電脳塵芥

四方山雑記

『この世界の片隅に』のその後としての『この世界の片隅で』(岩波新書)

この世界の片隅で (岩波新書 青版 566)

この世界の片隅で (岩波新書 青版 566)

 こうの史代による『この世界の片隅に』原作のアニメ映画が異例のロングランヒットとなったのも今や昔になりつつも、しかし12月には原作からこぼれたシーンなどを追加した『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が上映される。『この世界の片隅に』はこうの史代による独特のタッチで戦中をほのぼのとコミカルに、そして優しく感じられる作品であり見る者にとって居心地よく描かれている。その居心地の良い世界は8月の周知の暴力によって効果的に機能して強い感傷を抱かされるし、原作においてはその居心地の良い世界は(過度な曲解をする人間もいるが)暴力によって成立していたことも示唆されている。でも、あの作品はその後の暖かい日常を思わせながらも1946年で物語は終わる。


この本の名前を『この世界の片隅で』と決めました。それは福島町の人々の、長年にわたる片隅での闘いの積み重ねや、被爆者たちの間でひそやかに培われている同じような闘いの芽生えが、この小篇をまとめさせてくれたという感動によるものです。
(まえがきより)

 『この世界の片隅で』は1965年に8人の書き手によって書かれた広島のその後の話だ。河岸に作られたバラックの集まり、部落、胎内被曝の子どもたち、両親を失い精神養子となった子どもたち、沖縄の被爆者など、扱われる話は多岐にわたる。そしていずれもそこには生きる人々の闘いが描かれている。河岸のバラックに生きる在日朝鮮人、部落に生きる人間は団結の可能性を語るし、胎内被曝の子を持つ親たちは訴える。運動をするものに投げかけられる「アカ」は当時の社会状況と運動そのものの困難さを思い知らされる。原爆症の人々の生活が芳しくない事などはどの篇でも容易に感じ取れる。そしてその芳しくない中で各々の闘い方で彼らは生き、育てる。
 『片隅に』の方はある家族に焦点を当てた愛でられる物語だ。『片隅で』はあの時広島にいた種々の人々のその後の物語であり、愛でるような内容ではなく、時に読む者に怒りを伴なわせるかもしれない。『片隅に』は闘わない、戦前という社会に順応して生きていく。『片隅で』は人々による様々な闘いが描かれている。その相手と方法は様々だが、1945年の爪痕と今や忘れ去られそうになっているであろうその後がありありと描かれている。
 1945年その近辺の物語や特集は数多くあれど復興という物語以外の戦後の地続きとしての50年代、60年代はあまり語られなくなってきているように思う。45年が日本の大きな区切りであることには違いないが、その後にも多くの人の戦争と闘いがあったはずだ。優しく多くの人が魅了されたであろう『この世界の片隅に』の世界の先にもそれはあったはずで。あの物語の先にあったかもしれない世界を『この世界の片隅で』を読んで感じて、知ってみるのも良いのではないかなと。