電脳塵芥

四方山雑記

「第五種補給品」や「洋公主」について

本記事は3万字を超えてしまってます。なので興味と時間があればどうぞ、と言う感じです……。本題は6千字くらいなんですが前段が……。


 「韓国軍慰安婦」や「米軍慰安婦」とでも言うべき「第五種補給品」や「洋公主」についての話です。これは書こうかどうか迷っていた案件(ネット与太による再利用が嫌なので)ではあるものの扇動的な文が時折見られる中で、その実態が分からないままに語られるのはどうかと思うので書く事にします。なお念の為に最初から断っておきますが、当然ながらこれらの問題をもってして日本軍慰安婦の問題をうやむやにしたり、唾棄すべき言動やコラージュ、何よりも下種な行為*1が免罪されるわけでありません。


◆朝鮮における近代的性売買の成立について
◆「洋公主」について
◆「第五補給品」について
 -日本右派による「ドラム缶」に女性を入れて運んだという話について(本題)


◆朝鮮における近代的性売買の成立について

 前段としての話ですが、朝鮮王朝については性売買禁止政策を取っていたために日本における吉原の遊郭の様な公娼(集娼)制はありません*2。それが日本の朝鮮半島への進出と居留地化に伴い娼妓や日本式の性売買が持ち込まれます。日本領事館では当初は売春業が禁止されていたといいますが後に公式に承認されます。性売買をする女性(遊女)が増えたのは以下の様に日清戦争*3とみられています。

植民地期の民俗学者・李能和の著書『朝鮮解語花史』(1927年)は、日本語の「遊女」に相当する朝鮮女性の総称として「蝎甫(カルボ)」という語を用い、ソウルに蝎甫が増えたのは「高宗甲午」年、すなわち日清戦争のはじまった1894年以降のことであると述べている。
藤永壯『植民地朝鮮における公娼制度の確立過程―1910年代のソウルを中心に―


 朝鮮半島には日清日露戦争などの影響によって日本軍常駐化、そしてそれに付随する様に遊廓*4が出現しており、さらに時代と共に貸座敷などの諸制度が整えられていきます。金富子はこれらの流れから「植民地遊郭」と呼んでいます。この軍駐屯地で作られた遊郭が後の解放、朝鮮戦争を経て米軍に基地が接収されるとともに基地村と言われ、米軍と性売買する女性、さらにのちには韓国男性向け性売買集結地に成るに至ります。そもそも現在の韓国における性売買集結地は、

植民地解放後韓国のソウル、大邱や全州、釜山などの大都市にある性売買集結地のルーツは、植民地遊廓にさかのぼる。現代韓国の性売買で使われる「マエキン」「ヒッパリ」「ナカイ」などの隠語も、同様だ(前掲『植民地遊廓』参照)。韓国の性売買の歴史は、日本の植民地主義(さらに軍事主義)と密接に関係しているのである。
チョンミレ、イハヨン、金富子[訳,解題]『韓国における性売買の政治化と反性売買女性人権運

以上の金富子の指摘の様に日本の植民地期の影響が残っている事に留意が必要です。


 また藤永の指摘するところでは第一次世界大戦という戦争景気くらいから、

  京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた形跡がある……(『京城日報』18/06/12夕)。
藤永

以上の様に女性を誘拐・売買などを通じて娼妓などの接客婦が供給される構造、要は日本の構造と似通ってきたとしています。逆に言えばこの時期までは日本と朝鮮において性風俗意識やその構造には乖離があった事がうかがえます。元々公娼制の有無の違いもありますし、例えば誘拐に関しても当初はその数は少なく*5、女性売買の場合も建前*6が異なったといいます。この意識の乖離は江戸、李氏朝鮮という二つの統治機構の差異によるものでしょうし、制度の差から大きな乖離があったこと自体はなんら不思議ではないでしょう。

 なんにせよ朝鮮の性風俗意識を日本が変容、加速化したという点は変えられない様のない事実でしょう。近代化すれば似たような経過を辿っていたはずだ、みたいな「たられば」は意味がありませんし。

◆「洋公主(ヤンゴンシュ)」について

 時系列的には第五種補給品についてなのですが、まずは洋公主から。
 上述した様に日本の朝鮮統治下に基地があった場所、及び公娼地域を米軍が再活用して在韓米軍基地になっている場所がいくつも存在し、それら基地村(旧公娼地域)には性売買に従事する女性がおり、「洋公主(ヤンゴンシュ)」という蔑称で呼ばれています。この「洋公主」(基地村)には日本統治下の「公娼地域」という遺産から生まれている側面が存在している事にはある程度意識することは必要です。付け加えて言えばその後には韓国にとって代表的な性売買地域(集娼村)へとも受け継がれていもいきます。  この問題についての韓国での認識は、

一定期間日本軍「慰安婦」がそうだったように,韓国人にとって基地村は誰も触れたくないが誰もが知っている「秘密」であった。民族と国家の「恥辱」として無意識の層位に隠されていた暗い影のような存在である。
李娜榮、呉仁済[訳]『日本軍「慰安婦」と米軍基地村の「洋公主」 ―植民地の遺産と脱植民地の現在性―

後述しますが昔よりはマシですが、あまり触れられたくない話題とは言えるでしょう。

洋公主の歴史的経緯、1950年代ごろまで
 まず軽く歴史的経緯について触れますが、解放後に当時の南朝鮮の米軍政下において米軍兵士の保健と衛生のため、というどこかで聞いたような文句の様に性売買を管理・統制する政策を採用しています。この際に公娼以外にもウエイトレスなどの接客業者にも定期的な性病検診を受けると共に健康証明書の発給を求められ、性病感染者には病院への入院、中には女性監獄へ監禁された女性もいるとされています。そして契機となったのが朝鮮戦争です。1947年には公娼制が「表面上」は禁止されますが、朝鮮戦争によって多くの外国人兵士が流入することにことによって例のごとく性管理の問題が浮上、

韓国政府は,特定の場所に慰安所を設置し,登録制を実施して性売買女性に強制的に性病検査を受けさせ,許可を受けた業者と性売買女性から一定の税金を徴収するなど,名実共に「公娼制」が復活した。
李娜

という様に韓国政府の下に慰安所が設置*7、基地村の成長を促す大きな要素となります。


 そして以上の様な慰安所朝鮮戦争の休戦、事実上の戦闘終結後、本来なら解体されてしかるべきでしょうが、解体はされませんでした。当時の韓国政府はソウル市内に広がっていた私娼と「洋公主」を一定地域に集結、統制をしたい、アメリカ側は安全な性病防止対策をしたいなどの思惑の下に両国の協議が行われ、両国間で組織された「性病対策委員会」において1957年に慰安婦女性を一定地域に集結させることが決定されます。この決定と共に米軍当局は外出と外泊を許可するようになりますが、そこには以下の様な指摘があります。

米軍の外泊許可は,同年(1957年)日本に性売買防止法が制定された事実と無関係ではない。韓国政府は米軍の日本行き性売買の需要を韓国内に向けるための方法として,慰安婦を相手に啓蒙講演会を開いた。各地の警察幹部が直接介入して組織し,管理・実行するやり方だったが,主な内容は性病予防と米軍を相手にするときの正しい態度を身につけるためのものだった。
李娜

という様に韓国政府としては米軍兵士が日本で消費していた需要を韓国国内でという思惑があったとされます。また、この女性の性を用いた観光業の推進には戦争直後の軍事的緊張やノウハウの無さという前指摘もあり、

政府は''韓国で最も容易に引き付けることができる客は在UN軍''と判断して(交通企画調整官室、1961︓39)、休暇将兵元会を開催し、韓国観光を紹介する⼀⽅、''外国⼈相⼿ホステス''に対する教養講習を推進した(東亜⽇報、1959.12.7)。しかし、その成果は微々たる。⽶軍当局は、観光施設の不備やセキュリティなどの理由で韓国に⽶軍のための休息と娯楽施設(Rest and Recreation、R&R)のインストールを保留したために、⽶軍兵⼠たちは、主に、⽇本や⾹港で休暇旅⾏を去った(韓国観光協会1984︓20)。⽶軍は、1960年にようやくR&Rを承認し、これに伴い、交通部は、政府直営観光ホテル3カ所(温陽・海雲台・仏国寺)を⽶軍レクリエーション設備に指定した(運輸省機画調整官室、1961︓234)。
バクジョンミ『発展とセックス:韓国政府の売春観光政策、1955-1988 年』韓国社会 2014
自動翻訳で読み、自動翻訳による明らかな文章のブレのみ一部修正しています。

以上の様に米軍からの娯楽施設の認定や60年代には酒税などの税率変更も行われた事も有り、基地村は急激に栄えたといいます。この時点での韓国政府は女性の管理統制、また経済の一環として事実上の公娼制度を維持していたと指弾されても致し方ないでしょう。

洋公主に対する社会の認識の変化
 1950年代周辺時期の洋公主に対する社会の認識は、

「洋公主」は、朝鮮戦争後の退廃的な雰囲気と伝統的な価値である貞操から離れた存在としてだけでなく、朝鮮戦争、貧困、米軍との性的関係を体現する存在として、「民族的差恥」としてもみなされた。異民族に体を売る「洋公主」たちは、人々の身近にいながら、戦争や貧困、そして民族の恥辱的な記憶をつねに喚起させる存在であった。
秦花秀『朝鮮戦争後における国家再建と女性

という様に蔑まれる存在だったといえるでしょう。1955年の韓国日報においては「若者と子どもたちに害毒をもたらすので,彼女らを防止できないのであれば,いっそのこと隅に追いやって」という様に論壇の中では隔離の対象として扱われています。これには同時期の韓国社会に自由な女性が家族、伝統を壊す懸念や母性の神格化、強い貞操観念なども付随しているでしょう。日本において「パンパン」が忌避されたことを考えればむべなるかな、です。秦花秀の指摘するところによれば当時の韓国の論壇の中には「種族保存」という文脈の中で女性を語っている論者がおり、その様な論者にとって洋公主の様な性産業従事者は唾棄すべき存在でしょうし。「種族保存」の証左の様に洋公主とアメリカ人との間に生まれた混血児が問題化され、外国に養子に送る唯一の救済策であると述べる論もあります。また「性病管理」のための施設が周辺の村から「モンキーハウス」と呼ばれていたという事例もあると言います。

 さて、これは洋公主以外の話も含みますが、経済の一環としての側面は朴正煕政権でさらに強まります。1961年「淪落行為等防止法」ができ名称の様に性売買行為が禁止されますが、同じく観光事業振興法も制定され、特殊観光施設業者が公式化されます。また外国人来韓に備えて淪落行為等防止法が適用されない「赤線地帯」の設定、外貨獲得のための性産業という要素が強くなります*8。所謂「キーセン外交」という側面が表出していきます。さらに付け加えれば朴正煕政権は「慰安婦」を新たに「特殊業態婦」という名称に呼び変えます。つまりは「慰安婦」という名称をこういった女性に使っていたという歴史的経緯が存在します*9。またこのキーセン外交、女性の身体の観光資源化についてはバクジョンミ(2014)が指摘するところによれば、「⽶国商務省と⽶国の対外援助先一種発展戦略的に⼥性の性的サービスを観光プログラムに含まれることを推奨」(自動翻訳による)とあり、米国の関与が伺えます。
   話は少し脱線しますが「キーセン外交」は日本で一時期の韓国への旅行を表す言葉として存在しています。これは韓国側が上述したように性産業を外貨獲得産業と位置付けた為という側面もありますが、日本男性も多く行ったという事でもあり。バクジョンミ(2014)によれば1965年の日韓国交正常化後に日本人男性の対韓国観光客が上昇、米軍を抜き外国人観光客第1位となります。その際の男女比割合は

観光客の⼤多数は男性であった。国際観光公社は、1974年から外国⼈観光客の性別を集計したところ、1979年まで毎年全体の外国⼈観光客の男性の割合は80%を上回るした。国籍による性別集計は、より遅い1977年から⾏われたが、特に⽇本⼈観光客の男性の割合は、常に90%以上であった。アメリカ⼈とその他の外国⼈は約70%が男性であった
パクジョンミ(2014)

と全体的に男性の割合が多いですが、特に日本人男性はその割合が9割超え、1988年時には多少減りましたが、それでも81.9%ととかなりの偏りがあった指摘しています。 1982年韓国の運輸省韓国観光公社の調査では⽇本⼈観光客の80%が寄生パーティー自動翻訳による。キーセンパーティーの意かと)が最も印象的だったと答えています。当然、すべての男性がキーセン外交をしていたわけではないでしょうが、とはいえかなりの男性にその目的があった事は確かでしょう。

 閑話休題。1970年代にはいって外貨獲得の為の要素が強かった時には洋公主らは「民間外交官」「経済建設のために必要な外貨を獲得するために身体を捧げる」「愛国者」などとも呼ばれる様になります。その際には警察、保健所において、基地村の女性に対して「民間外交官」の役割を果たす様に性病予防教育、英語講座、米国式礼節教育を「教養講座」という名の下に行われています。この教養講座をキム・ヨンジャは次の様に振り返っています。

「ふむふむ、えー、あなた方は愛国者です。勇気と誇りをもってドル獲得に寄与することを忘れてはいけません。えー、私は皆さんのような隠れた愛国者のみなさんに感謝いたす次第です」
李娜

この時代に使われていた「愛国者」がどのような意味で使われたかは、以上の発言が端的に表しているでしょう。


公論化と最近の動向
 洋公主には以上の様な経緯が存在しており、韓国政府が積極的に関与しているといって良い事案です。李娜榮が指摘する様に日本軍慰安婦は「植民地状態における被植民地女性に対する性的暴力の問題」を含みますが、洋公主は「同盟国の兵士の性的欲求の解消と確固とした同盟関係を築くために女性が動員される」という問題を含みます。いずれにおいても他者属性による自己集団に属する女性の性的な蹂躙という類似の構造を持っています*10
 しかしながらこの洋公主の問題は日本軍慰安婦ほどには公論化されていません。李娜榮が指摘するところによれば、

韓国社会にはこのような観点から日本軍「慰安婦」と米軍基地村「洋公主」を切り離して,思考してきた。それは,慰安婦運動陣営においても一定期間維持されてきた立場だった。

慰安婦は,当時の公娼制度下の日本人売春女性とは異なり,国家と公権力によって軍隊から強制的に性的慰安を与えることを強要された性奴隷であった」(従軍慰安婦問題第2次調査発表に対するわれわれの立場)

李娜

以上の様に慰安婦はその強制性に、そして洋公主は公娼制度という枠組みであり強制性はないものとして語られ、それらの女性たちへの沈黙を強い、公論化を免れてきたとしています。日本軍慰安婦は連行された「純潔な少女」、洋公主は濃い化粧をしながら民族の純潔を汚す女性と言う様な印象の対比もあったでしょう。これらは女性の「自発/強制」の二択を問題視しており、それらの女性がなぜ制従事者になったかの背景、社会的状況、政府としての体系構築などを無視したものです*11。また公論化されていない理由の中には対アメリカの話である事も少なからず関係しているでしょう*12


 以上の様に洋公主について長々と書き、さらには公論化はあまりされていないとは書きましたが2019年現在においては変化が生じています。挺対協が基地村の女性に連帯を表すとしたり、進歩系であるハンギョレは2014年に基地村に関する連載を行い[記事1][記事2][記事3]、議員の中には特別法を主張する議員がいる状況(ハンギョレ新聞記事)を作りました。この特別法は特にハンギョレの連載では長々と上述した外貨獲得や「愛国者」と呼ばれた基地村の女性たちが麻薬と知らされずに麻薬を服用させられたこと、騙されて連れてこられたこと、暴力、堕胎、借金、自殺する人間などなどの諸問題が告白されています。この法案自体は会期切れによる自動廃案、2017年7月には「米軍慰安婦問題に対する真相究明と名誉回復とサポート等に関する法律案」が出されるも進展なしなどはありますが、少なくとも国会議員も動きだしていることは確実です。また2015年には『国家暴力と女性の人権 米軍慰安婦の隠された真実』という米軍慰安婦問題について法的責任を追及する冊子が「基地村女性人権連帯」から出されています(名称はともに自動翻訳から)。
 そして2018年には、

大韓民国が「軍事同盟・外貨獲得」のために、米軍基地村を運営・管理し、性売買を積極的に正当化したり助長したと認める初の判決が下された。裁判所は「国家が基地村慰安婦の性的自己決定権、ひいては性に表象される原告の人格自体を、国家目的達成のための手段として、人権尊重義務に違反した」として、(中略)基地村慰安婦117人が国家を相手に出した損害賠償請求訴訟で「原告74人に各700万ウォン(約70万円)、43人に各300万ウォン(約30万円)の慰謝料と、その利子を支給せよ」と判決した。
「国家が米軍基地村で性売買を助長」初の判決…賠償範囲を拡大 ハンギョレ 2018-02-08

の様に国家が米軍基地村で性売買を助長したとし、賠償判決が出ています。つまり、国家による暴力が認められたわけです。ハンギョレ日本版を見る限り、日本軍慰安婦と比較すればその活動、報道は相対的には少ない*13ものであるもののこの件については司法判断もあり、着実に意識変革は起こっているのではないかと考えられます。ただし、そこに「対アメリカ」の言説がどこまであるかは不明ではありますし、実際にハンギョレにおいても対韓国政府という枠組みに見える様に日本軍慰安婦とはまた異なる責任追及という現状はあるでしょう。
 なおこれは余談ですが、現基地村にはフィリピンをはじめとした外国女性へと住民が変わっており、現役の韓国人基地村女性は徐々にいなくなっていると考えられます。


◆「第五補給品」について

 「第五種補給品」とは朝鮮戦争時における韓国軍慰安婦の現場での別称です。後述する軍が後に作成した公文書内ではその様な記述ではなく「特殊慰安隊」など、「慰安」という文言で記述されています。軍人の回顧録を見ると、朝鮮戦争当時は軍補給品は第一種~第四種しかありませんでしたが五番目の補給品としての女性を示す別称、それが第五種補給品であり、その役割は部下の士気高揚の為、要はいつもの慰安婦問題で語られる論理が用いられています。なお現在の韓国軍における補給品は10種まで規定、その第5種は「化学弾を含むすべての弾薬類、爆破資材、ヒューズ、ギポクヤクなどの弾薬類」とのことです。  この第五種補給品についてはベトナム戦争での韓国による加害側面や上述した洋公主の問題を連載化したハンギョレ(日本版)においても記事化されておらず(問題提起者の名前も検索ヒット無し。ただし問題提起時には韓国で記事は書かれてます)、韓国社会の中では洋公主以上に触れられていない案件と言えるでしょう。で、この件は少なからず日本右派により利用されている案件でもあります。実際にひどい案件ではあるものの、日本のインターネットでシンボル化と共に悪し様に書かれているさまは検索すれば確認可能です。煽情的なのでおススメはしませんし、ノイズも多いのでそういう意味でもおススメはできません。


2002年の問題提起
 韓国軍慰安婦は2000年代以前にも報じられ、回顧録的なもので触れられもしていたようですが契機となったのは2002年、金貴玉による問題提起によって日の目を見る事になります。これは当時の朝日新聞でも

韓国の陸軍本部が56年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所特殊慰安隊」の記述を見つけた。設置目的として「異性に対するあこがれから引き起こされる生理作用による性格の変化等により、抑うつ症及びその他支障を来す事を予防するため」とあり、4カ所、89人の慰安婦が52年だけで20万4560回の慰安を行った、と記す特殊慰安隊実績統計表が付されている。(中略)軍関係者の証言の中には、軍の補給品は第1から第4までしかないのに、「第5種補給品」の受領指令があり、一個中隊に「昼間8時間の制限で6人の慰安婦があてがわれた」とする内容のものもある。
朝日新聞:朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表
※ウェブアーカイブ

以上の様に記事化されています。この案件に対する反応は日本においては今でも一部右派で根付いている程度で知名度は低く、そして韓国においても反応は薄く沈黙されている状態と言えます。この問題提起時には金貴玉によれば「日本軍慰安婦問題でもないのに」や、大学当局から「気を付けてくれ」などをはじめとした圧力を含む文言をかけられています。何よりも問題なのは韓国軍国防部所属の資料室に備えられていた慰安婦関連の資料の閲覧が禁止された事でしょう。その後に語られなくなったと言えども、その当時には強い影響があったのは事実です。  なおこの韓国軍慰安婦ですが、朝日新聞の記事にある様に公文書である『後方戦史(人事編)』にその実態がいくらか記述されています。韓国軍慰安婦と言う問題は韓国軍自体が作成した公文書に書かれている事であり、また金貴玉は複数関係者へのインタビューや複数の回顧録にもその記述があり、まずその存在そのものは事実であることは間違いないでしょう。


韓国軍慰安婦の誕生経緯と国連軍との関連性
 まず前段として、1948年2月に米軍政庁によって公娼廃止令が発行されており、当然ながら朝鮮戦争時においても公的には公娼が廃止されている状態です。そのような状況下の中で

表面化した理由だけをもって簡単に国家施策に逆行する矛盾した活動だと結論するならば別問題であろうが、実質的に士気高揚はもちろん、戦争事実に伴う避けることのできない弊害を未然に防止できるのおみならず、長期間、報酬のない戦闘によって後方との往来がないゆえに異性に対する憧憬けから引き起こされる生理作用による性格の変化などによって、うつ病およびその他の支障を招くことを予防するために本特殊慰安隊を設置することになった。
金貴玉『朝鮮戦争時の韓国軍「慰安婦」制度について』アジア現代女性史 第四号 2008

以上の様な設置目的の下で「特殊慰安隊」が誕生します。特に「家施策に逆行する矛盾した活動」は公娼制廃止を示すと考えるのが妥当でしょう。このは「特殊慰安隊」の設立時期は不明確ですが、1951年夏ごろの戦線が現在の休戦ライン付近になった意向だと推定、閉鎖は1954年3月頃だとされています。閉鎖後には私娼へと変貌し集娼地が形成されたとみられる場所も存在しており、その後の洋公主との連続性も存在しているとみて良いでしょう。
 この慰安所設立前には現地妻、女性を強制的に連れてきた「性上納」などがあり、

実際に韓国軍が38度以北の地域を占領したとき、いわゆる人民やアカ家族、女性に対してほぼ例外なく性暴力が加えられたとする。毎晩韓国軍が若い女性を強姦して歩き回るという噂が近隣の町から前きたし、すぐにその噂は事実で明らかになった。
([딴지일보 | 사회]한국군 특수위안대 : 한국전쟁 제5종 보급품은 '여자'였다
※記事を自動翻訳で確認

その後の慰安隊が出来る下地の前段として性暴力があったことが伺えます。

 また韓国軍慰安制度と隣接する問題として国連軍用の慰安施設があげられます。バクジョンミが『韓国戦争期売春政策に関する研究:慰安所と慰安婦を中心に』 2011 (自動翻訳で読んでますので誤りがある可能性が少なからずあります)内で指摘する所によれば1950年時点で各種新聞に国連軍用の「慰安所」設置を報じてられています。たとえば”1950年11月5日「京郷新聞」は「連合軍相手のダンスホール慰安所設置」”についての許可の話をソウル市警察局長が発言したとあります。ここでいう「慰安所」は性的な用途のみか、それともその他の娯楽を含めた幅広い意味での「慰安」施設かは分かりかねます。しかしながら1950年時点で国連軍用の慰安施設があった事は確かです。そして1952年の釜山日報によれば公認「慰安所」は78カ所と報じられています。
 バクジョンミによれば朝鮮戦争期の性従事者数に触れながらも、その相手の多くは国連軍(米軍)であったと指摘してます。これには米軍側が貨幣を持っている、そして人口の大半が貧困状態の当時の韓国という二つの状況が合わさった事が影響しているでしょう。その頃にはそういった女性を呼ぶ「国連マダム」などの呼称も存在しています。当時の新聞においては

過去を回想すると予期していなかった過渡期における数多くの家庭婦人が受難を受けており(中略)国連マダムたちの活躍が展開された後は、このような悲劇は根絶に近くなったので、このようにみると、韓国の女性の処女をため防波堤の役割をしているとしても過言ではない点もある
「釜山日報」、1953年
※バクジョンミ(2011)からの引用。自動翻訳による

以上の様に韓国女性の処女性を守る為の防波堤としても彼女らを見ています。ここで言う国連マダムは韓国軍慰安婦ではなく民間の性産業従事者という文脈でしょう。なお民間の彼女らに対しては一種の疑念が持たれます。性病やスパイ行為の可能性です。これは当時の韓国国内の新聞にも書かれている懸念であり、これも国連軍及び韓国軍慰安所が出来た背景の一つでしょう。

 韓国ナムウィキの「韓国政府の慰安婦」には1951年5月に「国連軍慰安方式の件」(自動翻訳からの意訳です)において国連将兵のためのダンスホール慰安所の設置と運営について政府の直接指示(最終決裁者は李承晩)があるとあります。この時点での「慰安所」は性従事を伴う慰安所かは不明ですが、バクジョンミによりその数か月後に作成された資料で政府が国連軍「慰安所」の設置に介入したことを立証する決定的資料を発見しています。その資料は保健省が1951年10月10日に決裁した「清掃と接客営業衛生事務取扱要領追加指示に関する件」(自動翻訳による)です。この資料上では「慰安婦」という単語が用いられながら、駐留軍当局の要請、一般住民に影響がある場合に施設を許可とあり、性病検診、許可証の必要性などの管理、隔離体制を構築しています。なおこれらの施設は民間が設置・経営して軍がこれを許可・監督するという形式であったといいます。韓国軍慰安施設は韓国軍が直営、国連軍は民間と相違はありますが、連続性は十二分にあるでしょう。この「民間」と「韓国軍直営」との相違に関しては、連合国軍と韓国軍との資金の差、市場の大きさではないかとバクジョンミは指摘しています。ただし韓国軍慰安婦の人数は300人と推定されるほどに数が少ない事を考えれば、韓国軍においても民間のそういった施設を利用していた可能性は十分にあるでしょう*14
 上記資料は米軍下部組織として創設されたUNCACK(国連在韓文民援助司令部)に報告する為に作成された資料だと推測されています。資料が作成される3か月前には感染症対策を樹立されており、その影響が資料にも反映されていると考えて良いでしょう。ちなみにこのUNCACKは朝鮮戦争期の米軍による性売買対策にかかわる機関として最も重要という指摘もなされている組織です*15

 韓国軍慰安所が出来た理由には日本と同様の戦場における強姦抑止などの性管理、性病防止やスパイ行為防止等によるものもありましょうが、そこには国連軍という別の要素の存在もあった事に留意が必要です。


韓国軍慰安婦の実態と日本軍との関連性
 後方戦史や回顧録などによればこの実績表及びその実態は、

f:id:nou_yunyun:20191017091435p:plain 金貴玉『朝鮮戦争時の韓国軍「慰安婦」制度について』より


  ・1人の慰安婦が1日に6回以上の慰安
  ・資料上では4つの小隊に89人
  ・予備役将軍の証言によれば60人を1個中隊で3、4個運用、軍慰安婦の数は180~240名ほどと推測
  ・1953年に新設された4つの小隊まで合わせれば300人を超えるものと推測
  ・慰安所には固定式と移動式の二つの形式が存在
  ・定期的な性病検査を実施   ・慰安所の利用者は年間20万人ほどと推定
  ・(一部例外もあるが)使用にはチケット制を導入、功績に応じてチケット配分
  ・参考論文内では賃金などの対価は不明


以上の様なものだったと言います。

 なお、この韓国軍慰安制度は日本軍慰安制度とその構造が類似している事が指摘されています。終戦から朝鮮戦争までの期間を考えれば旧日本軍士官であった人間が韓国軍にも相当数在籍しており、そして兵士の回顧録においても、

連隊1科から中隊別第5種補給品(軍補給品は1~4種しかなかった)受領指示があったので行ってみたところ、うちの中隊にも週に8時間制限で6人の慰安婦が割り当てられてきた。過去の日本軍の従軍経験がある一部の連帯幹部たちが部下の士気高揚のための発想でわざわざ大金の厚生費をかけて調達してきたのである。
金喜午『人間の香気:自由民主/大功闘争とともにした人生歴程』
※金貴玉『朝鮮戦争時の韓国軍「慰安婦」制度について』の引用文から

以上の様に日本軍との連続性が語られています。韓国軍には李承晩政府の下で日本軍出身の幹部たちが補充されており、その彼らが経験、若しくは見聞きしたであろう日本軍慰安婦制度を模倣したとしてもそれは何ら不思議な事ではありません。むしろ独自の発想で韓国軍慰安婦制度を創出した、と考える方が無理のある考え方でしょう。
 金貴玉の指摘する事によれば慰安所の直接的な責任と切り離すことができないという陸軍本部恤兵監室の前身である厚生監室を設立した朴璟遠は学徒兵としてですが日本軍兵士として太平洋戦争に参戦しており、その最中で慰安所を知る機会があってもそれは自然な事でしょう。なお「清掃と接客営業衛生事務取扱要領追加指示に関する件」という資料を考慮した際、米軍側の承認、若しくは黙認はほぼほぼ確実でしょう。


韓国軍慰安婦となった女性たち
 韓国軍慰安所及び軍慰安婦そのものは国家組織によって設立、運営される公娼制としての性格が強く、性病検診もて行われています。しかしながら韓国軍慰安婦となった女性が私娼や、若しくは国家への忠誠心の下にそこに参加したかと言えば、それは大きな疑問がある事です。そもそもよしんば国家の忠誠心などの下でそこに参加したとして、過酷な性従事労働(蹂躙)が免罪されるわけでもありませんが。
 韓国軍慰安所に詳細について記載された『後方戦史』には慰安婦となった女性の過程は言及されておらず、また公開募集をしたという記録も発見されてはいません*16。金貴玉の推定によれば「自発的動機」は殆どなかったとしています。例えば以下の様な事例が紹介されています。

1人は、10代後半の未婚女性で、1951年春まで咸鏡南道永興群の故郷に住んでいた。ある日、韓国軍の情報機関員、いわゆる北派工作員たちによって拉致されて一夜にして韓国軍の軍慰安婦に転落した。彼女はこのような事実を証言することを拒絶した反面、拉致した北派工作員2名によってこの事実が証言された。
金貴玉(2008)

その他にも悲惨な事例をあげるならば「アカ」という嫌疑を受けている状況下、及び直接的な強姦の結果として慰安婦になるしかなかったという状況、人民軍に連行されてその後に韓国軍によって連れ去られた女性の証言ではそこには複数の少女が監禁、その少女自身はその場にいた人間との結婚で軍慰安婦になる事を免れますが、そのほかの少女は軍慰安婦になったという証言、性従事に関する事だけは伏せられての勧誘などの証言が存在します。軍人の回顧録においても洒落た売春街の女性ではないと言う証言もあり、金貴玉の調査と併せれば一般女性が強制的に軍慰安婦になった事を伺わせます。また軍慰安婦になった女性の多くは左翼(アカ)容疑者ではないかという指摘もあり、往々にして戦時下のイデオロギーが強く影響しています。ただここで言う容疑者とは実態をあまり伴わないレッテルに近しいものでしょうが。
 ただし全ての韓国軍慰安婦がこのような悲惨な経緯でなったわけではないでしょう。金貴玉がインタビューした二人の北派工作員上記引用の工作員2人とは異なります)は彼女らを職業的に体を売る女性であったと一蹴しています。元将校の話では私娼窟で大金を払って連れてきたというエピソードも存在します。韓国軍慰安婦という国家による公娼制と国連マダムなどの私娼としての存在が話の中で混ざり合っている可能性がありますが、逆にそのすべてが「アカ」の嫌疑嫌疑や誘拐だった、軍による組織的な大量誘拐が行われたと一般化をするのは早計かもしれません。個々の事情は様々でしょう。なお当然ながら彼女らが私娼だとしても私娼ならば良かったのかと言う視点はありますが。
 朝鮮戦争という戦時下を考えればそこに戦争による帰るべき場所の破壊や極度の貧困が確実に存在したでしょう。さらに言えば日本軍慰安婦朝鮮人子女を多く活用した理由の一つにその伝統的価値観からくる純潔意識、性病の危険性の少なさが指摘されています。そのような純潔意識や当時の家父長制の存在を考慮すれば私娼であっても果たして「自発的動機」と言うものが何処まであったかは、考えるまでもないでしょう。少なくとも金貴玉の指摘した例などは明らかに強制動員です。


韓国社会での反応
 さて、韓国軍慰安婦に対する韓国における反応ですが、

韓国の学会や女性界では、日本軍慰安所は「公娼」との連続性があると見る主張に対して辛らつに批判してきたが、韓国軍慰安婦問題については「公娼」だと断定して再編の余地がないものと銘記する傾向を発見した。さらに一部の韓国の進歩的な男性たちさえも、民族主義の旗を掲げ、私の研究成果物が家族の恥さらしをする事だとみなし
金貴玉(2008)

以上の様に決して賛意を示す反応ではなく、学会などにおいても韓国軍慰安婦問題を「公娼」だと断定するなど、その反応は芳しくありません。洋公主においてもそういった概念から近年その国家による暴力性が見つめ直されている事から、この件についても多少の変化はあるかもしれませんが。また、この項目序盤でハンギョレ日本版が記事にしていないと書きましたが、韓国のハンギョレ21では記事化されています。
 ただし、この問題が日本軍慰安婦や米軍慰安婦と異なるのは、この告発は朝鮮戦争における韓国軍兵士、英雄たちであった「韓国人」男性の名誉を棄損する問題でもあるので、そこには困難さが孕むことは想像に難くないでしょう。誰の発言なのか、若しくは例えなのかは不明ですが、金貴玉(2008)の中に”『韓国軍慰安婦は「日本人」ではなく「韓国人」とそうしたのだから、それでもマシなのではないか』”という民族主義イデオロギーと家父長イデオロギーの混在した発言を書いています。また金貴玉は反共イデオロギーの存在も指摘しており、「アカ」の嫌疑によって軍慰安婦を強要していたとなれば韓国軍の不正問題へと繋がります。それを刺激したくないという面もあり得ます。そして何よりも韓国軍慰安婦経験を持った女性は口を閉ざし、金貴玉に対してもそれ以上の連絡を拒むといったエピソードがある様に、当事者たちが語りたがらない問題なのでしょう。

 自動翻訳の為に齟齬があるかもしれませんが、韓国のwikiにおいてはこの韓国軍慰安婦が問題化されていないことに二重基準ではないかという指摘も存在しています。問題提起が2002年、それから10数年経過してもその問題提起が日本軍慰安婦は言うに及ばず洋公主ほどの注目もされていません。洋公主の項目であげた『国家暴力と女性の人権 米軍慰安婦の隠された真実』では韓国軍慰安婦についても記述されたリ、第五種補給品を「제5종 보급품」とハングルで検索すると2018年製作のドキュメンタリー映画の感想が出て来るように関心のある人間は一定数は存在はするものの、

日韓基本条約アジア女性基金などで数回の賠償が行われて、政府との間の不可逆的合意まであった日本軍慰安婦とは異なり、この問題は、正しく知っている人でさえまれな状況である。 被害者を除けば、ほとんどが内容につきましては関心ない。
ナムウィキ 韓国軍慰安婦
※自動翻訳にて確認

という自省も込められているであろう文章がある様に、これが韓国における韓国軍慰安婦に対する現状認識であり、公論化されてはいないといってもあながち間違いではないでしょう。何よりも被害者が口をつぐんでいる現状では公論化はかなり難しいでしょう。
 またパクジョンミによれば韓国の研究も金貴玉の研究以降は停滞気味、韓国政府においても上述したように資料の閲覧禁止という行動、딴지일보の記事(2016年)において「国はまだ謝罪どころか、どんな措置もとっていない。」(自動翻訳)とある様に、ハンギョレ21の様な動くメディアや大統領への請願の中に韓国軍慰安婦を教科書にという請願もありますが、まだ社会全体が動いているとはあまり言えないでしょう。


日本右派による「ドラム缶」に女性を入れて運んだという話について
 日本右派の中には第五種補給品となった「韓国軍慰安婦をドラム缶(鉄製の桶)で運搬していた」という話が流布され、一部ネット右派の中ではシンボル化しており、そういったコラージュが一部で好んで使われています。そもそもこの記事はそれを見たきっかけがあって書いてるわけです。ある意味、今までのは前段です。最後にこの件をば。

 このソース元は2つあって、1つは昨今話題の『反日種族主義』を著したり、日本軍慰安婦について韓国内で物議をかもす事がある経済史学者の李榮薰の著作『大韓民国の物語』(邦題。韓国では2007年、日本では2009年に翻訳)によります。該当本では、

これ以外にも各部隊は部隊長の裁量で、周辺の私娼窟から女性を調達し、兵士たちに「補給」したのですが、部隊によっては慰安婦を「第五種補給品」と言っていました。私はその「補給品」をトラックに積んで前線を移動して回った元特務上等兵に会ったことがあります。彼によれば、慰安婦を前線まで連れて行くのは許可されたことではありませんでした。にもかかわらずドラム缶に女性を一人ずつ押し込んでトラックに積んで最前線まで行ったといいます 。夜になると「開店」するのですが、アメリカ兵も大いにこれを利用したということです。
李榮薰『大韓民国の物語』文藝春秋 2009

以上の様に元軍人とのインタビューの中で彼がドラム缶に女性を入れてトラックで運んだというエピソードが紹介されています。(ちなみに韓国語圏はで그날 나는 왜 그렇게 말하였던가で確認可能)。韓国の米軍慰安婦のwikipediaも彼の記述をもとにし、日本の第五種補給品のwikipedeiaもソースの一つとして李榮薰があげられています。
 李榮薰がわざわざ元兵士にあったと言う嘘をついてまで話を創作する必要性は流石にない……、と思われますので、そういった事例があった事は自体は事実かなとは思います。多分、一応。なんでこう歯切れが悪いかと言うと、韓国での情報を漁ってると李榮薰って独立運動家の子孫だという詐称(該当運動家の兄の娘の娘の息子が事実で子孫とは言えない)、ソウル大名誉教授だという詐称(資格を満たしていない。自ら名乗ってはいないという釈明あり)、『反日種族主義』についての議論が出てきたときにインタビュアーに暴行振るったり(インタビュー拒否を何回もしたという前提あり)など、ちょっと信用できない語り手ではあります。そのほかにも物議を醸している件がありますし⋯⋯。あと言わずもがなの親日派で(ハンギョレなどの進歩系では「ニューライト」)、韓国では珍しそうな慰安婦強制連行否定、朝鮮王朝批判、世宗が慰安婦の源流説などをする結構な個性ある人物です。それはともかくこのソースの一つは、と言うよりも韓国におけるソースは李榮薰となります*17


 少しだけこの李榮薰『大韓民国の物語」についての話で脱線をします。この箇所の引用はネット含め右派論壇で幾度か流用されて使われているものです。まず、該当箇所を写真で見てみましょう。

確認漏れがなければ私が引用した文章と同じものです。引用したのだから当然なのですが。ただ右派論壇で引用されると微妙に文章が変わるんですよね。たとえば、

門田隆将 従軍慰安婦が「韓国政府」を訴えた歴史的意味 2014.06.30

文章に若干の差異が見られますが何より李榮薰の著作の特徴である「ですます調」が何故か語尾が「言っていた」「行った」などの口調へと変化しています。また、

山際澄夫『韓国軍はベトナムで何をしたか』月刊HANADA

以上の様に「第五種補給品」のくだりがなかったりと文章の変更が見受けられます。文章の意味自体は何れにおいても変更されていないですが引用内容を何故変更したのか。該当本が重版を経て内容に変更が加わったとも思えない箇所ですし……、謎です。


閑話休題


 もう一つのソースは『後方戦史(人事編)』です。これは韓国wikipediaには書かれていないソースであり、日本の第五種補給品のwikipediaのみのソース(韓国軍慰安婦」の項目は全て李榮薰です)です。また後述しますがこの後方戦史ソースでドラム缶話をする方は日本語圏ではいくつか確認できます。で、wikipediaに限ればその出典は2014年、及び2015年のフォーカスアジアの記事だとわかり、そしてそのフォーカスアジアは中国メディアの環球時報及び観察者網を翻訳編集したニュース記事で、

1950年代に書かれた韓国陸軍本部の「後方戦史」では、当時、韓国軍が慰安所を設置し、女性たちを「特殊慰安隊」「第5種補給品」と呼んで、鉄製の桶に入れた状態で前線の米軍兵士の「お楽しみ用」として送り込まれたと記載されている。
フォーカスアジア 2014年記事及び2015年記事
※共にアーカイブです。

という両記事で同じ記述になっている事を確認できます。なお引用した様に記事中はドラム缶ではなく「鉄製の桶」と記述されています。この鉄製の桶が李榮薰の記述と併せてドラム缶となったのでしょう。ちなみに両記事共に引用箇所以外にもかなり類似の記述がある状況です。このソース元の中国圏記事にあたると環球時報の2014年12月の記事が每日头条で確認可能であり、その記述中に、

韓國陸軍本部編撰的《後方戰史》中承認,當年設有固定式和移動式兩種慰安婦慰安所的女性被稱為「特殊慰安隊」、「第五補給品」,而專為美軍服務的慰安婦還被裝進鐵皮桶里送到前線,供美國大兵「享樂」。
每日头条 2014年12月2日

と言う様に後方戦史をソースにして”慰安婦還被裝進鐵皮桶里送到前線”とあります。同様の記述が他の中国サイトでも見られることから、この記述がテンプレとして広まったと考えるのが妥当かと考えます。ただ、上記の記述以外は韓国における情報以上の新規性はなく、またこれ以前に後方戦史をソースとした記述は管見の限り見受けられません*18。閲覧禁止であろう資料を中国メディアが確認して新しい記述を加えたというのも少し考えづらい、探し方が悪いのか韓国の方ではwikipedia以外のサイトでもこの後方戦史ソースはない。参考にした論文や各サイトにおいてもドラム缶で運送というのは象徴的そうなエピソードにも拘らずそのような記述はなく、後方戦史ソースは信憑性に疑念があります。


 また週刊新潮2013年11月28日号において朴正煕が米軍慰安婦に関わっていたという記事の中でドラム缶の件に触れています。

その後、金教授は『軍隊と性暴力』に収録された論文において、
(中略。該当論文の引用)
要するに軍直轄の慰安所だったのだが、前線に慰安婦を送るときには1人ずつドラム缶に押し込み、“補給品”名目でトラックに積んでいたという。
週刊新潮2013年11月28日号『「朴槿恵(パククネ)」大統領の父は「米軍慰安婦」管理者だった!』
※該当雑誌が図書館になかったためネットからの転載となります。

以上の記事からは後方戦史、李榮薰のどちらがソースかはわかりません。むしろ事前に金貴玉の論文を引用している為にソースは金貴玉の論文かの様に見えます。しかしながら該当書籍を含め、金貴玉の韓国軍慰安婦関連の論文は4つほどありますがいずれにおいてもドラム缶に類する記述はありません。その為に金貴玉ソース、及び後方戦史ソースはないものとみるのが妥当であり、常識的に考えれば李榮薰ソースの話を金貴玉の話の後に付け加えたという事でしょう。あとこれはあまり関係のないことですが、週刊新潮記事内には「第5種補給品」という名称が使われていないにもかかわらず、「補給品」名目でトラックに積んでいたという記述になってて少し情報の出し方というか記述の仕方が少し下手だなと。


 それと右派論壇の渡邉哲也が2017年に、

「第五種補給品」とは慰安婦のことで、朝鮮戦争当時、韓国軍は女性たちをドラム缶や鉄製の桶に入れて韓国軍、米軍、国連軍に慰安婦として「供給」していた。これは韓国軍の正式文書の中に「○○基地に第五種補給品を20缶供給」などというかたちで出てくる記述であり、韓国軍が慰安婦に対して使用していた正式名称である。
Business Journal | 韓国、韓国人慰安婦をドラム缶に入れて米軍らに供給、政府が米軍向けに売春管理

と記述しています。この正式文書は後方戦史としか考えられませんが今までなかった具体的記述が現れています。「鉄製の桶」という記述から中国経由のニュース記事を受けて、という痕跡が見られますが上記記事の様な具体的記述は中国記事にはありません。私が確認した論文、韓国サイト、中国サイトの中にはそのような具体体記述はありませんでしたし、それ以前の日本語圏でもそこまでの記述はなく、エンジョイコリアのログである『韓国政府資料「後方戦史(人事編)」慰安婦関連部分完訳及び解説』(なおこのログは金貴玉の論文情報の域を出ません)にもその様な記述はありません。また渡邉氏自身が後方戦史を確認したわけはないのでしょうから、どこからの情報かは謎です。
 そもそも、です。「第五種補給品」は正式な補給品である第一種~第四種から派生した兵士間の別称です。常識的に考えて韓国軍「正式文書」とやらに書いてある可能性は著しく低いです。もしも書いてあるならば「第五種補給品」という正式な補給品があったという事になり、それは学術的な意味での「発見」レベルではないかと。付け加えると後方戦史には1956年に作成、「○○基地に供給」の様な補給情報を書く類の資料ではなさそうですので、このような文章があるとはあまり思えません。では後方戦史以外の正式文書、文言からすると補給品の指示書系の文書が残っているならば、これまた「発見」レベルであってその情報は韓国で出回ってるはずです。でも管見の限りその様な情報はありません。
 この情報の日本での初出はこの記事ですが、その記述内容、出所ともに信用性が著しく劣る情報です。大体「正式文書」とは何でしょうか。検証の為にもその正式文書がなんであるか言うべきでしょう。


 長々となりましたが、ドラム缶ネタについて時系列を簡単にまとめます。

1)金貴玉による問題提起(2002年)
2)エンジョイコリアなどのネット界隈で盛り上がる(2007年付近)
  ※同時期に金貴玉参加の国際シンポジウム日本大会があり、報道が出たからだと考えられる
3)李榮薰による兵士インタビューで「ドラム缶」発言が初めて出る(韓国2007年、日本2009年)
4)週刊新潮をはじめとして、日本語圏内でドラム缶話がちらほらと出るようになる(現存確認可能なのは2013年ごろから。ただし、wikipedia朝鮮戦争」の項目に李榮薰ソースで2011年頃に記述は存在)
5)中国報道によって後方戦史ソースの「鉄製の桶」が登場(2014年)
6)渡邉哲也により今までなかった「正式文書」ソースが怪しい記述が登場(2017年)

という様になります。問題発覚から数年間はなかった情報であり、途中から情報が出たのは李榮薰がそういった問題を受けてインタビューをしたからという線は考えられますが、後方戦史や「正式文書」ソースとなる中国報道及び渡邉哲也情報となると情報が不確かな所があり、それらは信憑性が高いとは言えないかなと。渡邉哲也情報などはその「正式文書」の名前が明かされない限り、信憑性はむしろ低いと断じざる負えません。


 あとこれは余談ですが、序盤に少し述べた日本の極右政治家(鈴木信行)がこのドラム缶エピソードを援用して挺対協などに少女像と円筒状のプラスチックを送り付けるという事件が発生しています。その際の韓国報道を数個みましたが、その円筒状のプラスチックについての解説はせずにただの円筒として記述しています。果たしてそういう場で「これはドラム缶を模して~」と解説をするのか、という点もありますが、韓国ではあまり有名な話ではないような気がします。勿論、ドラム缶の事例を書いてショックを受けている韓国のブログもありはしましたが。

 また、金貴玉のインタビューした予備役将軍の話には、

1952年、戦争が小康状態に入った時のことであった。連隊長の命令で正体不明の女性30人程が軍用トラックに乗って連隊に入って来、一個中隊に5、6人程あてがわれ、与えられた約8時間の間、中隊員たちが利用できるようになっていた。
金貴玉『朝鮮戦争と女性-軍慰安婦と軍慰安所を中心に』(徐勝編、『東アジアの冷戦と国家テロリズム:米日中心の地域秩序の廃絶を目指して』お茶の水書房

とある様に移動式慰安所のエピソードがありますが、ここではトラックに乗ったとだけあってドラム缶やそれに類する表現はありません。この証言のみでドラム缶に入れたという話がデマであるとは断じられませんが、少なくともその様な事があったとしても一部であったと考えるのが妥当でしょう。

 ちなみに日本軍慰安婦だった金福童さんの証言の中にドラム缶で運ばれたというものがあるといいます。この証言自体の信憑性は私は判断しかねますが、「慰安婦」という枠組みの中ではそういった事例が恐らくあった事だとは思われます。ただ、いずれにしても今回の第五種補給品の件においては、この件をあまりにも一般化、シンボル化するのは如何なものかと。
 そもそもこの「ドラム缶」は日本語圏では甚だしい侮辱としてしか活用していないですし、それを声高に叫ぶのは品性としてもそうですが根拠のある情報かと言う意味でも問題です。根拠があれば侮辱に使っていいわけではありませんが。


◆おわりに

 長々書きましたが最後に。日本語圏だと第五種補給品や洋公主などをもってして日本軍慰安婦へのカウンターとして使用している言説が多く見られます。またその中には、というかその中の結構なボリュームに「日本軍慰安婦はねつ造、もしくは問題ない」&「韓国軍慰安婦は問題だ」という評価を持つ方が結構おられます。その条件を満たすのは相当に難しいかと。人権的な立場から韓国軍慰安婦制度などを非難するならば日本軍慰安婦も同様に非難しなければそれは二重基準でしょう。ただおそらくそういう方は人権的立場ではなく国家主義的立場、なのでしょうが。


 あ、それと。2015年の韓国サイトPressianの「"누가 한국군 위안부로 끌려갔나"[인터뷰] 한국군 위안부 문제 재조명한 김귀옥 교수」という記事において、金貴玉は自身の論文が日本右派に悪意をもって利用されている事に憤っています。このインタビューでもある程度の詳細や氏の問題意識が分かるのでオススメです。自動翻訳でもかなり意味が解せますし。
 さらに上記記事に記述がある2014年の氏の論文『일본식민주의가 한국전쟁기 한국군위안부제도에 미친영향과 과제』においてもドラム缶や渡邉哲也の記述した部分に類する記述は無いように見受けられます。ドラム缶話は情報源が別なので置いといたとしても、渡邉哲也の方は出所の怪しい情報とみて良いかなと。


軍隊と性暴力―朝鮮半島の20世紀

軍隊と性暴力―朝鮮半島の20世紀

  • 作者:宋連玉,金栄
  • 出版社/メーカー: 現代史料出版
  • 発売日: 2010/04
  • メディア: 単行本

*1:あまりにも不快なので詳しくは言及はしませんが、日本の極右政治家である鈴木信行が「第五種補給品」の日本で流布されているエピソードを援用して下種下劣としか言いようのないモノを挺対協などに送っています。韓国のウェブサイトなどでも多く紹介されていますが本当に品性を疑うものです。

*2:公娼がいなかっただけで売春を行う女性はいました。 朝鮮王朝時代の妓生は賤民身分であり、基本的に官庁に所属、宴での酒食提供や歌舞を披露する身分です。給与は低く後援者となる妓夫の仲介によって特定男性との性的関係をもったといいます。なお妓生の他にも隠君子、三牌、色酒家などなどの性売買も行う女性が存在しています。

*3:日清戦争後の甲午改革によって身分制度が廃止。賤民身分ではなくなりましたが、それと共に妓生は官妓制度廃止で給与がなくなるなど、社会の身分制度廃止によって社会の流動化が発生します。

*4:1902年に朝鮮における初の遊郭が誕生。遊郭を作った「表面的」理由には風紀の維持と性病予防策が指摘されています。この理論は慰安婦制度が生まれる理由にもなっており、公娼制度と慰安婦のつながりを指摘する研究者は多くいます。

*5:日本においては江戸時代期に年貢上納のための娘の身売りなどを容認、前借金などもそのころから存在し、実質的な人身売買が行われています。朝鮮との誘拐の数比較などは分かりませんが、公娼制の導入と共に人身売買が増えたと言うのは妥当性があり、そこからの人身売買との繋がりは否定しようがないかなと。

*6:日本の植民地統治着手当初には妻への売春強要などが多かったようです。ただし、この「妻」は騙した女性を妻として売りとばす事例らしく、「娼妓」として売られていなかっただけの模様。当初は隠れ蓑の言葉を使っていたようです。

*7:慰安所は「韓国軍の直接介入による設置、民間業者が監督」と「民間業者が最初から進んで関係当局に申請、政府が許可する」の二形態だったといいます。

*8:李娜榮によれば、基地村の女性の収入は家族扶養に充てられ「1970年代当時京畿道観光運輸課は,京畿地方だけで年間8百万ドルの外貨が「洋公主」の手に入り,「彼女らが稼ぐドルに頼って暮らす扶養家族数も一日平均4名」」としています。また、基地村関係の産業はGNP全体の25%、このうち半分が性産業に関わるものだったという指摘もあり、財政的に大きな収入源であったのは間違いないでしょう。

*9:1966年の大韓民国大法院の判決文で「慰安婦」とは、「一般的に日常用語において、売春行為をしている女性」とされています。1990年代においても市や郡の公務員が米軍との関係を持つ女性を「慰安婦」と呼んでいたという事例も存在しています。なお同じ「慰安婦」という文言においてもその歴史性や背景などは異なる事から、同一性を求めすぎる事への批判が存在します。

*10:「自己集団に属する女性」という書き方は斯様に「男性的目線」を含む言葉となります。日本軍慰安婦にしても、そして何よりも洋公主においてはその自己集団の男性による協力と黙認が不可欠であり、これに類する言葉は家父長的な態度に近しいものである事に留意が必要です。

*11:余談ですが、日本軍慰安婦に官憲による強制性はなかったという主張がある様に、基地村に国が介入していたという公的な証拠が不在であるという主張もあるようです。

*12:1990年代に洋公主であった女性が殺害される事件があり、その折りに反米運動が高まった事もありました。ただし、ここには生前には蔑まれていたか見えない存在だったにも拘らず「被害者」になったからシンボル化され、道具として利用されたという批判(彼女の肉体的な暴力が民族への暴力へとすり替わった)もあります。なおこの女性の殺害方法は「肛門に傘が差し込まれ、子宮にはビール瓶がねじ込まれ、証拠隠蔽のためにマッチ棒を折って口にくわえさせ、体内には白い洗剤が撒かれていた」という凄惨極まりない殺され方です。ただ、この件をもってしても韓米友好関係は揺るがないと発言した地方公務員が存在したようです。

*13: 2019年10月13日現在、ハンギョレでの「基地村」での検索ヒット数は「13件」、「日本軍慰安婦」のヒット数は「194件」と10倍以上異なります。また「慰安婦」だけの検索では1000件を超えますが、これは基地村も含みますし、様々な言説を含みますので参考程度に。

*14: 金貴玉によると公娼が廃止された後の1948年10月には性売買する女性は5万人、朝鮮戦争後には30万人と記述しています。前者は韓国研究者による論文、後者は1958年の京郷新聞となり調査機関の統一性には問題がありそうですが、少なくとも戦争によって増加したころは確かではあるでしょう。

*15:UNCACKの釜山チームからは「性病管理暫定計画」を作成、米第8軍司令部へ「韓国に置ける性病管理計画」という文書を送っています。その中に売春婦の性病検診に関する記述があるなど、その後の慰安制度に通じる内容が記述されています。林博史『解放後南朝鮮・韓国の軍事主義と性管理.韓国における米軍の性管理と性暴力』宋連玉, 金栄 編著『軍隊と性暴力』より

*16: 公募募集ではありませんが、1952年の東亜日報において慰安所を早急に設置するような拡張論調が出現しています。前述した1950年時点の報道の様に当時のメディアも認識している案件だったという事です。

*17:ちなみに李承晩TVというyoutubeチャンネルを李榮薰はやっていますが、その中で韓国軍慰安婦についても語っています。こちらのサイトからある程度は確認可能です。ただその数字を見ると隊の構成記述や人数が金貴玉や元将校とやや乖離しています。記事中には金貴玉の論文が参考に値すると言いながらもそちらの論文(本記事末尾の氏の論文です)では慰安婦を旧将校の証言から300人超と推定、李榮薰は約700 人程としています。なおここでの講義が『反日種族主義』になっているそうなので、日本で出版される該当本にも同様の記述があるかと思われます。あとここではドラム缶話はしていません。

*18:2019年現在の日本において「第5種補給品」をグーグルの期間指定検索を活用して調べる限り、2012年ごろからこの話題自体が散見されるようになりますが2013年の記事は李榮薰がソース元になっています。また現在は閉鎖していますが韓日交流サイトであったエンジョイコリアで2007年ごろ同様の話題があった様ですが、こちらはサイト閉鎖、アーカイブにもないのでその内実は確認不可能な状態です。『後方戦史』完訳などのスレッドのログは現在でも確認できますが金貴玉氏の論文以上の事は書かれておらず、ドラム缶的な記述は一切ありません。

パリ講和会議における「人種差別撤廃問題」について

www.kantei.go.jp

 「提案の進展を、全米千二百万の有色の人々が注目している。」
百年前、米国のアフロ・アメリカン紙は、パリ講和会議における日本の提案について、こう記しました。
 一千万人もの戦死者を出した悲惨な戦争を経て、どういう世界を創っていくのか。新しい時代に向けた理想、未来を見据えた新しい原則として、日本は「人種平等」を掲げました。
  世界中に欧米の植民地が広がっていた当時、日本の提案は、各国の強い反対にさらされました。しかし、決して怯(ひる)むことはなかった。各国の代表団を前に、日本全権代表の牧野伸顕は、毅(き)然として、こう述べました。
  「困難な現状にあることは認識しているが、決して乗り越えられないものではない。」
  日本が掲げた大いなる理想は、世紀を超えて、今、国際人権規約をはじめ国際社会の基本原則となっています。

 っていう安倍首相の所信表明演説がありましたので、パリ講和会議における「人種差別撤廃問題」の話をばをば。


 そもそも本格的な話に入る前に言っておきますが、未来の視点を持つ私たちにとっては(といっても当時にも指摘がありますが)、この「人種平等」を掲げた国家は三一独立運動、五四運動などの「平等」を奪われた側による運動に遭遇しているので、甚だこの時期の「人種平等」を掲げて誇るというのはその時/その後にある「人種平等」との乖離を無視しており、表明演説にはふさわしくはないかなと。「世界中に欧米の植民地が広がっていた当時」というのも日本はその時期に台湾、朝鮮半島を植民地化していたり(琉球アイヌモシリも以下略)、中国での権益云々を無視するあたりも安倍首相の内面化している歴史修正主義のわかりやすい側面です。あと、現在の日本においても「人種平等」は云々と長くなりそうなので、本題へ。

 


◆「人種差別撤廃」へとつながる2つの趣旨

◆民間団体の支持と運動

◆そもそも「人種差別撤廃提案」はいつ生まれた?

◆人種差別撤廃提案に対する反応

◆山東問題が絡んだ中国への反応 日支恫喝事件

◆提案破棄に対する日本の反応

 

 

◆「人種差別撤廃」へとつながる2つの趣旨

 どこを前段階とするかですが、とりあえず当時には「黄禍論」があり、アメリカにおいては日本人移民排斥運動、カルフォルニアの外国人土地法(市民権獲得資格の無い外国人(主に日系人らアジア系移民)の土地所有などを禁止した法律。いわゆる排日土地法)、などアメリカで日本人が目に見えた差別を受けていた時代であり、反米的論調、集会が行われておりアメリカへの反感がはびこっていた状態です。また国際連盟への加盟が原内閣で考えられた際、内田外相は「人種的偏見」が厳然としてあり、それが帝国の不利になることを懸念しています。民にしても、官にしても、国民感情としても(日本人への)人種的偏見に敏感な時代であったことは確かでしょう。


 さて、そんな時代において、今回の演説にも名前がでた牧野伸顕は以下の様な意見書を提出しています。

大戦中の日本の対中国外交が列国の不信を招いた点を厳しく指摘し、「帝国ノ国際的信義ノ恢復増進ヲ期スルコト絶対二必要ナリ」と説き、中国に対する「強圧的利己的又ハ陰謀的政策乃至手段ノ類ハ細心ノ用意ヲ以テ厳二之ヲ慎ミ」、中国からの日本軍の撤退も率先して実現することを提唱する。
 鳥海 靖 『大正期日本の国際連盟観 - パリ講和会議における人種平等提案の形成過程が示唆するもの

以上の様な認識を示しています。ただし、これこそ歴史を少しでも知っていればさして改善されることはなかった事項でしょう。牧野は意見書でその他にも国際連盟問題に積極的賛同を示すことで人種問題解決へと繋げようとするなど、その意欲がうかがえます。

 牧野は国際協調主義路線であり、また吉野作造など民間人の中にも上記のような理由で人種差別撤廃提案と促進を図る運動を支持する人物が出現します。ただし、それとは別に国際連盟を担う欧米の国々への不信から人種差別撤廃を訴える人物たちもいます。枢密顧問官伊東巳代治は、

欧米諸国の日本に対する黄禍論的反応に極めて警戒的であったことをうかがわせる。そして、国際連盟が反黄色人種的政治同盟になることに大きな懸念を表明した伊東は、国際連盟発足に当って、人種平等(差別禁止)規定を連盟規約に盛り込ませることに強く固執するのである。
鳥海

以上の様な指摘がなされています。また、近衛文麿も上記に似た考えの様で「英米本位の平和主義を排す」という評論を雑誌に寄稿、「黄白人の無差別待遇」を主張すべきであると唱えています。これらの言説を理解するには、前述した様にアメリカにおける移民排斥やカナダ、オーストラリアでの排日問題などもあり、国際連盟が出来る以前に国民新聞において「米國が日本人を白人同様に取扱ふ事に依りて初めて其誠意が證明される」という主張からも当時の空気感が如何なるものかを察せられるでしょう。ウィルソン大統領の「十四か条の平和原則」*1という理想があるにもかかわらず、(日本人への)人種平等がなされていないというやっかみなどもあるでしょう。

 共に同じ「人種差別撤廃」を唱えていますが、その発想に至る趣旨には以上の様な二つの異なる位相が存在します。前者は理念主義的でありますが、後者は経験則もあるとはいえ(日本人としての)実利が絡む黄禍論へのカウンター的な問題認識といえるかもしれません。また後述するように山東権益が絡んでいる事にも留意が必要です。

 

 

◆民間団体の支持

 人種差別撤廃には民間団体も絡んでおり、人種差別撤廃案のための運動を行っています。黒龍会を幹事役とする国民外交同盟会は、

「列国ヲシテ人種平等ノ天則二基キ人種的偏見ヲ打破シ東洋人特二日支両国人二対シ英米両国ノ領土内二於テ従来取り来タリタルカ如キ諸法律ヲ撤廃セシムル」ことを要求している。

船尾章子『大正期日本の国際連盟観 - パリ講和会議における人種平等提案の形成過程が示唆するもの

以上の様な独自の講和条件案を加藤友三郎海軍大臣宛に送っており、ここではわかりやすく「日支」両国人とあり、そこには朝鮮人などの名前がないのは色々と示唆に富んでいます。黒龍会をはじめとしたこれら民間国家主義団体(大川周明、大井憲太郎、頭山満etc)にはアジアの盟主主義が存在しており、特にわかりやすい発言をしているのが予備役陸軍中将佐藤鋼次郎であり、

「此度の講和問題の席上にても、日本は須く亜細亜の盟主たる責任を忘れず、侃々誇々、正義を持して敢て他に下らず、人種的差別の不条理に関しては、飽くまでその撤廃を主張すべきである」
鳥海

以上の様な力説をしています。ここでは理念的な「人種平等」を言うものの、ケイン著なほどに日本の「アジアの盟主」的立場からの発言であり、「盟主」と「平等」という異なる価値観が併存している事から、彼らのいう「平等」とはどのようなものであるかがうかがい知れます。

 

 また、藤本博生『パリ講和会議と日本・中国--「人種案」と日使恫喝事件』によればアメリカなどの外国での受け止め方は移民排斥に対する声明であるという見解だったとされていますが、日本国内ではそれは一部だったと指摘します。最も力を入れていたのは「親ドイツの右翼」であり、

彼らは、講和会議の始まる前から、ウィルソンの十四ヶ条を揄揶するために、「何故に其十四ヶ条を十五ヶ条として人種上の差別を撤廃するの原則を掲上せざりしか」と論じていたのである。

藤本

というアメリカへの反発として人種差別撤廃を持ち出しています。パリ講和会議開始後に結成された「人種差別撤廃撤廃同盟」与野党貴族院議員、新聞記者なども参加していますが、中心となった右翼たちの意図は大勢順応主義の原敬協調外交に対する攻撃であったと指摘しています。これは後述しますが、提案が反対されるや否や連盟からの脱退論、孤立もやむなしという声も出ており、歴史に詳しければ既視感のある行動を連盟設立時からしています。つまりこの右翼たちは理念としての人種平等ではなくアメリカへの反発、そして何よりも国内の政局(政府批判の演説には野党各派も同調)が強く絡んでいるという認識が必要です。

 これら右翼の運動には吉野作造をはじめとした民本主義者は強く批判をしています。吉野作造朝鮮人、 台湾人、中国人に対する差別的支配及び感清をまず取払わねばならないと説き、阿部秀助はさらに被差別部落民の存在にも言及、木村久一は「少くとも我国の軍国主義者はその資格はない」と断じています。さらに石橋湛山は国内の制限選挙を例に挙げ、宮崎滔天は「其無差別を叫び人道正義を主張しつつ、東洋の小島を我に与へと言ふは、病人が譫言にも似て、何ぞ其言の陋なるや」と厳しく非難しています。つまるところお題目の「人種差別撤廃」のみについては賛意を示すものの、大日本帝国の実情とのあまりとの乖離を指摘されており、しかしそれは整合を少しでも気にする意思があれば誰でも気づく話なわけです。

 

 また大阪朝日新聞では、

遂に戦争発生の原因たる経済的障壁の除去に及ばざりしことな り......経済的障壁の撤廃とは他なし門戸開放なり、機会均等なり、移民の自由なり、少くも財産及び企業に対する無差別待遇なり、 貿易の自由なり、少くも原始生産物就中重要原料品の国境撤廃なり。......之を要するに国際連盟は、人類史上特筆に値するの企画たるに相違なきも、其の総てに於て徹底を欠き、殊に其の人種問題を除外し、海洋自由問題を除外せる所、早くも大国の利己の露骨なるものあり。

藤本

 国際連盟への厳しい批難ですが、中国や太平洋への進出という経済問題として「人種差別撤廃」を語っています。これは何も大阪朝日新聞だけではなく他数社の新聞社も書いている事であり、近衛文麿においても門戸開放の文脈で人種差別撤廃を語っています。このように当時の認識としては経済問題も絡んでいたことがうかがえます

 

◆そもそも「人種差別撤廃提案」はいつ、なぜ生まれた?

 船尾章子によると日本は1915年に「日独戦役講和準備委員会」を発足して講和についての研究を開始していますが、世界情勢の変化やウイルソンの14ヵ条の発表に対する用意がなく、また国際連盟発足の話に対する国内と国外の認識格差があったといいます。休戦成立の頃には外務官僚達は国際連盟の具体像をつかめておらず、連盟設立に対しての積極性もありません。そんな中で1918年11月13日の外交調査会に提出する国際連盟に対する政府方針の外務省原案に、

国際聯盟問題ハ最モ重要ナル問題ノーニシテ其ノ終局ノ目的ハ帝国政府ノ賛成スル所ナリト雖国際間ニ於ケル人種的偏見ノ猶未タ全然除却セラレサル現状二顧ミ右聯盟ノ目的ヲ達セムトスル方法ノ如何ニ依リテハ事実上帝国ノ為メ重大ナル不利ヲ醸スノ虞ナキ能ハス

船尾

以上の様にようやく人種についての記述が書かれます。しかしここではまだ人種偏見への懸念を述べているだけであり、人種差別撤廃には言及していません。提案をした講和会議の日付は1919年1月18日ですから、2か月前にようやく「人種的偏見」という文言が出てきており、長い間日本にあった理念的な提案とは言いにくいでしょう。なお、外交調査会においては上述した牧野の中国からの撤退を含めた理念主義的な話と、伊東をはじめとした人種的な話に分かれています。

 

 また藤本は人種差別撤廃提案には山東要求貫徹の為の一つの布石であると指摘しています。山東権益に関しては事前に中国の陸微祥全権と内田外相が日本で会談した折に内田外相が「合意成立」を公表したものの、陸全権の他の場所での発言を勘案する限りは実際にはその様な合意をしていなかったであろう事、またその場にいなかったものの会談の斡旋役を務めた西原亀三も公表した事実はないと言っています(西原は反原ある事に留意は必要)。日本がそこまでして山東権益を欲していたことはその当時の膨張主義や二十一か条要求などの姿勢を見ればむべなるかな、でしょう*2

 

 この山東問題に関しては欧米列強が再び中国帯場へ乗り出してきた時、どのように対応するかという危機意識が当時存在しており、

「人種案」は、この幣原が国際連盟に対して懐いたといわれる次のような感想と密接な関係をもつ。

「このやうな大円卓会議が出来て、各国代表がいならぶ中に幣原ごときが妙な顔をして下手な言葉で議論でもやったら損をするに決っている。利害関係国相互の直接交捗によらず、こんな円卓会議で我が運命を決せられるのは迷惑至極だ」

藤本

幣原においては国際連盟で他国から(特にアメリカでしょう)の干渉を嫌がる姿勢を見せています。上述した国際連盟の外務省原案には続きがあり、「本件具体的成案ノ議定ハ成ルヘク之ヲ延期セシムルニ努メ」と国際連盟の遷延策を述べ、そして止む無く成立するならば「人種的偏見ヨリ生スルコトアルヘキ帝国ノ不利ヲ除去センカ為事情ノ許ス限リ適当ナル保障ノ方法ヲ講スルニ努ムヘシ」とあります。この原案が無修正で採用されており、人種案の根拠となった事から藤本はこの記述と内田や幣原などが持っていた山東問題を絡め、人種差別撤廃提案は山東要求貫徹の為としています。外務省の中にも「人種偏見に基づく移民排斥を不当とする日本の立場を表明することに重点」と「戦後の国際社会の流れに積極的に同調、日本の従来の武断的政策に対する懸念」を持っている2つの見解があったとされる事からも(船尾)、必ずしも山東問題の為だけかについて私は疑問を持ちますが、しかしながら山東問題が重要なファクターであったことは確かでしょう。また、上述の大阪朝日新聞が指摘した様に経済的問題もそこにある可能性は高いでしょう。

 いずれにしても確固たる理念からの提案というよりも、山東問題、経済問題、国際連盟誕生という世界の趨勢、日本からの移民排斥やらというものが絡み合って生まれたものではないかなと*3

 

 

◆人種差別撤廃提案に対する反応

 人種差別撤廃の提案は否決されたわけです。賛成、反対の内訳は、

  賛成:ブラジル、ルーマニアチェコスロヴァキア

  反対:イギリス、フランスなどの多くの列国(アメリカは欠席)

  留保:中国

となり、見ればわかる様に賛成した国家は3か国しかありません。これを受けて牧野らは委員説得に奔走して国際連盟規約の前文に平等規定の一説を入れることを提議しましたが、提案には反対であったフランスなどを含めて過半数の賛成を得ましたたが、アメリカ、イギリスの反対があり全会一致(もしくは反対者無し)の原則によって否決。牧野は提案内容と陳述を議事録にとどめる様に求めて、この提案はなきものとなります。

 

 アメリカの反対の理由は国内世論が日本提案に拒絶反応をしていたことであり、採択されれば連盟非協力の意見もあったようで。アメリカ国民の民意の下に人種差別撤廃案には賛成できなかったとされています。これには同時代のアメリカで排日の動きがあったことや、アメリカはその構造上人種問題も多いことを鑑みればなぜ反対だったかは想像に難くはないでしょう。

 イギルスの場合はもう少し特殊で、自治領や特にオーストラリアの強硬な反対があったといいます。当時のヒューズ豪首相は第一次世界大戦での国際貢献の実績*4から会議に臨みます。そして最も強硬に人種差別撤廃案に反対します。同年にあった総選挙も睨んでもいたのでしょうが、当時のオーストラリアの国是「白豪主義」がある以上、人種差別撤廃には絶対に賛成できない提案であった事でしょう。イギリス、カナダらの他の自治領の委員が同意した妥協案にもヒューズは反対の姿勢を崩さなかったといいます。そして、

講和会議で、国際連盟加盟権の獲得、人種差別撤廃案の拒絶など数々の成果を獲ち取ったヒューズは、帰国して国民の熱狂的歓迎を受けた。そして、メルボルンにおける議会下院の演説(当時、国会議事堂はメルボルンにあった)の中で、「我々が達成した最大のもの」として白濠主義に言及し、「オーストラリアは安全だ(Australia is safe)」とその成果を高らかにうたいあげたのである。

鳥海

以上の様にオーストラリアでは熱狂的な反応で迎えられます。

 オーストラリは少々特殊ではありますが、しかしながらこの様な背景が当時の世界に厳然として存在した故に提案どころか前文などの妥協案すらもかなわずに人種差別撤廃案は日の目を見ずに終わりを迎えます。 

 

 

 ちなみにこの人種差別撤廃提案は当然ながらアメリカの黒人の賛成などがありました。ただし否決されたこと、またその際にはクークラックスクランなどによる強い反対派がいたことから対立は激化、大規模な人種暴動へと発展しています。この例の様にいかにその内実に日本の思惑があろうとも「人種差別撤廃」の美名は強く(そもそも各国も理念そのものはほぼ反対してません)、一部の人種に希望を抱かせたのは事実でしょう。ただ、です。人種案否決後の折衝の段階になると、広範な人種だから否決された、日本人への差別撤廃に限るべきだ、みたいな主張が強まっています。日本はラディカルに人種差別撤廃は求めておらず、

日本の体面が保たれる限りでの情報は許容範囲内だったのである。
 期成会においても、新聞・雑誌に見られたのと同様の方向転換が見られた。それは、第二回期成大会(三月二三日)における内田良平内田良平の「まだ蒙昧の域を脱しない所の南洋の土人や、阿弗利加の土人までも平等にしろと云うのではない」との言葉に明らかである。

佐川 享平『パリ講和会議・人種差別撤廃問題をめぐる国内動向(日本史学専修)(平成十五年度卒業論文要旨)

※要旨しか見つからないのでこれでご勘弁を

 以上の指摘もなされています。ここではアメリカの黒人には言及していませんが、果たして彼らの中には黒人の存在が平等にすべき存在だったかといえば、疑問符は免れないでしょう。

 

山東問題が絡んだ中国への反応 日支恫喝事件

  中国においては第一次世界大戦終了時に強権に対する「公理」の勝利だとして喜びを表す中国知識人が多くみられます。講和会議に求めることの中には「対華二十一か条の要求」を取り消し、台湾還付、朝鮮の独立などの声もありました。また講和会議では中国側が青島還付のための対アメリカ運動を行うなど、当時の日本としては目障りと言える活動を行っていました。特にこの講和会議中の運動を受けて、

北京では小幡公使が、十七日、親日派頭目曹汝霧(交通総長)に対し、 「列強二於テモ日本ヲ差シ置キテ極東問題ヲ決定スベキ道理ナキハ現在欧州平和会議二於テ日本ガ五大強国ノ一員トシテ予備会議二列シツツアルニ鑑ミルモ明瞭ナル次第ニシテ」と国力を誇示した上で、 「小策ヲ弄シ日本ヲ出シ抜キ日本ヲ中傷セントスルハ日本国民ノ最モ不快トスル所ニシテ其結果ハ決シテ支那ノ為二有利ナリト考フルヲ得ズ」とせまった。

藤本

と明らかな脅しをしています。さらに顧維鈞が演説で山東問題に関連する日中間の諸文書を講和会議に提示する意思がある聞いた松井大使は秘密にすべき書類を日本の承諾を得ずに示すことに不快感を示し、北京政府へ圧力の口実にしようとします。機密書類など実際にはないにもかかわらず。そして小幡公使が北京政府に実際に圧力をかけます。本国(外相)の指示を待たずに。秘密協定などなかったにもかかわらず。その内容は、

 ・イギリスが国内問題で手一杯であるのに対して日本は大気中の50万トンの軍艦と百万人の兵士を持っていること

 ・参戦借款には未貸与部分があるが、北京政府は引き続き日本からの経済援助を必要としていること

以上の二つは間違いないとされています。これが「日支恫喝事件」と言われるものです。これはアメリカ系英字新聞で掲載、その後に中国にまで転載されますが、これに対する反応は説明をする必要はないでしょう。日本はそこからもう一度火に油を注ぐ発言をしようとするものの小幡公使は止めに入り、また中国政府側においても民衆が売国奴批判にまで行きそうになったために沈静化を図るものの、中国のうねりは収まらず五四運動へとつながっていきます。「人種差別撤廃」という提案をする傍ら、わかりやすい帝国主義流の恫喝をしていたわけです。

 

 またイタリア代表が会議の処置に不満を持ち会議から去ったなどの前段があるなどで国際連盟の成立に陰りが見えます。それを好機とみた日本は山東問題の解決にかじを切り、幾度の提案*5をした人種差別撤廃問題を取り下げ、山東問題で日本の要求が容れられれば良いという交渉をします。ウィルソン大統領は、

自分の主義に反し、また米国内の世論の反対を受けても、国際聯盟を成立させるために日本の山東半島に関する要求を認めたのであった。「山東要求を容れなければ、日本は聯盟規約の承認を拒否するであろう。すでにイタリー全権が引揚げ、さらに日本が会議から脱退すれば国際聯盟は成立しなくなる」ウィルソンはこのように考えたのであった。

 池井 優『パリ平和会議と人種差別撤廃問題

以上の様に人種差別撤廃提案は山東問題のバーターとしてその役目を終えます。そもそも日本は講和会議における優先順位を山東問題、南洋ドイッ領委任統治問題、そして人種差別撤廃問題という順であったといい(池井)、上述した日支恫喝事件と合わせて考えれば、日本の提案する人種差別撤廃に含まれる意味が何だったのかがうかがい知れる事件であり、事案かもしれません。

 

◆提案破棄に対する日本の反応

 当然ながら反発を抱く層が存在し、講和会議から代表引き上げ、連盟加入も見合わせるべきという強硬論も存在しました。東京日日新聞も強い批判をしていますし、人種差別撤廃期成同盟第二回大会においては「日本国民は人種的差別撤廃を基礎とせざる国際聯盟に反対す」という決議がされてたりもします。さらには内田良平は、「吾人ハ此ノ目的ヲ達セサレバ国際連盟ヲ脱退スヘシ正義人道ノ為ノ孤立ハ寧ロ帝国ノ名誉ナラズヤ」という演説、野党各派も同調したといいます。

 以上の様に世論は沸騰気味の様でしたが、当時の政府は国際協調路線であった事や英米との関係悪化を避けるために強硬論にはくみはしませんでした。これには原敬という内閣が国際協調路線をとった、そして対英米対決路線が現実的でないとわかっていたからでしょう。

 ただし、期成同盟大会まで開くまでに盛り上がった運動ですから、その失望感は大きかったことも理解できましょう。そこから鳥海は、

心理的衝撃がもたらした対外危機意識は、日本人の伝統的なアジア主義的心情を刺激し、人種論的な世界観・国際政治論と結びついて、一九二〇年代の主流をなす協調外交路線に正面から挑戦する外交論・外交思想の形成に影響を与えることにもなった。

鳥海

以上の様な指摘をしていますが、その一因である事は確かでしょう。

 

◆結局のところ

 人種差別撤廃提案。この「文言」自体は意義のあるものであると考えますし、これ「単体」であれば誇れる提案でしょう。しかしながらつらつらと書いたようにその単体の周辺を見まわした場合は誇れはしないでしょうし、最初に書いたように同時代の三一独立運動や五四運動などの日本の影響下にあった植民地や国で民族運動が盛んになった時に「人種差別撤廃」を提案した日本はその提案に則した行動を取っていたか。その後に満州国、また朝鮮においては皇民化政策がとられるわけで、それが人種差別撤廃につながる事かといえば、ないでしょう。完全に日本人と同化すれば人種差別がなくなる、という論理なわけはありませんし、そんな論理は甚だ差別的ですしね。

 言葉は行動によっても評価されるわけで、言葉のみに着目して評価し、その後の行動を一切無視する。汚泥の中にある一輪の花だけ見てキレイだ、なんて言っても大して意味ないわけです。汚泥をかっさらって、その花を広げようというわけでもなさそうですしね。やっぱりこれを持ち上げるって歴史修正主義的だよなーと。

 

他に参考になりそうな文献

永田幸久 『第一次世界大戦後における戦後構想と外交展開 : パリ講和会議における人種差別撤廃案を中心として

*1:原則の中には「連盟各国平等主義」というのもありますが、伊東はこの原則には欧米一等国現状維持を目的としているのではないかという懸念もあったようです。

*2:合意が公表されたために講和会議で中国が反対した際に日本の世論は批難に沸いたといいます。まぁ、随分と身勝手です。

*3:右翼の活動が外務省に影響を与えたのかは不明ですし、反与党というわけではないでしょうから、その側面はここでは抜かしておきます。

*4:30万を超える兵士をヨーロッパに送り、6万近い戦死者を出す。動員兵士の戦死者は敗戦国のドイツを上回ったとのこと。

*5:当初は連盟案条文として提案、それが否定され、妥協と譲歩を重ねながら各国にロビイング、前文に入れる案、最終的に議事録に残すなどの要求の変遷があります。

「韓国向けフッ化水素輸出ゼロ」というニュースに対する経産省のニュースリリースについて

 

とか

 

などをはじめとして、8月の貿易統計を見ると「フッ化水素の韓国向け輸出額がゼロ」になったというニュースがあったわけです。さて、そのニュースに対して経済産業省ニュースリリースにおいて、

 

本日財務省から発表された貿易統計に関連して、8月の大韓民国向けフッ化水素輸出がゼロになったとの一部報道がありますが、許可の対象となるフッ化水素は8月中も大韓民国に輸出されていることを経済産業省として確認しています。

日本から輸出されるフッ化水素については、貿易統計上、国内における加工・製造の工程等によって、「フッ化水素(HS2811.11-000)」以外にも「再輸出品(HS0000.00-190)」として計上される場合もあり得ます。

以上の様な反論を行っております。

 

 では、実際の貿易統計でその推移はどうなっているのかというと……、「e-statの普通貿易統計国別品別表の8月」の東アジア地域のCSVファイルを確認すると以下の様になっていることが確認できます。

 

f:id:nou_yunyun:20191002145820p:plain

という様に「フッ化水素(HS2811.11-000)」の推移が記されています。が、これだとなんだかわかりませんから、さらに加工してグラフ化してみると、

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そして、「再輸出品(HS0000.00-190)」の推移は、

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以上の様なものであると理解できます。グラフからもわかる通り、というか各報道記事の通り「フッ化水素(HS2811.11-000)」の8月の輸出量は0kgであり、0円です。6月の輸出額が約6億円、7月の輸出額が約4億円という事を考えれば、多大な影響があったことは事実でしょう。

 

 ただ、まあ

別品目を管理する財務省としての見解と、特定品目の輸出管理を行い許可を出す経済産業省の間の見解が異なる場合もあるということは貿易実務に携わっている者であれば通常認識していることである。

主要メディアの「8月の韓国向けフッ化水素輸出ゼロ」の報道を経産省が否定 | ASEAN PORTAL(アセアン ポータル) 

 という話があったり、

「えっ、前はこの番号で許可が下りたんですけど...」みたいなことは、私がお勤めしていた時にも何回も遭遇していましたから、品目番号別に統計を出す財務省(税関)と直接輸出入の管理をして許可を出す経産省の見解が違うのは当たり前なんですよね... 

8月の大韓民国向けフッ化水素輸出量について | My treasures

みたいな話も合って、正直素人にはこれらの手続きにはよくわからない点も多々あったりするわけです。とはいえ上記の時事通信によると「輸出ゼロは比較可能な1988年1月以来初めて」とあるので、フッ化水素の輸出が大幅減少したのは紛れようもない事実かなと。

 

 ちなみに「フッ化水素(HS2811.11-000)」の貿易統計上での説明は、

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で、当然ですが「フッ化水素」そのものの説明です。そして「再輸出品(HS0000.00-190)」は、

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という様になります。「再輸出品」とは

輸入した商品を再び輸出すること。輸入した品物がその原形のまま再び積出されることをいう (日本の貿易統計などの定義) 場合と,修繕,加工のため,または輸出品の容器として輸入された品物が再び輸出されることをいう場合 (日本の関税法の定義) とがある。

再輸出(さいゆしゅつ)とは - コトバンク

以上の説明のうち、今回の件は後段の「加工のため,または輸出品の容器として輸入された品物が再び輸出」にあたるのかと考えますが、当然ながらこの再輸出品の中にはフッ化水素関連以外の再輸出品も含まれるわけで。この品目にフッ化水素が含まれるのは事実でしょうが、再輸出品に関しては6月約675億円、7月約635億円、8月約657億円と比較的安定していて、さらに「フッ化水素(HS2811.11-000)」の分がこちらに回ってきたかどうかに関してはフッ化水素の輸出額が再輸出品の輸出額の誤差の範囲内のレベルで統計上ではその存在を確認しようもありません。

 

 なんにせよ経産省の指摘は誤っていないであろうものの、統計上確認できる「フッ化水素(HS2811.11-000)」の輸出がゼロとなったのもまた事実なんですよね。さらに付け加えるならば、韓国関税庁の輸出入統計でもフッ化水素が「輸入0」となった発表したそうですし(韓国、フッ化水素「輸入0」でも屈せず-日本企業が外交の犠牲に - M&A Online)、韓国が欲している類の「フッ化水素」が輸出されていないことは事実なんじゃないかなと思うわけです。こう見ると経産省は主張は正しいが、しかしそれってミスリードを誘う様な反論、詭弁に近いものと捉えられても致しかたないかなと。

富山県立近代美術館(天皇コラージュ事件)について

 

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 あいちトリエンナーレについての話題は未だにくすぶっているわけであり、つまりは「天皇の写真を燃やすアート」とやらがまだ話題にあがってくるわけです。さて、とりあえずこの作品を「天皇の写真を燃やすアート」と単純明快な天皇を燃やす作品と捉えて方がいるわけですが、それはある種の傾向を持つ方々にはその様に世界が見えているから致し方ないのかもしれませんが、その世界の住人になってしまったら帰ってくることが中々にしにくいものなので、そもそもこの作品がどのようなものであったのかをば。

 

あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 第1回会議の配布資料「11 「表現の不自由展」展示禁止一覧 [PDFファイル/323KB]」ではその概要が記されており、

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作品名「遠近を抱えて」

経緯
1986年、富山県立近代美術館主催の「86 富山の美術」で展示された当該作品について、展覧会終了後、富山県議会、地元新聞での批判や右翼団体からの抗議により、同美術館は図録の在庫を焼却し、作品を非公開、その後売却した。作家が提訴した作品公開、図録公開の裁判は、作家側が敗訴。2009年、沖縄県立博物館・美術館でも展示が認められなかった。

以上の様に記されています。さらに第3回会議の配布史料「別冊資料1 データ・図表集 [PDFファイル/1.6MB]」では、月刊『創』でのった作者自身のコメントも転載されています。

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この作品説明に対する評価は個々人がすれば良いと思うのですが、単純に「天皇を燃やす」作品ではないことは確かです。天皇制とかを含めて考えると「内なる天皇」が今回も炙り出されたなとか思いますが。

 

 さて、この作品「遠近を抱えて」の問題が起こったのは1986年であり、この事件は「富山県立近代美術館事件(天皇コラージュ事件)」と呼ばれています。問題化した後にそういう解説を見ましたが、いまいち「議会や右翼の批判」とだけあって詳細な状況は漠然としています。なので事件を振り返るにはネットでなくて当時の新聞かな~、とか思っていたところ富山県議会において1995年の富山県議会でどのような事件だったのかがなんとなくわかるものがあったので、ここに紹介しておきます。

 

富山県議会 平成7年12月定例会 一般質問

※引用箇所が長くなるので、要約とします 


 ・1986年3月に「'86富山の美術」展が開催される

 ・作品出品後の定例県議会で2人の議員が批判

  ※この議事録は古い為、ネット公開は無し

 ・美術館長見解として「美術資料として保管する」との非公開措置表明

 ・知事は「慎重さを欠いた」と陳謝

 ・県立図書館は作品収録の図録の閲覧・貸し出しの中止決定

 ・右翼団体教育委員会と美術館に抗議、作品焼却と美術館長解任を要求

 ・1990年3月、市民団体や日本社会党の運動により、図書館で図録の制限つき公開決定

 ・公開初日、右翼思想を持つ神官がこの図録を破り捨てる

  ※この神官は最高裁で有罪確定

 ・県議会が「図録を破損した事件は、憲法に保障された表現の自由言論の自由を侵害する行為」との声

 ・1992年、右翼の一幹部が県庁内で知事に殴りかかるという事件発生

 ・1993年4月、美術館はこの大浦作品を個人に譲渡し、図録の残部470冊を焼却処分にしたと発表


 

 また、当時の記事の文章をアップしてる『ARAI'S ZANZIBAR,Tanzania PAGE』において、当時の議員の発言が以下の様に記されています。

既に展覧会も終った6月県議会の教育警務委員会で石沢県議(自民)がこの作品を取り上げて、「県民に親しまれている」日本の象徴である天皇を裸体や内臓と並べる「不快な」作品だ、と批判した。何故こんな不快な作品を県の機関が買ったのか、というのが石沢の批判の本旨であったようだ。この石沢の批判の尻馬に乗ったのが藤沢県議(社会)だった。藤沢は、7月の県議会本会議の社会党代表質問で再びこの問題を取り上げた。この質問で藤沢は、「作品に描かれている人物の人権をどう考えているのか」と知事に返答を迫るというア然とする様な質問(藤沢には人権概念が全くわかっていないのだ)を発した。

さらに右翼団体については、

7月下旬には右翼が全国動員(200名が街宣車に分乗してやって来た)で県教委に押しかけ、作品の焼却処分と館長の解任を要求した--と新聞に報道されているが、事実そうした要求もしたのだろうが、伝聞によると、県教委のオエラ方を日の丸の前に直立不動にさせ、“オマエラハソレデモ日本人カ!”といった精神訓話と恫喝をしたのだという--。

伝聞となり、少し根拠は薄いとはいえ「オマエラハソレデモ日本人カ」というのは昨今の電凸などを鑑みれば十分あり得た話でしょう。

 あとこの記事では触れませんが公立美術館が「表現の自由」や「知る権利」を侵害したとして裁判まで発展しています。ここ周辺の情報が詳しく知りたいならば『富山県立近代美術館事件 | 現代美術用語辞典ver.2.0』や『法学館憲法研究所』を参照すると良いかなと。

 

 オチもなくこれで記事は終わりますが、1986年と2019年、反応がまるで変わってませんね。天皇コラージュ事件が約30年ぶりにまた起こったという事であり、この部分に関しては日本人のアップデートは一切されず、下手をすればSNSで可視化された分余計に性質が悪くなったのかもなと。

 


追記

books.google.co.jp

 グーグルブックスにこの件を特集した本の中身が少し見ることができ、更には全部が見れるわけではないですが年表までついています。街宣車が50台以上連なって抗議したこと、右翼団体の抗議だけではなく市民グループが図録を公開せよという訴訟がされようとした中で図録が売却&焼却されたという事など、かなり詳細に書いてあるので問題理解にはかなり良いかなと。図録を破り捨てた神職の抗議文まで載っているのでネット上で確認できる中では随一の情報源。

 

中国外務省から流出したという「2050年国家戦略地図」について

 というまとめを作ったのですが、こちらでも。

 さて、

 

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っていう画像や、

 

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っていう画像が時折、「中国外務省から流出した「2050年国家戦略地図」」という触れ込みとともにネットで出回ることがあります。まあ、結論はさっさと言いますがどっちも当然ながら中国外務省の画像ではなく、つまりはデマ。上は日本人が作った地図で、下は中国人が作った地図でどっちも中国外務省は関係ありません。というか、そもそも本当に中国外務省から流出した地図ならば国際問題になるのが必然な地図なので、その時点で信じるに値しない情報ではあります。信じたいに値する、の人は多くいるっぽいですが。

 

 そして、正直このネタ元についての話題は

 

以上のブログ記事が完璧と言えるくらいに検証されています。拡散時点、日本で言及し始めたサイトは何処かだったか、中国のネット民のその時のノリなど。付け足す検証はほぼほぼないです……。

 

 一枚目はチベットを扱ったHPの「チベット侵略の象徴・パンダ」というコンテンツの中にある「チベットを日本に置き換えたら」というたとえ話の為に作られた地図です(2008年3月)。それが2か月後に「中国外務省」から流出したという情報が付与されて拡散されています(2008年5月)。グーグルの期間指定&画像検索ではこれ以前には遡ることができないので、これで確定でしょう。

 二枚目。こちらは2002年末ごろから中国のネット民が作ったことにより出回っている画像の一つです(日本での流布は2007年ごろ、そして上記画像と付け加えて2008年ごろからまた拡散)。既存のネット地図を加工したもので、中国の大学生などが遊んでる様子が上記のブログでも確認可能です。まあ、「韓国の「歴史教科書」とされるものの地図とか、ファンパとか、大陸史観とか - 電脳塵芥」でも書きましたが、どこの国でもどこまで本気かは分かりませんが、そういう人たちがいるという事です。

 

 ちなみにこれらの画像は2019年現在も未だに現役で、1年に数回そういう記事が作られている感じです。さらにツイッター(現存確認できる最古の書き込みは2009年)によって再拡散されている可能性もあります。

 

◆余談

 以下は余談。中国ではネットスラングで「YY」というのがあります。意味は「妄想」、自慰的な意味での妄想というのが近い感覚かなと。特に2枚目の地図は中国でも多く出回っているので「YY的地图」と呼ばれていたりします。

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というような感じに今回の地図も当の中国人自体がそういう妄想地図扱いしているという事です。間違っても中国外務省とか、国がそういう認識だとか、少なくとも表だってはありません。ただし中にはこの地図を見てジンワリとしてるっぽいアレな中国人もみかけましたが……。韓国でも大陸史観の地図を見て血気盛んな様子の人もいたし、そういう人間は何処でも少なからずいるという事でしょう。

 なお、中国では所謂「ネトウヨ」は「憤青」もしくは「糞青」と呼ぶらしく、またこの地図を作ったり、拡散していたのも大学生グループという話もありますので(中華連邦構想図 ( アジア ) - 我在北京なり 我想去香港ばー! - Yahoo!ブログ)、この若い層が悪ノリして作ってネットミーム的に生き残っているというところじゃないかなと。

 また、上記ブログにも紹介されていますが未来の中国の地図はいくつかあります。そういう遊びに近いことをやっている人も要るっぽいので、2枚目の地図はネットでの妄想未来中国地図の元祖的な位置づけなのかもしれません。いずれにしても詳しく知りたいなら上記ブログがお勧めです。中国の掲示板を翻訳していたり、背景がより明瞭にわかるので。

 

 

【続編】

 

nou-yunyun.hatenablog.com

 

 

■お布施用ページ

note.com

「日本人がハングルを広めた」という話について

  「日本人がハングルを広めた」という話がある界隈ではあったりします。確かに福沢諭吉、井上角五郎などをはじめとしてハングルの普及に関わった日本人知識層がいたのは事実ではあったりしますが、ではさて「日本人が広めた」というのは何処まで言い張れるのかという記事です。なお、文が結構長いです。1万2千字を超えました……。記事を分けた方が良いとは思もうけど、疲れたのでこのままで。

 

<目次>

◆日本人が関与したハングルを用いた新聞「漢城周報」について

◆開化期以前でのハングルについて

◆甲午改革後について(1894年~1910年頃)

◆植民地期の話(1910年~)

◆解放後について 

◆歴史修正について 

 

◆日本人が関与したハングルを用いた新聞「漢城周報」について

 1886年に創刊された韓国の新聞(政府機関である博文局が発行)に「漢城周報」という新聞があります。この新聞は「漢文&ハングル」で構成された国漢混用文(漢字のみ記事、ハングルのみ記事も存在)で記述されており、新聞、それも政府機関が関与した媒体にハングルが正式に採用された事を考えればエポックメイキングといえる新聞でしょう。そして、ここには福沢諭吉や井上角五郎ら日本人が関わっています。特に井上角五郎はハングル普及が日本で語られる際に触れられることが多い案件の一つです。

 では彼らは何故この新聞に関わる事になったのか。まず福沢は金玉均ら開化派とのかかわりを持っており、福沢の下には朝鮮からの留学生も来ています。当時を考えれば日本は開化し、朝鮮はその途上であったことが大きいでしょう。そんな留学生の中には兪吉濬(韓国で最初の新聞記者とされるらしい)という人物がおり、

新聞紙の発行は牛場顧問渡韓の際、先生が其実行を期せられた一事項であった。先生は予てより朝鮮人の教育上その文章を平易ならしむるため、彼の国の諺文即ち仮名文字を漢字と混用使用することに着眼せられ、兪吉濬が三田の邸に寄寓して居たとき、兪に命じて「文字の教」の文章を漢諺混用の仮名交り文に訳せしめ、文章はこれでなければならぬといっていられた。

李 垠松 『福沢諭吉のハングル普及支援に関する一考察―1881年~1895年を中心に

以上の様な学習の様子が『福澤諭吉傳』で語られています。福沢は文章は「平易」なもの*1にして近代化を促進すべきだと考えており、これが新聞でのハングル使用という発想へと繋がっていった事は想像に難くありません。兪吉濬は新聞発行への尽力や外務省にあたる場所の主事に任命され、漢諺混用文*2を使用しており、福沢の貢献は小さいものではないでしょう。しかしながら、忘れてはならない事は兪吉濬は既にハングルを使用出来ていたという事です。彼は日本に留学している時点で知識階層であり、そこに留意は必要ですが、ハングルはこの時点ですでに一定の知識のある層には扱える文字だったという事です。もちろん、知識層が知っている事と「普及」は分けて考える必要はありますが。

 

 

 さて、次に漢城周報の実際の発行について。朝鮮は江華島条約によって開港後に日本人居留が発生、外国語新聞である「朝鮮新報」が発行されたり、朴泳考などの開化派は世界の政治情勢を知る為など自国で新聞を発行しようとする下地が存在します。そんな状況の中で、

兪吉濬の新聞に対する関心は既に一八八一年の修信使の随行員として日本を視察した時からのことあった。その時、東京で新聞社を見学し、『時事新報』の福沢諭吉や『東京日日新聞』の福地源一郎らと接触していた

井上角五郎が朝鮮に入国した動機は,特命全権大臣兼修信使朴泳考一行の要請とそれに応じた福沢諭吉の推薦によるものである。一行は帰国前に福沢と会って階下のための優先課題を相議した。その際に福沢は,第一に留学生の派遣,第二に新聞の発刊を勧めた。そして一行は新聞発刊を支援すべく日本人の派遣を要請

金 鳳珍 『朝鮮の開花と井上角五郎--日韓関係史の「脱構築」を促す問題提起

以上の様に福沢の助言があり動き出していますが、ここには朝鮮側との相互関係が働いていることがうかがえます。当初は漢諺混用文での発行が考えられていましたが、朴泳考はこの後に失脚、井上以外の日本人協力者は帰国するものの井上だけは奔走し、そして金允植と出会い、朝鮮朝廷にとどまり井上は新聞発行の計画を詰めていきます。この間には兪吉濬も官職を辞したり、保守派は漢文で記述すべきだと言う声が根強くあり、朝鮮初の新聞「漢城旬報」は漢文での新聞となっています。

 

 しかし、甲申政変によって漢城旬報は途絶えます。その後に井上(政変で帰国、その後にまた渡航)は国王宛てに諺文ハングルの事)を使用すべきという要望書を出し、金允植経由で高宗に渡り(稲葉 継雄 『井上角五郎と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に』)、高宗が新聞復刊を許可します。なお、この新聞復刊の使用文字に関しては、 

井上角五郎は姜瑋(カン・ウィ)を師として国文を学び、『漢城旬報』創刊号が発刊されたのち、新聞発行の責任者であった金允植も井上角五郎の影響を受け、国漢混用文がきわめて便利な文体であることを理解するようになった

(中略。以下は引用文)

井上は金允植と相談して正音と漢文と相混じたる記事を掲げたり。

(金 鳳珍 )

以上の様に姜瑋及び金允植の助力がある事に留意が必要です。井上は金玉均などの急進開化派が亡命した後にも朝鮮政府と変わらずに付き合っており、当時の朝鮮にとって有用な人物と認識されていた事は間違いないでしょう。ただしそこには当然ながら朝鮮人側で尽力した人物、本記事で言えば兪吉濬、姜瑋、金允植などが存在しています。彼らの存在を忘れて、井上の功績のみを語るのは誠実とは言えないでしょう。

 また、

 「漢城周報」の場合(略)純漢文・国漢文混用・純ハングルの3パターンの記事が載せられた。というのも、漢城周報」の純ハングル記事はより広い購読者を対象にしたからである。井上が国漢文混用記事に関して、姜瑋を個人教師として招いたといわれており、その点から純ハングル記事はやはり姜瑋などが参加

(金 鳳珍 )

 井上や福沢は「国漢文混用」を推進していましたが、上記の記述の様に純ハングル記事があったこと、それがより広い購読者を対象にしていたという記述は「日本人がハングルを広めた」という主張とは若干齟齬をきたすものです。さらに言えば赤字財政で博文局が1888年に閉鎖されたこともあり、漢城周報は約2年半でその使命を終えるに至ります。今後の先鞭となった事を考えれば期間の長短は無視していいかもしれませんが、「普及」が実現するには短い年月と考えも出来ましょう。

 

 稲葉によると漢字・ハングル混合文創始の功績は誰に帰せられるべきかという見解は4つに分かれているといいます。その4つとは、

 ・姜瑋を功労者とするもの(日本人の関与は薄い)

 ・姜瑋らの朝鮮側の功労と井上ををはじめとする日本側の熱意を評価するもの

 ・福沢、井上に重点を置くもの

 ・井上個人に対する賞賛

以上の様に評価が分かれています。読めば察せられるように前二者は韓国側の主張、後者は日本側に多い主張です。姜瑋は井上の師であることからも文体の創出には大きな役割を担っていたことは間違いありません。ただし1884年に亡くなっており、漢城周報の創刊には関わってはいません。文体創案への功績は大きいものですが、新聞への関与は薄いと見て良いでしょう。しかし井上に関しても漢城周報創刊直後に母親の葬儀のために一時帰国し3か月近く不在であったり、その後に朝鮮各地域の巡遊などで編集に携わったのは5、6か月とそこまで長いものではなく、漢城周報の継続発行、つまりは国漢混合文の普及に継続的な貢献をしたかと言えば微妙な面があるのも事実でしょう。

 韓国研究による井上らの尽力の軽視には問題点があると考えますが、逆に日本人が韓国で尽力した人間を軽視するのもまた問題でしょう。井上が熱意をもって朝鮮へ働きかけたのは事実ですが、実際に朝鮮政府での折衝を行った事、文体創出をしたのは当の朝鮮人であるのですから。

 

 井上角五郎、及び福沢諭吉は日本で言えば文明開化の為に助言などを仰いだお雇い外国人と同じ様な役割を担い、彼らに功績があるのは確かです。そして何よりも新聞でハングルが使用されたことは「言文一致」の観点、ハングルの使用によって両班階級だけではなく庶民階級にまで読者層を拡大させたなどからエポックメイキングである事も事実です。ただし、またその一方で彼らの中には朝鮮進出論があり、「日本の善政で朝鮮を指導する」といった植民地主義的な思考があった事には留意しなければなりません。また当然ながら新聞に関わった朝鮮側の兪吉濬、姜瑋、金允植らを忘れてもなりません。功績が存在するのは確かでしょうし、普及へ一役買ったことも事実でしょう。しかしあくまでも「一役」であり、その功績をあまりにも大きく見過ぎるのは過大な自己評価ではないかと考えます。

 

◆開化期以前でのハングルについて

 そもそも開化期以前のハングルの状況についてです。ハングルは15世紀に世宗の発案によって生まれた文字であり、当時は「正音」と呼ばれ、のちに「諺文」、そして「ハングル」という名称へと変わっていきます(ほかにも呼び名は複数存在)。誕生当初にっては当時の支配階層にとっては漢文が「文」の世界の全てであり故に強い抵抗にあいました。しかし世宗はハングルの創出を成し遂げ、朝鮮王朝の建国を称える『龍飛御天歌』(1447年)を朝鮮語を主体(漢文での構成ではなく朝鮮語、つまりは言語をそのまま文章で記述)して、中には漢字を用いずハングルのみで構成されている詩もあるなど、当時からすでにハングルのみでの記述が試みられています。世宗期には他にもハングルを使用した書物が存在しており、この時期にはハングルの普及を試みている事が伺えます。また民衆教化のためにハングルを用いた書物『諺解三綱行實図』(1481年、成宗期)があるなど、行政においては漢文が使用されていましたが、ハングルもまた決して一切使用されていなかったわけではありません。

正音エリクチュールは民衆の思想的な教化に大きな役割を果たす一方で、他ならぬ漢字漢文を学ぶのにも大いに役立った(※)。漢字音を正そうという世宗の思いは、伝来漢字音の伝統に勝てなかったが、漢字の音を知るという点では、<正音>は<反切>などとは比較にならぬほど優位に立つ。

野間秀樹 『ハングルの誕生 音から文字を創る』 

 ※引用者注:漢字の発音にハングルを用いる。要は日本におけるフリガナ。

とある様にハングルが使用されていたのは間違いない事実であり、決して忘れられた文字ではありません。

 また17世紀にはいると漢字漢文小説ではなく、ハングルで記述された「国文小説」が登場(『洪吉童伝』(1618年)、『九雲伝』(1692年))、パンソリという口承文芸(書かれる場合にハングルで書かれる)などの潮流があるなど、徐々にですが確実に民間へと膾炙していっていると捉えて差し支えないでしょう。成宗の子である燕山君の時代にハングルの禁圧*3がありましたが、クーデターによって燕山君が廃された後にはそのような禁圧はなくなっています。

 

 そして野間は以下の様に指摘しています。

<正音>は、朝鮮では「諺文」であると卑下され、「女文字」と言われて、近代になるまで実際にはあまり用いられなかったという見解が、後を絶たない。(略)<正音>が用いられなかったというのは、政治や権力、歴史の表舞台に出なかった(略)という点においてである。(略)少なくとも文字を用いる階層の言語生活には、なくてはならぬもの、控え目にいっても相当の位置を占めるものであった。

野間秀樹 

野間はさらに識字率云々とハングルの使用は別の問題としています。識字率は国民への教育であり、文字の使用とはまた別問題であるからです。文字を知り、文字を用いてた人々はハングルを使用していたのです。その証左としてハングルで手紙を書いた「諺簡」というものがあり、また兪吉濬がハングルを書いていた事例を思い出せば文字を知っている層には連綿とハングルが使用されていたことは想像に難くありません。

 このハングルの使用については、板垣竜太『植民地期朝鮮における識字調査』における「朝鮮人年齢別識字率1930年」のグラフからもそれが示唆されています。

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以上の調査は1930年ではありますが、朝鮮併合後に教育を受けていないであろう40歳以上の人間においても「ハングルのみ識字」は男性では40%付近を示しており、少なくとも男性層の4割近くは併合とは関係なくハングルを読めていた可能性があります。

 

 

甲午改革後について(1894年~1910年頃)

 1894年の甲午改革の過程で、

朝鮮語は,1894 年に高宗の「国文使用」に関する勅令第 1 号 18)の発表により,朝鮮時代に「諺文」と呼ばれるまで,国家の公式的文字として使用することが出来なかった訓民正音が「国文」に昇格した。その後,「国文」に対する研究や規範化が活発に行われ,朝鮮語を「国語」と呼ぶ自覚運動が始まった。

李善英 『植民地朝鮮における言語政策とナショナリズム ─ 朝鮮総督府の朝鮮教育令と朝鮮語学会事件を中心に ─

近代の改革の立役者であった兪吉濬(略)は学部大臣の職にあり、一八九四年、あらゆる法律、命令を、国文、即ち<正音>によるものとし、これに漢訳を付す、もしくは国漢文を混用することを宣言した。

野間秀樹

とある様にハングルは改めて「国文」の地位に格上げされ、国漢混合文が政府公認の文体であると再確認されます。さらに朝鮮史上初の憲法とされる「洪範十四カ条」は純国文(ハングル)、純漢文、国漢混合文で作成されています。この起草には当時閣僚であった兪吉濬が関わっているとされています。また兪吉濬は1895年に国漢混合文による朝鮮最初の書物『西遊見聞』を公刊もしています。

 以上の様に日本の植民地化する以前から徐々に政治を含めた朝鮮社会において混合文が一般化、漢文偏重から脱していきます。兪吉濬は日本人との交流もある人物であり、また甲午改革は日本の軍国主義的野望を背景として多くの要求がなされた事、その要求の中には近代学校制度の採用(後述)などがあった事には留意は必要です。 これらの改革に日本の影響は否定はできないでしょう。ただしこれをもって日本の功績を誇るのは問題がありますし、諸制度制定は朝鮮側が行い、また純ハングルでの記述などは日本の要求とは考えれず彼らの自主的な試みとみるのが妥当でしょう。

 

 改革の一環で教育についても新学制が開始されます。前述した兪吉濬は教育の重要性(学校のみなく図書館の設立等も主張)しており、彼は国民教育への道を開いたとされます(文洪植『朝鮮の開化期教育思想と日本との関わり : 兪吉濬の開化思想と甲午改革を中心として 』)。その様な教育改革の中でのちに「学部」と称される部門が設置され、高宗皇帝が「教育立国」の証書を下賜しています。そして小学校令が1985年に発布、

第八条 小学校ノ尋常科教科目は,修身,読書,作文,習字,(以下略)

李 淑子 日韓併合前後の朝鮮語教育 : 教育令および諸学校規則上ならびに教科書内容上二方面からの考察

以上の様に「読書、作文、習字」という読み書きに関する法令が発布されています。それら「読、作、書」の毎週授業時間は48%とされており、約半分が国語教育に充てられていました。また教科書である『國民小學讀本*4』では歴史上はじめて国文教科書として国漢混世文体で作成されています(野村淳一『甲午改革期の学部編纂教科書の特性について : 「國民小學讀本」 (1895) を中心にして』)。授業時間などが特に顕著ですが、これは日本統治下で行われた「朝鮮語」教育の時間と比較すれば雲泥の差です。当然、日本統治下が泥です。ちなみに李淑子によれば1905年の保護政治前*5までは日本人顧問の意見を取り入れているものの、あくまでも立案主体は朝鮮側と見る事が出来ると述べています。またこの頃には私立学校の設立*6など教育熱の高い時期でもありました*7

 

 

 更にこの時期に全文ハングルを使用した新聞や機関紙がいくつも世に出てきています。

  1896年『独立新聞』(全文ハングル、朝鮮初のハングル専用新聞、政府支援有)

  1897年『毎日新聞*8』、『帝国新聞』(全文ハングル)

  1898年『協成会解放』(学生団体「協成会*9」の機関紙、全文ハングル))

これらはハングルを一般に普及する為の「ハングル運動」と呼ばれた運動の一環でしょう。「独立協会」などの民間団体が活発に動き、ハングルと言う文字を啓蒙していきます。これらの運動には新知識層、市民層、農民層が加わり、新興社会勢力の一つなったと言われています(李善英)。『独立新聞』という名称や学生団体などの動きからも民族自立的な文脈でハングルを使用している意味が何であるかは自明でしょう。ここで彼らは自らの選択肢でハングルを選択しており、日本人がそこに大きく関与したというのは無理があります。彼らが対抗する「敵」としての関与ならば十分にありえますが。

 

 学術的な面で言えば、甲午改革からは10年以上の時を経ますが周時経という朝鮮語学者は1908年に『国語文典音学』、1910年に『国語文法』といった書を記しており、1907年には朝鮮政府によって設置された国文研究所に参加し、綴字法案などを提出、これはハングル正書法の基礎を作るなど、朝鮮語研究に多大に影響を与えていると言われています。その功績故に韓国、北朝鮮で共に周時経は民族の偉人として扱われています。またこれは植民地化後ですが、1913年には「訓民正音」、「正音」、「諺文」と変遷してきた名称が周時経によって「ハングル」と名付けられたともされています。

 

 

◆植民地期の話(1910年~)

 日本植民地期の朝鮮において「国語(日本語)」とは別に「朝鮮語」の教科があった事は事実です。しかし、「第一次朝鮮教育令」(1911年)を構想する際に帝国教育界の建議や内地の「有識者」などの意見聴取を受ける中で寺内正毅は「朝鮮語」を必修科目として課す必要はないと考えるに至ったとあります( 大澤宏紀『朝鮮総督府による「朝鮮語」教育 : 第一次・第二次朝鮮教育令下の普通学校を中心に』)。実際には「朝鮮語及漢文」という必修科目として課すことが規定されましたが、実際には軽視している事が伺えます。教科書も日本語で編纂されています。また実情としては漢文の授業が多くを占めていたという指摘もあります(李善英)。そして教育が行われている際には「標準語(京城語)」の普及が不十分であり、書き言葉で言えば第一回綴字法に関して、

朝鮮総督府の補助を受けながら発刊され続けた朝鮮語新聞『毎日申報』や『朝鮮総督府官報』の「朝鮮訳文」、そして「教育勅語」の「朝鮮訳文」でも、第一回綴字法には準拠していなかった。つまり、教員検定試験も含め、これらの公的な性格をもつ刊行物では何ひとつ第一回綴字法に従っていなかったことになる。このように、朝鮮総督府は第一回綴字法を普及させる意図がそれほど大きくなかったことが分かる。

大澤宏紀 

 と言う様に学校で教えている事が実際の社会で役に立たない構造があり、初期の教育はずさんな状況です。

 1922年に制定された第二次朝鮮教育令においては朝鮮人有志が臨時教育調査委員会に対して「教授用語を朝鮮語にせよ」などの建議を提出したものの、教授用語に関しては建議の機会さえ設けられずに無碍にされています。そして教授時間は平均5.5時間から、3.3時間に減少しています。また、第二回綴字法は朝鮮人によって強い批判を浴び、1930年に諺文綴字法(第三回綴字法)が決定される際にはそのメンバーには後述する朝鮮語学会(当時は朝鮮語研究会)の会員が選ばれるなど、朝鮮人自らが関わって改善されることになります。

 以上の様なずさんさは日本人の朝鮮語学習の為に協力していた朝鮮語研究会の会長李完應も、

朝鮮人児童生徒の為の朝鮮語教育が学務当局からおざなりの扱いにであることを慨嘆し、「学政当局者は今少しく真に挑戦を思ひ朝鮮人の将来を思うて、朝鮮語の統一を図り健全なる発達を遂げしむるに努められんことを望む」(「朝鮮の学政当局はなぜ朝鮮語を度外視するか」一九二七)としている。

安田敏郎 『「国語」の近代史』

と言っている様にその教育態度はかなりおざなりであったことが伺えます。あくまでもこの時期にとって朝鮮語は朝鮮(総督府)にとって「国語」ではなく「地方の言語」扱いだったのでしょう。そして、東亜日報には以下のような記事があります。

今日の普通学校は日語全盛、日語万能だ。崇高なる日語が朝鮮語を圧迫している。(略)冊数が少ない、時間が少ない、教材が無味だ、充実した参考書がない、入学試験もない。このようななかで、〔「朝鮮語」科目に〕好成績を要求することができようか。(略)教師にしても家庭にしても、この朝鮮語を等閑する傾向が少なくない。現今、事実として朝鮮児童の朝鮮語は学科中最も劣った成績であるのをみるとき、寒心の涙を禁じえない。

大澤宏紀 

 これが「朝鮮語」という科目の一つの実情でしょう。この朝鮮語の成績が最も悪いとは、「卒業しても雑誌一ページも読めない、ハングルの手紙一通もまともにかけない」だと言われています。ちなみに実社会で使用されている朝鮮語と学校で教わる朝鮮語に乖離があり、それによって成績が悪くなるという指摘や、内地の日本人が朝鮮語時間を受け持ったという話もあり、ずさんな教育状況は1930年代にはいっても変わらなかった様です(ともに大澤による)。

  そして1938年の第三次朝鮮教育令。この段階では皇国臣民の育成に励んだ時期であり、朝鮮語」は随意科目となり必須科目ではなくなります。以下の表を見れば一目瞭然ですが、時代の経過と共に「朝鮮語」の教育時間が減少、最終的には消滅します。

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李 淑子 『日韓併合前後の朝鮮語教育 : 教育令および諸学校規則上ならびに教科書内容上二方面からの考察』より

 以上は主に教育面ですが、言論方面で言えば、1919年以降の宥和政策への転換に よって1920年東亜日報朝鮮日報、時事新聞などの朝鮮語の新聞が創刊されます。これらはハングル普及に一役買ったとみて良いですが、3・1独立運動を契機とした武断政治から文化政治への転換と言うだけで、日本人がその普及に手を貸したなどはちゃんちゃらおかしい話でしょう。

 

 さて、先ほど教育の状況で挙げた「朝鮮語研究会」は当時の日本への協力者でありましたが、周時経の遺志を継いだ「朝鮮語学会(元の名称は「朝鮮語研究会」だったが上記研究会と被る為に改名)」は1930年代に行政とは別に辞書の編纂、方言調査、標準語査定、正書法制定、文字普及運動を行っていました。最後にある「文字普及運動」とは

日本が朝鮮語を容認する状況を利用し,ハングル講習会のような大衆事業を行ったことである。文字普及運動に関するハングル講習会においては,さらに二種類がある。一つは,学会主催の講習会(1930,31,33,34,37 年)で,もう一つは朝鮮日報社や東亜日報社などの新聞社が主催する講習会(1931~36 年)への後援の形である。

李善英

以上のような活動をしており、この他にも

  ・地元に帰省する学生に新聞を活用させる

  ・東亜日報主催の農村啓蒙運動によって毎年夏に学生を農村派遣(1931~1934年)。9万人に教え、210万ハングル教材を作り、配布

以上の様な試みがなされています。後者の啓蒙運動(「ブ・ナロード運動」とも呼ばれています)は朝鮮総督府によって禁止命令を出されますが、禁止命令を出すに至る程の運動であったことが伺えます。そしてこれらの運動が文字を体得していなかった朝鮮人にとっては大きな助けになった事は想像に難くありません。

 またもう一つの大きな成果が1933年に「ハングル綴字法統一案」(朝鮮語学会が関わった諺文綴字法とほぼ同じ)が公にされ、現在にも続く正書法が確立されています。また、文世栄により1940年には『朝鮮語辞典』を完成、これらにより綴字法や標準語、朝鮮語の規範化に大きく寄与します。

 これらの活動は当初は弾圧*10は受けていませんでしたが、1942年から43年にかけて治安維持法違反として検挙される事件が発生しています(朝鮮語学会事件)。この事件はある社会主義者朝鮮人青年が警察の審問を受け、更に家宅捜査を受けた際、姪の日記中に「今日、国語を使ってしまい、先生に叱られた」という文章がある事が問題になった事に端を発します。ここで言う「国語」とは「日本語」であり、「日本語使用したら先生に叱られた ⇒ 思想犯の疑いがある」という理路の元で問題化、朝鮮語学会の会員が関与していると明らかになり、その人間が連行、そして自白強制などによって朝鮮語学会の多くの会員が逮捕されるに至りました。なお、当時の学会では民間学術団体でありましたが、これを機にむしろ民族団体へと転換したという指摘もあります(李善英)。

 

 安田によれば朝鮮語学会には帝国大学の卒業者がいたり、調査の各手法は日本の影響があったとしています。当時の統治者が日本である事からそこからの影響は避けられないものであることは確かですが、これらの活動は朝鮮人による運動であることも忘れてはなりません。勿論、日本人による方言調査も存在します。京城帝国大学に勤務していた小倉進平済州島方言の調査をはじめとし、『南部朝鮮の方言』、『朝鮮語学史』などを出しています。小倉は朝鮮語学の基礎を作ったと言われ、また大学の講師としてのちに朝鮮語学者として活躍する朝鮮人の教育に携わっており、これは軽視すべき功績ではないでしょう。朝鮮語学会の中にも小倉に教わった人間が存在していますし。ちなみに小倉は朝鮮語の「歴史的な経緯」の研究が中心であり、朝鮮語学会は現在の朝鮮語の在り方を規定しようとしており、そこには大きな行動の差があります。

 また、1930年代の朝鮮総督府衝動の開発独裁的な政策である農村振興運動によって識字率改善への運動があったことも事実です。この運動によって識字率の向上も見られますが、これには成績のよさそうな農家を選んでいた可能性や、脱落せずに更生計画についていった世帯に限定されることに留意する必要があり、また当時の朝鮮人側にとっては微々たる変化にしか映らなかったという指摘もあります(以上は板垣の論文による)。

 

 以上の様に植民地期の朝鮮での「朝鮮語」教育はずさんな状況であることはぬぐえません。また朝鮮人自らがそこに参画することで状況を改善させるといった様相を呈しており、また文化政治期においても過度な活動は制限されているといえます。この時期においても日本人のプラス面での関与もまたありましたが、しかしながらそれを誇れるほどに他の対応が出来ていたかと言えば、それはないでしょう。

 

 

◆解放後について

 解放後の識字率については板垣竜太によれば、


北朝鮮
人民委員会を駆使し「文盲退治運動」を展開
解放直後に230万と推定された「文盲者」が1949年には18万に減少したとされる

 

南朝鮮
解放直後に22%推定のハングル識字者の割合が「國文講習會」などを行う
1948年には識字率は58%
1954~1958年には毎年「文盲退治教育」を実施
1958年には96%にまで達したとされる


以上の様に著しい識字率向上が見受けられます。

  また、李善英『韓国における漢字廃止政策─李承晩政権期を中心に』において、当時の教育局長の以下の発言が引用されています。

教育局長のチャン・ジョンシクは「日本帝国主義の奴隷教育政策は我らに正しくない教育を強要しただけではなく、総人口の60%という非識字を残しました。大衆は未だに政治に無関心で自分自身の位置も知らず、自分の力を計画的で組織的に使いこなせることができません。その原因の大きな理由の一つが教育の貧困にあることを指摘せざるを得ません(以下省略)」と非識字者の性向と非識字退治の必要性を述べた。

李善英

これは解放後の教育局長の発言であることにはある程度の留意が必要かもしれませんが、識字率が低いことは事実であり当時の認識を色濃く示しているでしょう。いずれにしても、これらが示すのは国家が本腰をあげれば識字率上昇が望める状態であり、そしてそれは日本のハングル教育がいかにおざなりだったのかの証左でしょう。

 

 

◆歴史修正について

 2003年5月に麻生太郎自民党政調会長(当時)が講演で「ハングル文字は日本人が教えた。義務教育制度も日本がやった。正しいことは歴史的事実として認めた方がいいい」と発言しています『毎日新聞』2003年6月1日付)。なお、朝鮮においては義務教育は施行されていなません(1946年実施予定)。山田寛人『植民地朝鮮における近代化と日本語教育』によれば、朝鮮人学齢児童の推定就学状況は1937年においても府(都市部)は「全体:57%」、邑面(郡部)は「全体:29.2%」と合計すれば過半数にも及びません。また、男女による就学状況格差が著しいです。

 

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山田寛人 『植民地朝鮮における近代化と日本語教育』より

また、普通学校*11の就学率に関しても似た様な状況です。1943年時点でも5割が良い所です。

 

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山田寛人『植民地朝鮮における近代化と日本語教育』より

以上の様な状況で義務教育を云々と言うのは著しい事実誤認でしょう。山田の指摘では1920年代には教育熱が高まり、普通学校への入学者希望者が定員を超過するなど、全員が入学できなかったという問題もあります。この傾向は支配末期まで継続します。普通学校の増設、定員の拡大を朝鮮人側が求め続けたと言う事実があり、しかし総督府側はこの問題に消極的でした。

 そしてこの記事で延々と書いたように日本人がハングルを教えたは勘違いも甚だしい歴史修正主義です。んな事実は、ない

 

 

 

その他の参考になりそうな文献

三ツ井 崇 『「言語問題」からみた朝鮮近代史 ーー教育政策と言語運動の側面からーー 』 

山田 寛人『植民地朝鮮の普通学校教育における朝鮮語の位置づけ

稲葉 継雄 『「解放」後韓国における「ハングル専用論」の展開 : 米軍政期を中心に

 

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■お布施用ページ

note.com

ハングルの誕生 音から文字を創る (平凡社新書 523)

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*1:「平易=誰でも読める」。上記論文では「俗文主義」と記述。また漢字混合は日本語と朝鮮語の構造が酷似している事からの日本の仮名交じり文をトレースしたからでしょう。

*2:漢字とハングルのこと。「漢諺混用文」と「国漢混用文」の二つの名称が存在しますが、「漢諺混用文」が洗練され、文体が確立したものが「国漢混用文」とされる模様。あくまでも兪吉濬は文体が確立する前の文体の試行錯誤段階と捉えるべきかと。

*3:一時期的なものであり、またその意味合いについて疑義を呈す研究者も存在。しかしながら実際に焚書はされてはいる。

*4:この教科書自体は日本などの教科書を先行モデルとしているために日本の教科書からの引用が多いという指摘があります。しかし、これは先例がない事を考えれば自然な事ではあるかなと。日本も初期は外国の教科書を参考にしたといいますし。

*5:1906年から外国語(日本語)が随意科目から必須科目になるなど、あからさまな影響があります。授業時間も国語(朝鮮語)が減り、日本語が増え、両者の授業時間数が同じになります。

*6:キリスト教が学校設立を多くしており、1885年から1910年までの間に全国に796校が設立されています。ただし、私立学校はのちに帰省を高められ、純公立普通学校化して行きます。

*7:文洪植の指摘によれば政府が創設した最初の近代学校は学生募集が権力層に優遇などがあり、近代教育展開に貢献はしたが一般国民に対する教育機会均等にはほとんど貢献しなかったという。

*8:余談ですが、初代韓国大統領李承晩は『毎日新聞』においてハングルの使用と愛着を力説していたりします。

*9:民衆啓蒙、自主独立、近代化思想の鼓吹をする学生団体。

*10:1940年という時期は東亜日報朝鮮日報が強制廃刊されており、弾圧の時代です。

*11:普通学校以外に私立学校などの選択肢がありました。

植民地朝鮮の「京城帝国大学」における入学者の出身割合推移について

  SNS上では上記の様に「朝鮮は植民地ではなく「併合」だった」という詭弁が散見される。これに関しては言葉のすり替えによる事実の矮小化であり希薄化だとしか思わないのだけれど、今回は京城帝国大学の入学者の日本人と朝鮮人の割合についての話を少し。あとこれは突っ込まないけど、植民地に大学を建てた国などないを素で信じているならば知識が浅すぎてやばいと思う。

 

  ちなみに「植民地支配」なのですが、戦後云十年という区切りで行われる首相の談話においては

わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。

村山談話 平成7年8月15日

この大戦で、日本は、わが国民を含め世界の多くの人々に対して、大きな惨禍をもたらしました。とりわけ、アジア近隣諸国に対しては、過去の一時期、誤った国策にもとづく植民地支配と侵略を行い、計り知れぬ惨害と苦痛を強いたのです。それはいまだに、この地の多くの人々の間に、癒しがたい傷痕となって残っています。

小泉談話 平成13年8月13日

 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

(略)

我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

安倍談話 平成27年8月14日

以上の様に植民地支配に触れています。村山談話、小泉談話では朝鮮半島や台湾を名指しで植民地支配したとまでは明言していませんが、文脈からはこれらを植民地支配したことへの反省を述べています。しかしながら安倍談話においてはそこからの言及を更に避けて植民地支配からの訣別として一般論的に語るなど、事実の矮小化と捉えられてもおかしくない言い回しになっています。安倍談話を読んでいると日本は植民地支配を行っていないという読み方も可能なので、談話においても矮小化しようとしているなと捉えられても致し方ありません。

 

 閑話休題、さて本題。

 

 京城帝国大学はソウルに建てられた帝国大学ですが、当然日本人も入学できます。その「日本人(内地人)」と「朝鮮人」の生徒数(全体、学科別)及び入学者の割合は次のようになります。

 


京城帝国大学 - 全生徒出身内訳

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京城帝国大学 - 法文学部出身内訳

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京城帝国大学 - 医学部出身内訳

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京城帝国大学 - 理工学部出身内訳 ※(1941年新設学部)

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京城帝国大学 - 入学者数出身内訳

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※1926年~1941年は弘谷多喜夫、広川淑子『日本統治下の台湾・朝鮮における植民地教育政策の比較史的研究』から(元資料は各年の朝鮮総督府統計年表)

※1942年の数値は『朝鮮総督府統計年報. 昭和17年 - 国立国会図書館デジタルコレクション』から

※「入学者数」のグラフのみ、『朝鮮総督府統計年報』の昭和5年(※昭和元年部分)、昭和11年(昭和2~7年)、昭和17年版(昭和8~17年)を参照


 

  以上の様に大戦末期に近づくほどに朝鮮人の割合が増加していますが、全体を通して日本人の生徒総数割合が多い状態が常に維持されています。1937年頃までは30%ほど、それ以降には割合が上昇し最終的には50%近くとはなりますが、戦争期である事を考えるとその影響を大きく受けていると考えても問題はないかと思います。「朝鮮人」向けの教育ともし誇ったとしても、実態としては日本人が多かったという側面を看過してはいけません。

 また帝国大学のみが注目されておりますが、

大学についても私立大学設立の運動が行なわれたが,総督府は許可しなかった。朝鮮人青年の多くがや閣や臼本,アメリカへ留学した。

(弘谷多喜夫、広川淑子)

 という「私立大学設立」を総督府が許可しなかったことにも留意するべきでしょう。

 

 ちなみに「京城帝国大学」ではなく、「京城帝国大学予科」(大学進学前の予備教育、この予科卒業後に大学へと進学。予科においても割合は大学と同じく「内地人>朝鮮人」です)となりますが、創設当初の入試結果を受けて以下の様な記事が『朝鮮日報』で出ています。

このような入試結果(※)に村して1924年4月3日付の『朝鮮日報』は,「朝鮮大学の試験顛末を聞いて」という見出しの社説において,①予科合格者は日本人が朝鮮人の3倍にのぼったこと,②おかなしなことに日本本土から来た学生が3分の1にもなること,③入試問題を朝鮮人に不利にしたこと(日本史の出題,漢文の訓読など)を指摘,朝鮮人差別があったと非難した。

京城帝国大学予科について -「朝鮮的要素」と「内地的要素」を中心に一 稲葉 継雄

※日本人の合格者が朝鮮人より多いという結果

 以上の様に在朝鮮日本人の他にも日本本土から来た学生が相当数いたことがうかがえます。その理由には「(日本の)高校受験に失敗。予科の修業年限二年にひかれた」、「予科が一年短いのと修学旅行で私一人朝鮮に行けなかったので、受験のためでも京城にいってみたかった」(ともに上記の稲葉による)などの理由が挙げられています。この予科二年(※1)という魅力があり、日本からも多く受験しに来たのかと考えられます(※2)。

※1 その後に1934年に予科年限は延長。

※2 勿論、これは初期の話であり後々の話は不明です。

 

  この記事では設立経緯などは掘りませんが、入学者数割合という実態を見れば京城帝国大学は日本人生徒が多く、日本人のための学校と言っても過言ではないでしょう。植民地に大学という箱を作っただけでその実態を見ずに誇るのは評論家としては甚だ薄っぺらいです。

 

 ◆余談その1

 私は資格がないので見れないので中身は不明でちょっと無責任ですが、要旨などを見ると李吉魯『京城帝国大学の成立と展開に関する実証的研究―植民地統治との関連を中心に―』もこの件に関していい理解になるのではないかなと。

 

◆余談その2

 京城帝国大学予科の話ですが、当時の「蛮カラ」が流行っていた時代では極端な事例とはいえ、以下の様な振る舞いがあったそうです。

朝鮮人学生は,クラス会のような公式集会以外では大体においておとなしい方であった。これに 比して日本人学生の蛮勇は,商店の看板などをむやみに外して投げ棄てることがしばしばであった。 また,蝉の幼虫が這うようにゆっくり進む電車の中で,ちょっとしたことで車掌を殴りつけた。 また,梶棒を持ち歩き,制服巡査が目に付き次第殴る者もいた。警察の派出所に小便をかけるこ ともあったが,こんなことまでは許されなかったので,小田予科部長が,警察署を廻って,拘留された学生たちを貰い受けたものである。(25)

(稲葉)

 蛮カラ怖い。 

 

 

近代朝鮮と日本 (岩波新書)

近代朝鮮と日本 (岩波新書)

 

 

災害時の避難所の間仕切りとかの話

 

 というツイートを見たのでちょっと触発されたのでつらつらと。あ、それと基本的にツイートの趣旨(避難民が快適に生活をするために政府が動く)には反対の意は一切なく、進めるべきだと思います。反対する意味がないですし。

 さて、その前に上記のツイートの写真をもう少し詳しく。

 


 一枚目:2019年江原道山林火災時の小学校の避難所

     ※高城=news1(韓国語)が出典(4月4日に火災、記事は4月6日)

 二枚目:2018年のフィリピンへの台風時

     ※TIMEの記事が出典(事前避難とのこと)

 三枚目:2016年のイタリアの地震

     ※2018年のNHK記事が出典(災害からの日数不明)

 四枚目:現在の方は場所明記はないが、北海道胆振地震に関する記事なので該当災害の避難所だと考えられる

     ※2018年の報道プライムサンデーが出典(災害からの日数不明)


 

各々は以上の様な写真となります。

 

◆韓国について

 韓国については2017年に発生した浦項地震が一つの契機となったことが下記からもうかがえます。

11 月 18 日(地震発生 3 日目)からプライバシー保護と 防寒対策としてテント(写真 7)や間仕切り(写真 8),ス ポンジ材を設置して,家族が一つの空間で生活することができるようにした.テントは災害救援協会とテント製造会社から寄付されたもので,被害者が急増した 21 日には 458張が設置11) された

(略)

テント製造会社「(株)アイドジェン」は室内テント 400 張を寄贈して,避難所の防寒対策とプライバシー空間を提供した. これを契機に,行政安全部は,テント製造会社と災害救援業務協定を締結して,今後,災害の際にテントが全国的に支援できるように制度化した12).

韓国・浦項地震における避難所の運営実態調査

つまりは2017年以前にはそういった間仕切り、テントの様な体系的な支援がなかったものの、これを契機にテント製造会社と災害救援業務協定を締結、それが2019年においての災害で活かされた、と考えるのが妥当かなと。それと当然ながら災害即テント、というわけにはいかないようです。上記のテントも3日経過経過していますし、ある程度のタイムラグがあると考えた方が良いかと。江原道山林火災においても、発生直後の避難所の写真は日本でよくある体育館に雑魚寝の避難所は多く見受けられますし。また、どれくらいの被災者をカバーできる体制なのかは正直よくわかりません……。

 それ以前においては下記の中央日報の記事の様に間仕切り等はなかった、というよりもむしろ日本を参考にという意見もあったので、ツイッター上とはいえ面白い逆転現象ではあるかなと。

キム・ソンワン全南(チョンナム)大学精神科教授は「不明者家族が痛みを共にして情報を共有しようとする意は尊重すべきだが、今のようにストレスが激しい状況では私的空間がより重要だ」と話した。東日本大震災の当時、日本は共同生活空間に個別の災難救護用テントを支援した。

<韓国旅客船沈没>不潔なトイレに仕切りなし…不明者家族の劣悪な環境 | Joongang Ilbo | 中央日報 2014年04月30日

また、2017年当時の韓国の記事を見ると日中韓の避難所の写真を比べており、似たような問題意識を持っていたのかなと([사진현장] '도떼기시장' 같은 대피소, 이게 최선인가요? | 연합뉴스)。

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浦項市北区フンヘウプ興海室内体育館 2017-11-18の記事

 それと、これは余談だけれども2019年2月の記事においては未だに浦項地震の被災者が体育館でのテント暮らしをしている現状がある。韓国の被災者対応も当然ながら完ぺきではありません(『「いまだ体育館暮らし」…避難所で2度目の旧正月迎える浦項地震被災者(1) | Joongang Ilbo | 中央日報』)。

 余談その2。韓国の避難所を調べててもテントの画像だけ出てきて、内部状況が分からないんで何とも何ですが、ベッドがあるかどうかまでは分かりません。テント配備前ではなかったので支援体制としてはないような気もします。特に立方体系のテントではない普通の半円状のテント形式ですとベッドが中にあるのは考えられないので。

 

◆フィリピンについて

 フィリピンの写真に関しては『日本の避難所はフィリピンより劣るという話は印象操作、事実誤認、デマ - Togetter』というまとめにあるように上記の写真が通常の対応よりも良い例外的写真と捉えるのが良いかなと。また、『Marikina's modular tents, disaster response efforts earn praises | Philippine News Agency』という記事を見ると市政府が購入した500セットとなり、国としてというよりも市や市長による影響が大きいようです。

 まだまだ対応途上(災害においてはいつまでも対応途上ではあると思いますが)という感じではありますし、国レベルで上記の写真の様な対応をしているというのは認知に齟齬を生みかねないかなと。フィリピンの災害避難に関する良い日本語媒体が見つからないので、フィリピンについての記述はこれで終わりです。

 

◆イタリアについて

 イタリアには「市民安全省(翻訳者によって名称は異なります)」という防災専門の省が存在しており、

目的は「自然災害、大惨事およびその他災害事態によってもたらされる被害やそのリスクか ら生命の安全・財産・住居・環境の保護」

塩崎 賢明『《報告》イタリアの震災復興から学ぶもの

 というような災害に対応する省庁です。イタリアの避難所は体育館などではなく、テント(10人程度)で、そこには簡易ベッドも備えられているというのが一般的な様です。ただ、このテントがどこの所有かまでは上記論文には書いておらず、よくわからないところです。しかしながら、市民安全省という組織がある事を考慮すれば体系的な備えと支援があると考えるのが妥当でしょう。

  ただし、下記記事の様に上記のテントが必ずしも素早く全被災者へと対応できているかといえば、絶対とは言えないようです。ちなみに、下記記事の避難所は日本でも導入実績のある形式だったりします。

世界的に有名な建築家の坂茂さん(59)が18日、10月のイタリア中部地震の被災地、マルケ州カメリーノの避難所に紙筒と布を組み合わせた間仕切りを設置した。海外での実用は初めて。

伊避難所に間仕切り 建築家の坂茂さん - 読んで見フォト - 産経フォト

 とはいえ、イタリアはテント以外にも様々な災害対応をしており、大いに参考すべき国と言えるのではないかなと。 

 

◆日本について

 2019年3月の『建築ジャーナル』に以下の様な特集があったようです。

「やさしい避難所」

 もう我慢はやめよう。諦めるのもやめだ。自助、共助、公助なんて精神論も、ひとまず忘れよう。被災後12時間を目標にイタリアの避難所へ届く3つのもの。それはカンパンやアルファ米でも、冷えた弁当でも、古着でもない。避難者だからこそ、人間らしく温かい暮らしができるようトイレとキッチンカーとベッドがやってくる。あらかじめ避難所用資材はコンテナ化されて分散備蓄され、そのままヘリコプターやトラックで運ばれる仕組みだ。一方、日本の避難所は、国際的な避難民のための最低基準以下、体育館の固く冷たい床で雑魚寝が当たり前。災害時の被災者保護は国民の権利であり、国の責務だ。避難所とその後の住まいに求められるのは人権意識であり計画性ではないか。ことさら「防災」や「国土強靭化」が叫ばれる3月だからこそ、原点に立ち戻って考えてみたい。

2019年3月号 「やさしい避難所」/No.1288|建築ジャーナル

以上を見れば、日本の現状認識がどこにあるのかは分かりやすいかなと思います。やはり日本人の共通認識はいまだに「体育館で雑魚寝」かなと。これはスフィア基準以下と言われたりする事がありますし、そういう問題意識はメディアでも見る話題。

 ちなみに内閣府(防災担当)が書いた避難所運営ガイドラインにおいては、「チェックリスト 寝床の改善」で

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内閣府 避難所運営ガイドライン 寝床の改善

「間仕切りの確保」、「簡易ベッド」に触れているなど、意識としては改善の方向へとは向かっていることはうかがえます。また、これらの避難所の体制は自治体や避難先によってマチマチなのが実情かなと。

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グーグル画像検索 「熊本地震 避難所」

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グーグル画像検索 「西日本豪雨 避難所」

以上の様に仕切りがあったりなかったり、また仕切りについてはその使用が統一されておらず、布であったり段ボールであったりと様々です。画像にはテントは見受けられませんが、自治体によってはテント村の様な避難所も作っております。

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2011年4月6日 岩手県大船渡市 朝日新聞HPより

 これらを見てると日本って統一された避難所体勢がないのではと。たとえば、

 ・千葉市:一部の避難所に間仕切りを配備しました

 ・奈良県:~大規模災害に備えて~ 「避難所用間仕切りシステムの供給等に関する協定」を締結しました

以上の二つは同じような「間仕切り」の話ですが、千葉市はテント型、奈良県は紙管と布によって仕切る形式のものとなり、まったく別の形式の避難所となっています。他にも最近では段ボールベッド型(小さな段ボール工場が変えた避難所の光景 (1/6) - ITmedia ビジネスオンライン)の様に完全な間仕切り、というよりも段ボールベッドによる緩い間仕切りを作る場合もあります。自治体ごとによって避難所の間仕切り形式は大きく異なるのが実情な様です。これは政府が各自治体に避難所運営のかなりの部分を一任しているから統一された規格の様なものがないのではないかなと。

 日本も間仕切りなど、避難所の快適性向上の向きは出てきているけど、それでもやっぱり一般には雑魚寝的なイメージはまだあるし、それに雑魚寝避難所もなくなってはいないのもまた事実でしょう。故に政府として何らかのそういう支援、規格みたいなのはしっかりとあった方がいいかなという感想は抱きますが。自治体によっては個別には対応できない自治体とかあるでしょうし。

 

 

  つらつらと書いてきましたがオチは特にありません。発端のツイートに関しては、悪くとろうと思えば情報の取捨選択ってできるよねとかは思わなくもないですが。ただ、日本の写真はFNNというニュース記事の写真ですしね。

 このブログ記事はそういう話ではないですが、写真の威力って怖いですね。

 

 

新訂 公民館における災害対策ハンドブック

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建築ジャーナル 特集 やさしい避難所 2019年3月号(東日本版)

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