電脳塵芥

四方山雑記

帰還事業において北朝鮮を「地上の楽園」と表現した新聞について

関連書籍を読んだので、その2も作っときました。

北朝鮮への帰国事業について その2 - 電脳塵芥


 そんな新聞ないです。少なくとも三大紙では。


 ってなツイートがあったので「地上の楽園」という記述についての話。このツイートでは言及されてませんが、他の方のツイートでは結構な割合で「地上の楽園は朝日新聞が広めた」的なものが見受けられます。で、たまに毎日新聞。読売新聞と産経新聞に関してはほぼほぼこの言説にはついてこない感じです。
 で、実際はどうだったか。

 結論は冒頭に書きましたが、帰還事業が始まった1959年から90年代辺りまでは朝日、毎日、読売のいずれの新聞においても「地上の楽園」という単語は使用していません*1。90年代にはこの帰還事業の実態を告発した本が発売された際に「地上の楽園」という単語が使用されていましたが、つまりは知られざる帰還事業(北朝鮮の生活)の実態を語る際に「地上の楽園」という言葉が使用されるに至るわけであり、北朝鮮の喧伝通りに「地上の楽園」を使用している当時の新聞はありません。
 なお産経新聞はデータベースは1992年からであり検索不可能&縮刷版もないですし検証作業が非常に手間過ぎるために除外します国会図書館マイクロフィルム版を……、という手もありますが流石にそこまでは無理ですのでここでは割愛します。

 以上の検証は単純に「地上の楽園」という単語に着目しただけの浅い検証ですが、実際の新聞はどうだったかというと、大々的に所謂「地上の楽園」ぶりが喧伝されていたかも疑問符が付くところです。あくまでも大々的にレベルであって、北朝鮮の内実を良きものとして書いた記事ならいくつか存在します

◆当時の北朝鮮と韓国に対する印象

 そういった記事の前にまず前提としての情報をば。
 いずれの三大紙も1959年初頭(帰還事業開始は年末)から北朝鮮への帰還事業についての動きを報じてますが、これに対して韓国側は強い反対を幾度としています。この時期には日韓基本条約などが結ばれていない交渉状態であり、韓国は日本による帰還事業の承認に対して断行などの牽制をするなど数回にわたり反対に意思を表明しています。また1959年12月の新潟日赤センター爆破未遂事件 の存在や民団による帰還事業の実力行使的な妨害、日本の漁業従事者の抑留などもあってその当時の韓国への印象は北朝鮮よりも悪かった可能性が高い事にも留意が必要です。当時の経済状況的にも「北朝鮮>韓国」であり、さらに北朝鮮の内実が分からない状態であった為に現在よりも北朝鮮への好意的感情が存在したのは事実だと考えられます。

◆当時の在日朝鮮人を追った記事

 当時の新聞では当事者である在日朝鮮人の人々を追った記事がいくらか見受けられます。その中でも朝日新聞に会ったシリーズ「祖国を選ぶ人たち」の記事を2つほど紹介しておきます。

帰る組 残る組
金今石さんは土工。日当五百円。これで一家六人を支えている。貧困、差別待遇のみじめな生活。一生これで終るかもしれない、と思ったらますます帰りたくなった。心になんの抵抗もためらいもないとキッパリいった。この地区は大半が「南」出身で「北」は未知の土地だが、だれもが不安や恐怖はないと口をそろえたようにいう。「北」からは資料、文献、便りがじかに届いているからだそうだ。(中略)民族教育で筋金を入れられているから割りきっているらしい。「ヨメにきたらかには夫といっしょにどこへでもいく」と金相元さんの妻貞子さん(26)。に恩人の細君は5人いるが、故国を去る悲壮感はない。
(中略。帰らず組の中には「北」という未知の土地に行って今更どうする的な記述)
だが、どっちつかずの人も多い。大阪市東成区大成通りの金時子さん(54)の心境はこうだ。「昔は日本も朝鮮も同じ国。長いことすんだ大阪はやっぱり自分のコヤン(故郷)。でも二つの朝鮮が一つになったら帰るな言うても帰るが……。19になる長男は北へ帰ろうという。お前がアンバイいくよう思うなら帰りな、いうてます。親と子はいつまでもいっしょに暮らせるものでなし……このまま死んでも日本の政府は放っておかない。焼場まで送ってくれるやろ」去就に迷っているような金さん。針を運ぶ手が小刻みに震えている。金さんは泣いていた。
朝日新聞 1959.9.24 祖国を選ぶ人たち 帰る組 残る組


帰る国の夢
(中略)「楽しい生活が目の前にあるんです。すばらしいんだ」
故郷での新生活がいかにもっ待ち遠しい、といった表情。着々と進んでいるという北朝鮮の受け入れ準備の模様を、朴さんのメモ帳から拾ったら―
就職 経営者にとって最大の関心事だ。どの工場も人手が足らず、完全就労は間違いなし。手に職のないものは短期技能伝習学校や職工学校に入れて技術をミッチリ教え込まれる。給料は女で月四十円。(紡績工場の場合。日本円に直すと約一万円)男で六十円(セメント工場。一万八千円)の見当。米一キロが五銭、牛肉一キロが三十戦の物価だから、とても暮らし易い。
住宅 八畳、十畳一間にフロ、炊事場、物置、水洗便所つきの標準家屋が受入れ工場ごとに建てられる。(中略)もちろん暖房つき、家賃は電灯、水道料込みでわずか二円ナリ。それに授業料いらずの七年制義務教育など、いたせりつくせりだ
 一方、帰還に反対する在日韓国居留民団側はこれを真正面から「ウソだ」という。民団直系の在日大韓青年団中央総本部員、崔成源(さい・せい・げん)さんは「夢でも見てるんでしょう」とつっぱなす。
 崔さんは二十一日から東京芝公園での「北送反対ハンスト」に参加した一人。げっそりこけたホオ。
(中略)
朝日新聞 1959.9.28 祖国を選ぶ人たち 帰る国の夢

 いずれも当時の在日朝鮮人の方々のポピュラーな受け止めと、北朝鮮の宣伝がどのようなものだったのかが窺い知れる記事かと思います。北朝鮮側としては2つ目の記事の様にかなりの好待遇を宣伝しており、また一つ目の記事からはそれら宣伝を個別に送付していたことが分かります。これらは民団側の青年が言うように「ウソ」であったわけですが、それは結果をしている未来の私たちの視点でしかなく、当時差別待遇にあった人々から見れば救いに映ったことは想像に難くありません。
 ただ新聞記事としてみた場合、帰らない側や民団側の声も載せており必ずしも北朝鮮が「地上の楽園」であるかの様な喧伝、とまでは言えないレベルかなと。また当時の新聞の論調としては「地上の楽園」だからという観点よりも、在日朝鮮人が故国に帰るという「人道的観点」からの賛意がいくらか見受けられます。これは歴史的負い目を考慮すれば当然の反応とは言えるでしょう。未来視点では人道的観点からも結果的に過ちではありますが。

新聞における帰還後の描写

 帰還事業初期の北朝鮮描写は例えばwikipediaではこんな感じになってます。

北朝鮮へ帰った日本人妻たち「夢のような正月」ほんとうに来てよかった
読売新聞 1960.1.9


北朝鮮帰還三ヵ月の表情
帰還希望者がふえたのはなんといっても「完全就職、生活保障」と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活にアイソをつかしながらも、二度と戻れぬ日本を去って“未知の故国”へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎ぶりや、完備した受け入れ態勢、目覚ましい復興ぶり、などが報道され、さらに「明るい毎日の生活」を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏みきったようだ。(中略)苦情といえば日用品が日本に比べて少ないということぐらい。これらの不満もはっきりと書かれていたという。これらの手紙は総連を通じ、各地で回覧されているが、総連の各種のPRをはるかに越える強さで在日朝鮮人の気持ちを北へ向けるキキメがあったようだ。
朝日新聞 1960.2.26

さて、ネットで確認できる記事以外ではというと。
 まずは朝日新聞

帰還者にわく平壌
人ガキで動けぬバス "精一ぱい働く、と希望の顔"
(中略)特別にぜいたくな風の人もない。コジキみたいな人もない。身なりを清潔にする運動がこんない進んでいるのは、経済建設が進んでゆとりができたからだろう。(中略)ある青年はこういった。「私たちは建設を進めて、衣食住は心配がなくなった。しかし日本に生きる同胞は故郷を捨てて散らばったままでいる。彼らを迎えて安定した生活の中でいっしょに建設を進めるのは私たちの願いだ。今日の歓迎は大変なものになるでしょう」。言葉通り盛大な歓迎だった。(中略)長崎市から帰還した魚竜作さんは奥さんと六人の子どもに囲まれて「さてみれば夢かと思った。わたしは船乗りをしていたが、帰還運動をやったのでなんどもクビになり、食べものもロクになかった。二カ月、米のメシがなく、よそのゴミ箱をさがして生きていたこともある。リンゴなんて子供に食べさせたくてもやれなかった。それが帰ってみれば、食のたびにリンゴが四つくらいつき、肉も食べられ、こんなに大歓迎してくれる。わたしはこれから漁夫をして働く。帰れるようにしてくださった日本人にお礼をいいたいのです」と。
朝日新聞 1959.12.21


次に読売新聞。

平壌、見違える復興
生活もゆたかに 帰還者に首相自ら心をくばる
数年ぶりの島元貴社はもちろん、三年前に訪れた秋元貴社も新しく生れ変った平壌の町に平安門、大同江をのぞいては全く見当がつかなかった。(中略)古い朝鮮という感じはなく、西欧のどこかの都心にきた感覚に陥った。
バラックは取り壊し
(中略)朝鮮の荒々しいいぶきを感じられた。それはアジアで最も若い元首を戦闘とする朝鮮の生々しさかもしれないが、対日感情も非常に好転している。もはや朝鮮を除外してはアジアを語ることはできないといった感じさえ受けた。
(中略)住宅事情はよくなっており、町行く人の服装や表情も北京よりも豊かそうだった。
日本で伝説の人といわれていた金首相は実にざっくばらんな人だった。帰還者にたばこやお茶をみずからすすめながら一時間にわたって(中略)話しかける。学生の質問に「いつでも会えるんだからこいよ」と言ったときなど、帰還者の中にどよめきが起こったほど。なるほどこれならば朝鮮人が心から支持するはずだと思った。
記者に感謝の握手
(中略)金首相も「帰還が実現したのは日本国民や言論界の広範な支持があったからだ。深く感謝する。とくに日本の警官までが帰還朝鮮人を保護してくれたことは意義(?)深い」(中略。記者と握手したなど書かれる) 帰還学生、奨学金二倍
(中略)帰還学生には普通の学生の二倍の少額資金が与えられる。第一陣の帰還者たちが宿舎に訪ねると「日本に残って、帰還をちゅうちょしているだれだれさんに、安心してくれるよう伝えてくれ」と先を争って伝言を頼みにきた。
米はタダ、副食月18円
平壌の町にはイルミネーションも最近つき、デパートや商店にならぶ食料品、衣装、漆器、化粧品などの消費物資も三年前より品数が大分ふえている。たばこは十種類、酒は数種類といったぐあい。食堂の事務員をしている朴在一さんをつかまえてきいてみた。親子四人家族で月給五十円。家賃は光熱費、水道暖房費を含めて二円四十銭(夏は一円二十銭)米は一キロ八千の手数料だけで米代はタダ。副食費は一か月約十八円、衣類は作業服とクツを支給っされるので一か月に十円前後の貯金ができるそうだ。
読売新聞 1959.12.25

お次も読売新聞から。

北朝鮮みたまま
村に続々文化住宅 落第や恋を忘れた学生
北朝鮮―つまり朝鮮民主主義人民共和国。(中略)金日成首相とも会見したが、その金首相は三年ぶりに会った秋元記者をつかまえて「よう君か、元気だったかね」と肩をたたく人だった。以下はかけ足でながめた”見たままの北朝鮮”の印象記だが、わたしたちがみたかぎりでは北朝鮮という国は、そんな金首相のようにきさくな国のようである―。
〇…まず首相との記者団会見。それは”会見”というしかめつめらしい表現がピッタリこない会見だった。現れた金首相は河野一郎氏にそっくりだった。体つき、歩き方がびっくりするほどよく似ている。しゃべり出すとこんどは浅沼稲次郎児のしゃがれた太い声。「一人でしゃべっていては疲れる。なんとか話せよ」「毎日会議の連続だから、今夜はやめて一緒にオペラをみようや」こんな言葉が無造作にとび出てくる。帰国者を集め話したときも成功した実業家が郷里の学生を集めてお国話をしているような調子。(中略)
〇…「その国の将来は青年を見ればわかる」というわけで、首都平壌では大学を訪れてみた。(中略)学生の九割までが国費負担(一割は裕福な家庭出身で自弁)だそうだが、そのせいかみな猛烈な勉強からしい。(中略)
〇…北朝鮮の農村。(中略)車窓から見たかぎりでは農村の改善はきわだっている。(中略)この町にむかしながらのワラぶき屋根は一軒も見当たらない。ストレートぶきレンガ造りの”文化住宅”(農民はこう呼んでいる)は協同組合単位に整然と並んでいる。(中略)
〇…二十日夜、朝鮮の舞姫崔承喜が、帰国者歓迎のオペラに登場した。オペラの会場は平壌の国立体育館。東京の神宮外苑にある東京体育館とほぼ同じ大きさだが、その半分は舞台。(以下略)
読売新聞 1959.12.26 夕刊

 という様に読売にしても朝日新聞にしても北朝鮮の現地取材においては北朝鮮の状況はかなりのべた褒め状態といえます。ちなみに毎日新聞はサラッと見ただけなので見落としがあるかもですが、類似の現地取材のべた褒め記事は見受けられませんでした。ただその毎日新聞も帰還事業そのものには批判的であったわけではありません。これらは当時の故国への帰国という人道的な観点、在日朝鮮人を帰還させたい政府などの思惑、そもそも北朝鮮という国の内実が不明であったという点などなど、多数の当時の限界も存在します。我々は未来の視点からそれが過ちであったとは分かりますが、当時にそれを予見できたかというと残念ながら中々に難しいと思われます。

 当時のこれらの新聞の描写を「地上の楽園」とまで言えるかは微妙ではあると思いますが、ただ北朝鮮に好意的な記事があったのは事実です。しかしそれは朝日新聞のみではなく読売新聞などの左右問わずの論調です。件のツイートではそこまで触れはいませんが、帰還事業であった「地上の楽園」という宣伝と朝日新聞【のみ】を繋げるのは無理がある話であり、それは自身のイデオロギーの発露としか言えないかなと。



■お布施用ページ

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*1:念の為。北朝鮮以外の対象に対して「地上の楽園」という単語が使用されている事例はあります。本では80年代から内部事情の本が出たりするので、もしかしたら80年代でもそういった記事はあるかもしません。