電脳塵芥

四方山雑記

政府関係や国会で使われている「行き過ぎた個人主義」について

 香川のゲーム利用時間制限条例で少しだけ「行き過ぎた個人主義」についての話を見たので、その文言についての政府などでの使用のされ方の紹介でも。
 「行き過ぎた個人主義」という文句は主に右派や保守が良く口にする言葉であり、また議員などの公的な立場で発するのも大抵はそういった傾向が強い人物です。体感的にはではありますが自民党議員の方が多い印象です。なおこの「行き過ぎた個人主義」は時折政府関連の資料でもそれが用いられることがあります。例えば、


1)2008年 子育てを支える「家族・地域のきずな」啓発パンフレット

罪・虐待などの毎日のニュースばかりではなく、離婚も増加し、その一方で、子どもの数は減っています。今「家族・地域のきずな」が弛み、社会に「ガタ」がきているのです。何故そうなったのでしょうか。(中略)同時に、心も汚染され、行き過ぎた個人主義・物質万能主義となり、人間関係が希薄になった結果、「家族・地域のきずな」も弛んだのでしょう。

 この発言主は「家族・地域のきずな」フォーラム実行委員会代表であり国立小児病院名誉院長の小林登氏。文面を見ればわかるかもですが、少子化対策の一環「家族・地域のきずなを再生する国民運動」の実施にあたってのパンフレットでの文章です。少子化と「行き過ぎた個人主義」を合わせるのもままみる光景です。

2)2013年 教育振興基本計画

○ 道徳教育については,行き過ぎた個人主義の風潮や社会全体のつながりの薄れ,異なる文化や価値観等を持った人々との交流や各種体験の減少などを,,背景として 規範意識や社会性などの育成には依然として課題が残っており各学校段階における取組の強化が必要である。

 資料の冒頭にありますが、2006年の「教育基本法」に基づいてできた計画です。ちなみに2006年は第一次安倍政権です。道徳と「行き過ぎた個人主義」の話もよく聞く組み合わせ。なお必ずしも安倍政権下でこれらの言葉が使用されたというわけではなく、民主党政権下の2011年の教育振興基本計画の話し合いの中でも同様の文言は使用されていますし、2012年文科省の「少人数学級の推進など計画的な教職員定数の改善について」などでも使用されており、それらの積み重ねもあって第二次安倍政権下の教育振興基本計画でも使用されるに至ったという流れかと考えます。

 政府関連のもので「行き過ぎた個人主義」という文言がそのまま使われているので大きなのは上記2つくらいです。省庁の横断検索を使用するともう少し出たり、各委員会での議員の発言では似たような言葉が使われていたりしますが、政策と親和する使用のされ方は上二つかなと。
 ちなみにですが「行き過ぎた個人主義」そのままの文言ではないですが、似たような使われ方で以下のようなものもあります。

3)2004年 「今後の少子化対策の方向について」(少子化問題調査会中間とりまとめ)

学校教育、家庭教育は、両親・祖先・子孫への思いを大切にする、子供・家族の大切さを実感できる-ものとすることが必要である。また、異性は互いに尊重し合い、身体的・生理的違いを認めあったうえで、人間としての尊厳を認めあうべきであって、行き過ぎたいわゆるジェンダーフリー的教育や制度は改めるべきである

 これは中間とりまとめであり、またその後の資料では使われていない文言ではありますが、これまた当時の自民党界隈で意識されていた言葉です。多分今も。なお当時には「行き過ぎたジェンダーフリー教育」バッシングというものがありまして、これまた安倍晋三がその動きに大きく携わっていたりしています。
 さて、次は国会での発言について。

4)国会での発言 f:id:nou_yunyun:20200112012348p:plain

 という様に今のところ14件引っ掛かります。すべての発言が「行き過ぎた個人主義」への警鐘という内容ではないですが、典型的な発言をいくつか紹介します。

2003年7月10日 参議院内閣委員会 

参考人八木秀次君)
自己決定権という場合には、行き過ぎた個人主義というものを背景としておりますので、やはり結婚も出産も相手があるものでありますし、この行き過ぎた個人主義の中から、特に出産、中絶といったところを、これも女性の個人としての権利だと、こう理解することから、例えば中絶の自由やあるいは先ほどから御指摘のように行き過ぎた性教育がなされるという、そういう事態も出てきておると思います。

 以上は少子化社会対策基本法案の議題において参考人として出てきた八木氏の発言です。氏は界隈では有名な方ですが、第1次安倍内閣でブレーンとして報じられたりした方であり、フェミニズムや選択的夫婦別姓などに強く反対する方でもあります。

2004年4月8日 衆議院憲法調査会

古屋圭司自民党
忘れてならないのは、やはり家族の再生という視点であると思います。やはり、みんなで支え合うという共生の理念を築き上げることが大切だと思います。憲法の二十四条で、個人の尊厳と両性の本質的平等について規定されていますが、これが行き過ぎた個人主義という風潮を生んでいる側面も私は否定できないと思いますので、そこで、やはり憲法にも、家族のきずなの重要性であるとか家族の再生、家族が果たしてきた機能の回復、そういったものをサポートするような規定を加えるという考え方が私は必要ではないかと思います。

 古屋氏もこういった方面で有名な方です。これもその典型的な発露でしょう。
 国会での「行き過ぎた個人主義」の使用者ですが、大半は自民党議員やそれへの同調者のものとなります。2003年の民主党議員によるものが1件ありますが、これは世間の風潮でそういう文言が使われているという質問の過程での発言であり、上記の古屋氏の様な発言とは趣が異なるものです。その反面、自民党議員の発言は大抵において「行き過ぎた個人主義」の問題視をしている発言と捉えても言い過ぎではないかなと。

 またこれは余談ですが、自民党議員西田昌司氏のHPでは1996年07月20日発行の機関紙(?)の原稿が載っていて、そこでも似たような文言で使われています。

しかしその一方子供の教育環境の面では、いじめの問題、家庭の教育力の低下など子供の健全な発達を歪めているのが現実であります。しかも、その原因は「行き過ぎた自由主義個人主義」が蔓延してしまったためで、他人や社会のことを考えない勝手気ままな利己主義者を生み出してしまったからです。
第8号 行き過ぎた自由、失われた伝統と秩序 家庭の回復を!|機関紙showyou|参議院議員 西田昌司

「行き過ぎた個人主義」がいつから使用されるようになったかまでは調べてはいないですが*1少なくとも1996年にはもう使用され始めています。そして事程左様に大抵において「行き過ぎた個人主義」という文言を使いたがるの、自民党系なんですよね。

ジェンダーフリー・性教育バッシング―ここが知りたい50のQ&A

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*1:「行き過ぎた自由主義」、「行き過ぎた平等主義」、「行き過ぎたジェンダーフリー」など、行き過ぎた○○は結構多いです。なので追うとしたら大変そう。あと使用され始めるのはおそらくですが保守論壇誌上でしょう。