青木理「日本人は(韓国を)植民地支配した先達の子孫として振る舞わなければならない」。何度言ったら分かるのか。植民地支配などしていない。合法的に「併合」しただけ。多額の予算を使い、田畑を開墾し、鉄道や道路を通し、ダムを造った。学校も。植民地に帝国大学や旧制高校を建てた国などない。
— 加藤清隆(政治評論家) (@jda1BekUDve1ccx) September 15, 2019
SNS上では上記の様に「朝鮮は植民地ではなく「併合」だった」という詭弁が散見される。これに関しては言葉のすり替えによる事実の矮小化であり希薄化だとしか思わないのだけれど、今回は京城帝国大学の入学者の日本人と朝鮮人の割合についての話を少し。あとこれは突っ込まないけど、植民地に大学を建てた国などないを素で信じているならば知識が浅すぎてやばいと思う。
ちなみに「植民地支配」なのですが、戦後云十年という区切りで行われる首相の談話においては
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
この大戦で、日本は、わが国民を含め世界の多くの人々に対して、大きな惨禍をもたらしました。とりわけ、アジア近隣諸国に対しては、過去の一時期、誤った国策にもとづく植民地支配と侵略を行い、計り知れぬ惨害と苦痛を強いたのです。それはいまだに、この地の多くの人々の間に、癒しがたい傷痕となって残っています。
事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
(略)
我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
以上の様に植民地支配に触れています。村山談話、小泉談話では朝鮮半島や台湾を名指しで植民地支配したとまでは明言していませんが、文脈からはこれらを植民地支配したことへの反省を述べています。しかしながら安倍談話においてはそこからの言及を更に避けて植民地支配からの訣別として一般論的に語るなど、事実の矮小化と捉えられてもおかしくない言い回しになっています。安倍談話を読んでいると日本は植民地支配を行っていないという読み方も可能なので、談話においても矮小化しようとしているなと捉えられても致し方ありません。
閑話休題、さて本題。
京城帝国大学はソウルに建てられた帝国大学ですが、当然日本人も入学できます。その「日本人(内地人)」と「朝鮮人」の生徒数(全体、学科別)及び入学者の割合は次のようになります。
◆京城帝国大学 - 全生徒出身内訳
◆京城帝国大学 - 法文学部出身内訳
◆京城帝国大学 - 医学部出身内訳
◆京城帝国大学 - 理工学部出身内訳 ※(1941年新設学部)
◆京城帝国大学 - 入学者数出身内訳
※1926年~1941年は弘谷多喜夫、広川淑子『日本統治下の台湾・朝鮮における植民地教育政策の比較史的研究』から(元資料は各年の朝鮮総督府統計年表)
※1942年の数値は『朝鮮総督府統計年報. 昭和17年 - 国立国会図書館デジタルコレクション』から
※「入学者数」のグラフのみ、『朝鮮総督府統計年報』の昭和5年(※昭和元年部分)、昭和11年(昭和2~7年)、昭和17年版(昭和8~17年)を参照
以上の様に大戦末期に近づくほどに朝鮮人の割合が増加していますが、全体を通して日本人の生徒総数割合が多い状態が常に維持されています。1937年頃までは30%ほど、それ以降には割合が上昇し最終的には50%近くとはなりますが、戦争期である事を考えるとその影響を大きく受けていると考えても問題はないかと思います。「朝鮮人」向けの教育ともし誇ったとしても、実態としては日本人が多かったという側面を看過してはいけません。
また帝国大学のみが注目されておりますが、
大学についても私立大学設立の運動が行なわれたが,総督府は許可しなかった。朝鮮人青年の多くがや閣や臼本,アメリカへ留学した。
(弘谷多喜夫、広川淑子)
という「私立大学設立」を総督府が許可しなかったことにも留意するべきでしょう。
ちなみに「京城帝国大学」ではなく、「京城帝国大学予科」(大学進学前の予備教育、この予科卒業後に大学へと進学。予科においても割合は大学と同じく「内地人>朝鮮人」です)となりますが、創設当初の入試結果を受けて以下の様な記事が『朝鮮日報』で出ています。
このような入試結果(※)に村して1924年4月3日付の『朝鮮日報』は,「朝鮮大学の試験顛末を聞いて」という見出しの社説において,①予科合格者は日本人が朝鮮人の3倍にのぼったこと,②おかなしなことに日本本土から来た学生が3分の1にもなること,③入試問題を朝鮮人に不利にしたこと(日本史の出題,漢文の訓読など)を指摘,朝鮮人差別があったと非難した。
京城帝国大学予科について -「朝鮮的要素」と「内地的要素」を中心に一 稲葉 継雄
※日本人の合格者が朝鮮人より多いという結果
以上の様に在朝鮮日本人の他にも日本本土から来た学生が相当数いたことがうかがえます。その理由には「(日本の)高校受験に失敗。予科の修業年限二年にひかれた」、「予科が一年短いのと修学旅行で私一人朝鮮に行けなかったので、受験のためでも京城にいってみたかった」(ともに上記の稲葉による)などの理由が挙げられています。この予科二年(※1)という魅力があり、日本からも多く受験しに来たのかと考えられます(※2)。
※1 その後に1934年に予科年限は延長。
※2 勿論、これは初期の話であり後々の話は不明です。
この記事では設立経緯などは掘りませんが、入学者数割合という実態を見れば京城帝国大学は日本人生徒が多く、日本人のための学校と言っても過言ではないでしょう。植民地に大学という箱を作っただけでその実態を見ずに誇るのは評論家としては甚だ薄っぺらいです。
◆余談その1
私は資格がないので見れないので中身は不明でちょっと無責任ですが、要旨などを見ると李吉魯『京城帝国大学の成立と展開に関する実証的研究―植民地統治との関連を中心に―』もこの件に関していい理解になるのではないかなと。
◆余談その2
京城帝国大学予科の話ですが、当時の「蛮カラ」が流行っていた時代では極端な事例とはいえ、以下の様な振る舞いがあったそうです。
朝鮮人学生は,クラス会のような公式集会以外では大体においておとなしい方であった。これに 比して日本人学生の蛮勇は,商店の看板などをむやみに外して投げ棄てることがしばしばであった。 また,蝉の幼虫が這うようにゆっくり進む電車の中で,ちょっとしたことで車掌を殴りつけた。 また,梶棒を持ち歩き,制服巡査が目に付き次第殴る者もいた。警察の派出所に小便をかけるこ ともあったが,こんなことまでは許されなかったので,小田予科部長が,警察署を廻って,拘留された学生たちを貰い受けたものである。(25)
(稲葉)
蛮カラ怖い。

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