電脳塵芥

四方山雑記

「シュン@ひろしまタイムライン」についての朝鮮人記述と実際の「日記」との比較

続編的記事。

「シュン@ひろしまタイムライン」について出典元やその他の書籍との比較 - 電脳塵芥


 NHKの「ひろしまタイムライン」というツイート企画の中で以下の内容が投稿されました。

この企画は1945年の広島を生きた3人の日々をSNSで毎日発信するというものでありますが、その内容は原本そのままではなく原本となる日記をもとに今の10代の若者たちがアレンジして発信というもの。上記の「朝鮮人」記述は現代の差別的状況を鑑みた場合や戦争への反省、加害責任を考えた場合には前提となる知識や注釈なしで情報を発信するにはあまりにも迂闊な事であり、朝鮮人が受けてきた被害の歴史をある時点での本来比較にならないほどの「加害」によって日本人が与えてきた加害を感情的に相殺させる作用さえあります。また戦後に朝鮮人による暴力事件があったのは事実でありますが、それを在特会などが誇大的に発した「朝鮮進駐軍」という【デマ*1】がある状況下でそれと直結するような情報発信は甚だ戦争を扱う公共放送としての企画、そこに平和への祈念があるのならばふさわしいと到底言いづらい内容です。
 さて。今回の記述、そもそも元の原文に書いてあったならばどのような記述がされるかは置いておいて、ある意味でそれを記述した発信は仕方のない面はなくもないです。勿論、記述の仕方には細心の注意の必要がありますが。では、実際の原文はどうだったのか。

NHKの特設サイトにおける記述

 NHKには日記原文も表示されいます。「https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/genbun/shun/434541.html」では、以下の様にあり。

※ご本人の日記は、8月17日~27日まで空白です。
8月15日~21日までのツイートは、後年ご本人が書かれた手記とインタビュー取材をもとに掲載しています。
(新井俊一郎『激動の昭和を生きて』2009年)

ご本人の日記には該当期間は空白であり、当然ながら原文がありません。なので、これは後年(何年後かは謎)に書かれた手記とインタビューからツイート内容が作成されたことが分かります。それと今回問題視された中においてNHKは以下の様に作成経緯を語っています。

8月20日のシュンが発信した、「大阪駅戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる」と関連のツイートは、シュンのモデルとなった男性が、広島の自宅から両親の故郷である埼玉県に移動する途中に体験したことを伝えています。
 
当時中学1年生だった男性にとって、道中の壮絶な経験が敗戦を実感する大きな契機になったことに加えて、若い世代の方々にも当時の混乱した状況を実感をもって受け止めてもらいたいと、手記とご本人がインタビューで使用していた実際の表現にならって掲載しました。
 
また、6月16日に発信した「既に大人たちが大きな穴を掘り進めている。 話す言葉によるとどうやら朝鮮人のようだ」と関連のツイートも、男性が学徒動員でトンネル掘りに従事したときの経験を紹介しました。こちらも手記とご本人がインタビューで使用していた実際の表現にならって掲載しました。
https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/434538.html

原文のページに書かれたように日記ではなく「手記」と「インタビュー」によって製作された事が伺えます。それと原文のページの方で今回の出典が『激動の昭和を生きて』である事も明示。この『激動~』内に「手記」が含まれているのか、それとも「日記」だけなのかは不明。恐らくは後者ではあると考えますが。ただ要するに今回の表現は日記原文にはありません

私家版の日記における表現

 NHKでは出典を『激動~』としていますが、証言をした新井俊一郎氏はもう一つ日記を私家版として出しています。それが『軍国少年シュンちゃんのヒロシマ日記 昭和二十年一九四五年 復刻版』です。どちらも非売品なのですが国会図書館を含めて読める図書館がほんのいくつかはあるもので。今回は『激動~』を読むことは叶わなかったのですが、『軍国少年~』の方は運よく行ける範囲の図書館にあったのでそちらを。

【8月17日~21日についての記述】
 NHKの日記原文にある様にこの期間は日記は書かれていません。しかしながらその間の状況を父の手記などを参考に記しています。その内容は以下の通り。

問題となったツイートは「8月20日」、そしてその時にいた場所は「大阪」。しかしながら、父の手記を参考にして記された状況においては「8月20日」は「上野から熊谷」への移動であり、大阪にはいません。また父親の手記を参考にした情報の中にも朝鮮人という情報は出てきません。つまり、「ひろしまタイムライン」と(少なくとも『軍国少年~』における)「日記」の内容は時空間がずれています。

タイムラインと日記上での描写のズレについて

 ズレがあるからにはどこまでズレているのか確かめなければ……、というわけでこの期間(8月17日~21日)における内容のずれは以下の通り。

8月18日までは「ひろしまタイムライン」と父親の手記を元にした情報には大きな祖語はありません。しかしながら19日になると様子が異なっており、

【8月19日】
タイムライン:呉から大阪にいき、野宿
父親の手記 :呉から大阪に行き、さらに東京に到着

【8月20日
タイムライン:朝鮮人登場、日記における19日の出来事が描かれ東京に到着
父親の手記 :朝鮮人は未登場、熊谷へ到着

という様に8月19日からタイムラインと父親の手記を元にした情報の時系列と出来事に大きすぎる差異、「1日のズレ」が発生します。また朝鮮人についての記述ですが、タイムライン、日記では共に「超満員で便所に行けず疲労困憊、復員軍人の横暴、浮浪児との出来事」などの記述は一致するにもかかわらず、タイムラインの方にだけ「朝鮮人」が登場しています。また、その内容は、

・「俺たちは戦勝国民だ!敗戦国は出て行け!」との発言?
・怒鳴りながら超満員の列車の窓という窓を叩き割っていく
・座っていた先客を放り出し、割れた窓から仲間の全員がなだれ込んでくる
・それに対して誰も抵抗できない

以上のようなもの。疲労困憊、復員軍人、浮浪児などの出来事が記述されていますが、朝鮮人が「窓という窓をたたき割り、客を放り出し、割れた窓から仲間がなだれ込んでくる」という他のどの記述内容よりも濃すぎる内容が書かれていないのはあまりにも不自然としか言いようがありません。普通に考えればあり得ません。さらに酷すぎる横暴に対して復員軍人もいたであろうはずなのに誰も抵抗しなかったというのも不自然。『激動~』にはもしかしたらある記述なのかもしれませんが、少なくとも『軍国少年~』にある日記を読む限りはタイムラインは内容を創作(捏造)しているとしか思えません


【8月23日追記】
 ツイッターにて『激動~』を読んだ方がいらっしゃいました。そちらの方によると『激動~』でも同じく19日の出来事が20日になっているそうですが、「朝鮮人」という記述ではなく「第三国人」という名称で類似の記述があったとのことです。ですので、それを信じるならば今回の件はNHKの企画によって生まれ出てきた表現ではなく、底本の記述にあった事になります。なお『軍国少年~』は2004年で日記形式、『激動~』は2009年出版で読んでいる方の情報を見る限り回想録の様なものに見受けられます。

 まず何よりもお詫びしなければならないのは『激動~』を読んでいない状態、『軍国少年~』のみで創作という理路に至るには拙速であり何よりも軽率でありました。底本をしかと見るべきであり、誤情報の拡散の怖さや情報の錯そうによる語るべき点が的外れになる事、何よりも関わっている人間を誤った情報で毀損させることはあってはならないという点から、私の行動はあまりにも軽装であったというそしりは免れ得ません。これは身近に底本である『激動を~』を確認できる状態ではなかったためにという面はありますが、それは言い訳にしかならず、またこのような件では早さを求めてしまいました。何よりも該当本を読んだ時間軸は『激動を~』を読んだ方とほぼ同時間帯の様でしたが、この記事を読む前に検索していればその方の記述を投稿されており、避けられた事態であった事からも私が甘かったです。
 この記事を読み創作(捏造)表記として信じた方、そして何よりも製作に関わった方に対してあらぬ嫌疑を向ける仕草をしてしまい、大変に申し訳ありませんでした。ここにお詫びを申し上げ、また今後は情報の精査にさらに務める様に精進いたします。
 なお、今後更新するかは分かりませんが可能ならば『激動を~』も確認はする予定ではありますので、もし何か気づく点があればその点で後進をすることがあるかもしれません。

※追記ついでに。下の方にも書いた疑問点なんですが『激動を~』の方でも19日の記述が20日になっているとあります。その為に時系列のズレへの指摘は間違っていないと思われますが、当時に呉から東京まで一日で移動するというのは可能なんでしょうか。インタビューの中でそれが可能でない、何らかの思い違いに気付いたから19日の記述が20日になった、という可能性も一応あるかなと。誤った推測をした反省の上での推測には問題がある気はしますが、時間軸のズレで考えられるのはそこら辺かなと。


日記における朝鮮人の記述に関して

 『軍国少年~』の日記は1945年の1年丸ごとの日記です。それを流し読みではありますが、すべて読んだところ朝鮮人についての記述は2か所あります。それは11月となり、その内容は以下の通り。

11月14日
(俊一郎が東京から大阪へと行く過程で)
 上野着。電車で東京へ。東京では、朝鮮人が汽車の窓を割って入るので、大阪行きに日本人は並んで待って、ゆっくり(しかし、混んではいる)と乗れた。
 
11月15日
(広島にいく電車の中で)
 車掌さんがキップを調べに来た。すいているので廻る事が出来るのだ。無賃乗車していた朝鮮人がいた。

以上の二か所です。14日の「朝鮮人が汽車の窓を割って入るので」云々は日記だけですと状況がいまいちわかりません。列に並ぶのが嫌で割って入った、などかもしれませんが推測の域は出ず。15日の無賃乗車について当時中国系、朝鮮系の不正乗車が問題視されたことはありますが、買出しのための不法乗車は日本人も行っていたのであり、あえて特別視をするべきものかは疑問がつく問題です。戦災浮浪児の証言を読むと当たり前の様に出くわす話で不正乗車が語られますし。ここでの記述は実際に見たことをそのままに、そして軍国少年でもあった俊一郎氏の目を通した記述には違いないでしょうが。
 この11月の記述、特に14日の朝鮮人が窓を割って云々の記述は8月20日における朝鮮人の行動に類似しています。推測の域を出ないですがこの記述を盛って8月20日の記述を書いたのかもしれないなと。もしも本当に11月の記述を盛ったとしたら、流石に盛りすぎですが。【8月23日追記】『激動を~』に記述がある事から、これは誤り。【追記終わり】それと帰ってくる時の日記は2日がかりとなっている。当時広島から東京まで1日で行けたのか、2日かかったのかは詳しくないので分からないのですが、もしも1日で行くのが難しいとなるならば父親の手記の日付が間違っていた可能性も無きにしも非ず。

6月16日の朝鮮人表記について

 これについてはNHK原文ページに日記の原文があるので、そちらを参照に……、とも思いましたが、日記には原文ページにはない注釈の様なものがついています。

【口田村の安芸矢口近くで、軍需物資の貯蔵用のと思われる地下トンネルの掘削作業。作業員の主体は朝鮮人らしかった】

これはのちの俊一郎氏による注釈なのでしょうが、トンネル掘削に駆り出された人員に朝鮮人が多かったという事を受け、さらに臨場感を足すために書いたと思われます。ツイートにある言葉もその時に聞いた可能性はあります。「軍国少年シュン」という目線からすれば正しい表現と言えるでしょう。しかしながら。場所は違いますがヒロシマ平和メディアセンターの「たどる戦争の記憶 <下> 強制労働 ダム建設の影 継承模索」に以下の記述があります。

戦時の労働力不足を補うため動員されたのは、日本の植民地だった朝鮮の若い男性たちだった。当時の工事関係者や住民の話によると彼らは「集団」と呼ばれ、2千人に上ったという。
 えん堤の建設や、下流発電所まで送水するトンネル掘削など作業は広範囲にわたった。人力頼りの作業は過酷で危険を伴い「100人以上は犠牲者がいた」との飯場頭(はんばがしら)の証言などが残る。
 逃亡も相次ぎ、捕まった後の制裁も厳しかった。43年ごろまで現場近くで暮らしていた草谷影正さん(92)=高野町新市=は、山での炭焼きの最中、逃げてきた20歳ほどの朝鮮人に逃げ道を教えた体験を持つ。「餅を与え、ぼろぼろの地下足袋を替えてやり、灰の上に地図を描いてやった。無事逃げたのか今も気になる」と話す。

朝鮮人労働者がどのように扱われていたのかを考えた場合、センシティブにならざる負えない案件です。当時の「軍国少年」目線で正しくても、果たして戦後企画として見て、さらに現代に生きる人間の目から見ればそれは異様にも映る。そして危惧を覚えざる負えない。

軍国少年目線

 上記でも書きましたが、この企画の「シュン」は軍国少年であり現実の俊一郎氏もまた軍国少年です。それが端的に表れているのが、以下の場所。

4月10日(火) 雨、時々曇り
 反省録「米英撃滅日誌」と名付けることとする。なんと言ふ良い名であらうか。さうだ、いま我々日本国民の進んで行くべき道はただ一つ、米英撃滅あるのみである。自分は今まで日記をつけてゐたが、これから米英撃滅日誌と名を変へて新発足するのである。今までの日記の書き方は大分字が乱雑であった。しかれども今や自分は天下の附中生となったのである。その意味から言っても、立派に附中生らしく何事も行はなくてはならぬ。もう我々は国民学校の児童ではなくなったのである。立派な日本帝国の学徒となったのである。
https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/genbun/shun/427579.html

この日記は4月から「米英撃滅日誌」と名付けられています。また、例えばヒトラー関連の記述では以下の様なものも。

5月3日(木) 晴
 本日発表あり。遂に独総統ヒトラー氏は、名誉の戦死を遂げられたさうである。あの祖国を守る、愛する祖国のために一生を捧げて来たヒトラー総統は、遂に自分の生命を祖国のために捧げたのである。とうとう我が同盟国の二総統は、生命を世界平和のため、祖国のため、日本と同じ道を歩み来て、その生命をも捧げたのである。
 我々は二総統のため、本当に哀悼の意を表す。
 
5月4日(金) 晴
 遂に独の首都ベルリンは、敵の手中に陥ちた。ヒトラー総統やゲッペルス宣伝相等は遂に死去した。独もいよいよ最後的段階に突入したのである。
 本日は朝から警報が出る。いかにもベルリン陥落を象徴しているかのやうに……残念だ実に残念だ。我が同盟国の首相は次々に倒れる。世の中は矢張り非人道、不正が通るのであらうか。無念!
https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/genbun/shun/428851.html

そして8月のみ、「8月の感想」という項目があります。これはひろしまタイムラインには載らないと思いますので書いておきます。

8月の感想
 昭和二十年八月。この年月を我々、日本国民は永久に忘れ得ない、国辱の月である。この八月こそ、日本の将来に一大転換をさせた歴史的な月である。ああ、帝国は無条件降伏をした。八月こそ、帝国の運命の月だ!! 我々は、この国辱的な八月を永久に忘れず、帝国復興に力を尽くさなくてはならない。我ら、日本帝国の臣民は誓ふ。
 必ず大日本帝国を以前より、より良き國に作りなおします!! 世界平和、いな、帝国復興のため尽力しようではないか。歴史の月『八月』
原文

事程左様に分かりやすいほどに軍国少年。「原文」に貼った写真には9月1日分も読めますが、そちらでは「帝国三千年」、「歴代の天皇、忠臣になんとお詫びを」という様な文言があり、当時の軍国少年の精神性が良くわかるという意味では貴重かもしれません。
 この様な当時の「軍国」少年の価値観への違和感を感じさせるためにあえて選んだのか、それとも別の理由で選んだのかは分かりませんが、かなり危うい選択をして、そして踏み外した。6月16日はともかく8月20日の件は軍国少年以前の記述だと強く感じますが。ただこの軍国少年、11月くらいになると軍国精神が冷めていきます。日記中に『真相はかうだ 第3回』などの記述から、外の情報を受け取っての心境の変化でしょう。そして日記の最後となる12月31日。

悪夢の年は過ぎ去った。日本の国勢の一変した歴史の年。侵略国の末路感が、ひとしほ深い。軍閥の自由であった古き日本。来年から、新生日本、自由日本として生まれ変わるのである。

この方向性で締めたいんでしょう。多分。それが今や可能かどうかは分かりませんが。


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*1:詳しくは「所謂「朝鮮進駐軍」|写経屋の覚書」を参照願います。