本記事は3万字を超えてしまってます。なので興味と時間があればどうぞ、と言う感じです……。本題は6千字くらいなんですが前段が……。
「韓国軍慰安婦」や「米軍慰安婦」とでも言うべき「第五種補給品」や「洋公主」についての話です。これは書こうかどうか迷っていた案件(ネット与太による再利用が嫌なので)ではあるものの扇動的な文が時折見られる中で、その実態が分からないままに語られるのはどうかと思うので書く事にします。なお念の為に最初から断っておきますが、当然ながらこれらの問題をもってして日本軍慰安婦の問題をうやむやにしたり、唾棄すべき言動やコラージュ、何よりも下種な行為*1が免罪されるわけでありません。
◆朝鮮における近代的性売買の成立について
◆「洋公主」について
◆「第五補給品」について
-日本右派による「ドラム缶」に女性を入れて運んだという話について(本題)
◆朝鮮における近代的性売買の成立について
前段としての話ですが、朝鮮王朝については性売買禁止政策を取っていたために日本における吉原の遊郭の様な公娼(集娼)制はありません*2。それが日本の朝鮮半島への進出と居留地化に伴い娼妓や日本式の性売買が持ち込まれます。日本領事館では当初は売春業が禁止されていたといいますが後に公式に承認されます。性売買をする女性(遊女)が増えたのは以下の様に日清戦争期*3とみられています。
植民地期の民俗学者・李能和の著書『朝鮮解語花史』(1927年)は、日本語の「遊女」に相当する朝鮮女性の総称として「蝎甫(カルボ)」という語を用い、ソウルに蝎甫が増えたのは「高宗甲午」年、すなわち日清戦争のはじまった1894年以降のことであると述べている。
藤永壯『植民地朝鮮における公娼制度の確立過程―1910年代のソウルを中心に―』
朝鮮半島には日清日露戦争などの影響によって日本軍常駐化、そしてそれに付随する様に遊廓*4が出現しており、さらに時代と共に貸座敷などの諸制度が整えられていきます。金富子はこれらの流れから「植民地遊郭」と呼んでいます。この軍駐屯地で作られた遊郭が後の解放、朝鮮戦争を経て米軍に基地が接収されるとともに基地村と言われ、米軍と性売買する女性、さらにのちには韓国男性向け性売買集結地に成るに至ります。そもそも現在の韓国における性売買集結地は、
植民地解放後韓国のソウル、大邱や全州、釜山などの大都市にある性売買集結地のルーツは、植民地遊廓にさかのぼる。現代韓国の性売買で使われる「マエキン」「ヒッパリ」「ナカイ」などの隠語も、同様だ(前掲『植民地遊廓』参照)。韓国の性売買の歴史は、日本の植民地主義(さらに軍事主義)と密接に関係しているのである。
チョンミレ、イハヨン、金富子[訳,解題]『韓国における性売買の政治化と反性売買女性人権運』
以上の金富子の指摘の様に日本の植民地期の影響が残っている事に留意が必要です。
また藤永の指摘するところでは第一次世界大戦という戦争景気くらいから、
京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた形跡がある……(『京城日報』18/06/12夕)。
藤永
以上の様に女性を誘拐・売買などを通じて娼妓などの接客婦が供給される構造、要は日本の構造と似通ってきたとしています。逆に言えばこの時期までは日本と朝鮮において性風俗意識やその構造には乖離があった事がうかがえます。元々公娼制の有無の違いもありますし、例えば誘拐に関しても当初はその数は少なく*5、女性売買の場合も建前*6が異なったといいます。この意識の乖離は江戸、李氏朝鮮という二つの統治機構の差異によるものでしょうし、制度の差から大きな乖離があったこと自体はなんら不思議ではないでしょう。
なんにせよ朝鮮の性風俗意識を日本が変容、加速化したという点は変えられない様のない事実でしょう。近代化すれば似たような経過を辿っていたはずだ、みたいな「たられば」は意味がありませんし。
◆「洋公主(ヤンゴンシュ)」について
時系列的には第五種補給品についてなのですが、まずは洋公主から。
上述した様に日本の朝鮮統治下に基地があった場所、及び公娼地域を米軍が再活用して在韓米軍基地になっている場所がいくつも存在し、それら基地村(旧公娼地域)には性売買に従事する女性がおり、「洋公主(ヤンゴンシュ)」という蔑称で呼ばれています。この「洋公主」(基地村)には日本統治下の「公娼地域」という遺産から生まれている側面が存在している事にはある程度意識することは必要です。付け加えて言えばその後には韓国にとって代表的な性売買地域(集娼村)へとも受け継がれていもいきます。
この問題についての韓国での認識は、
一定期間日本軍「慰安婦」がそうだったように,韓国人にとって基地村は誰も触れたくないが誰もが知っている「秘密」であった。民族と国家の「恥辱」として無意識の層位に隠されていた暗い影のような存在である。
李娜榮、呉仁済[訳]『日本軍「慰安婦」と米軍基地村の「洋公主」 ―植民地の遺産と脱植民地の現在性― 』
後述しますが昔よりはマシですが、あまり触れられたくない話題とは言えるでしょう。
洋公主の歴史的経緯、1950年代ごろまで
まず軽く歴史的経緯について触れますが、解放後に当時の南朝鮮の米軍政下において米軍兵士の保健と衛生のため、というどこかで聞いたような文句の様に性売買を管理・統制する政策を採用しています。この際に公娼以外にもウエイトレスなどの接客業者にも定期的な性病検診を受けると共に健康証明書の発給を求められ、性病感染者には病院への入院、中には女性監獄へ監禁された女性もいるとされています。そして契機となったのが朝鮮戦争です。1947年には公娼制が「表面上」は禁止されますが、朝鮮戦争によって多くの外国人兵士が流入することにことによって例のごとく性管理の問題が浮上、
韓国政府は,特定の場所に慰安所を設置し,登録制を実施して性売買女性に強制的に性病検査を受けさせ,許可を受けた業者と性売買女性から一定の税金を徴収するなど,名実共に「公娼制」が復活した。
李娜榮
という様に韓国政府の下に慰安所が設置*7、基地村の成長を促す大きな要素となります。
そして以上の様な慰安所は朝鮮戦争の休戦、事実上の戦闘終結後、本来なら解体されてしかるべきでしょうが、解体はされませんでした。当時の韓国政府はソウル市内に広がっていた私娼と「洋公主」を一定地域に集結、統制をしたい、アメリカ側は安全な性病防止対策をしたいなどの思惑の下に両国の協議が行われ、両国間で組織された「性病対策委員会」において1957年に慰安婦女性を一定地域に集結させることが決定されます。この決定と共に米軍当局は外出と外泊を許可するようになりますが、そこには以下の様な指摘があります。
米軍の外泊許可は,同年(1957年)日本に性売買防止法が制定された事実と無関係ではない。韓国政府は米軍の日本行き性売買の需要を韓国内に向けるための方法として,慰安婦を相手に啓蒙講演会を開いた。各地の警察幹部が直接介入して組織し,管理・実行するやり方だったが,主な内容は性病予防と米軍を相手にするときの正しい態度を身につけるためのものだった。
李娜榮
という様に韓国政府としては米軍兵士が日本で消費していた需要を韓国国内でという思惑があったとされます。また、この女性の性を用いた観光業の推進には戦争直後の軍事的緊張やノウハウの無さという前指摘もあり、
政府は''韓国で最も容易に引き付けることができる客は在UN軍''と判断して(交通企画調整官室、1961︓39)、休暇将兵元会を開催し、韓国観光を紹介する⼀⽅、''外国⼈相⼿ホステス''に対する教養講習を推進した(東亜⽇報、1959.12.7)。しかし、その成果は微々たる。⽶軍当局は、観光施設の不備やセキュリティなどの理由で韓国に⽶軍のための休息と娯楽施設(Rest and Recreation、R&R)のインストールを保留したために、⽶軍兵⼠たちは、主に、⽇本や⾹港で休暇旅⾏を去った(韓国観光協会、1984︓20)。⽶軍は、1960年にようやくR&Rを承認し、これに伴い、交通部は、政府直営観光ホテル3カ所(温陽・海雲台・仏国寺)を⽶軍レクリエーション設備に指定した(運輸省機画調整官室、1961︓234)。
バクジョンミ『発展とセックス:韓国政府の売春観光政策、1955-1988 年』韓国社会 2014
※自動翻訳で読み、自動翻訳による明らかな文章のブレのみ一部修正しています。
以上の様に米軍からの娯楽施設の認定や60年代には酒税などの税率変更も行われた事も有り、基地村は急激に栄えたといいます。この時点での韓国政府は女性の管理統制、また経済の一環として事実上の公娼制度を維持していたと指弾されても致し方ないでしょう。
洋公主に対する社会の認識の変化
1950年代周辺時期の洋公主に対する社会の認識は、
「洋公主」は、朝鮮戦争後の退廃的な雰囲気と伝統的な価値である貞操から離れた存在としてだけでなく、朝鮮戦争、貧困、米軍との性的関係を体現する存在として、「民族的差恥」としてもみなされた。異民族に体を売る「洋公主」たちは、人々の身近にいながら、戦争や貧困、そして民族の恥辱的な記憶をつねに喚起させる存在であった。
秦花秀『朝鮮戦争後における国家再建と女性』
という様に蔑まれる存在だったといえるでしょう。1955年の韓国日報においては「若者と子どもたちに害毒をもたらすので,彼女らを防止できないのであれば,いっそのこと隅に追いやって」という様に論壇の中では隔離の対象として扱われています。これには同時期の韓国社会に自由な女性が家族、伝統を壊す懸念や母性の神格化、強い貞操観念なども付随しているでしょう。日本において「パンパン」が忌避されたことを考えればむべなるかな、です。秦花秀の指摘するところによれば当時の韓国の論壇の中には「種族保存」という文脈の中で女性を語っている論者がおり、その様な論者にとって洋公主の様な性産業従事者は唾棄すべき存在でしょうし。「種族保存」の証左の様に洋公主とアメリカ人との間に生まれた混血児が問題化され、外国に養子に送る唯一の救済策であると述べる論もあります。また「性病管理」のための施設が周辺の村から「モンキーハウス」と呼ばれていたという事例もあると言います。
さて、これは洋公主以外の話も含みますが、経済の一環としての側面は朴正煕政権でさらに強まります。1961年「淪落行為等防止法」ができ名称の様に性売買行為が禁止されますが、同じく観光事業振興法も制定され、特殊観光施設業者が公式化されます。また外国人来韓に備えて淪落行為等防止法が適用されない「赤線地帯」の設定、外貨獲得のための性産業という要素が強くなります*8。所謂「キーセン外交」という側面が表出していきます。さらに付け加えれば朴正煕政権は「慰安婦」を新たに「特殊業態婦」という名称に呼び変えます。つまりは「慰安婦」という名称をこういった女性に使っていたという歴史的経緯が存在します*9。またこのキーセン外交、女性の身体の観光資源化についてはバクジョンミ(2014)が指摘するところによれば、「⽶国商務省と⽶国の対外援助先一種発展戦略的に⼥性の性的サービスを観光プログラムに含まれることを推奨」(自動翻訳による)とあり、米国の関与が伺えます。
話は少し脱線しますが「キーセン外交」は日本で一時期の韓国への旅行を表す言葉として存在しています。これは韓国側が上述したように性産業を外貨獲得産業と位置付けた為という側面もありますが、日本男性も多く行ったという事でもあり。バクジョンミ(2014)によれば1965年の日韓国交正常化後に日本人男性の対韓国観光客が上昇、米軍を抜き外国人観光客第1位となります。その際の男女比割合は
観光客の⼤多数は男性であった。国際観光公社は、1974年から外国⼈観光客の性別を集計したところ、1979年まで毎年全体の外国⼈観光客の男性の割合は80%を上回るした。国籍による性別集計は、より遅い1977年から⾏われたが、特に⽇本⼈観光客の男性の割合は、常に90%以上であった。アメリカ⼈とその他の外国⼈は約70%が男性であった
パクジョンミ(2014)
と全体的に男性の割合が多いですが、特に日本人男性はその割合が9割超え、1988年時には多少減りましたが、それでも81.9%ととかなりの偏りがあった指摘しています。 1982年韓国の運輸省と韓国観光公社の調査では⽇本⼈観光客の80%が寄生パーティー(自動翻訳による。キーセンパーティーの意かと)が最も印象的だったと答えています。当然、すべての男性がキーセン外交をしていたわけではないでしょうが、とはいえかなりの男性にその目的があった事は確かでしょう。
閑話休題。1970年代にはいって外貨獲得の為の要素が強かった時には洋公主らは「民間外交官」「経済建設のために必要な外貨を獲得するために身体を捧げる」「愛国者」などとも呼ばれる様になります。その際には警察、保健所において、基地村の女性に対して「民間外交官」の役割を果たす様に性病予防教育、英語講座、米国式礼節教育を「教養講座」という名の下に行われています。この教養講座をキム・ヨンジャは次の様に振り返っています。
「ふむふむ、えー、あなた方は愛国者です。勇気と誇りをもってドル獲得に寄与することを忘れてはいけません。えー、私は皆さんのような隠れた愛国者のみなさんに感謝いたす次第です」
李娜榮
この時代に使われていた「愛国者」がどのような意味で使われたかは、以上の発言が端的に表しているでしょう。
公論化と最近の動向
洋公主には以上の様な経緯が存在しており、韓国政府が積極的に関与しているといって良い事案です。李娜榮が指摘する様に日本軍慰安婦は「植民地状態における被植民地女性に対する性的暴力の問題」を含みますが、洋公主は「同盟国の兵士の性的欲求の解消と確固とした同盟関係を築くために女性が動員される」という問題を含みます。いずれにおいても他者属性による自己集団に属する女性の性的な蹂躙という類似の構造を持っています*10。
しかしながらこの洋公主の問題は日本軍慰安婦ほどには公論化されていません。李娜榮が指摘するところによれば、
韓国社会にはこのような観点から日本軍「慰安婦」と米軍基地村「洋公主」を切り離して,思考してきた。それは,慰安婦運動陣営においても一定期間維持されてきた立場だった。
「慰安婦は,当時の公娼制度下の日本人売春女性とは異なり,国家と公権力によって軍隊から強制的に性的慰安を与えることを強要された性奴隷であった」(従軍慰安婦問題第2次調査発表に対するわれわれの立場)
李娜榮
以上の様に慰安婦はその強制性に、そして洋公主は公娼制度という枠組みであり強制性はないものとして語られ、それらの女性たちへの沈黙を強い、公論化を免れてきたとしています。日本軍慰安婦は連行された「純潔な少女」、洋公主は濃い化粧をしながら民族の純潔を汚す女性と言う様な印象の対比もあったでしょう。これらは女性の「自発/強制」の二択を問題視しており、それらの女性がなぜ制従事者になったかの背景、社会的状況、政府としての体系構築などを無視したものです*11。また公論化されていない理由の中には対アメリカの話である事も少なからず関係しているでしょう*12。
以上の様に洋公主について長々と書き、さらには公論化はあまりされていないとは書きましたが2019年現在においては変化が生じています。挺対協が基地村の女性に連帯を表すとしたり、進歩系であるハンギョレは2014年に基地村に関する連載を行い[記事1][記事2][記事3]、議員の中には特別法を主張する議員がいる状況(ハンギョレ新聞記事)を作りました。この特別法は特にハンギョレの連載では長々と上述した外貨獲得や「愛国者」と呼ばれた基地村の女性たちが麻薬と知らされずに麻薬を服用させられたこと、騙されて連れてこられたこと、暴力、堕胎、借金、自殺する人間などなどの諸問題が告白されています。この法案自体は会期切れによる自動廃案、2017年7月には「米軍慰安婦問題に対する真相究明と名誉回復とサポート等に関する法律案」が出されるも進展なしなどはありますが、少なくとも国会議員も動きだしていることは確実です。また2015年には『国家暴力と女性の人権 米軍慰安婦の隠された真実』という米軍慰安婦問題について法的責任を追及する冊子が「基地村女性人権連帯」から出されています(名称はともに自動翻訳から)。
そして2018年には、
大韓民国が「軍事同盟・外貨獲得」のために、米軍基地村を運営・管理し、性売買を積極的に正当化したり助長したと認める初の判決が下された。裁判所は「国家が基地村慰安婦の性的自己決定権、ひいては性に表象される原告の人格自体を、国家目的達成のための手段として、人権尊重義務に違反した」として、(中略)基地村慰安婦117人が国家を相手に出した損害賠償請求訴訟で「原告74人に各700万ウォン(約70万円)、43人に各300万ウォン(約30万円)の慰謝料と、その利子を支給せよ」と判決した。
「国家が米軍基地村で性売買を助長」初の判決…賠償範囲を拡大 ハンギョレ 2018-02-08
の様に国家が米軍基地村で性売買を助長したとし、賠償判決が出ています。つまり、国家による暴力が認められたわけです。ハンギョレ日本版を見る限り、日本軍慰安婦と比較すればその活動、報道は相対的には少ない*13ものであるもののこの件については司法判断もあり、着実に意識変革は起こっているのではないかと考えられます。ただし、そこに「対アメリカ」の言説がどこまであるかは不明ではありますし、実際にハンギョレにおいても対韓国政府という枠組みに見える様に日本軍慰安婦とはまた異なる責任追及という現状はあるでしょう。
なおこれは余談ですが、現基地村にはフィリピンをはじめとした外国女性へと住民が変わっており、現役の韓国人基地村女性は徐々にいなくなっていると考えられます。
◆「第五補給品」について
「第五種補給品」とは朝鮮戦争時における韓国軍慰安婦の現場での別称です。後述する軍が後に作成した公文書内ではその様な記述ではなく「特殊慰安隊」など、「慰安」という文言で記述されています。軍人の回顧録を見ると、朝鮮戦争当時は軍補給品は第一種~第四種しかありませんでしたが五番目の補給品としての女性を示す別称、それが第五種補給品であり、その役割は部下の士気高揚の為、要はいつもの慰安婦問題で語られる論理が用いられています。なお現在の韓国軍における補給品は10種まで規定、その第5種は「化学弾を含むすべての弾薬類、爆破資材、ヒューズ、ギポクヤクなどの弾薬類」とのことです。 この第五種補給品についてはベトナム戦争での韓国による加害側面や上述した洋公主の問題を連載化したハンギョレ(日本版)においても記事化されておらず(問題提起者の名前も検索ヒット無し。ただし問題提起時には韓国で記事は書かれてます)、韓国社会の中では洋公主以上に触れられていない案件と言えるでしょう。で、この件は少なからず日本右派により利用されている案件でもあります。実際にひどい案件ではあるものの、日本のインターネットでシンボル化と共に悪し様に書かれているさまは検索すれば確認可能です。煽情的なのでおススメはしませんし、ノイズも多いのでそういう意味でもおススメはできません。
2002年の問題提起
韓国軍慰安婦は2000年代以前にも報じられ、回顧録的なもので触れられもしていたようですが契機となったのは2002年、金貴玉による問題提起によって日の目を見る事になります。これは当時の朝日新聞でも
韓国の陸軍本部が56年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所-特殊慰安隊」の記述を見つけた。設置目的として「異性に対するあこがれから引き起こされる生理作用による性格の変化等により、抑うつ症及びその他支障を来す事を予防するため」とあり、4カ所、89人の慰安婦が52年だけで20万4560回の慰安を行った、と記す特殊慰安隊実績統計表が付されている。(中略)軍関係者の証言の中には、軍の補給品は第1から第4までしかないのに、「第5種補給品」の受領指令があり、一個中隊に「昼間8時間の制限で6人の慰安婦があてがわれた」とする内容のものもある。
朝日新聞:朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表
※ウェブアーカイブ
以上の様に記事化されています。この案件に対する反応は日本においては今でも一部右派で根付いている程度で知名度は低く、そして韓国においても反応は薄く沈黙されている状態と言えます。この問題提起時には金貴玉によれば「日本軍慰安婦問題でもないのに」や、大学当局から「気を付けてくれ」などをはじめとした圧力を含む文言をかけられています。何よりも問題なのは韓国軍国防部所属の資料室に備えられていた慰安婦関連の資料の閲覧が禁止された事でしょう。その後に語られなくなったと言えども、その当時には強い影響があったのは事実です。 なおこの韓国軍慰安婦ですが、朝日新聞の記事にある様に公文書である『後方戦史(人事編)』にその実態がいくらか記述されています。韓国軍慰安婦と言う問題は韓国軍自体が作成した公文書に書かれている事であり、また金貴玉は複数関係者へのインタビューや複数の回顧録にもその記述があり、まずその存在そのものは事実であることは間違いないでしょう。
韓国軍慰安婦の誕生経緯と国連軍との関連性
まず前段として、1948年2月に米軍政庁によって公娼廃止令が発行されており、当然ながら朝鮮戦争時においても公的には公娼が廃止されている状態です。そのような状況下の中で
表面化した理由だけをもって簡単に国家施策に逆行する矛盾した活動だと結論するならば別問題であろうが、実質的に士気高揚はもちろん、戦争事実に伴う避けることのできない弊害を未然に防止できるのおみならず、長期間、報酬のない戦闘によって後方との往来がないゆえに異性に対する憧憬けから引き起こされる生理作用による性格の変化などによって、うつ病およびその他の支障を招くことを予防するために本特殊慰安隊を設置することになった。
金貴玉『朝鮮戦争時の韓国軍「慰安婦」制度について』アジア現代女性史 第四号 2008
以上の様な設置目的の下で「特殊慰安隊」が誕生します。特に「家施策に逆行する矛盾した活動」は公娼制廃止を示すと考えるのが妥当でしょう。このは「特殊慰安隊」の設立時期は不明確ですが、1951年夏ごろの戦線が現在の休戦ライン付近になった意向だと推定、閉鎖は1954年3月頃だとされています。閉鎖後には私娼へと変貌し集娼地が形成されたとみられる場所も存在しており、その後の洋公主との連続性も存在しているとみて良いでしょう。
この慰安所設立前には現地妻、女性を強制的に連れてきた「性上納」などがあり、
実際に韓国軍が38度以北の地域を占領したとき、いわゆる人民やアカ家族、女性に対してほぼ例外なく性暴力が加えられたとする。毎晩韓国軍が若い女性を強姦して歩き回るという噂が近隣の町から前きたし、すぐにその噂は事実で明らかになった。
([딴지일보 | 사회]한국군 특수위안대 : 한국전쟁 제5종 보급품은 '여자'였다)
※記事を自動翻訳で確認
その後の慰安隊が出来る下地の前段として性暴力があったことが伺えます。
また韓国軍慰安制度と隣接する問題として国連軍用の慰安施設があげられます。バクジョンミが『韓国戦争期売春政策に関する研究:慰安所と慰安婦を中心に』 2011 (自動翻訳で読んでますので誤りがある可能性が少なからずあります)内で指摘する所によれば1950年時点で各種新聞に国連軍用の「慰安所」設置を報じてられています。たとえば”1950年11月5日「京郷新聞」は「連合軍相手のダンスホールや慰安所設置」”についての許可の話をソウル市警察局長が発言したとあります。ここでいう「慰安所」は性的な用途のみか、それともその他の娯楽を含めた幅広い意味での「慰安」施設かは分かりかねます。しかしながら1950年時点で国連軍用の慰安施設があった事は確かです。そして1952年の釜山日報によれば公認「慰安所」は78カ所と報じられています。
バクジョンミによれば朝鮮戦争期の性従事者数に触れながらも、その相手の多くは国連軍(米軍)であったと指摘してます。これには米軍側が貨幣を持っている、そして人口の大半が貧困状態の当時の韓国という二つの状況が合わさった事が影響しているでしょう。その頃にはそういった女性を呼ぶ「国連マダム」などの呼称も存在しています。当時の新聞においては
過去を回想すると予期していなかった過渡期における数多くの家庭婦人が受難を受けており(中略)国連マダムたちの活躍が展開された後は、このような悲劇は根絶に近くなったので、このようにみると、韓国の女性の処女をため防波堤の役割をしているとしても過言ではない点もある
「釜山日報」、1953年
※バクジョンミ(2011)からの引用。自動翻訳による
以上の様に韓国女性の処女性を守る為の防波堤としても彼女らを見ています。ここで言う国連マダムは韓国軍慰安婦ではなく民間の性産業従事者という文脈でしょう。なお民間の彼女らに対しては一種の疑念が持たれます。性病やスパイ行為の可能性です。これは当時の韓国国内の新聞にも書かれている懸念であり、これも国連軍及び韓国軍慰安所が出来た背景の一つでしょう。
韓国ナムウィキの「韓国政府の慰安婦」には1951年5月に「国連軍慰安方式の件」(自動翻訳からの意訳です)において国連将兵のためのダンスホールと慰安所の設置と運営について政府の直接指示(最終決裁者は李承晩)があるとあります。この時点での「慰安所」は性従事を伴う慰安所かは不明ですが、バクジョンミによりその数か月後に作成された資料で政府が国連軍「慰安所」の設置に介入したことを立証する決定的資料を発見しています。その資料は保健省が1951年10月10日に決裁した「清掃と接客営業衛生事務取扱要領追加指示に関する件」(自動翻訳による)です。この資料上では「慰安婦」という単語が用いられながら、駐留軍当局の要請、一般住民に影響がある場合に施設を許可とあり、性病検診、許可証の必要性などの管理、隔離体制を構築しています。なおこれらの施設は民間が設置・経営して軍がこれを許可・監督するという形式であったといいます。韓国軍慰安施設は韓国軍が直営、国連軍は民間と相違はありますが、連続性は十二分にあるでしょう。この「民間」と「韓国軍直営」との相違に関しては、連合国軍と韓国軍との資金の差、市場の大きさではないかとバクジョンミは指摘しています。ただし韓国軍慰安婦の人数は300人と推定されるほどに数が少ない事を考えれば、韓国軍においても民間のそういった施設を利用していた可能性は十分にあるでしょう*14。
上記資料は米軍下部組織として創設されたUNCACK(国連在韓文民援助司令部)に報告する為に作成された資料だと推測されています。資料が作成される3か月前には感染症対策を樹立されており、その影響が資料にも反映されていると考えて良いでしょう。ちなみにこのUNCACKは朝鮮戦争期の米軍による性売買対策にかかわる機関として最も重要という指摘もなされている組織です*15。
韓国軍慰安所が出来た理由には日本と同様の戦場における強姦抑止などの性管理、性病防止やスパイ行為防止等によるものもありましょうが、そこには国連軍という別の要素の存在もあった事に留意が必要です。
韓国軍慰安婦の実態と日本軍との関連性
後方戦史や回顧録などによればこの実績表及びその実態は、
・1人の慰安婦が1日に6回以上の慰安
・資料上では4つの小隊に89人
・予備役将軍の証言によれば60人を1個中隊で3、4個運用、軍慰安婦の数は180~240名ほどと推測
・1953年に新設された4つの小隊まで合わせれば300人を超えるものと推測
・慰安所には固定式と移動式の二つの形式が存在
・定期的な性病検査を実施
・慰安所の利用者は年間20万人ほどと推定
・(一部例外もあるが)使用にはチケット制を導入、功績に応じてチケット配分
・参考論文内では賃金などの対価は不明
以上の様なものだったと言います。
なお、この韓国軍慰安制度は日本軍慰安制度とその構造が類似している事が指摘されています。終戦から朝鮮戦争までの期間を考えれば旧日本軍士官であった人間が韓国軍にも相当数在籍しており、そして兵士の回顧録においても、
連隊1科から中隊別第5種補給品(軍補給品は1~4種しかなかった)受領指示があったので行ってみたところ、うちの中隊にも週に8時間制限で6人の慰安婦が割り当てられてきた。過去の日本軍の従軍経験がある一部の連帯幹部たちが部下の士気高揚のための発想でわざわざ大金の厚生費をかけて調達してきたのである。
金喜午『人間の香気:自由民主/大功闘争とともにした人生歴程』
※金貴玉『朝鮮戦争時の韓国軍「慰安婦」制度について』の引用文から
以上の様に日本軍との連続性が語られています。韓国軍には李承晩政府の下で日本軍出身の幹部たちが補充されており、その彼らが経験、若しくは見聞きしたであろう日本軍慰安婦制度を模倣したとしてもそれは何ら不思議な事ではありません。むしろ独自の発想で韓国軍慰安婦制度を創出した、と考える方が無理のある考え方でしょう。
金貴玉の指摘する事によれば慰安所の直接的な責任と切り離すことができないという陸軍本部恤兵監室の前身である厚生監室を設立した朴璟遠は学徒兵としてですが日本軍兵士として太平洋戦争に参戦しており、その最中で慰安所を知る機会があってもそれは自然な事でしょう。なお「清掃と接客営業衛生事務取扱要領追加指示に関する件」という資料を考慮した際、米軍側の承認、若しくは黙認はほぼほぼ確実でしょう。
韓国軍慰安婦となった女性たち
韓国軍慰安所及び軍慰安婦そのものは国家組織によって設立、運営される公娼制としての性格が強く、性病検診もて行われています。しかしながら韓国軍慰安婦となった女性が私娼や、若しくは国家への忠誠心の下にそこに参加したかと言えば、それは大きな疑問がある事です。そもそもよしんば国家の忠誠心などの下でそこに参加したとして、過酷な性従事労働(蹂躙)が免罪されるわけでもありませんが。
韓国軍慰安所に詳細について記載された『後方戦史』には慰安婦となった女性の過程は言及されておらず、また公開募集をしたという記録も発見されてはいません*16。金貴玉の推定によれば「自発的動機」は殆どなかったとしています。例えば以下の様な事例が紹介されています。
1人は、10代後半の未婚女性で、1951年春まで咸鏡南道永興群の故郷に住んでいた。ある日、韓国軍の情報機関員、いわゆる北派工作員たちによって拉致されて一夜にして韓国軍の軍慰安婦に転落した。彼女はこのような事実を証言することを拒絶した反面、拉致した北派工作員2名によってこの事実が証言された。
金貴玉(2008)
その他にも悲惨な事例をあげるならば「アカ」という嫌疑を受けている状況下、及び直接的な強姦の結果として慰安婦になるしかなかったという状況、人民軍に連行されてその後に韓国軍によって連れ去られた女性の証言ではそこには複数の少女が監禁、その少女自身はその場にいた人間との結婚で軍慰安婦になる事を免れますが、そのほかの少女は軍慰安婦になったという証言、性従事に関する事だけは伏せられての勧誘などの証言が存在します。軍人の回顧録においても洒落た売春街の女性ではないと言う証言もあり、金貴玉の調査と併せれば一般女性が強制的に軍慰安婦になった事を伺わせます。また軍慰安婦になった女性の多くは左翼(アカ)容疑者ではないかという指摘もあり、往々にして戦時下のイデオロギーが強く影響しています。ただここで言う容疑者とは実態をあまり伴わないレッテルに近しいものでしょうが。
ただし全ての韓国軍慰安婦がこのような悲惨な経緯でなったわけではないでしょう。金貴玉がインタビューした二人の北派工作員(上記引用の工作員2人とは異なります)は彼女らを職業的に体を売る女性であったと一蹴しています。元将校の話では私娼窟で大金を払って連れてきたというエピソードも存在します。韓国軍慰安婦という国家による公娼制と国連マダムなどの私娼としての存在が話の中で混ざり合っている可能性がありますが、逆にそのすべてが「アカ」の嫌疑嫌疑や誘拐だった、軍による組織的な大量誘拐が行われたと一般化をするのは早計かもしれません。個々の事情は様々でしょう。なお当然ながら彼女らが私娼だとしても私娼ならば良かったのかと言う視点はありますが。
朝鮮戦争という戦時下を考えればそこに戦争による帰るべき場所の破壊や極度の貧困が確実に存在したでしょう。さらに言えば日本軍慰安婦が朝鮮人子女を多く活用した理由の一つにその伝統的価値観からくる純潔意識、性病の危険性の少なさが指摘されています。そのような純潔意識や当時の家父長制の存在を考慮すれば私娼であっても果たして「自発的動機」と言うものが何処まであったかは、考えるまでもないでしょう。少なくとも金貴玉の指摘した例などは明らかに強制動員です。
韓国社会での反応
さて、韓国軍慰安婦に対する韓国における反応ですが、
韓国の学会や女性界では、日本軍慰安所は「公娼」との連続性があると見る主張に対して辛らつに批判してきたが、韓国軍慰安婦問題については「公娼」だと断定して再編の余地がないものと銘記する傾向を発見した。さらに一部の韓国の進歩的な男性たちさえも、民族主義の旗を掲げ、私の研究成果物が家族の恥さらしをする事だとみなし
金貴玉(2008)
以上の様に決して賛意を示す反応ではなく、学会などにおいても韓国軍慰安婦問題を「公娼」だと断定するなど、その反応は芳しくありません。洋公主においてもそういった概念から近年その国家による暴力性が見つめ直されている事から、この件についても多少の変化はあるかもしれませんが。また、この項目序盤でハンギョレ日本版が記事にしていないと書きましたが、韓国のハンギョレ21では記事化されています。
ただし、この問題が日本軍慰安婦や米軍慰安婦と異なるのは、この告発は朝鮮戦争における韓国軍兵士、英雄たちであった「韓国人」男性の名誉を棄損する問題でもあるので、そこには困難さが孕むことは想像に難くないでしょう。誰の発言なのか、若しくは例えなのかは不明ですが、金貴玉(2008)の中に”『韓国軍慰安婦は「日本人」ではなく「韓国人」とそうしたのだから、それでもマシなのではないか』”という民族主義イデオロギーと家父長イデオロギーの混在した発言を書いています。また金貴玉は反共イデオロギーの存在も指摘しており、「アカ」の嫌疑によって軍慰安婦を強要していたとなれば韓国軍の不正問題へと繋がります。それを刺激したくないという面もあり得ます。そして何よりも韓国軍慰安婦経験を持った女性は口を閉ざし、金貴玉に対してもそれ以上の連絡を拒むといったエピソードがある様に、当事者たちが語りたがらない問題なのでしょう。
自動翻訳の為に齟齬があるかもしれませんが、韓国のwikiにおいてはこの韓国軍慰安婦が問題化されていないことに二重基準ではないかという指摘も存在しています。問題提起が2002年、それから10数年経過してもその問題提起が日本軍慰安婦は言うに及ばず洋公主ほどの注目もされていません。洋公主の項目であげた『国家暴力と女性の人権 米軍慰安婦の隠された真実』では韓国軍慰安婦についても記述されたリ、第五種補給品を「제5종 보급품」とハングルで検索すると2018年製作のドキュメンタリー映画の感想が出て来るように関心のある人間は一定数は存在はするものの、
日韓基本条約、アジア女性基金などで数回の賠償が行われて、政府との間の不可逆的合意まであった日本軍慰安婦とは異なり、この問題は、正しく知っている人でさえまれな状況である。 被害者を除けば、ほとんどが内容につきましては関心ない。
ナムウィキ 韓国軍慰安婦
※自動翻訳にて確認
という自省も込められているであろう文章がある様に、これが韓国における韓国軍慰安婦に対する現状認識であり、公論化されてはいないといってもあながち間違いではないでしょう。何よりも被害者が口をつぐんでいる現状では公論化はかなり難しいでしょう。
またパクジョンミによれば韓国の研究も金貴玉の研究以降は停滞気味、韓国政府においても上述したように資料の閲覧禁止という行動、딴지일보の記事(2016年)において「国はまだ謝罪どころか、どんな措置もとっていない。」(自動翻訳)とある様に、ハンギョレ21の様な動くメディアや大統領への請願の中に韓国軍慰安婦を教科書にという請願もありますが、まだ社会全体が動いているとはあまり言えないでしょう。
日本右派による「ドラム缶」に女性を入れて運んだという話について
日本右派の中には第五種補給品となった「韓国軍慰安婦をドラム缶(鉄製の桶)で運搬していた」という話が流布され、一部ネット右派の中ではシンボル化しており、そういったコラージュが一部で好んで使われています。そもそもこの記事はそれを見たきっかけがあって書いてるわけです。ある意味、今までのは前段です。最後にこの件をば。
このソース元は2つあって、1つは昨今話題の『反日種族主義』を著したり、日本軍慰安婦について韓国内で物議をかもす事がある経済史学者の李榮薰の著作『大韓民国の物語』(邦題。韓国では2007年、日本では2009年に翻訳)によります。該当本では、
これ以外にも各部隊は部隊長の裁量で、周辺の私娼窟から女性を調達し、兵士たちに「補給」したのですが、部隊によっては慰安婦を「第五種補給品」と言っていました。私はその「補給品」をトラックに積んで前線を移動して回った元特務上等兵に会ったことがあります。彼によれば、慰安婦を前線まで連れて行くのは許可されたことではありませんでした。にもかかわらずドラム缶に女性を一人ずつ押し込んでトラックに積んで最前線まで行ったといいます 。夜になると「開店」するのですが、アメリカ兵も大いにこれを利用したということです。
李榮薰『大韓民国の物語』文藝春秋 2009
以上の様に元軍人とのインタビューの中で彼がドラム缶に女性を入れてトラックで運んだというエピソードが紹介されています。(ちなみに韓国語圏はで그날 나는 왜 그렇게 말하였던가で確認可能)。韓国の米軍慰安婦のwikipediaも彼の記述をもとにし、日本の第五種補給品のwikipedeiaもソースの一つとして李榮薰があげられています。
李榮薰がわざわざ元兵士にあったと言う嘘をついてまで話を創作する必要性は流石にない……、と思われますので、そういった事例があった事は自体は事実かなとは思います。多分、一応。なんでこう歯切れが悪いかと言うと、韓国での情報を漁ってると李榮薰って独立運動家の子孫だという詐称(該当運動家の兄の娘の娘の息子が事実で子孫とは言えない)、ソウル大名誉教授だという詐称(資格を満たしていない。自ら名乗ってはいないという釈明あり)、『反日種族主義』についての議論が出てきたときにインタビュアーに暴行振るったり(インタビュー拒否を何回もしたという前提あり)など、ちょっと信用できない語り手ではあります。そのほかにも物議を醸している件がありますし⋯⋯。あと言わずもがなの親日派で(ハンギョレなどの進歩系では「ニューライト」)、韓国では珍しそうな慰安婦強制連行否定、朝鮮王朝批判、世宗が慰安婦の源流説などをする結構な個性ある人物です。それはともかくこのソースの一つは、と言うよりも韓国におけるソースは李榮薰となります*17。
少しだけこの李榮薰『大韓民国の物語」についての話で脱線をします。この箇所の引用はネット含め右派論壇で幾度か流用されて使われているものです。まず、該当箇所を写真で見てみましょう。
確認漏れがなければ私が引用した文章と同じものです。引用したのだから当然なのですが。ただ右派論壇で引用されると微妙に文章が変わるんですよね。たとえば、
門田隆将 従軍慰安婦が「韓国政府」を訴えた歴史的意味 2014.06.30
文章に若干の差異が見られますが何より李榮薰の著作の特徴である「ですます調」が何故か語尾が「言っていた」「行った」などの口調へと変化しています。また、
以上の様に「第五種補給品」のくだりがなかったりと文章の変更が見受けられます。文章の意味自体は何れにおいても変更されていないですが引用内容を何故変更したのか。該当本が重版を経て内容に変更が加わったとも思えない箇所ですし……、謎です。
閑話休題。
もう一つのソースは『後方戦史(人事編)』です。これは韓国wikipediaには書かれていないソースであり、日本の第五種補給品のwikipediaのみのソース(「韓国軍慰安婦」の項目は全て李榮薰です)です。また後述しますがこの後方戦史ソースでドラム缶話をする方は日本語圏ではいくつか確認できます。で、wikipediaに限ればその出典は2014年、及び2015年のフォーカスアジアの記事だとわかり、そしてそのフォーカスアジアは中国メディアの環球時報及び観察者網を翻訳編集したニュース記事で、
1950年代に書かれた韓国陸軍本部の「後方戦史」では、当時、韓国軍が慰安所を設置し、女性たちを「特殊慰安隊」「第5種補給品」と呼んで、鉄製の桶に入れた状態で前線の米軍兵士の「お楽しみ用」として送り込まれたと記載されている。
フォーカスアジア 2014年記事及び2015年記事
※共にアーカイブです。
という両記事で同じ記述になっている事を確認できます。なお引用した様に記事中はドラム缶ではなく「鉄製の桶」と記述されています。この鉄製の桶が李榮薰の記述と併せてドラム缶となったのでしょう。ちなみに両記事共に引用箇所以外にもかなり類似の記述がある状況です。このソース元の中国圏記事にあたると環球時報の2014年12月の記事が每日头条で確認可能であり、その記述中に、
韓國陸軍本部編撰的《後方戰史》中承認,當年設有固定式和移動式兩種慰安婦,慰安所的女性被稱為「特殊慰安隊」、「第五補給品」,而專為美軍服務的慰安婦還被裝進鐵皮桶里送到前線,供美國大兵「享樂」。
每日头条 2014年12月2日
と言う様に後方戦史をソースにして”慰安婦還被裝進鐵皮桶里送到前線”とあります。同様の記述が他の中国サイトでも見られることから、この記述がテンプレとして広まったと考えるのが妥当かと考えます。ただ、上記の記述以外は韓国における情報以上の新規性はなく、またこれ以前に後方戦史をソースとした記述は管見の限り見受けられません*18。閲覧禁止であろう資料を中国メディアが確認して新しい記述を加えたというのも少し考えづらい、探し方が悪いのか韓国の方ではwikipedia以外のサイトでもこの後方戦史ソースはない。参考にした論文や各サイトにおいてもドラム缶で運送というのは象徴的そうなエピソードにも拘らずそのような記述はなく、後方戦史ソースは信憑性に疑念があります。
また週刊新潮2013年11月28日号において朴正煕が米軍慰安婦に関わっていたという記事の中でドラム缶の件に触れています。
その後、金教授は『軍隊と性暴力』に収録された論文において、
(中略。該当論文の引用)
要するに軍直轄の慰安所だったのだが、前線に慰安婦を送るときには1人ずつドラム缶に押し込み、“補給品”名目でトラックに積んでいたという。
週刊新潮2013年11月28日号『「朴槿恵(パククネ)」大統領の父は「米軍慰安婦」管理者だった!』
※該当雑誌が図書館になかったためネットからの転載となります。
以上の記事からは後方戦史、李榮薰のどちらがソースかはわかりません。むしろ事前に金貴玉の論文を引用している為にソースは金貴玉の論文かの様に見えます。しかしながら該当書籍を含め、金貴玉の韓国軍慰安婦関連の論文は4つほどありますがいずれにおいてもドラム缶に類する記述はありません。その為に金貴玉ソース、及び後方戦史ソースはないものとみるのが妥当であり、常識的に考えれば李榮薰ソースの話を金貴玉の話の後に付け加えたという事でしょう。あとこれはあまり関係のないことですが、週刊新潮記事内には「第5種補給品」という名称が使われていないにもかかわらず、「補給品」名目でトラックに積んでいたという記述になってて少し情報の出し方というか記述の仕方が少し下手だなと。
それと右派論壇の渡邉哲也が2017年に、
「第五種補給品」とは慰安婦のことで、朝鮮戦争当時、韓国軍は女性たちをドラム缶や鉄製の桶に入れて韓国軍、米軍、国連軍に慰安婦として「供給」していた。これは韓国軍の正式文書の中に「○○基地に第五種補給品を20缶供給」などというかたちで出てくる記述であり、韓国軍が慰安婦に対して使用していた正式名称である。
Business Journal | 韓国、韓国人慰安婦をドラム缶に入れて米軍らに供給、政府が米軍向けに売春管理
と記述しています。この正式文書は後方戦史としか考えられませんが今までなかった具体的記述が現れています。「鉄製の桶」という記述から中国経由のニュース記事を受けて、という痕跡が見られますが上記記事の様な具体的記述は中国記事にはありません。私が確認した論文、韓国サイト、中国サイトの中にはそのような具体体記述はありませんでしたし、それ以前の日本語圏でもそこまでの記述はなく、エンジョイコリアのログである『韓国政府資料「後方戦史(人事編)」慰安婦関連部分完訳及び解説』(なおこのログは金貴玉の論文情報の域を出ません)にもその様な記述はありません。また渡邉氏自身が後方戦史を確認したわけはないのでしょうから、どこからの情報かは謎です。
そもそも、です。「第五種補給品」は正式な補給品である第一種~第四種から派生した兵士間の別称です。常識的に考えて韓国軍「正式文書」とやらに書いてある可能性は著しく低いです。もしも書いてあるならば「第五種補給品」という正式な補給品があったという事になり、それは学術的な意味での「発見」レベルではないかと。付け加えると後方戦史には1956年に作成、「○○基地に供給」の様な補給情報を書く類の資料ではなさそうですので、このような文章があるとはあまり思えません。では後方戦史以外の正式文書、文言からすると補給品の指示書系の文書が残っているならば、これまた「発見」レベルであってその情報は韓国で出回ってるはずです。でも管見の限りその様な情報はありません。
この情報の日本での初出はこの記事ですが、その記述内容、出所ともに信用性が著しく劣る情報です。大体「正式文書」とは何でしょうか。検証の為にもその正式文書がなんであるか言うべきでしょう。
長々となりましたが、ドラム缶ネタについて時系列を簡単にまとめます。
1)金貴玉による問題提起(2002年)
2)エンジョイコリアなどのネット界隈で盛り上がる(2007年付近)
※同時期に金貴玉参加の国際シンポジウム日本大会があり、報道が出たからだと考えられる
3)李榮薰による兵士インタビューで「ドラム缶」発言が初めて出る(韓国2007年、日本2009年)
4)週刊新潮をはじめとして、日本語圏内でドラム缶話がちらほらと出るようになる(現存確認可能なのは2013年ごろから。ただし、wikipedia「朝鮮戦争」の項目に李榮薰ソースで2011年頃に記述は存在)
5)中国報道によって後方戦史ソースの「鉄製の桶」が登場(2014年)
6)渡邉哲也により今までなかった「正式文書」ソースが怪しい記述が登場(2017年)
という様になります。問題発覚から数年間はなかった情報であり、途中から情報が出たのは李榮薰がそういった問題を受けてインタビューをしたからという線は考えられますが、後方戦史や「正式文書」ソースとなる中国報道及び渡邉哲也情報となると情報が不確かな所があり、それらは信憑性が高いとは言えないかなと。渡邉哲也情報などはその「正式文書」の名前が明かされない限り、信憑性はむしろ低いと断じざる負えません。
あとこれは余談ですが、序盤に少し述べた日本の極右政治家(鈴木信行)がこのドラム缶エピソードを援用して挺対協などに少女像と円筒状のプラスチックを送り付けるという事件が発生しています。その際の韓国報道を数個みましたが、その円筒状のプラスチックについての解説はせずにただの円筒として記述しています。果たしてそういう場で「これはドラム缶を模して~」と解説をするのか、という点もありますが、韓国ではあまり有名な話ではないような気がします。勿論、ドラム缶の事例を書いてショックを受けている韓国のブログもありはしましたが。
また、金貴玉のインタビューした予備役将軍の話には、
1952年、戦争が小康状態に入った時のことであった。連隊長の命令で正体不明の女性30人程が軍用トラックに乗って連隊に入って来、一個中隊に5、6人程あてがわれ、与えられた約8時間の間、中隊員たちが利用できるようになっていた。
金貴玉『朝鮮戦争と女性-軍慰安婦と軍慰安所を中心に』(徐勝編、『東アジアの冷戦と国家テロリズム:米日中心の地域秩序の廃絶を目指して』お茶の水書房)
とある様に移動式慰安所のエピソードがありますが、ここではトラックに乗ったとだけあってドラム缶やそれに類する表現はありません。この証言のみでドラム缶に入れたという話がデマであるとは断じられませんが、少なくともその様な事があったとしても一部であったと考えるのが妥当でしょう。
ちなみに日本軍慰安婦だった金福童さんの証言の中にドラム缶で運ばれたというものがあるといいます。この証言自体の信憑性は私は判断しかねますが、「慰安婦」という枠組みの中ではそういった事例が恐らくあった事だとは思われます。ただ、いずれにしても今回の第五種補給品の件においては、この件をあまりにも一般化、シンボル化するのは如何なものかと。
そもそもこの「ドラム缶」は日本語圏では甚だしい侮辱としてしか活用していないですし、それを声高に叫ぶのは品性としてもそうですが根拠のある情報かと言う意味でも問題です。根拠があれば侮辱に使っていいわけではありませんが。
◆おわりに
長々書きましたが最後に。日本語圏だと第五種補給品や洋公主などをもってして日本軍慰安婦へのカウンターとして使用している言説が多く見られます。またその中には、というかその中の結構なボリュームに「日本軍慰安婦はねつ造、もしくは問題ない」&「韓国軍慰安婦は問題だ」という評価を持つ方が結構おられます。その条件を満たすのは相当に難しいかと。人権的な立場から韓国軍慰安婦制度などを非難するならば日本軍慰安婦も同様に非難しなければそれは二重基準でしょう。ただおそらくそういう方は人権的立場ではなく国家主義的立場、なのでしょうが。
あ、それと。2015年の韓国サイトPressianの「"누가 한국군 위안부로 끌려갔나"[인터뷰] 한국군 위안부 문제 재조명한 김귀옥 교수」という記事において、金貴玉は自身の論文が日本右派に悪意をもって利用されている事に憤っています。このインタビューでもある程度の詳細や氏の問題意識が分かるのでオススメです。自動翻訳でもかなり意味が解せますし。
さらに上記記事に記述がある2014年の氏の論文『일본식민주의가 한국전쟁기 한국군위안부제도에 미친영향과 과제』においてもドラム缶や渡邉哲也の記述した部分に類する記述は無いように見受けられます。ドラム缶話は情報源が別なので置いといたとしても、渡邉哲也の方は出所の怪しい情報とみて良いかなと。
東アジアの冷戦と国家テロリズム―米日中心の地域秩序の廃絶をめざして
- 作者:
- 出版社/メーカー: 御茶の水書房
- 発売日: 2004/12
- メディア: 単行本
*1:あまりにも不快なので詳しくは言及はしませんが、日本の極右政治家である鈴木信行が「第五種補給品」の日本で流布されているエピソードを援用して下種下劣としか言いようのないモノを挺対協などに送っています。韓国のウェブサイトなどでも多く紹介されていますが本当に品性を疑うものです。
*2:公娼がいなかっただけで売春を行う女性はいました。 朝鮮王朝時代の妓生は賤民身分であり、基本的に官庁に所属、宴での酒食提供や歌舞を披露する身分です。給与は低く後援者となる妓夫の仲介によって特定男性との性的関係をもったといいます。なお妓生の他にも隠君子、三牌、色酒家などなどの性売買も行う女性が存在しています。
*3:日清戦争後の甲午改革によって身分制度が廃止。賤民身分ではなくなりましたが、それと共に妓生は官妓制度廃止で給与がなくなるなど、社会の身分制度廃止によって社会の流動化が発生します。
*4:1902年に朝鮮における初の遊郭が誕生。遊郭を作った「表面的」理由には風紀の維持と性病予防策が指摘されています。この理論は慰安婦制度が生まれる理由にもなっており、公娼制度と慰安婦のつながりを指摘する研究者は多くいます。
*5:日本においては江戸時代期に年貢上納のための娘の身売りなどを容認、前借金などもそのころから存在し、実質的な人身売買が行われています。朝鮮との誘拐の数比較などは分かりませんが、公娼制の導入と共に人身売買が増えたと言うのは妥当性があり、そこからの人身売買との繋がりは否定しようがないかなと。
*6:日本の植民地統治着手当初には妻への売春強要などが多かったようです。ただし、この「妻」は騙した女性を妻として売りとばす事例らしく、「娼妓」として売られていなかっただけの模様。当初は隠れ蓑の言葉を使っていたようです。
*7:慰安所は「韓国軍の直接介入による設置、民間業者が監督」と「民間業者が最初から進んで関係当局に申請、政府が許可する」の二形態だったといいます。
*8:李娜榮によれば、基地村の女性の収入は家族扶養に充てられ「1970年代当時京畿道観光運輸課は,京畿地方だけで年間8百万ドルの外貨が「洋公主」の手に入り,「彼女らが稼ぐドルに頼って暮らす扶養家族数も一日平均4名」」としています。また、基地村関係の産業はGNP全体の25%、このうち半分が性産業に関わるものだったという指摘もあり、財政的に大きな収入源であったのは間違いないでしょう。
*9:1966年の大韓民国大法院の判決文で「慰安婦」とは、「一般的に日常用語において、売春行為をしている女性」とされています。1990年代においても市や郡の公務員が米軍との関係を持つ女性を「慰安婦」と呼んでいたという事例も存在しています。なお同じ「慰安婦」という文言においてもその歴史性や背景などは異なる事から、同一性を求めすぎる事への批判が存在します。
*10:「自己集団に属する女性」という書き方は斯様に「男性的目線」を含む言葉となります。日本軍慰安婦にしても、そして何よりも洋公主においてはその自己集団の男性による協力と黙認が不可欠であり、これに類する言葉は家父長的な態度に近しいものである事に留意が必要です。
*11:余談ですが、日本軍慰安婦に官憲による強制性はなかったという主張がある様に、基地村に国が介入していたという公的な証拠が不在であるという主張もあるようです。
*12:1990年代に洋公主であった女性が殺害される事件があり、その折りに反米運動が高まった事もありました。ただし、ここには生前には蔑まれていたか見えない存在だったにも拘らず「被害者」になったからシンボル化され、道具として利用されたという批判(彼女の肉体的な暴力が民族への暴力へとすり替わった)もあります。なおこの女性の殺害方法は「肛門に傘が差し込まれ、子宮にはビール瓶がねじ込まれ、証拠隠蔽のためにマッチ棒を折って口にくわえさせ、体内には白い洗剤が撒かれていた」という凄惨極まりない殺され方です。ただ、この件をもってしても韓米友好関係は揺るがないと発言した地方公務員が存在したようです。
*13: 2019年10月13日現在、ハンギョレでの「基地村」での検索ヒット数は「13件」、「日本軍慰安婦」のヒット数は「194件」と10倍以上異なります。また「慰安婦」だけの検索では1000件を超えますが、これは基地村も含みますし、様々な言説を含みますので参考程度に。
*14: 金貴玉によると公娼が廃止された後の1948年10月には性売買する女性は5万人、朝鮮戦争後には30万人と記述しています。前者は韓国研究者による論文、後者は1958年の京郷新聞となり調査機関の統一性には問題がありそうですが、少なくとも戦争によって増加したころは確かではあるでしょう。
*15:UNCACKの釜山チームからは「性病管理暫定計画」を作成、米第8軍司令部へ「韓国に置ける性病管理計画」という文書を送っています。その中に売春婦の性病検診に関する記述があるなど、その後の慰安制度に通じる内容が記述されています。林博史『解放後南朝鮮・韓国の軍事主義と性管理.韓国における米軍の性管理と性暴力』宋連玉, 金栄 編著『軍隊と性暴力』より
*16: 公募募集ではありませんが、1952年の東亜日報において慰安所を早急に設置するような拡張論調が出現しています。前述した1950年時点の報道の様に当時のメディアも認識している案件だったという事です。
*17:ちなみに李承晩TVというyoutubeチャンネルを李榮薰はやっていますが、その中で韓国軍慰安婦についても語っています。こちらのサイトからある程度は確認可能です。ただその数字を見ると隊の構成記述や人数が金貴玉や元将校とやや乖離しています。記事中には金貴玉の論文が参考に値すると言いながらもそちらの論文(本記事末尾の氏の論文です)では慰安婦を旧将校の証言から300人超と推定、李榮薰は約700 人程としています。なおここでの講義が『反日種族主義』になっているそうなので、日本で出版される該当本にも同様の記述があるかと思われます。あとここではドラム缶話はしていません。
*18:2019年現在の日本において「第5種補給品」をグーグルの期間指定検索を活用して調べる限り、2012年ごろからこの話題自体が散見されるようになりますが2013年の記事は李榮薰がソース元になっています。また現在は閉鎖していますが韓日交流サイトであったエンジョイコリアで2007年ごろ同様の話題があった様ですが、こちらはサイト閉鎖、アーカイブにもないのでその内実は確認不可能な状態です。『後方戦史』完訳などのスレッドのログは現在でも確認できますが金貴玉氏の論文以上の事は書かれておらず、ドラム缶的な記述は一切ありません。