電脳塵芥

四方山雑記

国民皆保険についての話

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 世の中が急転直下なこの頃、斯様に世が荒めばSNSも荒むのが常。とはいってもSNS は常にそんな感じだし、上記の方は荒まなくてもSNSデマ常習者という印象を私などは持っておりますが、それはさておき国民皆保険の話でもでも。

 まず平成26年厚生白書において、

(5)国民皆保険の実現
我が国の社会保障制度は、第一次世界大戦後の1922(大正11)年に制定された健康保険法をはじめ、他の先進諸国と同様に、まず労働者(被用者)を対象として発足したが、労働者以外の者にも医療保険の適用範囲を拡大するため、1938(昭和13)年に旧国民健康保険法が制定され、戦後の国民皆保険制度の展開の基礎が作られた。
 しかし、医療保険制度の未適用者が、1956(昭和31)年3月末時点で零細企業労働者や農林水産業従事者、自営業者を中心に約2,871万人(総人口の約32%)存在し、大企業労働者と零細企業労働者間、国民健康保険を設立している市町村とそれ以外の市町村住民間の「二重構造」が問題視されていた。
 このような課題に対応する観点から、政府は、国民皆保険の基盤を確立するため、国民健康保険制度を強化すべく1958(昭和33)年3月に、
①1961(昭和36)年4月から全市町村に国民健康保険の実施を義務づけること
②給付の範囲を健康保険と同等以上とすること
③国の助成を拡充すること等
を内容とする「新国民健康保険法」案を提出し、1958年12月に国会を通過した。
 この法案は、翌1959(昭和34)年1月から施行され、当初の予定どおり、1961年4月に国民皆保険の体制が実現した。
平成26年厚生白書

と記されています。これらを簡略化すれば国民皆保険の流れは、

1922年 健康保険法
1938年 旧国民健康保険
1959年 新国民健康保険
1961年 国民皆保険の体制が実現

となります。元々の発端ツイートは国民皆保険の話で、それへの突込みに対して国民健康保険の源流ともいえる健康保険法や旧国民健康保険法を出すのは歴史的な説明としてはありですが、しかしながらこれらの法律は「総人口の約32%」が未適用という欠陥が存在。そのレベルの人口が未適用な状態を「国民皆保険」というのはそれこそ「嘘」といっても差し支えない状況でしょう。ご自身は嘘と突っ込みながら嘘レベルの事を言ってるわけです。そもそも国民皆保険はデモによって出来たという話に、国民皆保険とはいえない制度が国主導で造られたという突込み自体が甚だおかしな論点ずらしなわけですが。
 では、さらにさかのぼっての話を。

◆健康保険法
 条文は厚労省HPのこちらから確認可能です。
 さて、これを富国強兵の為に国主導でつくられたとありますが、まず考えなければいけないのはこの時代は労働運動の季節も盛んな季節でもあったわけです。まずそもそも労働環境が酷かった。

第一次世界大戦の勃発による戦争景気を受けて、重化学工業が発展し、機械器具・化学工業における工場数・職工数は著しく増大し、産業構造は軽工業から重工業へと変化した。(中略)産業の発展、職工の募集難から労働環境改善への関心は高まっていたが、生産増強から労働強化は避けられず、むしろ労働者の負傷・罹病率を悪化させるほどであった。
 職工1,000人当り負傷率は、1917年44.2人、翌1918年にはいっそう上昇し、さらに1920年には67.9人と増大を続けた。(中略)職工の罹病率は、特に女工において高く、男工の2倍弱となり、1918年には1,000人当り罹病率452,4人を記録した。
 鉱夫の負傷率は明治末より著しく上昇し、1919年48.1%、1920年46,5%と、工場の職工よりも高く、毎年半数近くが負傷する数値を示している。死亡者も、死亡率は変化しないものの、依然多数に上っていた。労働災害の増大だけでなく、労働者及び国民の疾病の増加に対しても国家にその対応を迫るものとなっていた。
西村 万里子『日本最初の健康保険法(1922年)の成立と社会政策 : 救済事業から社会政策への転換

そして労働争議の数もこの間に増えており、

労働組合は1916年から増加を見せ、1919年以降さらに急増した。労働争議も、件数において1916年から著しく増加し始め、1919年最高497件に達した。1920年3月からの戦後恐慌により争議件数は減少したが、労働争議の性質は変化し、争議継続日数の長期化、参加人員の大規模化が起こった。
西村 万里子

となり、最終的には

1919年6月8日の関西労働同盟の労働問題討論会において「労働保険は組合組織に依るべきか、政府によるべきか」が議題に上がるほどになった。同年8月31日、友愛会の方向転換を示した第7周年大会(本大会にて大日本労働総同盟友愛会と改名)における「大会の宣言」の中で、女工の悪状況、労働者の死亡率の増大、生活不安からの乳児死亡の増大が指摘され「主張」の一つとして「労働保険法の発布」が掲げられた。
西村 万里子

というように「労働保険法の発布」が掲げられています。医療費は当時の労働者の平均的賃金の2割という調査や、規定通りの料金を得られている医師は1,2%という調査もあります(西村 万里子)。負傷率や平均賃金の2割の医療費を考えれば、医療に対する何らかの保険、もしくは保障が社会的に必須だったのは間違いないでしょう。
 つまりは1922年の健康保険法について、この時代の背景を知っていれば「国主導」という括りだけで括れるものではないことは窺い知れると考えます。さすがにこれらの背景があっても「国主導」というのならば、それは信仰の告白でしかありません。例えば1918年9月の米騒動を受けて、当時の野党である憲政会は社会不安の緩和策として1920年1月に「疾病保険法案」を発表していたりもします。政治家は民衆の動きを当然ながら見てるわけです。その視点が欠如した「国主導」は物事を考える際に目を曇らせるだけです。
 なお、これらの保険的な考えはなにも労働側だけの着目ではなく資本側でも保険体勢の構築が見られ、社会全体としてそちらの方向性へと徐々に向かっている時期といえるかもしれません。また1919年に第1回国際労働会議の開催によって種々の議題が出たことや、他の先進国では普及してきた社会保険に対して、日本でもその整備を整える様になる国際的圧力があったであろうことも想像に難くありません。

◆旧国民健康保険
 まず旧国民健康保険法の発端は、

国民健康保険法の立案は,1933年から内務省社会局において開始された.「思想対 策として国保を制定すべし」という社会局保険部長,川西実三の提案がその契機であったとされる.
豊崎 聡子『恐慌期農村医療の展開過程 : 医療組合運動から国民健康保険法へ(2000年度シンポジウム 人口の窓から見る近代日本農業史)

とある様に「思想対策」という国家的な考えから始まったといって良いでしょう。さらに、

 昭和恐慌で農山漁村は疲弊し、劣悪な衛生環境も災いして、住民の健康が脅かされ、体力低下が深刻な問題となっていた。病気にかかったため医療費が工面できず、医者にみてもらえない者が多かった。
 このように逼迫する国民保険・医療の需要にこたえ、医療費の負担を軽減し、保険・医療を普及させることが国保法案の本来の趣旨でった。同年7月7日盧溝橋五事件を契機として日中戦争が本格化する様相を呈してきた。このことは国家総動員体制の確立を促進させ、国防力の充実強化が時局の要請となった。その一環として国民の体力向上という役割が国保法に求められることになった。
Abitova Anna『見合わせになった国民健康保険法案

という指摘がある様に当時は恐慌があり、農山漁村の疲弊が起こります。特にこれらの村々では医療費の負担が大きく、農村の医療問題を十分に解決できなかったことが国民健康保険の創設を促す動機の一つとなったとされています(Abitova Anna『不成立に終った国民健康保険法案』 )。Abitova Annaによれば広く一般国民の健康を保険システムによって保証しとうよした背景として以下の指摘をしています。

(ア)古くから農村においては医療共済組合に類する事業(定礼)がかなりみられたこと
(イ)昭和2年から実施されていた健康保険制度が労働者の健康の保護に効果を示し始めていたこと
(ウ)海外ではデンマークスウェーデンなどにおいて広く一般国民を対象とする国民健康保険制度は設けられ、多くの成果を上げていたこと

 旧国民健康保険に関しては恐慌による失業、農村の窮乏などが存在しており、これによって法案成立という流れがありますので、「国主導」というのはそこまで過ちでもないでしょう。ただし、(ア)でも触れられていますが次のような指摘も存在します。

それ以前の恐慌期の段階ですでに医療組合運動が存在したという歴史的事実であ り,このことはまた,戦時期においても国家が農村医療の重要性一一たとえそれが健民健兵策としてであったとしても一一を認めざるをえなくなったこと,<下>からの運動と <上>からの統制との間のせめぎ合いがあったことをそれは意昧している.またそうした政策(=国保法)の実現は,農民のいわゆる「自発性 」に基づく「地域原理」 を基礎とする共同体によって可能になることが,ついに認識されたと考えられるのである.
豊崎 聡子

既に農村では医療組合運動が存在しており、国保法成立を考える際には重要な点であると考えます。また当然ながら恐慌に際してはファッショ思想や農村救済を叫ぶ右翼活動、また左翼においても労働争議などもありますので、これらの民衆の声が全く関与がなかったわけでもないかなと。
 旧国民健康保険法に関しては「国主導」というのは一面では正しいでしょう。しかしながら、その別の側面では(過大に評価してはいけませんが)それを下支えるような動きがあったのも事実です。あと件のツイートでは「富国強兵」って言ってますが恐慌による窮乏対策の側面が強く、到底「富国強兵」とは思えません。細かい話ではありますが、そもそも昭和や大正の時期を「富国強兵」という言葉で表すには正直違和感があります。

◆新国民健康保険
 こちらについては手短にいきます。新国民健康保険法がデモによって勝ち得たかはよくわからんのですが、少なくともこういう記述があったりします。

国民皆保険は厚生省が積極的に推進したものだと思われがちであるが、実はそうではない。厚生省が国民皆保険の実現に本腰を入れたのは1957年以降のことであり、「伊部(引用者注(※引用者=島崎):新国民健康保険法制定当時の国民健康保険課長であった伊部英男を指す)によれば、厚生省内は保険局も含めて昭和31年(1956年)ころまでは国民皆保険に消極的で、『国民皆保険なんてできるのかという雰囲気に近かった』」(有岡、1997、109頁)のである。実際、当時の保険局の施策の優先順位は3年後の健康保険法改正案の成立や診療報酬問題への対応にあり、国会対策上の理由もあって、1957年の通常国会には新国民健康保険法案の提出を見送っている。これに対し地方団体やマスコミが猛烈に反発し、これが国民皆保険推進本部の設置を促すことになったというのが真相である。
島崎 謙治 『国民皆保険とその前史の成立過程に関する覚書

上記の話の出典は「厚生省保険局国民健康保険課(1960)」とありますので、これは確度の高い情報でしょう。少なくともマスコミが猛烈に反対している事から、そこからの市民の声があった事は確実であり、それがデモがあったからといえるまでかは分かりませんが、こちらも必ずしも「国主導」だけで行われた制度ではありません。


 新国民健康保険についてはもっと掘ればたくさん情報が出るのでしょうが、とりあえず時間的にここまでとしときます。ただ、少なくとも国民皆保険やそれに類似する大きな問題の場合、「国主導」というのはおかしくって普通に考えてそこにはそれが生まれる社会状況や市民の声があるはずです。そして時に国はその声に反応して内容を修正したり、酷ければ引っ込めることだってあるわけです。勿論、聞かずに無視されることもありますが。
 我々は少なくとも今現在「民主主義」の社会に生きているはずで、そこでは市民の声によって時に良く、時には悪くも政権はその声を聴かなければなりません。そこでその市民の一人がデモを揶揄する為かのように「国主導」という事を、それも事実誤認に等しい論調で指摘することは民主主義を放棄して、国家主義全体主義的な一助にしかならないでしょう。本人はその気はないかもしれませんが、上述した様に今回のあのツイートは信仰の告白でしかありません。

◆参考文献
西村 万里子『日本最初の健康保険法(1922年)の成立と社会政策 : 救済事業から社会政策への転換
河野 すみ子『健康保険法成立過程の史的考察
Abitova Anna『不成立に終った国民健康保険法案
Abitova Anna『見合わせになった国民健康保険法案
豊崎 聡子『恐慌期農村医療の展開過程 : 医療組合運動から国民健康保険法へ(2000年度シンポジウム 人口の窓から見る近代日本農業史)

読んでないけど、参考になりそうな文献
坂口 正之『健康保険法施行直後の資本家および資本家団体の改正意見とその分布状況

国民皆保険への途

国民皆保険への途