電脳塵芥

四方山雑記

小学生・中学生の2010年あたりからのゲームプレイ時間推移について


https://twitter.com/KenAkamatsu/status/1557696684997521408


https://twitter.com/KenAkamatsu/status/1557696684997521408

 こんなツイートがありまして。いろいろと批判されたのも相まって、訂正ツイートはされてました。


https://twitter.com/KenAkamatsu/status/1558045828002074624

「児童への質問の回答だけを分析の根拠にして大丈夫なのか」の意」とのことですが、これ以上の調査となるとなかなか難しそうではあります。ただとりあえずここらへんは置いといて、データだけおいときます。

 まずデータは教育課程研究センターによる「全国学力・学習状況調査」がソースで、もともとの質問項目は次のようなもの。

普段(月~金曜日),1日当たりどれくらいの時間,テレビゲーム(コンピュータゲーム,携帯式のゲーム,携帯電話やスマートフォンを使ったゲームも含む)をしますか
1 4時間以上
2 3時間以上,4時間より少ない
3 2時間以上,3時間より少ない
4 1時間以上,2時間より少ない
5 1時間より少ない
6 全くしない

で、この調査からここ10年くらいの子どものゲーム時間推移は次の通り。なお2011年と2020年は東日本大震災、新型コロナの影響によって調査自体が中止されており、2018年、2019年は1日何時間ゲームをしているかという質問項目自体がありません。これはなぜだかは不明。

以上を見る限り、どうにもゲームのプレイ時間が増加傾向なのが見て取れます。2021年以降はコロナ禍の影響というのも考えられますが、そこを考えると2018、2019年のデータがないのが非常に惜しい……。しかし2010年を見ると3時間以上プレイする学生はおおよそ1割程度。質問文も今とあまり変わらず、あえて言えば過去には「携帯電話」、「スマートフォン」系のゲームが設問になかった程度です。雑に考えるとやはりスマホゲーの影響力は無視できないと考えたりしますし、どうせならそこまで切り分けたデータがちょっとほしかったりするのだけどそれはないものねだり。
 さて、以前のデータを含めて考えてみると「児童への質問の回答だけを分析の根拠にして大丈夫なのか」というのは、体感としての30%という多さからくる感想的な疑問と示されたデータへの不当な棄損という気がします。少なくとも元の質問文や過去のデータなどから類推した疑問とはいえなそう。ご自身がうまい方法を考えるなら別ですが、しかしそのご自身提案のswitch云々は任天堂という私企業のデータを国が科学的に分析というといろいろな意味でハードルや問題点は出てくるだろうなとか、switch以外のゲーム時間が加算されないという問題点が。最後に「など」がついているので、ではなんかしらのゲーム時間計測アプリを導入することにもなり……、監視の下の自由。

ゲームエイジ総研による調査

 株式会社ゲームエイジ総研による2020年12⽉のレポートではスマートデバイスでのゲーム時間で以下のような調査があります。

これによると2020年の1月から11月までの1日あたりのゲームプレイ時間は平均80分を切ることはありません。ちなみにこの平均プレイ時間は年代によって多少の上下はありますが、10代で言えば86分。

10代が「平均」86分ということを考えれば3時間以上がそれなりの割合がいてもおかしくありませんし、これにはスマートデバイス以外のゲームプレイ時間が含まれないことも考える必要があります。ただこちらの調査には「休日」も含むということを考える必要もありはしますが。

GameWithによる調査

 お次はGameWithによる調査。調査は2020年6月調査

これは10代から60代のゲームユーザー男女3950名に調査とのことで「ゲームユーザー」に限定しているからか8時間以上が7.7%等、一般化していいデータかというとしちゃいけないデータだとは思いますが、参考程度に。ちなみにリンクは2回目の調査でその調査でも時間を聞いている様ですが貼られているグラフが全く違う設問のものなので内訳は不明。

 とりあえず手短にこんなもので。ソースの方には質問ごとのデータとかありますので、そこは各自ご興味があればで。ここではデータ以上のことは特に語りませんが、データの結果そのものを疑うというのはちょっと筋が悪いかなと。



 最近、ゼノブレイド3に時間を吸われてる。

霊感商法の被害推移と被害金額とか

 なんて図がありまして。この図の初出は渡邉哲也氏のツイートへの返信。


https://twitter.com/Tek88681399/status/1551460662466908160

安倍政権と消費者契約法改正を絡めた言説流布の過程

 もともとが渡邉氏のツイートの論旨を補強するような形でのツイートになります。ちなみにこの「安倍政権下の消費者契約法改正によって霊感商法が打撃を受けた」系のツイート自体は以下のように7月20日ごろから流布し始めたのものです。

安倍政権と「消費者契約法改正」との関連ツイートは7月中旬ごろから少しずつ増え始め*1、7月20日ごろからは目に見える形で増加していきます。


https://twitter.com/ryoma09012/status/1549610601923588096


https://twitter.com/exstar444/status/1549643839656558592

この流れの中で「消費者契約法改正」と「安倍政権」という論調のツイートの流れを決定的にしたのがおそらくは渡邉哲也氏の7月22日の以下のツイートでしょう。


https://twitter.com/daitojimari/status/1550268913392697344


https://twitter.com/daitojimari/status/1550272410074894337

渡邉氏はこのほかにもツイートしていますが、ここからいつもの面々にもこの「武器」が伝わっていきます。以下のように。


https://twitter.com/YoichiTakahashi/status/1551332807498436608


https://twitter.com/hidetomitanaka/status/1551392605711519744


https://twitter.com/Nathankirinoha/status/1551584194496962562


https://twitter.com/PeachTjapan3/status/1551808045071577090


https://twitter.com/CYXuAxfGlfFzZCT/status/1551882995207786497


https://twitter.com/kikumaco/status/1551905991364468736


https://twitter.com/napori_ankake/status/1552085576106786816


https://twitter.com/satonobuaki/status/1552868898734649344


https://twitter.com/hong2010kong/status/1553522412171702272

おまけで「消費者契約法改正」との単語はないけど、こちらのツイートも同様の趣旨のツイートですね。


https://twitter.com/KadotaRyusho/status/1551755591952961536

さすがに多くなるのでこれ以上は割愛しますが、25日ごろからツイートが加速度的に増えていることがわかります。なお、おそらくこれ関連で一番バズったツイートは下記のもの。


https://twitter.com/Syanagi42/status/1552237562294849536

 ではそもそも消費者契約法改正が今の形に改正された流れについてですが、こちらはShin Hori氏の以下のツイートあたりが参考になると思うのでこの記事では省略しておきます。

ただ少し資料的な意味で補足すると衆議院法制局の「消費者契約法の一部を改正する法律案に対する修正案」で提案された法律の原案修正新旧表を読むと新たに「霊感」という文言が追加されており、より霊感商法に対して対処可能な法案へと「立法府」において可決されたことが理解できます。またこの消費者契約改正法は閣法となり、この法案自体の下地は内閣府における第4次消費者委員会の「消費者契約法専門調査会」の審議において形作られていったものです。この調査会においては当然ながら「霊感商法」という文言が幾度かやり取りされており、問題視されていることが理解でき、それは報告書概要の以下の部分で対応しているものと考えられます。

上記部分では「霊感」という単語ないために閣法作成段階でも「霊感」という項目はなかったということでしょう。ただこれは霊感商法が困惑類型などに該当するから明言しなかっただけと考えられます。それが国会の審議において霊感商法についての項目が新たについてより明確化したということは立法府における議論の重要性が如実に表れた一例でもあり、とても好ましい流れといえます。


消費者契約法改正の流れ】
消費者契約法(平成12年法律第61号)に基づき、施行後の蓄積や社会経済状況の変化を鑑みてあり方を検討するように安倍首相から消費者委員会に対する諮問(2014年)

消費者契約法専門調査会報告書が出される(2017年)*2

196回国会で閣法として消費者契約法改正が提出(2018年)
霊感商法」に関する議論がなされる

野党の議論がきっかけとなり、閣法が修正されて法案に霊感商法に関する項目が追加

2019年6月15日施行


ただ一つ切り分けるべきは消費者契約法改正は安倍政権下で成された改正であっても、その法律が今の形になった流れを考えるならば「安倍政権」が主体となって霊感商法を含む消費者契約法改正をしたということは困難であり、野党の提案によって現在の形へとなったということです。その提案に対して政権側が拒否をせずに自民党も賛成したとは言えますが、これらをもって例えば「安倍晋三統一教会の天敵」というには飛躍が過ぎ、議論とその成果へのフリーライドといえる部分があるでしょう。

霊感商法の被害件数と金額推移

 前置きが長くなりましたが、まず件のグラフで「安倍政権化で(被害件数が)1/10」になったという話ですが、そもそもグラフの1/10云々を示す矢印は何故か2010年の民主党政権を起点にしています。まじめにやれ、ってな話ですが、では実際の件数の推移はというとそれは以下のようになります。

【2012年以降の被害件数推移】
2013年 185件
2014年 239件
2015年 174件
2016年 159件
2017年 188件
2018年 61件
2019年 79件 ※消費者センターの集計含まず
2020年 214件 ※消費者センターの集計含まず
出典:全国霊感商法対策弁護士連絡会

まず起点をどこに置くかですが、安倍政権が2012年末に成立したことから2012年の被害件数は集計に入れず、2013年からの被害件数をカウントします。また出典である全国霊感商法対策弁護士連絡会のHPの集計表を見ればわかるように2018年以降は今現在消費者センターの集計が含まれておらず、連続性のある統計は2013年から2018年といえます。2020年は消費者センターの数を含めなくても2013年の件数を超えており、例外的に2018、2019年に被害件数の減少はみられるものの、2020年には一挙に件数が上昇しています。この2020年の上昇については「献金・浄財」の増加であり、時期的に考えればコロナ禍の影響と考えられます。ただ2021年の被害件数は47件(消費者センター含まず)であり、コロナ禍の影響であった場合であっても、この件数を見るともしかしたら局所的な「活動」があったのかもしれません。まぁ、ただひとまずいえることは「安倍政権下で(被害件数が)1/10」は絶対にない
 ちなみにもっと広い範囲での被害件数と金額の推移を置いておきます。

2000年から見ると00年代は被害件数は基本的に上昇傾向なのが見て取れ、それが2009年から減少傾向に向かうことが見て取れます。この減少についてはすでに多くの方が指摘されていますが、2009年に新世事件などの影響によって旧統一教会の組織的な活動の仕方が変わった事が根本的な原因であると考えられます。そもそもこれ自体は当事者が今回の事件を受けて下記のように語っていることからも明らかです。

旧統一教会「トラブルなし」誤り 会見を訂正
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は17日、田中富広会長が安倍晋三元首相銃撃事件を受けて開いた11日の記者会見で、2009年以降は信者との間で「トラブルがない」と発言したことについて、「コンプライアンス順守の結果が表れているという趣旨であり、トラブルがゼロになったという意味ではない。言葉不足で誤解を招いたことを率直におわびする」

実際、2009年から商品別被害件数について明確な変化が見受けられます。それが印鑑、壺などの物理的な商品による被害件数の大幅な減少です。

*3

上記グラフは全国霊感商法対策弁護士連絡会商品別被害集計から物品を伴う商品のうち、累計上位5品の被害集計の推移です。2009年から大幅にその被害数が減少していることが見て取れ、2020年にもなるといずれの商品も1桁台の被害数となります*4。では、「献金・浄財」などの物品を伴わない被害件数推移はどうであるかというと、それは以下のようになります。

こちらも2009年から被害件数の減少はみられるもののそれでもいまだに数十件は存在していることになります。コンプライアンス順守とやらの結果、物品系の霊感商法の被害は劇的に減少したといえますし、献金なども件数は減ったといえます。ただ合計被害金額における「献金・浄財」の推移、そして「内訳不詳・その他」に占める割合を見ていくと、2009年以降からその被害額の過半はこの2つで占められていることがわかります。

「内訳不詳・その他」に関しては詳細になんであるかは不明ではあるために何らかの推測をすることはかないませんが、元からその比率は高めであったことは確かではあるものの2010年以降は「献金・浄財」が霊感商法における主な稼ぎ頭になっていることが見受けられます。なお2018年に被害金額が大幅に上昇していますが、これは主に「献金・浄財」の影響であり、その金額は14億円、被害件数は27件。2018年周辺の「献金・浄財」被害件数は2017年が54件、2019年が23件、2020年が141件であり、件数自体は17年、20年の方が多いのにもかかわらず2018年が突出しているということは2018年に幾人かの多額の献金をした人間がいることが伺えます。
 最後に全国統一協会被害者家族の会の相談件数の推移を見ていきます。

この被害件数を見ていくとこちらも2009年からその件数自体は縮小傾向であることがわかります。2014年から2015年にかけては何があったかは不明ですが相談件数は一気に減少しています。あえて言えば2015年8月に「世界基督教統一神霊協会」から「世界平和統一家庭連合」への改称があります。この改称によって「家族の会」へのアクセス数が少なくなった可能性はあり得るかもしれませんが、月別の相談件数を見る限りは8月前から前年比減の傾向がみられるために名称変更が理由だと断言はできません。


8月16日追記
 以下のような報道がありましたので追記しておきます。

最近は、献金の返還を請求できないよう権利を放棄させる「合意書」の存在が明らかになった全国弁連によると、元信者に署名押印させていた事例が複数確認されたという。
 13年以降、少なくとも560万円を献金していた女性は、15年に約200万円の返金を受けた際に合意書を書かされた。夫と一人息子に先立たれた女性はその後、信者らに「2人が地獄で苦しんでいる」などと不安をあおられて多額の献金をさせられたとして、教団側を東京地裁に提訴。20年の判決では「社会的に相当な範囲を逸脱した行為として、違法と評価せざるを得ない」と教団などに損害賠償責任を認めた。
 判決はさらに、合意書についても「何らの説明もなしに請求権を放棄させ、公序良俗に反し無効」と認定。21年に確定した。川井康雄弁護士は「脱会しても弁護士に相談することを諦めさせる目的で、組織的なのは明らか」と批判する。物品を売る形での「霊感商法」は減ったものの、「新たに広く信者を獲得するより、トラブルになりにくい今の信者から献金という形で深く吸い上げるというケースが増えているようだ」と手法の変化も指摘する。
 全国弁連への電話やメールでの相談は、最近は月1件ほどだった。しかし安倍晋三元首相銃撃事件後の1カ月間では109件に上ったという。
旧統一教会被害「法令遵守宣言後も138億円」 全国弁連指摘 8月16日 毎日新聞

以上のように霊感商法による手口が被害相談がしにくい形態へと変化していることが伺えます。この形態がいつからかまでは不明ですが、推移を考えれば10年代から始まっていることはわかります。なんにせよ、消費者契約法改正は関係ないでしょう。


 実はこのほかにも警察庁霊感商法の認知件数・検挙件数に関しての統計資料を請求したのですが、どうやら「霊感商法」というくくりでは統計を取っていないようでそちらに関しての推移は不明となります。これは「特定商取引等事犯」というくくりで統計を取っているらしく個別にはないということ。ないものはしょうがないけれど、これがわかればいろいろと面白かったかもしれません。
 とりあえず。消費者契約法改正をもってして「安倍晋三統一教会の天敵」とかいう論調は的外れかなと。宗教2世による「安倍さんは(同教会の)神様側の人なんだよ」という証言記事もありますし。安倍晋三氏や自民党統一教会を強く批判したというならばともかく、そういった姿勢や言動を見せてない事からも明らかなように、本人の意図を超えた擁護になっているとしか思えない。

*1:7月8日かなり早い段階で「消費者契約法改正」についてツイートしているアカウントもありますが、こちらは文脈的には安倍政権用語ではありません。

*2:報告書は2015年に出て、第一次答申は2016年。その後に2017年の報告書のための審議が再開される

*3:グラフが2004年からなのは2001年の被害件数が例外的に突出して多くなり、グラフの動きが見えにくくなっていること、後述する被害相談グラフと年数のはじめを併せるために2004年からにしています。

*4:消費者センターの被害数がカウントされていないであろうことに注意してください

【資料】「帰化した国会議員」、「小沢一郎は済州島出身」の出典元

 ネット上でたまに流れてくる画像の原本のコピーを入手したので出典元を置いておきます。なお上記記事は両方ともデマです。

一枚目の画像出典

出典元:国民新聞 2010年1月25日4面

この記事については過去に「 【デマ】「土井たか子、福島瑞穂が韓人、小沢一郎、菅直人は済州島出身」という話について - 電脳塵芥」という記事で検証しているのでご興味があれば。デマです。

二枚目の画像出典

出典元:国民新聞 2011年12月25日5面

かなり大量でかつそれ故に馬鹿らしい内容なので逐一の検証を差し控えますが、一枚目の画像を検証した際のデマ情報も混ざっており、また過去には河野太郎氏が訴訟的な話もしており、当然ながらデマです。で、このリストを提供したとされるのは日本会議埼玉支部の吉田滋氏ですが、実はこの方は「日本会議埼玉・草加支部のブログ」で2015年頃まで記事を定期的に書いていました。そちらにはこの「帰化人国会議員一覧」がないことが不思議であり、さらに一回もこの話題を記事化していません。なお、「帰化」で一件ヒットしますが、それは次のような内容。

2015年 08月 22日 吉田滋連載コラム0037 最終号
朝鮮(韓)に対する正しい認識
(略)
 この事件の総括は極めて明瞭で、既に筆者はコラム〇〇二四「断固朝鮮(韓)に反撃せよ」に於いて凡そ以下の如く論述した。 (一)朝鮮半島の歴史には先史時代は存在せず、六〇〇〇年前頃より日本人(縄文人)が渡って行き、以降数千年に亘り往来し、そのため「帰化」という言葉まで生まれた。その後半島には支那(漢)や北方民族が侵入し急速に混血が進んだ。この様な混血状態は支那大陸でも同じであるため、両国の異常性は瓜二つと形容できよう。

ここからもかなり特殊な世界観は持っていることは伝わります。なぜ国民新聞に書いた内容をブログで書いたのか、どうやって議員の名前を書き連ねたのはかなり謎ですが、それは吉田氏のみが知る事でしょう。デマ情報が元となっている議員以外は本当に謎。嫌いな人間を書き連ねただけかもしれない。記事は最後に吉田氏の「この資料の真実性はほぼ間違いない。火のない所に煙立たずだ」という文章で締めていますが、本当に真実性があるならばこの筋からの続報がないこと、入手したにもかかわらずリストそのものを何らかの形で提示していないこともかなり不自然。火のない所に煙を立てようとしていると捉えた方がよい。
 両者とも10年以上前の画像となり、どんどんと廃れては来るでしょうが資料としてここに残しておきます。最近はこの手のネタを創作する手合いが減ったのか、これ系の新しいデマ情報があまり見なくなったことだけは良い傾向なのかも。目に入ってきてないだけかもしれないけれど。


【7月19日追記】
 この「帰化人国会議員一覧」についてもう少しだけ深堀します。まず結論、とまで確定は出来ませんがこのリストの出典元はヤフー知恵袋のとあるユーザーの書き込みだと考えられます。該当の知恵袋の質問は「民主党、小沢一郎は在日韓国人帰化の家系なのですか?」。そして2010年2月13日に書き込まれた以下の回答が帰化議員一覧のリストの元ネタと思われるものです。

「悪法に賛成している議員の多くが成りすましの外人、彼らの日本の苗字は在日の通名小沢一郎の母は済州島出身で一郎は時々墓参りに島を訪問、土井たか子の本名は李高順、福島瑞穂は趙春花、」などのコメントを拝見しても半信半疑でした。
(略)
昨年、自民党法務省が登録法を変えようとしたときに民団、総連が反対した理由が分かる気がします。
小沢一郎は間違いなく朝鮮系だと思います。
民主と言うにはかなりの朝鮮系が多いと思います。
 
民主党国会議員のうち70人は朝鮮系であると言われている。(なりすましや在日で日本国籍をとった人がほとんどではないか。)
千葉景子(民主)
福島瑞穂(民社)
岩国哲人(民主)
土肥隆一(民主)
金田誠一(民主)
岡崎トミ子(民主)
簗瀬進(民主)
山下八洲夫(民主)
中川正春(民主)
横道孝弘(民主)
神本美恵子(民主)
河野太郎(自民)
辻元清美(社民)
加藤紘一(自民)
東 順治(公明)
衛藤征士郎(自民)
鉢呂吉雄(民主)
今野 東 (民主)
松野信夫(民主)
平岡秀夫(民主)
赤松広隆(民主)
小宮山洋子(民主)
鳩山由紀夫(民主)(夫人が朝鮮系)
横光克彦(民主)
松岡 徹(民主)
水岡俊一(民主)
保坂展人(社民)
群和子 (民主)
犬塚直史 (民主)
佐藤泰介 (民主)
谷博之 (民主)
藤田幸久(民主)
増子輝彦 (民主)
河村健夫 (自民)
中川秀直 (自民)
大村秀章 (自民)
野田毅 (自民)衆
照屋寛徳 (社民)
高木義明 (民主)
小沢一郎 (民主)
中嶋良充 (民主)
上田勇 (公明)衆
江田五月(民主)
円より子 (民主)
大田誠一 (自民)
又市征治 (社民)
中村哲治 (民主)
藤谷光信 (民主)
室井邦彦 (民主)
横峰良郎 (民主)
白 眞勳 (民主)
奥村展三(民主)
小沢鋭仁(民主)
川端達夫(民主)
佐々木隆博(民主)
末松義則(民主)
西村智奈美(民主)
細川律夫(民主)
家西 悟(民主)
小川敏夫(民主)
津田弥太郎(民主)
那谷屋正義(民主)
二階俊博(自民)
大野功統(自民)
馳浩 (自民)
内藤正光 (民主)
福島哲郎 (民主)
日森文尋 (社民)
近藤正道 (社民)
峰崎直樹 (民主)
郡司彰(民主)
小川勝也 (民主)
亀岡偉民
中川秀直
中山正暉
鮫島純也 (鹿児島県、加世田の朝鮮人部落出身の生粋の朝鮮人-小泉元総理父)
成田 豊、大手広告代理店、電通グループの会長
日本のマスコミを自在に動かす力があると言われる電通。その電通の異常な親韓・反日姿勢は、最高顧問の成田豊氏が朝鮮出身者であることが理由であるとされる
 
池田大作(成太作-ソン・テチャク)、創価学会名誉会長、両親とも戦前から日本にいた朝鮮人です。創価学会北朝鮮宗教
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/sokakitacho.htm

細かく見ていくと国民新聞の記事との違いが若干ありますが(分かりやすいところで言えばツルネン・マルティ氏や鮫島純也(小泉俊一郎氏の父)の有無)、かなりの共通点がある事からこの知恵袋がネタ元になっていると考えられます。なお元のリストだと「福島瑞穂(民社)」と書かれていてネタなのかマジなのか分からない記述もありますが、逆にこのワードで検索しても(消されていなければ)この知恵袋の回答が遡れる最古の書き込みの為にこれがネタ元である可能性が高まります。ちなみに国民新聞の方では「大村秀章」が「犬村秀章」になっていますが、逆にこれは国民新聞以前にはない間違いなのでこれをキーワードに探ることはおそらくできません*1
 それとこのベストアンサー回答に選ばれた文面ですが、リスト以外では他所のブログからの文章の流用が見受けられます。まず、初めに「~半信半疑でした。」とありますが文体からしてどこからかの転載臭い。そして調べて見るとこの「半信半疑」から「民団、総連が反対した理由が分かる気がします」まではブログ「中韓を知りすぎた男」の2010年2月10日の記事「驚愕の事実」の部分的な無断転載です。その後の「小沢一郎は~」からリストが恐らく回答者のkabunarikinnomaro氏のオリジナル部分です。ただ、このリストの最後の部分である電通グループの会長成田氏についての記述はブログ「メガリス」2009年4月3日の「朝鮮出身と朝鮮愛を認める電通:成田豊氏」からの転載です。池田大作については貼ってあるURLがソースですが、この記述については少しだけ変えています。なおこの末尾にあるURLに関しては池田大作のソースとして張られているだけで議員リストのソースではありません。
 このkabunarikinnomaro氏は2月11日には逆に「日本人に成りすましたものが、国会議員になってもよいのであろうか????」でも「中韓を知りすぎた男」の文章を無断転載しつつ質問をしています。その際にはリストについては触れられていません。この11日から13日の間にkabunarikinnomaro氏が「創作」したのか、それともどこかで流布されていた、例えば外国人参政権賛成議員リストの様なものを参照したのかまでは不明ですが、国民新聞のネタ元はこの時期に創作された可能性が高いものと思われます。少なくとも「起点」はこの知恵袋かなと。そしてkabunarikinnomaro氏の書き込みは他者の転載が目立ちますので、おそらくこの方の創作というよりもなんらかのリストである可能性が高いと考えられます。ただ例えにあげた外国人参政権賛成議員がネタ元なのでは説について補足すると、2008年の阿比留瑠比氏のブログで「在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟」の参加議員リストが挙げられていますが、帰化議員リストと参照すると違いもチラホラとあるので、これが「元ネタ」というにはちょっと相違点が多いと考えます。なので、この知恵袋の元ネタが何か、というのは分かりかねるというのが実情です。特に民主、社民以外の政党が不明。
 そしてこの知恵袋による書き込みがあった後に2月17日にこの回答におけるリストについて質問した「日本人に成りすましが、疑われている国会議員がこんなに居るとは信じられますか?」が行われ、3月17日には「愛国議員がとるべき有効な選挙戦術あります!」などで取り扱われてやや拡散していきます。ちなみに発端であろうkabunarikinnomaro氏は7月には選挙区情報も付加したリストを知恵袋に書いています。そして最終的に吉田滋氏か、その周辺が見てこのリストを国民新聞に記事として出したのかな、という可能性が高いと考えます。簡単に流れにすると、おそらくこんな感じ。


帰化国会議員リストが出来るまでの流れ(仮定)】
ネットで一部議員(小沢一郎福島瑞穂土井たか子など)の虚偽帰化情報が出回る
 ↓
国民新聞が上記を記事化(2010年1月)
 ↓
ヤフー知恵袋の回答で帰化(朝鮮系)議員一覧が書かれる(2010年2月13日)
 ↓
上記の回答が他所へ転載されていく
 ↓
一部を変えながら2011年12月25日に国民新聞で記事化


 元々がネットにおけるデマなのですが、デマが転がり続けるうちにどんどん大きくなっていたと推測できます。ヤフー知恵袋のリストについても無からの誕生というよりも、なんらかの下敷きがある可能性自体は高いのでそこを突き止められないのが痛し痒しではありますが、とりあえずはここまでで。
 それと最後に一つ余談。国民新聞の記事は今もたまにツイッターで流れてきますが、それとは別のものが流れています。それが「民主党国会議員のうち70人は朝鮮系」という情報。これが独り歩きした結果、 元陸将補・倉田英世氏は2013年に「さらば韓国、反日を煽り続ける国とは断絶を」は以下の様な記事を書いています。

日本国内での在日朝鮮人工作は、帰化した在日朝鮮人である「なりすまし日本人」の活動が主体である。過去に想起した在日朝鮮人工作は、第1に、仲間を国会に送り込むことから始められ、2009年朝鮮人政権である民主党政権に、分かっているだけでも70人が日本の国会に送り込まれた。

元々がヤフー知恵袋の情報である可能性が高い事を考えると、知恵袋に釣られた元陸将補になるわけですが……、ここは本当に怖いので考えるのをちょっとやめましょう。




■お布施用ページ

note.com

*1:厳密にいうと国民新聞よりも1週間早いブログ記事があるのだが、それは国民新聞の該当記事がソース。なぜ発行日よりも早くブログになったのかは不明。

「チマ・チョゴリ切り裂き事件」の自作自演説についての検証

 1994年の北朝鮮の核疑惑にまつわる報道により、その年の4月14日から「チマ・チョゴリ切り裂き事件」とでもいうべき事象が発生します。で、この事件については主に極右方面から総連による自作自演説というものがごく一部とはいえ存在します。中々この事件については事件の実態、つまりは分かりやすい犯人の逮捕報道がない、及び極右による嫌韓感情からそういった「説」が流れるわけですが、今回はこの「チマ・チョゴリ自作自演説」について書いていきます。

自作自演説のネタ元

 自作自演説のネタ元と言えるものは2つ存在しており、まず一つ目はルポライターきむ・むい氏の記事『「チマ・チョゴリ切り裂き事件」の疑惑』です。こちらは雑誌『宝島30』の1994年12月号に掲載された記事であり、例えば『マンガ嫌韓流』や井沢元彦氏はこれらを基にして暗に自作自演ではないかという論を展開しています。しかしながら、この記事は「チマ・チョゴリ切り裂き事件」について報道の仕方など事件の詳細記述、朝鮮学校や総連の対応や報道頻度などタイミングなどから疑義や批判を呈しているのは事実ですが*1きむ・むい氏はそもそも自作自演説を主張しているわけではありません。彼自身が94年より以前に切り裂かれた元生徒の話を記事内に書いている事からもそれは明らかです。詳しくは反「嫌韓」FAQ(仮)の『チマチョゴリ切り裂き事件は自作自演』で記述していますが、これを元ネタとして自作自演説を展開するには自分にとって都合のよい想像の発展と言えます。そのためか、こちらは現在自作自演説の元ネタとしてはそこまで使われていないように見受けられます。
 二つ目の自作自演ネタは元朝日新聞記者の永栄潔と長谷川熙による共著『こんな朝日新聞に誰がした?』における以下の記述です。

90年代半ば、元朝鮮総連活動家の知人が友人に会わせてくれようとした件もそうだった。
 その頃、日朝間で何か問題があると、朝鮮学校に通う女生徒の制服チマチョゴリがナイフで切られる事件が続いていた。或る時、知人が吹っ切れたように話し始めた。「あんなことはもうやめないといけませんよ。自分の娘を使っての自作自演なんです。娘の親は総連で私の隣にいた男です。北で何かあると、その男の娘らの服が切られる。朝日にしか載らないが、書いている記者も私は知っている。ゆうべ友人に電話しました。『娘さんがかわいそうだ』と。彼は『やめる』と約束しました。会いますか?」。「いや、結構です」と即答した。
『こんな朝日新聞に誰がした?』 p179-180

要するに知人がチマチョゴリ切り裂き事件について総連の自作自演だと吐露したというものです。ただし、この自白については永栄氏による記述のみでそれらに対して何らかの証拠があっての自作自演説ではなく、永栄氏自身による後追いもありません。ちなみに『こんな朝日新聞に誰がした?』は2016年12月刊行であり、永栄氏はその前年である2015年3月に『ブンヤ暮らし三十六年: 回想の朝日新聞』という書籍も出していますが、こちらでは自作自演説の記述については皆無で初出は『こんな朝日新聞に誰がした?』。またこれについての後追いや検証の様なものをしていない為に自作自演説を裏付ける情報はこれだけとなります。この情報を追っていけばある種のスクープともいうべき情報ですが、そこについては残念というしかない。
 なおこの『こんな朝日新聞に誰がした?』の刊行後、櫻井よしこによる記事『元「朝日」記者が暴露した“捏造記事”のつくり方 平気でウソを撒き散らす「エセ言論人」の実態』などによってネット右派界隈にもこの話が伝わり、例えば海乱鬼氏などによって情報がネットに膾炙します。


https://twitter.com/nipponkairagi/status/1213307594132996097

永栄氏による記事はたしかに「暴露」と言えますが、実態が伴っているかというと「知人の友人の話」という発言のみであり正直なところ鵜呑みには出来ない部分が多分にあります。

当時の報道について

 さて、きむ・むい氏にしても永栄氏にしても朝日新聞の報道についての記述があります。書きぶりからすれば1994年当時に朝日新聞は相当に記事を書いていると受け取れる文章であり、実際に朝日新聞は毎日、読売と比較すれば記事を書いているのは事実ではあります。ところで、永栄潔氏は著書の中で「朝日にしか載らない」と書いていますが、それは明確な事実に反する発言であり、そもそも「チマ・チョゴリ」を単語に含めた朝鮮人学生への暴行事件についてはなんなら読売新聞の方が早いです。以下、朝日、読売、毎日の当時の記事をいくつか並べていきます。

朝日新聞での「チマ・チョゴリ」を含めた当時の記事例】
5月25日 各地で嫌がらせ 栃木の朝鮮学校、チマ・チョゴリの通学禁止 (2社朝刊)
5月25日 朝鮮学校生への暴力(天声人語
6月 7日 チマ・チョゴリの登校一時見合わせ 阪神間の朝鮮初中級学校 (大阪朝刊)
6月 9日 誇りの制服切られ募る悲しみ 朝鮮学校女生徒への暴力急増 (1社朝刊)
6月11日 またチマ・チョゴリ切られる JR車内で朝鮮中高級学校の生徒 (東京朝刊)
6月14日 相次ぎ切られるチマ・チョゴリ 1週間で2世と、計3回被害(埼玉朝刊)

【読売新聞での「チマ・チョゴリ」を含めた当時の記事例】
5月14日 朝鮮学校生に投石、暴言 チョゴリ狙われ6件 (大阪朝刊)
5月18日 [泉]差別する側の無知が残念 (大阪朝刊)
6月 1日 朝鮮学校に嫌がらせ 「チョゴリへの暴行許すな」 (大阪朝刊)
6月14日 朝鮮学校生徒、再び被害 ジャージ切られる (東京朝刊)
6月14日 北朝鮮生徒へのいやがらせ続発 (東京夕刊)
6月14日 朝鮮学校生のチマ・チョゴリ切られる (東京夕刊)
6月17日 [編集手帳]「北」核疑惑とは別、恥ずべき民族服への嫌がらせ (東京朝刊)

毎日新聞での「チマ・チョゴリ」を含めた当時の記事例】
5月27日 朝鮮人生徒への嫌がらせ相次ぐ (東京夕刊)
5月27日 在日朝鮮時にいじめ頻発 核疑惑契機? 女生徒、チマ切られる (大阪夕刊)
6月11日 チマ・チョゴリ切られる事件 朝鮮学校生への事件防止で警視庁通達 (東京朝刊)
6月15日 朝鮮学校生徒への嫌がらせ、厳正に捜査 -石井国家公安委員長 (東京朝刊)
6月17日 全国で120件に チマ・チョゴリ切られる被害 -朝鮮総連(東京朝刊)

以上の様にそれぞれの新聞社で報道のトーンにそこまでの違いはありませんし、報道の早さそのものならば5月14日の大阪の読売新聞が一番早いことから、この問題そのものは朝日新聞が発端とは言えません。記者ならばある程度の共有がなされていた案件という事でしょう。ちなみに報道の件数ですが新聞データべースを「チマ・チョゴリ」で検索した場合、1994年の5月以降の検索ヒット数は朝日新聞が150件超え、読売は30件ほど、毎日は50件ほどと新聞紙面上に載った報道量自体は朝日新聞がダントツであることは確かです。ただしこれは読書の投稿である「声」の欄や地方版などでも多く扱っている影響も強い事、また「チマ・チョゴリ」の検索ヒット数なので各新聞社、まったく関係のない案件も含まれている事には留意してください。特に朝日新聞はチマ・チョゴリ案件に関して地方紙や朝鮮学校などの話題に少し触れる際にもその単語を出しているためにかなり件数が増しています。
 以上の様に当時各新聞社で相当量の報道がされておりますが、時期的な話をすれば少なくとも「朝日」が始めたかの様な認識は明確な誤りです。また報道のピーク自体は6月ごろと言えますが、7月9日に金日成の死去後も当然ながらそれとは関係なく事件関連の報道は存在します。

当時の朝鮮人学生への調査結果表

 当時の報道では暴行件数は100件を超えていたと言われています。例えば1994年7月に朝鮮人学生に対する人権侵害調査委員会による報告書では暴言を含めて155件と報告、当時の総連の元をした記事では124件とあります。この100件を超える一覧表はありませんが、『切られたチマ・チョゴリ』(朝鮮人学生に対する人権侵害調査委員会編)には在日朝鮮人聯合会調べによる1994年6月中旬までに朝鮮人学生への暴行・暴言一覧が表として載っています。


※意図的と思われるチマ・チョゴリ切り裂き事件(未遂含む)については引用者がマーカー

以上、4月14日から6月30日までに報告された暴言・暴行数は77件、うちチマ・チョゴリ(及びジャージ)が意図的に切り裂かれた(未遂含む)であろう件数は13件*2になります。なお今回はあくまでも意図的なチマ・チョゴリ切り裂きについてのみピックアップしていますが、例えば自転車でぶつけられて転倒して破れたなどの案件が2件ほどありますが、こちらは件数に入れていません。そしてこの10件を超える発生件数の時点で永栄潔氏の知人の友人が語るところの「自分の娘」に対して行っている自作自演説は根拠が薄くなっていると言わざるを得ません。総連側が「自分の娘」に対する自作自演を行う親を約10人見つけたと主張するならば別ですが……。
 一覧表を見ればわかる様に基本的に報告されている案件を見ると暴言が大半を占め、その他に暴力や脅迫が含まれているといったものです。いずれも今の時代では適した言葉がありますので、それを使用すればヘイトスピーチヘイトクライムと言えるものでしょう。ただ「チマ・チョゴリ切り裂き事件」の件数と全体の暴言・暴行件数を考えた場合、その件数は全体からすれば2割近くほどとなり、総連や報道によって「チマ・チョゴリ切り裂き事件」として注目されたことが果たして適したものであったかという批判はあり得、きむ・むい氏の指摘の中にある女子生徒は広告塔なのか、というのは一種の批判としては成り立つものと考えられます*3。ただこれは被害者の9割ほどが女性という事を考えれば、その象徴として「チマ・チョゴリ」という単語が使用され、その中でも案件が多かった「切り裂き」が使用されてもそこまでおかしくはないでしょう。そもそも批判とは別に明確な被害者がいる時点で、まず批判は加害者やその様な行動が起こってしまう社会に向かうべきですが。
 6月末までの事件発生数は分かりましたが、切り裂かれたチマ・チョゴリ13件の事例についてもう少し詳細に見ていきます。基本的に発生場所は九州が一件ある以外はほぼ関東、というか東京に集中しているので割愛しますが、発生時期についても偏りがあります。

【発生時期】
4月  2件
5月  0件
6月 11件

以上の様に報告事例の1件目は切り裂き事案であり、その2週間後くらいにもう一度ありますが、5月になると切り裂き事案はなりを潜めます。それが6月になると11件、特に6月9日以降に増えていきます。この時期に北朝鮮側からの大きなニュースというのは継続していた核疑惑関連の話題であり、確認する限り新規性を伴うニュースは少なかったと思われます。故に北朝鮮に都合が悪いからセンセーショナルな「切り裂き事件」が発生していたとは少々考えにくい。それと朝鮮人学生への暴行報道は5月中旬以降であることから例えば報道からの模倣犯の様な存在があるとしても4月の案件はそれとは別と考えられます。ただし、6月中旬以降の切り裂き事件に関しては報道などの影響による模倣犯は考えられます。例えば6月9日に切り裂き事案が2件発生していますが、この日には朝日新聞が「誇りの制服切られ募る悲しみ 朝鮮学校女生徒への暴力急増 」という記事を出した日でもあり、その後の被害者の増加によって他新聞社においても「切り裂き」事案を扱った記事が複数見受けられます。新聞以外のテレビメディアなどでの報道があったであろう事を勘案するならば、これ以降の増加には報道の影響による模倣犯の可能性の方が自作自演説よりも高いと考えるべきでしょう。
 以上、当時の6月末までの調査結果から見てきましたが、一つ注意が必要なのは7月以降にも暴行事件は発生しており、またそれと同様に切り裂き事件は発生しているという事です。『切られたチマ・チョゴリ』では7月に発生した事例を取り上げていますし、あくまでも6月末までの報告された件数が13件ほどという事であり、それ以降の件数を累積していけば数自体はもっと多くなるでしょう。

過去の事例との比較 -パチンコ疑惑時の暴行・暴言事件

 朝鮮学校への暴言・暴行事件というのは何も1994年に起こった目新しい事件ではなく歴史的には幾度か存在しています。日韓基本条約時、ラングーン事件大韓航空機爆破事件、94年で言えば核疑惑。そしてこの94年の前に少し騒動になったのが89年の文春の「パチンコ疑惑」連載時に端を発した朝鮮人学生への暴言・暴行事件です。この疑惑自体は当時国会でも審議されるに至った事ではありますが、当時の編集長である花田紀凱の発言などから社会党バッシングという政局的な記事でもあり、また問題点も多々ある記事だったものの、この記事の「疑惑」というか「精神」の様なものは現在のネットにも多分に引き継がれていると思われます。
 そしてこれらの疑惑をうけて朝鮮人学生への暴言・暴行事件が報告されており、その一覧が朝鮮時報取材班『狙われるチマ・チョゴリ―逆国際化に病む日本』*4でまとめられています。


チマチョゴリ引き裂き事案に対してのマーカーは引用者

以上の様に89年当時に発生していたチマ・チョゴリ引き裂き事案としてはチマを掴まれ、逃げようとしたときに引き裂かれたというものであり、94年当時の様な意図的な切り裂きとは異なるものです。ここから分かることは「切り裂き」事案そのものは94年ごろの新しい事象と言えるかもしれませんが、ただきむ・むい氏の記事の中で90年に生徒だった女性が、自分の時にも切られた子はいるという発言がある事から単純に当時は「切り裂き」の発生件数自体は少なく、報道にも載らなかったと考えるのが妥当と言えましょう。また暴行、暴言そのものの性質自体が大きく変化したとはいえず、唯一大きく変わった事と言えばおそらくは94年時に比べて、89年時は「チマ・チョゴリ切り裂き事件」の様な印象に残る報道がほぼされなかったという事でしょう。
 そしてこの時の本のタイトルが『狙われるチマ・チョゴリ』となっていますが、見ればわかる様にやはり被害者には比較的女性が多いです。書籍内でも指摘がある様に89年当時の時点で過去の事案よりも女性の被害が増えているという指摘があり、94年の核疑惑後にはさらに女性の被害が増えている様に見受けられます。より弱く、目立つ存在にターゲットがシフトしていると考えられます。

当時のスカート切り裂き案件の数について

 ちなみに1994年には朝鮮人学生以外のスカート切り裂き事件が激増している事が確認できます。ちょうど事件報道のピーク時期であろう6月である6月18日付の毎日新聞東京夕刊は以下の様に伝えています。

通勤電車でスカート切り続発 若い女性被害、すでに27件 -取り締まり強化へ
東京都内を走る通勤・通学電車内で、若い女性のスカートなどが切り裂かれる事件が続発し、今年に入って27件にも上っている事が、18日までに警視庁の調べでわかった。(略)鉄道警察隊によると、電車内の切り裂き事件は、昨年は一年間で3件しかなく異常な激増が際立つ。被害者は重大の高校生から二十代のOLら。都内のほぼ全域の路線で発生し、早期のラッシュ時に集中している。寒い1ー3月はコート類の被害が目立ったが、4月以降はスカートばかり切られている。
(略)
民族服チマ・チョゴリ朝鮮学校の女子生徒が被害を受け、警察に届け出があったケースも、今月14日にJR中央線の車内で長さ約16センチも切られるなど5件に上る。

その後の事件数を含めれば93年と比較して94年に電車内のスカート切り裂き魔が半年で十倍ほどと激増している事を伝える記事です。この背景は分からず、またチマ・チョゴリ事件との関連性は全くの不明です。各月の発生件数もわからないのが痛し痒しとは言えますし、その後の詳報がない為に95年以降にどうであったか、犯人が複数なのか、それとも個人なのか、そもそもその動機が不明です。ここからたまたま当時性犯罪的な目的のスカート切り裂き事件が激増して、たまたま目立つチマ・チョゴリがターゲットの一つになった、という論理も構成可能ではあるでしょうが、その他の暴行・暴言の事案を考えればその線を前面に押し出すにはあまりにも弱いといえるでしょうし、記事内だけでも27件中5件というチマ・チョゴリへの加害数の多さを考えればそこに当時の報道や朝鮮人への蔑視があった可能性は捨てきれません。

切り裂きを行った加害者が逮捕された事例

 自作自演説のひとつに「犯人が捕まっていない」という話がありますが、それは誤りであり、実際にチマ・チョゴリを切り裂いた案件での逮捕者は存在します。見たところ大きな記事にはなっていませんが、姜誠『パチンコと兵器とチマチョゴリ―演出された朝鮮半島クライシス』では事件の始まりとされる4月14日の切り裂き事案について、その10日後に犯人と思しき人物といつもの電車で見かけ、その人物をボディーガード役に伝えて取り押さえて鉄道警察に渡されています。また6月9日の朝日新聞朝刊でも記事として確認でき、それは以下の様なものです。

「誇りの制服切られ募る悲しみ 朝鮮学校女生徒への暴力急増 」
ミカさんは通学途中の電車で自分のチマ・チョゴリを切った男(23)を見つけた。付き添っていた教師らが乗換駅で男を取り押さえ、警視庁成城署に器物損壊容疑で逮捕された。調布市内に住む石材店従業員だった。取り調べで、男は、はっきりした動機は話していないという。

この人物については普通のサラリーマンとあり犯行の動機もあいまいだとの記述がされていますが、犯行時に「朝鮮人め!」との暴言を伴う犯行から、スカート切り裂き魔がたまたま朝鮮人学生を狙ったというよりも、そこには当時の報道を受けての憎悪感情があった可能性の方が断然高いでしょう。 また、姜誠氏は著書の中で右翼などではなく普通の男性であることに関係者含めてショックを受けたかの様に書いていたように、「自作自演について黙秘を貫いた男性」というよりも、報道などを受けて衝動的に実行に移した「普通の男性」という可能性の方が高いでしょう。
 当時の情報では4月から7月1日までに警察への被害届が行われたのが22件で検挙は2件。上記が1件となり、もう一つの検挙された事件の詳細や容疑者がどの様なものだったのかは不明ですが、もしここで朝鮮人学生関係者の自作自演ならばニュースになっているでしょう。またわき道にそれますが100件以上の被害報告と比べて被害報告数が22件と少ないという指摘がありますが、事例集を見ればわかる様に暴言だけで終わるものもあり、これらすべての事例で被害届を出す類のものであるかと言えばそこまでではない、もしくは詳細な操作はしてくれないと判断した泣き寝入り的な判断で被害報告数は少なくなったのでしょう。

「知人の友人の話」を信じるか

 チマ・チョゴリ切り裂き事件についての当時の報告や報道などを見てきましたが、事件のあらましとしては以上の様なものです。この事件について警察庁に開示請求を行いましたが、四半世紀以上前の出来事であるためか、それとも軽微な事件と思われたのかは不明ですが資料は存在しないとの連絡を受けています。ただ当時に話題になった一連の事件について、もしも警察側が自作自演という話についてある程度の確証があったのならば当時報道に流れていることから公的な機関がこの案件を自作自演と考えている可能性はゼロに近いでしょう。
 そもそもの話。自作自演説は元ジャーナリストとはいえ永栄潔による「知人の友人」という曖昧模糊な登場人物による証言です。永栄氏は『ブンヤ暮らし三十六年』などを読むと総連に近しい知人がいることは確かでしょうが、チマ・チョゴリ切り裂き事件についてこの証言などに基づきジャーナリストとして調査した痕跡は見当たりません。真実ならばそれなりに大きな話題でもある為に今からでも調査してほしいところです。それこそジャーナリストとして。
 正直なところ、この検証の発端は「知人の友人の話」、それもそのデティールはぼんやりとしていて一切否定できない類のものでもある為に、例えば100件を超える事案の中に「1件も自作自演がなかった」と断定することは不可能です。しかしながら個々の事案の報告描写を見る限り「自作自演しかなかった」はあり得ないレベルでしょう。今現在の在日コリアンへの差別事案、例えば直近では京都・ウトロ放火事件、また日本第一党などの極右による朝鮮人学校や在日コリアンへの排外デモなどを考えるならば多くの事件は排外思想を持った、もしくは当時の北朝鮮バッシング報道によって刺激された日本人と考えるのが妥当です。永栄氏は分かりませんが、出典となっている書籍の出版社や今あれは自作自演説だったと吹聴しているの極右界隈であり、自らの罪や「被害者は嘘つきだった」という新たな攻撃材料を得るために自作自演説に乗っかったと考える方が妥当でしょう。



■お布施用ページ

note.com

*1:「フレームアップ(捏造)」ではないかという疑問も書かれていますがそれは文中に記者の言葉を借りて否定しています。

*2:うち2件は被害者が同一。6月9日と6月13日の被害者は同一

*3:補足すれば、「何故、女子生徒だけが民族衣装を着るのか」という問題が存在しますが、これは完全に脇道なのでおいておきます。

*4:この本の中身自体は著者や時代の限界が幾分も見られる本でもあり、今の時代に読むと幾つかの記述は甚だ微妙なところもありそこまでおススメは出来ません。

タイ国元首相プラモード氏の記者時代の発言「日本というお母さんは~」は名越二荒之助の捏造ではないか

【2022年12月30日更新】

nou-yunyun.hatenablog.com

 サービス範囲の拡大によって新たな事実が判明し、少なくとも名越二荒之助の捏造ではないことは確実となりました。詳しくは上記記事で。


 名言?調査ククリット・プラモード編です*1。ネットで流布している発言には細かなところが違う亜種がいくつか存在するので下記に引用する発言は画像の文言とは異なります。そこだけは悪しからず。

ネルー編
スカルノ編

 なお、この案件ですが既に早川タダノリ氏が論座において、 『百田尚樹『日本国紀』に登場した謎の記事を追う』というシリーズにおいてこの発言の出典や経緯を語っています。序盤ではこの記事に依拠しながら進めていきます。この記事の独自性は最後の方にあるのでめんどくさい方はそちらをどうぞ。

発言の使用頻度の高さ

十二月八日
日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話しが出来るのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心をされた日である。さらに8月15日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である。 われわれはこの二つの日をわすれてはならない。

 まずこの発言はネルースカルノの発言とは異なり初発がそれなりにネームバリューのある人間の書籍であることから色々な論者やメディアが使用しているのが特筆すべき点です。例えば日本会議の『世界はどのように大東亜戦争を評価しているか』、草奔全国地方議員の会『日本を評価する世界の著名人>タイ王国』、産経新聞正論:タイ国王の「友好の絆」忘れるな ジャーナリスト・井上和彦』、靖国神社英霊の言乃葉 8巻』、田母神俊雄『自らの身は顧みず』、百田尚樹『日本国紀』、自由社『新版 新しい歴史教科書』、小林よしのり戦争論2』などなど。そうそうたる面々がこの発言を引用しています。


小林よしのり戦争論2』より。後々の影響を考えれば戦争論での発言の採用は大きかったと思われます。

ちなみにネット上では2chにおいて2004年くらいからこの発言の書き込みが見られ*2、その他の個人HP/ブログ系でも2007年くらいから同様の発言が見られるようになってきます。ただ個人系はジオシティーズ掲示板などのサービス終了で遡れないだけで2007年以前から存在したものと考えられます。
 なお発言中で太字にしている「8月15日~」の箇所は日本のもともとの出典にはない箇所であり、引用された際に付け加えられた箇所です。要はここはおそらく高い確度で捏造なので検証からは無視します。

出典はどこか

 事程左様に出典があるだけにその使われ方はかなりのものです。そしてこの発言の元ネタを早川氏の調査に従って時系列で表すと以下の様になります。

【発言の初出や出典、経緯】


1955年:6月8日(9日?)に元タイ国駐屯軍司令官中村明人がタイに訪問*3
    プラモードが現地誌(フサイアミット紙)に『友帰り来る』掲載
    上記ソースは『日本週報』9月15日号
    田中正明「日泰親善秘話――浦島太郎になった陸軍中将」より
1958年:中村明人『ほとけの司令官――駐タイ回想録』刊行
1968年:名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』刊行
    「日本というお母さんは~」の語句が現れるも出典不明
1981年:名越二荒之助『戦後教科書の避けてきたもの』出典不明
1988年:ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争
    プラモード氏をサイヤム・ラット誌の主幹と書くが出典自体は不明
    田豊が記事を持っていると明言
1989年:土生良樹『日本人よありがとう――マレーシアはこうして独立した』刊行
    「八月十五日は~」の記述が追加される
    出典元をサイヤム・ラットと明記*4
1995年:歴史・検討委員会編『大東亜戦争の総括』
    「十二月八日の新聞の社説」と明記
1996年:藤岡信勝自由主義史観研究会『教科書が教えない歴史』
    「十二月八日」と題した記事と明記
2000年:名越二荒之助『世界に開かれた昭和の戦争記念館』第4巻
    出典元をサイヤム・ラットと明記
2018年:百田尚樹『日本国紀』刊行
    出典を「現地の新聞サイアム・ラット紙、昭和三〇年十二月八日」と明記


 まず1955年の中村明人の訪タイを起点として話は動き始めています。そして1958年の『ほとけの司令官』においてプラモードによる「友帰り来る」という記事が全文引用されておりますが、後述する様にこの発言自体のソースを追うのも困難です。ただし「友帰り来る」は本題ではないので置いておいて……、『ほとけの司令官』には「日本というお母さんは~」という文言は一切登場しません。その後、1968年に名越二荒之助が件の文言を登場させていますがここでは逆に中村明人の名前は一切出ません。それでは何故中村の訪タイが起点になるかというと2000年の『世界に開かれた昭和の戦争記念館』において名越二荒之助は中村明人の訪タイに伴う記事をこの「日本のお母さん~」と関連付けているからです。詳しくは後述。
 そして経緯を見ればわかる様に出典は何故か当初は明らかにされずに後々判明するという具合であり、更に当初は『十二月八日』という記事だったはずが書籍によっては誤読によって記事名ではなく出典の日付が十二月八日と判断されるにいたります。ちなみに早川氏が「サイアム・ラット」紙1955年12月8日付の原典を入手して検証していますが、この1955年12月8日の記事に件の「日本というお母さんは~」の記述はありません

ククリット・プラモード『友帰り来る』

 中村明人『ほとけの司令官――駐タイ回想録』にはククリット・プラモードが記した「友帰り来る」という記事が全文引用されています。この文そのものが重要でもある為に長文の引用をします。

 第二次世界大戦中、タイ国を占領していた帝国「義」部隊の戦時中の司令官であった中村明人氏が、親善訪問の目的をもって、六月中に再びタイ国の土を踏まれた。
 戦時中、日タイ両国には密接な友好、協力の協定が取交されていたのであるから、「占領」という語(ことば)をここに用いるのは強いかもしれないが、両国民中のいずれにもせよ、真実を回避することなく公平に語ることを欲するものなら、だれしも「義」部隊の本体は占領軍であったということを認めざるを得ないのである。ということは、中村明人氏はタイ国民に顔をそむけられたり、あるいはまた復讐的攻撃に身をさらされたりはしなかった。それどころか、氏は彼の招待者たちおよびタイ国民から、諸手を挙げての歓迎を受けたのであった。
 中村将軍、今日なお、タイ国において中村将軍として知られている氏は、国家警察の公式賓客として訪タイされたのではあるが、その訪問は一般には、国民たちが尊敬と愛情をもって、総計すべき人として来た旧友を、彼らの間に再び迎え、彼の訪問を衷心より歓び迎えた、タイ国民全部の賓客であるかの如き感を受けた。
 占領軍の司令官が、彼の軍隊が戦時中占領していた、そして戦い終えて去って行ったところの国民から、赤誠あふるる友情と真心こもる愛情とをもって、かくのごとき盛大な歓迎を受けるものは実に稀なこと、否、人類史上まったく前例を見ない事であるまいか。タイ国において中村将軍に与えられたこの歓迎は、多面にわたり意義深いものがあるが、そのいずれもが日タイ両国間の前途に光明をもたらすものである。
 第二次世界大戦中、並びに大戦後、日本帝国陸軍は数多くの残ぎゃく、かつ非人道的罪に問われた。かかる帝国陸軍の事に関しては、すでにそれ自体一巻の書を形成するに至っている
 もしも語り伝えられているこれらの言語同断(ママ)な物語の数々が真実であったとするならば、ただ一人の反対者の怨恨の声もなく、高度の賛辞をもって歓迎された氏のタイ国訪問は、実に例外中の例外を、これらの物語に附したるものというべきである。
 タイ国民は、彼等の祖国に日本軍を迎え入れ、或いは戦時中、彼等の祖国が占領状態におかれていたのを黙視していたのではなかった。
 ほとんど全部のタイ国民達は、占領によって実にひどく感情を害されていた。はげしい反感の念がわき起こり、彼等の主婦に外国の軍隊が進駐するのを見て、多くの愛国心に燃えた人々の目は熱涙にうるんだのであった。
 地下工作は当然これに付随した。タイ国民は挙って彼らの祖国が再び自由を取り戻し得るであろう処の日を鶴首、かつ祈願したのであった。

 これ等の悪感情にもかかわらず、タイ国民は中村将軍統率下の軍隊の見事な紀律は模範とすべきものがあったこと、その行動は上品で、かつ人道的であったこと、また「義」部隊の司令官は戦時中ずっと続いた安寧秩序に対する責任者であったことを明らかに認め、かつ銘記しているのである。
(中略。中村明人の功績、将来の両国間の友好などについて語る)
 我らの友、中村氏のために、そしてわれわれの友好国、氏の祖国のために、われわれは衷心よりの「万歳」をとなえる。
1958年『ほとけの司令官――駐タイ回想録』p.203-206
※全文はこちら

ククリット・プラモード「友帰り来る」の赤字を記したところは大日本帝国による侵略性を示していると言える部分であり、逆に黒字部分はその侵略性を伴った日本によるタイ国の「占領」を中村明人という個人がタイ国民に幅広く受け入れられるように尽力したという文脈といえるものです。この記事で称賛されているのは中村明人という個人であり、日本という国家ではありません。そしてプラモード氏のこの論調は中村明人個人ならともかく「日本」によるアジア解放史観と相性が良い感情とはあまり言えません。つまりいま日本で流布している「十二月八日」の「日本というお母さんは~」という文言はこの「友帰り来る」と同一人物が書いた記事とは少々考えにくい。さらに付け加えて言えば「友帰り来る」の文章量からして「十二月八日」が実在するならば現在紹介されている発言はごく一部と思われます。恣意的な引用の可能性もあり、その全文には何が書いてあったのは重要でしょう。
 なおこの「友帰り来る」が掲載された雑誌の日本週報(340号)において、田中正明の記事中には”ある有力紙(フサイアミット紙)のごときは、主筆ククリット・プラモード氏の名をもって、「友帰る来る」と題し~”とあります。「フサイアミット紙」と書かれていますが、これは主筆という表現やククリット・プラモードのタイ版wikipediaにフサイアミットと思われる記述はない事から「サイアム・ラット紙」ではないかとも思いましたが、しかし後述する様にまったく別の雑誌である可能性もあります。記事の論調としては中村個人を主役に置いた訪タイにいたる伝記、斜に構えれば持ち上げともとれる内容ではありますが、記事内における『友帰り来る』の引用は後述する名越本よりも日本の侵略性に触れており、その部分においてはフェアであると感じます。それと引用の内容を見ると『ほとけの司令官』の記述内容と細かい語句の言い回しがたまに異なることから原本からの翻訳による両者のブレが伺え、つまりは「友帰り来る」は現実に存在することが類推できます*5。ちなみに国会図書館のレファレンス事例紹介でChaiwat Khamchoo, E. Bruce Reynoldsによる “Thai-Japanese relations in historical perspective”において「友帰り来る」が紹介されているとありますが、こちらは中村明人の『ほとけの司令官』が出典元で、わりとこの現地雑誌フサイアミットについてもよくわからないところがあったりします。
 さて、中村明人の訪タイ記事や『ほとけの司令官』の発売元が日本週報社であることから「十二月八日」の出典が日本週報である可能性はあります。そこで日本週報について国会図書館に現存する340号以降の日本週報を全て当たりましたが「日本というお母さんは~」という文言が書いてある記事は見当たりませんでした。かろうじてタイについて触れた記事と言えば日本週報438号やこの号の記事流用である475号(増刊号)に載っていた中村明人による『「潜行三千里」の大秘密』において敗戦後間もなくのことについて語ってはいるものの件の発言はありません。また『ほとけの司令官』のブックガイドが475号に載っていますがこの紹介についても同様です。田中正明関連でも日本週報社の諸連載及び1958年に『光また還る―アジア独立秘話』を出していますが、連載や書籍内でこの発言については特に扱っておらず発言はありません。雑誌が現存しない号もあるので断定はできませんが、しかし日本週報でタイを取り上げ、件の発言が出た可能性は著しく低いと考えます。
 日本週報社を少し離れて中村明人に絞って考えれば雑誌『丸』の1966年2月号の「あの人はどうしているか」というコーナーにおいて戦後3回ほどタイに訪れていると記述されています。1回目は1955年、2回目、3回目がいつかは不明ですがこの際に記事を持ち帰った可能性はありますが、しかしそれならばそういった情報がどこかに出てもおかしくない。このルートはあり得ても少し考えにくいです。田中正明の方から考えると、その他の雑誌などでの発表はあった可能性は否定できませんが、正直それらをしらみつぶしには不可能に近く、やはり「日本というお母さんは~」の初出は消去法で名越本の可能性が高いと考えざるを得ません。

名越二荒之助の記述の変化とその出典はどこか

 おそらく「日本というお母さんは~」の初出と思われるのが名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』(1968)ですが、この時点では出典そのものはかなりあっさりとした記述となっています。

タイ国記者の「十二月八日」
 大東亜戦争に対して積極的意義を見出す発言は、ウエルズやトインビーのような大歴史学者ばかりではありません。ククリット・プラモードというタイ国の記者は、現地の新聞に、「十二月八日」と題して、もっと端的に、判りやすい評論を発表しております。
(中略。「日本というお母さんは~」の引用)
 この文章を読んだ日本人は、あまりにもよくでき過ぎているので、誰かの創作ではないかと思われましょう。そう思われるのも無理はありません。現代の日本人は、十二月八日を「日本自滅の第一ページを奏でた悪夢の日」とか、「暗い谷間に突入した苦汁の思い出」とか言うてあいが多いのが実情ですから。
 しかし現代の日本人がいかに大東亜戦争を否定しようと、歴史の真相を見る眼は否定することができないのであります。これから歴史が過ぎれば、大東亜戦争の評価はいよいよ定着してくるでありましょう。
 東南アジア諸民族の日本への恨みは、戦後相当に根強いと思われていました。しかしこれは賠償金を取りたいアジアの指導者の演出も手伝っていのであって、市民の声がすべてそうではなかったのです。日本が賠償金を払ってしまえば、やがてそれらの感情的要素は恩讐の彼方に消えてゆきましょう。
(以下略)
1968年 名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』 p61-62

まず『大東亜戦争を見直そう』で明らかにされているのはプラモードという著者、「現地の新聞」という出典、そして「十二月八日」という表題の3つです。そして引用後に「誰かの創作ではないかと思われましょう」という一文を追加してこの文章が創作ではないことに念を押しています。
 次に『戦後教科書の避けてきたもの』(1981)は出典もなく特に新しい記述はないのでスルーして、『世界に開かれた昭和の戦争記念館』第4巻(2000)を見ていきます。この書籍の特徴は初めて中村明人がこの件に関して関わっていると思しき記述が現れるということです。

敗戦で問われた駐屯の真価
「ほとけの司令官」中村明人
 昭和三十年六月九日、タイのドムアン飛行場に降り立った日本人一行は、出迎えた同国顕官をはじめとする群衆から大歓迎をうけた。
 一行とは、その十年前にタイ駐屯軍司令官であった中村明人・元陸軍中将と夫人、元参謀や秘書の旧幕僚五名である。
 タイ国警視庁貴賓として招待された中村元将軍の一行は三週間の滞在中、連日の歓迎攻勢をうけるが、かつての駐屯軍司令官はなぜに、これほどの歓待をもって迎えられたのか。当時、同国の最有力な言論人であったククリット・プラモード(後に首相)は、「友帰り来る」と題して次のように現地の週刊誌で述べている。
 「占領軍の司令官が、彼の軍隊が戦時中占領していた、そして戦い終えて去って行ったところの国民から、赤誠あふるる友情と真心こもる愛情とをもって、かくのごとき盛大な歓迎を受けるのは実に稀なこと、否、人類史上全く前例を見ないことではあるまいか」
2000年『世界に開かれた昭和の戦争記念館』第4巻 p.119

まずこの文章で問題なのは「友帰り来る」からの引用において、日本、というよりも中村明人への好意的部分のみを意図的に取捨選択した引用であると言うことです。そして数ページ後に件の発言の話題へと移り、その時には以下の様な記述をしています。

「身を殺し仁をなした母」とタイ人が感動的な日本評価
 タイ駐屯軍司令官であった中村明人・元中将を、昭和三十年にタイが国賓待遇で招待した時に、「人類史上全く前例を見ないこと」と感動を筆にした同国のオピニオン紙「サイヤム・ラット」主幹であるククリット・プラモードは、当時もう一つ日本人にとって心に銘記すべき一文を同紙に発表している
 「十二月八日」と題された署名記事の十二月八日とは、いうまでもなく大東亜戦争開戦の日である。
(以下略。「日本というお母さんは~」の引用、ククリッドの略歴、兄のセーニーの簡単な説明などを行う)
『世界に開かれた昭和の戦争記念館』第4巻 p.126

つまりはこの名越氏の文章を信じるならば「日本というお母さんは~」の該当部分の発表経緯は以下の様な順序になります。

1)中村明人による訪タイ
2)ククリッド・プラモードが「友帰り来る」という記事を発表
3)同氏が当時(書き方からして同時期)に「十二月八日」の記事を発表

「十二月八日」が「友帰り来る」とほぼ同時期に発表されたならばそれは1955年、12月8日がその題名ならばその近辺の日付に発表された可能性が高いでしょう。しかしその発表時期は不明。名越二荒之助は雑誌名は明かし、その表題「十二月八日」を記述していてもその記事が書かれた日付を書いていません。結局、出典が「いつ」か不明なのです
 そもそも名越二荒之助が広めたといえる「十二月八日」の出典問題として他にも挙げられることが「サイヤム・ラット」が出典だという情報が出るまでの期間の長さです。氏の初出は1968年にもかかわらず雑誌の出典明記は2000年となり、その間32年間もかかったという事です。それまでは「現地の新聞」、「サイヤム・ラット誌の主幹のプラモードが発表」など出典をぼかし続けています。ただしこれは雑誌名が明かされただけマシととらえましょう。
 名越氏本人は最初の引用で「誰かの創作ではないかと思われましょう」と記述していますが、その厳密な出典は不明という不思議な状況になっています。

その他の書籍における引用

 ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』内に収められている座談会形式の記述にて藤田豊はその記事を所持していると明言しています。

藤田 ククリット・プラモートというタイの「サイヤム・ラット」紙の主幹(一九一一年生まれ、一九七三年、首相となる)が「十二月八日」と題して書いたという記事をいまここに持っていますので、読んでみます。もの言わなかったピブンさんの心を代弁しているように思うのです。
(「日本というお母さんんは~」のくだり)
名越 ククリット・プラモードは、やがて弟のセニーも首相になりましたが、タイきっての名家で、昭和五十九年にタイに行った時ぜひ会いたいとお願いしたことがあるんです。あの時は病気で断わられました。しかし、今は健康をとり戻しているそうです。
p.238-239

果たしてここで藤田が持っていた記事なるものがタイ語による原文の記事かどうかは不明です。いや、タイ語の原文記事以外には存在しないとは思いますが。そしてここでも座談会形式の為とはいえその出典はまたまた不明。該当記事の入手に関しては藤田がタイに訪れてその記事を入手した可能性そのものも否定できませんが、しかし対談者として名越がいることから名越から藤田へとその記事が手渡されたと考えるのが適当でしょう。いずれにしてもこの「記事を持っている」発言は重要ではあるものの実在性の証明という意味では弱いと言わざるを得ません。なお、文中に”ピブンさんの心を代弁”とありますが、このピブンとはタイの首相を38年間務め、その後のクーデターで1957年に日本へと亡命した人物です。亡命後にピブンは明治神宮に参拝したと副島廣之『神苑随想』に書かれているとのことですが、つまりは1957年以降。もしもプラモードが”ピブンさんの心を代弁”というならば件の記事は1957年以降となるのが文脈上では正しく、「十二月八日」という記事は1957年以降という可能性も考えられ、『世界に開かれた昭和の戦争記念館』第4巻における”当時もう一つ~”という語句と時系列がぶれています。流石に最低2年以上の違いを「当時」とするのには違和感があります。ただし『アジアに生きる大東亜戦争』自体が1988年に刊行されたことを考えればこの程度の時系列の混乱はあり得ることではあるのでここでは無視します。
 ちなみにこの書籍においてこの節の題は”「身を殺して仁をなした」お母さんの国、日本”なのですが、その前の節の題は”ホトケの中村明人軍司令官”となっています。これは座談会のメンバーに田中正明がいることの影響もあるでしょうが、このタイにおける「日本というお母さんは~」という説話の一つのラインとして「ホトケの中村明人-ククリット・プラモードの紹介-「日本というお母さんは~」」があることがうかがえます。だからなんだ、という話もありますが一つだけ疑問に思えるのはそもそもの話、「日本というお母さんは~」という文言が日本で流布するまでの時間差です。名越氏の書籍からこの文章の発表までの経緯を記し、また冒頭でも流れは記述しましたが、再度紹介するならば以下の様になります。

【「日本というお母さんは~」が日本で流布されるまでの時間】
1955年6月  中村明人による訪タイ
1955年6月? ククリット・プラモードが現地誌に「友帰り来る」を掲載
1955年9月  日本週報に田中正明「日泰親善秘話――浦島太郎になった陸軍中将」掲載
1958年    中村明人『ほとけの司令官――駐タイ回想録』刊行
1968年    名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』で発言が登場

1955年9月時点で田中正明が件の記事に気づいていたならばその時の記事に書かれてはいそうなものの、そうは書かれていません。ただこれは9月という時期を考えれば該当の記事が出ていなかったと考えられるので不自然さはそこまでありません。次に1958年、中村明人が『ほとけの司令官』出版ですが、この時点でこの説話があるならばここで紹介されていてもおかしくはありません。名越の言を信じるならば「友帰り来る」の近い時期に発表しているはず。それを中村が気付かなかった可能性も捨てきれませんが、ただ少なくとも1958年時点の中村明人やその周辺はこの記事には気づいていなかった。そしてそれから10年経って初めて名越二荒之助が「十二月八日」という記事を発見したことになります。これは彼が発見したのか、それとも知人が発見したのか、日本でなのかタイでなのか、そもそもいつ入手したのかは不明です。ただ単純に考えれば該当記事を「発見」するということはタイ国に赴き下手すれば10年以上前のタイ語の新聞紙「サイヤム・ラット」を入手したという事です。当時のタイ国の資料の保存やそれへのアクセスの仕方はわかりませんが、正直素人考えとしては入手難易度が相当に高いと思わざるを得ない。果たして名越二荒之助はどの様にしてこの資料を入手したのか。そもそも名越氏はタイ語読めたのかという初歩的な疑念も。彼の表面上見える経歴はタイとは関係なく、この入手経路が気になります。しかしそれは藪の中。
 次に、レファレンス共同データベースにおいて2018年にこの発言の出典について調べていますがそこには以下の様な質問文が記されています。

大東亜戦争その後 : 世界の遺産』(展転社、2000)のp.126において、タイのククリット・プラモード氏が、オピニオン紙「サイヤム・ラット」に発表した記事が引用されている。(中略)p.199に参考文献一覧があり、おそらくソムバット・プーカーンの『ククリット』(タイ国内出版)という書籍だと推測されるが、正確には不明。

このソムバット・プーカーンの『ククリット』が出典となればよいのですが、問題点としてはこの著書は1998年刊行となり、日本でこの文言が流布されたはるか後の書籍となりこれが出典にはなりえません。この書籍自体に件の文言が記述されている可能性はあり得ますが、日本国内でこれを確認する術はありません。ただしグーグルブックスにおいて書籍内の検索が可能となっており、検証そのものは可能です。そこでもっとも該当発言に引っかかりそうな「ญี่ปุ่น(日本)」と検索してみましたが検索ヒット数は0。また「อาเกโตะ นากามูระ(中村明人)」、「วันที่ 8 ธันวาคม(十二月八日)」は0。「สยามรัฐ(サイヤム・ラット)」で検索すると13件中3件(実質2件)の文章が確認可能ですがOCRと自動翻訳を使用してみると件の発言とは無関係の模様です。そもそも「日本」や「十二月八日」で検索して出てこない以上、この書籍が出典とはなりえないと言っていいでしょう。
 事程左様に結局のところ、出典が分からん状態です。

実際にそのコラムの存在を確認できるのか

■日本で可能な調査
 さて以上みてきたように早川氏の1955年12月8日記事の原典確認でこの件をデマと判断することは可能ではありますが、しかし「12月8日付」の記事にないだけで「十二月八日」という記事名のものはあるという反論は可能です。で、ククリット・プラモードの「サイヤム・ラット」の記事を集めた著作は京都大学東南アジア地域研究研究所図書館に所蔵されていますので、これを片っ端から調べるという手はある。ちょうど時節柄、学外利用者は立ち入り禁止の時期だったので地元の図書館からの相互貸借を利用して京都大学東南アジア地域研究研究所図書館から「สยามรัฐหน้า ๕」を全巻借りてみましたが、第1巻の1発目の日付が仏暦2511年(西暦1968年)から始まっておりどうやらコラムの書籍化は1968年以降のもののみとなり今回の検証には使用できない代物でした。これは京都大学の所蔵の書籍がそれ以前のものを所蔵していないというよりも、タイのインターネット通販などの商品説明*6を読んでも70年代の一時期のコラムが書かれているなどとある様に、書籍化そのものは60年代後半からであり、50年代当時のコラムを書籍化したものはない可能性が高いです。

■タイ国方面からの調査
 次にやった手としてはタイの『サイヤム・ラット』の編集部に問い合わせしてみました。サイヤム・ラットは資本は変わりつつも今現在も存続しており当然ウェブサイトもあります。そしてFBの方にはメールアドレスがあったのでそこから機械翻訳を駆使しながら尋ねてみました。ただし結果としては一度返信は戻ってきて、「それは第二次世界大戦の事ですか、デジタル化してない、上級記者に尋ねてみる、返信は約束できません」という様な内容が来ました。それに対してはもう少し詳細な文脈を添えてこちら側から再度伝えたもののそれ以降の返事は来まずに終了。これに関してはタイ人からしたら日本人から変なメール来たなで終わったのかもしれません。ある意味で当事者と言える団体からの返事がきたらその時点でカタが付いたものの、ただそもそもこんな問いに対して返す義理もないですからしょうがない。
 次にタイ国立図書館に日本にコピーを送ってもらえないかと尋ねたところこちらは返事なし。音信普通だとそもそもちゃんと届いたかさえ不明なところもありますが……。

アメリカ議会図書館による調査
 事程左様にタイ国経由でこの話題を日本から調べるのはいささか難しいようで、なので次に使った手段はアメリカ議会図書館です。こちらにもサイラムヤットは保存されており、そして日本からWEB上で複写が可能の様で以下の様な条件付けで複写申請を行いました。

【議会図書館への複写申請内容】
期間  :1955年6月から12月末まで
複写箇所:5面にあるプラモード氏のコラム

まず「十二月八日」というコラムは存在したとしても果たして何時掲載されたのかが不明です。そこで中村明人が訪タイしたという1955年6月から12月までに掲載されていたと仮定します。これは中村明人訪タイ時に掲載された「友帰り来る」と併せて名越氏が「当時もう一つ日本人にとって心に銘記すべき一文を同紙に発表」ということから上限を1955年6月に、そして「十二月八日」という題名から下限を12月末までに設定した申請です。この申請をしたところ、それなりに長期間且つ日付などが不明瞭な複写申請だった為に議会図書館側から詳細な日付などが欲しいと言われました。そこで返信として「友帰り来る」と「十二月八日」についての記述、時期的に6月、7月に該当コラムがある可能性がある事、そして「十二月八日」については捏造の可能性がある事を伝えて「コラムが該当期間に存在しないことを確認したい」という旨を送って返信してみました。そこからの返事が次の様なものです。

“There is a column in each issue. It is not signed by any author but since Kukrit Pramoj owned and founded the newspaper, it's highly likely that he is authoring the column. For June-July, did not find any column title "friends come home." I did find three columns about Japan though. I've attached them. All three are about Japan and Russia.For December, did not see any column entitled "December 8." I did scan the column which appears in the December 8th issue in case it is useful.The column is appears in every issue and the newspaper is a daily”
 
(自動翻訳)
"各号にコラムがあります。著者の署名はないが、Kukrit Pramojがこの新聞を所有し、創刊したので、彼がコラムを執筆している可能性が高い。6月号から7月号にかけては、「友帰り来る」というタイトルのコラムは見当たらなかった。しかし、日本に関するコラムを3つ見つけた。添付しておく。3つとも日本とロシアに関するものである。12月は、「12月8日」というタイトルのコラムは見当たりませんでした。12月8日号に掲載されたコラムをスキャンしてみたので、参考になればと思います。このコラムは毎号掲載されており、新聞は日刊紙である。

複写申請をしたのになぜかアメリカ議会図書館のリファレンススペシャリストの方が調査結果を教えてくれました。ただ正直かなりありがたく、その調査によれば、

【議会図書館による調査結果】
・サイラムヤットに6月、7月に「友帰り来る」というコラムは存在しない
・該当時期に日本に関するコラム(社説?)は3つ
・上記コラムは日本とロシアに関するもの
・12月に「十二月八日」というタイトルはコラムは存在しない

以上となります。まず副次的にですが「友帰り来る」というコラムが掲載された「フサイアミット」は「サイラムヤット」ではないことがわかります。ここで一つ起こる疑念はククリット・プラモードという人物はサイラムヤットの創刊者であることからフサイアミットという別紙に同時期にコラムを書くのか、というものです。正味な所、違和感はありますが、ではその違和感を発展させて「友帰り来る」までもが捏造、この場合は田中正明による捏造なのかというと田中氏は田中氏で問題のある著者とはいえ、のちの中村明人の著作への転載時と田中正明の記述を比較すると細かいところでの記述の違いがある事や「日本というお母さんは~」に比べれば日本軍批判の箇所がある事から原本がある可能性は伺えます。ただしフサイアミットの存在まで辿るとなると正直日本という場所からはお手上げなところもありますので、ここでは深追いはしません。
 そして6月、7月に掲載された日本に関するコラムですが、いずれも当時の日本とロシア(ソ連)についての外交関連の話であって「十二月八日」とは何ら関係もありません。ちなみにですがこのコラムはサイラムヤットの社説(?)でありプラモードが書いたかどうかは不明です。議会図書館側としてはサイラムヤットの主筆がプラモードであるためにプラモードによるコラムと判断したようです。
 以上がアメリカ議会図書館による調査でありがたい面もかなりありますが正直痛し痒しの部分がそれなりにあります。まずこちらの指定期間に入っていた8~11月についての確認は文面からおそらく行っていない故に調査期間が6、7、12月のみとなっていること*7。またククリット・プラモード氏の「記名」のコラムというよりも無記名のサイラムヤットの社説をプラモードのコラムとして扱っている点です。これについては名越二荒之助が該当コラムを存在するとして、果たして同じような判断をしたかというとそんなことはあり得ずに「ククリット・プラモード」という名前が記名されたコラムを根拠にする可能性が高いと言わざるを得ません。ただしこの調査の過程でおそらくは1955年の6、7、12月の紙面については確認しているものと思われ、該当期間中に「十二月八日」というコラムは存在しないという事は確かと言えましょう

今回の調査で言える事

 以上みてきたように今回の調査においてはククリット・プラモードによる「日本というお母さんは~」が含まれる「十二月八日」というコラムは発見できませんでした。ただしもしも完全にデマと断定するとしたら1955年6月頃から名越二荒之助によるこの文言の初出である1968年頃までの長期間のサイラムヤットの全紙面を見て「該当コラムがない事」を確認しなければ完全なるデマ認定は難しいでしょう。ただ正直そこまでの事をできるかというと日本国内では不可能です。今回の調査ですら日本国内という枠組みでは不可能な域にやや達してい居る状態ですし……。
 さて後に続く人がいるかどうかまでは分かりませんが、次につなげられる点を最後に記しておきます。まずサイラムヤットにおけるククリット・プラモードのコラムについて。国会図書館のレファレンス事例集では60年代末からの氏のコラムについてまとめた書籍「サイラムヤット5」はサイラムヤットの5ページ目にコラムが掲載されていたから「サイラムヤット5」という名称ではなないかとしています。しかし60年代末はともかくとして1955年当時の氏のコラムが掲載されているページは3ページ目と7ページ目です。これはアメリカ議会図書館からの回答をもらった後に改めてタイ国立図書館に問い合わせたところ司書からその様な返事をいただきました。実はアメリカ議会図書館からもらったコピーはすべて3ページ目であるために、この7ページ目にあるという情報はかなり困りもので謎なのですが……、とにもかくにも55年近辺を調べるならば3ページ目と7ページ目です。
 次にククリッド・プラモードのコラムの掲載間隔ですが、毎日掲載されていたかどうかというとそうではない模様です。今回、アメリカ議会図書館からサイラムヤットの4つの紙面コピーを入手しましたが(いずれも3ページ目)、その中で氏のコラムが掲載されていたのは木曜日分の2回だけでした。これについては4枚しか手元に資料がない事、またタイ側からの情報である7ページ目のコラムがどの様なものかが謎な為に断定はできませんが、当時は毎日コラムを掲載していない可能性もあります。
 そして最後に視覚的情報を。以下の画像がサイラムヤットの1955年12月8日付の3ページ目、左側が社説(?)で右側中央からの記述がククリッド・プラモード氏によるコラムです。

タイ国立図書館によるとこれは「北部と北東部の天気」についての話で、早川氏の調査によると「ケップレックパソムノーイ(こつこつと貯める)」という題です。もしもこの当時の調査をするならば上記の箇所と7ページ目を調べるのが良いでしょう。あと付け加えると現在日本で流布されている「十二月八日」が仮に実在したとしても、上記の実際に存在する1955年12月8日のプラモードのコラムを見る限り、文章量にそれなりの違いがある事から恣意的な文章の切り取りが行われている可能性があります。名越二荒之助は「友帰り来る」においても類似の手法をしていますし。まぁ、これは「実在」するとして、ですが。

 長々と書いてきましたが調査は以上で終了です。サイラムヤットを保存している図書館はまだありますのでそっち方面へ尋ねるであるとか、名越二荒之助や藤田豊の親族が記事を持っている可能性はあるのでそちらの方向からのアクセスも考えてましたがこれはかなり難しい。保守論壇の方々、ほんと彼らに問い合わせてその記事を発掘してほしいというお気持ち。あとはタイ語に堪能な方が調べてくれないかなー、とかちょっと思いますが正直なとこ人に頼るにはそれなりの労力が必要にもなり、そんな知人も流石にいないのでこの手も難しい。それはともかくとして正直日本国内で個人でできる調査の限界を超え始めてきたのでこれにて終了です。ただこれだけ調べてもその使用頻度に比べてその情報は酷く胡乱であり信用がおけません。「友帰り来る」とのトーンの違い、実在するコラムとの文章量の違い、何よりも結局明かされなかった出典。ただし現段階でデマと断定までは出来ない。しかし。
 「日本というお母さんは~」は名越二荒之助の捏造ではないか。



■お布施用ページ

note.com

※上記アマゾンリンクにあるプラモード氏の著作に日本に関する記述はほぼありません。

*1:wikipedeiaなどでは「プラモート、プラーモート」などの記述がありますが今回扱う書籍などでは「プラモード」と表記されていることからプラモードで統一。

*2:その1(2004/11/10)その2(2004/12/6)

*3:田中正明の記事では6月8日に立川の飛行場を出たと記述。名越は6月9日に到着と記載。何時に出発したかまでは不明であり、到着が8日なのか9日なのかが不明。

*4:出典として名越本を挙げており土生の独自調査ではない

*5:ただし『ほとけの司令官』と田中正明『浦島太郎になった陸軍中将』では駐日タイ国大使からの書簡では記述内容に次のような差異があります。以下、引用。
『ほとけの司令官』p12
(大使館よりの書簡)"このたび当大使館において、昭和三十年五月十六日附警視総監より警視庁においては貴下並びに左の人々を、本年六月初旬、警視庁貴賓としてタイ国にご招待いたしたい旨の書翰に接しました。
(中略・招待人物名を記述)
依って警視庁は、右招待の旨、貴下および右の人々に伝えられよう私に依頼がありました。
 なお、航空券は警視庁より東京のPAA代表を通じ、貴下に直接託するとのことです。よって御通知いたしますと同時に、貴下御一行がこれを受諾し、バンコックに向い、いつ出発せられるか、事前にご連絡させたくお願いいたします。
大使 ルアンピニット・アクソン"
日本週報340号『浦島太郎になった陸軍中将』p.34
(大使館からタイ国警察相関バオ大将からの正式招待状)"戦時中タイ国の治安を維持し、タイを戦火から救ったのみか、貴下のひきいる人道的にして、かつ厳正なる軍隊によって、よくタイ国民生(ママ)を保全してくださったことは、タイ国民の修正忘れ得ぬところである。ことに本職としては、終戦時のあの混乱時において、日本軍が進駐のイギリス軍に敵産として引き渡した武器弾薬が、その後タイ国の監理に移ったのちも、これを完全守備し、しかも常に適切なる助言をお与えくださったことは、今なお感激を新たにするところである。ついでは親しくその御礼を申しあげたく、閣下御夫妻ならびに当時の主任参謀、経理部長など関係者をタイ国の賓客としてお迎え申し上げたい"
以上の差異が発生した原因は不明です。「大使館」の書簡、大使館経由での「バオ大将からの招待状」の二つがあり、それを各々が紹介したとも取れますが中村が後者を無視する意味は薄い。田中正明には松井石根の加筆修正問題がある為に正直信頼性が劣るのですが……。真相は不明。

*6:図書館で借りた書籍とタイのインターネット通販で売られている書籍には全く異なる表紙のものが存在しており、プラモードのコラム「サイラムヤット5」は複数回の書籍化がなされていることが伺えます。

*7:追加で調査したのは6、7、12月だけかと尋ねたところ詳しくは議会図書館のアジア系の図書を扱った司書の部署に聞いてくれとだけ返されました……。調査について聞いただけなのに。

レジ袋有料化の効果のデータについて


https://twitter.com/orgmrm/status/1523801437993836544

 レジ袋有料化ネタのツイートは定期的にバズる傾向があるのでこのブログでも幾度か記事にしていますが、今回もまたデータやそれに伴う話を書いていきます。本題に入る前に少しふれときますが「データないとは言わせんで」と言ってて、むしろデータがないとネタでなく思ってたらやばいなって感じがします。それと「レジ袋有料化でどれくらいプラ減りましたか」と書いてあることから、論理の逃げ場としては「プラごみが全体でどれくらい減ったか」を言いたかった、要はレジ袋なんて全体からすれば大した事ない数字だ、と言いたいとも取れますがレジ袋有料化で減るのはレジ袋なのでレジ袋の話のみに限ります。といいつつ、一般社団法人プラスチック循環利用教会のデータだけは貼っておきます。

2019年 850万トン(一般廃棄:412、産業廃棄:438)
2020年 822万トン(一般廃棄:410、産業廃棄:413)*1

レジ袋有料化で28万トン減りました、というのは因果関係を無視した冗談にしろコロナ禍の影響などもあってか特に産業系廃棄が減り2020年は廃プラ総排出量は減少しています。ただこの減少分は2021年には戻ってしまう気もしますが。

レジ袋の辞退率や削減についてのデータ

 レジ袋有料化に伴うデータは種々出ているのでここではその一部を列挙していきます。  


日本フランチャイズチェーン協会
レジ袋辞退率進捗状況
レジ袋有料化前(2020年3月~6月) 28.3%
レジ袋有料化後(2020年7月~2021年2月) 74.6%

日本チェーンストア協会
レジ袋辞退率の推移

環境省

日本ポリオレフィンフィルム工業組合


 これらのデータを見ていくと、まずレジ袋の辞退率は7割以上と考えられます。環境省がまとめたデータからもレジ袋の使用枚数や国内流通量は激減レベルと言っていいでしょう。また日本ポリオレフィンフィルム工業組合によれば「レジ袋」の削減率は以下の様になります。

【レジ袋の年別出荷状況】
2019年 77,543トン
2020年 49,863トン
2021年 34,108トン

有料化前後の2019年から2020年にかけてレジ袋の出荷が大幅に減少したことが伺え、2021年でもその減少トレンドは変わりません。またゴミ袋などの推移の変化の乏しさ、ポリ袋の輸入量減少を見るとレジ袋の代わりに代替としての袋を買っていたとしてもレジ袋減少分をチャラにするほどの購入量は存在しないことが伺えます。
 つまりはレジ袋有料化によってレジ袋の流通は大幅に減少した、というのが結論です。

万引きの増減について

 レジ袋有料化後に万引きが増加したスーパーがネット記事に出たことがある事やエコバックによる万引き抑止策などを各店舗が行ったことによりレジ袋有料化後に万引きが増えたという認識が生まれていますが、こちらに関してもデータを見ていきます。
 まず初めに当事者ともいえるスーパーマーケット協会は2020年11月20日に協会会員300社の協力で得た調査で以下の様に記述しています。

レジ袋有料化義務化以降、マイバッグの使用は増えている。
マイバッグの普及による万きの動向については、「わからない」が最も多い43%であり、万引きや盗難被害の実態についても「ほとんど把握できていない」が3分の2を占めたことからも分かるように、被害状況を正確に把握できていないのが実状である。
レジ袋有料化義務化によるスーパーマーケットへの影響 実態調査

上記の調査は正確に把握できないのが実情とは言っているものの、「増えた」とも答えている部分が約3割あることからこの調査のみでは万引きは増えたと考えられなくもありません。しかしこの調査は「正確に把握」が0%であり、「おおよそで把握」が34%、「ほとんど把握できていない」が66%と考えると印象論での把握の可能性もぬぐえずに、やはり業界全体を考えるならば正確な把握ができていないが実情と言えるでしょう。
 では警察庁の把握している数字はどうか。犯罪統計をもとにして2018年~2021年、ついでに2021年1~3月と2022年1~3月の万引きの認知件数、検挙件数、検挙人員を表にすると以下の様になります。

上記を見れば一目瞭然ですが、万引きの認知件数は常に減少傾向となっています。このことから「全体」を通じてみれば万引きが増加したという事実はありません。万引きが増えたというネット記事などがあることから個別店舗で増加した店舗がある事を否定はしませんが、全体を鑑みれば「レジ袋有料化によって万引きが増加した」は一般化することは些か難しいと言うしかありません。

レジ袋は焼却時の補助燃料となる説

 レジ袋有料化時の反対論の中にゴミ焼却時にレジ袋は燃料になるのにそれがなくなるとその分の重油を使わなくてはいけない為に逆にエコではない、という話が流布しました。以下の様に。


https://twitter.com/pixie10ole/status/1268329601098346498


https://twitter.com/ExcellencyRozen/status/1268424244314009600


https://twitter.com/kAssy0121/status/1336991247827750912

今現在確認できる当時バズったツイートはここら辺で、これらを含めて当時ソースとして使用されていたのが以下の二つだと考えられます。

自治体によってはサーマルリサイクルし、ごみ焼却燃料になり、重油燃料の使用量がその分減少し、無駄とならない。総二酸化炭素排出量は、サーマルリサイクルしても、そうしない場合と大差ない。
清水化学工業「脱プラ、脱ポリ、紙袋へ 切り替えをご検討のお客様へ

 

プラスチック製の袋は、薄くて発熱量が高く、エネルギー回収も効率的に行うことができる。実はプラスチックは焼却炉の餌になるのである。生ゴミだけ燃やすには、余計に原油が必要となり、逆に資源のムダ使いになるのである。
第6回高校生地球環境論文賞の入賞作品
受賞論文【優秀賞】「レジ袋削減は本当に必要か」

確かにレジ袋というか、プラごみが燃料となるというのはそうではあるのでその部分については特に異論はありません。ただ、この話が流布の過程でかなり過大に評価されているきらいがあります。例示すれば以下の様に*2


https://twitter.com/kAssy0121/status/1445233481269743620


https://twitter.com/ifeelin7/status/1369258538007031810


https://twitter.com/8000000_392/status/1276385976504348672

つまりはレジ袋有料化によって焼却炉の燃料が足りずに有料化後に余計な燃料が使用されている、という考えです。ちなみにこの論理に近しいものは2022年4月6日参議院決算委員会で自民党小野田紀美が次のような形で使用しています。

ごみ焼却場でごみを燃やす時にプラスチックごみがあるとええように燃えるんですよ。熱をちゃんと出していけるんです。ある程度高熱でごみを焼かないとダイオキシンの問題もあるので、その焼却炉してカロリー欲しいんですね。プラスチックごみが減ったことによってカロリーが減ってしまって結局高熱出せなくなったから重油買ってきて燃やします、ってならそれまた本末転倒じゃないかって(以下略)

ここではレジ袋ではなくプラスチックごみというくくりで言っていますが、論理そのものは同様です。なおこの質疑に関して今現在普及している焼却量では重油などによる助熱は必要はなく、ただし地方の小規模なクリーンセンターでは実情を伺って必要な検証を行っていきたいという答えをしています。つまりはこのレジ袋減少による補助燃料としての重油追加説は基本的にはその指摘は真の意味で当たらず、小規模な自治体に限ってその実態が不明というものになるかと考えます。
 さて、では実際にこの補助燃料についてデータ上はどうかというとのをいくつかのデータから見ていきます。まずは東京二十三区清掃一部事務組合のデータから。まず該当組合のデータを見るとそもそも補助燃料として重油を使っていません


出典:平成23年 清掃工場など作業年報

このように2002年度を最後に重油を燃料としては使っておらず、使用しているの都市ガスとなります。その都市ガスの使用量も2020年には減少しています。


出典:令和2年度 清掃工場など作業年報

どうも調べていくと現在の焼却炉は形式によりますが補助燃料としての重油を使用しなくても大丈夫なものが多くあります。例えば横浜市の金沢工場では重油だけではなくガスも使用しないと記述されています。

例えば、「生ごみばかりだと水分が多くて、そのままだと燃えないため、重油などをかけて無理やり燃やしている」「燃やすごみの中にプラスチック類が混じっていた方がよく燃えるため、燃やすごみの中に適当に混ぜて出したほうがよい」などです。皆さんの中にも、似たような話を聞いたことがある方がいるのではないでしょうか。
 これらの話は完全な誤解と言ってよいでしょう。(略)現在の焼却工場は、焼却炉の 内部が非常に高温のため、運転中は重油やガスなどの燃料を使わなくても生ごみは乾燥し、自然発火して燃えてしまいます。
recycle design no.258

日本の焼却炉の約7割を占めるストーカ式*3の特徴としては資料などを見ると他の方式よりも化石燃料の使用量は少ないものです*4。それと岩手や島根で清掃処理業務を受注してる会社の資料を読む限りは2019年度から2020年度にかけて重油の使用量は減少しており、ある程度の規模の自治体の場合は重油の使用量が増加したという事はないように見受けられます*5
 そもそもレジ袋のゴミに占める割合は廃プラスチックの2%程度とされており*6、これを2019年に当てはめると850万トンの2%で17万トン、それを日ごとに割り、各自治体ごとに割っていけば1回あたりの焼却時のレジ袋はかなり少ない量と推測でき、果たしてその量が減少したところで補助燃料が必要なほどにレジ袋が減少したかどうかは疑問な所です。思えばその削減量の少なさから有料化政策に「効果が薄い」という反論もあるわけで。なんにせよ、小規模な自治体まではその実態は不明ですが、この「レジ袋有料化によって重油使用量が増えた」系の話はかなり眉唾なものだと考えます。

 レジ袋有料化批判ツイートは定期的にバズる印象ですが、とはいえ有料化からもうすぐ2年。流石にいつまでもこのネタで引っ張れるとは思えないのでこのネタもあともっても数年でしょうかね。

*1:おそらく四捨五入をしているため合計値にズレが生じている

*2:一つ愚痴ると、レジ袋が減ったから重油使用料が増えた的な返事をツイッターの方でもらいました。

*3:出典: http://www.env.go.jp/recycle/waste_tech/ippan/r2/data/disposal.pdf

*4:出典:https://www.city.itoigawa.lg.jp/secure/10947/03-03.pdf

*5:岩手第2クリーンセンターアースサポート株式会社を参照。なおこれらの企業の場合、重油使用量が焼却炉に限定して記述しているかまでは不明

*6:出典:https://www.soumu.go.jp/kouchoi/substance/chosei/rejibukuro.html#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8B%E3%82%89%E6%AF%8E%E5%B9%B4%E6%8E%92%E5%87%BA%E3%81%95%E3%82%8C,%E3%81%B0%E3%81%94%E3%81%8F%E5%83%85%E3%81%8B%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

体育座りGHQ起源説について

 ”「体育座り」は悪影響が多い? 生徒から廃止求める意見、改めた学校も”という記事を受けて体育座りは戦後にGHQが日本人弱体化計画で導入したという話、言うなれば「体育座りGHQ起源説」の様なものがツイッターで流れてきたので、これを信じる輩はそこまではいないものの、しかしどうやら下記の様にグーグルのトレントを見てみると2020年近辺から「GHQ 体育座り」での検索数が増えているのでこの話が生まれた流れなどをメモ代わりに置いておきます。

 それと本題に入る前に一応書いておきますが、そもそも体育座りの起源は上記記事にある様に1965年の学習指導要領によって浸透したというのがおそらく定説であり、GHQは関係ないです。

島根大大学院教育学研究科の久保研二准教授(39)=体育科教育学=によると、1965年に文部省(当時)が、学習指導要領の解説書として発行した「集団行動指導の手引き」で、「腰をおろして休む姿勢」として写真付きで示されてから広まった。省スペースで手遊びがしにくく「行儀よい姿勢」という印象が浸透したという。

「体育座り=囚人座り」という認識(~2014年)

 まずこの体育座りのGHQ起源論の中にはいくつか特徴的な言葉遣いがあり、そのうちの一つが「体育座りは囚人座り」だというものです。例えば以下の様な。

上記は2021年10月21日に投稿された都市伝説紹介系youtuberによる「学校は洗脳教育のための場所だった。体育座りが使われ続ける理由がヤバい【 都市伝説 洗脳 アメリカ GHQ 】」のなかのワンシーンですが、ここで「大昔から「囚人座り」と言われており…」という記述がなされています。なおサムネイルも体育座りですが動画内でこれについて語っている時間はほんの数秒だけです。しかし再生数は27万回を超えて影響力は無視できません。

 ではこの「囚人座り」が大昔から使われていたかというと別にそうではなく、少なくとも日本のネット圏内で現在確認できる一番古い使用例は2010年10月の川邉研次氏のツイートです。

川邉氏はこれを含めて3回類似のツイートをしており、その後に別アカウントも数度「囚人座り」を含めたツイートをしていますが、そこまでの膾炙は見られません。しかし2012年2月4日、川邉氏はツイッターではなく今度はフェイスブックで類似のツイートをしています。


https://www.facebook.com/miraidentalspace/posts/336172626422464

そしてこの二日後の2012年2月6日にはさらに詳しく書いて、尚且つ画像も添付されています。


https://www.facebook.com/photo?fbid=337739122932481&set=a.212683462104715

体育座りは、日本だけの最も悪い姿勢。囚人ずわりとも言われる体育座り。こんな姿勢は、私のごともの頃でも小学校後半になってから始まった。ナチス・ドイツユダヤを平定するときに、行動が一歩遅れることを想定して創り上げたと言われる。

以上の様に「囚人座り」という名前だけではなく画像付きでどの様に悪いかを書くことによって説得力を増させています。ちなみにこの画像はその後に流布する話の中でたまに使用されることあるもので、さらにここではナチス・ドイツという単語も出てきますが、これもGHQ起源説の際につくことがある単語です。これらを考えると川邉研次氏のこれらの投稿が今の体育座りGHQ起源説の一つの原形を作ったと考えられます。なお川邉氏は2012年から今現在(2022年)までに体育座り関係の投稿をフェイスブックで30回以上はしていますが、ただ一つだけ留意する点としては、川邉氏は「体育座りGHQ起源説」は唱えていないという事です。今年3月に「実は体によくない!? 「体育座り」が教育現場に定着したワケ/毎日雑学」という記事をリンクに貼りながら「【体育座りはいつから 1965年から】」という投稿をしていますし、その領域には足を踏み入れてはなさそうです。
 そしてこの川邉氏の投稿の2年後に時間差でこの投稿を受けたブログ記事がほんの少しだけ書かれます。それが以下の二つ。

2014-4-12「姿勢!!! それ、囚人すわりじゃない?!
2014-6-12「体育座りが囚人座りと言われる理由
※ちなみにツイッターでも4月11日にやや拡散された囚人座りツイート有り

以上の他にも削除済みのブログも当時のツイートから確認でき*1、ここで「体育座り=囚人座り」の認知度が上がったことが認識できます。なお、これらのブログはいずれも川邉氏が作成したであろう画像を使用しており、ネタ元が川邉氏であることは明らかです。それと川邉氏は歯科医でして、上記ブログのうち6月の方のブログも歯科医、フェイスブックで反応している方にも歯科医が確認でき、「医者」という権威ももしかしたらここら辺の流布に関係している可能性はあります。ただし、まだこの時点ではGHQ起源説は登場していません。
 なお囚人座りとは別に「奴隷座り」というバージョンも存在しています。GHQ関連ではありませんがこの呼び名で2019年にバズったツイートは存在しており、囚人座りよりも膾炙している感もあります。


https://twitter.com/zapa/status/1092054854271303680

この奴隷座りの囚人座りと比べるとその出所は分かりませんが現在確認できるのは2011年のツイート。ただこの奴隷座りの膾炙自体は後々のブログなどで囚人の絵は使用されずに奴隷の絵が使用されることによって広まっていったものと考えられます。さて、では説そのものの出所はどこか。

体育座り=GHQ起源説の「完成」(2015年)

 GHQ起源説の出所を探っていったところ、まず2013年にそれに近い事をツイートしているアカウントは存在します。


https://twitter.com/Pharma_yoshi/status/338716951297798144

文面からGHQ起源説に近しい内容なのですが如何せんこのアカウントが何を根拠にしてツイートしているのかが不明であり、またこの周辺期に限って検索しても類似のツイートは存在しません。正直なところ検証する側にとってはかなり困るツイートで、そして究明も出来ないツイートの為にここでは例外として無視します。しかしこのツイートから2013年頃にはこのGHQ起源説が現在は削除されたであろうHPやブログか何かで生まれていた可能性があります。ただし現状から考えるとその後にそれから派生したツイートやブログがない事からかなり限定的であったと言えます。あと付け加えるならこのアカウントはこの直前に「体育座りが好き」とツイートしており、「囚人座り」的価値観とは別個のものであることが分かります。
 上記を例外にして現在確認できるGHQ起源説の本格的な登場が2015年です。それが確認できるのが2015年1月22日にyoutubeにアップロードされた「脳と心と体の専門家:田仲真治のブレイン・アップデートTV」の「歯と全身と生き方・奴隷座り」における以下の場所です。

田中氏は一般社団法人国際ブレインアップデート協会会長という方であり、この方自身が出所なのか、はたまた違う人間がソースなのかまでは不明ですが、ここで紹介されている文言は今流布されているGHQ起源説の論調とほぼ同一ものであり、この時期にGHQ起源説が「完成」していたことが分かります。また氏は「GHQ」、というよりも戦後の在り方に疑問を持つ思想と見受けられることから何らかの「アレンジ」をした可能性は考えられなくもありません。それとここの文言で「囚人座り」との融合が見られますが、この動画には春藤歯科医院の院長との対談であることから川邉氏など歯科医つながりで「囚人座り」との融合が発生した可能性もうかがえます。ただGHQ起源説が完成はしたものの、この説自体はこの時期には広まらずにある程度時間差を要しています。
 さて2015年初頭にGHQ起源説は完成していたことが確認できたものの他に出所はあるものかと探っていくと、2015年4月15日の雷人という方によるブログ記事「体育座りとスマホは鬱になる洗脳!?」において以下の様な文面があります。

確か心理カウンセラーの高石さんから聞いたんだと思うんだけど、「体育座りは、戦後GHQが日本人を鬱にするために学校でやらせてる」という話がある。

この話が本当ならば出所はこの「高石さん」となります。では心理カウンセラーの高石とは誰か。それは高石宏輔氏です。現在はHPが削除されていますが、インターネットアーカイブで確認する限りそのプロフィールはカウンセラーであると共にナンパ師であり、催眠術なども使うと自ら語る人物であり、宮台真司氏とイベントに出たり共著があったり、数冊の書籍なども出したことのある知名度がありそうな人物です。そして氏のHPには以下の様な記述があります。

いわゆる体育座りは、戦後の国家が子供たちを管理しやすくする為に教育に取り込まれた座り方です。自分自身の手で自分を縛り付け、浅い呼吸を繰り返すことになります。不自然な座り方が教育の中で自然な座り方になっていきます。牢獄を無自覚に作ることで、自分の感情が分かり辛くなり、感情 表現の乏しい状態が生み出されます。子供の頃の習慣の影響で、大人になっても残っていきます。

ここでは「戦後」と書いておりGHQとまでは書いていません。また確認できる氏のHPを漁る限りはGHQがという話はされていません。なので果たして高石氏が実際にGHQ起源説を書いたのか、それとも雷人氏が勘違いしたのかまでは分かりません。ただしこの「戦後」は「GHQ」との近さを持つであろう性質で、これの拡大解釈でGHQが付加された可能性が指摘できます。
 結局のところ誰がソースかまでは不明なものの、この時期から徐々にGHQ起源説が流布し始め、まずそれが確認できるのが2015年の5chでの以下の書き込み

578 :名無しの心子知らず@無断転載禁止:2015/12/04(金) 19:39:30.62 ID:2vDpm2Pm
体育座りは奴隷の座り方。
これを持ち込んで我々に強いたのはGHQ
この体育座りをしている人に触られただけで力が入らなくなってしまう。
 
こんなんシェアされた

以下の様なものです。ちなみにこの文の元ネタはフェイスブックであり、投稿はこちらです。ここからも「何を」根拠にしてGHQ起源説を唱えているかまでは不明ですが、これ以降は説の拡散行動が見受けられるようになっていきます。

GHQ起源説の拡散時期(2016年~)

 田中氏の時点で「思想」は十分にありましたが、2016年6月28日に「ゆるむ@ ゆるんで・今を楽しく・次の今も楽しく(#^^#)」というブログでも「何気にやってる「体育座り」の本当の意味ってなんですか?」で明確な「思想」を伴った記事が出現します。

囚人座り
この姿勢はナチス・ドイツが開発したと言われていて、日本では戦後GHQによって、学校教育に取り入れられた座り方です。(略)まさに『手も足も出せない』状態であり、体を使った洗脳政策のひとつです。海外ではこの姿勢はないようです。マーメイド座りか、手を後ろに置いて体を支える座り方です。

このブログ記事はその後にるいネットに転載されており、それを媒介してツイッター内でも多少の拡散が見られます。
 2017年には陰謀論好みの保守層の中に話題を拡散する行動に出たと思われるのが確認できます。例えば「国家非常事態対策委員会」というアカウントがyoutubeにおいて2017年7月6日に「GHQによる日本衰退戦略 「体育座りの健康への悪影響」、「水道水に含まれる塩素」、「輸血にまつわる陰謀」【ネット TV ニュース.報道】」という動画をアップロードしています。これは現在youtubeでは削除されていますがニコニコ動画では現存しておりますが、聞く限りは今までの説のトレースです。そしてツイッターでは2017年7月のブログ記事「「体育すわり」は日本人を骨抜きにする戦後GHQ戦略」が若干の拡散が見られ、「奴隷」との関連付けをするための以下の画像も使用されるようになったことが確認できます。

なおこの2017年のブログは随所の記述を見る限りは2016年の「「体育すわり」は日本人を骨抜きにする奴○と囚人の座り方」と類似性は高くパクリ記事っぽい*2
 そして2019年12月3日、おそらくこの「体育座りGHQ起源説」に決定的な影響を与えた動画あります。それがyoutubeの「自己肯定感アニキ 津田 絋彰〔つだ ひろあき〕」チャンネルにおける「【衝撃】GHQが日本に導入した体育座り。身体への影響とは」です。

www.youtube.com

この動画の再生回数は70万回にも及び、無視できる再生回数ではありません。発端ともいえる田中氏の動画が1万回であることから影響力の差も段違いと考えていいでしょう*3。グーグルトレンドにある検索推移とも符合する時期と言えるだけにこの動画が今の説に影響を与えたと考えてもそうは誤りはないと考えます。ちなみにこの動画の津田氏はブログなどを見る限りは保守層で違いはありません。そしてこの動画の後にツイッター内でもつぶやきが増加が確認でき、中には以下の様なGHQ起源説を定期的につぶやくアカウントまで登場。


参照リンク

またyoutubeでは2020年3月25日に「ウマヅラビデオ」がアップロードした「学校で植え付けられた洗脳【都市伝説】」が津田氏の再生数を上回り100万回再生を超えているのも確認できます。

www.youtube.com

冒頭で紹介したyoutube動画も含めて、都市伝説の「ネタ」として流布されそれが拡散に大きく寄与している事が伺えます。またこれらに比べれば微々たるものですが、ブログ記事などでもちらほらと出てくるような状態になっています。実際、かなり馬鹿げた話なので信じる人間は少ないでしょうが、それでもそれなりの数が信じているのもまた事実な案件になってしまっています。

 以上の様にこの「体育座りGHQ起源説」の初発自体は不明で明確にわかるのは2015年。実際には2013年ごろにはおそらく存在したと考えられます。この発端には体育座り自体が身体に良くないという前提があり、それを危惧した歯科医が「囚人座り」という言葉を流布し始め、それとは別個として存在した「戦後に生まれた体育座り」の「戦後」というキーワードが「GHQ」と結びつき、そしてさらにそれらが結びついた結果としてGHQ起源説が生まれたと推測できます。そしてそれはまずブログでの記述や陰謀論と近しい保守層の中にその言説を利用した人間が出始めましたが、当初はほそぼそとしたものでした。ただそれが徐々に膾炙し始め、それを信じたのか、若しくはウケると信じて流すyoutuberによって拡散されて一部で定着したという流れであるかなと。息の長く、時には一部をくすぐる「日本人弱体化計画」の様なものが付きながらの伝言ゲームによって生まれたのだと考えますが、それはそれとして体育座りを日本人弱体化計画でGHQ云々は信じる必要もない戯言に過ぎない。



■お布施用ページ

note.com

*1:https://twitter.com/azumask/status/456320912820682752

*2:そして2016年の方はツイーターを見る限りはあまり拡散していない

*3:一応、津田氏の動画の前にも類似の動画がありますが、再生数的に言えばこの津田氏の動画の影響力がかなり大きいと考えられる。

東日本大震災時に安倍晋三がトラックで被災地に救援物資を運んだという話について

 東日本大震災時に安倍晋三氏がトラックで被災地に救援物資を運んだという話について、これ自体は事実なんですが、中には部分的に間違っている情報があり、また一方ではこの件がまとまった情報が特にないという情報で、だのに定期的にツイッターなどで話題に上がる案件なのでここに忘備録として記録しておきます。

安倍晋三が支援物資をもって訪れた被災地とその日付

 まず現在は消去されていますが当時の安倍晋三公式HPをインターネットアーカイブで参照すると以下の日付に支援物資をトラックで被災地に運んでいる事が分かります。


福島県
訪問日付 :2011年3月26日土曜日
訪れた場所:相馬市、南相馬市、新地町、福島市

なおこの訪問については世耕ブログ亀岡偉民の当時を振り返っているブログにも詳しくあり、それによると詳細は以下の様なもの。

・トラックは2台(10トントラックと4トントラック*1
 4トントラックに安倍&世耕が乗る
 トラックには運転スタッフ有
・支援物資は安倍事務所と世耕事務所が企業等に依頼して集めた物や下関での義援金で購入した物
南相馬市(14時半ごろ) → 相馬市 → 新地町 → 福島市の避難所に訪問
・最後に亀岡氏の事務所に行って終了
ツイッターには一万組の男女下着を持参との情報もあるが真偽不明

ちなみに篠原直秀氏の「東日本大震災 中期ボランティア報告書 その2」には南相馬市での原町第一小学校における目撃談が以下のように語られています。

安倍晋三元首相来所
14 時半頃、ふと気付くと自民党安倍晋三元首相らがぞろぞろと大名行列でやってきて、カップ麺配布場所に行き、笑顔で配布側に回って配布を始め、来た人と握手したり写真に撮られたりしていた。5 分程してからふと顔をあげて見てみると、もう手渡しを止めて、避難所になっている体育館に入って行くところだった。後から聞いた話では、体育館の中で被災者と一緒に炊き出しのおにぎりを食べて話を聞いていたらしい。しばらくして出てきた、安倍元首相は、配布作業がかなり落ち着いてきていた私の所に来て、頑張りましょうと握手をして去って行った。市長もパッと来て何もせずパフォーマンスだけしてパッと帰って行ってしまうことに不満を漏らしていたが、私もこちらはこれだけ頑張っているのに、ただのパフォーマンスかよと、少しムカつきを隠せなかった。ただ、有名人は、ただ来て顔を見せるだけで被災者を元気づけることができるかもしれないし、できる限り多くの場所を回って元気を配ることができるのかもしれない、それぞれの人で最も効果的に被災地を支える術があるのかもしれない、と考えることもできるかとも思った。私が、最も自分の能力を生かして効率的に被災者のためにできるものは何だろうか、と改めて考え直させられる瞬間でもあった。

パフォーマンスだという手厳しい部分があるものの立場ある人間が訪れる意味についても書いています。滞在の長さについては14時から各市内を回ることを考えればそのような短さになるのも仕方ないものとも考えられます。

宮城県
訪問日付 :2011年4月8日金曜日
訪れた場所:仙台市亘理町・山元町

こちらの宮城県の訪問については公式HP以外の情報が少なく、当時のツイートで参考になりそうなものも以下くらいのもの。


https://twitter.com/akibakenya/status/55949141880221696

これらの情報を統合すると「トラックは2台(少なくとも1台は4トントラック。書き方からおそらくは2台とも4トンと思われる)、訪れた避難所は8か所、この他に分ることは下関の運送会社エンデバーがトラックを用意、同行者の議員がいたかなどは分かりません。


以上の2つが安倍晋三が支援物資をもって被災地に訪れた事例です。なお安倍晋三公式HPの4月30日には29日に宮城を訪れたとありますがこちらは視察の為であり支援物資を運んだとは書いていないことから数には入れていません。

事実誤認な箇所

 この話が拡散していく中で幾つか事実誤認な箇所があるのでそれをここで指摘しておきます。

安倍晋三本人がトラックを運転した

https://twitter.com/kamedazo2012/status/259159313862512640


https://twitter.com/murrhauser/status/1171703132008484865

 まず世耕ブログにもある様に運転スタッフがおり、また別のソースとしては谷口智彦『誰も書かなかった安倍晋三』にて以下の様な記述があります。

東日本大震災が発生し、津波が起きて10日経つか経たないかというとき、安倍総理は盟友・世耕弘成さん(現経済産業大臣)と申し合わせて、2人でトラックの狭い助手席に乗り込み、 被災地に救援物資を届けていますから*2

どちらの情報を信じるかと言えば当事者の世耕ブログの方を信じるべきであり、このことから安倍晋三本人はトラックは運転していないと考えるべきです。なのでこの部分は明確に誤りと考えられます。亀岡氏が何故安倍晋三自ら運転していると言っているかはよく分かりませんし、安倍晋三免許を更新したという記事もある事から少なくとも普通運転免許までは取得している事は分かり、それは時期的に4トントラックも運転可能な免許でしょうが、それはともかく運転スタッフがいるって明記されてますから運転スタッフはいたでしょう。

■トラックを何十台も連ねて

https://twitter.com/mpipanda/status/311641604819668992

 #kokkaiタグがある事からこれは国会中継中のものであると判断できます。では、国会会議録ではというと以下の様なもの。

西村明宏「総理、震災後に早速に被災地の方に足を運んでいただきました。総理から、当時はまだ総理ではございませんでしたけれども、その後にいろいろな物資を運んでいただきました。十トン車を何台も連ねておいでいただいた。そして、防災服に身を包んで一緒に段ボールを運んでいる姿を通りかかった皆さんが見て、びっくりしていたのを思い出します。  食べ物がようやく届き、そして、着がえをしたい、下着が欲しい、そんな話のときに、暖かい下着が届きました。安倍総理から届いた下着で、いやあ、あったけえなと言っていたおじいちゃんやおばあちゃんの顔を思い出します。」
第183回国会 衆議院 予算委員会 第13号 平成25年3月13日

この部分は国会中継ツイートが意訳したのか、それとも会議録にするうえで修正したのか不明ですが、それはともかく「何十台」というのは誤りですし、少なくとも1台は4トン車であることから「10トン車を何台も連ねて」は誤りと言えます。

数年前からこの話が膾炙し始めている

 この安倍晋三が被災地に行って支援物資をトラックで運んだ話は昔より今の方が聞くようになったなというのが体感で、時間差を感じます。まず当時から世耕ブログをソースにしたツイートでRT100超えツイートはいくつかありますがそこまでの数はなく4桁超えはありませんでした。その後に2012年10月3日に以下のツイートが存在します。


https://twitter.com/morimasakosangi/status/253495638606630912

これが現在確認できる初めての4桁越えたもののその後にまたこの話は鳴りを潜めます。そしてここから6年後の2018年8月の下記ツイートによって認知が一気に広まったと考えられます。


https://twitter.com/wadamasamune/status/1050028456430329856

これが恐らく決定的な拡散要因となり、その後2019年3月11日に政治知新によって「東日本大震災時、たった三人で被災地救援に向かった安倍総理」という記事が書かれてまた拡散します。題名の「たった三人」に運転スタッフが入ってないのは置いといて*3、現在この記事は原因不明ですが政治知新HPからは削除、政治知新アカウントのツイートも存在しないわけですが記事のURLを貼ってRTが1000を超えるツイートも確認できます。その後もいくつかの4桁越えのツイートが見られ、今後ももしかしたら同様のツイートで4桁越えがあってもおかしくはないかなと。

和田政宗氏の写真の場所はどこ

 なんだか過去にはtogetterで写真がおかしいというまとめがありましたし、それについて少しだけ。まずはじめに持ち方がなってない、重くて持てないのではという指摘がありましたが、これはおむつの「グーン(GOO.N)」であることが段ボールから分かります。おむつの重さを考えればこの持ち方でも大丈夫と考えられます。
 そして最後に和田政宗氏がアップロードした写真の場所はどこかでも。ちょうど探そうと思ったところ、ツイッターで地元の方からここではないかという場所を教えてもらいました。確認したところ各要素から以下の場所で間違いないでしょう。


参照リンク

その場所は「場外 杜の市場」の駐車場です。横断歩道からここが道路であるかのように語っている方もいましたがこれは駐車場内にある横断歩道なので道路ではありませんし、特に法的な問題もないでしょう。ただ一つだけよくわからないのは近くに学校等の避難所がない場所なので、何故ここで荷物を降ろしていたかは写真からは不明です。近くに避難所があったのか、個々からさらに個別に仕分けた辺りでしょうか。なにわともあれ、普通に存在した写真であることには違いないでしょう。
 これで終わりにしますが、本題とは別の締めで。写真からこうやって場所を割り出せることがありますのでネットストーカーには気を付けよぅ……。



■お布施用ページ

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*1:安倍晋三は5トントラックと書いているが世耕、亀岡は4トンと書いており、安倍晋三の間違いと思われる。

*2:3月26日に向かったことを考えると「津波が起きて10日経つか経たないかというとき」というのは誤りです。

*3:ちなみに世耕ブログをソースにしているが、そこには運転スタッフと書かれているのに知新の記事本文には運転スタッフの存在が消えている。雑。