電脳塵芥

四方山雑記

パリ講和会議における「人種差別撤廃問題」について

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 「提案の進展を、全米千二百万の有色の人々が注目している。」
百年前、米国のアフロ・アメリカン紙は、パリ講和会議における日本の提案について、こう記しました。
 一千万人もの戦死者を出した悲惨な戦争を経て、どういう世界を創っていくのか。新しい時代に向けた理想、未来を見据えた新しい原則として、日本は「人種平等」を掲げました。
  世界中に欧米の植民地が広がっていた当時、日本の提案は、各国の強い反対にさらされました。しかし、決して怯(ひる)むことはなかった。各国の代表団を前に、日本全権代表の牧野伸顕は、毅(き)然として、こう述べました。
  「困難な現状にあることは認識しているが、決して乗り越えられないものではない。」
  日本が掲げた大いなる理想は、世紀を超えて、今、国際人権規約をはじめ国際社会の基本原則となっています。

 っていう安倍首相の所信表明演説がありましたので、パリ講和会議における「人種差別撤廃問題」の話をばをば。


 そもそも本格的な話に入る前に言っておきますが、未来の視点を持つ私たちにとっては(といっても当時にも指摘がありますが)、この「人種平等」を掲げた国家は三一独立運動、五四運動などの「平等」を奪われた側による運動に遭遇しているので、甚だこの時期の「人種平等」を掲げて誇るというのはその時/その後にある「人種平等」との乖離を無視しており、表明演説にはふさわしくはないかなと。「世界中に欧米の植民地が広がっていた当時」というのも日本はその時期に台湾、朝鮮半島を植民地化していたり(琉球アイヌモシリも以下略)、中国での権益云々を無視するあたりも安倍首相の内面化している歴史修正主義のわかりやすい側面です。あと、現在の日本においても「人種平等」は云々と長くなりそうなので、本題へ。

 


◆「人種差別撤廃」へとつながる2つの趣旨

◆民間団体の支持と運動

◆そもそも「人種差別撤廃提案」はいつ生まれた?

◆人種差別撤廃提案に対する反応

◆山東問題が絡んだ中国への反応 日支恫喝事件

◆提案破棄に対する日本の反応

 

 

◆「人種差別撤廃」へとつながる2つの趣旨

 どこを前段階とするかですが、とりあえず当時には「黄禍論」があり、アメリカにおいては日本人移民排斥運動、カルフォルニアの外国人土地法(市民権獲得資格の無い外国人(主に日系人らアジア系移民)の土地所有などを禁止した法律。いわゆる排日土地法)、などアメリカで日本人が目に見えた差別を受けていた時代であり、反米的論調、集会が行われておりアメリカへの反感がはびこっていた状態です。また国際連盟への加盟が原内閣で考えられた際、内田外相は「人種的偏見」が厳然としてあり、それが帝国の不利になることを懸念しています。民にしても、官にしても、国民感情としても(日本人への)人種的偏見に敏感な時代であったことは確かでしょう。


 さて、そんな時代において、今回の演説にも名前がでた牧野伸顕は以下の様な意見書を提出しています。

大戦中の日本の対中国外交が列国の不信を招いた点を厳しく指摘し、「帝国ノ国際的信義ノ恢復増進ヲ期スルコト絶対二必要ナリ」と説き、中国に対する「強圧的利己的又ハ陰謀的政策乃至手段ノ類ハ細心ノ用意ヲ以テ厳二之ヲ慎ミ」、中国からの日本軍の撤退も率先して実現することを提唱する。
 鳥海 靖 『大正期日本の国際連盟観 - パリ講和会議における人種平等提案の形成過程が示唆するもの

以上の様な認識を示しています。ただし、これこそ歴史を少しでも知っていればさして改善されることはなかった事項でしょう。牧野は意見書でその他にも国際連盟問題に積極的賛同を示すことで人種問題解決へと繋げようとするなど、その意欲がうかがえます。

 牧野は国際協調主義路線であり、また吉野作造など民間人の中にも上記のような理由で人種差別撤廃提案と促進を図る運動を支持する人物が出現します。ただし、それとは別に国際連盟を担う欧米の国々への不信から人種差別撤廃を訴える人物たちもいます。枢密顧問官伊東巳代治は、

欧米諸国の日本に対する黄禍論的反応に極めて警戒的であったことをうかがわせる。そして、国際連盟が反黄色人種的政治同盟になることに大きな懸念を表明した伊東は、国際連盟発足に当って、人種平等(差別禁止)規定を連盟規約に盛り込ませることに強く固執するのである。
鳥海

以上の様な指摘がなされています。また、近衛文麿も上記に似た考えの様で「英米本位の平和主義を排す」という評論を雑誌に寄稿、「黄白人の無差別待遇」を主張すべきであると唱えています。これらの言説を理解するには、前述した様にアメリカにおける移民排斥やカナダ、オーストラリアでの排日問題などもあり、国際連盟が出来る以前に国民新聞において「米國が日本人を白人同様に取扱ふ事に依りて初めて其誠意が證明される」という主張からも当時の空気感が如何なるものかを察せられるでしょう。ウィルソン大統領の「十四か条の平和原則」*1という理想があるにもかかわらず、(日本人への)人種平等がなされていないというやっかみなどもあるでしょう。

 共に同じ「人種差別撤廃」を唱えていますが、その発想に至る趣旨には以上の様な二つの異なる位相が存在します。前者は理念主義的でありますが、後者は経験則もあるとはいえ(日本人としての)実利が絡む黄禍論へのカウンター的な問題認識といえるかもしれません。また後述するように山東権益が絡んでいる事にも留意が必要です。

 

 

◆民間団体の支持

 人種差別撤廃には民間団体も絡んでおり、人種差別撤廃案のための運動を行っています。黒龍会を幹事役とする国民外交同盟会は、

「列国ヲシテ人種平等ノ天則二基キ人種的偏見ヲ打破シ東洋人特二日支両国人二対シ英米両国ノ領土内二於テ従来取り来タリタルカ如キ諸法律ヲ撤廃セシムル」ことを要求している。

船尾章子『大正期日本の国際連盟観 - パリ講和会議における人種平等提案の形成過程が示唆するもの

以上の様な独自の講和条件案を加藤友三郎海軍大臣宛に送っており、ここではわかりやすく「日支」両国人とあり、そこには朝鮮人などの名前がないのは色々と示唆に富んでいます。黒龍会をはじめとしたこれら民間国家主義団体(大川周明、大井憲太郎、頭山満etc)にはアジアの盟主主義が存在しており、特にわかりやすい発言をしているのが予備役陸軍中将佐藤鋼次郎であり、

「此度の講和問題の席上にても、日本は須く亜細亜の盟主たる責任を忘れず、侃々誇々、正義を持して敢て他に下らず、人種的差別の不条理に関しては、飽くまでその撤廃を主張すべきである」
鳥海

以上の様な力説をしています。ここでは理念的な「人種平等」を言うものの、ケイン著なほどに日本の「アジアの盟主」的立場からの発言であり、「盟主」と「平等」という異なる価値観が併存している事から、彼らのいう「平等」とはどのようなものであるかがうかがい知れます。

 

 また、藤本博生『パリ講和会議と日本・中国--「人種案」と日使恫喝事件』によればアメリカなどの外国での受け止め方は移民排斥に対する声明であるという見解だったとされていますが、日本国内ではそれは一部だったと指摘します。最も力を入れていたのは「親ドイツの右翼」であり、

彼らは、講和会議の始まる前から、ウィルソンの十四ヶ条を揄揶するために、「何故に其十四ヶ条を十五ヶ条として人種上の差別を撤廃するの原則を掲上せざりしか」と論じていたのである。

藤本

というアメリカへの反発として人種差別撤廃を持ち出しています。パリ講和会議開始後に結成された「人種差別撤廃撤廃同盟」与野党貴族院議員、新聞記者なども参加していますが、中心となった右翼たちの意図は大勢順応主義の原敬協調外交に対する攻撃であったと指摘しています。これは後述しますが、提案が反対されるや否や連盟からの脱退論、孤立もやむなしという声も出ており、歴史に詳しければ既視感のある行動を連盟設立時からしています。つまりこの右翼たちは理念としての人種平等ではなくアメリカへの反発、そして何よりも国内の政局(政府批判の演説には野党各派も同調)が強く絡んでいるという認識が必要です。

 これら右翼の運動には吉野作造をはじめとした民本主義者は強く批判をしています。吉野作造朝鮮人、 台湾人、中国人に対する差別的支配及び感清をまず取払わねばならないと説き、阿部秀助はさらに被差別部落民の存在にも言及、木村久一は「少くとも我国の軍国主義者はその資格はない」と断じています。さらに石橋湛山は国内の制限選挙を例に挙げ、宮崎滔天は「其無差別を叫び人道正義を主張しつつ、東洋の小島を我に与へと言ふは、病人が譫言にも似て、何ぞ其言の陋なるや」と厳しく非難しています。つまるところお題目の「人種差別撤廃」のみについては賛意を示すものの、大日本帝国の実情とのあまりとの乖離を指摘されており、しかしそれは整合を少しでも気にする意思があれば誰でも気づく話なわけです。

 

 また大阪朝日新聞では、

遂に戦争発生の原因たる経済的障壁の除去に及ばざりしことな り......経済的障壁の撤廃とは他なし門戸開放なり、機会均等なり、移民の自由なり、少くも財産及び企業に対する無差別待遇なり、 貿易の自由なり、少くも原始生産物就中重要原料品の国境撤廃なり。......之を要するに国際連盟は、人類史上特筆に値するの企画たるに相違なきも、其の総てに於て徹底を欠き、殊に其の人種問題を除外し、海洋自由問題を除外せる所、早くも大国の利己の露骨なるものあり。

藤本

 国際連盟への厳しい批難ですが、中国や太平洋への進出という経済問題として「人種差別撤廃」を語っています。これは何も大阪朝日新聞だけではなく他数社の新聞社も書いている事であり、近衛文麿においても門戸開放の文脈で人種差別撤廃を語っています。このように当時の認識としては経済問題も絡んでいたことがうかがえます

 

◆そもそも「人種差別撤廃提案」はいつ、なぜ生まれた?

 船尾章子によると日本は1915年に「日独戦役講和準備委員会」を発足して講和についての研究を開始していますが、世界情勢の変化やウイルソンの14ヵ条の発表に対する用意がなく、また国際連盟発足の話に対する国内と国外の認識格差があったといいます。休戦成立の頃には外務官僚達は国際連盟の具体像をつかめておらず、連盟設立に対しての積極性もありません。そんな中で1918年11月13日の外交調査会に提出する国際連盟に対する政府方針の外務省原案に、

国際聯盟問題ハ最モ重要ナル問題ノーニシテ其ノ終局ノ目的ハ帝国政府ノ賛成スル所ナリト雖国際間ニ於ケル人種的偏見ノ猶未タ全然除却セラレサル現状二顧ミ右聯盟ノ目的ヲ達セムトスル方法ノ如何ニ依リテハ事実上帝国ノ為メ重大ナル不利ヲ醸スノ虞ナキ能ハス

船尾

以上の様にようやく人種についての記述が書かれます。しかしここではまだ人種偏見への懸念を述べているだけであり、人種差別撤廃には言及していません。提案をした講和会議の日付は1919年1月18日ですから、2か月前にようやく「人種的偏見」という文言が出てきており、長い間日本にあった理念的な提案とは言いにくいでしょう。なお、外交調査会においては上述した牧野の中国からの撤退を含めた理念主義的な話と、伊東をはじめとした人種的な話に分かれています。

 

 また藤本は人種差別撤廃提案には山東要求貫徹の為の一つの布石であると指摘しています。山東権益に関しては事前に中国の陸微祥全権と内田外相が日本で会談した折に内田外相が「合意成立」を公表したものの、陸全権の他の場所での発言を勘案する限りは実際にはその様な合意をしていなかったであろう事、またその場にいなかったものの会談の斡旋役を務めた西原亀三も公表した事実はないと言っています(西原は反原ある事に留意は必要)。日本がそこまでして山東権益を欲していたことはその当時の膨張主義や二十一か条要求などの姿勢を見ればむべなるかな、でしょう*2

 

 この山東問題に関しては欧米列強が再び中国帯場へ乗り出してきた時、どのように対応するかという危機意識が当時存在しており、

「人種案」は、この幣原が国際連盟に対して懐いたといわれる次のような感想と密接な関係をもつ。

「このやうな大円卓会議が出来て、各国代表がいならぶ中に幣原ごときが妙な顔をして下手な言葉で議論でもやったら損をするに決っている。利害関係国相互の直接交捗によらず、こんな円卓会議で我が運命を決せられるのは迷惑至極だ」

藤本

幣原においては国際連盟で他国から(特にアメリカでしょう)の干渉を嫌がる姿勢を見せています。上述した国際連盟の外務省原案には続きがあり、「本件具体的成案ノ議定ハ成ルヘク之ヲ延期セシムルニ努メ」と国際連盟の遷延策を述べ、そして止む無く成立するならば「人種的偏見ヨリ生スルコトアルヘキ帝国ノ不利ヲ除去センカ為事情ノ許ス限リ適当ナル保障ノ方法ヲ講スルニ努ムヘシ」とあります。この原案が無修正で採用されており、人種案の根拠となった事から藤本はこの記述と内田や幣原などが持っていた山東問題を絡め、人種差別撤廃提案は山東要求貫徹の為としています。外務省の中にも「人種偏見に基づく移民排斥を不当とする日本の立場を表明することに重点」と「戦後の国際社会の流れに積極的に同調、日本の従来の武断的政策に対する懸念」を持っている2つの見解があったとされる事からも(船尾)、必ずしも山東問題の為だけかについて私は疑問を持ちますが、しかしながら山東問題が重要なファクターであったことは確かでしょう。また、上述の大阪朝日新聞が指摘した様に経済的問題もそこにある可能性は高いでしょう。

 いずれにしても確固たる理念からの提案というよりも、山東問題、経済問題、国際連盟誕生という世界の趨勢、日本からの移民排斥やらというものが絡み合って生まれたものではないかなと*3

 

 

◆人種差別撤廃提案に対する反応

 人種差別撤廃の提案は否決されたわけです。賛成、反対の内訳は、

  賛成:ブラジル、ルーマニアチェコスロヴァキア

  反対:イギリス、フランスなどの多くの列国(アメリカは欠席)

  留保:中国

となり、見ればわかる様に賛成した国家は3か国しかありません。これを受けて牧野らは委員説得に奔走して国際連盟規約の前文に平等規定の一説を入れることを提議しましたが、提案には反対であったフランスなどを含めて過半数の賛成を得ましたたが、アメリカ、イギリスの反対があり全会一致(もしくは反対者無し)の原則によって否決。牧野は提案内容と陳述を議事録にとどめる様に求めて、この提案はなきものとなります。

 

 アメリカの反対の理由は国内世論が日本提案に拒絶反応をしていたことであり、採択されれば連盟非協力の意見もあったようで。アメリカ国民の民意の下に人種差別撤廃案には賛成できなかったとされています。これには同時代のアメリカで排日の動きがあったことや、アメリカはその構造上人種問題も多いことを鑑みればなぜ反対だったかは想像に難くはないでしょう。

 イギルスの場合はもう少し特殊で、自治領や特にオーストラリアの強硬な反対があったといいます。当時のヒューズ豪首相は第一次世界大戦での国際貢献の実績*4から会議に臨みます。そして最も強硬に人種差別撤廃案に反対します。同年にあった総選挙も睨んでもいたのでしょうが、当時のオーストラリアの国是「白豪主義」がある以上、人種差別撤廃には絶対に賛成できない提案であった事でしょう。イギリス、カナダらの他の自治領の委員が同意した妥協案にもヒューズは反対の姿勢を崩さなかったといいます。そして、

講和会議で、国際連盟加盟権の獲得、人種差別撤廃案の拒絶など数々の成果を獲ち取ったヒューズは、帰国して国民の熱狂的歓迎を受けた。そして、メルボルンにおける議会下院の演説(当時、国会議事堂はメルボルンにあった)の中で、「我々が達成した最大のもの」として白濠主義に言及し、「オーストラリアは安全だ(Australia is safe)」とその成果を高らかにうたいあげたのである。

鳥海

以上の様にオーストラリアでは熱狂的な反応で迎えられます。

 オーストラリは少々特殊ではありますが、しかしながらこの様な背景が当時の世界に厳然として存在した故に提案どころか前文などの妥協案すらもかなわずに人種差別撤廃案は日の目を見ずに終わりを迎えます。 

 

 

 ちなみにこの人種差別撤廃提案は当然ながらアメリカの黒人の賛成などがありました。ただし否決されたこと、またその際にはクークラックスクランなどによる強い反対派がいたことから対立は激化、大規模な人種暴動へと発展しています。この例の様にいかにその内実に日本の思惑があろうとも「人種差別撤廃」の美名は強く(そもそも各国も理念そのものはほぼ反対してません)、一部の人種に希望を抱かせたのは事実でしょう。ただ、です。人種案否決後の折衝の段階になると、広範な人種だから否決された、日本人への差別撤廃に限るべきだ、みたいな主張が強まっています。日本はラディカルに人種差別撤廃は求めておらず、

日本の体面が保たれる限りでの情報は許容範囲内だったのである。
 期成会においても、新聞・雑誌に見られたのと同様の方向転換が見られた。それは、第二回期成大会(三月二三日)における内田良平内田良平の「まだ蒙昧の域を脱しない所の南洋の土人や、阿弗利加の土人までも平等にしろと云うのではない」との言葉に明らかである。

佐川 享平『パリ講和会議・人種差別撤廃問題をめぐる国内動向(日本史学専修)(平成十五年度卒業論文要旨)

※要旨しか見つからないのでこれでご勘弁を

 以上の指摘もなされています。ここではアメリカの黒人には言及していませんが、果たして彼らの中には黒人の存在が平等にすべき存在だったかといえば、疑問符は免れないでしょう。

 

山東問題が絡んだ中国への反応 日支恫喝事件

  中国においては第一次世界大戦終了時に強権に対する「公理」の勝利だとして喜びを表す中国知識人が多くみられます。講和会議に求めることの中には「対華二十一か条の要求」を取り消し、台湾還付、朝鮮の独立などの声もありました。また講和会議では中国側が青島還付のための対アメリカ運動を行うなど、当時の日本としては目障りと言える活動を行っていました。特にこの講和会議中の運動を受けて、

北京では小幡公使が、十七日、親日派頭目曹汝霧(交通総長)に対し、 「列強二於テモ日本ヲ差シ置キテ極東問題ヲ決定スベキ道理ナキハ現在欧州平和会議二於テ日本ガ五大強国ノ一員トシテ予備会議二列シツツアルニ鑑ミルモ明瞭ナル次第ニシテ」と国力を誇示した上で、 「小策ヲ弄シ日本ヲ出シ抜キ日本ヲ中傷セントスルハ日本国民ノ最モ不快トスル所ニシテ其結果ハ決シテ支那ノ為二有利ナリト考フルヲ得ズ」とせまった。

藤本

と明らかな脅しをしています。さらに顧維鈞が演説で山東問題に関連する日中間の諸文書を講和会議に提示する意思がある聞いた松井大使は秘密にすべき書類を日本の承諾を得ずに示すことに不快感を示し、北京政府へ圧力の口実にしようとします。機密書類など実際にはないにもかかわらず。そして小幡公使が北京政府に実際に圧力をかけます。本国(外相)の指示を待たずに。秘密協定などなかったにもかかわらず。その内容は、

 ・イギリスが国内問題で手一杯であるのに対して日本は大気中の50万トンの軍艦と百万人の兵士を持っていること

 ・参戦借款には未貸与部分があるが、北京政府は引き続き日本からの経済援助を必要としていること

以上の二つは間違いないとされています。これが「日支恫喝事件」と言われるものです。これはアメリカ系英字新聞で掲載、その後に中国にまで転載されますが、これに対する反応は説明をする必要はないでしょう。日本はそこからもう一度火に油を注ぐ発言をしようとするものの小幡公使は止めに入り、また中国政府側においても民衆が売国奴批判にまで行きそうになったために沈静化を図るものの、中国のうねりは収まらず五四運動へとつながっていきます。「人種差別撤廃」という提案をする傍ら、わかりやすい帝国主義流の恫喝をしていたわけです。

 

 またイタリア代表が会議の処置に不満を持ち会議から去ったなどの前段があるなどで国際連盟の成立に陰りが見えます。それを好機とみた日本は山東問題の解決にかじを切り、幾度の提案*5をした人種差別撤廃問題を取り下げ、山東問題で日本の要求が容れられれば良いという交渉をします。ウィルソン大統領は、

自分の主義に反し、また米国内の世論の反対を受けても、国際聯盟を成立させるために日本の山東半島に関する要求を認めたのであった。「山東要求を容れなければ、日本は聯盟規約の承認を拒否するであろう。すでにイタリー全権が引揚げ、さらに日本が会議から脱退すれば国際聯盟は成立しなくなる」ウィルソンはこのように考えたのであった。

 池井 優『パリ平和会議と人種差別撤廃問題

以上の様に人種差別撤廃提案は山東問題のバーターとしてその役目を終えます。そもそも日本は講和会議における優先順位を山東問題、南洋ドイッ領委任統治問題、そして人種差別撤廃問題という順であったといい(池井)、上述した日支恫喝事件と合わせて考えれば、日本の提案する人種差別撤廃に含まれる意味が何だったのかがうかがい知れる事件であり、事案かもしれません。

 

◆提案破棄に対する日本の反応

 当然ながら反発を抱く層が存在し、講和会議から代表引き上げ、連盟加入も見合わせるべきという強硬論も存在しました。東京日日新聞も強い批判をしていますし、人種差別撤廃期成同盟第二回大会においては「日本国民は人種的差別撤廃を基礎とせざる国際聯盟に反対す」という決議がされてたりもします。さらには内田良平は、「吾人ハ此ノ目的ヲ達セサレバ国際連盟ヲ脱退スヘシ正義人道ノ為ノ孤立ハ寧ロ帝国ノ名誉ナラズヤ」という演説、野党各派も同調したといいます。

 以上の様に世論は沸騰気味の様でしたが、当時の政府は国際協調路線であった事や英米との関係悪化を避けるために強硬論にはくみはしませんでした。これには原敬という内閣が国際協調路線をとった、そして対英米対決路線が現実的でないとわかっていたからでしょう。

 ただし、期成同盟大会まで開くまでに盛り上がった運動ですから、その失望感は大きかったことも理解できましょう。そこから鳥海は、

心理的衝撃がもたらした対外危機意識は、日本人の伝統的なアジア主義的心情を刺激し、人種論的な世界観・国際政治論と結びついて、一九二〇年代の主流をなす協調外交路線に正面から挑戦する外交論・外交思想の形成に影響を与えることにもなった。

鳥海

以上の様な指摘をしていますが、その一因である事は確かでしょう。

 

◆結局のところ

 人種差別撤廃提案。この「文言」自体は意義のあるものであると考えますし、これ「単体」であれば誇れる提案でしょう。しかしながらつらつらと書いたようにその単体の周辺を見まわした場合は誇れはしないでしょうし、最初に書いたように同時代の三一独立運動や五四運動などの日本の影響下にあった植民地や国で民族運動が盛んになった時に「人種差別撤廃」を提案した日本はその提案に則した行動を取っていたか。その後に満州国、また朝鮮においては皇民化政策がとられるわけで、それが人種差別撤廃につながる事かといえば、ないでしょう。完全に日本人と同化すれば人種差別がなくなる、という論理なわけはありませんし、そんな論理は甚だ差別的ですしね。

 言葉は行動によっても評価されるわけで、言葉のみに着目して評価し、その後の行動を一切無視する。汚泥の中にある一輪の花だけ見てキレイだ、なんて言っても大して意味ないわけです。汚泥をかっさらって、その花を広げようというわけでもなさそうですしね。やっぱりこれを持ち上げるって歴史修正主義的だよなーと。

 

他に参考になりそうな文献

永田幸久 『第一次世界大戦後における戦後構想と外交展開 : パリ講和会議における人種差別撤廃案を中心として

*1:原則の中には「連盟各国平等主義」というのもありますが、伊東はこの原則には欧米一等国現状維持を目的としているのではないかという懸念もあったようです。

*2:合意が公表されたために講和会議で中国が反対した際に日本の世論は批難に沸いたといいます。まぁ、随分と身勝手です。

*3:右翼の活動が外務省に影響を与えたのかは不明ですし、反与党というわけではないでしょうから、その側面はここでは抜かしておきます。

*4:30万を超える兵士をヨーロッパに送り、6万近い戦死者を出す。動員兵士の戦死者は敗戦国のドイツを上回ったとのこと。

*5:当初は連盟案条文として提案、それが否定され、妥協と譲歩を重ねながら各国にロビイング、前文に入れる案、最終的に議事録に残すなどの要求の変遷があります。