クメール・ルージュとの停戦交渉に比べれば、日本の政治家と話すのは簡単ですよね…
というツイートがあったのですが、これについて少し。まずバズってますね。togetterで「「日本の政治家と話すほうが簡単だろうな」尾身茂会長はワクチン接種のためフィリピンやカンボジアで交渉を行い当事者に『停戦協定』を結ばせることに成功していた」という題名でまとめられてますし。で、医師の中にはこんな反応をしている方もいる。
まず第一にですが、この尾身茂著『WHOをゆく』を読む限りクメール・ルージュ(ポル・ポト派)については尾身氏自体は交渉していないと考えられます。
フィリピンでは(略)当時のラモス大統領に依頼したところ、「停戦協定」が結ばれ、期間中は武器を置いて、子どもたちにワクチン接種を行うことが可能となった。同様のことが、クメール・ルージュとの紛争中のカンボジアでも実施された。
以上の文章を読む限りはフィリピンについては大統領に依頼したのは尾身氏であると受け取れますが、カンボジアに関しては尾身氏自身の交渉ではなくフィリピンと同様の停戦協定が実施された、と捉える方が文章的には自然でしょう。尾身氏の文章では誰がカンボジアにおける停戦交渉をしたのかは分かりません。
当時の新聞から振り返る
三大紙のデータベースを調べると朝日新聞のみ94年近辺の尾身茂氏の行動が時折記されているのでここに引用します*1。
カギ握るカンボジア ポリオ撲滅めざす西太平洋
(略)最も有効な手段は、全国一斉に乳幼児に予防接種することで、(略)ほかの各国でも今年三月までに、それぞれ二回ずつの一斉予防接種日を設けることしている。
ところが、カンボジアでは二月に予防接種を行うものの、プノンペンと近郊だけ。三月にも予防接種を予定しているが、全国一斉に行うにはワクチンの購入と人件費に約五千万円必要で、まだ資金のあてはない。
このほどカンボジア当局者との会合のために訪れたWHOの尾身茂医師は「巨大な人口を抱える中国でもめどは立った。九五年根絶の目標を達成できるかどうかはカンボジアしだいだ」と話している。
朝日新聞 朝刊 1994.1.20
記事中にあるカンボジア当局者ですがポル・ポト派ではなく当時の政府であるラナリット第一首相(フンシンペック党)、フン・セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2人首相制連立政権と考えるのが妥当でしょう。なおポリオワクチンの投与はこの記事では94年2月と読めますが、尾身茂氏も関わっている論文「ポリオ根絶構想とAFPサベーランス」では95年2月に一斉投与が始まったとしています。素直に読めば94年2月は一部地域、そして全国一斉のワクチンが95年2月という事でしょう。
次に当時のクメール・ルージュについては同時期にこの様な記事が存在します。
関心の持続必要 カンボジア新国家発足1年 今川大使インタビュー
ーポル・ポト派の現状は?
チア・シム議長はごく最近、実勢力として戦闘要員三千、家族や後方支援を含む非戦闘要員一万、計一万三千という数字を私に示した。多くて二万だろう。カンボジアの人口は今九百万だから、一%にも満たない。中核は三千程度だとされる。数住人単位で村を襲ったり、強盗集団化している。かつては、タイとの国境地帯に近い数カ所に固まっていたが、半年ほど前から各地に分散している。
このままだと、十一月以降の乾季から来年四月ごろまでが決戦になる。(略)政府軍は今は一番の頼りの米国のほか、豪州や仏などからも軍事援助を得たいと考えている。(略)
ポト派は何とか有利な条件を得てまた政治集団化したいのだと思う。軍事的対決が強まると、誘拐などの事件がふえる危険もある。対話が芽生えてほしい。
朝日新聞 朝刊 1994.9.20
ワクチンの接種が始まったであろう94~95年のクメール・ルージュは当然ですが全盛期とは程遠い勢力であり、例えば知念氏が想定していそうな「文字通り皆殺しにした危険極まりない組織」というのは確かにあった過去であるものの、しかしそれは最早当時でも過去の事であると考えた方が良いと考えます*2。この頃のポル・ポト派は1993年のカンボジア国民議会選挙に参加しておらず、新政権と戦い続けていた状況。新聞記事を読む限りは強盗集団化したりと厄介な武装政治勢力であり、それはUNTAC特別代表としてカンボジアにいた明石康氏が『「独裁者」との交渉術』でも伺い知れます。ただしそれを継続的に激しい戦闘が続く内戦状態というまでかというと同明石氏の『カンボジアPKO日記』に目を通す限り少々疑問です*3。とはいえ緊張感のある政情であったことは確かで全国一斉ワクチン投与という話になるならば彼らにも話を通さなければ無理だったは考えます。
ですので、この当時のクメール・ルージュを「あの」クメール・ルージュ(ポル・ポト派)という様な扱いをするのは過大評価でしょうし、それとは逆に全く勢力としては死んでいたという様な言説も過小評価といえるのではと。95年2月の全国一斉ワクチン投与期はポル・ポト派の末期であることは確かでしょうが、とはいえ当時のカンボジア内で一定程度の政治勢力であったことは確かでしょう。
さて新聞記事を貼るのはこれで最後にしますが、少し時が飛んで2000年の新聞記事をば。
西太平洋地域のポリオ、WHO京都会議で根絶宣言へ
政治状況もNID(※引用者注:全国一斉ワクチンデー)を阻んだ。武力紛争が続いていたフィリピンでは、WHO西太平洋地域の尾身茂事務局長が双方に働きかけ、九十三年にポリオのための「一日停戦」を実現させた。一人っ子政策下の中国政府が「いないはず」とする第二子以降の子どもたちにもワクチンを飲ませるよう、中国政府を説得した。尾身局長は「微妙な問題でしたが、これはクリアできないと根絶はできなかった」と振り返る。
朝日新聞 朝刊 2000.10.21
西太平洋地域のポリオ撲滅宣言記事の中で尾身氏の功績について触れている箇所ですが、カンボジアで停戦を実現させたとは書いていません。また引用まではしませんが朝日新聞夕刊1998.6.18「ポリオ根絶(窓・論説委員室から)」においても尾身氏の苦労話を聞いた書き手がメコンデルタ、中国の話は触れていますがカンボジアの話はしていません。これらの記事でフィリピン*4、ベトナム*5、中国政府での行動が記されている以上、尾身氏がカンボジアで停戦を実現させたのならばここにそれが書かれてもなんらおかしくなく、翻ってその記述がないということは尾身氏の『WHOをゆく』の記述の様に尾身氏が行ったのはフィリピンの一日停戦であり、カンボジアはそれに倣った、若しくはポリオ撲滅のために組織内ですべきとされていた行動と見た方がよさげです。少なくとも尾身氏と記者の会話の中でカンボジアについてはそこまで大きな事柄でなかったのは確かでしょう。なおここではカンボジアについて現在ツイートされているような特筆すべきネゴシエーションがなかったであろうという話であり、確認できる尾身氏自身の行動については政府担当者を説いて回り出張ばかりだったという記事(読売新聞 2000.12.18)も存在しており、ことポリオ根絶については大きな役割を担った事は確かでしょう。
カンボジア国内の記事から
プノンペンポストというカンボジアの英字新聞に当時の記事をアーカイブ化したものが読めます。例えば「Polio vaccine for all(1995.2.24)」。これは第1回目のNIDについての記事ですが、クメール支配地域外を除く地域で接種が行われたようで停戦についての話はこれ以外の記事でも見受けられません。
またこちらはThe CAMBODIA DAILYというサイトですが、カンボジアで最後のポリオ感染者という少女についての記事「Girl May Be Cambodia’s Last Polio Victim(2001.4.5)」において、同国の根絶のための歩みが記述されていますが停戦については触れられていません。ついでに尾身氏の名前もなく、あるのはWHOのカンボジア予防接種プログラムの技術責任者のKeith Feldon氏です。当然と言えば当然なんですが尾身氏の名前を過大に評価することはこうした現場で動いた方々の功績の剽窃にもなりかねないので注意が必要かなと。
軽く探しただけだと上記の二つのサイトがありプノンペンポストの方では複数記事があるけれど、少なくともクメール・ルージュがポリオワクチンの障害になっているという記事はなく、停戦という様な内容もなさそう。これらを見る限り大々的な、歴史に残るような「停戦」はなかったであろうかなと。また1995年の第1回NIDについてはクメール・ルージュの支配地域外のみしか接種が行われていない記述がある事からも「尾身茂がクメール・ルージュと停戦交渉した」は事実に反する可能性が非常に高いと考えます。
尾身氏が西太平洋地域のポリオ根絶に尽力したのは本当でしょうけど、カンボジアの件は針小棒大の「尾身茂スゴイ!」的で、正直反応としてはチョロい気がする。時代が違い、勢力が違う。歴史認識って大事。
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