電脳塵芥

四方山雑記

「日本人がハングルを広めた」という話について

  「日本人がハングルを広めた」という話がある界隈ではあったりします。確かに福沢諭吉、井上角五郎などをはじめとしてハングルの普及に関わった日本人知識層がいたのは事実ではあったりしますが、ではさて「日本人が広めた」というのは何処まで言い張れるのかという記事です。なお、文が結構長いです。1万2千字を超えました……。記事を分けた方が良いとは思もうけど、疲れたのでこのままで。

 

<目次>

◆日本人が関与したハングルを用いた新聞「漢城周報」について

◆開化期以前でのハングルについて

◆甲午改革後について(1894年~1910年頃)

◆植民地期の話(1910年~)

◆解放後について 

◆歴史修正について 

 

◆日本人が関与したハングルを用いた新聞「漢城周報」について

 1886年に創刊された韓国の新聞(政府機関である博文局が発行)に「漢城周報」という新聞があります。この新聞は「漢文&ハングル」で構成された国漢混用文(漢字のみ記事、ハングルのみ記事も存在)で記述されており、新聞、それも政府機関が関与した媒体にハングルが正式に採用された事を考えればエポックメイキングといえる新聞でしょう。そして、ここには福沢諭吉や井上角五郎ら日本人が関わっています。特に井上角五郎はハングル普及が日本で語られる際に触れられることが多い案件の一つです。

 では彼らは何故この新聞に関わる事になったのか。まず福沢は金玉均ら開化派とのかかわりを持っており、福沢の下には朝鮮からの留学生も来ています。当時を考えれば日本は開化し、朝鮮はその途上であったことが大きいでしょう。そんな留学生の中には兪吉濬(韓国で最初の新聞記者とされるらしい)という人物がおり、

新聞紙の発行は牛場顧問渡韓の際、先生が其実行を期せられた一事項であった。先生は予てより朝鮮人の教育上その文章を平易ならしむるため、彼の国の諺文即ち仮名文字を漢字と混用使用することに着眼せられ、兪吉濬が三田の邸に寄寓して居たとき、兪に命じて「文字の教」の文章を漢諺混用の仮名交り文に訳せしめ、文章はこれでなければならぬといっていられた。

李 垠松 『福沢諭吉のハングル普及支援に関する一考察―1881年~1895年を中心に

以上の様な学習の様子が『福澤諭吉傳』で語られています。福沢は文章は「平易」なもの*1にして近代化を促進すべきだと考えており、これが新聞でのハングル使用という発想へと繋がっていった事は想像に難くありません。兪吉濬は新聞発行への尽力や外務省にあたる場所の主事に任命され、漢諺混用文*2を使用しており、福沢の貢献は小さいものではないでしょう。しかしながら、忘れてはならない事は兪吉濬は既にハングルを使用出来ていたという事です。彼は日本に留学している時点で知識階層であり、そこに留意は必要ですが、ハングルはこの時点ですでに一定の知識のある層には扱える文字だったという事です。もちろん、知識層が知っている事と「普及」は分けて考える必要はありますが。

 

 

 さて、次に漢城周報の実際の発行について。朝鮮は江華島条約によって開港後に日本人居留が発生、外国語新聞である「朝鮮新報」が発行されたり、朴泳考などの開化派は世界の政治情勢を知る為など自国で新聞を発行しようとする下地が存在します。そんな状況の中で、

兪吉濬の新聞に対する関心は既に一八八一年の修信使の随行員として日本を視察した時からのことあった。その時、東京で新聞社を見学し、『時事新報』の福沢諭吉や『東京日日新聞』の福地源一郎らと接触していた

井上角五郎が朝鮮に入国した動機は,特命全権大臣兼修信使朴泳考一行の要請とそれに応じた福沢諭吉の推薦によるものである。一行は帰国前に福沢と会って階下のための優先課題を相議した。その際に福沢は,第一に留学生の派遣,第二に新聞の発刊を勧めた。そして一行は新聞発刊を支援すべく日本人の派遣を要請

金 鳳珍 『朝鮮の開花と井上角五郎--日韓関係史の「脱構築」を促す問題提起

以上の様に福沢の助言があり動き出していますが、ここには朝鮮側との相互関係が働いていることがうかがえます。当初は漢諺混用文での発行が考えられていましたが、朴泳考はこの後に失脚、井上以外の日本人協力者は帰国するものの井上だけは奔走し、そして金允植と出会い、朝鮮朝廷にとどまり井上は新聞発行の計画を詰めていきます。この間には兪吉濬も官職を辞したり、保守派は漢文で記述すべきだと言う声が根強くあり、朝鮮初の新聞「漢城旬報」は漢文での新聞となっています。

 

 しかし、甲申政変によって漢城旬報は途絶えます。その後に井上(政変で帰国、その後にまた渡航)は国王宛てに諺文ハングルの事)を使用すべきという要望書を出し、金允植経由で高宗に渡り(稲葉 継雄 『井上角五郎と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に』)、高宗が新聞復刊を許可します。なお、この新聞復刊の使用文字に関しては、 

井上角五郎は姜瑋(カン・ウィ)を師として国文を学び、『漢城旬報』創刊号が発刊されたのち、新聞発行の責任者であった金允植も井上角五郎の影響を受け、国漢混用文がきわめて便利な文体であることを理解するようになった

(中略。以下は引用文)

井上は金允植と相談して正音と漢文と相混じたる記事を掲げたり。

(金 鳳珍 )

以上の様に姜瑋及び金允植の助力がある事に留意が必要です。井上は金玉均などの急進開化派が亡命した後にも朝鮮政府と変わらずに付き合っており、当時の朝鮮にとって有用な人物と認識されていた事は間違いないでしょう。ただしそこには当然ながら朝鮮人側で尽力した人物、本記事で言えば兪吉濬、姜瑋、金允植などが存在しています。彼らの存在を忘れて、井上の功績のみを語るのは誠実とは言えないでしょう。

 また、

 「漢城周報」の場合(略)純漢文・国漢文混用・純ハングルの3パターンの記事が載せられた。というのも、漢城周報」の純ハングル記事はより広い購読者を対象にしたからである。井上が国漢文混用記事に関して、姜瑋を個人教師として招いたといわれており、その点から純ハングル記事はやはり姜瑋などが参加

(金 鳳珍 )

 井上や福沢は「国漢文混用」を推進していましたが、上記の記述の様に純ハングル記事があったこと、それがより広い購読者を対象にしていたという記述は「日本人がハングルを広めた」という主張とは若干齟齬をきたすものです。さらに言えば赤字財政で博文局が1888年に閉鎖されたこともあり、漢城周報は約2年半でその使命を終えるに至ります。今後の先鞭となった事を考えれば期間の長短は無視していいかもしれませんが、「普及」が実現するには短い年月と考えも出来ましょう。

 

 稲葉によると漢字・ハングル混合文創始の功績は誰に帰せられるべきかという見解は4つに分かれているといいます。その4つとは、

 ・姜瑋を功労者とするもの(日本人の関与は薄い)

 ・姜瑋らの朝鮮側の功労と井上ををはじめとする日本側の熱意を評価するもの

 ・福沢、井上に重点を置くもの

 ・井上個人に対する賞賛

以上の様に評価が分かれています。読めば察せられるように前二者は韓国側の主張、後者は日本側に多い主張です。姜瑋は井上の師であることからも文体の創出には大きな役割を担っていたことは間違いありません。ただし1884年に亡くなっており、漢城周報の創刊には関わってはいません。文体創案への功績は大きいものですが、新聞への関与は薄いと見て良いでしょう。しかし井上に関しても漢城周報創刊直後に母親の葬儀のために一時帰国し3か月近く不在であったり、その後に朝鮮各地域の巡遊などで編集に携わったのは5、6か月とそこまで長いものではなく、漢城周報の継続発行、つまりは国漢混合文の普及に継続的な貢献をしたかと言えば微妙な面があるのも事実でしょう。

 韓国研究による井上らの尽力の軽視には問題点があると考えますが、逆に日本人が韓国で尽力した人間を軽視するのもまた問題でしょう。井上が熱意をもって朝鮮へ働きかけたのは事実ですが、実際に朝鮮政府での折衝を行った事、文体創出をしたのは当の朝鮮人であるのですから。

 

 井上角五郎、及び福沢諭吉は日本で言えば文明開化の為に助言などを仰いだお雇い外国人と同じ様な役割を担い、彼らに功績があるのは確かです。そして何よりも新聞でハングルが使用されたことは「言文一致」の観点、ハングルの使用によって両班階級だけではなく庶民階級にまで読者層を拡大させたなどからエポックメイキングである事も事実です。ただし、またその一方で彼らの中には朝鮮進出論があり、「日本の善政で朝鮮を指導する」といった植民地主義的な思考があった事には留意しなければなりません。また当然ながら新聞に関わった朝鮮側の兪吉濬、姜瑋、金允植らを忘れてもなりません。功績が存在するのは確かでしょうし、普及へ一役買ったことも事実でしょう。しかしあくまでも「一役」であり、その功績をあまりにも大きく見過ぎるのは過大な自己評価ではないかと考えます。

 

◆開化期以前でのハングルについて

 そもそも開化期以前のハングルの状況についてです。ハングルは15世紀に世宗の発案によって生まれた文字であり、当時は「正音」と呼ばれ、のちに「諺文」、そして「ハングル」という名称へと変わっていきます(ほかにも呼び名は複数存在)。誕生当初にっては当時の支配階層にとっては漢文が「文」の世界の全てであり故に強い抵抗にあいました。しかし世宗はハングルの創出を成し遂げ、朝鮮王朝の建国を称える『龍飛御天歌』(1447年)を朝鮮語を主体(漢文での構成ではなく朝鮮語、つまりは言語をそのまま文章で記述)して、中には漢字を用いずハングルのみで構成されている詩もあるなど、当時からすでにハングルのみでの記述が試みられています。世宗期には他にもハングルを使用した書物が存在しており、この時期にはハングルの普及を試みている事が伺えます。また民衆教化のためにハングルを用いた書物『諺解三綱行實図』(1481年、成宗期)があるなど、行政においては漢文が使用されていましたが、ハングルもまた決して一切使用されていなかったわけではありません。

正音エリクチュールは民衆の思想的な教化に大きな役割を果たす一方で、他ならぬ漢字漢文を学ぶのにも大いに役立った(※)。漢字音を正そうという世宗の思いは、伝来漢字音の伝統に勝てなかったが、漢字の音を知るという点では、<正音>は<反切>などとは比較にならぬほど優位に立つ。

野間秀樹 『ハングルの誕生 音から文字を創る』 

 ※引用者注:漢字の発音にハングルを用いる。要は日本におけるフリガナ。

とある様にハングルが使用されていたのは間違いない事実であり、決して忘れられた文字ではありません。

 また17世紀にはいると漢字漢文小説ではなく、ハングルで記述された「国文小説」が登場(『洪吉童伝』(1618年)、『九雲伝』(1692年))、パンソリという口承文芸(書かれる場合にハングルで書かれる)などの潮流があるなど、徐々にですが確実に民間へと膾炙していっていると捉えて差し支えないでしょう。成宗の子である燕山君の時代にハングルの禁圧*3がありましたが、クーデターによって燕山君が廃された後にはそのような禁圧はなくなっています。

 

 そして野間は以下の様に指摘しています。

<正音>は、朝鮮では「諺文」であると卑下され、「女文字」と言われて、近代になるまで実際にはあまり用いられなかったという見解が、後を絶たない。(略)<正音>が用いられなかったというのは、政治や権力、歴史の表舞台に出なかった(略)という点においてである。(略)少なくとも文字を用いる階層の言語生活には、なくてはならぬもの、控え目にいっても相当の位置を占めるものであった。

野間秀樹 

野間はさらに識字率云々とハングルの使用は別の問題としています。識字率は国民への教育であり、文字の使用とはまた別問題であるからです。文字を知り、文字を用いてた人々はハングルを使用していたのです。その証左としてハングルで手紙を書いた「諺簡」というものがあり、また兪吉濬がハングルを書いていた事例を思い出せば文字を知っている層には連綿とハングルが使用されていたことは想像に難くありません。

 このハングルの使用については、板垣竜太『植民地期朝鮮における識字調査』における「朝鮮人年齢別識字率1930年」のグラフからもそれが示唆されています。

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以上の調査は1930年ではありますが、朝鮮併合後に教育を受けていないであろう40歳以上の人間においても「ハングルのみ識字」は男性では40%付近を示しており、少なくとも男性層の4割近くは併合とは関係なくハングルを読めていた可能性があります。

 

 

甲午改革後について(1894年~1910年頃)

 1894年の甲午改革の過程で、

朝鮮語は,1894 年に高宗の「国文使用」に関する勅令第 1 号 18)の発表により,朝鮮時代に「諺文」と呼ばれるまで,国家の公式的文字として使用することが出来なかった訓民正音が「国文」に昇格した。その後,「国文」に対する研究や規範化が活発に行われ,朝鮮語を「国語」と呼ぶ自覚運動が始まった。

李善英 『植民地朝鮮における言語政策とナショナリズム ─ 朝鮮総督府の朝鮮教育令と朝鮮語学会事件を中心に ─

近代の改革の立役者であった兪吉濬(略)は学部大臣の職にあり、一八九四年、あらゆる法律、命令を、国文、即ち<正音>によるものとし、これに漢訳を付す、もしくは国漢文を混用することを宣言した。

野間秀樹

とある様にハングルは改めて「国文」の地位に格上げされ、国漢混合文が政府公認の文体であると再確認されます。さらに朝鮮史上初の憲法とされる「洪範十四カ条」は純国文(ハングル)、純漢文、国漢混合文で作成されています。この起草には当時閣僚であった兪吉濬が関わっているとされています。また兪吉濬は1895年に国漢混合文による朝鮮最初の書物『西遊見聞』を公刊もしています。

 以上の様に日本の植民地化する以前から徐々に政治を含めた朝鮮社会において混合文が一般化、漢文偏重から脱していきます。兪吉濬は日本人との交流もある人物であり、また甲午改革は日本の軍国主義的野望を背景として多くの要求がなされた事、その要求の中には近代学校制度の採用(後述)などがあった事には留意は必要です。 これらの改革に日本の影響は否定はできないでしょう。ただしこれをもって日本の功績を誇るのは問題がありますし、諸制度制定は朝鮮側が行い、また純ハングルでの記述などは日本の要求とは考えれず彼らの自主的な試みとみるのが妥当でしょう。

 

 改革の一環で教育についても新学制が開始されます。前述した兪吉濬は教育の重要性(学校のみなく図書館の設立等も主張)しており、彼は国民教育への道を開いたとされます(文洪植『朝鮮の開化期教育思想と日本との関わり : 兪吉濬の開化思想と甲午改革を中心として 』)。その様な教育改革の中でのちに「学部」と称される部門が設置され、高宗皇帝が「教育立国」の証書を下賜しています。そして小学校令が1985年に発布、

第八条 小学校ノ尋常科教科目は,修身,読書,作文,習字,(以下略)

李 淑子 日韓併合前後の朝鮮語教育 : 教育令および諸学校規則上ならびに教科書内容上二方面からの考察

以上の様に「読書、作文、習字」という読み書きに関する法令が発布されています。それら「読、作、書」の毎週授業時間は48%とされており、約半分が国語教育に充てられていました。また教科書である『國民小學讀本*4』では歴史上はじめて国文教科書として国漢混世文体で作成されています(野村淳一『甲午改革期の学部編纂教科書の特性について : 「國民小學讀本」 (1895) を中心にして』)。授業時間などが特に顕著ですが、これは日本統治下で行われた「朝鮮語」教育の時間と比較すれば雲泥の差です。当然、日本統治下が泥です。ちなみに李淑子によれば1905年の保護政治前*5までは日本人顧問の意見を取り入れているものの、あくまでも立案主体は朝鮮側と見る事が出来ると述べています。またこの頃には私立学校の設立*6など教育熱の高い時期でもありました*7

 

 

 更にこの時期に全文ハングルを使用した新聞や機関紙がいくつも世に出てきています。

  1896年『独立新聞』(全文ハングル、朝鮮初のハングル専用新聞、政府支援有)

  1897年『毎日新聞*8』、『帝国新聞』(全文ハングル)

  1898年『協成会解放』(学生団体「協成会*9」の機関紙、全文ハングル))

これらはハングルを一般に普及する為の「ハングル運動」と呼ばれた運動の一環でしょう。「独立協会」などの民間団体が活発に動き、ハングルと言う文字を啓蒙していきます。これらの運動には新知識層、市民層、農民層が加わり、新興社会勢力の一つなったと言われています(李善英)。『独立新聞』という名称や学生団体などの動きからも民族自立的な文脈でハングルを使用している意味が何であるかは自明でしょう。ここで彼らは自らの選択肢でハングルを選択しており、日本人がそこに大きく関与したというのは無理があります。彼らが対抗する「敵」としての関与ならば十分にありえますが。

 

 学術的な面で言えば、甲午改革からは10年以上の時を経ますが周時経という朝鮮語学者は1908年に『国語文典音学』、1910年に『国語文法』といった書を記しており、1907年には朝鮮政府によって設置された国文研究所に参加し、綴字法案などを提出、これはハングル正書法の基礎を作るなど、朝鮮語研究に多大に影響を与えていると言われています。その功績故に韓国、北朝鮮で共に周時経は民族の偉人として扱われています。またこれは植民地化後ですが、1913年には「訓民正音」、「正音」、「諺文」と変遷してきた名称が周時経によって「ハングル」と名付けられたともされています。

 

 

◆植民地期の話(1910年~)

 日本植民地期の朝鮮において「国語(日本語)」とは別に「朝鮮語」の教科があった事は事実です。しかし、「第一次朝鮮教育令」(1911年)を構想する際に帝国教育界の建議や内地の「有識者」などの意見聴取を受ける中で寺内正毅は「朝鮮語」を必修科目として課す必要はないと考えるに至ったとあります( 大澤宏紀『朝鮮総督府による「朝鮮語」教育 : 第一次・第二次朝鮮教育令下の普通学校を中心に』)。実際には「朝鮮語及漢文」という必修科目として課すことが規定されましたが、実際には軽視している事が伺えます。教科書も日本語で編纂されています。また実情としては漢文の授業が多くを占めていたという指摘もあります(李善英)。そして教育が行われている際には「標準語(京城語)」の普及が不十分であり、書き言葉で言えば第一回綴字法に関して、

朝鮮総督府の補助を受けながら発刊され続けた朝鮮語新聞『毎日申報』や『朝鮮総督府官報』の「朝鮮訳文」、そして「教育勅語」の「朝鮮訳文」でも、第一回綴字法には準拠していなかった。つまり、教員検定試験も含め、これらの公的な性格をもつ刊行物では何ひとつ第一回綴字法に従っていなかったことになる。このように、朝鮮総督府は第一回綴字法を普及させる意図がそれほど大きくなかったことが分かる。

大澤宏紀 

 と言う様に学校で教えている事が実際の社会で役に立たない構造があり、初期の教育はずさんな状況です。

 1922年に制定された第二次朝鮮教育令においては朝鮮人有志が臨時教育調査委員会に対して「教授用語を朝鮮語にせよ」などの建議を提出したものの、教授用語に関しては建議の機会さえ設けられずに無碍にされています。そして教授時間は平均5.5時間から、3.3時間に減少しています。また、第二回綴字法は朝鮮人によって強い批判を浴び、1930年に諺文綴字法(第三回綴字法)が決定される際にはそのメンバーには後述する朝鮮語学会(当時は朝鮮語研究会)の会員が選ばれるなど、朝鮮人自らが関わって改善されることになります。

 以上の様なずさんさは日本人の朝鮮語学習の為に協力していた朝鮮語研究会の会長李完應も、

朝鮮人児童生徒の為の朝鮮語教育が学務当局からおざなりの扱いにであることを慨嘆し、「学政当局者は今少しく真に挑戦を思ひ朝鮮人の将来を思うて、朝鮮語の統一を図り健全なる発達を遂げしむるに努められんことを望む」(「朝鮮の学政当局はなぜ朝鮮語を度外視するか」一九二七)としている。

安田敏郎 『「国語」の近代史』

と言っている様にその教育態度はかなりおざなりであったことが伺えます。あくまでもこの時期にとって朝鮮語は朝鮮(総督府)にとって「国語」ではなく「地方の言語」扱いだったのでしょう。そして、東亜日報には以下のような記事があります。

今日の普通学校は日語全盛、日語万能だ。崇高なる日語が朝鮮語を圧迫している。(略)冊数が少ない、時間が少ない、教材が無味だ、充実した参考書がない、入学試験もない。このようななかで、〔「朝鮮語」科目に〕好成績を要求することができようか。(略)教師にしても家庭にしても、この朝鮮語を等閑する傾向が少なくない。現今、事実として朝鮮児童の朝鮮語は学科中最も劣った成績であるのをみるとき、寒心の涙を禁じえない。

大澤宏紀 

 これが「朝鮮語」という科目の一つの実情でしょう。この朝鮮語の成績が最も悪いとは、「卒業しても雑誌一ページも読めない、ハングルの手紙一通もまともにかけない」だと言われています。ちなみに実社会で使用されている朝鮮語と学校で教わる朝鮮語に乖離があり、それによって成績が悪くなるという指摘や、内地の日本人が朝鮮語時間を受け持ったという話もあり、ずさんな教育状況は1930年代にはいっても変わらなかった様です(ともに大澤による)。

  そして1938年の第三次朝鮮教育令。この段階では皇国臣民の育成に励んだ時期であり、朝鮮語」は随意科目となり必須科目ではなくなります。以下の表を見れば一目瞭然ですが、時代の経過と共に「朝鮮語」の教育時間が減少、最終的には消滅します。

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李 淑子 『日韓併合前後の朝鮮語教育 : 教育令および諸学校規則上ならびに教科書内容上二方面からの考察』より

 以上は主に教育面ですが、言論方面で言えば、1919年以降の宥和政策への転換に よって1920年東亜日報朝鮮日報、時事新聞などの朝鮮語の新聞が創刊されます。これらはハングル普及に一役買ったとみて良いですが、3・1独立運動を契機とした武断政治から文化政治への転換と言うだけで、日本人がその普及に手を貸したなどはちゃんちゃらおかしい話でしょう。

 

 さて、先ほど教育の状況で挙げた「朝鮮語研究会」は当時の日本への協力者でありましたが、周時経の遺志を継いだ「朝鮮語学会(元の名称は「朝鮮語研究会」だったが上記研究会と被る為に改名)」は1930年代に行政とは別に辞書の編纂、方言調査、標準語査定、正書法制定、文字普及運動を行っていました。最後にある「文字普及運動」とは

日本が朝鮮語を容認する状況を利用し,ハングル講習会のような大衆事業を行ったことである。文字普及運動に関するハングル講習会においては,さらに二種類がある。一つは,学会主催の講習会(1930,31,33,34,37 年)で,もう一つは朝鮮日報社や東亜日報社などの新聞社が主催する講習会(1931~36 年)への後援の形である。

李善英

以上のような活動をしており、この他にも

  ・地元に帰省する学生に新聞を活用させる

  ・東亜日報主催の農村啓蒙運動によって毎年夏に学生を農村派遣(1931~1934年)。9万人に教え、210万ハングル教材を作り、配布

以上の様な試みがなされています。後者の啓蒙運動(「ブ・ナロード運動」とも呼ばれています)は朝鮮総督府によって禁止命令を出されますが、禁止命令を出すに至る程の運動であったことが伺えます。そしてこれらの運動が文字を体得していなかった朝鮮人にとっては大きな助けになった事は想像に難くありません。

 またもう一つの大きな成果が1933年に「ハングル綴字法統一案」(朝鮮語学会が関わった諺文綴字法とほぼ同じ)が公にされ、現在にも続く正書法が確立されています。また、文世栄により1940年には『朝鮮語辞典』を完成、これらにより綴字法や標準語、朝鮮語の規範化に大きく寄与します。

 これらの活動は当初は弾圧*10は受けていませんでしたが、1942年から43年にかけて治安維持法違反として検挙される事件が発生しています(朝鮮語学会事件)。この事件はある社会主義者朝鮮人青年が警察の審問を受け、更に家宅捜査を受けた際、姪の日記中に「今日、国語を使ってしまい、先生に叱られた」という文章がある事が問題になった事に端を発します。ここで言う「国語」とは「日本語」であり、「日本語使用したら先生に叱られた ⇒ 思想犯の疑いがある」という理路の元で問題化、朝鮮語学会の会員が関与していると明らかになり、その人間が連行、そして自白強制などによって朝鮮語学会の多くの会員が逮捕されるに至りました。なお、当時の学会では民間学術団体でありましたが、これを機にむしろ民族団体へと転換したという指摘もあります(李善英)。

 

 安田によれば朝鮮語学会には帝国大学の卒業者がいたり、調査の各手法は日本の影響があったとしています。当時の統治者が日本である事からそこからの影響は避けられないものであることは確かですが、これらの活動は朝鮮人による運動であることも忘れてはなりません。勿論、日本人による方言調査も存在します。京城帝国大学に勤務していた小倉進平済州島方言の調査をはじめとし、『南部朝鮮の方言』、『朝鮮語学史』などを出しています。小倉は朝鮮語学の基礎を作ったと言われ、また大学の講師としてのちに朝鮮語学者として活躍する朝鮮人の教育に携わっており、これは軽視すべき功績ではないでしょう。朝鮮語学会の中にも小倉に教わった人間が存在していますし。ちなみに小倉は朝鮮語の「歴史的な経緯」の研究が中心であり、朝鮮語学会は現在の朝鮮語の在り方を規定しようとしており、そこには大きな行動の差があります。

 また、1930年代の朝鮮総督府衝動の開発独裁的な政策である農村振興運動によって識字率改善への運動があったことも事実です。この運動によって識字率の向上も見られますが、これには成績のよさそうな農家を選んでいた可能性や、脱落せずに更生計画についていった世帯に限定されることに留意する必要があり、また当時の朝鮮人側にとっては微々たる変化にしか映らなかったという指摘もあります(以上は板垣の論文による)。

 

 以上の様に植民地期の朝鮮での「朝鮮語」教育はずさんな状況であることはぬぐえません。また朝鮮人自らがそこに参画することで状況を改善させるといった様相を呈しており、また文化政治期においても過度な活動は制限されているといえます。この時期においても日本人のプラス面での関与もまたありましたが、しかしながらそれを誇れるほどに他の対応が出来ていたかと言えば、それはないでしょう。

 

 

◆解放後について

 解放後の識字率については板垣竜太によれば、


北朝鮮
人民委員会を駆使し「文盲退治運動」を展開
解放直後に230万と推定された「文盲者」が1949年には18万に減少したとされる

 

南朝鮮
解放直後に22%推定のハングル識字者の割合が「國文講習會」などを行う
1948年には識字率は58%
1954~1958年には毎年「文盲退治教育」を実施
1958年には96%にまで達したとされる


以上の様に著しい識字率向上が見受けられます。

  また、李善英『韓国における漢字廃止政策─李承晩政権期を中心に』において、当時の教育局長の以下の発言が引用されています。

教育局長のチャン・ジョンシクは「日本帝国主義の奴隷教育政策は我らに正しくない教育を強要しただけではなく、総人口の60%という非識字を残しました。大衆は未だに政治に無関心で自分自身の位置も知らず、自分の力を計画的で組織的に使いこなせることができません。その原因の大きな理由の一つが教育の貧困にあることを指摘せざるを得ません(以下省略)」と非識字者の性向と非識字退治の必要性を述べた。

李善英

これは解放後の教育局長の発言であることにはある程度の留意が必要かもしれませんが、識字率が低いことは事実であり当時の認識を色濃く示しているでしょう。いずれにしても、これらが示すのは国家が本腰をあげれば識字率上昇が望める状態であり、そしてそれは日本のハングル教育がいかにおざなりだったのかの証左でしょう。

 

 

◆歴史修正について

 2003年5月に麻生太郎自民党政調会長(当時)が講演で「ハングル文字は日本人が教えた。義務教育制度も日本がやった。正しいことは歴史的事実として認めた方がいいい」と発言しています『毎日新聞』2003年6月1日付)。なお、朝鮮においては義務教育は施行されていなません(1946年実施予定)。山田寛人『植民地朝鮮における近代化と日本語教育』によれば、朝鮮人学齢児童の推定就学状況は1937年においても府(都市部)は「全体:57%」、邑面(郡部)は「全体:29.2%」と合計すれば過半数にも及びません。また、男女による就学状況格差が著しいです。

 

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山田寛人 『植民地朝鮮における近代化と日本語教育』より

また、普通学校*11の就学率に関しても似た様な状況です。1943年時点でも5割が良い所です。

 

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山田寛人『植民地朝鮮における近代化と日本語教育』より

以上の様な状況で義務教育を云々と言うのは著しい事実誤認でしょう。山田の指摘では1920年代には教育熱が高まり、普通学校への入学者希望者が定員を超過するなど、全員が入学できなかったという問題もあります。この傾向は支配末期まで継続します。普通学校の増設、定員の拡大を朝鮮人側が求め続けたと言う事実があり、しかし総督府側はこの問題に消極的でした。

 そしてこの記事で延々と書いたように日本人がハングルを教えたは勘違いも甚だしい歴史修正主義です。んな事実は、ない

 

 

 

その他の参考になりそうな文献

三ツ井 崇 『「言語問題」からみた朝鮮近代史 ーー教育政策と言語運動の側面からーー 』 

山田 寛人『植民地朝鮮の普通学校教育における朝鮮語の位置づけ

稲葉 継雄 『「解放」後韓国における「ハングル専用論」の展開 : 米軍政期を中心に

 

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■お布施用ページ

note.com

ハングルの誕生 音から文字を創る (平凡社新書 523)

ハングルの誕生 音から文字を創る (平凡社新書 523)

 

 

 

 

*1:「平易=誰でも読める」。上記論文では「俗文主義」と記述。また漢字混合は日本語と朝鮮語の構造が酷似している事からの日本の仮名交じり文をトレースしたからでしょう。

*2:漢字とハングルのこと。「漢諺混用文」と「国漢混用文」の二つの名称が存在しますが、「漢諺混用文」が洗練され、文体が確立したものが「国漢混用文」とされる模様。あくまでも兪吉濬は文体が確立する前の文体の試行錯誤段階と捉えるべきかと。

*3:一時期的なものであり、またその意味合いについて疑義を呈す研究者も存在。しかしながら実際に焚書はされてはいる。

*4:この教科書自体は日本などの教科書を先行モデルとしているために日本の教科書からの引用が多いという指摘があります。しかし、これは先例がない事を考えれば自然な事ではあるかなと。日本も初期は外国の教科書を参考にしたといいますし。

*5:1906年から外国語(日本語)が随意科目から必須科目になるなど、あからさまな影響があります。授業時間も国語(朝鮮語)が減り、日本語が増え、両者の授業時間数が同じになります。

*6:キリスト教が学校設立を多くしており、1885年から1910年までの間に全国に796校が設立されています。ただし、私立学校はのちに帰省を高められ、純公立普通学校化して行きます。

*7:文洪植の指摘によれば政府が創設した最初の近代学校は学生募集が権力層に優遇などがあり、近代教育展開に貢献はしたが一般国民に対する教育機会均等にはほとんど貢献しなかったという。

*8:余談ですが、初代韓国大統領李承晩は『毎日新聞』においてハングルの使用と愛着を力説していたりします。

*9:民衆啓蒙、自主独立、近代化思想の鼓吹をする学生団体。

*10:1940年という時期は東亜日報朝鮮日報が強制廃刊されており、弾圧の時代です。

*11:普通学校以外に私立学校などの選択肢がありました。