電脳塵芥

四方山雑記

8月6日の広島における「ダイ・イン」とよど号メンバーは無関係だ


https://twitter.com/naito_yosuke/status/1688088755037696000


https://twitter.com/naito_yosuke/status/1688322654607200256

 この話における出典は高沢皓司『宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作』における「ウィーン工作」という章*1。ここで田宮高麿にインタビューした高沢が下記の様に触れています。

ウィーン工作
 ヨーロッパを舞台にした当時の「よど号」の活動の一つにウィーンを中心とした「反核」運動への工作がある。(略)「反核」運動へのかかわりは大衆的な政治宣伝、煽動活動といえるものだった。(略)ずいぶん後年になって、田宮高麿はこの「反核」宣伝煽動工作を「よど号」グループが担ったいくつかの工作活動の中で、もっとも成果を上げ成功した活動だったと自賛していた。
p.314

まずこの章の始まりは上記の様に始まるが、この際に田宮はこの「工作」については多くは語らずに高沢に対しては「文化人などが関わっているから手を出しにくい」、「この歴史を書いてくれ」、「機関誌が出ている」、「(機関誌に関わり、反核ウィーン事務局を担っていたメンバーの)K君に聞けば良い」などを述べるにとどまり、その工作の実態については語らずに"自分で調べて書くなら誰も文句を言わんだろ。(p.316)"と述べるに留まります。つまり田宮の証言は「工作が上手くいった」以上の内容はほぼないと言えはします。そしてこの「ネタの材料」だけをもらった状態でこの件についてのインタビューは終わり、その何年後かに田宮が亡くなったことをきっかけに高沢はこの件を調べるという流れとなります。

「核」の問題の前には東も西も同罪のはずだったが、どちらかといえば西側の核だけが問題にされ東側の核はなぜか運動の中で不問に付される傾向があった。(略)運動が「東側の核」を問題にしなかったのは端緒がソ連、東欧から発信されていたからである。しかし、この「反核」運動の影の演出者はソ連だけではなかった。北朝鮮ソ連の政治戦略のなかでこの一翼を担っていた。そして朝鮮労働党がこの政治宣伝工作にあたって任務の一端を与えたのが「よど号」たっだのである。
p.318-319

 

(活動の中心をウィーンにして)「反核」運動工作は宣伝煽動戦の名前にふさわしくまず雑誌を発行する計画から始められた。事務局の準備委員会が組織され討論が続けられた。最初は簡単な新聞形式のミニコミだった。誌名は『おーJAPAN』と名付けられた。1978年のことである。号を追うごとに内容も広がりをもち充実した。
 ウィーンから最初に創刊されたこの『おーJAPAN』は後に久野収宇井純を顧問に迎え、ヨーロッパだけでなく日本国内でも反核運動の中心的な情報誌となっていく。発行体制ものちにには東京に移った。この準備段階で活躍していたのが先のK君であり、運動家として指導していたのが田宮だった。そして事務局と連絡をとりつつこうとした運動を実際に組織していったのは、じつは岡本武だったのである。
 「反核」運動はヨーロッパから飛び火するように日本でも一瞬のうちに燃えひろがった。ヒロシマナガサキをはじめとして各地で各種の市民団体や労働組合の運動も巻き込んでいった。当時、東京の明治公園で行われた抗議行動と集会では数万人規模の動員力をみせている。”ダイ・イン”と称する地面に寝転んで「死に真似」をするパフォーマンスが繰り返された。核戦争の犠牲を表現して、ということらしかったが、どちらにしろ「反核」という言葉は突如「反戦」という言葉に代わってこの時期、一世を風靡する。そして停滞していた70年代後期から80年前後の運動に突然変異的な高揚(多くは市民運動だったが)をもたらした。
 「よど号」の田宮高麿がこの「反核」運動の背後で活躍していたことに、わたしは軽い驚きを覚えた。そしてその「反核」運動の宣伝煽動という「よど号」の9任務が北朝鮮朝鮮労働党の指導のもとに行われていたということに歴史の断面を見せられた思いがした。
p.230

主な記述は以上の様なものの、この部分の問題はこの記述は誰に取材し、何の資料を用いて書いているのかの裏付けがいまいち不明な事です。資料、証言の面で弱く、また『おーJAPAN』が「反核反戦」運動に対して与えた影響も省略しすぎで、その反面、この機関誌の影響力を過大に評価している節があります。特に「ダイ・イン」についての部分は何故広島でその様な運動が行われたのかの個別的調査、記述がないにもかかわらずにこの「工作」の流れの中にあるかのように記述しており問題と言えます。なおこの部分を読んでダイ・インを田宮が考案した運動と誤解している方もいますが、これは明確に違います*2。本文を読んでもそのようには書かれていませんし、後述しますが広島のダイ・インの発案者は市民運動にかかわりはしていますが普通の会社員です。それと高沢も上記引用の後に一応の論拠と言えるものとして雑誌の創刊から4年目に結成された新しい政治組織「新しい民主の波」の宣言に対して"宣言文を覆っている"チュチェ思想"の影が理解できるはずである(p.321)"と書き、この宣言文を書いたのが田宮「らしい」という類推をしていますが、やはりこれも類推の域を出ません。文中では「K君」に連絡をとり機関誌を数部手に入れたにもかかわらず、肝心のK君に対する聞き取りをしている描写が一切なく、この部分でも高沢の調査の妙な甘さが見て取れます。
 冒頭ツイートをしている内藤陽介氏はパフォーマンスが流行った背景を高沢本による田宮の自画自賛を根拠にしていますが田宮自身はその工作の実態を語ってはいないこと、また高沢による調査も論拠は弱く、また工作の過大評価をしていると言わざるを得ません。内藤は「詳しくまとめられている」と書いていますが、正直これだけに依拠するのは危うい。詳しくない。

ミニコミ『おーJAPAN』について

 『おーJAPAN』という機関誌についてですが*3、『ミニコミ戦後史』によれば河内喜彦がウィーンで創刊し、後に日本でも発行する様になったミニコミ誌です。そしてこの「河内喜彦」が田宮のいうところの「K君」でしょう。河内は関西学院大学を1年で退学後に19歳でウィーン大学に入り、学生運動に参加した人物であり、その際に現地で和文タイプライターを使用して「仲間」と『おーJAPAN』を創刊したとあります。ただこの「仲間」に田宮らが加わっていたかは不明です。これが現地で一定の成功をしたためか久野収は日本にいる時点で雑誌の存在を知り、その後にパリで彼らと会い、朝日ジャーナル1982年12月24-31日合併号で「小さな国際雑誌『おーJAPAN』」という記事を書いています*4。なお少し脇道ですがこの久野の文によれば当時の欧州における大規模な反核原水禁)運動のくちびを切ったのはイギリスの「ラッセル平和財団」だとしています。この財団はバートランド・ラッセルが1964年に設立したものですが*5、1980年4月に「ヨーロッパに非核武装地帯をつくり出そう」と題するアピールがそのきっかけとなり草の根レベルの広がりとなっていきます。さらに言えば70年代末ごろから日本でも報道されるレベルのダイ・インが国外で行わています。例えば1978年5月29日の読売では「涙と拍手、核廃絶へ大合唱」という記事において国連軍縮特別総会に核廃絶を訴える「生存のための大動員集会」の1万5千人の参加者全員がニューヨークの国連本部前で倒れたという記事があり、運動の潮流が見えます。『おーJAPAN』はおそらくこれらの運動に注目していたようで、当然自らも反核的な思想を持っていたと思われます。そして日本にとどまらずにアメリカにも情報ネットワークを広げて反核運動、その他の平和運動に関する情報を日本に送っていたとあり、「成功」したミニコミと言えるかもしれません。ちなみにミニコミ戦後史によればその紙面の性質を次のように述べています。

この”小さな国際新聞”の功績は、反核反戦運動を中心に、大国か小国か、右か左かという二元論ではとらえられない世界的動きを、各国に住む日本人の目を通して伝え続けてきたことである。

これを信じるならば「左」に寄り過ぎているとは言えないようです。「工作」なので当然ですが、この解説にはよど号メンバーが関わっているとも書いていない*6。なので実際にこの『おーJAPAN』に田宮らがどれだけ関わったかは謎です。よど号メンバー以外でこの点について知っている可能性のある河内喜彦は『おーJAPAN』後にどの様な活動をしているかわからず、氏の発言も当時以外のものはほぼほぼありません*7。ただ高沢の書籍を読む限りは河内に連絡を取り、何らかの事情を話して当時のミニコミを数部手に入れたはずですので田宮-河内に何らかの繋がり自体はあるものと考えられます*8。ただ当時の河内が田宮高麿を「よど号メンバーの田宮」と認識していて協力していたのか、田宮がおそらく語っていた別人(偽名)と認識してミニコミを作っていたのかまでは不明です。
 また別の視点として『おーJAPAN』には1987年に北朝鮮渡航し、よど号メンバーの赤木志郎の妹と結婚してグループに合流した赤木(米村)邦弥もミニコミ製作に関わっていたとされています。

欧州では当時、旧ソ連の中核距離核ミサイル配備に対抗し、北大西洋条約機構NATO)が米国のミサイル導入を決めたのを受け、反核運動が起きていた。赤木容疑者とよど号犯の接点も反核運動だった。
 53年(引用者注:1978年)3月、ウィーンを拠点に反核ミニコミ誌「『おーJAPAN』」が創刊された。実質的発行者はよど号の故田宮高麿、故岡本武両容疑者。「『おーJAPAN』」を隠れみのに、運動に参加した日本人留学生らの獲得を狙った」(捜査幹部)
産経新聞 2007.6.4 「よど号犯と合流の男あす逮捕 欧州工作組織 全容解明狙う」

赤木邦弥がウィーンに滞在していた時期は1982~1985年とされ、その時期によど号メンバーにオルグされたと考えるのが妥当でしょう。産経紙上では捜査幹部が田宮、岡本を「実質的発行者」と書いていますし、これは『宿命』と重なる情報です。ただ捜査幹部が『宿命』をネタ元にしての発言かもしれないのには留意が必要です。また読売新聞(2007.6.11夕)「欧州拉致のキーマンか」においては”(田宮が指導していたが)03年12月にグループが発表した見解によると、83年ごろには、メンバーの魚本(旧姓・安部)公博容疑者(59)が責任者になっていた”とも記述されており、『宿命』にはない情報もあります。ただこれらを立証する何らかの証拠は現状ではありません。
 以上の事から『おーJAPAN』自体には田宮や岡本などのよど号メンバーが何らかの関係を持っていた可能性は高いと考えられます。ただし、それがどの規模でありどの程度の影響力を持っていたのか、その他のメンバーがどれだけそれを知っていたのかは不明であり、そしてよど号メンバーによる「工作機関紙」と言えるレベルであったのかまではわかりません。例えば『宿命』を読んだ元『おーJAPAN』の関係者は以下の様な事を述べています。

■ウィーン工作の実態
 高沢皓司氏の『宿命』の中で、ウィーン工作(反核運動=雑誌『おーJAPAN』が、よど号グループ(&北朝鮮)の最も成功した活動と書かれていたのには、驚きました。私自身が当時81年からウィーンで83年から日本(東京)で、実質的に編集長兼雑務係として、取材、記事、文章のリライト、イラスト、レイアウト、写真と一人で必死になっていたからです。しかもまさに教条主義金日成の思想の(あとから気づいたことですが)露骨な表現がモロに出るのをふせぐためにオシャレでセンスのあるエンターテイメントの感じられる紙面にするため何も知らず努力していました。若しウィーン工作が「成功」だったというなら、それは「よど号」の教条主義とは全く正反対の立場の人々のおかげでしかありません。(匿名 42歳)
創 1999-04 (データベース上の誤り。実際には5月号)

またこの他の当事者の証言として1981年頃に半年程ウィーンに暮らし、河内喜彦とは一時的に寄宿しながら編集にも携わった経験がある岡部一明がいます。岡部は現在もブログを書いており、問い合わせが可能だったのでこの件について、

・田宮などのよど号メンバーと思われる人物が雑誌の編集などに関与していた記憶があるか
・『おーJAPAN』は「日本国内で反核運動の中心的な情報誌」であったのか

大まかに上記二点を尋ねました。岡部によればこの情報自体が初耳だったようで「目の玉が飛び出るくらいびっくり」との反応を貰いました。久野、宇井が顧問になったことは記憶していたようですが、よど号メンバーの様な人物が裏にいるとは感じなかったとの事です。この1981年ごろは田宮高麿がおよそ38歳、岡本武は36歳になります。当時の『おーJAPAN』は河内喜彦のインタビューである朝日ジャーナル(1983年1月21日号)「シラケてなんかいられない.とにかく自己主張を続けていく」を読む限りは若いメンバーで構成されており、30代中盤から後半の男性が頻繁に出入りしていたら何らかの記憶に残っていてもおかしくはありません。しかしながらその記憶がないという事は少なくとも表立って編集によど号メンバーが立ち寄るという事はなかった可能性が高いです*9。さらに付け加えれば2007年の赤木の報道の際に警察は『おーJAPAN』を調べる事になったはずで、しかし続報がないという事は警察が発表するほどの目立った情報そのものはないという事でしょう。また岡部によれば「日本の反核運動の盛り上げの中心的情報誌」はほめ過ぎであり、それ以外の分野の記事の方が多かったとのことです。これも『技術と人間』(1980年4月号)の「ミニコミ時評」と符合しており、当時の紙面は反核以外も多くあったようです。そして河内喜彦を知っている岡部氏曰く、「そんな組織につながっているなど信じられません。」とのことです。
 以上、当時の関係者からすると直接編集に携わっている立場でよど号メンバーを感じた事はないと言えます。それともしも『おーJAPAN』の紙面がよど号メンバーの教条主義チュチェ思想などを前面に押し出しているのならば当時、もしくは後に指摘は受けていたはずで、しかしそれについては高沢が「新しい民主の波」の宣言に見出したのみといえます。それらを考えれば『おーJAPAN』そのものはよど号メンバーのうまい「隠れ蓑」であったことは可能性はありますが、その反面、それとは知らない若者たちの反核も扱うミニコミであったことがまず第一の事実と言えるでしょう。故に少なくはあれど当時の朝日ジャーナルやそのほかの雑誌で多少なりとも扱われ*10宇井純久野収などの文化人が『おーJAPAN』に関わりを持ったのでしょう。それはそれで恐ろしい事でもありますが。しかしこれらの事から田宮らの視点では「成功した活動」とは言えそうです。
 ただし。この『おーJAPAN』による言論が日本の運動にどれだけ影響を与えたかまでは正直不明です。そもそも日本での展開が正式にはいつから行われたかがやや不明で、1982年12月時点の朝日ジャーナルで久野は"最近、印刷所を日本にうつし、東京事務局を再開し、国内でも本格的普及と運動を始めることになった。*11"とあり、日本で本格的な活動をしているのは早くても82年末ごろからと思われます。「新しい民主の波」結成にも関連したであろう創刊四周年記念号にしても1982年4月であり、世界の反核潮流に乗っているといえますが高沢が記述するところの「日本国内でも反核運動の中心的な情報誌」というには遅いです。後述しますがダイ・インが日本で始まったのは81年からであり、さらに82年の一連の大衆行動は3月から始まっており、『おーJAPAN』が「中心的な情報誌」には時系列的に困難です。またこのミニコミの存在が日本の反核運動などの「中心的な情報誌」というにはあまりにもその存在が語られていないのが実情で、例えば国会図書館で「『おーJAPAN』」と検索しても数えられる程度にしかヒットせず*12、中身も反核的、市民運動的なミニコミの紹介と、そういう運動をしているちょっと注目に値する若者がいるという程度のものがほぼほぼ。そしてその様な「中心的な情報誌」だったと言い張るには、日本国内でこの機関誌がほぼ保存されていない。ミニコミとしては成功した部類ではあるけれど言論や運動にそこまでの影響を与えたかというとかなり限定的でしょう。高沢の「反核運動の中心的情報誌」という評価はやはり過大というべきでしょう。

おーJAPANの実物

 そしてでは『おーJAPAN』はダイ・インが始まった1981年8月付近に何かを記述したのか、ですが、当時はウィーンを中心としたミニコミであり、国会図書館にも所蔵がない超激レア雑誌です。広島平和記念資料館平和データベースでは12冊ほど所蔵されていますが、それも日本で発行する様になった1982年4月号(No.48 創刊四周年記念号)が最も古く、ダイ・インの参考にする分には使えない。では日本に当時のものがないかというとそうでもなく、滋賀県立大学図書館所蔵のコレクション資料にNo.18(1979.9)からが現存しています。そして滋賀に行く決心をしていたところ、岡部氏からのメールにて住民図書館にミニコミが提供されており、閉館後には共生社会研究センターに移動したと聞き、こちらに出向きました。初期の号にいくらかの欠損はありつつも82年末あたりまでの紙面をいくつか紹介していきます*13

 上記が創刊号の1面です。創刊号は6ページの冊子であり、四大使命の明示やその意気込みなどが記述されています。創刊の辞などを読む限りは当時の左派、学生運動的な影響が見受けられます。ちなみに巻末には『おーJAPAN』という不思議な名称の由来が書いてあり、それによればその由来は次の通り。

欧の墺から「おー」と呼びかける声がJAPANの国民大衆の耳に達し、数千万倍の反響のウズをまき起こす。その震源地として絶えることなく「おー」「おー」「おー」と叫び続ける。

なおこの号の編集長と思われる人物はITO NAOMIと記述されており河内ではありません。ただし2号では(河内)という記名がなされた記事があることから河内喜彦が創刊期から関わっていたこと自体はほぼ確実でしょう*14。また第2号目にして宇井純が寄稿を寄せており、どのような伝手でまでかは不明ですが、創刊期から左派系の文化人とのつながりがあった事はうかがえます。また初期から「反射鏡」という読者からの便り的なコーナーにおいて日本在住者と思われる文面があることから、日本で事務局が出来る前から日本国内で多少は読まれていることも伺えます。そしてその紙面の内容ですが、第2号と思われる目次を見ると日本国外の時事問題などを主題としている事が窺えます。

なおこの第2号の「提言」では「欧米の民主主義」への疑念を口にしており、日本の現実にあった日本国民大衆のための民主主義を実現していかねばならない*15、といった内容が書かれています。ある意味で昨今の保守言説みたいなところを含みつつも、とはいえ自民党政権への反発や当時の欧米の民主主義への反発などが存在。ただ当時の左派側からの反米感情などを鑑みればその感情が突出しているとまで言えるかは甚だ微妙な部分はあります。
 そして「反核」的な立場ですが、No.39(1981年6月号)において「非核・反戦平和運動」、No.41-2(1981年8,9月合併号)「西欧の非核運動」、No.44(1981年11月号)「三十万人非核反戦デモ*16」、No.49(1982年5月号)「非核反戦の高まりがもたらすもの」などなど、ヨーロッパからのレポートとして各種反核デモに関する記事を定期的に書いているとは言えます。ただあくまでも『おーJAPAN』は欧米の事を中心に書いているミニコミであり、例えばNo.43(1981年10月号)の「反射鏡」では以下の様な指摘が読者から届いています。

日本の大衆の運動紹介記事を多く!
 ヨーロッパの生活、社会事情には詳しく、読んでいて興味ありますし、ラテンアメリカを主にアフリカの記事まであるので感心しています。編集者が世界的な視野をもって発行されているからでしょう。ただ、一つ気にかかることがあります。それは、日本の記事が少ないのでは、ということです。私がいう日本の記事とは、自由民権の運動、論評のたぐいでなく、日本の大衆による種々の社会運動ことです。どこかの新聞に、「日本・ヨーロッパ・第三世界を結ぶ民衆の連帯紙」と、おージャパンが宣伝されていました。けれど、かんじんの日本の運動がおごそかにされていると思うのです。

実際にこの時期の紙面を読む限り確かに日本の社会運動についての記述は少なく、欧米や第三世界の話の記述が多いです。当時に国外の状況を知る上で『おーJAPAN』は確かに貴重な情報誌である反面、日本についての情報は遅く、例えばNo.47(1982年2月号)では「非核のうねり」では後述する1982年の3.21ヒロシマ行動についての紹介はあるものの、これは朝日新聞の情報を見て知った程度のものです。やはり当時はウィーンが主体の組織であろうだけあって日本の情報は新聞情報などによります。これらから高沢が書くところの「ヨーロッパだけでなく日本国内でも反核運動の中心的な情報誌」というのは過大評価と捉えられます*17。論評的な部分はありつつも、ヨーロッパの事例は基本は「レポート」の範疇に収まり、日本についての情報は当然ながら国内誌の方が充実していたでしょう。逆に高沢の論に乗れるとするところがあるならばそれは東側の核についての消極性であり、確かに『おーJAPAN』の反核的な論調の多くの場合はその対象がアメリカ(西側)に向いていることが多く、ソ連などへの反核姿勢はその量で大きく劣っていることです。欠損があるとはいえ、82年末まで調べた限りでは、No.56(1982年12月号)のヨーロッパ・レポートで「東欧の反核平和運動」がある程度です。この記事を書いたのは河内喜彦ですが、「信頼を失っている共産党の権威回復のためにも、「反核平和」運動は(引用者注:東欧諸国では)意義のある手段である。」とも書いており、その性質をうまく言い表してもいます*18。それとおまけとしてですが、高沢がその文面に「"チュチェ思想"の影が理解できるはずである」と言わしめた「新しい民主の波」の結党宣言は次のようなものです。


出典:No.48(1982年4月号 創刊記念4周年記念号)

この文章に"チュチェ思想"を感じるほどに思想に詳しくないので論評は避けますが、当時の学生運動的な延長線上にある文章には読めるかなと。またこれらとは別に『おーJAPAN』自体の自己認識的な紹介文(定期購読申し込みチラシ)はこちら。

以上、82年末あたりまでの『おーJAPAN』を見てきましたが、少なくとも紙面上から「北朝鮮よど号メンバーによる工作機関紙」といった雰囲気を感じ取るのは無理と思われます。あと、ついでに言えば「北朝鮮」に関する記事はおそらくありません*19。『おーJAPAN』はこの後に日本にも正式に事務局を置き、紙面や紙質、冊子の綴じ方などのクオリティがアップするのですが、この時点では日本で反核運動は既に盛り上がっている状態であり、「中心的な存在」というには遅いでしょう。これらを鑑みるに高沢の記述が微妙な曖昧さを含むのは、実際に彼が読んだ紙面上から明確によど号と『おーJAPAN』を繋げることはできず、また「K」という人物からの掘り下げからも期待した内容が得られなかった可能性は指摘できます。その曖昧さの上で田宮の自画自賛言説を採用した記述なのかなと。そして当時の『おーJAPAN』には「ダイ・イン」に関する記述は全く見受けられず、少なくとも「ダイ・イン」とよど号メンバーを繋げる言説自体は不当です。では、ダイ・インは誰が始めたか。


【12月6日追記】
 今回、記事を書くにあたって協力いただいた『おーJAPAN』の編集に一時期かかっていた岡部一明氏にコメントを頂きました。岡部氏自身がこの記事の後にこの件に「ウィーン発ミニコミ『おーJAPAN』のこと(1980年代)」を書いておりますが、一時期携わっていた当事者として、そしてこの記事にはないよど号メンバーによる書籍資料などを基にして更なる実像に迫っています。「実態」そのものは資料の限界もあってやはり不明ではあるものの、『おーJAPAN』とよど号メンバーの繋がりそのものはあったであろう事、「K」とされる人物が複数おり「K=河内」ではない可能性がある事、「N」という人物がいたであろう事などなど、現状でもっともよくまとまっているページです。「よど号メンバー」と『おーJAPAN』について知りたいならば、こちらを読むことをお勧めします。


 

8月6日に広島で「ダイ・イン」を始めた人物による証言

 長々と高沢皓司『宿命』による情報から派生する話を書いてきましたが、ここからは別のアプローチ、というか本来なら正攻法の攻め方としてダイ・インを誰が始めたかを探っていきます。これ自体は非常に容易に調べられる話で当時の新聞には発案者が誰か明確に記述されています。

広島市原爆ドームを中心にした路上などに倒れて「あの日」の惨状を再現し、核兵器への無言の怒りと抗議の意思を表そう、というダイ・イン(DIE・IN)運動が、広島の若者たちの手で計画されている。この運動は米国で53年に「生存のための動員」集会で行われたが、国内で若者らの呼びかけに被爆者や被爆二世、障害者たちから賛同の意見が相次いでいる。組織的に行われるのは初めて。
 広島の若者たちのグループ「平和を語る青年のつどい」のメンバー、広島市安芸町会社員飛塚優さん(37)らが7月初め「ヒロシマ ダイ・インを呼びかける会」を発足させた
「8.6の朝 ダイ・イン」朝日新聞 1981年7月20日

そしてこの発案をした飛塚優氏は2019年に当時の経緯を自ら書いています。それが「流鏑馬(やぶさめ)爺さんが「ヒロシマ・ダイ・イン」を語る!」です。かなり長くなりますが重要なので一部省略しながら以下に引用していきます。

<私が「ダイ・イン」を提唱した経緯>
今から38年前の1981年(昭和56年)当時、私は広島に転勤してきた「製薬会社のサラリーマン」だった。私は市内の東区安芸町に住居を構え、広島営業所の営業係長をして数年たっていた。
(略)
ある日、仕事で訪問した開業医院の診察室で「全身がケロイドのご婦人」を偶然に垣間見た。平静を装って通り過ぎたが激しいショックを受けた。放射能を受け、業火で焼かれ、現在まで「その苦しみを必死に背負ってこられた方」が目の前にいる。私は、今、広島ではなく、「ヒ・ロ・シ・マ にいるんだ!」と実感した。
(略)
図書室の資料からは解らない「被爆者と被爆二世や遺族の苦しみや悲しみの部分」に直接触れ合うようになった。そこで私は、自分の考えを地元の <中国新聞の「広場」欄に投書した> (略)

S・55,8,3 「全市民参加し核告発へ行動」 会社員 飛塚 優 36歳
もし地球上の「人類の痛覚神経」をすべて一本につなげるなら、平和はすぐに来るであろう。なぜなら、人々は肉体と心の痛みを、最後の1人の苦痛が消え去るまで、お互いに共有しあわねばならぬからである。ところで私達市民の被爆者への痛覚は、資料館を訪れる修学旅行生より鋭いと自信を持って断言できるだろうか。強制徴用の朝鮮人被爆した老女に、重複した差別の痛みを、いくつまで感じうるだろうか。かつて私たちの父や祖父が中国の南京で中国人に、関東大震災下で朝鮮人に何をしたか。私たちが今、同和地区の人や身体障害者たちにどんな痛みを与えているか。加害者でもあるのだという痛みを市民も被爆者も一緒に共有しうるであろうか。世界中の人は、たいてい戦争を強制された。わが子を戦死させたい親はどこにもいない。市民運動こそは国境を越えて連帯できる。八月六日、全国で黙とうが行われるなら、広島では原爆ドームを中心に市民が累々と地面に倒れ伏して三十五年前の原点から核を問い直し告発するぐらいの気迫と痛覚の一致がなくて、どうして世界にヒロシマの声が届くのだろうか。

この投書をしたのは、核告発「ダイ・イン」が実施される年の一年前である。最後の部分で、幾分過激に市民の意識を煽っているのには理由があるのです。
 
<当時の世相と平和運動の様相>
(略)
1980年前後の8月6日の広島は「原水禁」と「原水協」を巻き込んでの 「政治的対立」が激しく、各国の賓客が平和公園で待っているのに、なかなか 「統一平和宣言」が出せないような状況もあった。その他にも、各政党が県外から送り込む活動家や、ノボリ旗を持ち、ゼッケンを身に着けた大勢の労働組合員が、市内を我が物顔に闊歩して気勢を上げ、被爆者や市民たちは片隅に追いやられているような雰囲気だった。
(略)
「原爆反対」を表現する「言語の抽象性」は、意見の食い違いや思想の違いを生む。そしてそれは「政治的」な運動から「政党的」な権力闘争に発展し、政党間の対立と主導権争いの場に行きつく。対立が激しくなると平和集会も先鋭的で閉鎖的になる。「核兵器廃絶」の立場も、欧米の「自由主義国家の核」は反対だが、対抗するソ連や中国の「共産主義国の核」は賛成。とか、「いや、その反対だろ!」とかの思想的・政治的応酬がふつうに行われていた。放射能の熱戦を浴びた当の被爆者にとってみれば、「どこの国の核兵器であろうが反対!」が当たり前ではないのかな、と、私は不思議に思っていた。
私が家庭訪問している被爆者の中には、「このような世相」を嘆く人が多かった。曰く、
「普段は近寄っても来ないマスコミや活動家が、8月6日の前後には大勢押し寄せてくる。お盆の時期だけチャヤホヤされるって私達は幽霊じゃないんだよ!被爆もしてない偉そうな連中の話ばかりが世間に通って、被爆者本人のわしらの意見や考えはなかなか伝わらん。おまけに喧嘩ばっかりしとって、世界各国の人に顔向けできゃせん。恥ずかしい!」
「それじゃ、皆さんで、何かしてみたら、いいんじゃないの」
「わしら体が弱くてあまり動けんし政治家みたいに、うまいことしゃべれんけ」
「なら、なんも言わんと動かんで、地面に倒れ込んで、寝っ転がってみれば?」
「あっ、それ面白いけど。も一回、死ぬ思いするんかいな。や~れやれ(笑い)」
とまあ、要約すればこんな会話から「ダイ・イン」導入の芽生えが…
「雲の上」のような、抽象論や学術論や対立的な政治論よりも原爆のキノコ「雲の下」で起きた事実に「心を及ぼす」行為が出発点では?
(略)
<又もや、中国新聞「広場」欄に投書しました>

S56,7,3「全広島市民が核告発しよう」 会社員 飛塚 優 37歳
空洞化した非核三原則、右傾化へ操作されていく世論。膨張を続ける核兵器。今、被爆ヒロシマの市民として何をなすべきかが真剣に問われている。もうすぐ八月六日がやってくる。私は呼びかけたい。「八月六日午前八時十五分のDie-in」を。三十六年前の原点に返って一個のしかばねと化すことを。あらゆる階層の市民が被爆者を囲んで原爆ドームを中心に累々と地面に倒れ伏すことを。爆心地の市民として自らの肉体で激しい怒りを世界に訴えることを。「人類史上最大の過ち」としてではなく、単に「戦力バランス」としてのみ核を論ずる体制を告発することを。戦争につながる基本的人権の侵害と総ての差別体制を告発することを。平和運動は文化人や学者、労組や政党だけのものではないはずである。Die-inは思想の違いや組織の分裂の次元を超えた市民運動である。Die-inには整然とした理論や流ちょうな弁証はいらない。ただ黙って一個のしかばねと化して横たわること。あの日、同じ地面で息絶えた人と対面すること。すべてはこの原点から出発していく。だれにでもできる数分間の無言の行為。市街が怒りの死体で埋まっていく時、一人一人のヒロシマのこの抗議が世界中に伝わっていくことだろう。八月六日、世界がヒロシマを注目する日、私達広島市民が「核告発のDie-in」をやらなくて、いったいどこの国のだれが代わりにやってくれるのであろうか。

(略)
当時、私たちはまだ「Die-In」の存在を知らず、この行動を「倒れ込み」と名付けていた。Die-Inという存在を知ったのは、取材を受けたときの新聞記者に教えてもらったからだ。“1960年代に核軍備に反対して米国の市民グループが始めたこと。1978年にニューヨークの「生存のための大動員集会」でも行われたこと”などを知り、広範な市民にアピールするには「ダイ・イン」の方が、内容が分かりやすいと決断。急遽、配布中の手書きのビラを途中から「倒れ込み」の文字を「ダイ・イン」に入れ替えた。そしてダイ・インの写真を探して張りつけた原稿をコピー機にかけた。現在のようにインターネットも無く、資金も無いから、手書きと切り貼りのビラである。

※引用者注:飛塚のHP上だとこの後に別のビラである「3.21ヒロシマ行動」に関するビラも貼っていますが、それは翌年の1982年のビラ
(略)
 
公安警察官が会社に来た!>
仕事を終えて営業所に戻ると、「今日、警察が来たわよ」と事務の女性が私に言う。所長には「公安の警察官らしいが、君は何をやっているのか」と言われた。いろいろ と私のことを聞かれたらしい。私は自分の「ライフワークの市民活動」であり、決して仕事にも会社にも迷惑を掛けないように配慮していることを告げた。そして所長から名刺を借りて連絡先を調べ、彼らを喫茶店に呼び出した。
(略)
彼らの態度は冷静沈着で威圧感があった。治安維持のため暴力主義的な破壊活動を行う団体や組織をマークし調査する「仕事の一環」だとの主張だった。しかし、彼らにとっては「仕事の一環」で済むが、 私にとっては「仕事が一巻の終わり!」になる話である。 結局、「既存の組織」はどんな行動に出るか予測がつくが「貴方の組織」は「今までにない新しい形態」なので、まるで行動予測がつかない。総理大臣(鈴木善幸氏)も出席する平和祈念式典の最中に事件でも起されたら我々、公安部の責任となるということだった。私の「運動の正当性」と、彼らの「職務遂行」の主張の争いは平行線をたどり延々続いた。そこで私は悔し紛れにこう言った「君たちの家族や親戚に被爆者はいないのか」と若い方の警官が低い声で「います…」と言った「俺のやってることは間違ってるか?」この問いに二人の返事はなかった。こうして我々の話し合いは決裂した。
(略)
 
<原爆反対の告発「ダイ・イン」の日が来た!>
(略)
8時15分に「平和の鐘」が打ち鳴らされると、人々は自発的に次々と地面に倒れ伏していった!

この写真が38年前の、日本で最初の「ダイ・イン」の貴重な生の写真です! ある新聞記者さんから 「貴方は倒れていたから写真がないでしょ。これは記事に使用しなかった写真の中の一枚ですが、記念に差し上げましょう」と、提供されたものなのです。大切に保存していましたが、年月が過ぎて左側が黄変してしまいました。
 
<ところで、参加人数は何人ですか?>
ドーム前の通りは倒れ伏した市民でふさがれ、周辺には5分間の重苦しい沈黙が流れた。短くて長い5分間だった。しばらくして起き上がってみると私たちは通行人とマスコミに囲まれていた。私は大勢の新聞記者に異口同音に問いかけられた。「ところで参加人数は何人ですか?」と。
(略)
答えに詰まって途方に暮れていると後方から私の肩を叩いて「150、150…」と、ささやく人がいる。振り返ってみると、そこには作業服を着た労務者風の若い男が立っていた。見覚えのある顔だが誰だか分からない。彼はさり気無い声で、もう一度「150」と私に告げると、立ち去り際に振り返りもせずに軽く後ろ手を振った。その瞬間、私は思い出した。「あっ、奴め! あん時の公安警察官じゃないか!」。そうなんです。彼はダイ・インの参加者に混じって密かに潜入していたのです。従って人数の把握も正確なはずだった。急場を救われた私は「説明のつかない感情」が突然に込み上げてきて声が上ずった。「150だそう… いえ、150、150人です!」。翌日の新聞は、どこの会社の記事もきれいに「参加人数は150人」で揃っていた。
 
<全国に広がる「ダイ・イン」行動>
ダイ・インは、翌年‘82年の3月21日「ヒロシマ行動」で500人の参加者を得た。この時配布した私たちの「呼びかけのビラ」は、参加者によって全国に散らばった。「戦争反対・核兵器廃絶」の集会に参集した市民は、識者の演説を聞くだけでなく、「倒れ伏す」ことで「自らの意志を示す」ことのできる「主人公」になれることを知った。5月23日の東京行動では40万人、5月24日の大阪行動(引用者注:実際の大阪行動は10月24日)では50万人の民衆動員があり、東京では代々木公園を、

大阪では大阪城公園をダイ・インの参加者たちが埋め尽くした。

新聞記事には「草の根の連帯」とか「草の根の結集」とかいう、大きな見出しが急に頻繁に載りだした。「草の根とは、民衆のひとりひとり、一般大衆のことで、政党・結社などの指導者層に対抗して使う言葉や運動のこと」(引用:大辞泉)です。「草の根レベル」とは「市民一人一人の視線で、立場で…」と言う意味です。これは私の「新聞投稿」と「ヒロシマDie-In を呼びかける会」の趣旨そのままです。「思想信条の違いを超えて集まった市民の自由参加によるものとすること」従って、当時のダイ・インは「草の根市民運動」の「草分け」だ!(笑い)と、言っても良いかとも思います。が、これは私、調子に乗って言い過ぎました!(謝)

引用にしてもかなり長いレベルですが……、それはともかく氏のおかげで当時の経緯がかなりまとまっています。ダイ・インは海外の運動を輸入したのではなく被爆者との対話の中で生まれたものである事、当時の原水協原水禁などの運動における党派性争いへの嫌気などが見て取れるものであり、また飛塚の文面からは「共産主義国の核」にも反対であることが読み取れます。そもそも高沢が言うところの”東側の核はなぜか運動の中で不問に付される傾向”は当時の原水禁運動が統一できなかった要因の一つでもあるわけで認識が雑です。そしてこの時点では『おーJAPAN』は日本で発行してないし、一会社員が知るレベルでもないでしょう。飛塚には公安警察による監視も行われていたであろうわけで、それが氏の背後関係の潔白さをある程度証明していると言えます。なお飛塚自身以外にも飛塚の息子と思われるアカウントが2018年にnoteで「ヒロシマ ダイ・イン始まりの日」をアップしています。内容そのものは飛塚に聞き取っているものであり氏の話を読んだ上だと新規性は少ないですが、飛塚優、そして息子と思われる方が2018年に何故このような振り返りを書いているかと言えば、両氏の記事トップにダイ・インに対する「ネットの世間の目」があることが窺えます。忘れ去られない為にこの様に証言を残してくれているのはかなりありがたい。ちなみに飛塚はこの後に北海道へ転勤しますが、その後にも市民運動に参加しています。そして彼の背景に「よど号メンバー」があると判断するのはかなり苦しいでしょう。


出典:中国新聞 1981.8.6夕

 以上が8月6日におけるダイ・イン運動が生まれたきっかけと経緯であり、これが40年を超えて今現在(2023年)も続いている運動の初めての日だったわけです。そして同年8月9日に長崎においてもダイ・インが行われます。


出典:毎日新聞 1981.8.10

記事によれば事前に計画されていたものではなく「8.9 全国高校生長崎の集い」で集まった高校生が前日にこの行動を決めたとあり、かなり急に決定されており、発案した高校生らが広島におけるダイ・インの新聞記事などを読んでこの行動をした可能性が一番高いでしょう。

1982年における「ダイ・イン」

 さて、8月6日におけるダイ・インについては飛塚優氏らの証言や当時の新聞からどのような経緯と状況であったのか理解できるかと思います。そしてこの行動に関してはよど号メンバーが関わっているとした内藤陽介氏の発言は誤りであると判断可能です。しかしそれとは別に高沢皓司『宿命』に立ち返ると飛塚優の証言だけでよど号メンバーの行動を否定することはやや難しいです。なぜならば高沢はその書籍内で”東京の明治公園で行われた抗議行動と集会では数万人規模の動員力をみせている。”ダイ・イン”と称する地面に寝転んで「死に真似」をするパフォーマンスが繰り返された”とある様に高沢本人は8月6日のダイ・イン=よど号メンバーという話には直接的には繋げていないからです。高沢によるこの東京の明治公園などの抗議行動とは何か。これは飛塚も最後に触れていた、1982年に行われた一連の反核運動である「3.21ヒロシマ行動」、「5.23東京行動」、「10.24大阪行動」の事でしょう。これらの行動は1983年の警察白書によれば次の様な記述になっています。

4 「反核」を中心に取り組まれた大衆行動
(1)「反核軍縮闘争」
 昭和56年欧州で高揚した「反核軍縮闘争」が我が国にも影響を及ぼし、57年には、「反核軍縮」を主要テーマとした「3.21ヒロシマ行動」(9万3,000人)、「5.23東京行動」(18万6,000人)、「10.24大阪行動」(13万7,000人)といった大規模行動が取り組まれた。
 こうしたなかで、58年選挙での勝利を目指す社共両党は、「反核」世論の盛り上がりを背景に、反自民の勢力を結集することをねらって、署名運動、「非核都市宣言要請行動」、「全国網の目縦断行動」等を実施し、また、映画、学習会等を開催するなど、多様な反核軍縮行動を「草の根」運動として展開した。

これらの運動には総評が中心になって動き、そこに社会党共産党などが参加したもので*20、そこには草の根的な運動の末の参加者も相当数いたでしょう。この時代の空気感を知る上では京大で配られていた以下のアジビラなどが参考になるでしょう。


出典:1980年代に主として京都大学において収集したアジビラのライブラリー

アジビラにある新聞の見出しを見れば核配備や核戦争の危機感が窺えますし、1979年のスリーマイル島原発事故も背景にあるでしょう*21。当時のレーガン政権の核戦略自民党政権への反発、6月に行われる第2回国連軍縮特別総会の存在etc。これらの背景からこのような大衆運動へと発展していったと考えられます。またこれらの「真面目な問題」に対しての大衆行動の他にも人が集まる要素としてはさだまさしによる歌披露があったりと良くも悪くも「お祭り」な部分も存在します。ただ、これらの流れに対して「よど号メンバー」、そしてウィーンのミニコミで、しかもおそらく1982年末ごろからようやく日本で発行する様になった『おーJAPAN』が影響力を及ぼしていたと考えるのは、現状の証拠だけではたくましすぎる想像力が必要になるでしょう。高沢は日本国内の運動を無視しすぎです。
 そして一連の大衆行動の中の一発目である「3.21ヒロシマ行動」では前年の8月と同じく飛塚のグループが主催という形でダイ・インを行っています*22


出典:流鏑馬(やぶさめ)爺さんが「ヒロシマ・ダイ・イン」を語る!

当初は全体で「ダイ・イン」をという提案もしたそうですが、さすがに無理となり一部でするにとどまり、この時の参加人数は朝日ジャーナルによれば300人、読売で600人、朝日で500人とバラつきがあります。ただし、この「3.21ヒロシマ行動」は国会図書館デジタルコレクションなどで検索する限りは反応は薄く、大きな話題として残っているのは「5.23東京行動」におけるダイ・インです。「5.23東京行動」の代々木地区におけるスケジュールを見ると次のようにオープニング開始時点でダイ・インが予定されており、写真を見る限り今までとは桁違いの人数が参加しているように見えます。

10~12時 反核コンサート
13~14時 オープニング、ダイイン、テーマソング、開会宣言、基調報告、アトラクション
朝日ジャーナル 1982・5・21に基づく


出典:読売新聞 1982.5.24

「写真を見る限り」と注釈をつけたのは読売、朝日、毎日ではダイ・インの参加人数がわからないですが、舞台となった代々木公園は主催者発表で延べ約20万人が参加、事前に反核コンサートが行われており、そして開催のサイレンと共にダイ・インが行われたことから少なくとも4桁の人間が行っており、万を超える人物がダイ・インを行った可能性もあります。なお写真にドクロの衣装を被った人間がいますが、その他にもパンダの着ぐるみを着た人物などもおり、半ば「お祭り」的な催しでもあった事が窺えますし、どれだけの人間が真剣な行動であったかまでは謎ですが、それはともかく数と絵的なインパクトは相当なものだったでしょう。故に朝日ジャーナルの様に基本好意的に取り上げる雑誌から、逆に保守系雑誌の中では否定的反応が見えます。そしてこの東京行動におけるダイ・インの発案者ですが、残念ながら不明なもののしかし流れとしては前年からの飛塚が始めた広島におけるダイ・イン、そして3.21ヒロシマ行動があることは明確と考えられます。ヒロシマ行動から総評は関わっているわけですし、これが「10.24大阪行動」にもつながっていくのでしょう。そこに「工作機関紙」としての「『おーJAPAN』」、つまりはよど号メンバーによる世論形成があったと判断するのは難しい。

 以上の様に『おーJAPAN』などを見ると当時のミニコミとしては成功の部類、言論の「工作機関」としては不明なものの日本世論などの大勢に影響を与えた可能性そのものは低い、ただしそれとは別によど号メンバーが何らかの形で関わり(どれくらいの関与かまでは不明)「隠れ蓑」としては機能していた、と判断するのが妥当なところでしょう。少なくとも全くの無関係という可能性は低そうではある。ただいずれにせよ冒頭の内藤は高沢本の過大評価が窺え、そもそも高沢は田宮の自画自賛を真に受けた形で、それを証明するには論拠は弱くあと数歩間違えれば陰謀論に陥りかねない距離感の内容で、当時の時代状況に対する調査が足らないと言わざるを得ません。『宿命』の全体の内容の正確性まではわかりませんが、この部分は誇大の様に見受けられる。



■お布施用ページ

note.com

*1:以下、このブログでは単行本を基にして引用しますが、文庫版ではページ数が違います。内藤は文庫版をリンクを貼っていますが、内容自体は同一。

*2:https://twitter.com/yumeiroluck/status/485462501471956992

*3:編集に関わった事のある岡部一明によれば発行は1978年3月から1986年まで

*4:この記事によればその後に『おーJAPAN』側の勧めで久野らは顧問につく。

*5:設立時の宣言は1964年3月号の『現代の眼』に収録。

*6:その他に紙面の内容をうかがい知れるものとして『技術と人間』(1980-04)の「ミニコミ時評」が存在。当時の紙面としては反核などの政治運動の他に現地在住者に向けての生活情報的なものがあったのがわかります。それと「反自民」。

*7:朝日ジャーナル(1983.1.21)に「シラケてなんかいられない.とにかく自己主張を続けていく」というインタビューが載っていますが思想的な話はあまりしていませんし、よど号親北朝鮮的な発言もありません。また『広告批評』(1984-03)には河内自身が「普通の人たちの普通の選択」という記事を書いていますが、左派であるものの、それ以上の思想を垣間見ることは難しい。

*8:高沢が全く事情を説明せずに当時の『おーJAPAN』の紙面が欲しいと連絡した可能性は無きにしも非ずですし、K君が別の「K」の可能性は少なからずあります(実際に「加藤」などの別のKは存在。)が、ここでは例外として考えないものとする。

*9:岡部による『おーJAPAN』の編集の際の様子は短いながらもこちらで確認可能

*10:ミニコミ戦後史』という本がある様に、このころは話題性のあるミニコミが雑誌などで扱われることはあった模様。

*11:朝日ジャーナル 1982.12.24-31

*12:国会図書館での検索結果デジタルコレクションでの検索結果。デジタルコレクションで全期間で21件程度。

*13:確認できたのはNo.1~5、7、20~25、39、41~56

*14:No.20時点では河内が編集長的記述がなされている。

*15:提言全文はこちら

*16:81年10月に行われた西ドイツでの首都ボンでのデモレポート

*17:写真を撮ってなかったので正確な巻号や年は不明ですが、確か1982年か83年あたりの8月6日?に日本の反核運動に合わせて欧州で同様の反核運動を紹介し、レポートしています。この運動に関わってはいるでしょうが、それは「大々的な運動」というよりも現地の日本人による反核運動の域を出るものではなく、「運動」全体においては枝葉末節と判断します。

*18:記事全文はこちら。表紙その1その2

*19:網羅的に確認できる資料は少ないが、とりあえず1981年10月号から1983年1月号までのバックナンバー紹介はこちら

*20:共産党は大阪には不参加

*21:実際にアジビラでそれについて触れているものも存在。http://hp.jpn.org/agibill/146.pdf

*22:朝日ジャーナル1982.4.2「「本当の事実」への一歩が始まった」