noteからの転載版で新規性はないです。
https://twitter.com/martytaka777/status/1661869759200370688
ってなツイートがあって、ただこの方は白百合学園に尋ねたという下記のツイートを消したあたりに答え合わせ感があったりはします。
さてそんなことは置いといて、この「白百合学園の生徒が靖国神社に一礼をする」習慣のようなものがあり、そしてそれは「ローマ法王(ヨハネ・パウロ2世)が来日時に白百合学園の生徒に対する質問に答えた」ことに由来するという物語が出来ています。例えば黒色中国のブログでは白百合学園の元生徒がリプライをした情報もあり、一種の信頼性があると言えます
この指導をしたヨハネ・パウロ2世は学校創立100周年の年に来校したようですが、私がここに入ったのはその翌年でした。 ※現在、このツイートは削除済み ※82年にこの方は3歳。6年過ごして転校したとあり、幼稚園時代から小学3年ごろまで白百合の生徒との事
靖国神社で一礼する制服の元少女からリプライがあった件 - 黒色中国BLOG
ここでは伝聞調であるとはいえパウロ2世に由来する旨を語っています。そして黒色中国ブログでは蛞蝓屋敷というHPをその情報の裏付けとして書いており、該当HPでは以下のように記述。
ヨハネ・パウロ2世が1981年に来日された折、白百合学園の生徒から「通学路に靖国神社があるのですがどうすればいいですか?」と問われました。パウロ2世は、「頭を垂れて通りなさい」とお答えになったそうで、それ以来、靖国神社の前で頭を下げる白百合学園の生徒の姿が見られるようになったということです
http://odasan.s48.xrea.com/photo/yasukuni/index.html
上記HPの公開日は2005年5月であり、この時点でこの話が形成されていることが窺えます。ただ、若干今の話と違うところと言えば「来日された折」とあるように、「来校」ではないところです。実際、後述しますがパウロ2世は白百合学園は訪れていませんので、今の話は使いまわされるうちに変容した内容であると言えます。
ネットで確認できた最古の情報は2004年の漁火新聞
上記の情報よりも古い段階で確認出来るのが「青年自由党」というHPで掲載されていた「漁火新聞 10月号」の「武士道の覚醒と強い日本を願う」という特集ページです。これは崔基鎬(チェ・ケイホ)氏という加耶大学客員教授が日本で『日韓併合 韓民族を救った「日帝36年」の真実』を出版する際に開かれた祝う会で取材をしてまとめたものです。なお世話役は加瀬英明。そして該当部分は以下の通り。
ソウル遷都は滅亡の運命
(略)それを知っている人は世界にいなかったわけではありません。ローマ法王のピオ11世はよく分かっていた。支那事変が始まった年の10月にメッセージを出しています。全世界の3億5千万のカトリック信徒に対して、日本の支那事変は侵略戦争ではない。共産党と戦っている。共産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は日本軍に遠慮なく協力せよといっています。だからこそ戦後マッカーサーが靖国神社を解体しようとしたときに、カトリックのビッター神父、バーン神父は反対した。
靖国神社の近くに白百合学園という女学校があります。靖国神社の前を横切るときに生徒は頭を下げる。どうしてかと気になっていた。それはローマ法王にお伺いをたてたら頭を下げるようにと指導があったという話でした。
https://web.archive.org/web/20041223032448/http://www2.odn.ne.jp/~aab28300/news/tokusyu2.htm
流れ的には戦前のピウス11世(引用ではピオだが一般的にはピウスの方が多いためピウスで統一)の話から続いているともとれ、頭を下げるようになったという下りもやや省略気味なためにこれがピウス11世の話なのか、それともパウロ2世の話なのか、そもそもどの様な状況で聞いたのかも不明です。ただ 崔基鎬氏は韓国での大学に籍を置く人間などであることを考えれば、彼がこの話を創作したという可能性は低く見るのが自然であり、この話自体は彼の周辺にいた日本人に由来するものと考えるべきでしょう。世話役として加瀬英明の名前がありますし、日本会議などの保守界隈で存在していた物語の様な気もします。なおやや脇道ですが、この「漁火新聞」はネット上だけの存在ではなく経営者漁火会という団体が実際に紙面として出版しており、2004年10月号に同様の特集も存在しますが、こちらの内容はネット上とは紙面の幅の関係か多少内容が異なり、この白百合学園についての部分は一切記述されていません。
ヨハネ・パウロ2世の来日について
出典を見てきたところで次は、ヨハネ・パウロ2世の訪日の話ですが、パウロ2世の来日記録はキリスト中央協議会にすべて公開されています。パウロ2世は東京~広島~長崎と移動するわけですが、その中で東京のみに絞って引用します。
2月23日
15時05分 フィリピン、グアムの訪問を終えた教皇、フィリピン航空特別機で羽田空港に到着。ただちに東京カテドラル聖マリア大聖堂へ向かう。到着のあいさつ
15時50分 聖職者の集い。
16時40分 カテドラル敷地内のカトリックセンターで、教皇と同じポーランド出身のゼノ修道士(コンベンツアル聖フランシスコ修道会)を慰問。全国信徒代表の集いに臨席。
17時31分 宿舎の駐日ローマ法王庁大使館に到着。
19時00分 司教団の集いに臨席。教皇メッセージ。
2月24日
08時30分 エキュメニカルの集い。出席者一覧と教皇メッセージ
09時30分 諸宗教代表者の集い。出席者一覧と教皇メッセージ
11時00分 皇居で天皇と会見(45分間)。
14時00分 法王庁大使館で鈴木善幸首相と会見(35分間)。
15時15分 後楽園球場特設会場で教皇ミサ。
17時15分 日本武道館で「ヤング・アンド・ポープ大集会」に出席。
19時30分 在京外交団の集い。
2月25日
07時20分 上智大学を訪問。
08時25分 全日空特別機で広島に向けて羽田空港から出発。
10時11分 広島空港到着。
カトリック中央協議会 来日の記録
以上の様に白百合学園には訪れてはおらず、学校でいえば上智大学のみです。なおここで公開されている記録は書籍としてまとめられた「ヨハネ・パウロⅡ世 : 教皇訪日公式記録」と同一のものであり、公式的に訪れた場所の抜けは考えにくいです。では、白百合学園はこのパウロ2世の来日に対して何らかの接点があったかと言えば、唯一公的に確認できるのが「白百合学園百周年記念誌」による以下の記述です。
昭和56年は、本学園にとってたいへん意義深い年であった。第1は、全世界のカトリック信者が父と仰ぐローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、初めてわが国を訪れたことである。(略)パウロ2世が出席した催しの羅列)翌24日は(略)日本武道館での「ヤング&ポープ大集会」(本校から10名の生徒が代表参加)に出席
白百合学園百周年記念誌 p.231
というもので、パウロ2世の東京でのスケジュールを羅列する中で「ヤング&ポープ大集会」という催しに白百合学園の生徒が10名出席したとあります。ということはここでパウロ2世に尋ねたという可能性は考えられはしますが、だがしかし、この「ヤング&ポープ大集会」は当時日本テレビで中継されたほどの大規模な催しであり、もし靖国関連の話をここでしていたらその記憶はもっと残っていたはずです。ですが、そんな情報は無。またこの集会では選ばれた若者たちが9つの質問をしており、その質問事項や誰がしたかは下記の様に記録されています。年齢や性別から白百合学園の生徒の可能性のある生徒は1人はいますが当然ながら靖国絡みの質問ではなく、その他の質問者も靖国関連はありません。
その他の東京での日程をみても白百合学園の生徒が単独でパウロ2世に近づき、そして靖国について質問した可能性はかなり低いと思われ、このことから「白百合の生徒がパウロ2世に靖国神社について尋ねた」という情報はデマの可能性が限りなく高いと言えるでしょう。
実際のところ、黒色中国ブログやほかの写真などでもある様に白百合の生徒が靖国神社を通る際に一礼をするという事象自体はあるのでしょうから、その部分については否定しようもありません。ただし、その行動がパウロ2世絡みであるということは明確なデマであろうと考えられます。ではなぜこれが生まれたのかというと正直不明ですが、唯一考えられるのはピウス11世時代の第一聖省訓令の影響の混同かなとも思わなくもないですが、とはいえ確証はなし。それと在籍経験者も語っていたことからもしかしたら都市伝説的な道徳心として学校で伝承されている可能性も考えられます。在校経験者などから詳しい話が聞ければって感じですが、ただなにはともあれパウロ2世由来で靖国に一礼はほぼほぼないと思うよ。
【追記その1】
白百合学園に電話をして確認したので、それについて追加しました。聞いた点は以下3つ。
・ヨハネ・パウロ2世は白百合学園を訪れたのか
・その際に靖国に関するやり取りはあったのか
・学校として靖国神社を通る際に一礼をする様な指導はしているのか
以上のうち、まずヨハネ・パウロ2世が白百合学園を訪れた記録はない。そしてそのようなやり取りの記録もない。また学園として靖国神社に対する一礼の指導はない、という返事を頂きました。なので今ネットにおいて流布してる「白百合学園の生徒が靖国神社に一礼話」はどこかの段階でネットの保守的な層に好まれる表現が流入して表出されたものであり、間違いなく本当と判断できる部分は靖国神社前で一礼する白百合学園の生徒が中にはいて、それが写真などで撮られることがある、ということになるかと。元生徒の談も消されてることから本人の記憶違いや後に知識を得たことによって出来た誤りかもしれず、もしくは当時の教師の思想かなと。(【追記その2】にあわせれば、当時から学園内で広まっていた真偽はわからない「逸話」だったと思われる。)それはともかくとして、逸話自体はデマと判断して良いかと思われます。
【追記その2】
現役の白百合生という方に情報をいただけましたので、そちらについて追記。少なくともその方の友人が「お姉さま(先輩)」からこの話を聞いたとのことでした。またパウロ2世については学校を訪れたことはないが、その当時に生徒が法王に会えた可能性を指摘しており、考えられる立場としては聖歌隊メンバーや希望者で、どこかのタイミングで会えたのではないか。また上智大学と白百合学園との繋がりもあることから、なんかしら個人として会うタイミング自体はあったかもしれないとのことです。
以上の話は黒色中国ブログでの元白百合生との話を合わせて考えるならば、「白百合学園」という単位ではこの話自体は伝わっておらずに故に学園として公的にその様な指導自体もしていない。しかしながら「白百合の生徒」という単位では都市伝説的に先輩から後輩へと伝わっている道徳的な説話と捉えられます。また黒色中国ブログの元白百合生はパウロ2世の翌年に白百合に入っていることから当時からこの話は学園内で伝わっていたと考えられます。では実際にこの「法王にあった事のある白百合の学生」がいたかどうかまでは残っている状況からの立証は不可能です。それこそ聞いた本人、もしくはその聞いた本人の周辺からの情報が出てこない限りは都市伝説の域から脱することは難しいと言えます。
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