイムスによると代議士荒船清十郎「船」は原文ママ)が西独に行ってアデナウワー首相を訪問したら、その公室に明治天皇教育勅語の日本語と独逸語でかいたのがあった。そして首相は「このやうな立派な教へはどこの国にもない。西独の小、中学校にはほとんどどこでもこれをかけてゐる」といった。これを聞いた荒船氏はまさかとおもってある中学校に行ったらはたして首相の言った通りなので驚いたと語ってゐる。
※この記事は雑誌『三十棒』からの転載と思われるが、三十棒は国会図書館などで検索してもヒットせずどの様な雑誌だったかは不明

文章を読む限り出典は「中央タイムス」となるが、1957年付近の中央タイムスという雑誌は国会図書館にも現存しておらず原文を見ることは無理な状態となっている。ただし森本によるこの文章を読む限り、教育勅語が公室に掲げられているだけではなく西ドイツの小中学校にまで掲げられているという話から、憲法調査建議合同会の出典は荒舩が吹聴したものである可能性が高いことが窺える。そして次に佐々木説だが、これは小原国芳が『全人教育』1957年12月(小原国芳全集 第20より)で次のように書いている。

この間も、北海道選出の佐々木代議士の報告談を伝え聞いて感じたことでした。佐々木さんがドイツでアデナウアー首相を訪問されたら、室の後ろの壁には、立派な額に日本の教育勅語が、しかも、漢字と片カナの勅語が掲げてあったという。余りにフシギに感ぜられて、そのワケを聞かれたらアデナウアー首相は、
「えて、政治家は現実主義に堕落します。魂の指針を世界に求めてみたら、お国の教育勅語が一番、よくまとまって尊いと思うから掲げとるのです」
という意味のことを答えられたそうです。

これによるとアデナウアーの公室には「漢字とカタカナ」による教育勅語が掲げられおり、ドイツ語訳ですらない事になる。かなり異質な状況ともいえる。なお荒舩説と佐々木説だが、荒舩説については上記に紹介した以外にもいくつか存在している一方*3、佐々木説は上記一つだけとなる。小原国芳は同全集に同様の言説をもう一度書いてはいるもののその時は「日本の国会議員」と若干ぼかしている表現となっている。また小原についていえば1957年10月に発行された『道徳教育論』にはこのエピソードは存在していない。これらを見るかぎり1957年後半からアデナウアーの言説が広まったと類推できる。なお読売新聞の過去記事を見る限り、荒舩は1956年8月8日に、佐々木は1957年6月3日に欧米議会視察団として出発しており、欧州への視察そのものは確認できる。
 以上は長谷川による検証をもとに多少の発展部分を付け加えたものだがここからはもう少し踏み込む。まず教育勅語はドイツ語では「Kaiserliches Erziehungsedikt」と記述するが、ドイツ語版wikipediaには荒舩説で述べられていた小中学校で教育勅語が掲げられていたというエピソードは当然存在せず、ついでに言えばアデナウアーの公室云々という記述も存在しない。「Kaiserliches Erziehungsedikt」で検索する限りはあくまでも「日本の歴史」の一要素としてのちょっとした説明がなされている場合が多く、「ドイツの生活史」に組み込まれた「Kaiserliches Erziehungsedikt」は存在している様には見受けられない。つまり学校にまで掲げてあったというのは大嘘だろう。またこの件についてドイツ国立図書館(Deutsche Nationalbibliothek)へ問い合わせをしたところ、アデナウアーの一日一日を記録してあるページを紹介してもらった。全日数の記録があるわけではないが、おそらくは基本的に公務についての記録はこのページに記録されているように見受けられる。そこで「japan」と検索して結果として出てくる1957年のアデナウアーの日本関連の出来事は次の様になる。

1957年5月17日 10:30~11:00
japan. Botschafter Takeuchi - Antrittsbesuch - Dr. Mohr und Dolmetscher Kusterer
(日本タケウチ大使 - 就任式 - モーア博士とクステラー通訳)
1957年6月25日 16:30~40
Minister a.D. Shigeru Hori japan. Botschafter Takeuchi 1. Sekretär Kimoto Dr. Müller-Dethard
保利茂元大臣 日本 タケウチ大使 キモト一等書記官 ミュラー・デサード博士)
1957 年10月23日 18:00~40
japanischer Sonderbotschafter Hotta (Bank von Tokio) Botschafter Takeuchi japan. Dolmetscher Kimoto
(ホッタ特使(東京銀行) タケウチ日本大使。キモト通訳)
※カッコ内は自動翻訳による

日本政府の関係者と会ったのはカレンダー上では上記三つとなり、そして国会議員に限れば保利茂のみとなる。これを1956年にまで範囲を広めても所謂「議員団」との接触は見られないし、荒舩、佐々木両氏の名前は存在しない。付け加えて言えば安岡正篤との接触も見られない。ただし、1957年6月の保利茂との会談だが同年3日に日本を出発した欧米議会視察団の委員長が保利茂であり、その一団に佐々木秀世がいる*4。アデナウアーのカレンダー上の記録では名前は存在しないが、あくまでも議員団トップの「保利茂」の名前だけが記されて他の議員は省略されたという可能性は拭えない。つまり佐々木秀世は6月25日にアデナウアーと会った可能性そのものは否定できない。ただしこの場で教育勅語の話が出たならば最大で5人の議員がいた可能性が出てくる事となり、それを考えると話題の流布がいささか小規模であるし、確認できる言説の流布の時期は10月ごろからとやや遅くは思える。ただ荒舩説についてはアデナウアーのカレンダー上の記録からその可能性を排除は出来るものと言える。佐々木説は一応はその可能性が残っている状態とはいえ、それ以上の情報をドイツ側に求めることは困難だ。荒舩説にしても佐々木説にしてもやはり日本のみに広まっている情報にしか過ぎず、日本側の情報ですら現状では最も古いであろう出典になるであろう中央タイムスはもはや資料の確認が出来ずあやふやな情報しか残っていない。荒舩説がやや多い事を考えれば彼が言いふらした可能性は存在する程度は言えるが、その後に彼がこの話題を述べている様な言説そのものが現状では確認できないし、国会会議録においても荒舩清十郎は教育勅語に関する話題を述べている様な向きはない事から荒舩説も信用性に微妙なところがある。荒舩自身は放言も多かったことから、どこからか耳に挟んだ話を盛って話をした可能性も拭えない。
 次にドイツ国立図書館からコンラート・アデナウアー財団(Konrad-Adenauer-stiftung)が紹介され、該当団体へこのエピソードについて問い合わせをしてみた。この返答にその件に関する情報ないとの返答と共にアデナウアー連邦首相ハウス財団(Stiftung Bundeskanzler-Adenauer-Haus)を紹介されたのでそちらへも同様の質問を送ってみた。それによると日本の国会議員団がアデナウアーと面会した場所は「Palais Schaumburg」にある執務室であると推測するものの、「” In Rhöndorf, at any rate, the edict is not to be found.”(レンドルフ(財団のある場所)では勅書は見当たらない) ※自動翻訳」という回答を頂いた。つまり財団としては教育勅語に関する様な情報はないということだろう。またハウス財団からはドイツ連邦公文書館本館(Bundesarchiv Koblenz)を紹介されたのでそちらに連絡を取ってみたところ、1959年7月16日から17日の当時の岸首相の訪問に関する資料ならば存在するという返事を貰えたが、つまりは1957年当時の訪問の記録や教育勅語に関する様な記録は存在しないのだろう。そしてハウス財団によって示されたPalais Schaumburgにあるアデナウアーの部屋だが1950年の写真や、


Photo: Bundesarchiv / Presse- und Informationsamt der Bundesregierung/Arntz / E. Burow

1963年の写真や、


Photo: Bundesregierung/Ludwig Wegmann
※右がアデナウアー、左はシャルル・ド・ゴール

1983年の写真


Photo: Bundesregierung/Schulze-Vorberg

などいずれの写真にも教育勅語が掲げられている様には一切見受けられない。やはりアデナウアーの執務室に教育勅語など掲げられていなかったという事だろう。恐らく言説が流布するきっかけとしてのアデナウアー首相と「日本の議員団」の接触そのものはあったと考えては良いが、そこからの「アナウデアーの公室に教育勅語」という言説はその実態などが確認できず、教育勅語を復活させた50年代後半の保守言論による「創作=デマ」と考えるのが妥当だと考える*5

教育勅語」と「The Book of Virtues」

 アデナウアー首相の言説は1957年と古いが、こちらの言説については2000年代に入ってからとわりと新しい。これについてはSkeltia_vergber on the Webというブログにて「『道徳読本』と『The Book of Virtues』を巡るデマについて」においても検証されているが、ネット上においての言説は小池松次という人物が発端といえる。彼が雜誌『WILL』の2005年11月号において「石原慎太郎にまで批判された「修身の教科書」」から「言説」が生まれる。該当箇所は次の通りだ。

五十一年目の悲願
 この『修身の教科書』(サンマーク出版)の元本は昭和四十五年に『これが修身だ』というタイトルで出しました。当時、四十社くらいに持ち込んだですが、みんな興味を持ってくれなくて、逆に説教されることもありましたね。「こんなの売れると思っているの?」なんて言われたこともあります。
 どうしても本として出したかったので、とうとう借金して自費出版しました。二万部。ようやく本になったと思ったら、読売新聞の社会面で、石原慎太郎氏に「こんな古い道徳の本を出して何事か!」と批判されてしまいました。その頃から前途多難でしたね。
(略)
海外は認めてくれている
(略)
 ある時、アメリカの大使館員がウチに来たんです。何事かと思ったら、あなたの本をワシントンの国立図書館に贈りたいと言ってきた。おそらく修身については私しか本を出していないからでしょう。もちろんオーケーしました。
 その後、今度は世界一有名な『TIME』誌が取材に来ました。いきなり来て、しかも、日本語ができないんですよ(笑)。私も英会話は駄目なんで筆談です(笑)。なぜ日本に来たのかと聞いたら、「アナタは有名人」としか言わず、なぜ有名かはその時わかりませんでした。
 おそらく私の本がワシントンの図書館にあるから来たんでしょうが、有名になった理由を調べてみました。すると次のことが分かったんです。
 レーガンが大統領になった時、アメリカの青少年のあまりの非行と学力低下アメリカが亡ぶと思い、日本に教育視察団を送った。
 その団長だったウィリアム・ベネット教育庁長官は辞めた後、本を編纂しました。タイトルは『道徳読本』(The Book of Virtue(原文ママ))と言い、八百三十二ページという大作ながら、今まで三千万部を売る大ベストセラーになり、今ではアメリカ家庭の“第二の聖書”になりつつあると言われています。
 その内容は、「自己規律」「思いやり」「責任」「友情」「仕事・勉強」「勇気」「忍耐」「正直」「忠誠」「信仰」という十の項目によって章が構成され、それぞれの項目の説明と共に、関連する古今東西の民話や寓話、偉人・賢人の逸話や随筆を短くまとめたものが掲載されたものです。
 実は、その構成は九章までは私の『これが修身だ」のままなんです。最後に「信仰」という宗教の話を追加しています。これは聖書の国だからでしょう。
 おそらくその本から、私の本にたどり着いた『TIME』誌が日本に来たんじゃないでしょうか。
 それから一週間くらい後に今度はドイツの学者が来ました。これまた何で来たのか聞いても、悲しいかなよく分からない。
 ようやく帰る頃になって、「ドイツで何年もアナタのことを調べていた。一度会いたくて来た。三時間話して思ったのは、想像以上の人物だった」と言ったことがわかりました。「アナタを知らないドイツ人はいないと」とも。何で有名なのか調べてみたら、なんとマーガレット・サッチャー元英国首相が件の『道徳読本』をベタボメしていたんです。
 そこでドイツの人も同じようにこの本について研究したところ、元本はアメリカじゃなくて日本の修身だとわかった。そして、修身について調べると私の本しかない。
 だから、私は世界で認められているんです。日本国内でいくら叩かれても、自信を持って講演をし、売り込みを続けることができるんです。

上記の記述を鵜呑みにするならば『The Book of Virtues』は小池松次氏の著作『これが修身だ』(1970年4月発行)をネタ本にして書いた、という主張だ。読んでもらえばわかるが氏のThe Book of Virtuesに関わる部分の主張には一切「教育勅語」という単語は存在しない。実はこの言説の原型においては「The Book of Virtuesは教育勅語の焼き直し」ではなく、「The Book of Virtuesのネタ本は小池松治が書いた修身の本」だというものだ。「修身の本」がネットなどの伝言ゲームでよりわかりやすく、キャッチーな「教育勅語」へと転化したのだろう。そして基本的に上記記事は小池松次による自画自賛であり、また2005年当時に刊行された『修身の教科書』(『これが修身だ』をコンパクト化したような本であり、テーマは同じだが中身は異なる。)による宣伝を含む記事と言える。小池の主張は氏自身が一般財団法人 国づくり人づくり財団におけるページでわかりやすく図式化している。


画像では『これが修身だ』ではなく、のちに出た改題本である『修身・日本と世界』になっている

さて、これらはどこまでが事実なのか。 ただ個々の検証に行く前に少しだけ脇道をしていく。小池は冒頭で読売新聞で石原慎太郎に『これが修身だ』が批判されたとあるが、これは1970年7月30日の下記記事だろう。

自衛隊が「修身」採用
国定教科書の抜粋本 "新兵"教育の参考に配る
この本は、「日本人のしつけを考える会編」、日本館書房発行の「これが修身だ」
(以下、記事本文は略。石原慎太の部分は有識者談としての枠)
見識がない
作家、石原慎太郎氏の話「修身そのものは普遍的なもので、言っていることは別段おかしな事ではないと思う。しかし、これをいまの時代に修身や教育の材料に使うという姿勢には、政治的なにおいもするし、第一おざなりで見識がない。歴史の中からエピソードをひいてくるにしても、今の時代にあった新しいやり方があるはずだ。(以下略)」

同種の記事は朝日、毎日には存在せずに読売のみで報じられている。「日本しつけを考える会」の『これが修身だ』という本が自衛隊で用いられて批判されているという記事だが、見出しにある様にこの本は過去の国定教科書などからの抜粋本であり、本自体に特徴的なオリジナリティは皆無と言って良い。あえて言うならばまえがきや説話の選定の部分がオリジナリティとはいえるが、それでも抜粋本の域を超えるものではない。そして記事にある様に石原は確かに批判しているが、小池が言うところの「こんな古い道徳の本を出して何事か!」はやや誇張的には見える。
 さて、小池の主張によれば『The Book of Virtues』には10の項目があるという。この項目に関してはインターネットアーカイブによって確認可能だが、それによれば次の様になる。

『The Book of Virtues』自体はエピソードは大幅に削減はしているが実務教育出版から1997年3月に『魔法の糸』、12月に『モラル・コンパス』、1999年に『不思議な翼』として三度、日本で翻訳本が刊行されている。それに合わせてこの10の項目を書くならば次のようになる。

1 自己規律
2 同情
3 責任感
4 友情
5 仕事
6 勇気
7 忍耐
8 正直
9 忠誠心
10 信仰心

次に『これが修身だ』だが初版本には22の項目が示されている(のちの1980年に刊行される『これが修身だ』の改訂本である『修身・日本と世界』では25の項目へと増えているがここでは増えた部分は扱わない。)。

1 家庭のしつけ
2 孝行
3 家族・家庭
4 勤労・労力
5 勉学・研究
6 創意・工夫
7 公益・奉仕
8 進取の気象
9 博愛・慈善
10 質素・倹約
11 責任・職分
12 友情・朋友
13 信義・誠実
14 師弟
15 反省
16 正直・至誠
17 克己・節制
18 謝恩
19 健康・養生
20 武士
21 愛国心
22 人物・人格

この「22の項目」のうち「信仰心」以外の9項目が『The Book of Virtues』で用いられているテーマと相通じているから、『The Book of Virtues』のネタ本は『これが修身だ』だ、というのが小池松次の論拠となる。かなり無理があると言える。『The Book of Virtues』は10の項目に沿った形で古今東西の逸話を300以上集めた説話集であり、書籍そのものの構造は国定教科書の抜粋本である『これが修身だ』と類似はしていると言えるが、とはいえ似ているのはその構造だけだ。また『The Book of Virtues』にはアマゾンの試し読みによってINDEXによって収録されている話を全て確認可能だが、日本人や日本にまつわるエピソードはないように見受けられる。当然、小池松次(koike matsuji)についての記述も修身についての記述もない。『The Book of Virtues』から日本の修身や『これが修身だ』、小池松次へと辿っていくのは不可能なレベルだろう。
 『The Book of Virtues』についてもう少し深堀すると著者であるウィリアム・ベネットはアメリカにおけるインタビュー文が二つほどはネット上で確認できるが*6、日本や修身についての話題など一切ない。あえて言えば小池の主張によれば『これが修身だ』が所蔵されたという議会図書館(脇道だが小池は議会図書館を国立図書館だと言っていたが、アメリカは「議会図書館」が正しい。)においてエピソードを集めていた、というくらいしか共通性を見出すことは出来ない。なおベネットについては日本の教育を政府の仕事として調査をした、その際に調べた「修身」を参考に云々という話は探っていく上で幾度かあたるエピソード(推測)だ。この調査自体は事実であり1987年にその結果が"Japanese Education Today"として公表されている。中身を読む限り日本教育の歴史的背景として前近代からの記述があり、明治から戦前の部分で教育勅語などにも一応は触れているが、あくまでもその部分は歴史として語っているのみであり、本題は調査時期(1985~87年)の日本の教育の話だ。各科目の説明などでは「道徳教育」が日本の教育にとって重要である事には触れている。だが、それをもってして「戦前」の話である「修身教育」と解釈して良いかは甚だ疑問というか、飛躍がある。道徳教育の説明では教科書は存在せずに教育テレビや市販の教材を利用している旨も書いてあるし、あくまでもこの部分は1980年代中盤の日本の道徳にしか触れていないからだ。勿論、歴史を叙述する際になどにベネットが修身の教科書を目にした可能性は排除できない。しかしそれはあくまでも排除できないというレベルであって、ベネットがこの調査の際に修身の教科書を発見してそれが後に『The Book of Virtues』となったという「推測」に発展するのは少々行き過ぎだともいえる。
 それと発行部数についてだが『The Book of Virtues』は3000万部売れたと書いてあり、またその他の数値としては2014年の産経新聞に上田和男という人物が2700万部という数字がある。ただ、2022年に30周年記念として発売されたバージョンにおける商品説明には”Almost 3 million copies of The Book of Virtues have been sold since it was published in 1993.”とある。つまり1993年から2022年に売れたのは300万部となり、3000万部は実際の10倍となっている。2700万部や3000万部という数値がどこから来たのかは不明だ。300万部はベストセラーに違いないし、シリーズ本としては1995年に"The Moral Compass: Stories for a Life's Journey"や子ども向けに"Children's Book of Virtues"が刊行され、のちには”Adventures from the Book of Virtues”というテレビアニメシリーズも放映されていた。アメリカ国内で人気であったことは確かであろうが、とはいえ日本における3000万部の大ベストセラーは誤りだろう。
 ちなみにこれは完全に余談だが、著者のベネットは当然ながらアメリカにおける保守派側の人間といえるが、2016年の選挙時にはトランプを熱烈に支持していたという話がある。最高裁にリベラル派の判事が指名されることを阻止したかったからのようだ*7

■TIME誌からの取材について
 小池の主張の真実味をあげるテクニックとして使用されているのが”『TIME』誌が取材に来ました”という下りで語られる、外国から取材を受けたというロジックだ。このWILL上の説明ではいつ来たのかは不明となっているが、小池にとってよほど名誉だと感じたのか他の媒体でも「取材を受けた」という話が記されている。例えば一般財団法人 国づくり人づくり財団における対談では”1996年には、TIME誌に授業風景が掲載”とあるし、修身・日本と世界という小池が関係するHPにおける研究者の紹介では平成8年、つまりは1996年に取材を受けた旨が記載されている。

平成八年三月のことです。突然ニューヨークの「Time/タイム」誌の記者とカメラマンの二人が、「あすか会教育研究所」に、「これが修身だ」の編著者である筆者を訪ねて来ました。

さらに2007年のワールドフォーラムには掲載号まで記されている。

論文は、貴重な資料として世界的に認められ、TIME誌(1996年4月22日号)に 小池氏の授業風景が掲載されている。

以上のことから小池はTIME誌の1996年4月22日号に授業風景とそしておそらく修身ついての記事が掲載されたはずである。そしてTIME誌はネット上において当時の紙面構成などが読めるようになっているが、1996年4月22日号のリンクも当然存在する。日本に対する記事は「THE FAILED MIRACLE」という日本経済に対する記事、そして「U.S.-JAPAN SCORECARD」という日米貿易に関わる話であり、小池松次(koike matsuji)なる人物の話は一切ない。付け加えて言うならば、国会図書館の電子ジャーナルでTIME誌が確認可能なので「koike」と検索したが小池百合子の記事はあっても小池松次の記事は一切検索でヒットしない。「japan」と検索して1996-98年の記事を漁ってみたが、それでも修身や小池松次についての記事は見受けられない。そしてTIME誌に直接問い合わせたところ以下の返事を頂いた。

I was not able to locate any mention of Koike Matsuji but you can view a scanned version of the full April 22, 1996 issue here. I hope this is helpful.
小池松次に関する記述を見つけることはできませんでしたが、1996年4月22日号の全文をスキャンしたものをこちらでご覧いただけます。お役に立てれば幸いです。)

返事には4月22日号が全文スキャンされているリンクが貼られていたので実際に確認したが、小池に関する写真は当然ながら皆無だ。日本についての写真は「THE FAILED MIRACLE」の記事内にある労組、ホームレス、オウム真理教の指名手配となる。つまりこの件に関して言うならば、TIME誌に掲載されたという小池松次の主張は一切事実のないデマだろう。また小池はシュピーゲル誌にも取材されたと語っている。こちらはネットから確認不可能だが少なくともTIME誌における嘘を考えるとこちらも盛ったものと考えて良いだろう。デマであると断定できる以上は最早蛇足だが、TIME誌の記者から”「アメリカで一番有名な日本人」”と評されたともあるが「koike matsuji」でグーグル検索してもオーストラリアの図書館の所蔵や彼の著作のネット販売がチラホラとある程度で彼自身についての説明書きなどは存在しない。虚飾に満ちた自画自賛だ。

■議会図書館への所蔵について
 小池の主張の一つに「『これが修身だ』はアメリカの国立図書館(議会図書館)」に所蔵されたという話がある。

小池松次氏の著書 「これが修身だ」が、レーガン大統領は教育現場の荒廃を嘆き、ウィリアム・ベネット教育長長官に道徳本の編纂を命じ、昭和46年頃、アメリカ大使館からあすか会に電話があって、大使館が小池先生の著書『これが修身だ』を購入のうえ、アメリ国立図書館に収めました。それを教育庁が図書館で発見、 その徳目の素晴らしさに注目し、『The Book of Virtues』の徳目としてそのまま使用しました。
ワールドフォーラムより

「あすか会」というのは小池が代表を務めていた教育団体なのだが、この点にはやや違和感がある。昭和46年頃ということは対象書籍は『これが修身だ』(昭和45年発効)の事を言っているのだろうが、該当書籍の編著者は「日本人のしつけを考える会」であり、発行所は「日本館書房」となる。つまりは「あすか会」という記述は何処にもない。あすか会が何時から存在するのかは会のHPなどをみても不明だが*8、正式名称である「あすか会教育研究所」で国会図書館デジタルコレクションを検索すると下限は1985年となり、当時にあすか会があったかは疑わしい。ただこの点は2007年の小池の話のための記憶の混同であり、例えば当時発行した日本館書籍のことを言っている可能性はある*9。ただ、そもそもの話であるが『これが修身だ』という書籍に実は「小池松次」という名前の記述は一切存在しない*10。冒頭にある「発刊によせて」は「日本人のしつけを考える会」とあるし、奥付は次の通りだ。

奥付にある唯一ある発行者欄の名前は「八起 達」とあり別人であり、小池の名前が表に出てくるのは改題本である『修身・日本と世界 今こそ日本も考えるとき』(昭和50年刊行)からである。つまり『これが修身だ』という単独の書籍から「小池松次」という人物に突き当たるのは至難の業と言える。勿論、「日本人のしつけを考える会」から辿ることは可能だったかもしれないが、こちらの団体も活動実績は国会図書館などを見る限り『これが修身だ』のみで終わっている。小池の書籍が大使館から連絡が来て議会図書館に所蔵されたという主張は疑問符がある。実際にアメリカ議会図書館で「koike matsuji」で検索すると氏の著作で所蔵されているのは2007年刊行の「品格ある日本人を育てた小学国語読本」のみである。しかしこれは先の『これが修身だ』には小池の名前がない事を考えれば「所蔵がない」という事に対する反証にはなりえない。しかし議会図書館の検索はアメリカにとっての外国書籍の検索をしやすくするためか、日本語なら日本語のタイトルや著者名も併記しているために日本語検索にも対応していると言える。そこで『これが修身だ』、日本人のしつけを考える会、日本館書房などの検索ワードを検索したが、いずれも検索結果はヒットしない。もっと大きな検索キーワードとして「修身」で検索すると1970年(昭和45年)に『尋常小學修身書』という修身の教科書の復刻版が池田書店株式会社ノーベル書房という二社から出ているが、これは『これが修身だ』とは材料は似ているが、しかし小池とは無関係な書籍と思われる。一応、検索に対応していないところに保管されているという可能性を否定すること出来ないとはいえ、小池が主張するような大使館経由で『これが修身だ』がアメリカの議会図書館に所蔵されたという話は事実とは考えにくい

■『The Book of Virtues』と修身を日本と関連付けた人物は小池松次ではない
 ここまで来て若干ちゃぶ台返しの様な話をするが、『The Book of Virtues』を日本の修身と関連付けた人物については小池松次よりも前にしている人物がいる。それが茂木弘道である。これについては小池自身が語っている。

アメリカで「世界出版社」という名の会社を設立して、日本の書籍を自分で英訳して販売していた東大出の英語達人・茂木弘道社長の著書を読んでいてハッとしました。「アメリカでThe Book of Virtuesという本が出版され、第二の聖書と呼ばれるほど売れている。どうも、この本は日本の修身教科書を真似ているらしい」、と書いてあるではありませんか。慌てて茂木社長に頼んでニューヨークから原書を輸入して読みました。なんとContents(章立て)が拙著とそっくりです。
修身・日本と世界

そして上記にある茂木弘道社長の著書とは2002年刊行の『ゆとり教育の落とし穴 』である。

ウィリアム・ベネット元教育長官著「道徳読本」
(略)
この10の徳目の解説のほかには何が載っているかというと、その徳目に関係のある昔からの説話であるとか、その徳目を実践したいわば偉人伝でう。それぞれの徳目について30から40こういう話が載っています。というと、皆さん思い当たるものがありますよね。そうです戦前の「修身教科書」です。実は最近、小学館文庫から戦前の修身教科書に載ったものを集めた、「精選 尋常小学修身書」という本が出ました。高崎経済大学助教授の八木秀次先生が監修したものですが、八木先生によりますと、ベネットさんはどうも日本の修身の教科書にヒントを得て、この「道徳読本」をつくったようです。「道徳読本」は、1993年に出ましたが、93、94年の二年間で250万部も売れるという大ベストセラーになったという事です。これまでにもう3000万部くらい売れているらしいです。ですからアメリカのバイブルみたいなものです。 (p.40-42)

茂木の説明のよればさらに八木秀次にまで遡れることになる。そして八木による『精選 尋常小学修身書』の監修者解説での『The Book of Virtues』に関する記述は次の様なものだ。

この教育改革に着手したレーガン政権の最後の教育庁長官を務めた人物にウィリアム・ベネットがいる。ベネットは教育庁長官を辞めた後、一九九三年に自ら編纂した 『道徳読本(The Book of Virtue)(原文ママ)」という本を刊行した。これは八百三十二ページという大部ながら、一九九四年から九五年にかけて二百五十万部を売る大ベスト・セラーになり、その後も売れ行きが衰えず、現在ではアメリカ家庭の第二の「聖書」となりつつあるという。
 その内容は「自己規律」「思いやり」「責任」「友情」「仕事・勉強」「勇気」「忍耐」 「正直」「忠誠」「信仰」という十の徳目によって章が構成され、それぞれの徳目についての説明とともに、関連する古今東西の民話や寓話、偉人・賢人の逸話や随筆を短くまとめたものが掲載されたものである。文字通りの道徳読本である。「正直」の項目には、父親が大切にしていた桜の木を切ってしまったが、正直に申し出て許されたという「ジョージ・ワシントンと桜の木」の話も入っている。
(略)
 ベネットによるこの「道徳読本」は、まさに、一昔前ならばどこの家庭でも学校でも子供たちに語られていた、「尊敬すべき人格」「優れた人格」というものの「かたちと内容」を具体的に示した「物語」を集め、それを現代の子供たちに語ることを目的として作られたものである。これはレーガン政権に始まる一連の「教育改革」、それも規律の回復と道徳の再興という意味での「古き良きアメリカ」の回復の流れの中に明確に位置づけられるものであった。
 以上、長々とアメリカの教育改革について述べたのはほかでもない。アメリカが八○年代に着手した教育改革のモデルは、ほかならぬかつての日本であることに気付くからだ。レーガン政権が「日本の教育に学べ」と各種の教育視察団を派遣したことは既に述べた通りであるが、このベネットの『道徳読本」の着想も、サミュエル・スマイルズの「自助論(self-help)』(一八五九年)など英米圏の先駆的書物もさることながら、かつての日本、それも戦前の「修身」の教科書を想定しているのではないかと推測されるからである。その意味では、「道徳読本」はアメリカ版「修身」の教科書 (もちろん民間版であるが)とでも言うべきものである。(p.401-405)

八木の論旨としては「徳目」に合わせて古今東西の説話を紹介するという『The Book of Virtues』の書籍としての構造が戦前の修身教科書を想定したのではないか、という「推測」となっている。『The Book of Virtues』がアメリカ版修身の教科書であるとは述べているが、ただ少なくとも修身の教科書を参考にしたと「断定」はしてはおらず、そういう意味では小池よりも節度はある紹介となっているとはいえる。とはいえ既に記述したがベネットが修身の教科書を参考にしたという推測は推測の域を出ずまたその推測は願望が籠っているともいえる。なお参考という意味では、八木は同本内で『精選 尋常小学修身書』は『The Book of Virtues』の編集方針を参考にし、日本版『道徳読本』の性格を持つとも旨を述べていたりもする。なお保守論壇においては何も八木秀次だけではなく、翻訳版が発売された1997年頃から『The Book of Virtues』の内包する道徳的思想を称賛する向きがある。例えば筑波大学教授の中川八洋が1997年10月の「諸君!」に書いた『夫婦別姓論者の「下心」』だ。そこで中川は以下の様な記述をしている。

米国が1980年代から模索している、いわばポスト「フェミニズムの終焉」における新しい過程とは、社会規範の回復だけでなく、その品格であり徳性についてである。たとえば、父兄向きに綴った教科書ともいえる『徳性について(The Book of Virtues)』が1993年にベストセラーになった。つまり、19世紀後半の英国でスマイルズが著した『自助(Self-Help)』『品性(character)』『義務(Duty)』『節倹(Thrift)』といった諸徳が満ちる社会を再建することを目指している事実を意味している。フェミニズム以前の社会に米国は回帰している。
(略)
しかし今日、我々は「社会主義の終焉」を迎えたのである。そうならば、いったん我々の社会を社会主義以前に戻すことを考えてみてはどうか。「スマイルズ復権」もその一つであろう。ベネットの『徳性について』はまさにこれなのである。 (p.159)

その他にも1998年5月の『学校経営』では押谷由夫が道徳教育と絡めて本書を紹介していたりと発売当時から「道徳教育」との近さが目立つ。また「『The Book of Virtues』=修身の教科書」という発想にしても別に八木の独自の見解ではない。例えば1998年3月発行の『経済調査』において大塚禮三という人物による「時言」では、

それは1995年正月に手にしたウイリヤム・J・ベネット氏(レーガン大統領時代の教育 大臣)編による「道徳教本―モラルについてのお話集(注1)という830頁にもなる大著の10項目である。(略)多くの童話・偉人伝等々でつまりはアメリカ版修身教則本で、子供でもわかる 易しい本である(と思う)

とある様に題目にそって説話が記述されるという形式そのものが修身の教科書に見える人は存在したのだろう。ちなみに『The Book of Virtues』は1997年に日本版である「魔法の糸」が刊行してから宣伝や書評で取り上げられる程度には知名度は存在していたわけであり*11、こういった発想そのものは特異なものでは無かったのだろうし、翻訳本が三度も刊行されるのだから原著の知名度もそれなりにあったことが窺える。
 以上、茂木と八木の語り口を見てみると彼らの趣旨としては『The Book of Virtues』は日本の「戦前の修身の教科書」を参考にしたのではないか、というものである。それらの話を聞いた小池松次が『The Book of Virtues』をアメリカから取り寄せて本を読んだところ章立てが『これが修身だ』とそっくりである、つまりは『The Book of Virtues』は『これが修身だ』がお手本になったのであろうという、妄想的飛躍が発生したことになる。そう、はっきり言ってこの飛躍は妄想の域と言える。そしてその妄想的発想を補強しようとしてかTIME誌の取材を受けた、大使館から書籍を所望されて議会図書館に所蔵された、などという虚飾のための嘘デタラメを吹聴するに至ったのではないか。少なくとも現時点で存在する小池松次の「エピソード」には真実性が著しく乏しいと言わざるを得ない。そしてそんな嘘デタラメの小池松次の話がネットなどを通して保守言論に流布されることによって、元々は日本の保守言論にあった「(誤った)推測」に過ぎない修身の教科書を参考にしたという話が最終的にさらに変容して「『The Book of Virtues』は教育勅語の焼き直し」へとたどり着いてのだと言える。「修身の教科書」というよりも「教育勅語」といった方がネット保守にとっては耳障りの良い言葉だからであろうが、全くもって事実とは言えない。嘘デタラメである。

■お布施用ページ
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*1:佐瀬昌盛 訳『アデナウアー回顧録』1968

*2:「過去の克服と日本の文学」(季刊『戦争責任研究』第24号)

*3:長谷川による調べでは荒木俊馬「明治時代の教育精神」『神社新報』1957年12月28日、今村均教育勅語に就て」『新民』1959年11月、塩谷温「講経」『斯文』1961年9月が記述されている。

*4:そのほかの参加議員としては内田常雄、渡辺惣蔵、小牧次生

*5:やや話は変わるが、おそらくだが1950年代末頃にタイ首相のプラモードが「大東亜戦争」を評価する言説が存在した。こちらについても証拠がない胡乱な説なのだが、外国人に日本の○○を評価してもらうという手法を用いる人間、若しくは界隈が50年代末頃に存在していた可能性は指摘できる。

*6:BooknotesBill Bennett on Education Reform, The Book of Virtues, & the War on Drugs

*7:https://www.realclearpolitics.com/articles/2016/08/23/what_a_clinton_supreme_court_would_mean_for_america_131586.html

*8:なおあすか会は現在は株式会社感謝へとなっている模様。

*9:兵隊さん物語』の奥付を見ると発行者に小池松次の名前があり、氏は同社の関係者であった事が窺える。

*10:同時期に出た『教育勅語絵巻物語』では小池の名前がある事から別に無名であったわけでない。『これが修身だ』は個人というよりも日本人のしつけを考える会での発行を優先したのだろう。

*11:国会図書館デジタルコレクションで「魔法の糸 実務教育出版」などで当時の書評などが確認できる。