電脳塵芥

四方山雑記

「まるで北朝鮮のようだ」などの様な比較について

「まるで北朝鮮のようだ」

 

 よく聞く話法だ。

 日本で全体主義や個人崇拝を感じされる様な出来事があるとよく使われる話法で、それは同時代且つ、隣国と近しい地域である事、漏れ出てくる情報や映像、そして他者と比較する事で自己を省みる事は比較として分かりやすい事は否めず、そういう事から「まるで~だ」と言うのだとは思う。だが当然ながら「まるで北朝鮮」は安易に使うべき話法ではない。この比較は相手を駄目なものという前提があり悪魔化を伴うし、ただの見下しであるし、そして「私たちの問題を誰かの問題へと」半ばすり替え、本質をぼやかす。また歴史的な経緯を考えればどの口が気軽にそれを言うのかという話だ。

 比較話法はダメな相手を取り上げてああはなるまいと思わせるには便利な手法だ。朝鮮民主主義人民共和国、その国家制度は市民の自由などを考えた場合、決して褒められた国家とは言えない。批判点などは多くあげられるだろう。しかし、だからと言ってああはなりたくない対象として扱うのは適切ではない。なりたくない、忌避の対象として国家を扱うのは対象への悪意を増幅させかねず、その国家への理解を著しく阻害する。その見下しは増上慢を育み、仮に今後北朝鮮の状況が良くなった時に意識の錯誤も起きかねない。当人たちは馬鹿にしてるわけではなく警鐘としての使用だろうが、それでもある国家をなりたいくない対象として扱うのは蔑視が根底にあるし、将来への危険性も伴い、また益もない(当然ながら益があればやっていい話ではない。またこの錯誤を益と捉える人間もいるだろうけれど)。

 そもそも完全なる日本国内の出来事に対して誰かに対する悪感情の空気の醸成に加担する必要などない。「私たちの問題」を「私たちではない何か」に置き換えて語る必要も、その「何か」に北朝鮮を代入して語る必要などない。現在進行形で問題が起こっている地域は「日本」だ。北朝鮮でもし同様の問題が起こっていたとしても、私たちが語る問題の発生地は日本であり、解決をしなければいけないのは日本だ。「私たちの問題」が問われている。私たちの問題を語らなければいけないのに、私たち以外の誰かを問題の俎上に上げる意味はない。

 歴史的経緯に関しては日本が朝鮮半島に犯した過ちを考えれば、もはや言葉を尽くす必要はないだろう。必要ない……、よね。ともかく現在の朝鮮半島の歪さを生んだのは日本にも大きくその因がある。その歪さを生んでおいて高みからの、ダメな見本として「まるで北朝鮮だ」と言うのは盗人猛々しいとしか言えないだろう。日本人が高みから評定するのは甚だ傲慢だ。

 付け加えると今現在、この国における 在日朝鮮人の方々に対する差別への加担にも少なからず寄与する可能性がある。いわんや、もし差別に反対する様な御仁が使用するのであればおめおめと使う話法ではない。

 

 「まるで~~~だ」。それらを使う方々がどの様なまなざして北朝鮮を見ているかを表している言葉だと思う。そのまなざしは種々の問題もある為にすぐさまの改善は困難だろう。でも、ま、なんというか。簡便に言うと。日本国内の現象で北朝鮮を比較に持ち出すの、甚だ馬鹿らしい。その比較そもそも比較として正しくないでしょ。北朝鮮になりたくないから抗う、のでなく、全体主義をはじめとした個人を奪う圧力に抗うんでしょ。もっと普遍的な言葉で抗うべきでは。抗うというのならば。そこで比較として他国を介在させる意味は、ない。