電脳塵芥

四方山雑記

終戦直後、共産主義者たちが御所に乱入して「自分達とそれほど変わらない」天皇の食材を見たという話について

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 というツイートがありました。現在、このツイート主はいったん鍵をかけて、その後にツイート削除したのでそこまで拡散はされていないでしょうが、今回はこのツイートについての真偽の話でも。

ツイートのネタ元

 まずこのツイート自体のネタ元ですが、杉森久英による小説『天皇の料理番』がでしょう。その後のツイート主のやり取りを見ると認めていますし。そして該当箇所は以下の通り。

(1946年)五月十一日の日曜日、世田谷区下馬の新生活集団内広場で「米よこせ区民大会」が開かれ、集まった労働組合員、太子堂町会有志、共産党機関紙「アカハタ」の人たち、ざっと千余名は、口々に食糧の不安を叫んだ。
(中略。共産党代議士野坂参三による訴え)
「この上は、天皇に直接会って、責任を問わねばならない。われわれの行く先は宮城である。」
(中略。皇宮警察の衛士に制止されたが、日曜で職員も少なく数の力でそのまま中まで押し入り、岩瀬事務官とやり取りをし)
そのうちデモ隊の中から
天皇の台所へ連れてゆけ! 米が山ほど積まれているという話だ。それをみんなに放出しろ!」
 という声が上がった。岩瀬事務官は
「そんなものはありません。配給毎が少しあるだけです」
 といったが、一同は納得しない。
「あるかないか、見ればわかるんだ。台所へ案内しろ」
 といって聞かない。そこで岩瀬が先に立って、台所へ連れてゆくことになったが、行った先は、大膳の厨房ではなくて、菊葉会という職員共済機関の食堂であった。
(中略。職員御食堂だと気づかずにデモ隊の一同は)
「そこの棚をあけろ!」
 とか
「その袋の中は何だ?」
 とか、われがちにのぞいたり、ひきずり出したりした。ちょうどそのころは、空襲で家を焼かれた職員が多数、行く先のないままに、宮内省に泊まり込んで、配給の米や野菜をひとまとめに食堂にあずけていたから、多少は一般家庭より多かったけれど、とてもそれは、山のように積み上げてあるなどといえたものではなかった。
 一同は拍子抜けした形
で、なおも
天皇に会わせろ」
 などといっていたが、当直の事務官ひとりが相手で、ラチがあかないとみると、
「こんど、また来るから、その時はきっと会わせろ」
 といって、みんな引揚げていった。

少し長い引用となりましたが該当箇所は以上の様なものとなります。
 さて、天皇の料理番』は小説です。これ自体には秋山徳蔵という実際の天皇の料理長にまでなった人間をモデルとしたものですが、当然ノンフィクションではなくフィクションを含むもので主人公の名前が「秋沢篤蔵」と微妙に変わっていたりと事実とは異なります。新聞記事などが伝える当時の状況については後々記述しますが、ただこの時点で一つだけ書くと『天皇の料理番』の底本の一つと思われる秋山徳蔵『味』には戦中の天皇の料理や戦後すぐの状況について語られてはいるものの、この乱入騒ぎについては私が確認した限り(少々雑に確認したので見落としていたらすみません)書かれていません。つまりは杉森久英によるフィクション的な部分と捉えたほうが宜しい。ついでにいえばデモ隊の描き方は当時の荒っぽい、若しくは切実な庶民を描いているとも取れますが、主役に対する悪役的な描き方で乱入する人々への嫌悪感を感じなくもありません。

米よこせ世田谷区民大会

 1946年当時の食糧不足については説明することはないと思うのでスルーしますが、今でも象徴的に語られているのは「朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね」が書かれたプラカード事件があった1946年5月19日の「飯米獲得人民大会(食糧メーデー)」かと思います。その一週間前の5月12日にあったのが「米よこせ世田谷区民大会」です。

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 このころは隠匿物資が相当に存在しており*1NHKの戦争証言アーカイブスに当時の隠匿物資に関するニュース映像が見られます。その隠匿物資を一部住民が配給所や行政機関に集団で押しかけて半ば脅迫的に食糧の配給を強請する動きが存在しています*2。「米よこせ世田谷区民大会」もこういった流れの中で起こった出来事であり、この食糧デモ的な動き自体は珍しいものではありません。「米よこせ世田谷区民大会」が特筆すべき点は労働者が宮城に押しかけ、中にまで入った点です。なお、この区民大会では「宮城内隠匿米の放出、幣原内閣奏薦権拒否、社会・共産党政権の樹立の三項目の奏上とその回答を求め、宮城坂下門に八○○人の区民が詰め掛けた」*3とあるように食糧問題と共に幣原内閣末期から吉田内閣への移行期の出来事でもあり、それに対抗するように社会・共産党系がこのデモに深くかかわっていることは間違いありません*4
 ちなみに宮城に入った人間の数ですが、宮城坂下門に詰め寄ったデモ隊は三大紙によると毎日800人、朝日600人、読売2000人としています。読売新聞によるとそのうち113名が宮城に入ったとしています*5。なお当時の各地で行われた一連のデモはNHK 戦争証言アーカイブスの「ニュース映像 戦後編 第19号」で視聴可能ですが、この中で世田谷区のデモが14日正午、坂下門に集まり5名が宮城に入っていったとあり12日の113名と大きな齟齬がある状態となっていますが、これは12日に宮城に入った後の交渉で後日また話をするという流れになり、その後日が14日であり入るのが許された人数が5名ということです。この際の14日に渡した要求の一つに「天皇の台所の公開」というのがありましたが、それが叶うことはなかった模様。

デモ隊が宮城内で見た食材

 『天皇の料理番』においては中に入った一同が(天皇ではなく職員の食堂とはいえ)「拍子抜けした形」という程度の食材だっと記述されています。では、当時の新聞はどう伝えたか。それが以下の記事です。

白米の残飯がたらひに三つ
宮城内 皇族方の夕食献立拝見
天皇に飢えた民の声をきいてもらおう”と赤旗のもと都民はついに宮城の門をくぐった。十二日開かれた世田谷区民大会に参加した二千余の区民のうち百十三名を先頭に午後五時ころ坂下門から宮城へまっしぐら
(中略)
百十三人のうち半分は女子供、乳呑児も十三人まじっていた。
(中略)
天皇はどんなものを食べているのか炊事場を見せて下さい」と申し入れ抜打ち的に炊事場の人民点検が始まる。皇族高等官食堂(?)の炊事場である。台所とはいえ五十坪もある大きな室。冷蔵庫のなかや残飯入れのなかなど片っ端から手を入れると出るは出るは、残飯がたらいに三つ、残飯といっても昨今では勤労都民の口へはとてもはいらない真白な残飯が大部分、麦の混じったのが少し。次は冷蔵庫ー目の下一尺ぐらいもあるヒラメが三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫匁、平貝一山、そのほかまだ沢山ある。十三日の夕食として皇族十三人分の献立表が目につく、読み上げると
▽お通しもの…平貝、胡瓜、のりの酢の物 ◇おでんの□子もの、まぐろ、ハンペン、ツミレ、大根、わさび
▽まぐろの刺身
▽焼物とから揚
▽御煮(煮込みであろう)、竹の子、フキ、ミソおでん
このほか二品である。魚類の廃棄箱のなかにはまだ食へる”ぜいたくな魚のアラ”が五、六貫捨てられてあった。おかみさんたちはただ目をみはるばかり。ただしこの炊事場では天皇の御食事は賄われていないのである
読売新聞 1946.5.13
※一部自信のないところを(?)や□で記述しています。

上記の読売新聞の記事では「残飯がたらいに三つ」とありますが、これに関しては朝日新聞1946.5.18の読者の声において宮内省の職員が「”残飯”の真相」という投稿をしており、「職員120名分の配給米を洗って水を切るために置いていたもの、魚の数は記事より少なく肉も全然なかった」と書かれています、多分*6。またこれとは別に宮内省側の発表もあり、それによると

百二十人分の夕食用の麦飯(三つのタライ)
マグロ半身
カレイ十五匹
スズキ一匹
サケ四匹
イモ、大根
原色の戦後史(試し読み)

以上の様なものです。個々の言い分が違いますが少なくとも「残飯」というのはデモ側の誤解ではありましょう。ただそれでも「拍子抜けした形」と描写した『天皇の料理番』とは雲泥の差であることが分かると思います。皇族の献立に対しては宮内省からの指摘もないことから事実に即していると考えられますし、その皇族の食事は現代からの感覚から見ても豪華な部類であろうし、たとえ職員の食堂に小説や投稿にある様に罹災した職員が多数いてその配給米や野菜をひとまとめにしていたとしても少なくとも宮城内に入っていった人間には羨むレベルであることは想像に難くありません。当時の彼らの食糧事情では以下の様に空腹を凌いでいた人間もいるのですから。

同書(原色の戦後史)には、母子家庭で辛酸をなめた二十六歳の女性・有井タケの証言も紹介されている。戦災住宅のまわりには、「ヘビ一匹、カエル一匹いない」と言われた。みんな食べられてしまうのである。雑草であれば「セリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウスベリヒユ、ヨナメなど手当たり次第に食用にされ」、「飢えにせっつかれる子どもたちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった」という。
 「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、ひどい消化不良のため、便までそんあ色になっちゃってんたんですね」(同)
貴志謙介『戦後ゼロ年東京ブラックホール

両者の食事の質を比較するまでもありません。雑草を食べていたという事例は上記にリンクを張ったNHK戦争証言アーカイブスにありますし、殊更に特殊な例ではなかったと考えられます。もし職員の言う通り配給米だったとしても配給へのアクセスに格差があったことでしょう。ちなみにこの食事がどこから来たのかというと「ヤミ」である可能性が指摘されています。米よこせ区民大会から2年後となりますが、当時の人気雑誌「真相」においては小見出しに「やっぱりヤミ買いする現人神」とつく記事でその内幕が語られ、更にこの記事では秋山徳蔵氏に取材しており、以下の様な発言も。

「好物といえば、ヒロヒト氏は非常な食道楽で、とくにウナギのカバ焼、天プラ、などの脂っこいものにオソバ、果物ではバナナがお好き。
『戦後ゼロ年東京ブラックホール

上記は好物を答えただけであり戦後まもなく、そして日常的に食べられていたかは不明ですが、皇室予算では一日の食事は4170円(現在の10万円ほど)とも書かれており、ヤミ価格を考えても庶民とは異なる食事をしていた可能性の方が高いでしょう。

 最後に。ツイート主は「共産主義者たち」と書いており、確かに先導した人間は共産党員であり、また当時組閣間近だった吉田政権への反感や社会・共産党政権の樹立を掲げてもいました。赤旗も掲げていましたし。故に間違ってはいませんが、それは一面的でありデモ参加者が全員共産主義者であったとは言えません。NHK証言アーカイブスでの各デモ、25万人ともされる飯米獲得人民大会などからもこの時代には飢えが蔓延しており、隠匿などの不正も多くありました。「憲法よりまずメシだ」というプラカードを持つ人間もいたといいます。この状態に怒るのは共産主義者だけではないですし、また参加者の多くは主婦であり、彼女らの中には天皇陛下がなにかくださるのではないか、という「天皇」の権威性を信じて参加した人間もいたといいます。イデオロギーの漂白は問題ですが、イデオロギーありきで見るのも駄目でしょう。
 それと小説を根拠にそれを事実として語るのはいかがなものか。

戦後ゼロ年 東京ブラックホール

戦後ゼロ年 東京ブラックホール

  • 作者:貴志 謙介
  • 発売日: 2018/06/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:農林省の官僚であった加藤修治と佐藤義弥という事務官によると1900万石の隠匿物資があったとしています。加藤は食糧管理局の局長に次ぐ技官ですので、その情報はかなり正確なものだったはずです。「食糧メーデーと天皇プラカード事件(2)

*2:小田義幸「占領初期の食糧管理をめぐる新聞報道

*3:川島高峰戦後民主化における秩序意識の形成」

*4:松島松太郎氏によればこの集会を企画したのは岩田英一、梅津四郎です。

*5:三大紙の中でこの運動に一番親和的なのは読売新聞であり、記事も一番多いです

*6:「多分」、とかくのは該当記事がかすれすぎてて読めないからです……。一応、該当記事へのリンク張っておきます