電脳塵芥

四方山雑記

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記事が多くなったのでリンク用ページ

毎日新聞東京日日新聞
東京日日新聞1923.9.8朝刊「鮮人の爆弾 実は林檎 呆れた流言飛語」

朝日新聞
朝日新聞1923.9.1「地震と駿河湾の大海嘯」
朝日新聞1923.9.4特報「武器を持つ勿れ」
朝日新聞 1923.9.19「税関の倉庫破り 艀船夫六十名共謀して」
朝日新聞 1923.9.21朝刊 「警視庁の矛盾した報告」
朝日新聞 1923.9.12朝刊 「小言」

読売新聞
読売新聞1923.9.15「朝鮮人の噂は何処から出たか」
読売新聞1923.10.4「四谷の自警団に銃で射殺さる」
読売新聞1923.10.7「鮮人と見誤って母を殺した自警団員」
読売新聞1923.10.16「麻布の自警団六名検挙さる 」
読売新聞1924.9.7「地震当時伝わった怖しい流言飛語の正体」

関東大震災周辺時期の新聞記事 朝日新聞1923.9.4特報「武器を持つ勿れ」

関東大震災関連記事リンク - 電脳塵芥



朝日新聞1923.9.4朝刊「武器を持つ勿れ」の記事から。

※一部旧字体を直し、読みやすくするために一部に読点を挿入しています。 ※判別が難しい文字には後ろに(?)を、判別が無理な文字には「□」で表記しています。もし間違っていたらご指摘お願いします。

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武器を持つ勿れ
 朝鮮人は全部が悪いのではない。鮮人を不要(?)にイヂメてはならぬ。市民で武器を携えてならぬと戒厳令司令官から命令を出した。

 朝日新聞および読売新聞は本社が被災した影響で震災直後から数日は活字による新聞の発行はしていません。そういった中で出された新聞です。

戒厳令 (岩波新書 黄版 37)

戒厳令 (岩波新書 黄版 37)

帰還事業において北朝鮮を「地上の楽園」と表現した新聞について

関連書籍を読んだので、その2も作っときました。

北朝鮮への帰国事業について その2 - 電脳塵芥


 そんな新聞ないです。少なくとも三大紙では。


 ってなツイートがあったので「地上の楽園」という記述についての話。このツイートでは言及されてませんが、他の方のツイートでは結構な割合で「地上の楽園は朝日新聞が広めた」的なものが見受けられます。で、たまに毎日新聞。読売新聞と産経新聞に関してはほぼほぼこの言説にはついてこない感じです。
 で、実際はどうだったか。

 結論は冒頭に書きましたが、帰還事業が始まった1959年から90年代辺りまでは朝日、毎日、読売のいずれの新聞においても「地上の楽園」という単語は使用していません*1。90年代にはこの帰還事業の実態を告発した本が発売された際に「地上の楽園」という単語が使用されていましたが、つまりは知られざる帰還事業(北朝鮮の生活)の実態を語る際に「地上の楽園」という言葉が使用されるに至るわけであり、北朝鮮の喧伝通りに「地上の楽園」を使用している当時の新聞はありません。
 なお産経新聞はデータベースは1992年からであり検索不可能&縮刷版もないですし検証作業が非常に手間過ぎるために除外します国会図書館マイクロフィルム版を……、という手もありますが流石にそこまでは無理ですのでここでは割愛します。

 以上の検証は単純に「地上の楽園」という単語に着目しただけの浅い検証ですが、実際の新聞はどうだったかというと、大々的に所謂「地上の楽園」ぶりが喧伝されていたかも疑問符が付くところです。あくまでも大々的にレベルであって、北朝鮮の内実を良きものとして書いた記事ならいくつか存在します

◆当時の北朝鮮と韓国に対する印象

 そういった記事の前にまず前提としての情報をば。
 いずれの三大紙も1959年初頭(帰還事業開始は年末)から北朝鮮への帰還事業についての動きを報じてますが、これに対して韓国側は強い反対を幾度としています。この時期には日韓基本条約などが結ばれていない交渉状態であり、韓国は日本による帰還事業の承認に対して断行などの牽制をするなど数回にわたり反対に意思を表明しています。また1959年12月の新潟日赤センター爆破未遂事件 の存在や民団による帰還事業の実力行使的な妨害、日本の漁業従事者の抑留などもあってその当時の韓国への印象は北朝鮮よりも悪かった可能性が高い事にも留意が必要です。当時の経済状況的にも「北朝鮮>韓国」であり、さらに北朝鮮の内実が分からない状態であった為に現在よりも北朝鮮への好意的感情が存在したのは事実だと考えられます。

◆当時の在日朝鮮人を追った記事

 当時の新聞では当事者である在日朝鮮人の人々を追った記事がいくらか見受けられます。その中でも朝日新聞に会ったシリーズ「祖国を選ぶ人たち」の記事を2つほど紹介しておきます。

帰る組 残る組
金今石さんは土工。日当五百円。これで一家六人を支えている。貧困、差別待遇のみじめな生活。一生これで終るかもしれない、と思ったらますます帰りたくなった。心になんの抵抗もためらいもないとキッパリいった。この地区は大半が「南」出身で「北」は未知の土地だが、だれもが不安や恐怖はないと口をそろえたようにいう。「北」からは資料、文献、便りがじかに届いているからだそうだ。(中略)民族教育で筋金を入れられているから割りきっているらしい。「ヨメにきたらかには夫といっしょにどこへでもいく」と金相元さんの妻貞子さん(26)。に恩人の細君は5人いるが、故国を去る悲壮感はない。
(中略。帰らず組の中には「北」という未知の土地に行って今更どうする的な記述)
だが、どっちつかずの人も多い。大阪市東成区大成通りの金時子さん(54)の心境はこうだ。「昔は日本も朝鮮も同じ国。長いことすんだ大阪はやっぱり自分のコヤン(故郷)。でも二つの朝鮮が一つになったら帰るな言うても帰るが……。19になる長男は北へ帰ろうという。お前がアンバイいくよう思うなら帰りな、いうてます。親と子はいつまでもいっしょに暮らせるものでなし……このまま死んでも日本の政府は放っておかない。焼場まで送ってくれるやろ」去就に迷っているような金さん。針を運ぶ手が小刻みに震えている。金さんは泣いていた。
朝日新聞 1959.9.24 祖国を選ぶ人たち 帰る組 残る組


帰る国の夢
(中略)「楽しい生活が目の前にあるんです。すばらしいんだ」
故郷での新生活がいかにもっ待ち遠しい、といった表情。着々と進んでいるという北朝鮮の受け入れ準備の模様を、朴さんのメモ帳から拾ったら―
就職 経営者にとって最大の関心事だ。どの工場も人手が足らず、完全就労は間違いなし。手に職のないものは短期技能伝習学校や職工学校に入れて技術をミッチリ教え込まれる。給料は女で月四十円。(紡績工場の場合。日本円に直すと約一万円)男で六十円(セメント工場。一万八千円)の見当。米一キロが五銭、牛肉一キロが三十戦の物価だから、とても暮らし易い。
住宅 八畳、十畳一間にフロ、炊事場、物置、水洗便所つきの標準家屋が受入れ工場ごとに建てられる。(中略)もちろん暖房つき、家賃は電灯、水道料込みでわずか二円ナリ。それに授業料いらずの七年制義務教育など、いたせりつくせりだ
 一方、帰還に反対する在日韓国居留民団側はこれを真正面から「ウソだ」という。民団直系の在日大韓青年団中央総本部員、崔成源(さい・せい・げん)さんは「夢でも見てるんでしょう」とつっぱなす。
 崔さんは二十一日から東京芝公園での「北送反対ハンスト」に参加した一人。げっそりこけたホオ。
(中略)
朝日新聞 1959.9.28 祖国を選ぶ人たち 帰る国の夢

 いずれも当時の在日朝鮮人の方々のポピュラーな受け止めと、北朝鮮の宣伝がどのようなものだったのかが窺い知れる記事かと思います。北朝鮮側としては2つ目の記事の様にかなりの好待遇を宣伝しており、また一つ目の記事からはそれら宣伝を個別に送付していたことが分かります。これらは民団側の青年が言うように「ウソ」であったわけですが、それは結果をしている未来の私たちの視点でしかなく、当時差別待遇にあった人々から見れば救いに映ったことは想像に難くありません。
 ただ新聞記事としてみた場合、帰らない側や民団側の声も載せており必ずしも北朝鮮が「地上の楽園」であるかの様な喧伝、とまでは言えないレベルかなと。また当時の新聞の論調としては「地上の楽園」だからという観点よりも、在日朝鮮人が故国に帰るという「人道的観点」からの賛意がいくらか見受けられます。これは歴史的負い目を考慮すれば当然の反応とは言えるでしょう。未来視点では人道的観点からも結果的に過ちではありますが。

新聞における帰還後の描写

 帰還事業初期の北朝鮮描写は例えばwikipediaではこんな感じになってます。

北朝鮮へ帰った日本人妻たち「夢のような正月」ほんとうに来てよかった
読売新聞 1960.1.9


北朝鮮帰還三ヵ月の表情
帰還希望者がふえたのはなんといっても「完全就職、生活保障」と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活にアイソをつかしながらも、二度と戻れぬ日本を去って“未知の故国”へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎ぶりや、完備した受け入れ態勢、目覚ましい復興ぶり、などが報道され、さらに「明るい毎日の生活」を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏みきったようだ。(中略)苦情といえば日用品が日本に比べて少ないということぐらい。これらの不満もはっきりと書かれていたという。これらの手紙は総連を通じ、各地で回覧されているが、総連の各種のPRをはるかに越える強さで在日朝鮮人の気持ちを北へ向けるキキメがあったようだ。
朝日新聞 1960.2.26

さて、ネットで確認できる記事以外ではというと。
 まずは朝日新聞

帰還者にわく平壌
人ガキで動けぬバス "精一ぱい働く、と希望の顔"
(中略)特別にぜいたくな風の人もない。コジキみたいな人もない。身なりを清潔にする運動がこんない進んでいるのは、経済建設が進んでゆとりができたからだろう。(中略)ある青年はこういった。「私たちは建設を進めて、衣食住は心配がなくなった。しかし日本に生きる同胞は故郷を捨てて散らばったままでいる。彼らを迎えて安定した生活の中でいっしょに建設を進めるのは私たちの願いだ。今日の歓迎は大変なものになるでしょう」。言葉通り盛大な歓迎だった。(中略)長崎市から帰還した魚竜作さんは奥さんと六人の子どもに囲まれて「さてみれば夢かと思った。わたしは船乗りをしていたが、帰還運動をやったのでなんどもクビになり、食べものもロクになかった。二カ月、米のメシがなく、よそのゴミ箱をさがして生きていたこともある。リンゴなんて子供に食べさせたくてもやれなかった。それが帰ってみれば、食のたびにリンゴが四つくらいつき、肉も食べられ、こんなに大歓迎してくれる。わたしはこれから漁夫をして働く。帰れるようにしてくださった日本人にお礼をいいたいのです」と。
朝日新聞 1959.12.21


次に読売新聞。

平壌、見違える復興
生活もゆたかに 帰還者に首相自ら心をくばる
数年ぶりの島元貴社はもちろん、三年前に訪れた秋元貴社も新しく生れ変った平壌の町に平安門、大同江をのぞいては全く見当がつかなかった。(中略)古い朝鮮という感じはなく、西欧のどこかの都心にきた感覚に陥った。
バラックは取り壊し
(中略)朝鮮の荒々しいいぶきを感じられた。それはアジアで最も若い元首を戦闘とする朝鮮の生々しさかもしれないが、対日感情も非常に好転している。もはや朝鮮を除外してはアジアを語ることはできないといった感じさえ受けた。
(中略)住宅事情はよくなっており、町行く人の服装や表情も北京よりも豊かそうだった。
日本で伝説の人といわれていた金首相は実にざっくばらんな人だった。帰還者にたばこやお茶をみずからすすめながら一時間にわたって(中略)話しかける。学生の質問に「いつでも会えるんだからこいよ」と言ったときなど、帰還者の中にどよめきが起こったほど。なるほどこれならば朝鮮人が心から支持するはずだと思った。
記者に感謝の握手
(中略)金首相も「帰還が実現したのは日本国民や言論界の広範な支持があったからだ。深く感謝する。とくに日本の警官までが帰還朝鮮人を保護してくれたことは意義(?)深い」(中略。記者と握手したなど書かれる) 帰還学生、奨学金二倍
(中略)帰還学生には普通の学生の二倍の少額資金が与えられる。第一陣の帰還者たちが宿舎に訪ねると「日本に残って、帰還をちゅうちょしているだれだれさんに、安心してくれるよう伝えてくれ」と先を争って伝言を頼みにきた。
米はタダ、副食月18円
平壌の町にはイルミネーションも最近つき、デパートや商店にならぶ食料品、衣装、漆器、化粧品などの消費物資も三年前より品数が大分ふえている。たばこは十種類、酒は数種類といったぐあい。食堂の事務員をしている朴在一さんをつかまえてきいてみた。親子四人家族で月給五十円。家賃は光熱費、水道暖房費を含めて二円四十銭(夏は一円二十銭)米は一キロ八千の手数料だけで米代はタダ。副食費は一か月約十八円、衣類は作業服とクツを支給っされるので一か月に十円前後の貯金ができるそうだ。
読売新聞 1959.12.25

お次も読売新聞から。

北朝鮮みたまま
村に続々文化住宅 落第や恋を忘れた学生
北朝鮮―つまり朝鮮民主主義人民共和国。(中略)金日成首相とも会見したが、その金首相は三年ぶりに会った秋元記者をつかまえて「よう君か、元気だったかね」と肩をたたく人だった。以下はかけ足でながめた”見たままの北朝鮮”の印象記だが、わたしたちがみたかぎりでは北朝鮮という国は、そんな金首相のようにきさくな国のようである―。
〇…まず首相との記者団会見。それは”会見”というしかめつめらしい表現がピッタリこない会見だった。現れた金首相は河野一郎氏にそっくりだった。体つき、歩き方がびっくりするほどよく似ている。しゃべり出すとこんどは浅沼稲次郎児のしゃがれた太い声。「一人でしゃべっていては疲れる。なんとか話せよ」「毎日会議の連続だから、今夜はやめて一緒にオペラをみようや」こんな言葉が無造作にとび出てくる。帰国者を集め話したときも成功した実業家が郷里の学生を集めてお国話をしているような調子。(中略)
〇…「その国の将来は青年を見ればわかる」というわけで、首都平壌では大学を訪れてみた。(中略)学生の九割までが国費負担(一割は裕福な家庭出身で自弁)だそうだが、そのせいかみな猛烈な勉強からしい。(中略)
〇…北朝鮮の農村。(中略)車窓から見たかぎりでは農村の改善はきわだっている。(中略)この町にむかしながらのワラぶき屋根は一軒も見当たらない。ストレートぶきレンガ造りの”文化住宅”(農民はこう呼んでいる)は協同組合単位に整然と並んでいる。(中略)
〇…二十日夜、朝鮮の舞姫崔承喜が、帰国者歓迎のオペラに登場した。オペラの会場は平壌の国立体育館。東京の神宮外苑にある東京体育館とほぼ同じ大きさだが、その半分は舞台。(以下略)
読売新聞 1959.12.26 夕刊

 という様に読売にしても朝日新聞にしても北朝鮮の現地取材においては北朝鮮の状況はかなりのべた褒め状態といえます。ちなみに毎日新聞はサラッと見ただけなので見落としがあるかもですが、類似の現地取材のべた褒め記事は見受けられませんでした。ただその毎日新聞も帰還事業そのものには批判的であったわけではありません。これらは当時の故国への帰国という人道的な観点、在日朝鮮人を帰還させたい政府などの思惑、そもそも北朝鮮という国の内実が不明であったという点などなど、多数の当時の限界も存在します。我々は未来の視点からそれが過ちであったとは分かりますが、当時にそれを予見できたかというと残念ながら中々に難しいと思われます。

 当時のこれらの新聞の描写を「地上の楽園」とまで言えるかは微妙ではあると思いますが、ただ北朝鮮に好意的な記事があったのは事実です。しかしそれは朝日新聞のみではなく読売新聞などの左右問わずの論調です。件のツイートではそこまで触れはいませんが、帰還事業であった「地上の楽園」という宣伝と朝日新聞【のみ】を繋げるのは無理がある話であり、それは自身のイデオロギーの発露としか言えないかなと。



■お布施用ページ

note.com



*1:念の為。北朝鮮以外の対象に対して「地上の楽園」という単語が使用されている事例はあります。本では80年代から内部事情の本が出たりするので、もしかしたら80年代でもそういった記事はあるかもしません。

関東大震災周辺時期の新聞記事 東京日日新聞1923.9.8朝刊「鮮人の爆弾 実は林檎 呆れた流言飛語」

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東京日日新聞1923.9.8朝刊「鮮人の爆弾 実は林檎 呆れた流言飛語」の記事から。

※一部旧字体を直し、読みやすくするために一部に読点を挿入しています。
※判別が難しい文字には後ろに(?)を、判別が無理な文字には「□」で表記しています。もし間違っていたらご指摘お願いします。

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鮮人の爆弾 実は林檎
 呆れた流言飛語 湯浅警視総監語る
湯浅警視総監は卓上に二個のにぎり飯と福神漬けを置き、水道の水をすすって鮮人暴行の浮説を懐嘆(?)して左の如く語る、『この未曾有の惨状に対し罹災民の狼狽するとは然ることながら鮮人暴行の風声鶴唳に殆ど常軌を逸した行動に出づる者のあったとは遺憾千万である。即ちその一例をいえば鮮人が爆裂弾をたづさへているというので捕(?)えて見ればリンゴであったともあり、また「木喜徳郎氏の付近の出来事であるが、一民家に火を放って酢をこぼしため主婦が之を綿にしめし、かなだらいの中に入れて置いた所、青年団の人は放火用の石油だと誤認(?)し主婦が如何に弁解するも承知せず、遂に主婦は鮮人に味方するんだろうとばかりになぐり飛ばされた事実もある。その他かぞえ来たれば噴飯すべきものおおく、誠に大国民の練度(?)から見て諸外国に対しはづかしい次第である。しかもかかる浮説にまどはされて朝鮮人に暴行を加えたとはわが治鮮上憂うべきとたるは申すまでもない。しかして一面警察当局からいうも罹災民等がこういうとで騒ぎ立てるため、これが鎮撫につとめねばならぬが、これは忽ち匪恵事策(?)に対して携(?)ふべき□(字がつぶれて判別不能)力の減殺となる次第であるから、この際市民及び隣接府民は十分に注意してもらいたいと思う』云々

 警視総監の証言であり、その立場とこの時期が流言を抑え込む段階であることから信頼性は高いものと判断していいでしょう。「一民家に火を放って酢をこぼした」という状況は良くわかりませんが、とはいえ「爆弾=リンゴ」やこの「酢=石油」と判断された出来事から当時は「疑わしきは暴力」であり、このでたらめな暴力の下で多数の人が被害にあった事は自明のことかなと。



関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言

関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言

関東大震災周辺時期の新聞記事 朝日新聞 1923.9.12朝刊 「小言」

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朝日新聞(東京) 1923.9.12朝刊」のコラム的なコーナーからの記事。

※一部旧字体を直し、読みやすくするために一部に読点を挿入しています。

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小言
◇今回の大震災に際し、最も遺憾な出来事の一つは、朝鮮人に対して面白くない流説が宣布せられこれら同胞に対して種々な意味における不愉快を興へたらうことである。
◇狂人走れば不狂人走る、こういう大災難大混雑に際しては多少の間違いを生ずるのも免れ得ない事である。日本人の仲間に不心得者があったから朝鮮人にも不逞の行為があったかも知れない。
◇併し多少の不貞行為があったとて、すべての朝鮮人を敵視し、罪人視し迫害するが如きは実に言語道断である。吾人は所謂朝鮮人に対する流言が何処から出たかを知らない。しかも如何なる流言にせよ、ウカとそれに乗って狂人と共に走る如きは、偶々以て如何に国民的訓練の乏しきかを語るものと言わねばならぬ。
◇市民はよも朝鮮人が吾人と同じ同胞であることを忘れはすまい。四年前の万歳騒ぎを忘れはすまい。今日朝鮮人を迫害する如きは、たとえそれが一人の朝鮮人であってもわが朝野十五年の朝鮮に対する苦心を一日にして滅ぼすものであることを記さねばならぬ。
◇さるにても、今回の震災の結果、新聞紙の位置はますます確かめられた。朝鮮人に対する流布されたものも、半ば新聞紙が全滅し正確な報道が行われなかった結果である。
◇本社はかかる大切の時期にあたり、震災類焼の結果とはいいながら、号外以外しばらく十分の報道を為し得なかったことを最も遺憾とする。しかも今や諸般の準備が成った。日と共に装いを新たにして、庶幾くは読者平生の眷顧に副い得ることを信じる。

 記事を読むと当時の植民地民(同胞)としての朝鮮人というまなざしが大いに見え、その点については当然ながら反省の弁がなかったり、また最後には新聞がなかったから流言がはびこったという一つの結論は果たしてどうなのかとか、「朝鮮人にも不逞の行為があったかもしれない」という様なこういった記事では不要であろう憶測もあり、現在的目線では甚だ問題点もある記事ではあります。が、やはりこの時点で朝鮮人虐殺やそれに類することを思わせる書きぶりであり、それが社会的に咎められるべき行為であったという社会認識はかろうじてあったことはうかがえます。批判という面では甚だ弱い言葉ではありますが。



証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人 (ちくま文庫)

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  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
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関東大震災周辺時期の新聞記事 朝日新聞 1923.9.21朝刊 「警視庁の矛盾した報告」

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 何となくではあり、どこまで続けるかは分かりませんが関東大震災周辺時期の新聞記事でもアップロードしようかなと。
 ってなことでまずは初回は「朝日新聞(大阪) 1923.9.21朝刊」の1ページの記事から。

※一部旧字体を直し、読みやすくするために一部に読点を挿入しています。

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警視庁の矛盾した報告
 二十日午後一時開会の東京府地震災救済実行委員協議会において馬場刑事部長、緒方消防部長、正力官房主事は今回の震災に対し放火及び鮮人社会主義者の暴行は絶無であるという警視庁側の調査の結果を報告し、これに対し委員側から震災当初警視庁から鮮人の暴行放火の事実を厳重に取り締まる命令を発したると大いなる矛盾を来す点を指摘し、種々押問答があった。

 関東大震災後の9月21日時点で朝鮮人による放火暴行は絶無であったというのが当時の警視庁側の報告です。現在でも朝鮮人による蜂起があった云々という方がネット上では見受けられますが、当時すでに否定されたデマ、流言飛語です。



TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち

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  • 出版社/メーカー: ころから株式会社
  • 発売日: 2019/07/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

インドネシアの教科書における太平洋戦争期の対日描写について

nou-yunyun.hatenablog.com

   って記事を書いたので、そのインドネシア版です。今回使用するのは『インドネシア高校歴史教科書 インドネシアの歴史』(明石書房)から。翻訳されたインドネシア教科書自体は2000年に書かれたものであり、20年近く前のものになり些か教科書としては古いですが、そこら辺は留意してください。

 本題に入る前に少しだけインドネシアの教育制度について。
 「文教大学 教育研究所」によれば「学校教育は幼児教育(4~6歳)、基礎教育(7~15歳 ※義務教育期間)、中等教育(16歳~18歳)があり、その後、高等教育へと続」くとのこと。また学校はスコラ(一般学校)系統とマドラサ(宗教学校)の二系統に分かれており学校管轄省庁も異なるといいます。詳しくはリンク先を参照お願いします。

 さて、では本題。
 この教科書は全8章立てとなっており太平洋戦争期~独立については「第6章 日本占領とインドネシア独立準備」という章立てで始まります。そこで6章にある各項目をかいつまんで書いていく形式とします。


A.日本がインドネシアを支配した背景

【章序文】(1ページ)
 第6章は日本が太平洋戦争に至るまでの道のりの理解の為か日本の説明に対してそれなりに説明を割いており、序文では江戸時代の鎖国についての説明から始まっています。序文なので江戸時代そのものの特に詳しい描写はありませんが、要は鎖国して近代化には遅れていたという文脈が存在します。

日本がインドネシアを支配した背景】(4ページ)
 ペリー来航からの条約の話から始まり、反外国人運動の激化、薩摩藩士による外国人殺害などに触れ、権力が将軍から天皇に遷移していった事を説明、明治維新による日本の近代化が記述されています。日本の近代化のみで4ページにわたる説明で外国の教科書というのを踏まえればかなり詳細な記述と受け取れます。記述内容そのものには明治天皇以外の人物名がほぼほぼなく天皇がすべての実権を握った国家であることを印象付ける様な記述で少し違和感はありますが、とはいえ重大な誤解などは見受けられません。この項目では近代化と共に「天皇制」を強調しており、

1871年に文部省が設置された。6歳から14歳までの児童を対象として義務教育制度度が発布され、日本は非識字者をなくした世界最初の国となった。学校教育を通して祖国と天皇を愛する心が植え付けられた。日本の天皇制が今日に至るまで変わることなく栄えている理由はここにある
P.240

という様に現在の日本における天皇制の存在がどういったものかの説明も兼ねています。なお天皇制に対する批判的描写は特にみられません。明治天皇の家族写真も記載されており天皇制国家というのを印象付けられます。

【日本の近代化及び帝国主義政策の結果】(2.5ページ)
 近代化を果たした日本が植民地獲得競争に参戦したことを記述、日清戦争日露戦争の記述、対華21カ条要求、満州国の誕生まで触れられています。なお日露戦争において日本がロシアに勝利したことを踏まえ、

一方アジアも、アジア民族が西洋諸民族に力で対抗できた事実によって、ナショナリズムに目覚めるという大きな影響を受けた。
p.242

という様にある程度好意的な書き方がなされています。とはいえその後すぐに

日本はアジアに広い植民地を持ちたいと考えるようになった。1927年田中男爵が日本の首相になったとき、彼はその願望を達成するために、東アジアを支配し、アジア大陸へ日本の勢力を拡張させる計画を提案した。田中首相はアジアを支配するためには中国、満州そしてモンゴルを支配せねばならないと考えた。日本がこれらの地域を支配できれば、南アジアの地域は自動的に日本に追随するであろう。
p.242

以上の様に日本の帝国主義政策について触れられ、さらにはその将来に南アジアへの侵略をにおわせる書き方がされています。

【アジア太平洋における日本近代化の影響】(2ページ)
 日本の近代化がアジア地域に及ぼした政治、軍事、経済の面の影響が記述されています。日露戦争の日本勝利の影響としてインドネシアベトナム、インド、フィリピンでの民族運動の影響が書かれ、

なかでもインド、フィリピンでは、日本の近代化の後民族運動がいっそう活発になった。太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである。
 日本は八紘一宇(Hakko Ichiu)の御旗の下、世界支配に向けていっそう精を出した。彼らは神道に従って他の民族を指導する神聖な任務を帯びていると考えており、自らをアジア民族の兄貴分とみなし、弟たち、すなわち他のアジア諸民族を指導する義務があると主張した。また、日本の支配地においては日本化が広く行われたが、これはアジアにおいて西洋帝国主義の地位にとって代わろうとするためであった。
p243

という様に「太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである。」とかなりの賛辞と受け取れる記述が見受けられます。ただしそのすぐ後に日本への肯定的価値観に対する強烈なカウンターを置いてあり、日本も所詮は帝国主義者である事を明確に記述しています。また軍事面での影響では「日本が原因となって太平洋戦争が勃発」し、ABCD包囲網などがあったものの「東南アジアにおける日本の膨張を止めることはできなかった」と記述しています。
 また経済面での影響では「日本はダンピング政策で工業製品の市場を奪おうとした」として東南アジアの市場が狙われ、現地の購買力は低くはあったがメイドインジャパン製品が市場を獲得したこと。大東亜共栄圏となった東南アジア地域は日本への供給地区として扱われた事などが記述されています。

B.インドネシアにおける日本占領時代

インドネシア地域への日本の侵入】(2ページちょい)
 

日本はアジアのファシズム軍事国家として協力であったので、インドネシアの民族運動家たちは不安を抱いていた。
p.244

 という記述からこの項目は始まります。日本の「ファシズム国家」というのはフィリピンなどの他国の教科書でも見たのでこの時期の日本が冠する文句としては割とポピュラーなものです。なおインドネシア人の政治運等は「北から迫りつつあるファシズムには、はっきりと反対し拒否する姿勢」を示し、インドネシア政治連合もその姿勢であったといいます。つまりは日本を脅威として捉えていたことがうかがえます。
 ちなみにこの姿勢はジャワだけは多少異なり、

一方ジャワでは、ジャワはあるとき黄色人種によって支配されるがとの支配期間は「とうもろこしの寿命」にすぎない、そして黄色人種の植民地支配が終わるとインドネシアの独立が実現する、というジョヨボヨの予言が現れた。ジャワの人々が信じていたこの予言を日本はうまく利用した。そのため日本がインドネシアに進駐したことは、ごく当然なことであると人々はみなした。
p.255

ジョボヨボは12世紀前半の王国の王ですが、その予言に従いジャワに限って言えば対抗姿勢というものはそこまでなかったようです。
 上記のような記述の後にオランダのアクションとその敗北を記述、そして日本が短期間で東南アジア地域を支配したことが記述、日本軍の攻撃を年代順に並べて各地域が占領されたことを記述しています。これらの記述の際には人的被害などの記述はなく占領された地域を羅列していく非常に簡素なものとなり、それらの記述(シンガポールなどの他国陥落の記述もあり)を続け、最終的に「インドネシア全域が日本の植民地支配の一部となった」と記述しています。

インドネシアにおける日本植民地支配時代】(1ページ)
 日本軍政監が軍事権限とオランダ支配時代の総督が握っていた権限を握ることになった旨が記述されています。統治システムを遂行する上で陸軍と海軍がインドネシアを三分割し、陸軍と海軍が占領地の人心を掴もうと競っていたと記述。この項目では批判的なことは特に描かれていません。なお、写真があり、

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日本の存在は多くの点で350年間植民地支配下にあったインドネシア人民に新しい希望と楽観主義をもたらした。写真に「兄貴」とみなされた日本の占領を歓迎する学校の子どもたちが見える。
p.247

とのキャプションがつくようにここだけ見ると日本にかなり好意的な記述がなされています。写真のこの雑誌自体がプロパカンダ雑誌なのか、もしくは自発的な雑誌なのかの記述もなくこの雑誌の性質の判断は難しいですが、少なくとも「オランダ支配からの解放」を祝している事は多分に受け取れます。

【日本占領に対するインドネシア国民の反応】(3ぺージ)
 インドネシア国民の反応をいくつかの項目に分けて説明しています。

・3A運動

標語がアジアの光日本、アジアの護り日本、アジアの指導者日本というものであったので3A運動とよばれた。この運動はシャムスディンがリーダーシップをとったが人民の共感や関心を引くことがなく、1943年に解散しプートラに取って代わられた。
p.248

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 3A運動の宣伝ポスターは以上のようなもの。この項目は引用部分だけで終わっており、具体的にどのような運動であったかは教科書からは読み取れません。


・プートラ(民衆総力結集運動)
 スカルノをはじめとした「4人組」の指導下で結成された日本への戦争協力を目的にした運動です。目的自体は日本への戦争協力ではありましたが、

しかし、日本製であるこのプートラ運動は日本に対しブーメラン効果をもたらすこととなった。プートラのメンバーたちが高い民族意識を持つ原因となったからである。
p.248

とある様にのちに反帝国主義につながり、日本のインドネシア駐留反対へとつながっている様な記述が見受けられます。
 なお、この項目では日本占領時代の肯定的側面としてインドネシア語公用語化、政府高官のインドネシア人に担当されたことなどがあげられています。


・ペタ(郷土防衛義勇軍
 若者をメンバーとしたこれまた日本製の組織です。このペタによってインドネシアの若者が日本軍から教育と軍事訓練を受け、その後の民族と国の独立闘争の大黒柱となったと記述されています。このペタ自体は日本が連合国軍との戦争に必要な兵力を満たすものであったと書かれていますが、インドネシア人はペタによって武力による戦いと独立という関連、民族的性格を持つようになったとあります。なお、このペタ指導者がのちにインドネシア軍の重要人物になったことまで記述されています。
 また1944年のジャワ奉公会(これは日本製)、さまざまな事件や出来事でインドネシア人指導者の日本への信頼失墜しペタなどの組織が独立運動の母体になっていった事、またスカルノらは秘密裏に反ファシズム、都市知識階級、海軍などなどのグループと連絡を取っており、独立への機運が醸成されていた雰囲気が記述されています。なお、これらの動きに対して日本は、

これらの諸グループの間にも、非常に限られたものであったが、協力関係が生まれていた。この協力関係は、取り巻く状況が日本の秘密警察(憲兵隊)とその手先によって恐怖に満ちていたために密かに行われ、その抵抗活動においての、残酷かつ凶暴な行動に出る敵に気づかれないようにカモフラージュを多用した
p.250

 という様に日本がこれらの独立派グループに対してはかなり強圧的な態度を取っていたことが明記されています。

【日本占領時代に起きた反乱】(2ページ)

娯楽の一つで盛んになったのは芝居で、最初は日本の宣伝道具であったが、やがてそれだけではなく、パリンドラ〔大インドネシア党〕のメンバーであるチャック・ドゥラシムが日本の傍若無人の振る舞いを非難したように、人々の精神と肉体の苦しみを声に足ていう勇気を持つようになった。スラバヤではルドゥルックという大衆劇が、演目「ハト小屋さえも日本のためにますます酷くなった」を演じて大変人気があった。このルドゥルックは深い政治的・社会的批判を内包しており、。明らかに日本政府に反抗していた。そのため、演技者たちは逮捕され死に至るまで拷問を受けた
p.250~251

 という様に日本によるインドネシアでの弾圧の状況が垣間見えます。文学作品でも祖国愛をテーマにする作品が書かれ、民衆は生活の苦しさから抵抗運動を起こしたことが記述されています。記述されている抵抗運動は全部で4つ、「残酷に鎮圧」という記述や、スカマナの反乱では「日本は常識外の報復を行い民衆の大量殺害を行った」という記述がなされています。またブリタールでのペタの反乱では「ブリタールにいた日本人が全滅した」と記し、これを「英雄的な反乱」と扱っています。このブリタールの反乱は日本が降伏さえすれば安全は保障するとの奸計によって反乱メンバーは降伏、そして幾人かは死刑、拷問の目にあった記述されています。
 また端的にインドネシアの日本占領時代の歴史観が現れている部分を引用します。

一般的に日本のインドネシア占領は受け入れられなかった。日本は西カリマンタン地区でも知識人たちに対して大量の殺人を犯している。その地区では少なくとも2万人が日本軍の獰猛さの犠牲になっている。避難してジャワ島に逃げることができたのはほんのわずかな人たちであった。
p.252

インドネシア国民にとっての日本占領の影響】(1.5ページ)
 各項目に分かれて説明しているので、かいつまんで記述します。

政治:
 日本の占領によって政治的組織は活動不能。社会、経済、宗教的性格の各組織活動を廃止、日本製の組織に替えた。抵抗を続けた組織もあるが、その時代の政治活動は日本政府によってコントロールされていた。

経済:
 日本がインドネシアに進駐した背景には経済問題。工業製品の原材料を算出する土地を探し、工業製品を売る市場を探していた。

教育:
 オランダ領東インドの占領時代と比較して教育面での急速な進展。日本占領政府が建てた学校での教育の機会を与えた。インドネシア語を仲介語として利用、インドネシア化された名称が使われた。これら教育の目的は日本に対する好感情育成と太平洋戦争で敵と対決するためのインドネシア人の協力を得るため。

文化:
 ファシストの国として常に日本文化を植え付けようとした。その一つは太陽が昇る方向を敬う習慣、つまりは太陽神の子孫である天皇を敬うための日本の伝統。

社会:
 日本占領時代、社会生活は不安に満ちていた。労務者(強制労働)になった人たちは特に苦しんだ。多くの人が空腹と病気のために犠牲者となった。

行政:
 統治システムは軍の精度に基づいて整えられた。

軍事:
 ペタの組織を通じて軍事教育を与えられていた。この参加者がちの独立を求める闘争活動の核となった。


 この後に「C.インドネシア独立の歩み」へと続きますが、独立の話に遷移しますので残りは割愛しておきます。なおここの項目では1944年に小磯首相が独立の約束をしたこと、1945年の独立準備調査会について触れていますが、これらは日本が追い詰められていったという前提を記述しており、なぜ日本が独立の約束をしたのかの背景が伺えるような形となっています。

 全体的に淡々と記述してあったり日露戦争時代の好評価、日本支配による肯定的側面、日本製組織がのちの独立闘争組織の核になったことなどに触れています。また強制労働や飢餓などの記述についてはほぼほぼ説明はなされておらず、日本による残虐行為の記述もあっさりしたものが多めです。ただし、それでも全体的に見ればやはり日本占領時代を良きものとしての記述は一切なされておらず、インドネシアにおいても当時の日本は「アジアの解放者」ではなく「侵略者」でしかないでしょう。

韓国の給食事情について

 っていうツイートがあったので、韓国の給食事情についてでも書いてみた。

 とりあえず、Cooper(✌️'ω'✌️ )氏の給食写真は話題の発火点であろう名古屋給食を除けば、おそらく日本の給食とそこまで大差ないかなと(?)。ただ給食は自治体、世代間格差が大きいので何ともですが……。ただ耳目を集める感じなのはそれへのリプライなので、まずはその写真の出所でも


・1,2枚目:ソウル蚕室高校
3년 더 학교 다니고 싶게 만드는 잠실고 ‘급식’ 수준

 ここで紹介されている蚕室高校という学校の給食。この給食自体、韓国のネットで話題になった豪華な給食という扱いであり、韓国一般というよりもこの学校の特色の一つかとうかがえます。ちなみに、蚕室高校のHPでは毎日の給食献立が写真付きで確認可能です。おいしそう。

・3枚目:韓国文科省の「学生健康増進分野」の有功者に選ばれた栄養士の人のSNSor記事から?
<급식>행복한 음식,급식-김민지 영양사 교육부표창 : 네이버 블로그

 韓国で「供給(給食のこと)食べ転校していきたい」(自動翻訳)という流行語を生みだすほどに有名になったキム・ミンジ栄養士による給食の一つです。この栄養士の人は本を出しており、自動翻訳ですが説明文には”「名品供給」、「皇帝の供給」、「ホテルの供給」など最高の修飾語をつけてSNSを熱くした話題の供給がある。”という様に賛辞と共にこの給食自体が韓国ではかなり異色の出来であることがうかがえます。ほんとおいしそうな写真ばかりですが、多分一般化してはダメな奴です。

・4枚目:梨花メディア高校
[급식자랑] 이화미디어고등학교 급식 / 영란여자중학교 급식 / 이미고급식 / 영란여중급식 : 네이버 블로그

 ブログを読む限りはこの高校も給食を自慢できる学校という事らしく、そういう強みを活かしてのSNS上でアップされたものっぽいです。youtubeで給食紹介っぽいのをしてますし、そういう強みを持った学校なのかなと。


 という様に4枚とも韓国ではそれなりに豪華、少なくとも上位の給食として扱われていると思われる写真であり、この給食を一般化するのは早計かなと思う次第です。また3枚目の栄養士は分かりませんが「高校の給食」であり、もしも名古屋の小学校の給食と比べるのは比較としてはやや適していないかなと。


 ただ韓国でも給食に関しては問題になった事もあり、例えば2016年には


단무지에 김치 한 조각…한 초등학교의 '처참한 급식' - 노컷뉴스

 という様に今回の日本の様な粗末と言える給食があったりします。この件に限って言えばこちらの記事ビフォーアフターがあります。なおこの件だけに限らず、ナムウィキを見てますと、2007年に給食の質が悪いなどで一部学校で給食費返還デモ的なもの、2013年にSNSで給食への不満の報道、2014年にも給食写真のSNS投稿により炎上など、要はネット社会となり定期的に給食関連で記事になっている模様で、逆にだからこそ豪華な給食というウケが良いといえるのかもしれません。なお、これは完全に余談ですがナムウィキにあった伝説的(?)な給食写真はこんな感じらしいです。

流石にここまでのレベルはもはやないとは思いますが。ただこういうの写真がネタとして残ってるってことは韓国における給食の認識にこういった側面があるくらいの印象があるのかもなと。
 あとこれまた余談ですが、韓国では給食室的なものがあって教室で食べるという形式ではない模様。それと韓国給食の器が一枚のプレートになっているのは、器を持ち上げずに食べるという韓国の食習慣を学ぶためのものらしいです。

 最後にGoogle画像検索「給食」の比較でも

【日本】

【韓国】

 これが必ずしも一般的だ、と言えるわけでもありませんが、なんとなく両国の特色が見えるかなと。ただ今回の該当ツイートで提示された写真は隣の特に青い芝生を見ている状態かなと。


この件で他に参考になりそうな文献
坂本 千科絵、李 温九『日本と韓国における学校給食制度と献立内容の比較研究
康 薔薇, Jung-ae Kang, 山口 光枝, 山本 由喜子『日本と韓国の小学校における給食内容の比較
渡部 昭男『韓国における無償給食 : 学術Weeks2016 シンポジウム企画の要点
藤澤 宏樹『韓国における無償給食の現状と課題

給食の歴史 (岩波新書)

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